「きっとロッテンマイヤーさんみたいな、お姑さんがいるのよ」
「そんなものね」奈緒は声を上げて笑った。「――越してきたのよね、確か」
「みたいね。どんな人だか知らないけど」
「全然、出てこないんですって。さすがにこんな田舎に引っ越してくるだけあって、変わってるわ」
そうね、と呟いて淳子は黒い山を見上げる。そうしていると、奈緒が肘をつついた。
「――ん?」
「すごい。噂をすれば、ってやつからしら」
奈緒が示しているほうを見ると、ほど近いところ、材木置き場の表に人影が見えた。ちょうど入口の街灯の下、二人の男女が立っている。着ているものを見れば、村の者ではないと一目で分かる。そもそも纏っている雰囲気がまるで違う。淳子には、身なりもさることながら、二人が軽く腕を組んでいるのが印象に残った。そんなことをする者は、夫婦者だろうと村にはいない。淳子たちに気づいたのか、二人は軽く会釈をした。
「こんばんは」
これは深みのあるバリトンだった。
「あの……こんばんは」
奈緒が答えて子供を抱いて立ち上がり、淳子も何となくそれに続いた。
「兼正の方ですか?」
男のほうが言うと、女のほうが男を見上げて微笑む。
「竹村さんよ。ここでは兼正と言うんですって」
「そうです」奈緒が微笑んだ。「わたしたち、お宅の地所のことを、兼正って呼ぶのが習い性になってるんで」
ああ、と男は頷く。四十半ばだろうか。対する女は三十前後というあたりに見えた。淳子は少しどぎまぎする思いがした。洗練されている、というのだろうか。なにか作り物めいた――俗っぽさのない立ち居振る舞い。急に背後から聞こえる酔った歓声が気恥ずかしく感じられた。
「桐敷と申しますの。よろしくお願いしますね」女は言って、奈緒の腕の中に目をやる。小首を傾げて子供の顔を覗き込んだ。「まあ、可愛い。息子さんですか?」
「ええ。進っていうんです。わたしはあの、安森といいます。こっちは……いえ、彼女も安森で、この製材所の人なんですけど」
「御姉妹でいらっしゃるの?」
「いえ。うちは淳ちゃん――彼女の所の親戚筋です。安森工業といって近くの」
奈緒が言ったとき、また背後で笑い崩れる声がした。男は母屋のほうに目をやる。
「お盆なので。親族が集まっているんです」
「ああ、そうか。帰省シーズンなんですね」男は言って、妻のほうを見る。「みんな、こういうところに集まっていたわけだね」
「そうね。帰省する先がないと、置いて行かれるばかりで。実を言うと、あの人たちがどこへ消えているのか、不思議だったの」
「わたしもだ」
笑い合う夫婦を、淳子は気を呑まれる思いで見た。まるで若いカップルを見ているようで、気恥ずかしい。こんなに臆面もなく睦まじい夫婦は村にはいない。結婚すれば、すみやかに家族として組み込まれ、睦まじさは気安さに取って代わられてしまう。
「桐敷さんは、お子さんは?」
「娘がおりますの。もう十三ですわ」
「そんな大きなお子さんがいるようには見えないわ」
「ありがとうございます」
女は艶やかに笑う。淳子には何だか、別種の生き物を見ているような気がした。娘ではない、中年の女でも、どこかのお嫁さんでもない。男のほうもそうだ。四十を過ぎておじさんではなく男で有り続ける男というものを、淳子はこれまで想像できなかった。テレビや映画の中を除いては。
「あの……もし、よろしかったら」奈緒がおずおずと言う。「寄っていきませんか。御覧の通り、宴会の最中で、酔っぱらいばっかりなんですけど」
奈緒に肘で軽く小突かれ、淳子は慌てて言い添えた。
「そうです、どうぞ。うちの者も喜ぶと思うんで」
男は問いかけるように妻を見る。
「申し訳ないわ。せっかくご親族でお集まりのところなんですもの」
「いえ、あの、ぜんぜん」
男は淳子を振り返った。
「日を改めて伺わせていただきます」
「じゃあ、うちにもいらしてください」奈緒が|燥《はしゃ》いだ声を上げる。「工務店って言えば分かります。お嬢さんも一緒に」
男はふっと笑った。淳子は一瞬、どきりとした。その笑みは、どこか恐ろしげに見えた。訳もなく、自分たちが取り返しのつかないことを言ってしまったような気がした。
「ありがとうございます」
男は言って、まるで言質を取った、というように淳子と奈緒を見た。
「必ず、御挨拶に伺わせていただきます。……近いうちに」
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5
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「――兼正の?」
結城はクレオールのカウンターから、店に入ってきた加藤実の顔を振り返った。加藤は一之橋の袂で電気店を営んでいる。クレオールの常連の一人だが、今日の宵の口、加藤の母親と息子が兼正の住人を見たという。
「桐敷さんとおっしゃるそうです」
加藤は淡々とした口調で言う。その言動や風貌からすると、電気店の主人よりも理系研究者のように見える。
そうか、と結城は呟いた。挨拶まわりというわけではないだろうが、家を出てくることにしたのだな、と思う。
「どんな人だって?」
長谷川は軽く勢い込んだ。
「堂々とした方だったようですよ。役者みたいだった、と母は言ってましたが」
「……へえ。一昨日、兼正の若い人――辰巳くんだったか――に会ったけど、彼も感じのいい青年だったな」
「一昨日といえば、清水さんのところが大変だったそうですね」
「そうなんです。辰巳くんも手伝ってくれてね。無事に見つかって良かったですよ」
加藤は頷く。それきりグラスを手に、サックスの音に耳を傾けている。加藤は三十半ば、もともとそういうごく|穏和《おとな》しい、物静かな男だった。
「これで妙な誤解が解けるといいんですけどね」
結城が言うと、広沢は首を傾げた。
「妙な誤解?」
実は、と結城はあの夜、小耳に挟んだ悪意のある噂について話をした。
「せっかく越してきたのだから出ておいでなさい、と勧めた後だけに身の置き所がなくてね。辰巳くんも池辺くんも笑っていたけれども、内心は愉快ではなかったでしょう」
なるほど、と広沢は溜息をついた。店内には長谷川と加藤、広沢と結城の四人だけ、そもそも静かなところに憂うような沈黙が降りた。
「結束というものは、排他性と表裏一体のものですからね」広沢が自重するような調子で言う。「……けれども、それは申し訳なかったな」
長谷川も頷く。
「そうですねえ。それで村に降りてきたのかな。顔ぐらい見せておかないと、何を言われるものか分かったものじゃないから」
「だとしたら残念な話だ」
結城は首をひねった。
「けれども、わたしには不思議に思えるんですけどね。たとえばわたしや、兼正の住人が|胡乱《うろん》な目で見られるのは分かるんです。悲しいかな余所者というのは、そういうものでしょう。けれども池辺くんや若御院までがそういう目で見られるのはどういう訳なんでしょう。二人は寺を通して、村社会に組み込まれている訳じゃないですか」
広沢は苦笑した。
「普通は寺を悪く言う人はいないんですけどね。その連中は寺の檀家ではないんでしょう。下外場の新しい家の人たちかな。戦後に入ってきたような人たちですね」
「関係あるんですか?」
「それこそ、排他性の問題ですよ。旧外場の地縁社会というのがあって、これは結束が固いです。戦後に入ってきた家もありますが、そういう家は余所者として一旦、区別されてしまいますから、そういう人たちは自分たちを排斥した村社会に対して敵意を持つ。全てが、というわけじゃありませんが、やはり大なり小なり引っかかるものはあるでしょう。そういう人にとって、寺というのは的の首領に見えるんでしょうね。寺と兼正、そして尾崎を三役といいましてね、村の中心ですから」
「へえ」
「そもそも村は、この三役を頂点にして非常に固く結束しているんです。ですから新住民にすれば、これが敵の首領ということになりますね。このうち、兼正は外場に住む以上、自分たちの利益の代弁者ではあるわけだし、村長をやってた頃には恩恵にも浴していたわけで、敵意は割り引かれます。尾崎はもっとですね。みんな必ず世話になりますから。けれども寺は、檀家でなければ接点がない。敵視するには絶好の対象なんでしょう」
「そんなものですかね」
「特に若御院は、小説も書いてらして、そういう特殊な職業に対する偏見もあるでしょうね。気むずかしい変わり者に違いない、という。実際、村で総領息子で、三十を過ぎて独身というのは変わっています。特に若御院は一人っ子ですから、若御院に所帯を持ってもらわないと跡継ぎに困るわけで」
「ああ、そうですね」
「檀家も気にしているのだけど、若御院というのは、ひどく繊細なところがあって、無理強いはできない、というのがあるようですね。御院も結婚は遅かったし、本人も自分の立場は分かっているようだから、もう少し静観しておこうというのが檀家の本音でしょう」
長谷川が身を乗り出して声を低めた。
「あの噂は本当なんですか」
「――噂?」
「ええ。若御院が以前、その……自殺未遂をやったという」
広沢は苦笑した。
「らしいですね。わたしも噂でしか知りませんが。それで周囲もあまり強く縁談を勧められないんでしょう。なにかを無理強いして、またナーバスになられては困る、ということなんでしょうね」
なるほど、と結城は思う。寺の若御院は、村の中枢にいながら、副業とその経歴のために結城らとは別の意味で一種の異物なのだ。
「それでああいう噂になるわけですか」
「何よりも、寺に対する反感のほうが強いんでしょうけどね。寺――三役は村の中心でありながら、村の一部ではないところがあるので」
「よく分からないな」
「ですからね。恵ちゃんを捜索するときにも、尾崎の人間も寺の人間もいなかったでしょう。寺から池辺くんが来ていたけど、若御院や奥さんが来ていたわけじゃない。祭りなんかでもそうです。三役は村で祭りがあっても参加しないんですよ。伝統的に村から嫁取りもしないし、娘を村に嫁に出すこともしない。室井は村に一軒だけ、尾崎もそうです。そういう意味で、村の中心ではあるのだけど、隔絶されているんです。特別、偉いというか」
「偉い、ですか」
広沢は頷いて、北のほうを示した。
「北山の中腹に寺がありますね。そして西山に兼正、その間に尾崎」
「室井、兼正、尾崎と敷地の高さに段差があるでしょう。寺が一番高い場所にあって、病院が一番低い。これがそのまま、村における地位を示しているんです」
へえ、と結城は瞬く。
「医者が三番目、というのは不思議な気がしますね。いわば、村の人たちの生命線を握っているわけでしょう」
「そこが長い間の慣習ってものです。ここはもともと寺院の領地でね、そこに木地屋が入って村を拓いた。定住した木地屋のために、本山が窓口として置いたのがあの寺です。のちに寺院所領の解体があって、このあたりの土地は全部、本山から独立して寺のものになった。いわば村の者は寺から土地を借りている状態ですし、寺請制度のせいで全部が寺の檀家として組み込まれている。寺の坊さんに引導を渡してもらわないことには、死ぬこともできないわけです。昔は寺が役所の戸籍係も兼ねていたようなもんですから、寺は人の生死と土地――生活そのものを握っていたんですよ」
「ああ、なるほど」
「生まれてから死ぬまで、ずっと寺の掌の上です。だから最近はそう煩くも言いませんが、昔はそりゃあ、寺の威光は凄かったらしい。その土地は、兼正が一括して寺から借りて村人に分けていた。どこの家に田圃が何反、山が何町、と分与していくのは兼正の仕事で、兼正が土地に応じて賃貸料も分割し、取り立ても行うわけです」
「なるほど、それで寺が一番、兼正が二番なんですね。寺と兼正の機嫌を損ねたら生きていけないわけだ」
広沢は微笑む。
「そういうことになりますね。――まあ、それだけでもないんですが。外場には、ずいぶん近年まで、外場講という制度があったんです」
「外場講――日本史で習う、あの講ですか」
「そうです。兼正は講の代表者なんですね。土地は寺から講が借りる。それを講の代表者である兼正が村人に分配するわけです。賃貸料も分配、講を代表して年毎に賃貸料の交渉をするのも兼正の仕事です」
「ひょっとして、値切るわけですか」
「そうですね。兼正は体制側ではなく、あくまでも村人の側、講の代表なんです。そうやって取り決めた賃貸料を、兼正は取りまとめて寺に納める。寺は納められた一部を、御支度金として備蓄する」
「御支度金」
「ええ。これは村に災害や飢饉が起こったり、村を挙げての普請――土木工事なんかを行う際に、施徳金として無利子で講に貸し出されていたんです。村人はこれに対して、報恩金というものを納めて、頭割りで長期返済を行った。国道の下に堰がありますよね。水口堰といって農業用水を取り込むための施設なんですが、あれも江戸時代に御支度金で作られたものらしいですね」
「へえ……」
「ですからね、単に畏れられていただけではないんですよ。恩義というんでしょうか。寺と兼正はずっと二人三脚で村を支えてきた。御支度金で病院を建てて医師――を招いたのも寺と兼正です。溝辺町にもまだ病院なんかなかった時代の話です。寺が直接、村の者に土地を貸していてはこうはいかない。寺と村人の間に兼正という家があって、ずっと寺と相対して良好な関係を築いてきた、だからこそできたことだし、村はその良好な関係を基盤にして成立してきたんです。村の者はだから、寺や兼正に対しては未だに尊崇を捨てられないんですね」
「なるほど……」
「今ではもう、そういうこともないわけですけど、未だに公民館は三役の寄付でまかなわれていたり、外場校区の意志決定を区長会と三役で行っていたり、中心であることは変わりない。この場合の三役は、兼正でなく田茂の本家なんですけどね」
「はあ」
「昔は、室井、兼正、尾崎だったんです。村長である兼正が村議会の議決を取りまとめる、という方式ですね。兼正は議会の決定に対して賛成一票を持って三役の談合に臨むわけです。村長が一票、室井と尾崎も一票。室井と尾崎のどちらかが反対しても二対一で可決ですね。けれども室井と尾崎の両方がノーというと、二対一で否決されて議会に差し戻される。――まあ、実情はもっと話し合いというか寄り合いに近いことなんですが、そういうシステムではあったんです。今だと村議会ではなく区長会ですね。名称は変わってもシステムは同じです。やはり三役で最終的な意志決定を行う。兼正は今は村にいませんから、区長会の会長が兼正の代わりに三役に入ります。もともと兼正は村の代表者ですから、それで構わないわけですね」
「あくまでも講の体質を引きずってるんですね」
「そういうことですね。今でも三役会議というのが非公式にあります。多分に儀礼的なもので、実際に区長会の決定に対して、室井と尾崎がノーと言うことは、まずないんですけど、やっぱりお伺いは立てるわけです。村人を代表者が取りまとめて、寺と尾崎が上からこれに関与する。未だにそういう体制ではあって、そういう意味で、寺と尾崎は別格、兼正も単なる村の者とは一線を画す。だから村の中心なんだけれども、村の一部ではない、と言えるわけなんです」
「へえ」
「我々はね――旧外場の住民は、これを理屈じゃなく皮膚感覚のようなもので分かってるわけです。村のそもそもの成り立ち、歴史から培われてきた無条件の刷り込みがあるんですね。三役といえば別格で偉いんだ、という。ところが後から村に入ってきた人はそういう感覚がない。歴史を知らなければなおさら、何だって三役があんなに威張っているのか分からないということでしょう。特に新住民は檀家ではないから寺と接点がない。だから余計に寺が威張っているのが理不尽に思える。村は結束が強固で、ことあるごとに自分たちが区別されている感覚がある。排他性の頂点に寺がいるから、寺に対して、そこはかとなく反感が生まれる」
「なるほどな……」
長谷川が苦笑した。
「けれども不思議なものでね。そういう新住民というか、新しい人のほうが余所者に対する当たりがきついんですよ。もちろんどちらの陣営にも例外はあるんですが、概して古い家のほうが余所者に対して鷹揚ですね。区別はするけど露骨な差別はしない。新しい人のほうが露骨なんですよ」
へえ、と結城は瞬く。加藤が静かに口を挟んだ。
「有機体のようでしょう」
一言だったが、それは結城の村に対する思いを、うまく表現しているように感じた。
「そうですね。……本当にそうです」
村はそれ自体が、ひとつの有機体のように存在している。複雑な成り立ちがあり、その内部では様々なシステムが|蠢《うごめ》いている。変化を繰り返しながら増殖し分裂し貪蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」と同型。Unicodeに該当なし]し代謝し、総体としての存在を維持する。――生命活動のように。
結城はふと、これで良かったのだろうか、と思った。一年以上、外場にいて、余所者として区分されている自分たちに歯がゆい思いもした。それでも外場に越してきたことを後悔したことはかなったが、やっと村に馴染み始めた今になって、初めて村社会の得体の知れなさに触れたような気がした。
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新しい原稿用紙を机の上に広げて、静信は軽く上体を反らした。祖父の代から使っている椅子は夜の静寂に溜息のような軋みを落とす。ぼんやりと古びた木目の天井を見上げていると、茫洋と視線は過去に向かってさまよい、一つの言葉に突き当たった。
――いったい、何があったんだ?
(何も……)
――理由を訊いてもいいか?
(理由なんか、なにも)
思いながら、鉛筆を手の中で弄ぶ。固い芯の先は切っ先のように尖っている。
小説を書き始めた当初、何となくペンで書くものだという思い込みがあって慣れない万年筆を使っていた。その夏にはインクの滲みに辟易して鉛筆に変えた。寮の部屋は、原稿用紙の上に置いた左手の熱気で紙が波打つほど暑かった。屈み込んでいるだけで際限なく汗が落ちて、黒いインクを茶と青の|暈《ぼ》かしに変えた。
短編を一つ書くごとに鉛筆の芯を薄く固くしていったのは、鉛筆の粉でどうしても原稿用紙が汚れるからだ。芯の固さを変え、鉛筆のメーカーを変えて、今のものに辿り着いた頃、卒業した先輩が寮に遊びに来た。出版社に入っていた|津原《つはら》は、静信の原稿を持ち帰り、改めてやってきて書き直しを命じた。言われるまま、何度直しただろうか。何度目かに津原は原稿を持ち帰り、その夜、電話がかかってきた。出すから、と言われて、何のことだか分からなかったのを覚えている。
――お前、プロになりたくて書いてたわけじゃなかったのか?
あの時の会話を思い出すと、今も苦笑が漏れる。別に作家になろうなどと思っていたわけではなかった。
――だったら、何でいちいち、こっちの言うとおりに直すんだよ。
直したほうがいいと言われたからだし、次に訪ねてきたときに津原が「直したか」と訊くので手を入れた原稿をそのたびに見せていたにすぎなかった。
――呆れた奴だな。
津原の声は、寮監の村松の声に重なる。
――自分のことなんだから、分からないはずがないだろう?
(今もよく分からない)
静信は引かれるように原稿用紙の上に置いた左手を見た。安物の無骨な形の腕時計。それをそもそも身につけるようになったのは、もちろん、そこにある傷痕を隠すためだった。今はもう白い線のようにしか見えない損傷、それでも時計を外せば、自分でも時折、ぎょっとするほどの傷ではあった。
――酔ってたわけじゃないだろう。ほとんど飲んでなかったと聞いているぞ。
(酔っていた覚えは、確かにない)
――口にしにくいなら、手紙でも何でもいいから。
自分の心情を探るつもりで書き始めた文章は、いつの間にか横滑りを繰り返して混沌ととしたものになった。村松に渡すと、村松は心底、呆れたようだった。
――何が言いたいのかさっぱり分からない。これは小説じゃないのか?
言われて読み直してみると、それは確かに小説に似ていた。それで次には、最初から小説を書くつもりで書いてみた。それはあまり趣味というものに縁のなかった静信の、唯一の趣味らしい趣味になった。
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なぜだ。なぜ、こんなことを。
何故に自らこのような罪を
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なぜだ、と様々な人に問われたが、静信には答えられなかった。実を言うと、自分でも理由を知らなかったからだ。無理にも言うなら、そうしてみたかった。それしかない。大学の二年生、年末のコンパの席上だったと思う。突然、そういう気分になった。漠然と、それだけでは死なないと分かっていたが、死ぬ死なないはあまり重大ではなかったと思う。早々に飲み会を辞去し、寮に戻って風呂場に行った。忘年会のシーズンでもあり、帰省のシーズンでもあったので、共同の風呂場は無人だった。そこで淡々と自分を切り裂いた。
実際のところ、どう考えてみても静信には、自分に死に憧れるほどの何かがあったとは思えなかった。特に不満はなく、自己嫌悪があったわけでもない。手首を切ったぐらいのことでは人は死なないことを理解していたのだから、本当に死にたいわけではなかったのだろう。その時の静信にとって意味を持っていたのは行為の結果ではなく、その行為自体だったのだという気がしている。死にたかったのではなく、死のうとしてみたかったのだとしか思えないのだが、その衝動の由来は未だによく分からなかった。
腕時計の下、覆ってもその傷痕は明らかだ。村の者はみんな知っている。だから、これを見て見ぬふりをし、静信もそれにいつしか慣れていた。いつの間にか、それが人には見えないもののように感じていたのだと思う。
(……嫉妬ではない)
静信は鉛筆を握る。
彼もまたなにかに憑かれたのだ。突然、殺意は降って湧いた。
(いや)と、静信は呟く。彼はそうしてみたかっただけだ。殺意すらないまま、弟を殺した。(……そのほうがいい)
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灰色の石に封じ込められた広間は、端々に|黄昏《たそがれ》と薄暮が立ち込めるほどに広く、空虚だった。飾り一つなく|鈍色《にびいろ》が堆積するだけの空洞の一郭、よほど高いところに色ガラスの窓があって、そこから斜めに光が射し込んでいた。
陰鬱な色を帯びた光は白い麻布を輝かせていた。冷えた石畳の上に広げられた麻布がゆるやかに起伏を描くのは、その下に彼の弟の亡骸が横たわっているからだった。
賢者と彼は、弟の亡骸を挟んで対峙していた。しかしながら、彼は麻布の幽光から目を逸らすことができず、そこに光が射しているからこそいっそう濃い薄闇に、一人取り残されたような孤絶を感じていた。
――何故、このような罪を。
薄暮の中から賢者は訊いた。しかしながら、彼はそれに答えられなかった。何故なら、彼自身、自分が弟を殺した理由を知らなかったからだ。
何故、と問いたいのは彼のほうだった。
ただ一人の肉親、穏和で慈愛深く、さながら光輝の具現であったかのような彼の同胞。彼は真実、弟を愛していたし、弟との暮らしを好ましく思っていた。彼は弟を屠らねばならない、いかなる理由も持たなかった。にもかかわらず、彼は弟に向かって凶器を振り上げたのだった。
それは衝動のように彼を襲った。誓ってそれは弟に対する殺意ではなかった。けれども彼の振り上げた凶器は、結果として確かに弟を死に至らしめたのだ。
その弟は屍鬼になって荒野に彼を追う。空疎な視線は、常に何故、と問いかけているようだった。彼は殺意の由来を明らかにし、自己を正当化して弟を責めるなり、あるいは自己を弁護して許しを乞うなりしなくてはならなかったが、そのどれをも、彼はできなかった。ただひたすら一瞬の衝動を憎み、弟の死という結果を嘆くしかなかった。 ――そんなつもりではなかった。
決してお前が憎かったわけではない。
お前に死んで欲しかったわけではなかった。思い知らせてやりたい何かがあったわけでもなかった。
赦してくれ、と彼は呻いて曙光の中、凍えた荒野に膝をついた。弟の返答は、もちろん、ない。
風音の合間に幻聴を探しながら、彼はようやく眠りについた。
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八章
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敏夫は十五日、月曜の早朝に一本の電話で叩き起こされた。眠い目をこすり、不承不承取った電話の向こうで、|狼狽《うろた》えきった女の声がした。何かを喚いているが、なんと言っているのか、よく分からない。
「誰だか知らないが、落ち着いてくれないかな」敏夫は欠伸を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み殺す。やれやれ、という気がした。せっかく盆休みで、早朝の診療から解放されているというのに。「――落ち着いて。こっちの訊くことに答えてくれ。あんたは誰だ?」
清水です、というせっぱ詰まった声が聞こえた。半ば泣きながら悲鳴を上げるようにして訴える声。
「清水――」敏夫は急速に覚醒するのを自分でも感じた。「清水さんの奥さん? 恵ちゃんに何か」
女は電話の向こうで泣き崩れた。悲痛な声で、とぎれとぎれに言葉だけが聞き取れる。恵、息、死、揺すっても。
「今から行きます、十五分以内。いいですね?」
強く言って、返事を待たずに敏夫は受話器を置いた。要領を得ないが、恵の容態が急変したことだけは間違いがない。
取るものも取りあえず自室を出ると、不審そうな顔をして孝江と恭子が顔を出していた。
「なにごとなの?」
「容態が急変したらしい。清水さんとこの恵ちゃん」
まあ、と孝江は絶句した。恭子は面白くもなさそうな顔で欠伸をひとつした。
「行ってくる」
夜着を脱ぎながら廊下を洗面所に向かって小走りに行く敏夫を、孝江は眉を|顰《ひそ》めて見守った。
洗面所からは慌ただしい物音がしていた。恭子はもう一度欠伸をし、階段を昇っていく。その背に、孝江は声をかけた。
「着るものくらい、揃えてやってちょうだいね」
恭子はキャミソールからむき出しの足を止める。階段の途中から孝江を見下ろした。
「ご心配なく」
揶揄する響きを感じ取って、孝江は険を込めて恭子を見上げる。こんなふうに言って、一度だってちゃんと送り出してやったことがないのだ、この女は。
「急患が来ることだってあるんだから、飛び起きたときにも人様にお見せできる格好をしていてもらわないと困りますよ。暑いかもしれないけれど――」
孝江の言葉はぴしゃりと叩き落とされる。
「わたしは別に困りませんから」
言って、片手に腰を当て、もう一方の手を手摺りに突く。すらりと白い足が演技的な仕草で組まれた。孝江は顔に血が上るのを感じる。
「冗談じゃありませんよ、そんな」
「駆け込んできたほうだって、こっちの寝込みを襲ったことぐらい分かってるんだから、大目に見てくれるわ」
「恭子さん――」
言いかけた孝江を、敏夫が押しのけた。
「母さん、どいてくれ」
恭子がくすりと笑みを漏らし、孝江は頬が紅潮するのを感じた。その場の二人の様子には気づかない様子で、敏夫は階段を駆け登っていった。恭子はそれに声をかける。
「ねえ、わたし、すごく眠いの」
敏夫の声は明瞭だった。
「構わなくていい。寝てろ」
恭子は勝ち誇ったように孝江を見下ろし、これ見よがしに伸びをして階段を昇っていく。孝江は少しの間、感情を持て余してその場に立ち竦んでいた。
髭を当たる間も惜しんで敏夫が清水家に駆けつけたのは、受話器を置いてから十分と少しが過ぎてからのことだった。診察鞄を提げて車を降り、玄関に駆けつけると、それを待っていたように玄関のドアが内側から開いた。寝間着姿のままの寛子が泳ぐようにして敏夫に縋りついてきた。
「恵が――恵」
泣きながら頷く寛子の肩を叩き、勝手に上がり込んで二階へと駆け上がる。ぬいぐるみの下がったドアは開いており、中には呆然と立ちつくす清水の姿が見えた。
「清水さん」
敏夫が声をかけると、清水は敏夫を振り返る。さっと顔色が変わるのが見えた。一瞬、清水は憤怒の表情を露わにし、それを恥じるように顔を背けた。敏夫が部屋の中に入ると、ちょうどドアの陰のあたりに、清水の実父、|徳郎《とくろう》が坐り込んで顔を覆っていた。敏夫は静かに深呼吸をする。
――おそらくは、最悪の事態だ。
実際のところ、部屋に踏み込んでベッドのほうに目をやるや、その予想が外れてはいなかったことを悟った。ベッドに横たわった少女は、顔の筋肉が弛緩して相好が変わって見える。これは、死んでいる。それも、ついさっきというわけではあるまい。
寛子が恵を呼びながら階段を昇ってくるのを耳で捕らえつつ、敏夫はベッドの脇に鞄を下ろした。とりあえず、タオルケットの上に投げ出された手を取ってみる。それはいかにもひんやりとして、生物の暖かさ、柔らかみを失っていた。
黙って脈を探る。全く脈は触れない。頸部を探ってみても、拍動なし。薄く閉じた瞼の下、瞳孔も散大している。鞄を開け、聴診器を取り出し、緩い襟ぐりの下に忍ばせてみたが、まったくの無音。呼吸も心拍も、完全に停止している。敏夫は息を吐いて聴診器を外した。
「――やっぱり、死んでいるんですか」
背後からかけられた清水の声は、何かを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み砕こうとするようにくぐもって聞こえた。
「死亡しています」
そんな、と寛子の声がした。
「だって先生が、恵は貧血だっていったじゃないですか。単なる貧血だって、そう――」
「やめないか」清水が低く怒鳴った。「若先生を責めるんじゃない。お前はお爺ちゃんを連れて行って面倒を見てやれ」
「でも」
「行くんだ」
敏夫が振り返ると、寛子が嗚咽しながら徳郎の腕に手をかけるところだった。顔を覆った徳郎を引き立たせ部屋の外に促す。抱きかかえるようにして部屋を出ながら、寛子は敏夫に恨みを込めた視線を投げて寄越した。
敏夫は深い息を吐いた。
「おれがこれを言うのもどうかと思うが、お悔やみを言います」
「恵はなぜ死んだんですか」
「それは調べてみないと分からない」
言いながら、敏夫は恵と寝床の周辺に目を向ける。着衣の乱れもなく、夜具にも乱れがない。四肢は穏やかに投げ出されたまま、少なくとも恵は苦しまなかったのに違いない。
「単なる貧血で、人が死ぬものなんですか」
清水の声は、精一杯、恨みがましい声音を押さえ込もうとしていたが、あまり成功はしていなかった。
「貧血が、何らかの不具合から来たものであってた場合、そういうこともあり得ます」
「何らかの不具合――」
敏夫は座ったまま振り返り、仁王だった清水を見上げた。
「貧血というのは症状の名前であって、病気の名前ではないんです。単に貧血だけが起こることもあるが、身体のどこかに不具合があって、そのせいで貧血が起こることもある。普通、そういう場合はそれなりのサインがあるものですけどね」
「恵はそれだったというんですか」
「分かりません。こればっかりは検査してみないことには何とも言えない。せめて先日採取した末梢血を調べれば、何か分かるかもしれませんが、あいにく検査結果がまだ出ていないんです。ちょうど盆休みにかかっていたもので」
「盆休み……」
清水の呻くような声音に、敏夫は息を吐く。
「おれは言葉を飾るのが嫌いです。ましてや清水さんとは知り合いだから、余計に言葉を飾りたくない。先日、伺ったときに恵ちゃんの血液を採取しました。それは検査に出してある。結果はまだ来ていません。ちょうど検査所が盆休みだったもので。もちろん、急いでもらう手がなかったわけじゃないし、最低限の検査だけでも自分でやる方法がなかったわけでもない。しかしながら、急ぐ必要があるとは、少なくともあの時点では思えなかったんです」
「身体の不具合から貧血が起こることがあるんでしょう。その可能性があると分かっていて?」
「可能性があることは承知してしましたが、恵ちゃんの場合はそうとは思えなかった。――単なる貧血だとしか思えなかったんです。そうでない可能性があることは分かっていたから末梢血を検査に出した。しかし、検査を急ぐ必要があるとは思わなかった。急ごうと思うほど恵ちゃんの状態は悪くなかったからです。急死するほど重大な不具合があれば、必ずそれなりの症状が出ます、貧血以外にもね。他にも重篤な症状があれば、検査を急がせるまでもなく、救急車を呼んで国立病院なりに運ぶよう言いましたよ。だが、そんなふうではなかったんです。単なる貧血のように見えたし、もしそれが単なる貧血ではなかったとしても、検査結果を見て再検査をして、そうやって原因を突き止めるぐらいの余裕は十分以上にあるように見えた」
「では、なぜ恵は死んだんですか」
「おれにとっても不足の死なんです。ここで簡単に死因の予測がつくようなら、そもそも単なる貧血だろう、なんてことは言いませんよ。――実際のところ、おれがいちばん驚いている」
先日診察したときには、確かに貧血以外の症状は、これと言って見られなかった。格別の既往症もない。恵は些細な不調でも大騒ぎするタイプの少女で、しかも詐病する傾向があった。あちこちの調子が悪いと言っては何度も診察に来たけれども、実際に病因が見つかったことはない。――それとも、これが予断になったのだろうか。