饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.19

作者:日-小野不由美 当前章节:15386 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 光男の言に、静信はもちろん、誰もが安堵したような息を吐いた。穏やかな死だ、と静信は思う。もちろん死そのものの意味は変わらないのだが、死とはこうあるべきだという気がした。

 順当な死。老人は山に還ったのだ。人として生まれ、村で青年として過ごし、仕事を得て家庭を持ち、その営みを終えた。泰然自若とした足取りで山に分け入っていく背中が見えるような気がした。ようやく病床を離れ、苦痛からも家族への気遣いからも解放された。義一にとっては、おそらく幸いなことだっただろう。この先の悲劇を知らずに済む。

 静信は心の中で手を合わせ、ふと自分の思考を訝しんだ。「この先の悲劇」とは何だろう。義一にこの先、どんな悲劇が待っていたというのだろう。義一は病を得た。家族の看護も虚しく、徐々に悪化の一途を辿り、最近では枕が上がらなかったと聞いている。本人の苦痛も大きかっただろう、周囲に対する気兼ねもあっただろう、もちろん、自分の生に対する不安も大きかったに違いない。このまま無為に病床に縛り付けられ、増してゆくだけの苦痛に満ちた残る人生を短く終えた、それは考えようによっては幸福だったのかもしれないと、そういう気がしていたのだが、「この先の悲劇を知らずに済む」は、それとは微妙にずれてはいないか。

 静信は自己の思考を見つめ、そして自分の中に不安を見つけた。

 秀司の死は悲劇だった。恵の死もまた悲劇だった。そして、一連の悲劇は始まったばかりなのだ。

 死は村に蔓延し、この先、幾重にも悲劇をもたらすだろう。その――予感。

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「先生、田島予研さんが来てるんですけど、何かありますか?」

 十和田の声に、敏夫は読んでいた書類から顔を上げた。国立病院の知り合いの医師から送られてきた義一の経過報告書だ。やはり義一は肺炎だった。原因菌はグラム陽性球菌、心不全を合併し不整脈で死亡。

「来たか。済まないが、結果の中から恵ちゃんのぶんだけ抜いてきてくれ。

「恵――清水恵ちゃんですか?」

「そう」

 敏夫が言うと、十和田は心得たふうに頷いて踵を返した。すぐに小走りの音がして、十和田ではなく武藤が一枚の紙を持って戻ってきた。

「悪いな、武藤さん」

 敏夫は検査結果表を受け取り、主な項目に目を走らせる。全血液中の赤血球数、白血球数、血小板数はともに減少傾向にあり、ヘモグロビン量、ヘマトクリット値も減少している。これに対して網赤血球数は増加、血清鉄、総合鉄結合能、血清フェリチン、正常。

 敏夫は眉を|顰《ひそ》めた。――これはあまり嬉しくない結果だ。

「いかがです」

 声をかけられて、敏夫は武藤が未だにデスクの前にいて、自分の手許を覗き込んでいることにやっと気づいた。放っておいてくれ、と言いたい気がしたが、武藤は清水と親しい。敏夫が貧血だといったにもかかわらず、恵は急死した。程度はともあれ、清水に対してなにがしかの罪悪感を感じてしまうのは、武藤もまた同様なのかもしれなかった。

「ああ――うん」

「やっぱり貧血ですか」

 敏夫は息を吐く。

「貧血は出てるな。だが、いわゆる貧血――鉄欠乏性貧血じゃない。おれの誤診だ」

 そんな、と武藤は悲愴な顔をした。

「血清鉄、総合鉄結合能血清フェリチン、どれをとっても正常値の範囲内だ。鉄欠乏性貧血なら値が減っていないとおかしい」

「でも、結果はやっと今日、出たわけで」武藤は狼狽したように言う。「そうですよ、そんな、結果も出ないうちから正確な診断なんてつくはずがないです、易者じゃないんですから。検査結果が遅れたのは、盆休みが入ったせいで――」

「あんたがそんな、|狼狽《うろた》えることはないさ」敏夫は苦笑した。「貧血のほとんどは鉄欠乏性貧血だ。特に若い女の子なら、どんな医者でも、まずそれを疑う。確かに清水さんに対して、だから心配はいらないと安請け合いをしたのはおれの落ち度だが」

 口の中が苦かったが、言葉に出して認めてしまえば気は楽になった。

「検査を急がせればよかったのかもしれん。そうすれば少なくとも、最悪の事態は回避できたかも。――そう思っていたんだが、どうやらそういうことでもなさそうだな」

「は?」

 敏夫はデスクの|抽斗《ひきだし》から電卓を引っ張り出した。

「平均赤血球容積、平均赤血球ヘモグロビン濃度」赤血球数、ヘモグロビン濃度、ヘマトクリット値からざっと計算をしてみる。「網赤血球数も増えてる。やっぱり正球性正色素性貧血だな」

 武藤は瞬いた。

「そりゃあ、いったい」

「貧血には大別して三タイプあるんだよ。鉄欠乏性貧血なら、小球性低色素性貧血だ。これに大球性色素性貧血ってのがあって、三つ。正球性色素性貧血ってのは、急性の出血、あるいは溶血、そうでなければ再生不良性貧血や二次性貧血によって起こる。だが、恵ちゃんの場合、特に外傷もなかったし大きな内出血が起こっているような形跡もなかった。総ビリルビン、直接ビリルビン、LDH、ハプトグロビン――いずれも正常値の範囲内だ。となると、溶血の可能性は低い。網赤血球数が増えているから、再生不良性貧血の可能性も少ない。その他の生化学試験も問題なし」

「はあ」と武藤は瞬き、首を傾げた。「……それで、どういうことになるんですか」

「分からないんだ」敏夫は検査結果表を手の中で弄ぶ。「原因はよく分からない。少なくとも確実なのは、あれはおそらく二次性貧血だった、ということだ。急死した以上、身体のどこかに問題があったんだ。それも、一見して分からないようなところに重大な問題が。そのせいで貧血が現れていただけなんだ」

「そのう……たとえば?」

「知るもんか。たとえこの結果が往診した当日に出たとしても、おれに打てる手は再検査だけだ。どこにどういう不具合があるのか、徹底的に洗ってみるしかなかったわけだが、それをやって結果が出るほどの時間の猶予はもうなかった。――そういうことだ」

 ああ、と武藤はわずかに安堵したふうを見せた。

「そうだったんですか」

「これがおれじゃなく、まっすぐに大学病院なり、しかるべき設備のある大病院に連れて行ってそれなりの名医に診せたところで、結果は変わらなかっただろう。なにしろ、決着がつくまでに三日しかなかったんだからな。それこそ、易者の所にでも行かないことには。もっとも、易者じゃあ、原因を当てられても治療できんだろうが」

「そりゃあ」武藤は複雑そうだった。「運がなかったんですねえ」

 敏夫はさらに苦笑した。

「ひょっとしたら、貧血以外にも症状があったのかもしれないが。あったとしたら昨日今日の話じゃないだろう。しかしながらあのお嬢さんは、ほんのちょっと具合が悪くても大騒ぎする癖があったからな。それで周囲も、またいつものやつが始まったと軽く考えて忘れていたんじゃないのかな。――何を言っても、もう想像でしかないが」

 恵はすでに死亡している。遺体は土の中だ。連日のこの暑さだ、腐敗もかなり進行しているだろう。清水がいまさら病理解剖に同意するとも思えないし、埋葬された死者を文字通り掘り返しても意味がない。

「それこそ寿命ってやつだったんですねえ」武藤は感慨深げに呟いて頭を振った。「どうにも短すぎて、やるせない話ですけど」

 敏夫は頷いた。

「――まったくだ」

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 残照の中を、矢野妙は急ぐ。上外場に出て、後藤田家を訪ねた。

 縁側から家の中を覗き込むと、屋内には線香の匂いがうっすらと立ち込めていた。息子を亡くしたばかりの後藤田ふきは、白々と明かりが点いた茶の間に寝ころんでいる。テレビが点いて、虚しいばかりに上滑りな歓声を流していた。その図式はいかにも寂しい。ふきの孤立を強調しているだけのことのように思えた。

「ふきさん」

 縁側から声をかける。二度、三度と声をかけると、ふきがようやく身を起こした。どうやらうたた寝をしていたらしい。

「……妙ちゃん」

 妙は、ふきの気を引き立てようと、ことさらに明るい声を出した。

「また夕飯を作り過ぎちゃったのよ。お弁当にしてきたんだけど、一緒にどう?」

 ふきは笑ってぺこりと頷いた。その動作がいかにも老女めいていて、妙は胸を衝かれる気がした。ふきは小さくなった。こんなにも歳を取っていたのか、と改めて思うことが近頃、再三ある。

「いつも悪いわねえ」

 ふきに、妙は笑った。

「いいのよ、作りすぎただけなんだから」

 妙は茶の間に上がり込み、卓袱台の上で風呂敷包みを開いた。ふきがお茶を淹れに立ったが、ふきが向かった台所はきっちりと片づいたまま、夕飯の用意をしていた形跡がない。

「……熱いお茶でもいいかしらね」

「構わないわよ。麦茶でも持ってくればよかったわね」

 ふきが茶の間に戻ってくるのを待つ。ふきは疲れてでもいるように、どこか足取りが頼りなかった。

「夕飯の用意をしてなきゃいいと思ったんだけど、大丈夫だったみたいねえ。ちゃんと食べてる?」

 ふきは苦笑するように微笑んだ。

「夏負けかしらね。……億劫で」

「駄目よ、そんなことじゃ」

「そうねえ」と、ふきは呟く。弁当の蓋を開け、「美味しそう」とは言ったが、あまり食欲がある様子でもなかった。ぼそぼそと、妙に相伴する程度に箸を使う。

「……ふきちゃんは、子供と同居したりしないの」

 妙は訊いた。秀司は死んだが、他にも二人子供が残っている。

「息子は来いって言うんだけど」

 ふきは気乗りがしないようだった。

「そのほうがいいんじゃない。良くないわよ、年寄りが一人なんて」

「……踏ん切りがねえ」

「踏ん切りがつく頃には、足腰が立たなくなってるわよ。同居するんなら、身体がしゃんとしてて、少しでも役に立てる間でなきゃ。世話してもらわないといけないようになったら、誰も同居してくれないわよ」

 そうね、とこれまた、いかにも気乗りがしないようだった。

「ふきさん、あんた、顔色が悪いんじゃない?」

「そう?」と、ふきは首を傾げた。

「具合でも悪いんじゃないの。なんか、そんなふうよ」

 さっきも寝ていたし、食欲もないようだ。妙は幼なじみの顔を覗き込む。

「疲れてるのかしらね。……葬式が二つもあると、やっぱりねえ」

 妙は頷いた。年寄りに葬式は堪える。特に身近な人間や同年配のものが死ぬと、しばらくは虚脱したように力が抜けてしまう。単に煩雑な雑用で疲れるというよりも、自分ももういつ死んでもおかしくない歳なのだということを確認して、気落ちしてしまうのだ。

「大丈夫?」

 ふきは頷いた。肩をすぼめ、目を丸め、力なくコトリと首を振る。生気が抜けてしまっている――妙にはそんなふうに思えた。

「やっぱり同居したほうがいいんじゃない。張りが戻るわよ」

 ふきはしばらく答えなかった。じっと湯飲みを覗き込み、やがて小さく零す。

「……秀司の夢を見てね」

 瞬く妙に、ふきは笑った。

「秀司が戻ってくる夢を見たのよ。秀司が迎えに来てくれたのかしらね」

「ふきさん、駄目よ、そんな」

「……夢なんだけど……でも、村は離れたくないよ。遠くに行っちゃうと、そんな夢も見られなくなるような気がしてねえ」

 ふきは微笑んだ。妙は俯く。死んだとはいえ、息子を置いて遠方に行ってしまいたくはない、という気持ちは痛いほど分かった。

「だったら、元気を出さなきゃ」

 妙の言葉に、そうね、とふきは呟いた。

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 夏休みも、盆を過ぎるとさすがに暇を持て余す。村迫正雄は、ぶらぶらと店を出た。老齢の父親は、たまには店番ぐらいしろ、と今にも言いだしそうな目をしたが、口を開く契機を与えず、店を出ることに成功した。

 とはいえ、特に行く宛があるわけではなかった。この暑い中、わざわざバスに乗って遊びに行くのは億劫だ。正雄は特に習い事もしてないし、塾にも通っていない。何かあって村を出れば、それなりに遊び相手も遊び場も見つかるのだが、村の中で間に合わせるとなると武藤ぐらいしか行き場がなかった。村ではそもそも同年配の者が少ないのだ。そのうちの半数は女の子だし、男の半数もクラブだ塾だと飛びまわっている。そいつらはそいつらで別のグループを作っていて、村に閉じこもって無駄話をするしか能のない正雄たちとはあまり接点がない。

 仕方なく武藤に足を向けた。別に武藤保や保の家族が嫌なわけではないが、そこに行くと嫌な奴に会うことになるので気が重い。かといって他に行くところもなく、家にいるのはさらに面白くなかったので致し方ない。

 武藤の家に行くと、保の母親が気安げに迎えてくれた。上よ、と言う声に階段を上がると、保の部屋には金曜だというのに徹の姿があって、夏野の姿もあった。

 正雄は内心で舌打ちをし、視線を徹に向ける。

「徹ちゃん、休みか?」

「そう。後期盆休み」

「後期ってなんだよ」

「まとめて盆休みが取れなかったんだよ。他の連中が先に長期の休みを取ったから。んで、盆と盆の後に休みが別れたってわけだ」

「要領、悪いなあ」

 なんの、と徹は笑う。

「あえて取らなかったんだよ。これが気配りってもんだ。こっちは別に、旅行に行く宛があるわけじゃなし、無理に続けて休みを取らなくてもいいからさ。そこは譲って恩を売る。これが大人の処世術ってもんだな」

 なんだかなあ、と笑いながら夏野の様子を窺うと、夏野は興味もなさそうに保のベッドに転がって雑誌を眺めている。

「おい夏野」声をかけると、夏野は正雄をねめつけた。名前を呼ばれたのが気に入らないのだろう。ささやかに溜飲を下げながら、「お前、清水の遺品を断ったんだって?」

「それが?」

「冷たいよな。お前ってさ、どっか情緒に欠陥でもあるんじゃねえの? 普通、若くて死んだ子の遺品をさ、汚いもののように言うかよ。相手の気持ちに対する思いやりってもんが全然ないんだよな」

「若くて死んだからなんだって言うんだよ。おれたちだって明日にも死ぬかもしれないんだぜ」

「だからって、高校一年やそこらで死んだんじゃ可哀想だろ」

「馬鹿みてえ。人間なんて、何で死ぬか分かったもんじゃないんだしさ、いわば確率のもんだろ。確率ってのは私情や個人的な事情に頓着してくれないもんなの」

「そう分かってても、まさか高一で死ぬとは思わないのが人間じゃないか。無念だと思うぜ、清水にしたらさ」

「そこで狼狽するのは、自分だけは、って傲ってた証拠だろ。他人事の死なんてないの。無念を残すような生き方してるほうがどうかしてるよ」

「たがらって思いを残す者を無下に扱っていいのかよ。お前、自分がそういう扱いを受けても平気なのか」

「平気も何も、死んだら分かりゃしないだろ。あとは野となれ山となれ、ってとこだよな」

「清水、いまごろは墓の下で泣いてんぞ」

「死人が泣くかよ」

「お前を恨んで出てくるかもな」

「悪い子のところには鬼が出るってか? いい歳して、|初心《うぶ》だね、こりゃ」

 徹は笑った。

「これが純朴な田舎気質ってもんさ。帰って報告してみろ。お前んちの父ちゃん、涙ながして喜ぶぞ」

「……まったくだ」

 夏野は溜息をついて雑誌を閉じた。

「ほんじゃ、親父を喜ばせに帰るか」

「おう。じゃあな」

 手を振る徹と保に手を挙げて応え、夏野は部屋を出て行く。階段を下りていく軽い足音が聞こえた。

「……生意気な奴」

 正雄が呟いたが、徹も保も反応がなかった。聞こえなかったはずはないのに、面白くもなさそうにテレビの画面を見守っている。

「あいつってさ、本当に冷たいよ。なあ、保、そう思わないか?」

 保は軽く肩を竦める。

「ま、クールに見えるのは確かだよな」

「見えるだけじゃなくて、あれが本性だろ。信じられないよ、なんだってあんな奴、保も徹ちゃんも我慢できるんだよ」

「夏野が言ってるのは、一面の真理ではあるからなあ」

「保も仲間か」

「そういう問題じゃなく。おれだって清水は可哀想だと思うぜ。あの歳で死んだら、たまんないよなとは思うけど、実を言うと他人事なんだよな。そりゃ、親父同士が付き合い合ったし、小さい頃は一緒に遊んだりしたけどさ。もう一緒に遊ぶような歳でもないし、このところ学校の行き帰りでもなけりゃ会うこともなかったし。驚いたし、可哀想だとは思ったけど、新聞見て可哀想にと思うのと一緒で、おれが辛いわけじゃないんだよな。ああ、これは可哀想なことなんだなって思ってるだけのことで。お前だってそうだろ? お前なんて、清水とはぜんぜん無関係だったわけだし」

「それは、そうだけど」

「それでもさ、家族や友達にしたら辛いことでさ、それに付き合って、辛そうなフリぐらいしてやるのが協調性ってもんだよな。夏野にそれを求めるだけ無駄だけど」

「そこが問題なんだろ」

「べつにいいじゃん。夏野の場合、徹底してるもんな。自分の親や友達が死んでさ、同じようなことを他人にされても、気にしないだろ。それはそれで辻褄が合ってる」

「それってもっと問題じゃないか? 自分の親が死んでさ、形見分けしようってのに相手がそれを拒んで、それで腹が立たなかったら人間じゃねえよ」

 徹が苦笑した。

「夏野は冷淡に見えるけど、そのぶん冷静で公平だよ。たとえばさ、お前がああやって突っかかっても、おれたちを味方に付けようとはしない。一緒に怒ってくれとは言わないだろうな」

 徹に言われ、正雄はむっと口許を歪めた。それが自分に対する批判だと感じたからだ。

「ここで仮に、おれたちが夏野を庇って、お前の態度のほうを責めても、あいつは嵩にかかったりしないだろ。放っとけって言うのが関の山じゃねえかな。これは自分とお前の問題だから外野は外野で別口でやってくれって言うぜ。そのへん、夏野は徹底してるよ」

「そういう話をしてるわけな」

「たとえばの話だよ。――まあ、そういう奴だから、あれはあれでいいんだろ。お前もさ、夏野そういう態度に苛立つなら、いちいち構うなよ。気に入らないんなら放っておきゃいいんだろうが」

「あんたらが構うから顔合わす破目になるんだろ。おれのせいにするなよな」

 正雄は言って立ち上がった。

「――正雄?」

「帰る」

 短く言って階段を下りる。これではまるで自分が責められているようだ。正雄は別に夏野に興味などない。付き合いたいとも思ってないが、徹たちが構うから始終顔を合わす破目になるのだ。そもそも間に割り込んできたのは夏野のほうだ。普通、グループの誰かと折り合いが悪かったら、グループにはいるのを敬遠しないか、と夏野の図々しさに腹が立つし、折り合いが悪いのを分かっていて夏野の侵入を黙認している徹たちの態度にも腹が立った。

(余所者のくせに……)

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 バイクの荷台からビールの缶を下ろし、篤は呼び鈴を押す。

「あら、どうもお疲れさま」

 現れた主婦に無言で缶ビールのパックを渡し、篤はさっさと踵を返した。夏場はどうしても配達が多い。始終駆り出されて嫌になる。無料奉仕だと思えば、なおさらだった。

 メモにチェックを入れ、次の配達先を確認する。残りは二軒、どっちも醤油が一本とか日本酒が二本とかの小口の配達だった。たかだか一升瓶の一本や二本、自分で持って帰れよな、という気がしてならない。メモを荷台のケースに放り込んで、篤はバイクを出す。門前の御旅所の前を通って、村道へ出た。ろくに周囲を見ずに村道に飛び出し、あやうく上外場に向かう車と接触しそうになる。急ブレーキをかけた篤を、運転手が振り返った。何か言ったようだが、車の窓は閉まっているから聞こえなかった。

 篤は舌打ちをする。恨みがましく車を見送った。後を追いかけて車に蹴りでも入れてやりたい。一旦停止の表示を無視したのは自分のほうだという事実は、意識の隅っこに追いやった。むしゃくしゃしながらバイクを出そうとすると、エンストした。それがさらに篤を苛立たせる。

(やってられねえ)

 世の中の若い連中は、夏を謳歌しているというのに。篤はこんな田舎の村の中でくすぶっている。面白いこともない、胸のすくようなこともない。父親に怒鳴られ、使い走りをさせられている。

 篤はエンジンをかけながら、村道の上の方に目をやった。本当に追いかけていって運転手を引きずり出し、一発くらわせてやろうか。思いながら、自分がそんなことをしないだろうことを、分かっていた。

 車の影はもう見えない。上外場の集落のどこかへ曲がっていったのだろう。|人気《ひとけ》のない道が夕日を浴びて北へと延びていた。この先には山入がある、と篤は思う。

 老人が死んだ。しかも三人もいっぺんに。ひとりは篤の縁者だ。野犬に襲われて死体はさんざんな有様だっらしい。それを見てみたかった、と思う。無茶苦茶になった人間の死体というのは、どういう有様なのだろう。死んだ大川義五郎は、篤にとって、いけ好かない縁者だった。篤に小言を言うしか能のなかった老いぼれ、小遣いの一つもくれたことはなく、繰り言めいた愚痴ばかり言っていた。そうでなければ、何度も同じ小言を言う。うんざりしてそっぽを向けば怒鳴り散らす。父親も義五郎が訪ねてくるたび嫌な顔をしていたが、篤も義五郎は嫌いだった。

 その義五郎が、バラバラになって死んだ。死体を見たら、さぞかし溜飲が下がっただろうと思う。この道の先、夕映えに朱を帯びた道の向こう、あの黒々として見える樅の間を辿った先。死んだ義五郎と、死んだ山入。

 不思議にその道から目を離せなかった。近頃、篤にはこういうことが良くある。この辺りまで来ると、必ずこうして山入に続く道に見入ってしまう。

(配達に行かねえと)

 たらたらしていると、また油を売ったと父親にどやされる。そう思って、にわかに篤は嫌気が差した。なんだってこんなことをさせられなければならない、という思い。そう思いながらも父親を気にして、穏和しく扱き使われている自分。このまま配達に行くのは業腹で、篤は衝動的にバイクを村道の上に向けた。――山入のあるほう。

 思い切りアクセルを開けると、上外場の終わりまではすぐだった。飛ばした、という実感が湧く暇もない。目の前には、両側を樅に挟まれて、たそがれた道が続いている。篤はスピードを落とした。

 義五郎は死んだ、バラバラになって。いい気味だ、と思いながら、どこか背筋が寒い。店先の自販機でジュースを買っていた子供たちが、馬鹿な噂話をしていた。この道を辿っていくと、血塗れの年寄りに出くわす、という。そいつは全身つぎはぎで、身体の一部が欠けている。通りがかった者に、どこにあるか知らないか、と問う。

(馬鹿馬鹿しい)

 義五郎に、化けて出るほどの根性があるものか。出るとしても、その辺に佇んで愚痴を言うのが精々だ。――だが、そんな噂話を聞いたせいか、山入に続く緩い坂道は、どこか陰惨な雰囲気を帯びているように感じられた。荒んだ感じがするのだ。樅の差しかける影で翳った道は、なまじ西陽が中途半端に射しているだけに、いかにも暗く感じられた。

(山入……)

 死。死体。終わった集落。無人。

 義五郎たちの血の痕はそのままだろうか。死体の痕跡が今も残っているだろうか。

 背筋がぞくりとする。自分が怯えているような気がする。そんなはずはない。それを自分に証明したい。山入に行ってみたい。

(早く配達に行かねえと)

 思いながら、篤はのろのろと道を遡った。樅の影に飲まれ、周囲が急速に翳る。道はやはりどこか荒んで見えた。カーブを一つ曲がると前方も樅、後方も樅、人の気配はなく通りがかる車もいない。

 突然、間近から何かが飛び出してきたのはその時だった。篤の左手、北山の斜面に面する草叢から、何かがぶつかるように飛び出してきて、篤はバイクごと横転した。派手な音がして瓶が割れ、醤油と酒の匂いがする。

「何だよ!」

 篤は大声を上げて身を起こした。スピードが出てなかったのが幸いだ。周囲を見渡す間もなく、間近で身を低くしている痩せこけた犬の姿が目に入った。牙を剥き、唸り声を上げている。

「なんだよ、こらァ!」

 篤は手を振った。野犬はさらに身を低くする。篤は立ち上がり、バイクに駆け寄って引き起こしたが、その足に犬が飛びかかってきた。ジーンズの裾を|啣《くわ》えて首を振る。足を蹴ってそれを振り解き、なんとかバイクの体勢を立て直してエンジンをかけたところでふくらはぎに激痛が来た。野犬が喰いついている。

 野郎、と大声を上げ、遮二無二足を蹴り出す。灼かれたような痛みと共に野犬が離れた。犬はさらに身を低くする。周囲の林の中から、下生えを掻き分ける音と、犬の唸り声が聞こえた。篤は委細構わずバイクを出した。飛びかかってこようとする犬に突っこむようにしてUターンさせる。すぐ近くの草叢から別の犬が飛び出してきたが、これはかろうじて避けることができた。

 篤は息を弾ませながらスピードを上げる。口の中で、畜生、と呟きながら、かろうじて村に出、村道を急いで店へと戻った。

 脂汗を浮かべて店に戻った篤を迎えたのは、父親の罵声だった。遅い、どこで油を売っていた、と怒鳴られ、足の傷を示した。どうした、と問われたので深く考えずに野犬に襲われた経緯を話したら平手が飛んできた。配達をさぼってふらふらしたあげく、商品を駄目にするとは何事だ、と父親は怒鳴る。

「おまけに犬ころに噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれて尻尾を巻いて逃げ帰って来やがったか! まったく、お前みたいな情けねえ奴は見たことがねえ」

 父親は吐き捨てるように言って、床に座り込んだ篤を蹴った。

「さっさと病院に行ってこい。バイクが壊れてたら承知しねえぞ。商品の代金はお前の小遣いから差っ引くからな」

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 八月二十一日、朝、敏夫は一本の電話に叩き起こされた。眠りを揺するベルの音、それに対する不快感と、起き出して受話器を取るまでの間に浮上する、休みなのに、という感覚。受話器を取り上げながら、敏夫は既視感を覚えた。

 ――いつか、これと同じことがあった。きっとこの電話は良くない知らせだ。

「はい、尾崎です」電話の向こうでは女の声がしている。その切迫した声音にも、やはり覚えがあった。「どちらさん?」

「田茂です。上外場の田茂ですけど」

 女の声は明瞭だった。

「ああ――どうしました」

 敏夫は身を起こし、枕許の煙草に手を伸ばした。村に田茂は多く、上外場の田茂も一軒ではないが、「上外場の田茂」を名乗るのは一軒しかない。上外場のスーパー「たも」だ。声からすると、電話の相手は田茂聡美ではなく、娘の悠子だろう。

「後藤田の、ふきさんが亡くなりました。無くなっていると思うんです」

 敏夫は煙草に火を点けようとしていた動きを止めた。

「――ふきさん?」

「朝早く『ちぐさ』の妙さんが来て、ふきさんの様子がおかしいって。それで行ってみたら、冷たいんです。息もしてないみたいだし、胸に耳を当ててみても心臓の音が聞こえないんです。ちょっと来てもらえませんか」

「すぐに行きます」敏夫は火を点けないままの煙草を灰皿に放り出した。「ふきさんの家で待っててください。あまりそのへんのものを弄らないように。――いいですね?」

 はい、という悠子の声を聞いて、敏夫は受話器を置く。まただ、と思った。自分は前にも同じことを経験している、という思い。

 そう、確かに前にも経験している。後藤田秀司の時が、まったくこれと同様だった。

 敏夫が上外場の後藤田家に駆けつけると、家の表に面した縁側で田茂悠子と、悠子の父親の田茂|定次《さだじ》、ドライブイン「ちぐさ」の矢野妙が待っていた。縁側は一枚を残して雨戸が引かれており、妙がわずかに開いた縁側に腰を下ろし、その両脇を悠子と田茂定次が挟むようにして立っていた。

「先生」敏夫が地所に入れた車から降り立つと、定次が駆け寄ってくる。「――済みませんね」

 いや、と敏夫は目頭を押さえた妙を見た。

「妙さんが見つけたんですか? ふきさんはどこです」

 妙は縁側の中を示した。

「中です。……寝間で」

 敏夫は頷き、妙を立たせる。

「案内してください。この雨戸は? 妙さんが開けたんですか」

「いえ、開いてたんですけど。呼んでも返事がないんで、上がってみたら」

 敏夫は妙の肩を叩き、さらに頷いてみせる。――夏のことだ、風を通すために雨戸を一枚、開けたままにしておいたのだろう。村では当たり前のように行われていることだった。

 妙はおろおろと先に立ち、茶の間を通り抜けて玄関に向かう。玄関を通りすぎたところが表座敷で、そこには仏壇が置かれていた。仏壇の周囲には供物が積み上げられている。つい先だって亡くなった秀司への供物だ。廊下を隔てたその奥がふきの寝間だった。寝間には布団が一組敷かれていて、ふきの身体はそこに横たわっていた。

 布団の周囲には特に異常がなく、木綿地の寝間着は裾がわずかにめくれ上がっている者の、特に乱れた様子もなかった。薄い夏布団が折りたたまれるようにしてきちんと腹の上に乗っている。あまりにも寝乱れた様子がなかったので、一瞬、敏夫はこれは覚悟の自殺ではないかと思った。実際のところ、後藤田家に来る道々、それを予想していたのだが、布団の周囲を探しても特にコップや薬品のようなものは見当たらない。

 枕許に坐り、診察鞄を開きながら、敏夫は矢野妙に坐るように促した。

「妙さんは、何時頃、来たんですか」

「あのう、一時間くらい前です。家を出たとき、九時半でしたから、そのくらい」

「縁側から声をかけて、まっすぐここに来たんですね? ――それから?」

「具合が悪いのかと思って……あの、木曜から具合が悪そうだったんですよ。怠そうにしてて。それで気になって昨日にも様子を見に来たんですけど、そうしたら寝てて」

「木曜――十八日?」聴診器を出しながら、敏夫は問い返した。「具合が悪いって、どんなふうでした」

 妙は困ったように首を振る。

「だから怠そうだったんです。食欲もないみたいでしたし。いかにも気落ちした感じっていうんですか」

「昨日は?」

「寝てました。来て、声をかけても返事がなくて、上がり込んだら寝てたんですよ。ちょうど今日と同じ感じで、あんなふうに雨戸が閉まってて……」

 敏夫は頷いて先を促す。ふきの体内からは、あらゆる音が消失していた。

「枕許に行って、何度か声をかけたら目を開けたんです。木曜日よりうんと具合が悪そうだったんで、先生に来てもらおうか、って言ったんですけど。ふきさんが、いい、って言うもんだから。今から思うと譫言みたいなふうでねえ、布団がどうとか、泥がどうとか言うんですけど要領を得なくて。でも、はっきり先生は呼ばないでくれ、って言ったんですよ。そこだけ、本当にはっきり」

「そう」

「土曜の午後だったでしょう。病院も閉まってる時間だし、ふきさんもいい、って言うものを、無理に先生に来てもらうのも申し訳ないと思って、とにかく夜まで様子を見てたんです。熱があって、水は何度も飲んでたんですけどね、おかゆを作っても口をつけないし、寝てばかりいるんで、また今日来るから、って言い置いて帰ったんです。それで今朝来たら、こんな有様で……」

「熱はどれくらいありました」敏夫は微かに苛立ちながら妙に訊いた。

「八度五分くらいでしたかねえ」

「今朝、この周囲のものを何か弄りましたか」

 いいえ、と妙は首を振る。

「呼んでも返事がないし、なんだか冷たいし。息もしてないふうなんで、大変なことになったんじゃないかと思って。どうしたらいいか分からなくて。茶の間に行って、救急車を呼ぼうと思ったんですよ。でも、救急車は死んだ人は乗せないって言うじゃないですか。もしも死んでるんだったら電話しても仕方ないし、先生に電話しようかとも思ったんですけど、死んだ気がするだけで、死んでないのかもしれないと思って。誰かに見て欲しかったんですけど、隣の家はまだ寝てるふうだし、わざわざ起こしてきてもらうのもねえ。それで娘に相談しようと思いながら、『たも』の前まで行ったら悠子さんがいたんで」

 敏夫は息を吐いた。なぜ昨日のうちに診てくれと言ってこなかったのか、なぜ即座に救急車を呼ばなかったのか、あるいは自分に連絡をしなかったのか。言いたいことは幾つもあるが、そのどれもがいまさら言っても意味のないことだった。

「あのう……ふきさんは」

「亡くなってるね」

 やや冷たい物言いになった。――秀司の時もそうだった。どうしてこの年代の年寄りは、勝手な素人判断をするのか、という苛立ちを押さえることができなかった。具合が悪いのなら、どうして医者に診せない。経験則から勝手な憶測をして、医者に申し訳ないだの、周囲に悪いだのと見当外れな気の使い方をして、そうして自体をみすみす悪化させるのだ。そう――村迫美重子もそうだった。

「昨日、咳はありましたか」

「いえ……気がつかなかったですねえ」

「トイレに行きましたか?」

「わたしがいる間は、寝たきりでした」

「特に痛みを訴えたり、苦しいと言ったりしたりは」

 とんでもない、と妙は首を横に振る。

「そんなことを言ったら、先生を呼びますよ。熱はありましたけど、寝てるだけっていうふうだったんです。譫言みたいなことは言ってましたけど、熱に浮かされてってほどの熱でもありませんでしたねえ。だから、よほど眠いのねえ、と思って」

 そう、と敏夫は呟く。呼吸停止、心停止、血圧はゼロ。瞳孔も散大していて光を入れてみても収縮はない。すでに硬直も全身に及び、非常に強い。

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