「あちー」
「なんでこの暑い最中に、わざわざ歩くんだよ」
「バスがなかなか来なかったんだよ」
げんなりしたふうの答えに、車を出しながら徹は笑う。小学校、中学校はいつ閉鎖されてもおかしくないような代物が村にあるが、高校になるとバスに乗って近隣の学校まで通わなくてはならない。そのバスも昼間は本数が少ないから、間が悪いと一時間以上も待たなくてはならない。待っている間に、手持ちぶさたで次のバス停まで歩こうと思う。いくつか先のバス停でちゃんとバスを拾えることもあるが、得てしてバス停とバス停の間でバスに追い抜かれて、結局村まで三時間ほどの距離を歩く羽目になる。――二年前までは徹にもよくあったことだ。
「やっぱチャリにすればよかった。――そういう徹ちゃんこそ、なんでこんなところを走ってるわけ。会社は」
「今日は研修。研修先から直帰だ。儲けた」
「それで給料が出るんだからいいよな」
「悔しかったらさっさと卒業するんだな。免許があると歩くこともなくなるし」
「急いだって一年じゃ出してくれないよ。第一、卒業したらこんなとこ、二度と帰ってくるかよ」言って夏野は再びシャツの袖で顔を拭う。「電車もねえんだもん。よくみんな住んでるよな」
徹は苦笑した。夏野は数少ない転入者だった。変わり者の両親が、わざわざ都会から移り住んで、一年前、近所に越してきた。近隣から越してくるものもたまにはいるが、都会からやってくる者は少ない。ましてや近隣から越してくる場合にも、必ず外場の者と血縁があるものだ。実のところ徹自身も転入者で、子供のころに外場に越してきたくちだ。武藤家もまた村に血縁を持たなかったが、父親は村の病院に勤めていたから、全く外場と無縁だったわけではない。それでもずいぶん珍しいと言われたらしい。何の縁もなしに村に入ってくるような物好きは、夏野の一家が唯一と言ってもよかった。
「そんなこと言ってると、父ちゃん母ちゃんが嘆くぞ。せっかくわざわざ越してきた自然に包まれた山村、純朴で心の通った近所付き合い、ってやつなんだから」
徹が言うと、夏野は嫌な顔をする。
夏野の両親は、都会から自然とやらを求めて越してきた。無人になった家を買い取り、畑を作り、樅材で家具などを作って都会に出荷している。徹の家も転入組だが、徹自身は外場で育ったのでこの村が居場所だという感覚が強い。不便ではあるが、さして不満は感じていなかった。かといって、特別満足しているわけでもない。こんなものだ、というところだ。なのでわざわざ越してくる人間の気持ちは理解しがたかった。
自然と言っても、山と川があるだけで、その山だって樅を植樹した人工林で覆われている。どこが自然なのかよく分からなかったし、ましてや単なる田舎町のありがちな気風を純朴だなどといわれても困る。そう思うので夏野が不満を言うのも無理はない気がする都会で生まれ育った夏野には、村の生活は不便で我慢がならないらしい。「親の勝手でいい迷惑だ」と零すが、それも当然だろうと思う。
「早く卒業にならないかな」
夏野が小声で呟くのを聞き流して、徹は信号を外場へと曲がる。川沿いの村道を入ってすぐ、小学校に向かう道の角にある文房具店の店先に老人たちがたむろしているのが目に入った。
「あいつら、いつも溜まってるなあ」
夏野の声に、徹は笑った。タケムラ文具店は子供を相手の商売だ。子供たちの登下校時でなければ、近所の者が時たま切手や葉書を買いに来る程度で、閑古鳥が鳴いている。店先の|床几《しょうぎ》はだから、暇な老人たちの格好の溜まり場になっていた。
「日がな一日、つまんない噂話ばっかしてんのな。――あ、こっち見た」
徹がミラーに目をやると、老人たちのうちの一人がわざわざ腰を上げて車を覗き込むように見送っているのが見えた。夏野が息を吐く。
「わざわざ見送るし。誰が乗ってるか、チェックしてんだよな、あれ」
「まさか」
「絶対、そうだって。あいつら、おれが前を通ると、じーっと見てるんだ。あれって余所者を監視するって感じだよな」
徹は苦笑した。
「単に物珍しいんだろ。することもないし、娯楽もないし」
「暇ならゲートボールでもしてりゃいいじゃないか」
確かにその方が建設的ではあるような気がしたので、徹は笑うにとどめた。実際、移住者は珍しいので、村の連中は常に興味を持つ。その視線に悪意はないのだが、見られる当の本人にすれば、鬱陶しくてたまらないだろう。
思いながら、川沿いの道を走る。いくらも走らないうちに制服姿の少年が二人、ぶらぶらと歩いているのが目に入って、徹は軽くクラクションを鳴らした。
「おおい、保」
徹の弟だ。隣で肩を並べているのは、保と同級の|村迫《むらさこ》正雄だった。
あれ、と保は破顔する。
「儲けた。おい、正雄、乗っていこうぜ」
保が振り返って声をかけたが、正雄は止まった車の助手席に目をやってから首を横に振った。
「いいよ」
「なんで? 車のほうが涼しいだろ」
「いいんだ。おれ、歩くから。乗たきゃ保だけ乗って帰れよ」
突き放すような物言いに、保は正雄と徹を見比べ、苦笑して行け、と手を振った。正雄と歩くことにしたらしい。徹も特には勧めず、手を振って車を出した。
「奇特な奴ら」
呆れたような夏野の声にも答えない。正雄は村迫米穀店の三男だ。何が気に入らないのか、夏野を毛嫌いしている様子があった。根底にあるのは、都会からやってきた異物に対する違和感なのかもしれない。
狭い村、狭い社会だが、住んでみればいろんなことがある。夏野の父親が言うような別天地だとは思えない。どこにでもある、単なる村だ。――そう思いながら、渓流沿いに村道を走り、橋の袂を西へ曲がった。人家の密集した一帯を抜けると、緑の田圃越し、西の山肌に一風変わった建物が見えた。まったく村にそぐわない、奇妙な家。
「そう言や、いつになったら越してくるんだろうな。あの家」
徹が言うと、夏野は興味なさそうに視線を西の山に向けた。
「さあ」
新しい転居者が入ってくれば、夏野の一家に対する興味も薄れるのに違いない。しょせんはその程度のものだ。野次馬は移り気なものだと相場が決まっている。
「夏野んちみたいな、エコロジストってやつかな」
「うちの親がそんな立派なもんかよ。――名前で呼ぶなってば」
徹は苦笑する。父親がつけた平安貴族の名前は本人の気に入らないらしい。女みたいで嫌だと言って、呆れるぐらい根気よく抵抗する。
「だって、お前んちってややこしいんだからしょうがないだろ」
夫婦別姓だという。それで夏野の両親はあえて入籍していない。夏野は母親である小出梓の戸籍に入っているが、学校などのかねあいから常には父親の結城姓を名乗っている。「……迷惑な話」呟いて、夏野はその屋敷のほうを見上げた。「こんなとこに越してくるなんて、絶対、どうしようもない変人一家だと思うな。――さもなきゃ、お尋ね者だ」
「やっぱり工房の息子だったよ」
重大な発見をしたように、満面に笑みを浮かべて店に戻ってきた佐藤|笈太郎《おいたろう》を、竹村タツは団扇を使いながら苦笑ぎみに見た。
「だから言ったでしょ」どこか得意そうなのは、大塚|弥栄子《やえこ》だ。「あれは事務長の息子の車だもの」
事務長とは、病院の医療事務の主任、武藤のことだ。武藤は土地の者ではないから屋号を持たない。老人の多くはだから「事務長」だのと呼ぶ。それは昨年、転入してきた結城家(小出家というべきか)も同様で、こちらのほうはいつの間にか「工房」という屋号が定着しつつあった。
「後ろの格好がこうなってて」と弥栄子は手でそれを示したつもりらしかった。「白のクーペっていうの? ドアが二つしかないやつで、ナンバーが三桁なんだよね。ちゃんと覚えてるんだから」
あら、と不服そうに声を上げたのは、広沢武子だ。
「そんなことくらい、わたしだって覚えてるわよ」
「あんた、あれは誰だろうって言ったじゃない」
「助手席に乗っているのは誰だろうって意味よ。まぁ、女の子じゃないようだとは思ったけどさ」
「工房の息子だよ。」笈太郎は床几の端に腰を下ろして、にんまりと笑う。「頭の形で一目で分かった。やっぱりそうだったろ」
「制服だったわね」
「効率は登校日なのよ。清水の娘も制服着て学校に行くのを見たもの」
他愛もない世間話を、床几の隅で押し黙ったまま伊藤郁美が面白くもなさそうに聞いている。痩せた顔には「他愛もなさすぎる」と、大書してあるようだった。
タツは軽く失笑しながら、団扇を諦めて扇風機のスイッチを入れた。弱い風が吹き付けてきたが、温いばかりでいっかな涼しくなった気はしなかった。
もちろん、扇風機の風は床几までは届かない。村道の路面からはまともに熱気が流れてきて、クーラーのない店先は茹だるような暑さだ。それを不平に思っている風もなく、のほほんと世間話をしていられるのは、年寄りだからこそ、といえるかもしれない。
タケムラは国道から村道へと入ってすぐ、小学校に入る道の角にある。タケムラの|下《しも》には学校のグラウンドとドライブインがあるだけで、特に脇道もないし、だから村へと入ってくる車のほとんどは、必ずタケムラの前を通ることになる。村に出入りする車の流れを把握するのには絶好の場所だ(国道から農道へと入る車ばかりはそうはいかないが、これはあまり多くない)。――別段、笈太郎たちも単に暇を持てあまして雑談のために集まっているだけで、車を監視するために集まっているわけではないのだが。
実際、とタツは目の前の村道に目をやる。店の間口は村道に面している。もともとは農家だったのを、茶の間の掃き出し窓を取り払い、そこに商品を並べる台を置いて番台のような造作にした。玄関の戸も取り払って土間を開放し、床几を置いて商売を始めた。戦後すぐのことだ。
他は村外に嫁いでいたが、夫は戦地で死亡した。それで戦後、身一つで村に戻ってきてこの商売を始めたのだった。ノートや絵の具、三角定規やコンパス。体操帽やゼッケン、学校に行く子供が登校の途中によって足りない物を買っていく。下校時にはちょっとした駄菓子やアイスクリーム、ジュースを買っていった。なにしろ小学校にはクラスが六クラスしかない。一学年一クラス、それも学年によっては生徒数は十数名ということもあったから、大した商売にはならないのだが、年寄りがひとり、生きていくのには事足りる。
戦後ずっと、この番台のような場所に座って、子供と村道を見てきた。特に昼間は近所の者が時折やってくる程度で、道を眺めている以外、特にすることもなかったし、覚えるつもりなどなくても、どの車がどの家のものなのか覚えてしまう。車だけではない。国道のバス停に向かう者も、その多くがタケムラの前を通る。そうやって通る者たちのほとんどはかつては小学校に通っていたのだし、顔も名前も覚えている。だからタツは結果として村の者の出入りを把握することになるのだった。
――いや、そうではない。
夜になれば、表の雨戸を閉め、タツは家に引き籠もる。その後から朝にかけて、どんな車や人が出入りしているかは把握できない。深夜に入ってきて引き返したというトラックがその例だ。
「……トラックねえ」
タツは何となく呟いた。特に大声を出したつもりもなかったのだが、笈太郎は耳ざとくそれを聞きつける。
「なんだい、あのトラックがどうかしたのかい」
いや、とタツは答える。
「どうもしやしないけどさ。何だったんだろうと思ってね」
「なあに、それ」
聞いたのは弥栄子だ。
「なんだ、弥栄子さんにはまだ言ってなかったかい。――トラックが来たんだよ。虫送りの日に」
「兼正の家?」
「そうじゃなくてさ。おれは家からベットを焚いてるのを見てたんだけどね」笈太郎はどこか意気揚々としていた。「ほら、おれんちは三之橋を渡ってすぐのところだから。ベットを焚くのって、川のすぐ向こう岸じゃないか。それで見てたんだけどね、そしたら車が入ってきたんだよ。コンテナのトラックと乗用車が二台」
「へえ」
「それが橋の近くまで来て、引き返していったんだ。トラックのコンテナには、松のマークがあったな。ほら、高砂松ってやつだ。高砂運送って書いてあったよ。カメラで確認したから間近いない」
タツは密かに失笑する。笈太郎は年に似合わず、良いカメラを持っている。都会に行った息子のお古を貰ったもので、倍率の高い望遠レンズがついている。笈太郎は何かというとカメラを持ち出してくるのだが、そのくせフィルムを買い求めたり、写真を現像に出したなどという話は聞いたことがなかった。もちろん、撮った写真を見せられたこともない。
押し黙っていた郁美が、ぽつりと口を開いた。
「どうせ、ろくなもんじゃないわよ」
笈太郎は身を乗り出す。
「ろくなもんじゃないって」
「厄介払いの儀式に追い立てられたんだから、厄を背負ってたんでしょ。そんなもんが入ってきたらおおごとよ」
老人たちは何も言わず、黙って首を振った。郁美は集まった老人たちより一まわりは年下になる。年寄りというほどの歳ではないが、少しばかり奇矯なところがあって同じ年頃の女たちの中に入れずにいる。
「……でも、妙な話ねえ」
ひとりごちるような弥栄子の声に、タツは内心で頷いた。真夜中にトラックが村に入ってくる。しかもそれが引き返す。――タツの記憶にある限り、そういうことはこれまでになかった。
村には変化が起こらない。住人はそれぞれが多彩なようでも、一言で言いくるめてしまえば田舎の住人で片がつく。珍事も突発事も予想の範囲内、「そういうこともあるだろう」と納得できる範囲内、そういうものだ。にもかかわらず、真夜中に引き返したトラックはその範囲内を越える。――いや、トラックだけではない。
タツは路面の陽炎に目をやった。
兼正のあの家。村外からの転居者は範囲内だが、あの建物は範囲内を越える。転居してくるのはいい、しかしながら、あんな奇妙な建物をわざわざ余所から移すことは尋常のことだとは思えない。何のためにそんなことをしたのだろう。よほど家に愛着があったのだろうか、それとも田舎者の鼻を明かしたかったのだろうか。――それとも。
何かのために必要だったのだろうか。あの古風な、石造りの建物が。
広沢は車を家の前の駐車スペースに入れ、運転席から降りた。街で買い集めてきた古書の袋を抱えおろすと同時に、カーテンが開いて小さな娘が顔を出し、手を振った。|黄昏《たそがれ》の中、明かりの点いた家からは焼き魚の匂いが漂ってきている。
娘に頷いて家に入る前、広沢は西の山のほうを見上げた。まだ夜にはほど遠い色の空を背に、山の稜線とそこに佇む建物が見えた。虫送りで引き返すトラックを見て以来、何という理由もないが気にかかる。そこに建物があって、なのにまだ住人がいないことの不自然に、改めて思い至ったせいなのかもしれなかった。
古風な家だ。家が建つのはいくつも見たが、移築などを見ることは初めてだったし、日本の木造建築とは全然別の工法で建てられていく建物は興味深かった。昨年の八月に古い屋敷を取り壊し、そこから始まった工事もひと月ほど前に塀の造作をしたのを最後に終わっている。地所の中に建てられていたプレハブの飯場は取り壊された。資材が運び出され、門は閉ざされた。そのままひっそりと村人の注目を受けたまま沈黙している、その家。
住人が何というのかでさえ、広沢は聞いていない。東京近郊から越してくるらしい、という噂だけを小耳に挟んでいた。村で何か造作があると、必ず安森工業がそれを請け負う。そこからなにがしかの情報が漏れてくるものだが、今回、安森工業は仕事をもらえなかったらしい。フェンスには大手建築会社の名前が書かれ、他県のナンバープレートをつけたトラックが出入りしていた。実際、田舎の建築業者にできる造作でもないだろう。
家は一見して二階建て。複雑な形に凹凸を繰り返している。急勾配の屋根には窓があるから、屋根裏部屋があるのだろう。かなり大きな地下室があるであろうことも、基礎工事を見ていたから知っている。石造りの重厚な外壁には石の凹凸で、まるで木骨でも通っているような飾りが施されている。飾りはあっても簡素な印象、建てられたのはいつ頃だろうか。見事に古色がついているが、そう見えるほど古いものではあるまい。本当に古い洋館建築なら、そうそう簡単に移築などできないだろう。
窓は少なく、ポーチ部分の他にベランダなどはないようだった。工事を見ていた記憶からすると、ベイウインドウ風の張り出し窓がいくつか、一階部にあったと思う。窓は簡素な四角、特にアーチ飾りなどはない。鎧戸がついていて、それはぴったり閉ざされている。いや、スリットのない単なる一枚板だから、雨戸と呼ぶべきなのだろうか。採光も通気性も悪そうだが、壁の厚い天井の高い建物は夏に涼しいかもしれない。
それは重々しく、しかも端正だったが、広沢にはどこか城塞のように堅苦しく感じられた。村をわずかに見下ろす斜面の上、そこで家が見守っている、あるいは――監視している。その家が城塞なら、それは外場の城塞ではなく、外部から監視のために築かれた橋頭堡だ。では、どこから?
――樅の山から、外場に向かって突き出している。
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(村は死によって包囲されている)
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「おとうさーん」玄関のドアが開いて、娘が顔を出した。「ごはんだよ」
「おかえりなさい、は?」
妻の履物を足首で引きずって出てきた幼い娘の頭を、広沢は撫でる。
「さっき、まどから言ったもん。おとうさんこそ、ただいまって言ってない」
「ただいま」
広沢は娘の背中を軽く押して、玄関ポーチに歩み寄る。玄関に入る前、もう一度暗い山肌に破風を突き上げている家を振り返った。
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(……樅は死だ)
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旦那寺の作家なら、そこから村に突出してきた建物を、何に喩えてみせるだろうか。
[#改段]
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二章
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1
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暗闇の中、弧を描き、漂うようにして明かりは地を這う。それは招く手、墓穴から甦った死者が鬼火を遣わして彼を呼ぶ。
死者は彼を追いかけては来ない。彼の行く先々でただ待ち受けている。凍った大地の上に佇み、虚ろな目を開いて、彼がその側に辿り着くのを見守っている。生気の失われた白臘の顔、屍衣もまた白かった。それが鬼火の明かりで陰鬱に蒼い。
彼は時間を引き延ばすように踵を引きずり、あえて遅々とその前に進んだ。
彼がようやく傍らに至っても、弟は何を言うでもなかった。ただの一声も発さず、恨み言もなく呪詛の言葉もなく、そして当然のことながら吐息さえ零さなかった。もちろん、手を振り上げて彼を打つでもなかったし、|石礫《いしつぶて》を投じるわけでもなかった。
弟はただ、彼を待ち受けている。その容貌は生前のまま、それでも死相に翳っていた。文字通り生気のない目は瞬きもなく、空洞によく似た色合いをして、彼にひたと注がれている。力なく佇んだ肢体を覆った屍衣は、墓場の泥にまみれ悄然と垂れていた。
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静信は鉛筆を止めてわずかに考え込んだ。
弟に復習の意図はなくても、兄のほうは当然のように弟が復讐のために現れたのだと思うだろう。
[#ここから4字下げ]
弟は彼を、自分と同じ煉獄へと引き込もうとするに違いない。
[#ここで字下げ終わり]
彼は最初に墓から甦ってきた弟を見るなりそう確信し、恐怖に駆られて弟から逃げ出す。――たぶん、そうする。
だが、屍鬼から逃げ出すことはできなかった。彼が逃げ出した先々に、弟はいつの間にか回り込んで彼を待ち受けている。彼はそれを繰り返したあげくに逃げることはできないと悟った。だからこそ弟の姿を目にして、唯々諾々とその側へと歩み寄るのだが(弟の傍らに進むことになることを承知で歩みを進めるのだが)、彼は常に、今度こそ弟が復讐のために危害を加えるのではないかと怖れている。
(復讐……)
静信は原稿用紙の見つめながら思案した。彼が想像していた「復讐」とはどういうものだろう? それは日本の幽霊談によくあるような、取り殺す、という行為だろうか。あるいはもっと直截に、彼がそうしたと同じく、凶器を持って彼を襲うことなのだろうか。あるいは、この舞台となる土地には、復讐のための行為が定められているのだろうか。
静信はしばらくの間文字面を見つめ、復讐にはそれなりの様式が欲しい、と思った。何か抽象的な――暗示的な行為。記憶を探って古今東西の復讐の手段について思いめぐらせてみたが、これといったものは思い出せない。ついでさらに記憶を探り、参考になるような資料を持っていないだろうかと考えてみたが、これまた思い当たるものがなかった。
静信は軽く息を吐いて、寺務所の黒板を見上げた。意識が原稿から(凍った荒野から)離れ、唐突に寺務所に満ちた午後の陽射しと、クーラーの作為的な冷気、窓越しに聞こえる蝉の声に気が付いた。
七月二十七日。水曜の午後、予定がふたつ入っていたが、これは鶴見と池辺が行くことになっている。静信は原稿用紙を揃え、抽斗の中に戻した。裏返して入れた原稿用紙の上に文鎮を置いて抽斗を閉じ、立ち上がる。ちょうど寺務所を出たところに、大きな薬缶を持った美和子が通りがかった。
「あら、出かけるの?」
「ちょっと図書館に行ってきます。――お母さん、持ちましょうか」
静信が言うと、美和子は笑う。
「結構よ。行ってらっしゃい」
頷いて、静信は玄関に向かう。広い土間を横切り表に出ると、真夏の陽射しで境内は目映いほど明るかった。蝉の声が降ってくる。植え込みは旺盛な緑、山門から本堂へ、寺務所脇の輿寄せへ、あるいは庫裡の玄関へと続く参道の石畳は灼けたように白い。静信が表に出てきたのを認めたのか、境内のあちこちに散った老人うちの何人かが丁寧な会釈をしてきた。
「あら、若御院」
声がしたのは、植え込みの間だ。玄関脇の|柘植《つげ》の間で立ち上がった老女は、麦藁帽子を取って頭を下げる。
「お出かけですか」
久々に見る顔だった。盆前だからと、わざわざ来てくれたのだろう。静信は会釈を返す。
「お久しぶりです。お暑い中をありがとうございます」
「とんでもない。今年はうちのおじいさんが十三回忌なんで、またよろしくお願いしますねえ」
「はい。こちらこそ」
「御院のお加減はいかがですか」
一年半前、父親の信明は脳卒中で倒れた。以来、寝たきりの生活をしている。
「おかげさまで。近頃はずいぶん、声も出るようになりました」
「そりゃあ、良かったですね」言って、老女は首にかけたタオルで顔を拭う。「そういえば、つい最近、何かの雑誌で若御院が書いているのを見ましたよ。エッセイって言うんですか、短いやつが乗ってるのが、病院の待合室にあって」
ああ、と静信は苦笑した。尾崎医院の院長は静信が嫌がるのを分かっていて、わざわざ原稿の載った雑誌を買ってきては待合室におく。そうですか、とだけ答え、コメントは避けた。
「あらお引き留めして済みませんね。お気をつけて」
老女は言って、深々と頭を下げた。それに会釈を返して、静信は輿寄せの脇にあるガレージに向かい、車に乗り込んだ。図書館まではあえて車を使うほどの距離ではなく、むしろ気分を変えるための散歩にはちょうど良いくらいだったが、なにしろ照りつける陽射しが降り注いでいる。しかも日中、村を歩くと、先々で檀家の人々に捕まって一向に前に進めない。今は先を急ぎたい気分だったので、車を使うことにした。
窓を開け、エアコンをつけて車の中に籠もった熱気を追い払いながら車を出した。老人たちが見送ってくれる。副業で文章は書いても静信の本文は僧侶だ。村にひとつの旦那寺、父親が倒れて以来、静信が檀家を背負っている。
老人たちの丁寧な会釈を受けながら境内を徐行して横切り、鐘楼脇の私道に乗り入れた。山門から下るのはさほど長くはない石段で、これはもちろん、車では通行はできない。それで鐘楼の脇のほうに私道を設けてあった。これを下ると、隣り合わせた丸安製材の材木置き場の脇に出る。私道のコンクリートも白く灼け、枝を差しかけた樹木から降る蝉の声が炙られている。文字通り、茹だるような夏の景色だった。
例年になく雨が少なく、暑さが厳しい。車を東へと向け、川沿いの村道に出ると、渓流の水位が下がり、河原が面積を増していた。ろくな雨に恵まれないまま梅雨が明けた。国道の橋をさらに下った辺りには堰があって、この時期には水門を閉じているが、それでも川の水位が平素より低かった。渇水というほどではないものの、そもそも溝辺町には川らしい川が、この渓流に端を発する尾見川しかない。下流では水が不足しており、外場でも取水を絞り込んでいた。酷暑による被害も出ている。きつい夏になりそうだった。
渓流に沿って南へと向かい、神社に向かう一之橋の袂を過ぎる。川の対岸に見える鎮守の森は目に痛いような緑だ。さらに村道を下ると二之橋、外場の中心となる市街は、二之橋から三之橋にかけての一帯にある。この三之橋が、かつては外場の果てだったらしい。
外場はそもそも、寺院所領に木地師が住み着いて拓いた村で、寺院所領の解体が行われるまで、付近一帯にある村落はこの外場が唯一だった。三方を山に囲まれた谷間に集まった六集落、これに北の山間にある飛び地のような一集落を加えて、都合七つの集落を総称して「外場村」と言った。近年になって溝辺町に併合され、一括して「外場」という地名の中に押し込められたけれども、村人も近隣の者も外場を村と呼ぶし、郵便上の記述としては今も「村」の文字とともに、七集落の名前が生き残っている。
総計四百戸足らず、人口にして千三百人あまりの小さな村だが、かつて村制が布かれていたころの財産で、とりあえず村としての面目が保てるだけの設備があった。静信が向かっている公民館もそれだ。
二之橋の袂、村道の脇に古風な木造、瓦葺きの建物が見えた。古い校舎のようなこの建物が、かつての村役場、現在の公民館だった。村が溝辺町の併合され、村役場は公民館として今も使用されており、一部は図書館になっている。田舎の図書館の蔵書などというものは貧弱なものと相場が決まっているが、外場のそれは破格だった。寺や尾崎、兼正が代々申し合わせてかなりの量の書物を寄贈しており、兼正が村を離れる際には、大量の蔵書や古文書を寄贈したこともあって静信などは使い出がある。もっとも、軽い読み物などは少なかったので、村人にはあまり評判が良くなかった。
大川酒店の手前で村道を折れて公民館の駐車場に車を入れ、建物の中にはいる。古色蒼然とした建物の中には、小さなホールや寄り合いのための会議場、各組合の事務所などが寄り集まっている。開け放された窓からは子供の歓声が聞こえてきていた。公民館に隣接して、保育園を兼ねた児童館があり、その事務所も公民館の中にある。これらの維持費の多くは、寺――室井と尾崎、兼正が負担している。室井と尾崎、兼正の三家はそのようにして、ずっと村を支え続けてきた。
顔見知りの人々に会釈をし、静信は一郭を占める図書館へと向かう。前世紀の遺物然としたカウンターには、司書の|柚木《ゆずき》が座っていた。
「おや。若御院、こんちには。調べものですか」
「済みませんが、入れてください」
図書館の蔵書の多くは、建物に続く二つの蔵の中に納められている。ほとんどが村人の興味と関係なさそうな書物であり、古文書も多いことから図書館は一部が閉架式になっていた。書庫には入れないのが規則だが、とりあえず静信は大目に見てもらえることになっている。
柚木は白髪交じりの頭を頷かせ、書庫の鍵を机の抽斗から引っ張り出した。ちょうどそれを受け取ったとき、児童室から子供が二人、本を抱えてカウンターに駆け寄ってきた。柚木は破顔して子供たちが差し出した本を貸し出す手続きをする。柚木は温厚な男で、内向的な性格の割に子供好きなので有名だった。子供の興味に気を配り、よく面倒を見て話し相手にもなるので、「図書館のおじさん」を慕っている子供も多い。
「さすがに夏休みになると、賑やかですね」
静信が声をかけると、柚木は嬉しそうに笑った。
「いつもこうだといいんですけどね。今の子供たちには、本より楽しいものがたくさんありますから」柚木は言って、児童室と、開架式の閲覧室のほうを見比べる。それでも子供は、まだしもです。あっちのほうは、常に閑古鳥が鳴いてます」
大人向けの本を棚に並べた閲覧室は、今も無人だった。静信は頻繁に図書館に来るが、閲覧室で本を読んでいる村人の姿を見かけることはほとんどない。本好きな者がやってきて、本を借りていく程度、あとはノートを開いている中?高生のグループを見かけることが時折ある程度だった。
「若御院のほうこそ、執筆の具合はいかがです。新刊はいつ頃?」
さあ、と静信は笑って言葉を濁した。
「やっと取りかかったところです」
そうですか、と笑う柚木に促されて、静信は事務室の中に入り、書庫へと向かった。
書庫に独特の、古びた書物の気配が、静信は好きだった。蔵に入って戸口近くに置かれた机のスタンドを点け、棚を物色する。書物は柚木の手で分類法に従ってきちんと収納されていた。
兄の手にかかって非業の死を遂げた弟、その弟が殺人者に対して復讐するとしたら、どういう手段を採るだろう。弟は決して復讐など望んではいないのだが、兄はそれを怖れているはずだった。
しかしながら、弟は彼に対して復讐をしない。呪うでなく責めるでなく、ただ彼の傍らに付き従う。最初の一夜以来、夜毎に現れながら、ずっとそのように振る舞い続ける。
彼は当初、恐怖し、そして弟がいかなる危害も加えようとはしないのを知って落胆する。
[#ここから4字下げ]
弟が復讐のためにやってきたのだったら、どんなに良かっただろう。
[#ここで字下げ終わり]
それはもちろん、恐怖でありはするのだが、
[#ここから4字下げ]
そうやって危害を加え、彼の命を奪おうとすることによって、弟もまた彼と同じく殺戮者として振る舞ってくれたなら、彼は確実にある種の救いを感じることはできただろう。
[#ここで字下げ終わり]
だが、彼の弟はそうしなかった。
[#ここから4字下げ]
決して危害を加えようとしない被害者は、彼の罪を逃れようもなく明らかにした。弟は殺戮者ではない。罪人ではない。殺戮者であり破戒者であるのは、彼だけなのだ。
[#ここで字下げ終わり]
(彼は……)静信はほんのページを繰りながら思う。(おそらく、失望する)
弟がおぞましい生き物になってまで復讐を企むことで、自分と同種の殺戮者になって欲しかった。だが、弟は彼の期待に応えない。応える気がないことを、彼は弟の空疎な視線から悟る。たまりかねて弟を罵る。――おそらくそうする。
復讐することもできないふがいなさを侮辱し嘲笑し、責めさえする。それでも彼の
[#ここから4字下げ]
弟は彼を打つことも罵ることもしないのだった。ひっそりと傍らに立ち、空洞の目を彼に向けている。
[#ここで字下げ終わり]
彼の挑発は成功しない。彼はそれによっていっそう打ちひしがれ、ついに弟の前に膝を折る。
[#ここから4字下げ]
大地に|慴伏《しょうふく》して謝罪し、屍衣に縋って許しを乞うた。
[#ここで字下げ終わり]
――しかしながら、それをも弟は空洞の目でただ見つめている。
[#ここから4字下げ]
彼は弟を見返し、そしていつものように目を逸らした。弟の空疎な視線から逃れるために俯き、弟が埋葬されたはずの丘から遠ざかるべく、さらに足を踏み出した。弟は引き留めもせず、進路を阻むこともせず、無言のままほんの少し遅れて彼の傍らを滑るように歩き始めた。この屍鬼はそのようにして、明け方まで彼にただ付き従うのだった。
[#ここで字下げ終わり]
もはや彼にはできることがなかった。逃げることも、追い払うこともできず、許してくれと独白しながら弟を従えて荒野を歩くしかなかった。
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深く俯き、決して弟を振り返らず、それでいながら視野の端に弟の存在を否応なく意識しつつ、歩き続ける。
鬼火は凍った地を這い、乾いた風に揺れて円弧を描きながら彼と屍の道行きを照らした。彼は大地の起伏を視線と足裏の感触で拾いながら、黙々と歩いた。視線の片隅には弟の姿が常にちらつき、微かな死臭がつきまとう。それは彼の罪と罪にまつわる全てのものを忘れ去ることを許さず、摩耗させることすら許さなかった。
ひょっとしたら、それこそが弟の復讐なのかもしれなかった。
いや、それは弟の復讐ですらなく、決して遠ざかることのない丘とその頂上に点った光輝と同様、彼に課せられた呪いの一部なのかもしれなかった。
――されば汝は|詛《のろ》われ、此の地を離れ、|永遠《とわ》の|流離子《さすらいびと》となるべし。
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書庫で本を漁り、知識の断片や思いついたことをメモに取り、静信が書庫を出ると、すでに二時間あまりが経過していた。夏の陽射しは黄昏へと向けてゆるゆると傾き始めている。
「済みません、長々と」
静信が声をかけると、子供の相手をしていた柚木が振り返った。いえいえ、と笑う柚木の手元には昆虫図鑑が広げられ、子供が甲虫を入れた紙包みを差し出している。なんという虫なのか、訊きにきたのだろう。
それが微笑ましく、静信は笑って柚木に書庫の鍵を返した。三冊ほどの本を貸し出して貰う。また、いつでもどうぞ、という柚木の声に会釈を返したところで、表からけたたましい音がした。車のブレーキ音、そして何かが横転する音だった。