そう、と頷きながら敏夫は注射器とスピッツを取り出し、末梢血を採取する。
「ちょっと検査結果を見てみないことには分からないが、たぶん貧血だと思いますよ」
敏夫は清水を振り返った。
「貧血、ですか」
「かなり強い貧血は出ていますね。若い女の子には多くてね。――恵ちゃんはダイエット中かな?」
これには寛子が、苦笑するようにして頷いた。
「この子は、始終ダイエットしていますもので……」
「そんなところだろうね。おまけにこの暑さだ。ジュースやアイスクリームなんかを摂って、肝心の食事が入らない、ということもあるしね。そういうことで貧血が出てるんだろうな。詳しいことは検査結果が出れば分かるけど、とりあえずまあ、さほど心配はないでしょう」
「そうでしょうか……」
「それ以外には、特に異常はないようだからね。まあ、昨日もそれでなくても貧血を起こしているところで、この暑さにやられて脳貧血を起こしたか、そんなところでしょう」言って敏夫は、清水の目を見て言葉に力を込めた。「何も心配はないです」
清水は目に見えてホッとした様子だった。
「そうですか……」
「貧血が酷くなると、どうしても倦怠感が強くなるし、嗜眠の傾向が出ます。眠っても眠ってもまだ眠いという。頭に|瘤《こぶ》はないから、倒れた際に頭を強く打ったというわけでもなさそうだし、ぼうっとしているのも貧血のせいでしょう」
敏夫は笑った。
「とりあえずビタミン剤と鉄剤を出しておきますから、明日にでも取りに来てください。それで一週間、様子を見ましょう。もしも、その間に様子が変わったら、連れてきてください」
清水は、やれやれ、と声を上げて、苦笑じみた笑みを零した。
「まったく、人騒がせな娘で。済みませんね、こんな夜遅くに」
「構いません。なんでもなくて良かったじゃないですか」
「いや、恐縮です」
敏夫は恵を振り返った。
「乙女心は分からないじゃないが、ダイエットをやるんなら、健康を損なわない程度にするように。何でもいいから食べなきゃ瘠せるってものでもないんだから。ちゃんとカロリー計算をしながら計画的にやらないと、身体を壊すだけで効果がないぞ」
恵は眩しそうに瞬いて、小さく頷いた。
「そんなことで身体を壊すようなら、入院させて栄養剤責めにするからな。そうすりゃ、あっという間に十キロ増だ」
恵は、ひどい、と小声で笑いながら呟いた。敏夫も笑って、立ち上がる。明らかに安堵したふうの清水と寛子に頷いた。
「お大事に」
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七章
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1
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「ねえ、なんで火をたくの?」
加藤裕介は家の前の路上に屈み込んだ祖母に訊いてみた。すでに周囲は暮れなずんでいこうとしている。渓流に沿った道のあちこちに黄色い明かりが見えた。焚き火の明かりだ。祖母のゆきえも、近所の人々と同様に道端に屈み込み、アスファルトの上に積んだ木屑に火を点けている。
「こうやって御先祖さまをお迎えするんだよ。今日はお盆だからね。みんなお山にいるんだから、目印になるものがなかったら、戻ってこれないでしょう」
「ごせんぞさまって?」
「ばあちゃんのお父さんやお母さんや、その前のお母さんやお父さんや、そういう人たちのことだよ」
裕介は少し目を丸くした。
「おばあちゃんにも、おとうさんや、おかあさんがいたの?」
ゆきえは軽く声を上げて笑った。
「そりゃあ、いるとも。木の股から生まれる人間なんていやしないんだから」
「きのまた?」
「そこに人間がいるってことは、必ずお父さんとお母さんがいるってことさ。そうやってみんな生まれてくる。ずっと昔のお父さんやお母さんを御先祖さんって言うんだよ」
「その人たち、どこにいるの?」
「お山さ。みーんなもう死んでいるから、山のお墓にいるんだよ」
裕介は身体を起こした。
「死んでいるひと? もどってくるの?」
「そう。お盆には地獄の釜が開くのさ。それで家に帰ってくる」言って、ゆきえは孫に笑った。「裕ちゃんのお母さんも戻ってくるよ」
明るく朗らかだった嫁。ずいぶんとあけすけに物を言って、ゆきえを困惑もさせたが、思い返してみれば良くできた嫁だったと思う。商売を嫌がらず、働くことを厭わなかった。ゆきえの倍の速度で動き、てきぱきと何でもこなし、時にそれで失敗もしたが、どこか憎めないところがあった。元気を絵に描いたような女だったから、まさか先に逝こうとは思わなかった。逞しく、ふっくらした腕をしていた。その腕がいつの間にか細くなって、瘠せたんじゃない、と声をかけると得意そうに笑った。喜んでいる場合じゃない、これでは瘠せすぎだ――そう思ったときには、もう手遅れだった。
ゆきえは、じっと迎え火を見つめている裕介を見守る。裕介は小学校に入った。標準よりは小さいけれど、健康な良い子だ。
(帰ってきて、御覧なさいよ……)
やっと伝い歩きをするようになったばかりだった子供は、こんなに大きくなった。
裕介は迎え火と周囲を見比べた。暗闇に母親を捜しているのかもしれない。それが不憫に思えて切なく微笑んだとき、裕介がいきなりバケツに駆け寄った。
「おばあちゃん、消そうよ」
「――裕介」
何を言い出したのか、と驚いて、バケツを抱えようとする手を止める。
「火を消してよ。ねえ」
「火を消したら、お母さんが家に帰ってこれないじゃないか」
「だって」
裕介は、ゆきえに向かって声を張り上げ、息を呑んだ。小さな焚き火に屈み込んだ祖母の肩越し、闇の中に白い影が見えたからだ。
(火を、消さないと)
それはゆらめいて、少し大きくなった。バケツの柄を握る間もなく、さらに大きくなった。それは道の向こうから、焚き火を目指して近づいてきた。裕介は祖母の背後に隠れ、しがみつく。褪せた色の縞が裕介の手の中で歪んだ。
――死んだ者が現れたら、それは幽霊だ。
裕介は近づいてくる影を凝視する。忍ぶような足音が近づき、やがて上背のあるその姿が足が焚き火の光を受けて浮かび上がった。
(鬼は、山を下りてくる)
裕介は祖母の背中に小さくなり、それでも目を離すことができずに近づいてくる者を背中越しに見守った。
白っぽい服、白っぽいズボン、すらりとした身体の上に白い首が載っている。
「……こんばんは」
それは言って、笑った。裕介には悪魔の笑いのように見えた。祖母の服を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]んだまま一歩退ったが、当の祖母は逃げる様子もなくそれを見上げて頭を下げた。
「こんばんは」言って、ゆきえは裕介を振り返る。「裕介、こんばんは、は」
裕介は男を見上げたまま頭を振った。
「ちゃんと挨拶をしなさい」ゆきえは軽く|窘《たしな》めて、立ち上がった。裕介を前に引き出しながら、軽く男に会釈をする。
「良いお晩ですねえ」
本当に、と男は笑む。ゆきえはその姿を検分した。四十半ばというところだろうか。すらりと、それでも重みのある男らしい線を描く身体、その線によく合ったスーツ。麻だろうか、良い仕立てだ。見かけない顔だが、それが誰なのかはすぐに分かった。ネクタイこそはないものの、濃淡の生成で色を揃えた麻のスーツ、それに合わせた茶色の革靴。村の夜を歩くのに、こんな姿をして歩く者はいない。――これまでは、いなかった。
「ひょっとして、兼正の」ゆきえは西の山を見上げた。「あそこに越してきたお方ですかね」
「ええ」と男は笑って軽く頷く。
「お散歩ですか」
「あちこちで焚き火が見えると思ったら、お盆だったんですね。すっかり忘れていました」
男は言って、周囲を見渡す。すぐに、ゆきえに視線を戻して頭を下げた。
「桐敷正志郎と申します。今後ともよろしくお願いします」
「あら、こちらこそ」
「お孫さんでらっしゃいますか」
正志郎は、ゆきえの背後に隠れた裕介を、軽く屈み込むようにして見る。裕介が視線から逃げるように、ゆきえの腕と脇腹の間に潜り込んだ。
「裕介、御挨拶は?」
こんばんは、という子供の声は、かろうじて聞き取れる程度、それも、ゆきえの影から出てこようとしない。
「済みませんね。人見知りの激しい子で」
正志郎は微笑んだ。
「いいえ。子供はそういうものでしょう」
「桐敷さんに子供さんは」
「十三になる娘がおります。娘もそれは、人見知りをしますから。――裕介くん? よろしく」
男に見つめられて、裕介はさらに力を込めて、ゆきえの服を握りしめた。白い秀でた顔、その下の濃い眉と、深い眼下の奥の目許は少しも笑わないまま、薄い唇の両端だけが上がる。良くない笑い方だ、裕介にはそう思えた。
(たきびなんてするからだ)
幽霊に家を教えるために、火を焚くなんて。
(山からやってくるのなんて鬼に決まってるのに……)
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2
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「お母さん、恵ちゃんちに行ってくる」
かおりは台所の母親に声をかけた。
「あら、お見舞い?」
うん、とかおりは頷く。
「借りてた本もあるし」
「そう。冷蔵庫に葡萄があるから、持っていきなさい」
「いいよ」
「手ぶらってわけにはいかないわよ。お供えに買ったのがあるから」
母親に言われ、かおりは冷蔵庫を開ける。箱に入ったマスカットが冷えていた。それを引っ張り出し、本と一緒に抱えて、かおりは勝手口の突っかけを履いて表に出た。涼しい夕風が立ち、迎え火を焚いた後、立ち話をする人たちの姿が、あちこちに見える。
垣根ごし、小屋から顔を出して一緒に行きたいと主張するラブに首を振って、かおりは夜道を歩く。ぺたぺたとサンダルの音が虫の音に混じって後をついてきた。
村の夜は総じて暗いが、かおりの家の近辺はさほどでもない。家を出てすぐ、大塚製材の材木置き場があり、その広い敷地の向こうは国道に面している。国道を挟んだ向かいは楠スタンドだ。ガソリンスタンドの煌々とした光が遮る物もなく周囲を照らしていて、電柱についた街灯の明かりよりもずっと頼もしかった。
気温が下がって夜の空気は、そのぶんさらりと軽やかになった気がする。気分まで軽く、材木置き場の前を通り過ぎようとしたとき、スタンドの明かりに照らされて、その材木を指している大塚康幸の姿が見えた。
康幸はすでに三十過ぎで、かおりよりもずっと年上だったが、近所のお兄さん、という感じがする。弟の昭が小さい頃、頻繁に遊んでもらったせいかもしれない。その康幸が、材木の山を示して、隣にいる人影に何かを話していた。お盆なのに、こんな時間まで仕事かしら、とかおりは歩みを緩め、そして康幸の隣にいるのが見慣れない女であるのを見て取った。
康幸はまだ結婚していない。気だてはよいのだけど、内気だから、と大塚製材の小母さんが言っていたのを聞いていた。良い見合いの口を探しているのだけど、と言っていたが、ではあれが見合いの相手だろうか。年の頃は二十代の終わりか、そういう感じだった。
見合いと結びつけてしまったのは、その話が印象に残っていたせい、そして女が余所行きの格好をしていたからだ。白っぽいサマーニットのワンピース、そこに透けたふうの上着。白いハイヒールと白いバッグ、緩くまとめ上げられた髪。イヤリングが照明に、きらりと光った。
(綺麗なひと……)
かおりは足を止めた。顔立ちが綺麗なのはもちろん、なんというか――とても垢抜けた感じがする。まるでテレビに出てくる女優さんみたい。
思わずまじまじと見守っていると、康幸が気がついたのか、かおりのほうを向いた。|含羞《はにか》んだように笑う。
「やあ、かおりちゃん。お使いかい?」
「恵ちゃんち」
そうか、といって、照れたように横の女を示した。
「こちらはね、桐敷の奥さん。|千鶴《ちづる》さんっていうんだって。ええと、兼正の」
かおりは、へえ、と呟いた。この人が。では、康幸に縁談というわけではなかったのだ。康幸がすっかりどぎまぎしているふうで、なんだか可哀想な――残念な気がした。縁談だったら良かったのに。
こんばんは、と千鶴は会釈をした。どことなく品があって、やっぱりテレビに出てくるタレントのようだった。
「ついさっき、そこで会ってさ。桐敷の奥さん、製材所を見るの、初めてらしいんで」
ふうん、とかおりは口の中で呟く。千鶴の笑みを浮かべた視線を受け、急に自分が突っ掛け履きであることや、子供じみたTシャツにゴムウエストのキュロット姿であることが意識された。なんだか、とても恥ずかしい。
「この子、近所の子で、田中かおりっていうんです。いま、中学で」
千鶴が目を細めていったので、かおりはますます恥ずかしくなった。気後れがしたといってもいい。せめてちゃんと髪ぐらい括ってくるんだった。こんな、洗いっぱなしで櫛を通しただけなんて。
「本当にいい子なんですよ。――奥さんのところは、お子さんは?」
「娘がおります。中学の一年なんですけど、あいにく身体が弱くて学校には……」
「おや。それは大変ですねえ」
「おかげで、とても人見知りしまして。こちらで少しは丈夫になって、お友達ができると良いんですけど」
千鶴は言って、かおりに向かって微笑んだ。
「良かったら、遊んでやってくださいね」
「あ……はい。こちらこそ。どうも」
かおりは口の中で、もごもごと答え、慌てて頭を下げると、逃げ出すようにその場を離れた。
(……驚いた)
ぺたぺたと走りながら、材木置き場を振り返る。康幸は顔を赤くしながら、千鶴と何かを喋っている。
あんな人が本当にいるんだ、という気がした。まるでドラマの中の奥さんみたい。しかも。
(身体が弱い……)
中学一年の女の子。昭と同い年だ。学校に行けないのだろうか。本当にドラマの主人公みたいだ。
どぎまぎしながら、小走りに夜道を歩き、もう少しで恵の家を通り過ぎるところだった。慌て手足を止め、玄関に駆け寄る。いつものように習慣で勝手口に回ろうとして、なんとなく今夜は玄関から訪ねる気になった。ほとんど初めて、玄関ドアの前に立ち、チャイムを押す。
すぐに返事があって、ドアが開いた。恵の母親は、驚いたように目を丸くした。
「あら、かおりちゃん。お客さんかと思ったわ」
かおりは赤くなるのを感じた。いつもは勝手口のドアを開けて、声をかけるのだ。どうかすると声だけかけて、勝手に上がっていくこともある。なのに自分でも、なぜチャイムなんて鳴らしてみる気になったのか、よく分からなかった。
「あの……恵ちゃんの具合、どうですか? これ、お見舞いです。あの、お母さんから」
かおりは葡萄の箱を差し出した。恵の母親はそれを受け取り、あらまあ、と困惑したように呟く。
「ありがとう。……どうしたの、かおりちゃん、すっかり改まって」
「ええと……お見舞いだから」
「まあ。そんな大層なことじゃないのよ。ちょっと貧血だってだけで。とにかく、上がってちょうだい」
「お邪魔します」
言って、かおりは玄関に踏み込んだ。突っかけを脱いで、上よ、と示されたのに頷き、二階へ上がる。階段を上がりながら、こんな家だったっけ、と思っていた。
恵の家は、かおりの家に比べれば、うんと新しい。壁だって塗り壁ではなくて壁紙が貼ってあって、床だってちゃんとした洋間の床になっている。恵の母親は、きれい好きな人で、家の中はきちんと掃除してあるし、玄関には花を生けてあったり、棚の上にはちょっとした小物が飾ってあったりする。ずっと、かおりはそういう恵の家の様子を、お洒落な感じがする、と思ってきたのだった。
なのに、今夜はそれが違うふうに見えた。恵の母親は、かおりの母親みたいに寝間着みたいな部屋着こそ着てないけれども、やっぱり普段偽善とした格好だし、化粧だってしていない。家の中だって、よく見れば、すでにもう古びた色が浮かんでいるし、花屋小物が飾ってあるのも、なんだかゴチャゴチャして見えた。
複雑な感じで階段を上がると恵の部屋で、部屋のドアにはネーム?プレートが下げてあり、プレートに下がったぬいぐるみは、ドライフラワーを一輪抱えているけれども、どれもうっすらと埃がついていて、ひどくうらびれた感じがする。
ノックしてドアを開けた。ちゃんとした洋間で、女の子らしい小物が溢れた恵の部屋に、実を言うと、かおりはずっと憧れてきたのだけれども、今夜は蛍光灯の明かりの下、ひどく色あせて見えた。単なる普通の部屋だ。かおりの部屋が古い殺風景な部屋なのに対して、ちょっと新しくて物がいっぱいあるに過ぎない――。
「恵ちゃん、具合どう?」
部屋に入って枕許による。恵は眠っていなかったらしい、鬱陶しそうに目を開けた。
「顔色、悪いね。大丈夫?」
恵は怠そうに頷いたけれども、単に寝ぼけているようでもあった。
ぬいぐるみが坐った小さな椅子を引き寄せ、かおりはぬいぐるみをどけて腰を下ろす。妙に精彩を欠いた部屋の様子、恵の様子を見ながら、恵がずっと見ていたのはこれだったんだ、と思った。かおりは恵の部屋をステキだと思ってきたけれども、恵にはこんな風に色あせて見えていたのだろう。だから、あんなに頻繁に坂に通い、あの家を見上げていた。たしかに、この家や、かおりの家に比べると、兼正のあの家は全く違う。こんなふうにまがいものめいた「何か」ではない本物の「何か」が、あの家にはあるのに違いない。
虫の音が開いた窓から風に乗って流れてきていた。かおりは恵のどこか茫洋とした横顔を覗き込む。
「あのね、凄いの。さっき、誰にあったと思う?」
恵の返答はない。それでも視線だけは寄越した。
「桐敷っていうんだって。あのお屋敷の人。奥さんに会ったの。千鶴さんっていうの。すごく綺麗な人だったんだよ」
ぴくりと恵の肩が動いた。
「村をちょっと歩くのに、お化粧をしたりイヤリングを付ける人なんて初めて。でも、似合ってた。派手って感じじゃなくて、品がいいって言うのかしら」
「知ってるわ……」
え、とかおりは恵の顔を見る。恵はどこか険のある表情をしている。
「知ってるわよ……そんな、ことぐらい」
かおりが瞬くと、恵は薄く笑む。どこか、かおりを嘲るような表情だった。
「綺麗な人よ……とても、素敵な人……」
かおりは首を傾げて、恵の横顔を見守った。
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3
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美和子は迎え火の前に|蹲《うずくま》って、じっと火が燃え尽きるのを見守っていた。静信は母親のその姿を同様にして見つめている。
寺であっても、祖霊はある。美和子は毎年それを丁寧に迎えた。外場では麻の代わりに樅を燃やす。樅の木っ端を燃やして樅の中から使者を迎えた。美和子が見守る迎え火の側に、胡瓜で作った馬と、茄子の牛が小さく佇んで、母屋の明かりを見つめている。
毎年、その小さな乗り物を見るたびに、迎えるときには戸外に向けてやればいいのにと思う。背に乗せるために家のほうに向けるというが、それよりは帰りを待ちかねるように墓所のほうを向かせてやれば良かろうに。
美和子は蹲ったまま、言葉もない。毎年何を思って黙り込んでいるのかは知らない。ひょっとしたら実家の死んだ父母のことかもしれなかったし、早世した長兄のことだったかもしれない。信明がまだ一緒に迎え火を焚いていた頃から、美和子はそうして黙り込んでいるのが常だった。炎だけを見て蹲っている姿は閉塞を思わせた。それで何となく、この家は死者ではなく、どこか別の場所の使者を思っているのだろうという気がしている。家に迎える霊ではなく、別の場所に迎えられる死者のことを、この家には招く権利のない死者のことを思っている。――そういうふうに感じるとき、静信は自分が室井美和子をよく知っていても、山村美和子のことは何も知らないのだと、そう思う。
樅が燃え尽きていくのを黙って見ている美和子を見守り、静信は顔を上げる。少し歩くと山門から参道が見えた。暗い参道にもいくつか光が点っていた。
静信は村の盆が気に入っていた。あちこちの家々、角口に点される火、よしず越しに透けて見える夜の仏間、そこに点った蝋燭と走馬燈のような盆提灯の明かり。村では十三迎えの十四回向、十五踊りの十六送り、と言う。迎え、弔い、慰め、送る。――死者は目覚める。仕事に生活に忙殺される日常、この夜、迎え火とともに忘れられた死者は人人の脳裏で息を吹き返し、かつて生者と送った日々はか細い炎の中に、あるいは盆提灯の明かりの中に甦る。
背後で小さく、息を吐く音が聞こえた。振り返ると、美和子が手桶から水を掬って零しているところだった。彼女は小さな牛馬を腕に抱えて立ち上がる。
「先に戻ってますよ」
いつもの母親の顔がそこにあった。母性ではない、ただ「母親」という生き物であるだけの顔。
静信は頷き、母親を見送ってから、参道を見下ろした。明かりはひとつに減っている。夜風に惹かれて、ぶらぶらと歩いて山門をくぐった。石段を中程まで降りて腰を下ろす。遠くに見えていた明かりが、細くなって消えた。
死者は甦って懐かしい家に戻った。あるべき場所に戻ったのだ。後には
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空疎な墓穴が残された。それは黒々とした暗黒を抱いて、使者を待ちわびる。
我が|褥《しとね》に戻れ、と土は嘆いた。定められた摂理を裏切り、なぜにその罪深き土地をそれほど慕うか。
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静信は軽く笑って首を振る。家に戻ろうと立ち上がりかけて、夜道の彼方に白い影を見た。
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やがて前方に、白く淡い人影が見えた。
それがまた、今夜も墓から。
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静信はそれを見守った。すぐにそれは小柄な人影を現した。宛もなげな足取りで近づいてくる人影は、それが少女だと読み取れるほどに近づくと、静信に気づいたように足を止めた。すぐに少女は、はっきりとした宛先を目指して、歩みを進める。石段の下に辿り着いて、静信を見上げた。
小首を傾げた様子が幼かった。|紫陽花《あじさい》色のワンピースはいかにも軽やかな線を描いている。年の頃は十二、三だろうか。長い髪がさらさらと音を立てるように小さな肩を滑って落ちる。
「――室井さん?」
静信は頷いた。見慣れない少女だった。外場にはない匂いがした。それが誰なのかは、すぐに了解できた。
少女は物怖じした様子もなく、石段を身軽に上がってくる。坐ったままの静信と視線が合うところまで登ってきて足を止めた。
「室井静信さんでしょ?」
少女はいう。滅多に陽を浴びることがないせいだろう、蝋のように白い肌をしていた。
「そうだけど」
少女は笑って細い腕を背中に組む。
「あなたの作品がわりと好きだわ」
唐突に言われて、静信は目を見開いた。少しの間、言葉に窮した。
少女は人形のような首を傾ける。
「室井さんよね? 『半牛神』の」
「ああ……そう。だけど」静信は困惑し、少女の顔をまじまじと見た。「君が読むのかい?」
「そう、わたしが読むの。変?」
「いや」静信は苦笑する。「ありがとう。多分、君は最年少の読者だと思うな」
彼女は軽く含み笑いをした。
「そうね、少し難しい言葉もあったけど」と、素っ気なく早口に言ってから、「でも、人間なら誰だって、神様に見放されてるって感じは分かると思うわ」
「君は、本が好きなの?」
「そうね。好きよ。沢山、読むわ」言って少女は付け加える。「手当たり次第に。本当はあなたの本も、お父さんの本棚にあったのを借りたの。長編が六つと、短編集が二つ。それで全部なら、全部読んでるわ」
「それはすごいな」静信は微笑んでみせたが、内心で狼狽していた。「それで全部だよ。全部読んでいるという人に会ったのは初めてだ」
「あとはエッセイやなんかを時々、雑誌で見かけることがあるわ。去年、この村のことを書いたことがあったでしょう?」
静信は頷く。
「この村だと分かったかい?」
「読めば著者の住んでいる村だってことぐらい分かるもの。他の本の略歴を見たら、だいたいどの辺に住んでいるかも分かるでしょ。あとは略歴にあったお寺の名前を頼りに丁寧に地図を見ていけばいいのよ」
「まさかとは思うけど。――そうやって探したんじゃないだろう?」
少女は笑う。
「本当は、たまたまお父さんの知り合いが話題に出したの。村に作家がいる、って。そうしたら室井さんのことだったの。誓って言うけど、たけむらの小父さんから教えてもらう前に、私は作品を読んでたのよ」
「――そうか。ありがとう」
「雑誌を読み返してて、あのエッセイを見つけたの。祠のような村、っていい感じ。住んでみたい気がした」言って少女は付け加える。「きっとお父さんもそう思ったんだと思うわ。わたしがエッセイを見つけて、お父さんに見せてからだもの、本当に引越す話になったのは」
「それは……光栄だな」
言いながら、実際のところ静信は困惑していた。少女はまじまじと静信を見守る。
「困ってる、って顔に書いてあるわ」
「そんなことはないよ。ただ、――こういうことは、本当に滅多にないことなんだ」
「こういうこと?」
静信は苦笑する。
「読者に突然出会うこと」
「そう? わたしがそのいちばん目なら、光栄だわ」
「まぎれもなくいちばん目だね」
くすくすと少女は笑う。
「わたしはとても室井さんに興味があったの。会ってみたかった」
「イメージと違ってがっかりしたろう?」
「そうね」と、少女は微笑んで静信を上から下まで見まわした。「最初は意外に普通の人だと思ったわ、本当はね。だって室井さんって、角か尻尾でもありそうな気がしたんだもの」
「なぜ?」
「そういう人間の話ばかりだからよ。神様から見放された人間の物語、でしょ? ひょっとしたら室井さんにも角があるんじゃないかと思ったわ、ミノタウロスみたいに。だから、角がないのでガッカリしたけど」
静信は、その少女らしい言葉に笑い、そして続く言葉で凍り付いた。
「――でも、角はないけど傷があるのね。それで納得したわ」
静信は少女の顔を見つめる。
「……君は」
「|沙子《すなこ》よ。覚えておいて」
「沙子ちゃん、君……」
「ちゃん付けしないで。わたし、そういう呼び方って大嫌い」
静信は口を閉ざした。少女は本当に、人形のような顔を嫌悪に歪ませていたし、他の呼びかけようも思いつけず、静信も何を言いたいのか分からなかった。無意識のうちに左手を腕時計ごと握る。
「ひとつ教えてあげるわ、室井さん」少女は身を乗り出し、小声で言う。「手首を切ったぐらいじゃ、人は死なないのよ」
静信には返答ができなかった。沙子はふわりと上体を起こし、微笑を浮かべて身を翻した。石段を軽々と駆け下り、夜道にワンピースが揺れ、遠ざかっていった。――通り魔のように。
辻斬りにでも遭ったようだ、と静信は少女の消えた道を見守った。立ち上がる間も、呼び止める間もなかった。
「うん、そうだね」
遅ればせながら、静信は答える。
「……多分、知っていたと思うよ」
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4
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「へえ、弔い上げ? お婆さんの?」
|奈緒が言ったので、安森淳子は頷いた。丸安製材の材木置き場は広い。フォークリフトやとらっくのは夜陰の隅にに休んでいて、四方に材木の積まれた広場には|轍《わだち》の跡ばかりが残る。それに交じる細い轍跡は子供たちの自転車の跡だ。
製材所の材木置き場は子供たちにとって格好の遊び場だった。この近辺では、夏休みのラジオ体操は丸安製材の材木置き場でやると決まっていて、嫁の淳子はそれを監督しなければならない。早朝のことでもあり、辛くないと言えば嘘になるが、奈緒が付き合ってくれるので幾分、楽だった。
集まった子供たちは、体操が済めば製材所の始業時間まで遊んでいる。何しろ材木が積んであって、あながち危険でないとは言い切れない場所だから、子供がいる間は付き合わなくてはいけない。そうやってしょっちゅう出入りする場所だから、それだけ子供たちには馴染みが深いらしく、休日にも気軽に「貸して」と言ってやってくる。淳子や奈緒にも懐いていて、家の中から引っ張り出されることも再三だったが、そうして懐かれればこちらも情が移るから、さほどの苦でもない。
「なんだかね、大きな法事をするみたいなの」
「あら。それは大変ねえ」奈緒は言って、足許で木屑をいじって遊んでいる子供を見下ろした。「進ちゃん、それは痛イ痛イよ」
奈緒は息子の手から尖った木っ端を取り上げる。
淳子は昨年、この丸安製材に村外から嫁入りした。奈緒もまた村外から入った嫁だった。奈緒が嫁いだ安森工業――工務店と通称される――は製材所の分家で、奈緒の夫と淳子の舅は歳の離れた従兄弟に当たる。夫同士は同年配なので、兄弟のようだった。夫同士の仲が良いだけでなく、本家分家の仲だから、何かに付け行き来があった。盆正月や何事かがあれば、今日のように近辺の親族が丸安に集まる。
奈緒が安全そうな木っ端ばかりを集めて、子供の前に積んでやる。
「弔い上げだったら、うちにも話があるね。手伝いに来ないと」
「ごめんなさい、暑いのに」
「田舎じゃ、お互いさまよ。でも、それは淳ちゃん、大変だわねえ。八月の終わりって言ったら、お盆が終わっていくらもないじゃない。またこれを繰り返すわけね」
そうね、と苦笑して、淳子は明かりの点いた家のほうを振り返った。座敷のほうからは親戚が集まって大いに飲んでいる喧噪が流れてきていた。
「わたしの家はろくに親戚がなかったから、お盆にこれだけの人が集まるってだけで驚きだわ。法事なんてしてるのだって見たことがないし」
「そう? ここは、法事とか御神事とか、丁寧にするからね。お義母さんなんて、毎朝、お寺の勤行に行くのよ。最初にそれを聞いたときには驚いちゃった」
「わたし、お寺にはお葬式の時にだけ行くものだと思ってたわ」
「でしょう?」奈緒は笑う。「いろいろしきたりを覚えるのが大変だけど、慣れれば結構、そういうのもいいなあ、って思うな」
「そうね」
淳子は微笑む。近隣から嫁いできたものの、淳子が生まれたのはそこそこに町中で、親戚も遠いし、付き合いもない。家には仏壇すらなかったし、年中行事などもろくにやったことがなかった。かえってだから、こまごまとした行事があるのは興味深くて面白い。親戚が集まって騒ぐのも、疲れる反面、賑やかで良かった。特に夫と奈緒の夫を見ていると、同世代の親族がみんな兄弟のようなのはいいなと思う。
「弔い上げなら、近所の人も手伝ってくれるし、そんなに当日は大変じゃないわ。むしろ当日の前後がね。親戚が集まって大変だけど、まあ、こんなもんよ」
奈緒は言って、笑い声のしている母屋のほうに目をやった。淳子は笑う。
「だったら何とかなるか。お義母さんが大層なことのように言うから構えちゃった」
「大丈夫よ。淳ちゃん、しっかり者だもの」
「とんでもない」
「そう? 良くできた嫁さんだって。お義父さんが褒めてたぞ」
「ほんと?」
「本当。だって、大変じゃない。淳ちゃんとこ、製材所の世話だってあるし。住み込みの人もいるでしょ。おまけにお爺ちゃんが」
ああ、と淳子は呟く。夫の祖父はもう六年ほど枕が上がらない。家業の手伝いと老人の世話があり、義父母を含めて三世代の同居だから気苦労は多い。
「そんなでもないのよ。製材所の人の世話はお義母さん任せだし。お爺ちゃんは寝たきりで、そこは手がかかるけど、別に我が儘を言うわけでも癇癪を起こすわけでもないし」
「そういえるのが偉いわよね」
「奈緒さんだって似たようなもんでしょ。工務店の若い人だっているわけだし」
「うちは寮があるもの。べつに住み込みってわけじゃないから」
「そうお?」
妙に褒め合う案配になって、淳子は奈緒と顔を見合わせ、小声で笑った。
気苦労は多いが、家族はうまくいっている。近くには奈緒もいて、心強い。そもそも見合いで、同居は納得して嫁入りしたのだし、夫婦の居室は離れで台所は別にあるから、同居自体にはさほどの不満はない。ただ――とね淳子は背後を振り返った。
夜空に黒く、西山の稜線が横たわっている。今は漆黒より他に何も見えなかったが、そこには兼正の新しい家がある。
(あんな家に)
「ああいう洋館って、一回すんでみたいわよね」
心中を読んだような奈緒の声に淳子が振り返ると、奈緒もまた背後を見上げていた。
「――と言うか、自分の気に入った家って持ってみたいじゃない」
淳子はちょっと力を込めて頷いた。
「別に不満があるわけじゃないんだけど。でも、ここをこうしたいと思っても、勝手に家をいじるわけにはいかないし」
「そうなのよ。……いいよねえ、あの家、屋根裏部屋があるのよ。あたし、屋根裏部屋って憧れがあるんだ」
わたしも、と淳子は笑う。奈緒はいたずらっぽく淳子を見た。
「屋根裏部屋のある洋館なんて、映画化何かみたいじゃない。そういう所が嫁ぎ先だったら舞い上がっちゃうわね。絵に描いたような、理想の新婚生活、ってやつ?」