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[#地付き]――創世記 第四章.12

作者:日-小野不由美 当前章节:15401 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 静信は特に何も言わなかった。敏夫も別段、返答を期待しているわけではないことを、静信は長年の付き合いで知っている。

「家の主はまだ姿を見せんそうだ。住人の詳細も不明。名字は桐敷というそうだが、門柱に表札が上げられる気配はない。車は白の外車と使用人のワゴンっぽい車が一台ずつ。あいにく、それを報告に来た婆さんは車種までは分からなかったらしい。カーテンは二重で、窓際にはスタンドが見えて、それから――ええと?」

「分かったから」

 静信は苦笑してやめさせる。こういう場合の村人の物見高さなら十分に知っている。

「止めるってことは、そういう話が聞きたくて来たわけじゃないってことだな。――すると何だ?」

「倒産の軟膏が切れたんだよ。それと、被服剤」

 敏夫は大仰に煙草の煙を吐くと、深く椅子にもたれて天井を見上げた。

「素晴らしい。すでに日常に回帰せり、というわけだ」

「何を|拗《す》ねてるんだ?」

「拗ねてなんかいるもんか」

 静信は笑って首を振る。

「山入のその後の報告は入ったか?」

 先日、訊きに来たときには、まだ結果待ちの部分もあると敏夫は言っていたはずだ。

「実に正常な反応でおれは嬉しいよ」敏夫は笑う。「まだ全部じゃないが、どうやらあれで本当に決着がつきそうな具合だな」

「急性肝不全?」

「三重子婆さんに関してはな。警察も、外因死じゃないようだし、さりとて伝染病だのという話ではなさそうだから適当なところで切り上げたいんだろう」

「そうか……」

「まったく、村の連中はどうかしてる。山入でいきなり三人もの人間が死んだんだぞ? 転居者の生活に首を突っこんでる場合かね。連中があれこれ訊きたがったのも昨日まで、トラックが来たら、そういうことはどうでも良くなったらしい」

「みんな、他人事だと思ってるんだよ」

「その通りだ。だが、人間は誰だって死ぬんだ。他人事の死なんてあるもんか」

 言って敏夫は息をつく。

「死体が発見されたと聞けば、祭りか何かのように騒ぐ。こっちがいくら内因死だと説明しても、無理心中だの変質者だのと言うわけだ。伊藤の郁美さんのように祟りだの呪いだのまで引っ張り出す。大事だ大事だと言って、さもこれが自分たちの運命を決する重大事のような顔をするわけだが、その重大事はたった一軒、引越があったら忘れられる程度のものらしい」

 静信は苦笑した。

「みんな退屈なんだよ。変化は歓迎するところなんだろう。本人たちも分かっているんだ、別にこれはなんでもないことだって。反対に、分かっているからこそ、退屈しのぎの娯楽にできるわけで」

 やれやれ、と敏夫は溜息をつく。もちろん、静信が指摘したようなことは、敏夫だって分かっているのだ。

 薬を貰って静信が辞去しようとすると、敏夫もまた診察鞄を提げて病院を出た。怪訝そうに見た静信に、敏夫は裏口を抜けながら咎めるような目を向ける。

「後藤田の婆さんの様子を診にゃならんだろう。何しろあの人は、これからまた葬式だからな。歳のせいもあるだろうし、この暑さのせいもあるだろうし、相当に参った顔をしてたんでね」言って、敏夫は静信に指を突きつける。「だからって、おれがボランティア精神にあふれた医者だなんて誤解をするなよ。おれは治療する余地のあるうちに患者を診ておきたいだけだからな」

 静信は苦笑を零した。丸安製材の材木置き場を抜けていこうと足を踏み入れたとき、敏夫は、おや、と声を上げた。その視線を追って振り返ると、病院脇の土手道を歩いてくる人影がある。年の頃は二十代の半ばだろうか、彼は静信らに目を留め、ぱっと笑って頭を下げた。

「やっと人に会った。――済みません、ここ、どこですか」

 成年は明るく言う。敏夫が、歩いてくる彼を呆れたように待ち受けた。

「察するに、君は桐敷家の誰かだと思うんだが」

「そうです。初めまして」

「だったら、これをこのまま歩くと通りに出る。右に曲がってさらに角を右に行けば坂の下だ」

 ああ、なんだ、と彼は呟いた。

「どうもお手数をかけました。――尾崎さんですよね」

 敏夫が眉を上げると、彼は小道脇の建物を見る。

「お二人が、ここから出てくるのが向こうから見えました。ここは尾崎医院でしょう? でもって、一方は白衣に診療鞄を提げてらっしゃる」

 敏夫は静信を見る。

「名探偵が越してきたらしいぞ、おい」言って、彼に「ご明察の通り、尾崎です。いちおう医者の端くれなんで、何かあったらどうぞ。できたらおれのする仕事のあるうちに呼んでもらえると、ありがたいな。おれの出る幕がない場合は、こいつが行くことになってるんでね」

 彼は首を傾けた。

「――こちらもお医者さまですか?」

 静信は軽口を叩く敏夫を睨んだが、敏夫は平然と笑う。

「いや、坊主だ」

 ああ、と彼は声を上げて笑った。

「なるほど、あの山の上のお寺の肩ですね。僕は辰巳といいます」

「室井です」

 敏夫は辰巳を招いて、たった今出てきたばかりの枝折り戸を開く。

「まあ、お茶ぐらいどうだい? こんなところで藪蚊に刺されながら立ち話でもないだろう」

「でも、往診の途中では?」

「なあに。別に呼ばれたわけじゃない。ここの連中はおれより坊主のほうが好きみたいなんで、坊主の出番の前に割り込んでみようと思っただけだ。まだ時間はある」それに、と敏夫は笑った。

「おれは引越を見物に行くほど物見高くはないが、せっかく会った住人を黙って見送れるほど好奇心がないわけじゃないんだ」

 なんだか、坂の下に人が大勢いて気遅れしてしまって、と辰巳は言った。

「別に嫌だってわけじゃないんですが、どうにも対応に困ってしまって」

 控え室の掃き出し窓を開け、そこに静信と辰巳は腰を下ろしている。敏夫は床の上に胡座をかき、その前に置いたトレイの上には、さっき看護婦の律子が驚きながら運んできた麦茶のグラスが三つ、並んでいた。

「他に娯楽がないんだよ、この村じゃ。君たちはしばらく珍獣扱いだ。それは覚えておいたほうがいいぜ」

 なるほど、と辰巳は笑う。

「ちょっと村に何があって何がないのか調べておこうと思って。それで勝手口のほうから出て細い道を人気のないほうへ歩いて。大まわりして村に出られるんじゃないかと思ったんですけど」

「出られなくはないな。実際、君がこうして出てきたとおりさ」

「ああ、じゃあ、あの道で良かったわけですね」

「君んちの前を通ってる道、ありゃあ、そもそも山を上がる林道だからね。どこに行くってわけでもない、山の中で消えてるんだ。脇道を下りると、製材所の裏手の田圃に出る。ぶちあたるのは畦道だが、道には違いない」

 辰巳は笑いを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み殺すようにする。

「確かに、そうです」

「田舎の道は林道やら農道やら畦道やらが入り混じっててね。まあ、じきに慣れるさ。尾根を越えない限りは、どこをどう歩いたって村の中だ」

「良いところですね」

 辰巳が言うと、敏夫は手を振った。

「そういうお愛想は、なしにしておこう。別に良くも悪くもない、単なる田舎だ。その田舎に何だってわざわざ越してきたんだい、君たちは。――これはこの先、相当あちこちで訊かれることになるから、答えを準備しておいたほうがいいぞ」

 辰巳はくつくつと笑う。

「ぼくが決めたわけじゃないので、よくは知りませんというべきなんでしょうね」

「そりゃあ、通らない。君だって桐敷家の一員じゃないのかい」

「家に住んでいる、という意味では。でもぼくは、単なる下働きですから」

 へえ、と敏夫は瞬いた。

「君は家族じゃないのかい? おれはてっきり、辰巳が名前だと思ったんだが」

 辰巳は軽く笑った。

「桐敷辰巳か――悪くないな。でも、辰巳は名字です。ぼくは単なる住み込みの使用人なんです。力仕事担当の雑用係というか」

「家族構成を聞いてもいいかね」

「旦那さまと奥さんと、娘さんが一人です。旦那さまは隠居中といえばいいのかな。もともとは会社の社長さんだったんですけど、つい昨年、退陣なすって」

「あとは悠々自適かい? 羨ましい話だな。桐敷氏はいくつ?」

 さあ、と辰巳は首を傾げる。

「改めて聞いたことはないですけど、四十半ばじゃないかな」

「そりゃあ、若い。その歳で引退とはね」

「そうですねえ。ぼくなんかじゃ深い事情まで窺い知ることはできないですけど、ひょっとしたら、いまどき代々株主だってだけじゃ、会社は動かせないってことなのかもしれないです。ただ、早々に踏ん切りをつけちゃったのは、奥さんとお嬢さんのためだと思いますよ。これは引っ越した理由とも関係あるんですけど、お二人とも体が弱くて」

「病気かね?」

「ええ。それでどこか静かなところに越そうと場所を探してたらしいんです。で、懇意の方が、こちらの土地なら住み手もないので言い値でいいと」

「なるほどな。――これは、好奇心というよりも、医者としての義務感で訊くんだが、奥さんとお嬢さんはどこが悪いんだい?」

「SLEと言ったら分かりますか?」

 辰巳が言うと、敏夫は珍しく深刻な顔をした。

「分かる。……そうか、それは大変だな」

 静信が内心で首を傾げたのが分かったのか、敏夫は解説する。

「いわゆる難病の一種にそういうのがあるんだ。皮膚疾患、関節痛、あとは腎臓や心臓の機能低下があるんだったか。確か、光線過敏症もあったんじゃなかったかな」

「そうです」と辰巳は頷く。「ですから、たまにお出かけになるときは、帽子やら上着やら手袋やらで重装備です。特にこういう真夏日はね。でも、都会にいてそれって辛いじゃないですか。出かける場所はいくらでもあるのに、思うように出かけられないなんて。それよりいっそ何もないところに引っ込んで、家の中で静かに暮らしたほうがって、これ、失礼ですね」

 敏夫は笑う。

「その通りだからな」

「それでずいぶん前から、引っ込みたいという気はおありだったみたいですね。そこにたまたま、いろんな事情が重なって、踏ん切りがついたってことなんじゃないかな。会社を譲って事業を整理して。ただ、家には愛着がおありでしたので」

「それで移築か。なるほど、そういう事情でもなけりゃ、こんな田舎には越して来んだろうな」

 でも、と辰巳は言う。

「確かに小さなところですけど、みなさんお気に召したようですよ。奥さんも病院がある、と喜んでいましたから。とはいえ、医者はいるんですけど」

「医者が? 家に?」

「ええ、|江渕《えぶち》さんというお年を召した方が。病院を息子さんに譲られてとっくに引退なさってるんですけど。その方が、奥さんとお嬢さんの面倒を見ているんです。お嬢さんの家庭教師も兼ねてる感じですけどね」

「お嬢さんは幾つだい?」

「十三です。本当なら中学校の一年生ですけど、発病してからは、ほとんど学校には」

 そう、と敏夫は呟く。

「でも、医者はいても設備があるわけじゃありませんから。がくっと悪くなると一命に関わる病気なんで、病院がすぐ近くにあるのが心強いみたいです。実際、病院もあると竹村さんから聞いて、引っ越す決心をなさったらしいですし」

「それは責任重大だな」と、敏夫は苦笑する。「心して勉強しておくよ」

「よろしくお願いします」

「じゃあ、家族三人と、使用人の君と医者とで、合計五人?」

「家政婦が一人います。合計で六人」

 ふうん、と敏夫が呟いたのを期に、静信は時計を見て立ち上がった。

「じゃあ、ぼくはこれで。仕事があるので」

 問うように静信を見上げた辰巳に、敏夫が説明をする。

「村に死人が出てね。それで奴はこれから葬式をやらないといけないんだ。悔やみを言いに行くついでに、おれも残された妹さんの様子を見に行こうと思ってね。何しろ年寄りで、がっくりきてるだろうから」

 それは、と辰巳は慌てて立ち上がる。

「済みません。話し込んでしまって」

「いいんだ。こういう粗茶でも良かったら、また飲みに寄ってくれ」

 どうも、と辰巳は頭を下げた。気持ちの良い笑顔を見せて言う。

「ぼくも戻らないと。どうも、お邪魔しました」

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[#ここで字下げ終わり]

「なあ、タツさん。昨日、尾崎医院に兼正の若いのが現れたって話、聞いたかい」

 やってくるなり、佐藤笈太郎が言った。

 タツは十年一日のごとく店先に坐って村道を眺めていた。あいかわらずの陽気だ。路面の照り返しで眩しい。

「兼正の若いの。……それは、『ちぐさ』で道を訊いた若いのかしらね」

「じゃないのかね。噂からすると、若い男はそいつひとりみたいだからね」

 そう、とタツは素っ気なく答えて、村道に目をやる。転居者に興味がないわけではない。あからさまに興味を示すと、笈太郎のようなタイプは情報を出し惜しむ。むしろ素っ気なくしていれば、勝手に知る限りのことを吐き出すものだと、経験から理解していた。

 案の定、笈太郎は床几の、いちばんタツに近いところに陣取り、身を乗り出した。

「どうもね、主人と女房と娘と、三人家族らしいね。女房と娘は体が弱いんだってさ。それで田舎に引っ込むことにしたんだそうだ。若いのと、手伝い女の他に、医者もいるらしいよ。お抱えの医者ってわけだ」

「へえ……」

 それは何とも豪勢な話だ。なるほど、あれだけの家を移築するだけのことはある。だが、タツは気に入らなかった。何よりもまず、深夜の引越というのが気になる。それもトラックと乗用車が二台だと聞いた。それは虫送りのときに引き返した、あの連中ではないのだろうか。

(でも、だったらなんで引き返したのかね)

 釈然としない。それだけではない。引越てきたきり、住人が現れない、それも気に入らなかった。見かけたという噂は聞くが、タツもここに集まる老人たちも、誰ひとり実際に見かけたわけではない。深夜の転居といい、まるで自分たちの目を避けているようなのが面白くなかった。真っ当に昼間、家移りをすれば、村の入口に陣取るタケムラの前を通らないわけにはいかない。しかも、ごく当たり前に家を出てくれば、暇を持て余した老人たちの誰かと出会っただろう。そうすればその誰かは、真っ先にここにやってきて情報を落としていったに違いないのに。タツはこれまでずっとそうやって、ここに坐ったまま村の全てを熟知してきた。なのに兼正のあの家の住人に関することに限って、自分たちの目の届かないところを掠めていく。

(気に入らないね……)

 笈太郎も同じような気分がするのだろう、どことなく面白くなさそうな顔だった。

「なんだって、あの家の連中は、こそこそするのかね」

「別にこそこそしてるわけじゃないんだろうけどさ」

「そうかい? そういう感じじゃないか。声はすれども姿は見えず、って気分がしないかい、タツさん」

 その通りだ、とタツは思ったが返答はしなかった。笈太郎はふくれっ面に浮いた汗をハンドタオルで拭う。そうして、人の悪い笑みを浮かべた。

「まあ、これで郁美さんの妙な予言は外れたことが分かったわけだ。あの人は、住人に不幸があって越してこれなくなったんだ、なんて言ってたからね。いまごろは面目をなくして悔しがってるだろうよ」

 タツは顔を顰める。

「当てずっぽうで言いたい放題、言ってるだけさ。そもそも口から出任せで、最初から脈絡も何もありゃしないんだから」

「ははあ」

「外れたら外れたで、ばつの悪いのを誤魔化すために、妙な屁理屈を考えつくんだよ、あの人の頭は」

 違いない、と笈太郎は笑った。

 夏野が冷蔵庫を漁っていると、工房のほうから父親と母親が戻ってきた。一服する時間か、と夏野は台所の時計を見る。

「なあに、おやつ?」

 台所に顔を出して、梓が訊く。別に、と夏野は麦茶のボトルを引っ張り出した。

「あたしたちのぶんも」

 はいはい、と心の中で呟いて、夏野は呟く。グラスを三つ食器棚から取り出して麦茶を注いだ。

「ついでに葡萄も出してよ。――ねえ、夏野くんは引越があったって話、聞いた?」

「いや。越してきたって?」

「みたいよ。さっき、前を通りかかった近所の人が、そう御注進に来たわ」

 ふうん、と呟きながら、葡萄を洗って皿に盛る。ダイニングテーブルの上にそれらを出した。椅子に座って待っていた母親は、氷を入れてくれ、麦茶のグラスを差し戻した。

「自分でやれよな」

「ついででしょ。お願い」

 息をひとつ吐いて、氷を出す夏野の脇で父親が手を洗っている。

「村は大騒ぎだな。引越があったってだけなのに、それほど大騒ぎするようなことなのかな」

 梓は笑った。

「なんだか可愛らしいじゃない、子供っぽくて。きっとあたしたちが越してきたときも、こんなふうだったんでしょうねえ」

「だろうな」と、結城は溜息をついた。「にしても、ついこの間まで、山入の事件で騒いでいたのに。引越があったってだけで、もうこれだ」

「それだけ無邪気なのよ。微笑ましくていいじゃない。山入の話よりも罪がないわ」

 まあな、結城は椅子に腰を下ろした。

「変質者だの無理心中だの、憶測が飛び交って、いったいどんな大事件が起こったのかと思ったよ」

「けっきょく病死だったのよね、山入」

「尾崎の先生はそういっているらしいな。あの人が検屍に立ち会ったんだけどね」

「だったら間違いないわよねえ。いっぺんに三人もの死体が見つかって、みんなが驚くのは分かるけど、あそこまで騒ぐほどのことじゃないわよねえ」

「大事件であるとは思うがね。別に三人の人間が死んだのがどうこうということじゃないが。山入は山の中に孤立していた。住人は三人で、老人ばかりだ。その老人が体調を崩しても誰も気づかなかった。こういうことになるまで死体すら発見されなかったんだ。それも、たまたま縁者に死人が出て訃報を伝えようと村の人が山入に行ってみたからこそ死体が発見されたわけだが、それすらなかったら、いったいいつ発見されたんだろうね」

「そうねえ……」

「これだけ老人の多い村でも、その程度の態勢しか布かれていない。これは問題だと思うね。もっと老人たちを見守るネットワークがあってもいいように思うが。老人ばかりの村の中であっても、老人は孤立しているんだね。不要物と見なされ、周囲の人間関係が次第に希薄になってくると孤立してしまう。社会の中に組み込んでおかないと、社会の庇護も届かないんだ」

「それなりの組織はあるみたいよ。老人会とか、独居老人のネットワークとか」

「不充分だったってことだろう」

 そうね、と梓は頷く。

「山入の事件は、いろいろと考えさせられるところのある事件だったと思うがね。まあ、村の人たちにしちゃ、もう済んだことなんだろう。こういう共同体でも、意外にあっさりしたもんだね」

「そうね。もう少し――密というか、親身な人間関係があるのかな、と思ってたんだけどなあ」

「まあ、山入という地理的な条件もあったんだろうが。にしても、転居者が来たぐらいで済んだことになるのはどうだろうな」

「転居者によりけりなんじゃない? なにしろあれだけの家を移築したり、夜中に越してきたり、華やかなんだもの。話題性はあるわよね」

「そのわりに、姿を現したという話は聞かないが」

「見かけた人はいるみたいよ。見た人がいる、って話なら小耳に挟んだわ」

「そういうのもどうだろうな」結城はさらに溜息をついた。「せっかく越してきたんだから、近所の人間に挨拶ぐらいしても良さそうだがね。わざわざこんな小さな共同体の中に越してきたわけだからね。あんなふうに閉じこもって周囲を無視するかのように振る舞うのはどうかと思うね」

「そうねえ……」

 梓が呟くのを聞きながら、夏野は使ったグラスを洗って片づけた。黙って台所を出ようとすると、出かけるのか、と父親の声がする。うん、と夏野は振り返らないまま答えた。

「武藤に行ってくる」

 外は相変わらず、うんざりするような上天気だった。陽射しを浴びて歩きながら、なんだろうな、と夏野は辟易した気分で思う。

 山入の老人たちは孤立していた。ネットワークから外れていたというのも事実だろう。もはや頻繁に連絡を取るものもなく、訪ねる者もいなかった。だからこそ、三人が三人、死んでしまうまで発見されなかった。

 だが、老人たちも孤立は承知していたはずだ。自分たちが寂しい境遇に置かれていたことは分かっていたはずだし、そのうえ地理的にも孤立していたことなんて百も承知だったはずだ。自分たちが高齢で、何が起こるか分かったものではないことも了解していたはず。それでもなお、山入に踏みとどまっていた。

 孤立を怖れるなら、それなりに孤立せずに済むよう、行動したはずだ。梓が言っていたように、村には老人のための組織もあるし、独居老人たちが互いに互いの生活を見守るためのネットワークもある。孤立が怖いなら、そのどこかに積極的に所属すればよかったのだし、それをしていなかった以上、山入の老人たちは孤立を承知でそうすることを選んだのだ。本人たちが孤立を望んでおらず、なんとか社会と接触しようとしているにもかかわらず、それができないのだったら問題だろう。だが、それは可能だった。あとは山入の老人たちの意志ひとつのことだったのだ。

 父親の理想は分かるが、孤立を避ける意志を持たなかった人間を他者が抱え込んで心配してやらねばならない理由が分からない。おおむね、父親の主張というのはそうだった。本人が選んで寂しい生活をしているのだから、その結果、不都合が起こっても承知のうえだろう。承知しているべきなのじゃないかと、夏野には思える。老人たちが孤立を自覚しておらず、あるいは孤立に危機感を持っていたにもかかわらず、それを払拭するための行動を起こしていなかったのだとしたら、――あるいは、万が一の場合を想定していなかったのだとしたら、そんなものは本人たちが愚かだったというだけのことだ。どうして他者が先回して心配してやらねばならないのかが分からない。

「……余計なお世話って言うんだよな」

 夏野にはそういう気がする。愚かに生き、愚かに死にたいのならそうさせればいい。それも本人の選択の自由のうちだ。ましてや老人たちは、全てを承知したうえで、あえて孤立していたのかもしれないじゃないか、と思う。三人の孤立した老人が体調を崩し、救済を他者に求めなかったことが不思議がられているようだが、不思議に老人たちがあえて助けを求めなかった――なぜなら、すでに外場という村もそこに住む住人たちも、老人たちにとっては赤の他人だったからだ――という意見は耳にしたことがなかった。

(あの家だって)

 夏野は足を止めた。振り返ると、緑の斜面の中程に、兼正の屋敷の偉容が見えた。

 挨拶をするもしないも、そんなのは住人の勝手じゃないか、という気がする。田舎に地縁を求めて越してきて、積極的に村人と交わろうとするのも本人の自由なら、閑静な環境だけを求めて越してきて、煩わしい支援を拒絶するのも本人の自由だ。

(なんだかな……)

 自分は正義と良識の側にいるのだ、という確信を、夏野は常に父親から感じる。自由と人権と善なるものの庇護者を自認していながら、父親は息子の自由意志には無頓着だ。夏野には、父親が「愚行」だと思うところの行為を選ぶ権利がない。問答無用に夏野の自由を侵害している自分を、父親は果たして理解しているのだろうかと思う。

 深い溜息をついて武藤家の地所に入った。縁側から中を覗く前に、上から声が降ってきた。

「よう」

 二階の窓から武藤保が手を振っている。頷いて勝手に家に上がり込み、階段を上がった。保の部屋は|茹《う》だるような熱気が立ち込めており、しかも徹と村迫正雄までがいて、人口密度が高い。その誰もが上半身を脱いで汗みずくになっている様子は、いかにも暑苦しかった。

「サウナか、ここは」

 夏野の苦情に保は笑う。

「健康的だろ? ありがたいと思えよ、お前。都会じゃ金払ってサウナに行くんだろうが」

「こんな泥臭いサウナに金払う奴、いるかよ。あっちじゃ生存競争、厳しいの」

 こいつ、と保は軽く夏野を蹴飛ばした。

「それよか、聞いたか?」

 保が勢い込んだので、夏野は呆れて息を吐いた。

「兼正だろ。引越してきたらしいな」

 いつの話だよ、と保は笑う。

「そんなの、一昨日の話じゃないか。ニュースとしちゃ鮮度に欠けるぜ。――そうじゃなく、昨日、正雄んちに来たんだってさ」

「来たって?」

 正雄はどこか得意げに笑った。

「兼正の若いの。店に顔を出してったんだよ。配達はするのか、とか訊いてった」

 夏野は軽く息を吐く。正雄の家は米屋だ。転居者がそういうことを訊きに来てもおかしくない。

「そんなのが、自慢そうに言うほどありがたいのかよ」

 正雄はむっとしたように表情を変えた。

「別に自慢なんかしてねえだろ」

「そうか?」と、夏野は窓際に陣取って窓敷居に頬杖をつく。「よっぽど話題に飢えてんだな。山入の騒ぎといい。年寄りがくたばったり、転入者が顔を出したりしたのが、そんなに珍しいのかね」

 呆れ果てた、というような夏野の声に、正雄は口元を歪めた。

「悪かったな。田舎者なもんで」

 正雄の言葉に夏野は振り返った。

「そういうとこにコンプレックス持つのが、田舎者の証拠」

 正雄はさらにむっとしたが、保は違いない、と手を叩いて笑っている。何を笑っているんだ、馬鹿にされているのになぜ起こらないんだ、と正雄は保の太平楽な顔をねめつけた。徹も保も常にこうだ。だから夏野が増長する。こいつはもう外場の人間なのだから、外場の流儀を仕込んでやればいいのに。

「お前って、おれより年上みたいだよな」

 年下のくせに生意気だ、と正雄は言外に含ませたつもりだったが、対する夏野は素っ気なかった。

「正雄が餓鬼くさいだけだろ」

 正雄は夏野をねめつけた。怒鳴りたい気分を何とか押さえ込む。これだから、こいつは不愉快だ、と密かに拳を握って立ち上がった。保は依然として太平楽に正雄を見上げる。

「なんだ? 便所か?」

「帰るんだよ。空気が悪いから」

 正雄は夏野を一瞥した。シャツを取って足音高く保の部屋を出る。その背を夏野が見送った。

「なんなんだろうな、あいつは」

 徹は苦笑した。

「お前が正雄の自慢話に乗ってやらないからだよ」

「転入者を見たって話なんか、なんだってありがたく聞いてやらなきゃなんないんだよ」

「それが付き合いってもんなんだよ。興味がなくても、あるふりぐらいはするもんだ。今からそんなだと、お前、社会に出てから苦労するぞ」

「おれの苦労なんだから、ほっとけっての。んで? 自慢話に乗ってもらえないからって、相手を睨みつけて退場する奴は、苦労せずに済むわけか?」

 徹は軽く額を押さえて失笑した。

「まあ、あいつも問題あるけどさ。正雄はちょいと我が儘なとこがあるからなあ。面白くないことがあると、いつもああなんだよ」

「……ふうん」

「あいつって兄弟のいちばん下だろ。しかも兄貴とは歳が離れているんだよな。いわゆる恥かきっ子ってやつで」

「|宗貴《むねたか》さん、いくつだったかなあ。もう三十の半ばじゃないか? 二番目の兄貴も大差ないはずだし、十五くらい離れてんだよな」

「十六だよ」と、保が口を挟んだ。「だからあいつ、母親に猫っ可愛がりされててさ。もうお袋さんは死んでんだけど。だから自分の思うようにならないと、気に入らないんだ」

「馬鹿か」

「まあな」徹は苦笑する。「そもそも屈折したところがあるしな。兄貴二人は出来がいいんだよ、あそこの家は。比べられるから卑屈になるんだよな。おまけに正雄は甘やかされて育ってるから、それを正面から受けて立つだけの度量がない」

「そうじゃなく。徹ちゃんたちの言い分が馬鹿くさいってこと」

「おいおい」

「一人っ子だから我が儘だとか、歳の離れたいちばん下だから甘やかされてるとかさ、そういうのって通説だろ。同じ環境に育ったら、必ず同じ人間ができんのかよ。人間には個性ってもんがあるだろうが。それを適当に約めて本人無視して、イメージに振りまわされてるのが馬鹿くさいって言ってんの」

 おまえなあ、と保は息を吐く。

「おれたちはお前の肩もってやってんだろ。さりげなく正雄のフォローをしつつ、お前を立ててやってる、と。こういうのを気配りって言うんだよ」

「陰口の間違いだろ。そういうセコい味方なんて、いらねえよ」

「……お前、そういう態度ばっか取ってると、そのうち誰かに刺されるぞ」

「刺すほどの度胸のある奴がいたら受けて立ってやるよ」

 まったく、と徹は笑った。夏野の言い分が正しいかどうかはともかくも、こうやってあっさりと言って放つところが夏野の夏野たる所以だ。

 夏野は興味なさそうに窓の外に目をやる。視線の先に兼正の屋敷が見えた。

「なんだってこんなとこに越してくるんだかな。……物好き」

 ひとりごちる口調でそういう。

「なんか、奥さんと娘が身体、弱いらしいぜ。そんで田舎に引っ込むことにしたって、さっき正雄が言ってた」

 なるほどな、と夏野は溜息をついた。

「そんなことでもなけりゃ、越してこねえよなあ」

 納得する一方で、一抹の寂しさを感じた。夏野にはそういう理由があったわけではない。地縁もなく血縁もなく、村社会の中に入らなければならない事情は何もなかった。ただ、親がそう決めた、それだけのことだ。ここに夏野がいる理由なんて何ひとつない。なのに外場に捕らえられ、時とともに呪縛は強くなる。どこかでこれを振り切らなければ、永遠に外場を出られないのじゃないかと思う。

「残念だったな、仲間じゃなくて」

 見透かしたように徹が言って、夏野は盛大に顔を顰めた。

「別に仲間なんて欲しかねえよ。――徹ちゃんは冷静だな。さすがにオトナって感じ?」

「別にそういうわけじゃねえけど。だって関係ないだろ、あんな家」

「ふうん?」

「あんな家に住むくらいだしさ、変わり者ではあるんだろう。気安く付き合えるお隣さんになるとも思えんし、そもそもこっちだって付き合って欲しいとは思わないしな。年頃の女の子がいるんならともかく、娘は十三かそこらだって話だしなあ」

「それが本音だろ」

 徹は笑った。

「向こうだってこっちとは付き合う気がなさそうだし、こっちだって付き合って欲しいわけじゃない。この先、関わり合いになることもないだろ。だったらぜんぜん無関係じゃないか」

 夏野も笑う。

「そりゃそうだ」

「ねえ、兼正の人を最初に見たの、加奈美さんなんだって?」

 店に入ってきた客が、開口いちばんにそう言って、矢野加奈美は何度目か、溜息をついた。入ってきた田中佐知子は、清水寛子とカウンターに陣取り、期待を込めた目で加奈美を見ている。期待は分かるが、一昨日以来、何度同じ話をさせられただろう。いい加減、加奈美もうんざりしていた。

 佐知子と寛子の視線に負けて、加奈美はかいつまんで兼正の住人に道を訊かれた話をした。話をする加奈美の脇で、黙って洗い物をしている元子が硬くなるのが分かる。元子は不安なのだ。余所者がやってきた、という思いに身が|竦《すく》んでいる。

 元子が子供に対して、神経症じみた不安を見せるようになったのはいつからだっただろう。最初からこうではなかった、という気がする。少なくとも自分が村を離れていて、町で結婚生活を送っている間は、こんなふうではなかった。たまに電話をするだけで、今ほど始終、顔を合わせていたわけではないから、表に出さなかっただけなのかもしれないけれども。ただ、自分が離婚して村に戻ってきた当初も、こうではなかった、という気がしてならない。それはいつの間にか始まり、そして年々、深刻になっているように思われた。

 佐知子と寛子が、さらに詳しい話をねだるのを適当にいなしていると、元子は洗い物を終えて時計を見上げる。そそくさとエプロンを外して畳んだ。

「じゃあ……、あたしは夕飯の支度があるから」

 加奈美は笑って頷き、またね、と声をかける。元子はどこかこわばった顔で、ただ頷いて返した。

 元子が店を出るのを見送って、加奈美は佐知子と寛子に向き直る。

「あんまり、兼正の話はしないでやってよ。元子、ちょっと気に病んでるから」

 あら、と寛子は目を見開く。

「気に病むって――何を」

 加奈美は少し言い淀む。元子の不安について説明するのはいかにも骨が折れそうだった。

「だから」加奈美は笑む。「この間、元子の子供が車に当て逃げされちゃってね。大事はなかったんだけど、その車が兼正の車だって噂があったのよ」

「あらまあ」

「もちろん単なる噂で、その頃には兼正は越してきてなかったんだけど。でも、当たり所が悪かったら、おおごとになってたかもしれないじゃない。兼正のはずはないんだけど、そうでもないって保証もないしね。犯人は逃げちゃっただけに、元子は気になってしょうがないみたいなの」

「それは初耳だわ。大変だったわねえ」

 まあね、と加奈美は言葉を濁した。

「兼正が良くないわよ」佐知子は言う。「そういう噂があるんなら余計に出てこなくちゃいけないわ」

「そんな噂があるなんて、兼正の人たちは夢にも思ってないでしょ」

「にしてもよ。越してきておいて、挨拶もなしに引っ込んだままだっていうじゃない。それってどうかと思うわよ。誰かが一言、それじゃあ良くない、って言ってやるといいんだわ」

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