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[#地付き]――創世記 第四章.5

作者:日-小野不由美 当前章节:15460 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 柚木が血相を変え、窓辺に駆け寄った。後に続いて静信も駆け寄ると、ちょうど公民館の脇、傾斜の関係で窓と同じ高さに見える村道に黒塗りの車が止まっていた。フェンダーの脇には子供用の自転車が横転している。

「大丈夫か!」

 柚木は滅多に出さない大声を上げ、血相を変えて図書館を駆けだした。静信もそれに続き、公民館から村道へと出る。静信と柚木が駆けつけたとき、ちょうど車の運転手が自転車を抱えて道の脇へと放り出そうとしているところだった。

「――怪我は」

 柚木の声に、道ばたにしゃがみ込んだ三人ほどの子供が顔を上げる。柚木の姿を見るなり、わっと泣き出した。運転手はそれを振り返りもせず、自転車を路側帯に投げ出すと車の前を回って運転席に乗り込もうとした。それは全く、車の通行の邪魔になる障害物を取り除いた、という態度だった。

「おい、お前」

 近所の酒屋から駆けつけてきたのは、店主の大川富雄だ。大川は怒声を上げて車に駆け寄り、閉じようとしていた運転席のドアを[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。黒いメルセデスは村ではついぞ見かけたことのない代物だった。運転手の顔も見かけない。村の者ではない。果たして自分の置かれた状況を理解しているのか、どんよりと無感動な表情をして前方を見つめていた。

「とにかく、降りてこい」

 大川の声にも、男は反応しなかった。五十代の初頭だろうか、車にふさわしく羽振りよさげな身なりをした恰幅の良い男だったが、それにしては生気のない濁った目をしている。静信一瞬、男が泥酔しているように思った。

「降りてきて子供を介抱しようってきはないのか。お前、どこの者だ」

 静信が見たところ、子供たちに大事はない様子だった。それでも一人は足を抱えて蹲り、柚木に縋って泣きじゃくっている。痛むのか驚いたのか、泣けるようなら最悪のことはないだろう。

「どうした? ぶつかったのかい?」

 静信が声をかけると、子供たちは頷く。小学校の低学年だろう。道ばたに放り出された自転車は小さな子供用のもので、後輪が歪んでいる。

 それらのものを静信が見て取っている間に、変速機がリリースする音がした。車が動き始め、大川が怒声を上げる。

「おい! あんた!」

 静信はぎょっとした。運転席のドアを開けたまま車が動き出していた。ドアに手をかけた大川の、巨漢と言っていい体躯[#《「躯」は旧字体。Unicode:U+8EC0]がほんのわずか引きずられて横転する。黒い車はそのまま村道を川上に向かって走り出し、ドアを閉めるとスピードを上げて遠ざかっていった。

「大川さん、大丈夫ですか」

 道端の草叢に放り出された大川は、顔を歪めて身を起こす。怒気を露わにした表情で去っていく車のほうを睨みすえた。

「何者だ、あいつは!」

 吐き捨てるように言って、静信を振り返る。

「若御院、ナンバーを見ましたか」

 静信は首を横に振る。とっさのことで、そこまでは気が回らなかった。

「村の者じゃなさそうだったな。見たことのねえ車だ。まったく、近頃はろくな連中が出入りしない」

 大川は車が去った方を忌々しげに見やった。

「とにかく駐在の高見さんに――」大川は言いかけ、泣いている子供たちを思い出したように振り返った。「いや、その子らが先か。怪我は」

「大事はないようです。とにかく病院に連れて行きます。ぼくが車で来ていますから」

 大川は息を吐いて、子供たちの側に屈み込む。

「さあ、泣くんじゃねえ。いま、若御院が病院に連れて行ってくれるからな」

 大川のその声に同意するように、柚木が慰めの言葉をかけながら子供たちを順番に撫でた。

「まったく、なんて奴だ」大川は吐き捨て、静信を振り返る。「この子をお願いしますよ。高見さんへは俺が連絡しとくんで」

 静信は頷いた。騒ぎを聞きつけたのか、村人が集まってきていた。

 怪我をしたのは下外場の子供で前田茂樹といった。

「打ち身と擦り傷だな。車にぶつかったわけじゃなく、自転車を引っかけられて転んだだけだろう」

 敏夫はレントゲンを見ながら、そう言った。

「車のほうも、そんなに飛ばしていたわけじゃないんだろうな。特に頭を打っている様子もないし、まあ、この程度済んで良かったよ」

 静信は軽く息を吐く。静信の背後からレントゲンに見入っていた駐在の高見も同様にして息を吐いた。

「そりゃあ、良かった。一安心だ」

 診察室には、敏夫と静信、高見だけ。家族はまだ来ていない。怪我をした子供の顔に、静信は見覚えがなかった。本人が住所と名前を名乗ったものの、家に電話しても誰も出ない。おそらくは、田圃に出るか山に入るかしているのだろう。近所の者に連絡をして、家族を捜してもらっているところだった。

「にしても」と敏夫は肩を竦める。「解せない話だな。見覚えのない車だったって?」

 静信は頷いた。

「村の者じゃないと思う。見覚えのない顔だったし」

「そんな安請け合いをしていいのか? お前、茂樹くんの顔だって知らなかったんだろう」

「どうやら檀家ではないようだし、檀家でも子供の顔までは覚えてないいけれど。けれどもあの車は違うと思う。黒のベンツだったから」

 ははあ、と敏夫は頷いた。高見も意を得たように頷く。

「なるほど、ベンツは見かけたことがないですねえ。この村で外車っていうと、若先生の奥さんのBMWぐらいしか思いつきませんからな」

 敏夫は笑った。

「うちの十和田君はゴルフに乗ってるし、看護婦の汐見くんはミニだよ」

 や、と高見は額を叩いた。

「――だがまあ、ベンツはさすがにないだろうな。そんな車に乗ってる奴がいたら、噂が耳に届くだろう。しかし高見さん、いちおう調べといたほうがいいぜ」

 高見は頷いた。

「もちろんです。当て逃げですからな。しかもドアを[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ大川の大将を引きずって逃げ出したってんだから悪質です。ですが先生、村の者にそういうことをしでかす者がいますかね」

「間の悪いことや、魔が差すことはあるさ」

 けれど、と静信は口を挟む。

「運転手の様子がおかしかったんだ。うまく言えないのだけど……そう、酩酊しているような感じ。それも酒に酔っているというふうじゃなくて、麻薬にでも酔ってるような感じだった」

 静信は、運転手の疲れたような目つきを思い出した。

「そりゃあ、村の者じゃないですねえ」

「そう即断しないほうがいいぜ、高見さん。静信、お前、麻薬中毒患者に会ったことがあるのか?」

「なけれど。酩酊しているふうだったんだ。けれども酒に酔ってる顔つきじゃなかった。大川さんも酒の匂いはしなかったといっていたし」

「|滝《たき》の親父さんも似たようなことを言ってましたよ」高見はボールペンの頭で額を掻く。「ちょうど水利組合の窓から車を見かけたらしいんですがね。車種は分からないけど黒い大きな車が、妙にフラフラしながら村道を走っているのを見たそうで。よっぱらってんじゃないのか、と思ったらあの騒ぎでしょう。現場に駆けつけてきて、やっぱり事故ったかって憤慨してましたから」

「ふうん」

「村にせめて警察の分署がありゃあねえ」高見は息を吐いた。「北のほうに走ってったってえ話なんで、ぱっと村の出入り口に検問を布きゃあ、目立つ車ですから一発なんですけど。いちおう署には連絡しときましたが、あそこからパトカーが駆けつけたって間に合いませんや。今頃は村の中を迂回して逃げ出しちまってるでしょう」

「だろうな。おまけに肝心の被害者が打ち身と擦り傷じゃあな」

「そうですねえ」呟いて、高見はふと気づいたように視線を落としていた手帳から顔を上げた。「ねえ、若御院。それ、兼正の家の車ってことはないですかね」

 静信は瞬く。

「兼正――あの?」

「あれだけの家を建てた御仁ですよ、いかにもベンツなんか乗り回していそうじゃないですか」

「しかし、あの家は、まだ越してきていないでしょう」

「でもほら、虫送りの日にトラックが来たって」

「やってきて、引き返したって話だろう」敏夫が口を挟む。「あれきり、引越があったって話も聞かないし、住人が越してきた様子もないじゃないか」

「そうっと越してきたのかもしれないじゃないですか」

 敏夫は呆れたように笑った。

「この村で、そんなことができるもんか。それでなくてもあの家は注目されてるんだから、住人が越してきた気配がチラとでもあれば、翌日には村中に広まってる」

「それはそうなんですけど。……じゃあ、家の者が、様子を見に来たとか」

「それなら、なくはないだろうが」敏夫は言って、静信を見る。「でも、お前は顔を見たんだよな? もしもこの先、住人が越してきたとき、顔を見れば分かるだろう」

「そればっかりは会ってみないと」

 静信はそう答えた。なにしろとっさのことで、ナンバープレートを読み取ることも思いつかなかったぐらいだから、いささか心許ない。あのどこか異常な目の色は覚えているが、顔の造作を覚えているかと問われると自信がなかった。

 敏夫は大仰に息を吐く。

「あとは、タケムラの婆さんたちに訊いてみるんだな。村道を来たっていうんだから、あの連中が村に入ってきたところを見ているだろう。上手くすれば、ナンバーを覚えているかもしれないぜ」

 静信と高見は顔を見合わせて失笑した。タケムラ文具店の店先には、常に付近の老人たちがたむろしている。まさか監視しているわけでもないだろうが、村に出入りする者の同行に呆れるぐらい詳しかった。

 高見は苦笑しながら刈り上げた頭を掻く。

「とにかく、車を見かけた者がいないか、訊いてみますけどね。こりゃあ、下手をすると犯人は捕まえようがないかもなあ」

 高見が溜息交じりに呟いたときだった。待合室のほうからけたたましい音がして、女の甲高い声が聞こえた。すぐに診察室の戸口に看護婦の律子が顔を出す。

「あの、先生。前田茂樹くんのお母さんだと思うんですけど」

「とにかく処置室に入れて、茂樹くんに会ってもらってくれ。そのほうが安心するだろう。いま行くから」

 はい、と律子が頷き、慌ただしい足音が診察室の前を通り過ぎていく。パーティションひとつで区切られた処置室のほうに駆け込む物音と、堰を切ったように泣き崩れる女の声がした。

 茂樹、と悲鳴交じりに呼ぶ声を聞きながら、敏夫は処置室に向かう。静信と高見もそれに続いた。ベッドに寝ころんだ少年を、中年の女が掻き抱き、同年配の女が見守っている。こちらのほうには静信も見覚えがあった。ドライブイン「ちぐさ」の矢野加奈美だ。

 加奈美が先に敏夫らに気づいた。軽く茂樹の母親らしい女をつつき、それで女も顔を上げる。敏夫ら三人を見比べて、ぱっと子供を放し、立ち上がった。

「その人が、茂樹を撥ねたんですか!」

 女の視線が真っ直ぐに静信に向かっていて、静信は|狼狽《うろた》えた。必死で駆けつけてきたのだろう、汗にまみれた顔は頭から水を被ったようで、蒼白の顔に縺れた髪が貼り付いている様子には鬼気迫るものがあった。言葉にならない声を上げて駆け寄ろうとした女を加奈美が止め、慌てたように高見もそれに駆け寄る。

「ああ、違う。違いますよ、奥さん。こちらは息子さんを運んできてくれただけなんで」

「じゃあ、犯人はどこなの!」

 女の金切り声に、放り出された当の子供が怯えたような顔をした。

「いや、それが、逃げ出してしまいまして」

「嘘よ、そいつが轢いたんだわ!」

「元子」叫ぶ女に声をかけたのは、矢野加奈美だった。「この人は違うわよ。ほら、お寺の若御院だから。あんたんちは檀家じゃないから知らないでしょうけど、あたしはよく知ってる人だから」

 元子はその言葉に、弾かれたように加奈美を見上げた。加奈美は気まずげに微笑む。

「だからね、落ち着いて」

「じゃあ――」元子は静信と加奈美を見比べるようにした。「誰が茂樹を撥ねたの」

 それがねえ、と高見は元子の側に歩み寄り、とりあえず事情を伝える。犯人は村外の者らしい、と高見が言ったところで、元子はまた声にならない悲鳴を上げた。今にも倒れそうな表情で、敏夫を見る。

「茂樹は――茂樹は大丈夫なんですか」

「御覧の通り、大丈夫だよ」敏夫は快活に答える。明らかに元子に興味を感じている様子だった。「打ち身と擦り傷だけ。念のためにレントゲンを撮ってみたけれど、特に異常はないから。明日もラジオ体操に行って、大暴れできる」

 元子はぽかんと瞬き、ようやく自体が腑に落ちたように再び泣き崩れた。敏夫は苦笑して、困惑したように立ちすくんでいた律子に目をやる。

「どっちかというと、お母さんのほうが重態だな。律ちゃん、落ち着かせてあげて、怪我の様子を説明して」

 はい、と律子は頷く。敏夫は矢野加奈美に手招きをして、診察室のほうに促した。

「あんたは『ちぐさ』の加奈美さんだったよね」

「そうです。元子、ちょうどうちにパートで入っているときだったもので」

「ああ、そう。前田の奥さんは取り乱しているようなんで、一応、加奈美さんに説明しとくから。もしも後で奥さんが事情を分かってないようなら説明してあげてくれるかな」

「ええ――はい」言って、加奈美は静信に向かって微笑んだ。「若御院、済みません。元子は昔から、子供のことになると神経質で」

 いえ、と首を振る静信に加奈美は頭を下げる。

「茂樹くんを運んでくださったんですね。ありがとうございます。元子はあんな調子なんで、あたしかお礼とお詫びを」

「いえ、お気になさらず。元子さんも動転なさっているんでしょう」

 本当に、と加奈美は困ったように微笑む。

「元子の家、国道に近いものですから。ほら、国道は事故が多いでしょう。それで、自分の子供が国道を走る余所者に轢かれてどうにかなってしまうんじゃないかって、ちょっと思い詰めているところがあるんです。本当に、申し訳ありません」

 ああ、と静信は呟いた。加奈美は「思い詰める」という言葉を使っているが、元子にとってそれは、一種の脅迫観念になっているのだろう。子供が事故にあったと聞いて、一足飛びに最悪の事態を想像したのに違いない。

「それは――元子さん、さぞ御心配だったでしょう」

 ええ、加奈美はさらに微笑む。とにかく、と敏夫が声を上げた。

「少しも心配するような怪我じゃないから。担ぎ込まれた当初は、ショックで呆然としてるふうだったけど、すぐに落ち着いて自分の名前も住所も電話番号もちゃんと言えたし。レントゲンの結果も異常はないし、目に見える打ち身と擦り傷以外に、特に怪我はない。とにかく本人も驚いただろうし、子供のことだから二、三日落ち着かないかもしれないけど、すぐにいつも通りになる」

「じゃあ、本当に大事ではないんですね」

「車に撥ねられたというより、自転車の後輪を引っかけられて転んだ、というだけのことだな。子供によっては精神的なショックで、熱を出したりすることもあると思うけど、心配はいらない。もしも心配なようなら安定剤を処方するなり、処置をするんで連れてくるようにいってくれるかな」

 はい、と加奈美は安堵したように笑った。

「安心しました。元子も安心するだろうと思います」

 そういえば、と高見が口を挟んだ。

「あんたのとこは、ちょうど村の入口だよねえ」

「ええ。そうですけど、それが何か」

「いやね、茂樹くんを引っかけて逃げたのが黒いベンツなんだけどね、あんた、まさか見かけてないよねえ」

 加奈美は瞬いた。

「黒のベンツ――ですか?」

「そう」

「見ました。じゃあ、あの車が茂樹くんを」

「見た。――まさか、ナンバーなんかは」

「いえ、それは。溝辺町のほうに向かった黒い外車が、駐車場に入ってきたんです」

「溝辺町のほう?」

 高見が声を上げ、静信も内心で首を傾げた。ドライブイン「ちぐさ」はちょうど、国道と村道が交わる交差点の溝辺町側にある。溝辺町へ向かう車が「ちぐさ」の駐車場に入ったのなら、いったん村道を通り過ぎたことになる。

 ええ、と加奈美は神妙に頷いた。

「クラクションの音が聞こえたんですよ。そしたら、国道の橋のほうから黒い外車がうちの駐車場に入ってきて、それをかすめるようにトラックが通り過ぎるところだったんですよ。危ない運転をするものだわ、って元子とも話していたんですよ。それが、駐車場の中で切り返して、村道のほうに入っていったんです。なんだか、フラフラした運転で……」

「運転手の顔は見ましたか」

「ええ。見かけない顔でした。村の人じゃないと思うんです。それで村道を見落として、通り過ぎたんだな、と思ってたんですけど。とにかくすごく危なっかしい運転で、運転をしている男の人も、妙にフラフラしているというか――」加奈美は口ごもる。「切り返すのにハンドルを切るたび、こう、頭がのめったり傾いだりするんですよ。それで、大丈夫なのかしら、と思ったんです」

 加奈美は言って、不安そうに付け加えた。

「立派な車だったし、元子とも言っていたんです。ひょっとしたら、あれが兼正の人なのかしら、って」

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 まったく雨の気配すらないまま、七月も終わりに近づいた。三十日、土曜日の午後、最後の患者を見送り、律子がカーテンを引こうと玄関に向かったときにも、一点の曇りもない青空が広がっていた。強い陽射しが風景を白々と灼いている。そここに落ちた影は小さく、しかも塗りつぶしたように濃かった。

 律子は戸外の明るさに目を細め、陽に褪せたカーテンを引こうとした。ちょうどそこに|喘鳴《ぜんめい》のような音を立ててスクーターがやってきた。すっかり古びたスクーターは、熱気に揺らぐ駐車場に入ってくると、玄関脇の小さな軒が作る日陰の下に停まった。

 律子はそれを見て苦笑し、閉めかけた玄関のカーテンを半分ほど開けておく。背後から井崎聡子の声が聞こえた。

「律子さん、急患?」

 聡子はすでに私服に着替えて、バッグを提げている。

「|村迫《むらさこ》のお婆ちゃん」

「あら」

「いいわよ、今日はもう終わりなんだし。みんなでお昼を食べに行くんでしょ? 気にせずに帰って」

「そうですか? ごめんなさい」

 聡子が軽く拝むようにして、裏口のほうへ消えるのと同時に、玄関のドアが開いた。

「あのう……いいかねえ」

 塗りの剥げたヘルメットを片手に、おずおずと入ってきたのは、山入の村迫三重子だ。もはやスクーターに跨っているのを見るのが怖いような年齢だが、住まいが山入りでは、せめてスクーターでもなければ生活ができない。

「どうぞ」

 律子は三和土に立ったまま、三重子を促す。ぺこりと頭を下げた三重子を通して、改めてカーテンを引いた。

「土曜は昼までなのにねえ。家を出るのが遅れちゃって。ごめんなさいねえ」

「いいんですよ。義五郎お爺ちゃんのお薬ですか?」

 律子は言って、受付の中に回り込む。途中、休憩室から武藤が顔を出した。

「律ちゃん、急患かい?」

「三重子お婆ちゃん。――いいですよ、お昼、食べててください」

 律子は言って受付に入ったが、後を追ってすぐに武藤が入ってくる。

「済みませんねえ」

 カウンター越しに拝むようにして、三重子が申し訳なげに汗を拭っていた。

 武藤は笑って、軽く手を振る。

「いいや、気にせんでください。お暑いですな」

「本当に」

「義五郎さんのお薬ですか。――律ちゃん、カルテはわたしが出しておくから」

 武藤が言うと、律子は頷いて事務室の奥にある薬局のほうに曲がっていく。

「どうですか、義五郎さんのお加減は」

「それが、ここ何日かあまり良くないみたいで……」

「おや」

 北の外れの集落、山入ではわずかに三人の老人が残って肩を寄せ合うようにして生活している。そのうちの一人、大川義五郎は長く高血圧で薬を処方されていた。義五郎本人が薬を取りに来ることもあるが、ついでがあれば近所の村迫|秀正《ひでまさ》か三重子がやってくる。

「そりゃあ、いかんな。若先生に診てもらったほうがいいんじゃないですか」

「夏風邪じゃないかとは思うんですけどねえ。――実はうちのお爺さんも夏風邪でね」

「あら、大丈夫なんですか」

 口を挟んだのは、やすよだった。麦茶のグラスを持って受付に入ってきたやすよは、それをカウンターの上に置いた。

「暑かったでしょう。こんなもんでもおあがって」

「あら、済みませんねえ。閉まった後に来たうえに」

「いいんですよ。暑いとこに出るのが嫌で、だらだら居残ってたんですから」言ってやすよは、「義五郎さん、大丈夫なんですか。熱は?」

 三重子は手を振った。

「熱はないみたいでしたけどね。風邪でなきゃ、夏負けってやつかしらねえ」

「村迫のお爺ちゃんも風邪だって」

 武藤が口を挟むと、三重子は申し訳なげに再び手を振る。

「そんな大層なもんじゃないと思うんですよ。うちのお爺さんも熱なんてありゃしないんですから。でも、なんだかぼーっとしちゃって。|怠《だる》そうなんで、寝かしつけてきたんですけどね」

 あらまあ、とやすよは呟く。

「先生に訊いて、薬だけでも出してもらったほうがいいんじゃないかしらねえ」

「そんな、とんでもない。若先生のお昼を邪魔するようなことじゃないんですよ。悪いようなら、来させますから」

 武藤は再度口を挟んだ。

「やすよさん、ちょっと先生に声だけでもかけてるくるから」

「あら、まあ、そんな」

「なに、ちょっと訊いてくるだけですから」

 気安げに言って武藤は受付を出る。住居のほうへ小走りに行く武藤を見送り、やすよは三重子に座るよう勧めた。

「ちょっと待っててくださいねえ。――義五郎さん、食事が喉を通らなかったんじゃないですか、この暑さだから。そうでなきゃ、仕事に精を出しすぎたとか」

「そんなに上等な人だといいんですけどねえ。いえね、本人は出かけたんで疲れただけだって言ってたんですけどね」

「あら、いいわねェ。ご旅行?」

「そんな大層なもんじゃないんですよ。何日か前に、お客さんがあったんですよ、義五郎さんとこに。なんだか立派な車が来てねえ。あたしは車の名前なんか分かりゃしないんですけど。えらく立派な車が来てたわねえ、って言ったら、ちょっと人に会う用があるんで出かけてくる、って。どこに何の用があるのかは言ってなかったですけどね」

「へええ」

「いい話でもあったふうでしたけどね。機嫌良く出ていったと思ったら、夜になっても帰ってこないでしょう。泊まるんなら泊まるって言って出ていけばいいのにねえ」

 やすよは笑う。一人暮らしの義五郎は、夕飯を村迫家で摂るらしい。住む家は違っても、もはやそれだけ家族も同然なのだろう。

「無断外泊。義五郎さんもやるもんだわね」

 やすよが言うと、三重子も声を上げて笑う。

「ぴんしゃんして帰ってくればねえ。それが翌日、戻ってきたら、気が抜けたみたいにぼうっとしちゃってて。自分でも疲れたんでなきゃ夏風邪だろう、って言ってはいたんですけどね。なんだかもう、怠くてたまらないみたいでねえ。それっきりべたべた寝てばっかりで」

「あらま。それは心配だこと」

「熱はないんですよ。手を当ててみてもひんやりしてるくらいで。顔色は悪いんでけど、別に血圧が上がったふうじゃなかったし」

「三重子さんとこのお爺ちゃんも、そんなふうなんですか?」

「そうねえ、義五郎さんと同じふうだわねえ。それで義五郎さんの夏風邪をもらったのかしら、と思ったんだけど。お爺さんがあんなふうじゃなかったら、車に乗せて連れてきてもらったんですけどね」

「それは先生に診てもらったほうがいいんじゃないかしらね」

「とんでもない。寝てれば治りますよ」

「――困るな。素人に勝手な診断をされちゃあ」

 笑い交じりに声をかけたのは、敏夫だった。

「あら、先生。どうも済みません」

 三重子は心底、恐縮したように深々と頭を下げる。

「それで? 義五郎さんがどうしたって?」

 敏夫が三重子を診察室に招いたのを診て、やすよは薬剤室に向かう。律子は、ちょうど薬をまとめて輪ゴムをかけているところだった。

「先生、出てきたんですか?」

「うん。なんのかんの言いながら、あの人もマメな医者だね」

 律子は笑う。

「本当に。――あれで口さえ悪くなきゃ、いいんでけどね」

「駄目、駄目。あたしはあの人が子供の頃からここに勤めてるから、よーく知ってるけどね、昔っからひねくれ者でねえ。周りが口に気をつけろって、言えば言うほど、ろくでもないことを言いたがるのよ」

 律子は笑って、コメントは避けた。

 その敏夫と三重子が出てくるまで、いくらもかからなかった。

「律ちゃん、薬、出しとくから」

 敏夫は言って、カルテを受付に差し出し、三重子を振り返る。

「とにかく、悪いようなら、診察に来させなさい。足がないんだったら、診に行くから電話して」

「本当に済みません」

「風邪だ、夏バテだって、軽く見ないように。年寄りは、くたばるときは呆気ないんだから」

 また余計なことを、とやすよが顔を顰めると、律子も軽く笑いを零した。それでも三重子は母屋のほうへ戻る敏夫を、丁寧に頭を下げて見送っていた。

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「かおり、いつまで寝てるの?」

 母親の佐知子が小花模様のカーテンを開けた。白い陽射しがまともに顔を照らして、かおりは布団の上で寝返りを打つ。

「暑い……」

「こんな時間まで寝てるからよ。もう十時なんだから。起きて朝ご飯を食べなさい。片づかないでしょ」

 険のある声に、かおりは息を吐いた。汗が体にまとわりついて重い。食欲はなかったが、欲しくないなどと言うと「作っている者の身になれ」と叱られることは確実なので、仕方なく起き上がる。タオルケットが貼り付いたようなのが気持ち悪かった。

 まとまった雨がないまま八月に入った。梅雨とは名ばかりの梅雨が明けて以来、うんざりするような晴天が続いている。連日の猛暑が大気を暖め、籠もった熱気は夜にも完全に吐き出されることがないまま、また翌日の陽が昇る。そうやって熱気が少しずつ大気中に蓄積しているような気がする。

「クーラー、欲しい」

 かおりは汗でまとわりつく髪を掻き上げた。かおりの部屋は風通しがいい。朝晩には涼しくて、これまでクーラーの必要性を感じたことがなかったが、今年の夏は特別だ。なにしろ夜は深夜まで寝苦しく、陽が昇ると暑くて目が覚める。眠くて寝床にしがみつくのだが、満足に寝られた試しがなかった。

「贅沢なことを言ってないで、涼しいうちに起きたらどう?」

 はあい、と呟いて、かおりは部屋を出て行く佐知子を見送った。のろのろと着替えて階下に降りると、ほんの少しだけひんやりして感じられる。顔を洗って茶の間に行くと、かおりのぶんだけ朝食が残っていた。げんなりしながら食べ始めたところに、ばたばたと賑やかな足音がして弟の|昭《あきら》が入ってきた。

「なんだ。かおり、いまごろ朝飯かあ?」

 昭はかおりの二つ下、今年、中学に入ったばかりで生意気盛りだ。かおりのことも呼び捨てにする。

「あんた、元気ね。暑いのに」

「おれ、かおりほど脂肪がないからな」

 はいはい、とかおりは呟いた。昭の体温で茶の間の温度が上がったがする。口喧嘩をする気にもなれなかった。

「なあ、涼しくしてやろっか?」

 昭は悪戯でも企んでいるような顔をする。

「いらない。どうせろくなこと考えてないんだから」

「そうじゃなくて」昭は口を尖らせた。「兼正のあの家、出るって話」

 まさか、とかおりは昭の顔を見る。

「出るもなにも、あそこ人が住んでないじゃない」

「そう。誰も住んでないのに人影を見た奴がいるんだって。窓からさ、外を見てたって」

「越してきたの?」

 昭は脱力したように肩を落とした。

「そういう話をしてるんじゃないだろ。だから、きっとあの家でさ、何かあったんだよ。そんで幽霊が取り憑いてて、時々、窓から外を見てるって話」

 かおりは橋の先っぽを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで首を傾げた。

「……なんか、変なの」

「なんで」

「だって、あの家って確かに古そうな建物だけど、建ったのってつい最近じゃない。まだ誰も住んでないわけでしょ? あの家で死んだ人だっていないはずだし」

「そりゃあ、兼正の土地に建ってからの話だろ。移築っていうの? もともとどっかに建っててたわけじゃない。その頃の話だろ」

 そうか、と思いながらかおりは釈然としない。家で不幸なことがあって、死者の霊がそこに取り憑くというのは良くある話だ。恐れをなした住人が建物を取り壊して、立て直したのにやっぱり出る、という怪談話なら聞いたことがある。だけど。

「家を動かしたら、幽霊も一緒に動いちゃうの? なんか変な感じ」

 昭は気勢を殺がれたように頬杖をついた。

「かおりって妙なとこで理屈っぽいのな。とにかく出るんだって。見た奴がいるんだから、そういうことなんだろ」

「見間違いじゃないの?」

「絶対に本当だっていってたぜ。他にもさ、塀の中からうめき声がするのを聞いた奴がいるんだって。塀を内側からガリガリ引っ掻くみたいな音がして、誰かが唸ってたんだってさ」

 かおりは顔を顰めた。こういう話は、あまり好きじゃない。

「そんなの、単なる噂話だよ、きっと」

「そうかもしんないけど。――だからさ、確かめに行こうぜ」

「やだよ。気味が悪いもん」かおりは朝食を、半分がた手つかずで残したまま茶碗を片づけにかかった。「あたし、あの家、好きじゃない。なんか古くて暗いし、変な感じだし」

 茶碗を流しに下げようとすると、昭も後をついてくる。

「そこが凄いんだろ。曰くありげでさ。――大丈夫だって。まだ午前中なんだし、そんなにおっかないことなんて起こんないって」

「だったら行っても仕方ないじゃない。行きたいなら、夜に昭ひとりで行けば?」

「単なる噂だって、かおりが言ったんじゃないか。ちょっと様子を見て、それっぽい感じかどうか確かめるだけだよ。もしかしたら、ついでに本当に家の奴が見られるかもしれないし」

「まだ越してきてないんでしょ」

「トラックが来たとかいう話もあったじゃないか。なあ、ちょっとだけ行ってみようぜ」

 かおりは溜息をついた。昭は言い出したら聞かないのだ。うんと言うまで暑苦しくつきまとわれることになるのは目に見えている。

「散歩のついでに家の前を通るだけだよ」

 昭はにっと笑う。

「おっけー」

 表に出ると、四方から立ち上る熱気で炙られるようだった。勝手口の脇にある犬小屋に行くと、、ラブは小屋の下に掘った穴の中に半身を突っこんで、バテたように横になっている。かおりが引き綱を出しても、そっぽを向いた。雑種のラブは長毛種の血が混じっているらしく、むくむくしている。それだけ暑さが堪えるらしい。

「ほら、ラブも嫌だって」

 かおりは言ってみたが、昭はお構いなしに引き綱を首輪に繋いでいる。引っ張られて、仕方ない、と言いたげにラブが腰を上げた。げんなりしながら、かおりもあとに続く。

 路面は白く灼けて陽炎が立っている。昭は逃げ水を追いかけるようにして意気揚々と歩き始めた。田圃は緑、降るような蝉の声が耳にも暑苦しい。アスファルトが熱いのか、ラブは路肩の草叢を選んで昭を追った。

 かおりの家は下外場にあって、兼正まではかなりの距離がある。少しでも木陰のあるところを、といったん南に横たわる末の山の麓に出たので、余計に遠回りする案配になった。山の端まで出ると、さすがに樅の中を吹き下ろしてくる風がひんやりとしていたが、そのぶん蝉の声が増したので気分的には余計に熱くなったような気がする。昭に引っ張り出されたことを後悔し始めたとき、ちょうど末の山と西山の交わる辺りに出た。西山に沿って曲がっていく道の脇には小さな祠が建っている。

「あれ?」

 先頭に立っていた昭が足を止めた。どうしたの、と聞くと困惑したように祠を示した。

「かおり、あれ」

 昭が指さして、かおりもラブも祠の中を覗き込む。アスファルトからの照り返しで目を灼かれていたせいで、祠の中は最初、薄暗く見えた。

 その小さな祠は、大人なら三人も入ればいっぱいになってしまう。板囲いをした奥に古い石の柱や、摩耗してなんだか分からなくなった石や小さな賽銭箱が並んでいる。――いや、そのはずだった。

「やだ……どうしたの、これ」

 きちんと並んでいるはずの石が、コンクリートの床の上に投げ出されている。割れているものや大きく欠けているものもあった。中央に建っていたはずの石の柱は中程から折れて倒れ、その下で賽銭箱がひしゃげて小銭が床に散乱していた。

「これ、庚申さまだよね」

 うん、と昭は頷く。少ないとはいえ、小銭が散らばっているら賽銭泥棒というわけではないだろう。第一、賽銭箱を壊すために塚を倒したというより、塚の中を手当たり次第に荒らした、というふうだった。

「ひでえなあ。全部、壊されてる」

 かおりはちょっと身を竦めた。小さい頃から、祠や塚には悪戯をしてはいけない、と躾けられている。悪さをすると罰が当たる、と言われてきたものだ。だから、こんな有様を見ると、起こってはいけないことが起こったという気がしてならなかった。

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