静信は瞬いた。
「きみは元気そうに見えるよ」
「元気なときはね。――そりゃあ、お医者さまが付きっきりで診てくれているんだもの。家にお医者がいるの。でも、寝てることも多いわ。半々というところかしら」
「そうか……」
昼間に出歩くことのできない少女にとっては、夜は眠る時間ではなく、外の空気を吸える時間帯なのかもしれなかった。沙子が異常に早熟なように見えるのも分かる。きっと家の中で、本当に書物に耽溺するようにして過ごしているのだろう。
沙子はベンチに座ったまま、スカートの裾から出た左右の足を交互にぶらぶらさせている。それがいかにも幼いふうで、にもかかわらず難病と呼ばれる病に冒されているのだと思うと不憫な気がした。それは恵に対して感じる憐憫と同種のものだ。
「けれども、とりあえず半分とはいえ元気そうでよかった。大変だろうけど」
「室井さんが落ち込むことはないわ」
沙子に言われて、静信は苦笑する。
「別にそういうことじゃないよ。――今日、村で若い女の子が死んで」
「……まあ」
「きみより年上だけどね。本当に突然に、呆気なく。そうだね、これはとても無責任な言い方かもしれないけれども、彼女も年の半分、寝込んでいてもいい、生きていたかったろうと思うんだよ」
「室井さん、その人と親しかったの?」
「特に親しかったというわけじゃないけど、檀家だからね」
「変なの」
静信は沙子を見返した。沙子は小首を傾げて静信を見上げる。
「すごく親しかったのなら、室井さんが落ち込むのも分かるけど。それとも室井さんは檀家の人の全部に対してそんなふうなの?」
「いや……どうかな。ただ、彼女はとても若かったから。高校一年だったんだ、まだ」
「ロマンティストなのね。――おセンチというか」沙子は言って立ち上がり、スカートの埃を払った。「まるで、若い人が死ぬことは、特別、酷いことだと思ってるみたい」
静信は軽く口を開けた。
「酷いことだと、思わないのかい?」
沙子は振り返る。勝ち気そうに静信を見た。
「死は誰にとっても酷いことなのよ。――知らなかったの?」
静信は言葉に窮した。
「若くて死のうと歳を取ってから死のうと関係ないわ。善人だろうと悪人だろうと同じよ。死は等価なの。特別に酷い死も、酷くない死もないわ。だからこそ死は恐ろしいの」
死は等価、と静信は呟いた。
「若いとか年老いてるとか、日頃の行いがどうだとか、そういうことはその人が生きている間だけしか意味を持たないのよ。年齢も個人のパーソナリティーも関係がない、来るときは来るんだし、そうやってその人が拠って立つところを全部、無意味なものにしてしまうから、どんな死も酷いことなの。違う?」
静信は頷いた。
「わたし、もう帰らないと。――またここに来ても構わないかしら?」
「それはきみの自由だと思うよ。夜の山道は危険だから、ぼくは勧めないけどね」
「人の半分しか自由でないんだもの、多少の危険ぐらいじゃ諦める気になれないわ。室井さんはここに頻繁に来るの?」
「頻繁というほどでもないけどね」
「そう? じゃあ、今度からは本を持ってくるわ。もしも会えたらサインをしてもらえるかしら」
静信は微笑んだ。
「構わないよ」
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
「ああ、先生」
敏夫が物療室から出て受付の前を通りがかると、カウンターの中から武藤が声をかけてきた。
「清水さんとこのお葬式ですけど、どうしますか」
敏夫はわずかに渋面を作る。
「ああ……何時からだっけ」
十一時ですよ、と答えた武藤もまた敏夫同様、クレオールで何度も顔を合わせているから清水とは知らない仲ではない。
「武藤さんも行くのかい」
「そうさせてもらうつもりですけどね。まんざら知らない仲でもないんで。お通夜は失礼しましたけど、お葬式ぐらいはねえ」
そうだな、と敏夫はひとりごちる。敏夫もいくつもりではいる。ただ、通夜の時のことを思うと、いかにも気が重かった。徳郎の責めるような目、寛子の言外に避難を含ませた物言い、そして清水武雄の自制の透けて見える態度。清水家の人々が敏夫を責めたいのは分かる。無理もないだろうとは思うが、なまじ知らない仲ではないだけに、いたたまれなかった。
敏夫は一つ息を吐いて、じゃあ、もう少ししたら出るか、と武藤に声をかける。武藤が頷いたとき電話が鳴った。事務の十和田が受話器を取り、応対をしてから敏夫を診る。「丸安製材です」と、十和田は受話器を押さえた。「安森の|義一《ぎいち》さんの様子がおかしいって」
「おかしい?」
敏夫は受付に入って受話器を受け取る。丸安の|厚子《あつこ》の声がした。
「義一さんですか? どうしました?」
丸安製材の安森義一は、重症のパーキンソン病で長く寝たきりが続いている。高齢でもあり、いつ何が起こってもおかしくない状態だった。
「意識がはっきりしないようなんです。呼んでも返事をしませんし、呼吸も浅くて速いです。顔色も少しずつ赤黒くなっているように思うんですけど」
厚子は長年の看護のせいか、もの慣れた口調で状況を説明した。ここ二日ほど微熱があったこと、今朝からひどく血圧が下がっていること、胸に耳を当てるとラ音がすること、数日前に|誤嚥《ごえん》を起こして処置したこと。
「すぐに行きます」
酸素マスクを付けさせるよう指示して敏夫は受話器を置いた。敏夫を見守っていた武藤に軽く苦笑してみせる。正直に言って、少し救われた気分がした。
「悪い。義一さんの容態がおかしい。済まないが、おれのぶんも香典を持っていってくれるかい」
「ええ、それはもちろん」
「清水さんによろしく伝えておいてくれ」
敏夫が鞄を抱えて道路を渡り、斜め向かいにある丸安製材の自宅に駆け込むと、厚子と嫁の淳子が待っていた。
「容態はどうです」
「指示通りに酸素を入れてますけど、変わりません」
厚子はいう。義一の患いは長い。丸安の家族はよく勉強もし、こまめに面倒を見て、自宅介護のために理想的な環境を作り上げていたが、義一の状態はじりじりと悪化していた。
「ラ音がする?」
「湿ったラ音がしてます。失禁もしてるみたいで、前に肺炎を起こしたときとよく似てるんですけど」
敏夫は廊下を奥座敷に向かいながら頷く。そもそも義一にはパーキンソン病から来る嚥下障害があった。誤嚥を起こしやすく、家族もそれを理解していて誤嚥の処置も心得ていたが、数日前に誤嚥があったのなら、嚥下性肺炎の疑いがある。
病室になっている奥座敷に入り、義一の姿を見て敏夫は頷いた。チアノーゼの傾向が出ている。酸素吸入に効果がない。肺炎から来る九世呼吸不全だろう。
敏夫は義一をざっと診察し、厚子に救急車を呼ぶように指示した。嫁の淳子が病室の電話に駆け寄る。敏夫は厚子を廊下に手招いた。
「厚子さんの言う通り、肺炎だろうな。病因に運んでレントゲンを撮ればはっきりするが、それよりも早く人工呼吸の処置をしてもらったほうがいい。ひょっとしたら気管切開が必要になるかもしれないよ」
厚子は硬い表情で頷く。何かを問いかけるような表情を汲んで、敏夫は頷いた。
「このところ、病状も下り坂だったし、体力も落ちてる。今回はちょっと覚悟をしておいたほうがいいかもしれないな」
はい、と厚子は頷いた。
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
「かおり、お数珠はあるね?」
「……うん」
かおりは頷きながら、恵のお葬式、と何度も頭の中で考えた。信じられない。お葬式というのは、必ず年寄りのものじゃなかったのだろうか。かおりには関係のないことだ。母親と父親だけが行って、かりは留守番、それが葬式というものだ。なのに、かおりが行かないといけない。母親は一通り世話を焼いて、家を出て行った。弔いの手伝いがあるのだ。
かおりはそれを見送って、弟の昭と一緒にテレビを見た。昭に付き合って居間に坐ってはいたけれど、少しも番組の内容は頭に入ってこなかった。普通の番組をやっている、とひどく奇妙な気がした。なんだかとても、そぐわない気がする。絵も音も、所在なく意識の表面を滑って捕らえどころがなかった。
「なあ、かおり」
昭の声に、うん、とかおりは生返事をした。
「なんか、変だよな」
「何が」
「山入で三人もいっぺんに死んだんじゃないか。それ、ついこの間のことだろ。そんでもって、今度は恵。――恵、こないだまで元気だったじゃないか。それが、こんな急に」
「そうね」
「事故でもないのにさあ、いっぺんに死ぬかなあ、三人も。恵だってそうだろ。事故だとか、ずっと入院してたとかなら分かるけど」
かおりは昭のまじめくさった横顔に視線を向けた。
「……でも、実際に起こったことじゃない」
「そうなんだけど」と、昭はテレビの画面を見やったまま言う。「なんか、変だよ」
かおりは返事をしなかった。そういうこともあるんじゃないの、と受け流すことができなかった。かおりにはずっと、これはあってはいけないことだ、という気がしている。こんなふうに簡単に誰かがいなくなってしまうなんて。ましてや、それにもかかわらず、いつも通りのプログラムが放送されて、こんなふうに自分と弟が茶の間に坐り込んでいて、どこかの誰かと同じようにお通夜があってお葬式があって――まるで何もなかったように、特別なことでも重大なことでもないかのように扱われるなんて、絶対に間違っている。
けれども、かおりにはそれをうまく表現できなかったので、黙って頷くにとどめた。
何かが、おかしい。
思いながら、番組が終わったので立ち上がった。
「……行ってくるから」
かおりは制服のしわを伸ばして、小さなポーチを持って家を出る。きっと自分は、九月に制服を着ると嫌な気分がすると思う。
外に出ると、今日も上天気だった。ぽかんと青い空と、白い光。アスファルトは照り返しで眩しい。それで目を細めて、とぼとぼと歩いた。毎朝、通い慣れた道。恵を誘うために何度も何度も歩いた道のり。なのに、当の家に着くと、知らない家のように見慣れない。花輪と白黒の幕。門柱脇のテント、道に集まった、たくさんの人。その人々もみんな白と黒だ。
なので、少し前にいるグレイがかったズボンはひどく目立った。白と黒の中に立った、白いシャツとグレイのズボンの制服の、ひょろりとした姿。すぐ隣に白と薄青の制服を着た女の子がいたので、いっそう目立った。
(お葬式に来てくれたんだ……)
ほんの少し、嬉しかった。糊の効いた真っ白なシャツと、折り目のすっきりと通ったズボン。同じような制服を着ていても、彼の場合、何となく違う。都会の男の子はみんなあんなふうなのかしら、と思う。彼のすぐ側に、白と黒の制服を着た男の子が立っていた。彼とその男の子と、似たような髪型なのに、どことなく違って見える。かおりには、どこがどう違うのか、分からない。
(よかったね、恵)
心の中で呟いて、近所の主婦に入るよう促されるまで、かおりはその姿を見つめていた。
かおりが残暑見舞いのことを思い出したのは、焼香が済んでからのことだった。読経は続いているが、座敷に詰めかけた弔問客は大半が焼香を済ませると外へと出て行く。かおりは座敷を出る人の波をかいくぐって玄関に向かった。玄関を入ってすぐの階段は、白と黒の幕でふさがれている。その前には机があって会葬御礼が積み上げてあり、とても上に行けるような状態ではない。
(どうしよう)
慌てて玄関を出ると、家の前は出棺を待つ人たちが淀みを作っている。そのはずれに見つけた夏野は、隣の少女と話をしていた。朝に時折、見かける顔だ。夏野と話をしているのも何度か見たことがある。確か、彼の近所の少女じゃなかっただろうか。武藤|葵《あおい》、と言ったと思う。恵が安心したように夏野の二級上だ、と言っていたのを覚えている。
(どうしよう……)
もう一度、かおりは玄関のほうを振り返った。白と黒の幕、そこに列を作る白と黒の人。日を改めて届けようにも、かおりは夏野の家を、おぼろにしか知らない。
かおりは軽く息を吸って、人波をかき分け、夏野のほうに向かった。
「あの……結城さん、ですよね」
おずおずと声をかけると、夏野は軽く眉を顰めた。だけど、と答えた声は素っ気なかった。
「あたし、田中かおりって言います。恵の幼なじみなんです」
「ふうん」
声が上擦るのを、かおりは自分で意識していた。
「あの、済みません。どうしても渡したいものがあるんです。明日、どこかに来てもらえませんか」
側の青年が夏野をつついた。
「夏野、もてるじゃないか」
「なんだよ」青年を睨んで、彼はかおりを見る。「渡したいものって何」
「あの、……それは。あたしじゃないんです、恵が……恵から」
「なんだよ、それ」夏野は険のある表情を作った。「単に親同士が知り合いだから連れてこられただけで、おれ、べつに清水と親しかったってわけじゃねえし。何かもらう謂われ、ないから」
「でも……」
かおりが言いさすのを無視するように、夏野は傍らの青年を振り返った。
「行こうぜ、徹ちゃん。ここ、暑いよ」
「でも――出棺が」
青年は夏野とかおりを見比べるようにしたが、夏野のほうはお構いなしだった。
「別にいいんだろ、無理に見送らなくても。埋葬に立ち会うほどの義理もねえし、日陰もないのにいられねえよ、こんなとこ」
投げ遣りに言って、夏野は青年をつつく。かおりのことなど忘れたように笑った。
「氷、奢ってくれるんだろ?」
「夏野、いいのか?」
背後を振り返りながら保が訊くと、夏野は保を睨む。保は両手を挙げた。
「分かった。結城小出。――あれ、誰」
「知るかよ」
「いいのか、あんなすげなくして。渡したいって、それ遺品の話じゃねえの」
「貰う謂われ、ねえもん」
「お前になくても、向こうにはあるんだろ。だからわざわざ呼び止めたんだろうに」
「おれ、清水、嫌いなんだよ」
葵が呆れたように夏野を見た。
「ナツって、最低」
「ほっとけ。すっげえ絡んで、鬱陶しかったんだよ」
「死んだ子にそこまで言う?」
「そんなこと言ったって、おれ、本当に付き合い、ないんだってば」夏野はふてくされたように葵を見た。「別に葬式だって、来る謂われもねえのに、親父が行け行けって煩いし、お前らも一緒に行こうってやかましく言うから、ついてきただけじゃないか。その程度の付き合いなんだよ、最初から」
「でも、遺品を渡したいって、いわば形見分けでしょ。ありがたく貰っとくのが礼儀ってもんよ」
「お断り。良く知りもしないのに、遺品なんか貰ったって、気味が悪いだけだろ」
保が大仰に肩をすくめた。
「お前って本当に好き勝手に生きてるな」
「んじゃ、保っちゃんなら、受け取るのか」
「受け取るぐらいは受け取るぜ。後で捨てるかもしんないけど」
「どっちが最低なんだか」
徹は溜息をついた。
「お前らって、本当に餓鬼だな」
なんだよ、と凄む二人に、徹は苦笑する。
「まあ、いいから。氷食いに行こう。たしかに暑くてたまんねえ」
[#ここから5字下げ]
6
[#ここで字下げ終わり]
かおりは唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みながら、山道を登った。
目を上げると、行列の先のほう、白い布をかけられた棺が粛々と山道を登っていく。樅の梢が落とす陰鬱なほど蒼い影、真夏の熱波からは遮られているかわりに、荒く下生えが刈り払われた間に合わせの山道には、土と草の匂いが濃厚に立ち込めていた。
――恵が樅の中に吸い込まれていく。
(恵……)
かおりは数珠を握りしめた。あまりに早い死。思い残すこともあっただろう、どんなに無念だっただろうかと思う。それを思うと、冷淡に背を向けて去っていった夏野が恨めしい。思いを込めたものだから、渡してやりたかった。きっとどんなにか投函したかっただろう。なのに。
(……酷い)
恵は死んだのに。もう、いないのに。とてもとても可哀想なのに、夏野は少しも恵を哀れだと思っていない。――夏野ばかりではない。
かおりは周囲を登っていく大人たちの小声に耳を向けた。突然の死、あまりに若い、清水さんも可哀想に、そもそも何だってこんな急に、あんなに元気そうだったのに。
それから横滑りしていく会話。どこそこの誰かも子供を亡くして、自分の知っている誰かの家では。恵とは無関係な誰かの噂話、そして山入の話。死とは関係のない単なるゴシップ。そこから唐突に、恵の上に話題は引き戻される。そもそも盆前に行方知れずになって、あの時、何があったのか。そこからもう、聞くに堪えない囁き。何かあったに違いない。もともと浮ついたところのある娘だった、いつかはこんなことが。
(酷いよね……恵)
誰も恵の死を悼んでいない。恵は死んでしまったのに、こんな扱いを受けるなんて。
行列の先頭が止まった。俯いて唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んでいたので、かおりはそれに気づかず、もう少しで前を行く女の背中にぶつかるところだった。
樅の間に、細長く草の刈り取られている場所があって、そこには土の表面に黒々とした穴が口を開いていた。
かおりは、ぞくりとした。恵を吸い込む穴だ。恵はあそこに入れられて、埋められて、この世からかき消されてしまう。樅の林の中には無数の墓穴があって、これまで死者を呑み込んできたのだし、これからも呑み込んでいくのだろう。そしてやがて、かおり自身の番が巡ってくる。
(……やがて?)
恵だって、「やがて」と思っていたに違いない。けれども、もう恵の番だったのだ。誰もそれを知らなかった。だとしたら、かおりの番だっていつ来るか分からない。どうして明日でないと断言できるだろう?
いつか――ひょっとしたら明日かもしれない、明後日かもしれない、確実に来るいつか、かおりもあの穴の中に吸い込まれて、この世からいなくなってしまう。
(怖いよ……)
それは想像するだに恐ろしく、そして、恵もそれを通って行ってしまったのだと思うと、絶望的な気分になった。それは避けることができない、絶対に。
震えるかおりの目の前で、棺が穴の脇に据えた脚立のような台の上に下ろされた。弔組の世話役が小さな鐘を衝いて、寺の若御院が読経を始めた。
刻一刻と、恵とこの世界が切断される瞬間が迫っていた。
(可哀想な恵。……まだ十五だったのに)
そう、まだ十五。八月生まれの恵は、六月生まれのかおりと束の間、同い年になる。そうか、と思った。恵はかおりと同い年だったのだ。恵が死んでしまうものなら、かおりだって死んでしまっておかしくない。
あと少しで十六だった、思ってかおりは、本当にあと少しだったことを思い出した。恵の誕生日は八月の二十六日だ。村にはお洒落な小物などないし、かおりは滅多に溝辺町には出て行かない。この間、たまたま母親に連れられて買い物に出たとき、だから恵へのプレゼントを買っておいたことを思い出した。ちゃんとラッピングしてしまってある。あれを渡すはずだったのに。
かおりは背後を振り返った。清水家の墓所は、末の山の端、あまり深くないところにある。ここからかおりの家までは遠くない。走れば十五分もかからない。
(どうしよう……)
今から駆け戻って、プレゼントを取ってきて、それで埋葬に間に合うだろうか。せっかく恵のために用意したのだから、せめて墓の中に入れてあげたい。どうしてもっと早く思い出さなかったのだろう。そうすれば棺の中に入れてあげられたのに。
かおりは読経の声を時計の針の音のような気分で聞きながら、何度も墓所と背後を見比べた。戻る踏ん切りが付かないうちに読経が終わり、棺が縄にかけられる。あれを使って穴の中に降ろすのだ。
「あの……小母さん」
寛子は泣きはらした目で、かおりを振り返る。
「あたし、恵ちゃんにプレゼント、用意してあったんです。取りに戻ったら行けませんか。お墓の中に入れてあげたいんです」
寛子は目を見開き、困ったように周囲の人々を見た。縄に手をかけていた男衆が、同じく困ったように目を見交わす。
「そう言われてもなあ」
これ、と小声で言ったのは、かおりの母親だった。
「そんなことを急に。迷惑でしょ」
男衆のひとりが、取りなすように言った。
「いや、お嬢ちゃんのその気持ちだけで、仏さんは嬉しいだろう。なにも、本当に入れるかどうかに拘ることはないよ」
そうだ、と頷く人があって、寛子も悲しげに微笑んだ。
「ありがとうね、かおりちゃん。でも、その気持ちだけで充分よ」
「……はい」
かおりは俯いた。誰も、かおりの気持ちなど分かってくれない。恵は死んでしまったのに。かおりは恵を失ってしまったのに。
「あの……」と、静かな声を上げたのは、若御院だった。「取りに行ってもらったら、いかがでしょう」
かおりは顔を上げる。やんわりとした笑みに出会った。
「土を盛るのにも時間がかかるわけですし、仏さんの枕許だけ残して土を盛っていけばどうでしょう。お友達なのじゃないですか? だとしたら、恵ちゃんもそうして欲しいだろうし、お嬢さんもせっかくのプレゼントが手許に残されては、いつまでも心残りで堪らないでしょう」
はあ、と男衆が言う。
「若御院がそうおっしゃるんでしたら……」
「ありがとうございます」
かおりは、頭を下げた。自分の気持ちを分かってもらえたような気がして、本当に嬉しかった。若い僧侶は穏やかに頷く。
「足許に気をつけて」
[#ここから5字下げ]
7
[#ここで字下げ終わり]
夏野は部屋に戻るなり、制服を脱いで乱暴に放り出した。部屋の中に籠もった熱気に辟易して窓を開ける。一瞬、いつもの習慣でカーテンを引きそうになったが、すぐにそんな必要はないのだと思い出した。
――そう、もうそんなことをしなくていい。
夏野は窓から裏庭のすぐ際にまで迫った樅の林を見やった。裏庭との境には、かろうじて低い石垣が残っている。いかにも古色蒼然として苔むしたその石垣は、高さにして夏野のふくらはぎの辺りまでしかなかったが、それでも一応、境界線としての用をなしていた。石垣の上下には下生えが濃い茂みを作っていた。ちょうど夏野の部屋の窓から見て、正面にある辺り。夏野の背丈の半分ほどの大きな茂みは、母親によると木苺のものらしい。
(清水は死んだんだ)
あの木苺の影。樅の幹に寄り添うようにして、恵が何度も立ちつくしていたことを夏野は知っていた。気候が緩んだ頃からそれは始まり、春休みには頻繁になり、それから徐々に間遠になっていたものの、最近まで続いていた。木陰からじっと窓を見ている。――それが何を意味するのか、もちろん夏野には分かっていた。
恵はいつもそうだった、と夏野は思う。片思いの相手の家を訪ね、こっそりと隠れて窓を窺う。それはひょっとしたら恵の中では、健気でいじらしい行為だったのかもしれない。おそらくはそうやって恋する乙女とやらを演じることで、恵は切ない片思いを満喫していたのだ、と思う。ひょっとしたら期待だってあったのかもしれない。そうやって立ちつくす自分を見つけてくれた相手が、恵の恋心に感じ入って、恵を受け入れてくれるかもしれない、という。
だが、断固として夏野はそういう役回りは御免だった。恵は分かってない。自分ひとりの世界に耽溺して、相手のことなどもはや念頭にない。そうでなければ、そうやって頻繁に家の中を覗き込まれ、ブライヴァシーを侵されることを、夏野が不快に思って当然だという真実に思い至らないはずがない。
勘弁してくれ、と思う。恵は、夏野に好意を期待していたのだろう。今日のあの少女だって、死者を悼み、ありがたく遺品を受け取ることを期待していた。恵の思いに感じ入って、涙の一滴でも落とせばお気に召したのかもしれない。
(……学芸会だ)
恵が夏野に期待していたのは、学園ものの恋愛ドラマの相手役だ。あの少女が夏野に期待していたのは、不幸にして若くして死んだヒロインの片思いの相手、という役回りだったのかもしれない。そうやって誰もが勝手に夏野に役柄を割り振る。都会から純朴な村に越してきた斜に構えた少年、あるいは、都会の荒廃を空洞として胸の中に抱え込み、それに気づかずにいる息子。そうやって勝手に役を振っておきながら、台本通りに動かないと言って夏野を責める。誰一人――本当に、誰一人、それが自分の中だけにある手前勝手なシナリオだということに気づいていない。
「お笑いだ」
夏野は木苺の茂みに向かって吐き捨てる。
夏野は恵が嫌いだった。恵の期待は分かる。そんなものは恵の勝手だ。だが、恵はそれが自分の独りよがりな期待に過ぎないことに無自覚だった。こう言って欲しい、こう動いて欲しい、それを正面から要求することはせず、夏野が期待通りの台詞を吐くよう、期待通りに動くよう、執拗に絡んで水を向けてきた。
――わたしなんて、都会の女の子に比べたら、野暮ったいでしょ?
――結城くんは、わたしのことなんて嫌いなのよね。
――そのうち、二度と顔を見せるな、とか言われそう。
差し出すつもりもないものを、無理矢理にもぎ取るのは搾取だ。夏野は断じて、勝手に振られた役回りを演じる気などなかったが、この村ではそれが当然のこととしてまかり通っているばかりでなく、誰も演じさせられている自分に気づかず、むしろそうやって相手の期待を演じることが美徳だと思われているのだった。
(村ぐるみの猿芝居だ)
恵は勝手に恋愛物語の相手役を夏野に振った。 けれどもそうしていなが、恵自身、恋愛物語のヒロインを演じていただけで、そこには上滑りな夢想しかありはしないのだった。それは切実な希求ではない。単に恋する少女を演じて、自己満足に浸っていたかっただけだ。恵は、一事が万事そうだった。
だが――と夏野は思う。そんな恵も、たったひとつ、都会の話をねだるときだけは本当の顔をしていた。村は嫌いだといい、都会に出たい、と言った。それに関してだけは恵の本音に見えたし、これだけは夏野にも共感可能だった。
恵は常に、都会の大学に行くんだ、と言っていた。実を言えば、夏野はそれを信じていなかった。必ず行く、と騒ぐわりに、恵はそのために準備をしている様子がなかった。どこそこの大学に行きたい、と挙げるのは、やたら名前の通りが良い大学ばかりで、そのくせ恵は自分の成績には無頓着だった。夏野も村を出たい。そのために、大学は是が非でも都会の大学に行くのだと思っている。だから、そのための準備もしている。とにかく都会に戻れさえすれば、大学も学部も問わない、とさえ思う。そういう夏野から見ると、恵の脱出計画にはおよそ実現性があるとは思えなかったし、なんのかんのと言いながら、結局のところ恵は、高校入試の時そうだったように、土壇場になれば親が許してくれないだのと理由を探して変節したのだろう。いつか必ず、と言いながら村に留まり、村に根付いてしまったのに違いない。
恵はそういう人間だったと思っているが、それでも夏野は、外を希求する恵の心情だけは真実だったような気がしている。そして、恵は――死んだ。
恵は本当に外場を抜け出したのだ、自らが死亡することによって。死によってやっと外場を出た、と言うべきなのだろうか、それとも死をもってしか抜け出すことができなかった、と言うべきなのだろうか。
――あるいは、自分もそうなのだろうか。
[#ここから5字下げ]
8
[#ここで字下げ終わり]
埋葬を終えると、一行は清水家に戻り、精進落としのために座敷に集まった。静信は、単に儀式を執り行ったに過ぎない自分が上座にいることに、いつものように気後れのようなものを感じながら、一座を見守っていた。
恵の祖父である清水徳郎は、もともと村会議員をやっていた気骨のある人物だった。若い頃は血気も盛んだったらしく、逸話には事欠かない。その息子である清水武雄もまた、非常に気骨のある人物だった。熱血漢で激昂しやすい徳郎と、冷静で理論家の清水と、現れ方は違っていても芯に共通するものがある、と静信は長らく思っていた。だが、その二人が打ちのめされた様子で坐っている。徳郎が感情を表す余裕もないほど虚脱しているのも稀なら、清水が人目も|憚《はばか》らず感情を露わにしているのも稀だった。
寛子はそのどちらでもあり、どちらでもなかった。堰を切ったように泣き叫ぶかと思うと、人形のような無表情で坐っている。周囲の慰めの言葉を、放心したような顔で受け止めているかと思うと、自らの悲嘆について語り始め、そうなるともう感情の|箍《たが》が外れたように声を嗄らして泣き出す。ひとしきり泣くと、曇ったガラス玉のような目を上げて、ネジが切れたように虚脱する。
三人は、未だに自分を取り戻していないようだった。おそらくは山の中に自分の一部を置き去りにしてきた気がしていることだろう。静信もまた、かける言葉が出てこない。(お力落としなく……)この様子を見れば、そんな言葉には意味がないことなど分かりきっている。恵はあまりに若い。力を落とすなというほうが無理だろう。
いつもは歳より十は若く見える徳郎が、今日ばかりは歳よりも老け込んで見えたし、それは寛子も同様だった。前屈みに俯いた背の悄然とした丸みが、不思議に後藤田ふきのそれに重なった。
(……覚悟をしたほうがいい)
唐突に言葉が念頭に浮かんだ。――そう、覚悟をしたほうがいい。恵の死を引き受け、一刻も早くそこから立ち直るための覚悟。力を落としていてはいけない。この悲嘆に呑まれないように。
(だが、そんなことを、どうして今この人々に言えるだろう?)
静信は嗚咽を漏らしている清水に目をやる。時折、思い出したように徳郎の背中をさする清水の手は、老いた父親を庇護しているようでもあり、父親に縋って賢明に自分を支えようとしているようでもあった。それが痛ましく、同時にどこか危うげに見えた。
恵を失った衝撃を、賢明に耐え忍び、やり過ごそうとしている人々。今はそれが精一杯、それ以上のことを求めるのは酷だろう。にもかかわらず、静信は全員の背を叩いて力を落としてはいけない、と言いたくて堪らなかった。だが、静信自身にも、どうして自分がこんな焦燥感を感じるのかが分からない。けれども。
(そんなふうにしていては駄目だ)
泣きやまなくては、早く。
[#ここから4字下げ]
――泣く子のところには鬼が来るぞ。
[#ここで字下げ終わり]
[#改段]
[#ここから3字下げ]
九章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
1
[#ここで字下げ終わり]
安森義一の訃報が寺にもたらされたのは、清水恵の葬儀の翌日、盆が明けた日のことだった。静信は連絡を受けながら、やはり駄目だったかと思った。昨夜、敏夫と丸安製材の双方から、危篤だという連絡は受けていた。それ以前に、そもそも義一は長患いで、誰の目にもそう長くはないことが明らかだった。
そのせいもあってか、訃報を知らせてきた丸安製材の|一成《かずなり》の声も、至極、落ち着いていた。この盆には一族の全員が集まって義一と共に過ごした、それができて良かった、と一成は言う。これを受け取った静信も、義一は満足して旅立てただろう、と慰めるだけの余裕を持ち得た。
「一成さんも立派に製材所を切り回しておいでだし、和也くんにも良いお嫁さんが来られた。こういう言い方をしては失礼ですが、義一さんも思い残すことがないでしょう」
「そうですね」と一成が電話の向こうで微笑んだ気配がする。「曾孫の顔を見せてやれなかったのだけが、不足と言えば不足でしょうか。けれども嫁が良くやってくれるので、親父もそれで満足だったようですから」
「そうでしょうね」
「家内も息子夫婦と仲良くやってくれました。親父も最後まで我が儘一つ言わず、頑張ってくれましたし」
本当に、と静信は拘りなく頷くことができた。一進一退――というより一進二退を続ける病人を抱えているのは、静信も同じだ。丸安家の人々の心情は良く分かった。
「本当にお疲れさまでした。一成さんも、義一さんも」
ありがとうございます、と一成はそれでも声を詰まらせた。
「亡くなったんですか、義一さん」
静信が受話器を置くと、光男が言う。
「ええ。ついさっき、国立病院で。門前の世話役の徳次郎さんは縁続きになりますので、たぶん田茂の定市さんが世話役代表になります」
そうですか、と光男は息を吐いた。
「義一さんが亡くなったということになると、角くんとこの親父さんとお兄さんにも手伝ってもらわないといけないですね」
静信は頷いた。安森義一は、弟の徳次郎に譲るまで檀家総代を務めていた。世話方の代表も務めたことがある、寺にとっては重鎮の一人だ。その葬儀ともなれば、静信と役僧だけということはありえない。脇導師として住職、副住職格の僧侶を複数、付けることになるだろう。戒名も、本山に諮って院号を出すことになる。
「こりゃ、大変だ」と、池辺が息を吐いた。「とはいえ、恵ちゃんと違って気楽だな」
鶴見が顔を|顰《しか》める。
「お前はまた、そういう不謹慎なことを」
そうだねえ、と光男は黒板に向かいながら頭を振った。
「こう言っちゃあなんだけど、気が楽だといえば確かに楽だね。秀司さんやら恵ちゃんら、ああいう逆縁の葬式はこっちも気が張るからねえ」