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[#地付き]――創世記 第四章.22

作者:日-小野不由美 当前章节:15404 字 更新时间:2026-6-15 17:40

「七月の半ば過ぎに何かがあったんだな。それもたぶん、山入で」

「だろう。その時期にどこかに出かけたのでなければ、汚染源は山入にあるんだ。問題は秀司さんだが」

「山入の三人か、あるいは山入そのもの」

「ということだろうな。丸安の義一さんは、同じ病気かどうかはっきりしないが、もしも同じやつだとすれば、感染時期は恵ちゃんと大同小異だ。ただし義一さんは寝たきりで、自分から出かけることはできなかった。今のところ、丸安製材で具合の悪い者はいないようだから、感染したとすれば見舞客が怪しい。義一さんのところに七月の末、誰か見舞客がなかったか――それも、山入関係者で」

「訊いてみる」静信はメモにそれを書き添えた。「――他には?」

「安森工務店だな。今日、工務店の奈緒さんが診察に来た。うちでできる限りの検査をしたが、明らかな貧血だ。それ以外にこれといった不具合はない。似てるんだよ、恵ちゃんと」

 静信は手を止めて敏夫の顔を見る。

「まさか――?」

「断言はできないが、可能性としては大だ。今日が二十四日だから、もしも奈緒さんが感染したんだとしたら、八月の十日から十七日だ。義一さんの死亡にちょうど重なる」

 安森工務店は丸安製材の分家だ。義一は、安森工業の社長である徳次郎の兄にあたる。仕事の上でも付き合いが深く、家も近いので関係は密だ。

「奈緒さん自身に訊いたところによると、その頃、特にどこかに行ったとか、特に何かがあったということはない。山入に入ってないし、山入の三人にも会っていない。後藤田の秀司さんとは面識がない。名前を聞いたことがある、という程度だ。ただ、製材所に行ったついでに義一さんの様子を見舞って、ということは何度か会ったらしい。もちろん、通夜にも葬儀にも出ている。もしも奈緒さんが例のやつなら、義一さんも例のやつだったと思って間違いないだろう」

 石田は深い息を吐いて頭を振る。

「じゃあ、とにかくそのあたりの調査は若御院の御厚意に甘えることにして……あとは具体的には何を?」

 敏夫は小さく唸った。

「とにかく、情報が少なすぎるんだ。まず、何が起こっているのか確実なところを掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]むことが急務だろう。具体的に言えば、最優先の課題は死亡原因の特定だ。病名の特定、あるいは病因の特定。何が原因でこれだけの死者が出ているのか、それはどういう性質のもので、本当に伝染するのかどうかを明らかにする必要がある。そのために必要なのは臨床例なんだ。今のように、全てが終わって訃報だけが飛び込んでくるようでは、死因の特定も満足にできない」

 静信は呟く。

「けれども、不安に駆られた患者が大挙して病院に押し寄せてくるような事態は避けたい……」

「そう。そのへんがジレンマだ。ネックは初期症状が軽微で見落とされやすいことなんだ。これは石田さんのほうから注意を促して、夏風邪だ、夏バテだと素人判断をせずに病院にかかるように、と呼びかけてもらうしかない。

 石田は頷く。

「とにかく、大至急、チラシを作ります。夏風邪の症状や、夏バテの症状を知らせて、その場合の対処の仕方を告知してはどうかと思うんですが、いかがでしょう」

「そうしてくれるとありがたいな。夏風邪や夏バテの見極め方と、家庭内でどう対応すればいいかを告知して、症状が合致しない、あるいは対処したのに効果がない場合は、病院にかかるようにと呼びかける」

「そうします。これは早急に」

「頼む。それから、おれ以外の医者が出した死亡届が役所に届いたら、即座に知らせて欲しい」

「死亡届をコピーしてお届けします。ファックスは避けたほうがいいでしょうね?」

「そうだな。そのほうがいいだろう。ご足労だが、直接頼む」

「承知しました」

「それらの死亡者については、静信に調査を頼む。あとで調査項目を知らせるから。事情を言うわけにはいかないから、それとなく聞ける範囲内でもやむを得ない。どうせ本人がすでに死んでいるわけだから調べようにも限界があるしな。むしろ、あまり事を荒立てたくない」

 静信は頷いて敏夫を見た。

「溝辺町や保健所には?」

「問題はそれだ。どうしたもんかな」

「伏せておくわけにもいかないだろう? とりあえず、死亡者数は出張所から役所に上がってるんでしょう、石田さん」

「八月分はまだですが、当然、上げることになります」

 敏夫は息を吐いた。

「とりあえず、保健所に報告する義務のあるようなことは起こってないわけだが。死亡が多いことは報告する必要があるだろうな」

 石田は頷く。

「何らかの疾病が集団発生している可能性があることを報告します」

「相手が信用してくれるか、問題視して対応に乗り出してくれるかどうかは疑問だがな。とりあえずこれまでの経過を取りまとめて知らせる。あとはこまめに経過を報告することだな」

「一週間ごとでいいですか?」

「いいだろう。後は、それとなく兼正に話を繋いでおいたほうがいいだろう。これはおれから連絡しておく」

「田茂は?」と、静信は訊いた。田茂定市は実質上の村長であると言っていい。本来的なら、三役を招集すべき事態だ。「定市さんにも知らせておく必要があるんじゃないだろうか」

 敏夫は考え込む。

「まだ伏せておこう、定市さんには悪いが。なにしろ疑惑だけがあって、何ひとつ確定しているわけじゃないからな。定市さんのほうから問いかけがあれば、実情を報告しないわけにはいかないが、そうでなければ、せめて伝染病かどうかが確定してからのほうがいいだろう。あの人もこれを知れば、区長会に報告しないわけにはいかなくなるからな」

 そうですね、と石田が頷いてメモを取っていた手帳を閉じた。

「では、当面はこの線で」

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 敏夫は石田と連れだって庫裡を出た。境内は文字通り滝のような雨に洗われている。たたでさえ乏しい該当が水煙で滲んで、境内はいっそう暗かった。

 石田の車で病院まで送ってもらうことにし、敏夫はほとんど用をなさない傘をさしかけて境内を小走りに横切った。足許は水たまりのない場所を探す方が難しい。白いカローラに乗り込んだときには、すでに膝から下がずぶぬれになっていた。

 運転席に石田が滑り込み、ドアを閉める。とたんに雨音が少し間遠になって、車の中には密室に特有の静けさが訪れた。

「……石田さん、相談があるんだが」

 はい、と石田はエンジンを掛け、敏夫のほうを振り返る。

「この件、しばらく伏せておいてもらえないか」

「ええ、それは、もちろん」

 敏夫は湿気で曇ったフロントガラスの向こう、境内の闇と雨を見つめながら言う。

「そういう意味じゃない。しばらく、上には報告しないでもらいたいんだ。おれが良いと言うまで、外場の外には出さないでもらいたい」

 石田は瞬いた。でも、と言いかけた石田を制して、敏夫は取りあえず車を出すよう促した。尾崎医院の前までほんの少しの道程、それを無言で通し、着いたところで口を開いた。夜の駐車場、周囲は見通しの利かない雨の幕、車の中は完全に外界から隔絶されている。

「……石田さん。実を言えば、おれはこれを疫病だと思っている。おそらく間違いないだろう。それも尋常のやつじゃない。調べても調べても、症状に合致する伝染病が出てこないんだ」

「まさか、新種の?」

「新種なのか変異種なのか分からない。ひょっとしたら、単にそう見えるだけかもしれないが。いずれにしても確実なのは、こいつはとんでもない代物である可能性がある、ということだ。目に見える被害者だけを見ていると、こいつは恐ろしく致死率が高い。もちろん、不顕性感染ということもある。発症したが誰も気づかないうちに治癒してしまった、ということがね。だがそうでない場合、急激に悪化して対処のしようもないほど即座に死亡する。しかも死亡診断書を見る限り、周囲が発症に気づいた段階では、すでに打つ手がないに等しいんだ」

 石田は、こくりと喉を鳴らした。

「感染したら必ず発症するものかどうかは分からない。だが、発症したら手がつけられない、という印象を、おれは抱いている。それが山入から始まって、外場を汚染してている。こうしている間にも広がっている」

「は……はい、ええ」

「これを行政に訴える。すると何が起こると思う?」

「何がって……」

「これが結局のところ、知られている伝染病だっていうなら怖くないんだ。おれにだって報告の義務がある。黙っているわけにはいかない。しかしこれが、さっきも言ったように新種の何かだったら? その場合、行政に何かできるのかい」

 石田は喉の奥で呻った。

「……できません。伝染病予防法に定められた伝染病か、食品衛生法に定められた食中毒でない限り、対応の拠り所になるものがないです」

「その通りだ。こいつの場合、食中毒はない。伝染病予防法に定められた伝染病は?」

「ええと……」

「法定伝染病十一種、指定伝染病二種、届け出伝染病十二種、寄生虫病予防法、結核予防法、らい予防法によるもの各一種、性病予防法によるもの四種で計三十二種。さらにサーベイランス事業の対象となる感染症のうち、三十二種と重複しないもの。――この中に含まれていれば問題ないんだ。たとえ変異種であろうとな。しかし、もしそうでなかったら? 行政には手出しのしようがない」

「はい……」

 石田は震えた。その通りだ。法的な拠り所がなければ患者を隔離することすらできない。本人の意向を無視して医者と役所の独断で身柄を拘束することはできないのだ。

「そこをゴ押しして救済を求めるには、金政の息子は頼りない。あんたの言う通りだ。先代が生きていてくれりゃ良かったんだがな。これが外に漏れても行政の援助は期待できない。それだけじゃない。もしも、新種の疫病だったとして、しかもそれが直接伝播するということになったら、何が起こると思う?」

「……分かりません」

「エボラを見ても分かるだろう。封じ込めだよ。得体の知れない伝染病が外場で流行っていると漏れる。するととにかくまず、打つ手としては封じ込めしかないんだ。外場を隔離して、患者の流出を防ごうとする。それも法的な根拠がなければ、陰湿な形にならざるを得ない。行政と医師会が結託して、水面下で外場を隔離するように動く。そうなるしかないんだ」

「はい、ええ」

「確かに、それで流行の拡大は防げるかもしれない。特にこいつのように致死率の高い伝染病に封じ込めは有効だ。だが、それでは外場は救われないんだよ、石田さん。火事の時に消防車を出さずに見守って、自然鎮火に任せるに等しい。燃え草がなくなれば自然鎮火するかもしれないが、そうすれば外場はどうなる?」

 石田は頷いた。

「おれは事態を揉み消したいわけじゃない。もしも法定伝染病ならおれには報告の義務があるし、もちろんそうと確定した時点で報告をするさ。直接伝播ではないことが確認されて、だから外場を封じ込めても意味がないんだと訴えられるようであれば、行政を突き上げる。だが、本当に汚染源が山入で、これがまだ外場にしかない伝染病で、直接伝播するということになれば、デリケートな取り扱いを要する」

「若先生の言うことは分かります。分かりますが……」

「本当に直接伝播するなら、おれだって対応策は考えるさ。自主的に封じ込める努力だってするし、医師会を通じてそれとなく通告もする。それに関しては、約束するから、しばらく伏せいておいてくれないか」

 石田は返答に迷った。逡巡を見透かしたように、敏夫は石田を見る。どこか底冷えのする声で低く囁いた。

「外に飛び火したほうがいいんだよ、石田さん。もしも行政に手出しできない種類のことならね。自分たちの足許に火が点かなきゃ、連中は何もしない。自分たちを守る以外のことは、なにひとつ」

「若先生」

「普賢岳、奥尻島、松本」

 敏夫は呪文を唱えるように囁く。

「……あんたが、行政は現場の人間を救うために努力すると信じるのなら、その根拠を聞かせてもらおう」

 石田は口を開きかけ、迷った末に噤んだ。石田の沈黙を見て取って、敏夫は助手席のドアを開ける。途端に耳を聾するほどの雨音と水煙が流れ込んできた。

「悪いな、石田さん。よろしく頼む」

「……はい」

 車から降りた敏夫は、身を屈めて石田に言う。

「それから、このことは静信にも内密にしといてくれないか。あいつは理想主義者でね、清濁を併せ呑むということができないんだ」

 分かりました、とだけ石田は答えた。

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二章

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 田島予研に大至急で頼む、と依頼した奈緒の検査結果が敏夫の手元に届いたのは、翌日の昼前のことだった。昨夜の雨は上がっている。またうんざりするような陽射しが降り注いでいた。

 コーヒーと一緒に検査表を運んできた律子は、少しの間に本で埋め尽くされた控え室を見て溜息をついた。少し片づけてもいいですか、と言うので律子の好きにさせ、敏夫は検査結果に見入る。昨日、病院で行った簡単な検査の結果と突き合わせてみた。

 恵の場合と同じだった。各種血球の減少、ヘモグロビン量、ヘマトクリット値の減少。明らかな貧血傾向。しかも正球性正色素性貧血。ただし、血清ビリルビン、LDHは正常値。その他の値も正常で、肝機能、腎機能には異常が見られない。特に追加したクームス試験の結果も陰性。これが陰性である以上、通常の溶血ではない。恵と同じだ。貧血以外にはこれといって不具合はないように見える。

(本当に単なる貧血なのか、それとも……)

 昨夜、末梢血の塗抹標本と骨髄液の標本を顕微鏡にかけた。血液像では網赤血球が増加しており、有核赤血球も見られた。骨髄では赤芽球の過形成が起こっているが、血液学の専門家ではない敏夫では形態異常は発見できなかった。血液造血レベルの以上ではないように思える。むしろ大量に赤血球が消費されているために、造血が促進されて幼若な赤血球が放出されていると考えた方がいいのだと思う。

(だとしたら)

 内出血による喪失か、あるいは溶血による破壊亢進か。

(内出血はない……)

 触診でもレントゲン像でも、特にない出血は見られなかった。内臓の腫大も、とりあえずないように見える。

(しかし、溶血とも思えない)

 クームス試験の結果は陰性。自己免疫性の溶血ではないし、赤血球像からすると、赤血球の形態異常から来る溶血でもない。血清ビリルビンやLDHが正常なところからしても溶血とは思えない。

 何度、検討してみても、考えれば考えるほど全ての可能性が否定されるように思われた。起こるはずのないことが起こっている。何かがおかしい。

 敏夫は深く考え込んでいたので、本の山を整理していた律子が、何かを話しかけてきているのにしばらく気づかなかった。

「――先生、聞いてます?」

「ん? ああ?」

 律子は少し表情は曇らせた。

「そんなに悪いんですか、奈緒さん」

「いや。そういうわけじゃない。ちょっと理に合わない結果が出てるような気がしてるだけだ。――何がどうしたって?」

 律子は苦笑する。

「大したことじゃないです。ゆうべ、あちこちで山が崩れたようですねって」

「へえ?」

「さっき、中外場の佐川さんが来てたんです、物療に。佐川のお爺ちゃんのところ、西山の崖に面して建ってるんだけど、ゆうべそれが崩れて泥が家の中に入ってきたんですって。後始末が大変だって嘆いてました」

「そりゃあ――泥を被ったぐらいで済んで良かったな」

「お爺ちゃんもそう言ってましたけどね。座敷が泥田になったけど、そんなもんで済んで良かったって。本格的に崩れたら大事になってたかもしれませんもんね」

「まったくだ」

「北山でも崩れたんじゃないかなあ。ゆうべ音を聞いたんですよ。発破でも使うみたいな音で、どーんって」

「……北山?」

 ええ、とり律子は頷く。律子の家は上外場にある。北山の麓に近い。

「北山だと思うんです。音からすると、かなり大きな崖崩れだったんじゃないかしら。でも、北山ってお寺さんの地所だから、人も入りませんしね」

 そうだな、と敏夫は呟いた。静信に知らせておいたほうがいいだろうか。思っていると、律子が最後の本をローテーブルの上に積み上げた。

「開いてあったページにメモ用紙を挟んで分かるようにしてありますから、安心してくださいね」

 ありがとう、と苦笑して、敏夫は下がろうとする律子を呼び止めた。

「悪いんだがね、律ちゃん。工務店に電話して奈緒さんの様子を訊いてくれ。本人でなければ家族でもいい。とにかく様子を訊いて、再検査のために夕方でもいいから、必ず来るようにと」

 律子は眉を顰めた。

「そんなに……?」

「悪いわけじゃない、と言ったろう。検査結果が変なんだ。もう一度調べ直しとこうかと思ってね」

 そうですか、と律子は釈然としないふうだった。トレイを抱いて退がろうとする律子を、もういちど呼び止める。

「そうだ、律ちゃん、もうひとつ。昼休みが終わったら、受付開始の前にみんなを集めてくれないか」

「はい?」

「予約制を入れようと思う。全ての患者に、というわけじゃない。おれが指示した患者だけでいい」

「あの……明日から、ですか?」

 敏夫は頷く。細かい指示はみんなが集まってからするから、と退がらせたが、律子の表情はどこか不安げだった。

 怪しんだろうな、と思い、敏夫はそれでいいのだ、と自分を納得させる。病院のスタッフは最前線にいる。早晩、異常な事態に気づくし、また、最前線で脅威に立ち向かわざるを得ない以上、いつまでも伏せてはおけない。

「どういうことだと思います?」

 律子はやすよに訊いた。やすよは清美と目を見交わし合い、重々しく頷く。

「……やっぱりね。何か変だと思ったのよ」

 そうね、と清美は溜息をついた。

「安森の若奥さんを明らかに警戒してる感じだったものねえ」

 どういうことですか、と聡子も雪も首を傾げた。やすよは逞しい腕を組む。

「だからね、このところ死人が多いじゃない。雪ちゃん達はピンと来ないかもしれないけど、、八月に入ってから、何か変なのよね」

「そうなんですか?」

「そう思うのも無理はないけど。なにしろ、患者が来ないで、死んだって知らせだけが来るんだものね。それも、朝っぱらから。あたし達が出勤する前だもんねえ」

 清美も頷く。

「上外場で四十前の人が死んだでしょ。それから山入で三人」

 ああ、と雪も聡子も頷く。

「その後で、下外場の高校生。でもって、義一さんと最初に死んだ人のお母さん」

 ええ、と雪は折った指を見た。

「七人ですか? 八月に入ってから?」

「そうなのよ。絶対におかしいと思ったのよね。死に事っていうのは不思議に続くもんだけど、どう考えても続きすぎだもの」

「何が起こってるんでしょう」

 律子が二人に訊くと、年配の看護婦達は心得たふうに頷く。

「伝染病じゃないかしら。少なくとも若先生はそれを疑ってるんでしょ。これからも患者が来るかもしれないから、そういう患者だけ優先的にきっちり診られるようにしておきたいのよ」

「じゃあ、奈緒さんも……」

「あの警戒ぶりからすると、疑ってるんでしょうね」

 雪と聡子は不安そうに目配せをする。

「あの……あたしたち、大丈夫なんでしょうか」

 やすよは首を傾げる。

「さあね。でも、危険があれば若先生が言うでしょ。何も言わないってことは、まだ確証がないか、とりあえず病院は大丈夫なんじゃない。あの人は、そういうとこだけは、きっちりした医者だからね」

 清美は再び溜息をついた。

「とにかく、消毒と手袋の着用だけはちょっと意識して徹底しといたほうがいいわ。あたしたちもそのくらいは心得とかないと」

 やすよは頷く。

「最近は得体の知れない病気があるもんねえ。……妙な病気でなきゃいいんだけど」

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 静信は路肩に車を停めて、敏夫の作ったメモを見つめた。そこには調べなければならない要素が列記してある。

 死亡者の性別、年齢、職業。教育歴と生活水準。住居環境、特に井戸の使用状況。家族構成、婚姻状態、両親の年齢、出生順位、家族の健康状態。本人の既往歴、飲酒?喫煙などの嗜好、食生活、習慣。日頃の行動半径、特に七月の行動。メモに従ってノートを作り、埋められる箇所は死亡診断書や戸籍から埋めておいたものの、空欄は多い。

 発病の順番から言えば、最初に罹患したのは山入の三人。義五郎から移ったという三重子の言を信じるなら、大川義五郎だと思われる。感染したと推定されるのは、七月の中旬あたり。もしもこの頃、義五郎達がどこかに出かけていれば、そこで感染したことも考えられる。――これは遺族に訊いてみれば、すぐに分かるだろうと静信は最初、楽観していた。ところが、話はそう簡単ではなかったのだった。

 村迫秀正は、妻、妹、甥の三人を失っている。ごく親しい血縁はもう村には残っていなかった。だが幸い、山入の三人の葬儀は寺で行われており、村迫家の縁者の連絡先が寺に残っていた。もともと山入に住んでいて、いまは下の集落の親族の許に身を寄せている古老とも連絡がついたが、電話してみた結果は虚しかった。誰も、村迫夫妻の最近の動向を知らない。

 村迫家の子供達は、決して両親と縁が切れていたわけではなかったが、結局のところ両親は、外場に置き去りにしてきたものの一部なのだった。忘れているわけではない、疎遠なわけでもない、ましてや情愛を失ったわけではなくても、彼らには彼らの生活がある。ひとむかし前なら盆正月に帰省して、親交を暖めることもあっただろうが、子供が小さければ塾だ習い事だと、住居を離れられない事情があるし、子供が独立する年齢に達すれば、彼らのほうが家に留まって子供の帰省を待ち受けることになる。結果として、田舎に置き去りにされた両親は、顧みられることが減っていくのだった。

「具合でも悪ければねえ」と、秀正の娘は言った。「こっちも心配だから様子を窺うんですけどね。なにしろ二人とも元気だったから。こっちも心配しないでいいんだと思うと、なんていうか――忘れてしまうんです。気にかからなくなっちゃって」

 彼女は自分が密に連絡を取っていなかったことを悔いていたが、この場合、何の助けにもならないことは確実だった。

 とりあえず取れる限りの連絡を取ってみて、静信は村迫家に関しては――少なくとも親類縁者の線から、何かの情報を得ることは不可能に近い、と悟らざるを得なかった。事情を明かして丹念な質問ができればともかく、ありもしない用を捏造して、ついでを装う限り、訊けることにも限界があった。

 残るは大川義五郎だが、と静信は車を村道に向ける。大川義五郎には、村に甥が残されている。大川酒店の大川富雄がそれだった。とりあえず遣い物を買うふりで、静信は大川酒店を訪ねたのだった。

 世間話のついで、義五郎の死について触れ、さぞかしお寂しいでしょうね、と静信は大川に話の水を向けてみた。

「いやいや」と、大川富雄は笑い混じりに顔を顰めて手を振る。「もう歳だったからね、あの爺さんも」

「けれども、驚かれたでしょう」

「驚いたと言やあ、驚いたけどね。なにしろ手前の伯父貴がいきなり死んで、警察から連絡があったんだからね。おまけに行ってみりゃあ、相好の区別もつかないほど腐って、バラバラになってるって話だ。まあ、滅多に経験することじゃないのは確かだな」

 そうでしょうね、と静信は頷く。

「大将が最後に義五郎さんにお会いになったのは、いつ頃でした?」

 いつだったかな、と大川は酒瓶を包みながら首を傾げる。

「そう頻繁に会うわけじゃなかったからな。こう言っちゃあ何だが、可愛気のある爺さんでもなかったから、用がなきゃ会おうって気にもならなかったからね。向こうだってろくすっぽ連絡をしてくるわけでない、たまに電話してきたと思ったら、出かけるから車を出せだの、あれを買ってこい、これを都合してくれって話でね」言って、大川は口許を歪める。「甥なんだから自分の都合を聞いてくれて当然だと思ってたんだろう。ひょっこり店にやってきちゃ、店のものを持っていって代金を置いていったこともない。なにしろ手前の都合ばっかりでね。こっちだって、伯父貴だってだけで偉そうにされちゃあ適わない。いつまでも洟垂れ小僧ってわけじゃないんだから。そう言うと、二言目にはおれを何だと思ってるんだって煩いんで、死に損ないの糞爺だと思ってらあ、って怒鳴り返してやったんだ」

 大川は言って、大きな体を揺すって笑った。静信はその大声に眉を顰めながら、では、と問う。

「あの事件の直前には会ってないんですか」

「会ってないねえ。前にも――ありゃあ、春先だったかなあ、いきなりやってきて棚から酒瓶抜いて帰ろうとするんでね、代金ぐらい置いていきやがれって怒鳴ったんだよ。そしたら、親戚の間で細かいことを言うな、なんてぬかしやがる。親戚親戚って、こっちは爺さんに助けてもらった覚えも、役に立ってもらった覚えもないからね、そういうことは親戚らしいことをしてから言えって、酒瓶を取り上げて、店の表に突き出してやったんだ。そうしたら、店の表で、だいたいお前は昔からどうだのと怒鳴り始めてね。あんまり腹が立ったんで水を撒いてやったんだよ。そしたら、二度と来ねえ、縁を切る、なんてことを言ってたけどね」

「……そうですか」

「それから性懲りもなく、車を出してくれだの、JA行ってくれだの電話がかかってましたけどね、電話、叩き切ってやったんで最近はそれもなくてね。そしたら、いきなり警察から電話があって、くたばったって話でさ。いまさら葬式出してやる義理もねえようなもんだけど、身内はもう、おれだけだからね。あとはみんな、おっ死ぬか村を出るかしちまってて。さすがに葬式もないのは哀れなんで、最後の最後に面倒を見てやったけどね。おれもたいがい、人が好いよ」

 大川は身体を揺らして笑った。妻のかず子も追従するように笑う。静信は割り切れない思いで代金を払い、店を出た。店の脇では、大川の息子の篤が、まるで敵でも襲うような調子で段ボール箱を壊していた。軽く会釈すると、ぷいとそっぽを向く。膝丈のスウェットから出た素足には包帯が巻かれていた。怪我ですか、と問いかけてみたが、突き放すような調子で、犬に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれた、とだけ答えが返ってきた。篤には静信と会話をする気がなさそうだった。静信もそれ以上、話の接ぎ穂を見つけられず大川酒店を後にする。

 溜息が漏れた。大川のあの調子では、義五郎の動向など分からないだろう。義五郎は村外にも、ほとんど付き合いのある縁者がいない。かろうじて義五郎と親しかったのは誰だろう、と大川に問いかけてみたものの、これにはあっさりと「村迫のとっつぁん以外にはおらんだろう」という答えが返ってきた。

 山入は孤立していたのだ、と静信はメモを見ながら思う。地理的に下の六集落から孤立していただけでなく、地縁的にも血縁的にも孤立していた。確かに、そうでなければ、いつまでもあんな山奥には残るまい。多くのものから見放された老人が三人、肩を寄せ合って暮らしていたのだ。その三人がいっときに死んでしまって、三人の生命の足跡さえ宙に浮いた――。

 無に帰す、とはこういうことか、と静信は思った。人の拠って立つところのものを、全て無意味なものに還元してしまう。

 ――だから死は酷いことなのよ。

「その通りだ……」

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 安森奈緒は、結局、二十六日の朝、夫の幹康に抱きかかえられるようにして来院した。敏夫は愕然とせざるを得なかった。奈緒は半ば朦朧とし、支えがなければ満足に歩くこともできないように見えた。

「奈緒さん、どんな具合です?」

 問いかけたが、奈緒の返答はない。いかにも億劫そうに口を動かしたが、ついに返答は出てて来なかった。とにかく診察台に横になるよう指示する。看護婦に支えられて診察台に昇る奈緒を、付き添った幹康がいかにも心配そうに見守っていた。

「敏夫さん、奈緒はどうしたんですか」

「それが分からないから、再検査しようということだったんだが。一昨日、来てもらったときに、具合が少しでも悪いようなら必ず翌日にも来るようにと言ったんだが、昨日は来なかったな」

 幹康は首を振った。

「そう言う話は何もしてなかったな。母さんが結果を聞いたら、貧血だろうと言われた、とは言ってたけど」

「昨日、奈緒さんはどうだった」

「一日中、寝てたと思う。おれは仕事してたんで、一日ついてたわけじゃないけど。熱もあるようだったし、ひどく怠そうで」

 敏夫は頷く。奈緒の顔色は相変わらず悪い。ノースリーブのワンピースの襟ぐりや二の腕がいかにも青白い印象を与えた。その腕の内側に顆粒状の紫斑が見える。首筋や腕のあちこちに虫刺されの痕が見えたから、あるいは掻いた痕かもしれない。だが、その虫刺されの痕は膿んでいるふうだ。

 呼吸は浅く、診察台に横になる間にも、もう息を切らしている。脈を取ってみるとかなり速い。熱があるようだが手足は冷たく、うっすらと冷や汗をかいている。

「やすよさん」敏夫は指示をメモ書きして、やすよを呼んだ。「血液検査。頻脈があるんで、念のために心電図を取っておいてくれ。あと、下山さんに言ってUSとCTの準備」

「あ――はい」

 不安そうな表情をした幹生を、敏夫は控え室に連れて行った。

「敏夫さん、あの……奈緒、どうかしたんですか」

「まあ、坐って」敏夫はソファを示す。

「なんか悪い病気なんですか」

「いや。少なくとも今のところ、特に重大な病気だという証拠はないな」

 幹康は細面の顔に、縋るような表情を浮かべている。同じ門前、家も近いし、年齢こそは四つ離れているものの、幼なじみの部類に入る。負けん気の強い敏夫は餓鬼大将だったから、小さい頃は子分のようなものだった、と言ってもいい。小さい頃もこんなふうだった。困ったことがあると、縋るような顔をして敏夫を見る。

「でも……」

「今の段階ではなんとも言えないんだ」言って、敏夫は再度ソファを示して幹生を座らせた。「奈緒さんはいつから悪かったんだ?」

「ええと……二、三日前かな」

「一昨日? その前?」

「その前の日から怠そうだったよ。母さんが何度も大丈夫かって訊いてたから。病院に行け行けって言って」

「さらにその前日は?」

「どうだったろう……。覚えてない。特に悪い感じはしなかったんじゃないかな」

「幹康はどうだ?」

 敏夫が訊くと、幹康は瞬いた。

「おれ?」

「お前でも、徳次郎さんでも節子さんでもいい。あるいは工務店の若いのでも。誰か同じように具合が悪そうな人間はいなかったか? もしもいたとすれば、夏風邪かなんかを移されたとも考えられるんだが」

 幹康は首を傾けて考え込み、ややあって、いないと思う、と答えた。そうか、と敏夫は息をつく。

「一昨日、来てもらったときに、いろいろと検査をしたんだがね、結果はとりあえず貧血がある、それだけのことだったんだ。整理中でもあるってことだったから、ごく単純な貧血だ、と言いたいところだ。――だが貧血といっても、いろいろあるからな」

 幹康は血相を変えた。

「その……おれは詳しくないんだけど、悪性貧血とか、不良貧血とかあるんだよね?」

「少なくとも検査結果から見る限り、悪性貧血や再生不良性貧血はないと思う。たぶん、そういう造血レベルの問題じゃない。疑わしいのは溶血性貧血ってやつなんだが、これは確かなこととは言えない」

「それ、かなりヤバいんですか」

「おいおい」敏夫は無理にも笑ってみせた。「そういうことじゃない。実を言うと、良く分からないんだ。溶血性貧血のように見えるが、少しそれとも違う感じだしな。しばらく様子を見てもいいんだが、この陽気だろう。なんのかんのと言っても工務店の若奥さんだ。気苦労もあるだろうし、出入りの若い衆の面倒も見なきゃならん。手のかかる子供もいる、体力がどっと落ちる時期でもあるんで、ちょっと大事を取っておこう、って話さ」

「なんだ……」幹康は息を吐いた。「脅かさないでくださいよぉ。わざわざ看護婦さんから連絡があって、連れてこいって言うし、いきなり物々しい検査の話をしてるし、おれ、てっきり」

「まあ、だが、病名がはっきりするまで油断はしないほうがいい。かなり具合が悪そうなのは事実だしな。念のために血液を再検査して、CTかけるから、それでもはっきりしないようなら、国立病院に連れて行くんだな。なんなら大学病院に紹介状を書くから」

「ああ……うん。はい」

 敏夫はあえて、恵のことには触れなかった。幹康は安堵したようだったが、そうやって慰めた敏夫は安堵できない。奈緒は格段に悪くなっている。この勢いのつきかたが、いかにも不安だった。

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 静信は「ちぐさ」の脇に廻り、自宅のほうの玄関先を覗き込んだ。居間でテレビを見ていた矢野妙は、すぐに静信の姿に気づき、あら、と声を上げて出てくる。

「どうなすったんですか」

「溝辺町に行ってきたもので。お店で一服していこうと思ったんですけど、妙さんはどうしていらっしゃるかと思って」

「お上がりください」言ってから、妙は気づいたように、「ああ、店のほうにいらしてください。若御院は麦茶よりもコーヒーのほうがいいでしょう? あっちならクーラーもありますしね」

 突っかけを引っかけて静信の先に立ち、店のほうへと向かう妙は、どことなく瘠せたふうだった。

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