「かもしれないわ」
「いくつの時だったかな。敏夫が蹤けてみようと言い出してね。ぼくはもちろん反対する。幹康は――危篤になっているそいつは、ぼくと敏夫の間に挟まって、おろおろしてね。……幹康は怖がりだったんだ。すごく臆病で気弱な子供だった。だから、行列の後を蹤けるなんてことは、怖いことだったんだろう。大人に見つかったら叱られる。それだけじゃなく、少し怖い雰囲気のある祭りだし。ぼくが反対すると、ほっとしたような顔をして、ぼくに同意するんだけどね、けれども敏夫が、だったらいい、一人で行くというと、一緒に行きたくて我慢できないんだ」
「なんとなく分かるわ」
沙子は微笑んだ。静信も軽く笑う。
「いつもそんなふうだったな。幹康は結局、おっかなびっくり敏夫についていくんだ。ぼくは仕方なく、敏夫が羽目を外しすぎないようについていく。ずっとそんなふうで……」
一緒に遊ぶことがなくなったのは、いつ頃のことだろう。静信らに限らず、子供は思春期に入って大人と子供の狭間に至ると、子供だけのグループを抜けて、同じ狭間の世代でグループを作るようになる。いつの間にか馬鹿げた悪戯や無謀な遊びをすることがなくなって、動き回るより話をする時間が増えた。その頃には敏夫も年上の人間と折り合う術を見つけ、書店の田代や村迫米穀店の兄弟とは、ずいぶん本やレコードの貸し借りをした覚えがある。そうして静信は幹康を見かけなくなった。幹康は幹康で、別の友人を見つけ――そして大人になり、結婚して家業を継ぎ、父親になった。だが、確実にある時期、幹康とは時間を共有していたのだ。
静信は口を噤んで、村の外、どこかの病院の一室で眠っている幹康のことを思った。妻を失い、子供を失い、そして自分自身を失おうとしている――。
ねえ、と唐突に沙子が声を上げた。
「室井さんに大切な誰かがいたとして、その人を自分の望むだけ生かしたいと思ったら、どうすればいいか分かる?」
「医者になる?」
「違うわ」沙子は笑う。「殺すの」
静信は、ぽかんとした。
「自分の望むだけ相手を生かす――相手の死期を支配したいんだったら、自分の意思で相手を殺すの。そうでなければ誰かがその人を殺すのよ。室井さんの手から奪っていく」
沙子は言って、小声で笑った。
「面白いでしょ? 身近な人が死ぬのは辛いことよね。自分がそれを許してないのに、自分の人生から奪われてしまうなんて、とても酷いことのような気がするんだけど、それを避けようと思うと、相手を自分が殺すしかないの。わたしたち、そういう生き物なのよ」
「そう……そうだね」
沙子はベンチから立ち上がって、聖堂の闇を見渡した。
「……可愛いと可哀想って似てない?」
「うん?」
沙子は笑って振り返る。
「たとえば小鳥を飼ってたとするでしょ? とってもよく懐いて、暖かくて愛しくて、すごく可愛い」
静信は曖昧に頷いた。
「でも、どんなに可愛く思っていても、小鳥はいつか死んでしまうの。どんなにどんなに大事にしても死なないようにはしてやれない。誰にも奪われまい、自分の望むだけ生かそうと思ったら自分で殺すしかないくらい、これはどうようもないことなの。だからね、可愛ければ可愛いだけ、可哀想なの。……そういう気、しない?」
「……なるほど」
「死んでしまったら可哀想だって思うことを、可愛いって言うんだわ。失いたくない、失うのが惜しいっていうのを愛おしいって言うんだと思うの。――いと、惜し」
「……うん」
静信は微かに笑った。沙子の理屈っぽいようでいて、理屈を欠いた意見が微笑ましかったせいもあるし、娘ほどの歳の少女に説得されている自分がおかしくもあった。
「きみはいつも、そんなことを考えているのかい?」
静信が問うと、沙子はちらりと静信を見て、視線を逸らすようにステンドグラスを見上げた。
「そうね。生きることや死ぬこと――そういうことはよく考えるわ。考えないでいられないの」
どこか沈痛な声音に、静信は胸を衝かれる。沙子は重大な健康上の問題を抱えているのだ。常に生死の狭間にいると言ってもいい。愚問を発した自分に狼狽え、そしてふと思い至った。SLEのひとつに易感染性がある。免疫系に問題があるのだ。だから感染症に罹りやすく、そもそも随所に問題を抱える身体は抵抗力に欠ける。そして村には危険な疫病が蔓延していこうとしている。
「あの……」
静信はこの夜も、沙子をなんと呼んでいいのか分からずに言葉を濁した。
「ここには、あまり来ないほうがいいんじゃないかな」
沙子は振り返った。
「やっぱり迷惑?」
「そういう意味じゃないんだ。ただ……野犬もいるし」
「いるという話ね。でも、私はまだ姿を見たことがないわ」
「夜は危険だよ、こんな田舎でもやはりね」
沙子はじっと静信を見つめ、不承不承というように溜息混じりに頷いた。
「分かったわ。家で温和しくしてる。室井さんのテリトリーは侵さないようにするわ」
「そういう意味じゃないんだ、本当に」
「はっきり言ってくれていいのよ。物事が思い通りに行かないのには慣れてるわ」
「そうでなく」静信は言い淀み、「これは秘密にしてもらいたいのだけど」
沙子は首を傾げた。
「御両親に言うのはいい。特にお母さんも知っておく必要があると思う。君の家のお医者さんもね。だが、村の人たちには知られたくないんだ。家の外には漏らさないでもらいたいんだよ」
「ひょっとして、それだけ重大な秘密?」
「そうだね。いまはまだ」
「いいわ、約束するわ」
生真面目な顔で頷いた少女に、静信は告げた。
「村ではいま、正体不明の病気が流行っている」
沙子は瞬いた。
「……伝染病?」
「その疑いが濃厚だ。敏夫は山に住む野犬か小動物――それについているノミやダニが媒介している可能性があると考えている」
「それ、危険なの?」
「危険なんだ。少なくとも、これまでに出た患者は全員、最悪の結果を辿っている。――皮肉なことだね。君たちはここに安全な生活を求めてきたのに」
「そうね。町にいるより危険だったかしら。でも、そういうこともあるわ。それ、どういう病気?」
静信は首を振った。
「よく分からないんだ、まだ。敏夫は既存の伝染病には合致しないと言っている」
「新種?」
「分からない。新種や変異種である可能性もある、とは言っているが。なにしろ劇的に悪くなるから、詳しく調べている余裕がないんだ。都会の人と違って、村の人たちは病理解剖なんてことにも消極的だしね。それほどの設備のある病院もないし。それで詳しいことは五里霧中だ」
「そう……」
「だから、あまり不用意に出歩かないほうがいい。特にこの辺りに媒介している生物がうろついている可能性がある」
「分かったわ」沙子は頷き、小首を傾げる。「せっかく室井さんに会えたのに、残念だわ。たまにならいいかしら?」
「さあ……。実を言えば、正体不明だから自衛策も分からないんだけどね。家に閉じこもっていたから安全とはいかないかもしれない。確かなことは何一つ言えないのだけど」
「ルーレットみたいなものね。運が悪いと捕まってしまうんだわ。でも、危険に遭遇する可能性は減らしたほうがいいのは確実よね」
「だと思うよ」
「ありがとう。母にも江渕さんにもそう言うわ。でもって家の外には話を出さない。パニックになったら大変だもの。そういうことでしょ?」
静信は頷いた。
「充分、気をつけるし、ごくたまにするわ。だからまた来てもいい?」
「ぼくに許可を求めるようなことじゃないよ。けれども、本当に気をつけて」
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四章
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敏夫が溝辺町の国立病院から電話を受けたのは、九月十日、午前の診療が始まって、最初の一段落が着こうかという頃だった。
「先生、お電話です。国立の谷口先生から」
律子が電話を廻してくれて、敏夫は患者に断って控え室に戻る。そこで電話を受けた。
国立の谷口は敏夫より年上の内科医だった。同じ大学の七年先輩で、だからもちろん、大学自体には面識はなったものの、先輩?後輩の縁で何かと便宜を図ってくれる。とはいえ、谷口自身は近辺の生まれではないし、溝辺町近辺に住んでいるわけでもない。谷口は国立に週に二度来る傍ら、大学で講師をしている。都会から高速に乗って週に二日、通ってくるのだ。
国立病院は、JAが母体の共済病院と並んで溝辺町では大きな病院だったが、内実はその程度のものだった。常勤の医者は若くキャリアがない。中央から飛ばされてやってきて、そこでキャリアを作って中央に戻るなり実家に帰って開業医になったりする。そうでなければ中央に居場所を失ったロートルだ。経験のあるそれなりの医者は、都会で相応の地位にありつつ、週に何度か診察日を設けてやってくる。
「代わりました」
敏夫は受話器を取る。
「ああ、尾崎くん。先日、きみから廻されてきた患者なんだけどね」
先輩?後輩の仲だから、谷口を宛にして敏夫はしばしば手に負えない内科の患者――それは長期入院が必要な患者を含む――を国立に廻す。外科ならあそこ、脳外科ならあそこと、それなりのルートを持っていた。敏夫のほうには儲けはあまりないが、その代わりに何かあれば知らせてもらえる。経過についても尋ねやすいのが利点だった。
「安森幹康ですか」
「うん、そう。彼なんだけど、腎不全で本日の午前五時十六分に死亡した」
そうですか、と敏夫は呟いた。救急車に運ばれていく幹康を見送ったとき、それが幼なじみを見る最後の機会になるだろうということを、敏夫自身、覚悟していた。
「経過はいかがでした」
「運び込まれたときには、かなり酷い貧血が出ていたようだね。私はいなかったんで分からないが。クレアチニンが上昇してたんで腎不全を警戒したんだが、MODSからDICを併発してMOFに至った。詳しい経過が必要かい?」
「お手数ですが、ぜひお願いします。できれば急いで」
「勉強熱心だね、相変わらず」
敏夫は苦笑した。
「幹康は幼なじみなんです。――狭い村ですから」
ああ、と谷口は気まずげな声を出した。
「そりゃあ、申し訳なかったな。ちょっと妙な経過でね。カルテを見る限り、当初はさほど深刻な腎障害があるとも思えなかったんだが。わたしが最初から見てればよかったんだけど診察日じゃなかったもんだから」
「残念です。――再生不良性貧血や白血球の異常はありましたか」
「それが、なかったんだよ」
「ない? 確かですか」
「うん。きみがそう言っておいたんだろう。いちおう、こっちでもきっちり検査させてもらったんだけどね。再生不良性貧血ではなかったようだな。骨髄には異常がない。好中球は増えてはいるが、白血球、造血細胞の形態異常もなしだ」
「そうですか」敏夫は答えながら、やはり、と思っていた。
「ファックスでいいかい?」
「結構です」
敏夫は谷口に礼を言って電話を切った。
(敏夫さん)
耳の奥に残る幹康の、どこか甘えるような――頼りにするような声は故意に忘れようと努めた。いつまでも心に留めても始まらない。これは特別な悲劇ではない、もはや村にとっては。
幹康の訃報が入る直前、石田から下外場の男が死んだと知らされたばかりだ。昨日には静信が中外場の老女の死を報告してきた。一昨日にはこれも石田から、水口に住む会社員の死亡が伝えられている。ここに至って、事態は急加速していた。
(伝染している)
確証はないが、すでに確信になっていた。第一の感染者が汚染源になって二次感染を起こす。二次感染の患者は一次感染の患者よりも多い。それら二次感染した患者たちが汚染源になってさらに三次感染へ。――事態はそのように、感染の拡大を示している。
(スパンが短い……)
潜伏期間を一週間から二週間と見たにもかかわらず、感染が拡大していくスパンは、それよりもはるかに短かった。やはり人から人へは移らないのかも。ノミやダニが媒介していて、一両日中に発症するのかもしれない。だが、山の中の暮らし、村の住宅ほとんどは気密性が低く古い。媒介動物をどうやって根絶しろというのか。
敏夫は微かな悪寒のようなものを感じる。ひょっとしたらこれは、敏夫らが最初に想定した「最悪の事態」以上の災厄かもしれない。
「幹康さんが亡くなったの?」
律子の言葉に、やすよは目を剥いた。
「ええ。さっき国立から連絡があって」
そう、とやすよは湯飲みを洗っていた手を止めて厨房の流しを見つめる。
厨房はかつて入院患者を受け付けていたころの名残の代物だった。かつてはここで入院患者の食事を用意し、隣の食堂では職員も食事をすることができた。その食堂は今では休憩室になっている。一郭には、今はいない厨房の職員のための洗面所があり、休憩室があったが、休憩室のソファは昼寝のためのスペースになっていた。
この先、厨房が使われることはないのかもしれなかったが、今でも、いつでも使えるように維持はされているし、律子らは時折、ここで弁当を暖めたり、軽い煮炊きをすることもある。お茶を用意するための湯沸室は別にあったが、休憩するときには厨房を使った方が便利だ。しかも湯沸室は手狭なので、後片づけなどの際には、厨房全体を使って複数で一気にやってしまうことのほうが多かった。
やすよは、手を止めたまま考え込んでいたが、吹っ切ったように顔を上げて手を拭いた。
「律ちゃん、悪いけど続きを頼むわね。あたしゃ先生と話をしてくるわ」
「やすよさん」
「ちょっとね、さすがに先生に事情を聞いておかないと。パートの人たちも不安に思ってるみたいだからさ」
言い残して、やすよは厨房を出て行く。しばらくしてから戻ってきた。
「律ちゃん、今日の午後は用がある?」
「いいえ」
「じゃ、終わってから残ってくれるかしら。ちょっとミーティングするんで。お昼は先生がお弁当を取ってくれるそうだから」
はい、と答えながら、律子は「きた」と思っていた。敏夫から説明があるのだろう。それを聞きたいような、聞きたくないような気がした。聞けば確定してしまう、という気がする。律子たちが想像でいっているのと、医師である敏夫が言明するのとでは訳が違う。
緊張して片づけを終え、仕事に戻った。顔を合わせる職員の誰もが、同じように緊張した様子だったけれども、誰も何も言わなかった。妙な緊張感の流れる中、午になったが患者の診察が終わらない。最近、じりじりと昼休みが延びる傾向にあった。患者が多いのだ。特に病気が多いという印象ではない。いつもなら病院に来もしないような、些細な症状の患者がやってきている、という印象。そういう患者に限って、長々と敏夫に話しかけ、診察時間を引き延ばす。
(不安なんだ……)
律子はそう思う。患者が――村人が、以上に増えた死を意識しているにしろ、いないにしろ、何かがおかしいと分かっているのだ健康や生命は、意外に簡単に損なわれるものだということを、漠然と意識している。それが村人の間で蔓延しつつあるのだろう。そしてこれは、きっとこの先、今よりももっと増えていく。
交代で昼食を摂りながら、律子らは患者をこなしていった。最後の患者の診察が終わったのは、二時を過ぎてからだった。後片づけを終え、休憩室に向かうと、すでに全員が揃っている。
「律ちゃんで最後か?」敏夫はテーブルに積んだ書類を前に笑う。「ドアを閉めて、坐って」
いつもの調子の声だった。それに安堵しながら、律子はドアを閉め、空いた椅子に座る。休憩室の中には、クーラーの冷気と、それ以上にひんやりとした緊張が漂っていた。
「もう知っているかもしれないが、今日、工務店の幹康が亡くなった」敏夫はそう切り出して、武藤と十和田のほうを見る。「ちょっと武藤さんたちには分かりづらい話になるかもしれないが、不明なことがあれば質問してくれていい。辛抱してくれ」
武藤と十和田は頷く。
「幹康が亡くなって、これで八月以降の死者は十九人になった」
それは爆弾のようだった。律子は背筋を伸ばした。そんなに、という声は複数のもの、ひょっとしたら律子自身も無意識のうちに声を上げていたかもしれない。
「そんなにいたんだ、実は。中にはうちとは一切関係なく、溝辺町で倒れて病院に運ばれ、息を引き取ったものもいる。とりあえず役所に死亡届が出ている者を勘定すると、幹康で十九人目。――異常事態だ」
律子は軽く息を呑んだ。
「しかも幹康は、工務店では奈緒さん、進くんに続いて三人目の死者だ。ひょっとしたらみんなも薄々気づいていたかもしれないが、伝染病の可能性がある」
「先生、確かなんですか」
武藤が身を乗り出した。
「死人が出ているのは確かだ。それも明らかに超過死亡で、しかも次第に数が増える傾向にある。おそらく伝染病だと思って間違いないと思う」
いって、敏夫はざっとこれまでの経過を説明した。具体的な死者の名前とその死亡原因。
「ちなみに、工務店の奈緒さん、幹康の血液を検査させた結果では、伝染病に対して陰性だ。検査結果からいうなら、二人はいかなる伝染病にも感染していない。培養検査も依頼しているが、こちらの結果は全てが出揃っているわけじゃない。培養するには時間がかかる。結論が出るのは、もう少し先になると思うが、少なくとも現在の時点で分かる限り、二人は急に一命を失うような微生物には感染していない。村迫美重子さんも同様だ。警察から戻ってきた結果では完全にシロだ」
あの、と十和田が声を上げた。
「結果が出てないのに、伝染病じゃないと断言できるんですか? さっき先生は伝染病だ、と言ったと思うんですけど」
「うん、こういうことなんだ。――伝染病の原因になるのは病原微生物だ。これらの病原微生物に生体が冒されることを感染症という。これら感染症の全てに伝染性があるわけだが、このうち、人体に重大な被害を与え、社会にとってもその影響を無視できない者を特に伝染病というんだ。感染症の中から伝染病として切り分けて、特別に警戒している。――ここまではいいか?」
「ああ……はい」
「だから伝染病とは、厳密には感染症のうち『伝染病』として定められたもののことだと言えるわけだ。いま、村で流行っているやつは、この伝染病には該当しない。症状から言っても検査か結果から言っても完全にシロだ。だから伝染病ではないんだが、患者の増加する様子を観察していると、明らかに伝染していると考えられる。しかも結果は重大で、患者の数も多い。既存の伝染病ではないが、社会的に重大な感染症であることは確かなんだ。人や社会に及ぼす影響力を考えると、伝染病だと言ってもいいと思う」
「ああ、分かりました」
敏夫は頷き、
「既存の伝染病ではないし、感染症ではない可能性も僅かだが残っている。ひょっとしたら、何らかの物質に対する中毒やアレルギーと言うことも考えられるからな。とにかく、まだ何が起こっているのか分からない、というのが正確なところだ。病因も分からないし、伝播する方法も分からない」
やすよが手を挙げた。
「新種の伝染病って可能性もあるんじゃないですか」
「新種の可能性は、もちろんある」
「どうするんですか、これから」
武藤が途方に暮れたように言った。
「それが分かればね。とにかく、一連の死の原因を突き止めないことには手も足も出ない。治療や予防ができないだけじゃなく、行政に救済を求めることもできない」
「行政に調べてもらうわけにはいかないんですか?」
「そのつもりだ。とはいえ、そのためには、それなりにデータを取りまとめて資料を揃えないといけない。そうやって、行政に調査の必要があると認めさせなければ。これについては、保健係の石田さんと検討中だ」敏夫は言って苦笑した。「これが既存の伝染病や、その変異種なら話は早いんだがな。今のところそういう結果が出ていないから、説得力のある資料を作るところから始めないといけない。にもかかわらず、確実に伝染するという証拠もない。かなり時間がかると思っておいたほうがいいだろう」
「行政はこういうとき、対応が遅いもんですからねえ。よほど証拠を揃えてせっつかないと……」
武藤は深い溜息をついた。全員が同意するように息を吐いた。
「今のところ分かっているのは、それは貧血で始まるらしいということだ。少なくとも、清水恵ちゃん、安森の奈緒さん、幹康の三人は当初、貧血以外にはこれといった不調はなかった。貧血が起きている、だから顔色が悪い、倦怠感がある、食欲がない。周囲は夏バテだろうか、風邪だろうかと思って見過ごしやすいということのようだ」
「貧血の原因は何なんですか?」
清美の問いに、敏夫は首を振る。
「それが分からないんだ。検査結果からすると、正球性正色素性貧血だ。少なくとも、鉄欠乏性貧血や悪性貧血などではない。造血障害ではなさそうだ。国立では幹康の検査をしているが、再生不良性貧血でもないし、白血病でもないだろうと言ってきている。検査結果からすると、出血か溶血のせいで貧血が出ているんだと思うんだが、貧血の原因になるような内出血は見られない」
下山が頷いた。
「それでCTを使って、あちこち探してたんですね。――そうです、内出血はないです。すくなくとも安森さんの奥さんには、なかった」
敏夫も頷く。
「少量の出血が持続的に続いている場合、X線や超音波では出血箇所を見つけられないこともあるが、この場合、それはないと思う。なにしろ急激に増悪するからな。これまでの事態から考えると、数日以内に決着がついてしまう。それくらい進行が早い」
「じゃあ、溶血ですか?」と、やすよが訊いた。
「消去法で行くと、溶血しか残らないんだが。しかし溶血の場合には、ビリルビンとLDHが上昇するはずだ。なのに初期段階では、それは見られない。クームス試験の結果も陰性で、少なくとも自己免疫性の溶血ではないことは確かだ」
「その――何とかが」武藤は言う。「上昇しない溶血ってのはないんですか」
「なくはない。溶血には血管内溶血と血管外溶血があるが、血管内溶血の場合、血清ビリルビンやLDHは上昇しない。その場合は、血漿中にヘモグロビンが出たりヘモグロビン尿が見られたりするはずなんだが、奈緒さんにも幹康にもこれはなかった。一方、血管外溶血の場合には、ビリルビンやLDHの上昇が起こることが多いが、これは必ずというわけではないらしい」
武藤はひどく困惑したように呻った。
「とにかく、溶血の可能性は高いと思う。それも先天的なものじゃない、後天的なものだ。免疫性のものではなく、補体の感受性が異常を起こしているのか、あるいは何らかの原因で赤血球が破砕されているのか、あるいは、薬剤や毒のせいかもしれない」
「毒ですか」
やすよが言うと、敏夫は頷く。
「蜘蛛毒や蛇毒、蜂毒が原因で溶血が起こることはあるらしいな。蛇や蜂なら、患者にせよ家族にせよ、刺されたのを覚えているだろうが、蜘蛛ということはあり得るし、他の昆虫が何らかの原因で溶血を起こすような毒を得た、ということもあり得る。――あとは薬剤。サルファ剤やサリチル酸、鉛や砒素の影響でも溶血が起こるものらしい。この場合は、土壌や水、あるいは食物が汚染されているということだろうが、患者の出方を見ると、これは非常に可能性が低いと思う」
「既存の伝染病では?」
「マラリアが代表的だが、マラリアではないだろうな。マラリアに特徴的な高熱が見られない。変異種だと考えることもできるが、変異種でもマラリアの検査に関しては、陽性の反応が出るはずだと思うんだが]
「患者さんが亡くなるのって、だいたい夜のうちですよね。朝いちばんに知らせが来るじゃないですか」清美が言う。「PNHってことはないですか」
「限りなく疑わしいと思ってる」
PNH、と武藤が呟いて、やすよがこれに答えた。
「発作性夜間ヘモグロビン尿症だったかしら。ただ、PNHはゆっくり進行するって本には書いてあるんだけどね。それの激しいやつかしら」
清美は頷いた。
「PNHだと、汎血球減少が起こるんですよね。でもって、奈緒さん、全部の血球が減っていたじゃないですか。そのせいで感染症を起こしやすくなるし、出血傾向が出たり血栓ができたりする。奈緒さんって心不全でしたよね。そこから来る肺水腫」
「血栓が原因の心不全かしらね」
「ということはあり得るでしょ。あと、腎不全で死ぬことがあるって本には書いてあったけど。後藤田ふきさん、腎不全ですよね」
敏夫は苦笑した。
「よく宿題をやってるな。恐れ入った」
やすよと清美は声をあげて笑う。お互いがお互いを指さして、自分にはそんな気はなかったのだが、この人が、と相手のせいにする。敏夫も笑って、
「工務店の幹康も腎不全で死亡してる。病院に担ぎ込まれた当初、BUNが上昇してるんだ。クレアチニンは正常値の範囲内だったんで、最初、医者は暑さのせいで脱水症状を起こしてるんだと思ったようだが、のちに血尿が出て、顕著な腎不全の兆候が現れた。医者のほうはこれに手当をしたんだが、結局、腎不全が契機となってDICを併発、容態が急転して死亡している」
DICって何ですか、と十和田は聡子に訊いている。聡子が答えあぐねているうちに、清美が答えた。
「播種性血管内凝固症候群。ようは血液の凝固異常ね」
「うちの看護婦は有能だ」敏夫は笑う。「ただ、結果として死亡原因は尿毒症だが、腎臓だけでなく、肺や肝臓にも障害が出ている。最初に呼吸不全が起こってるな。最後には肺炎も併発して多用だし、肝機能も甚だしく落ちてる。死亡したのが尿毒症のせいだから腎不全が全面に出ているだけで、これで呼吸障害で死亡してれば肺不全と言われてたんだろう」
「多臓器不全――MOFですね。いまは二次性MODSとか言うんでしたっけ」
清美の言に、やすよも頷く。
「とにかく、全身がガタガタになっちゃうってことよね。最初に特徴的な症状は貧血で、どんどん悪くなってMOF。問題はそこまでに、どれだけの猶予があるかってことだわ」
やすよは言って、敏夫を見る。
「三日以内に何とかしないと、手に負えなくなるってことですね。何が起こってるのか調べる暇もなけりゃ、治療法を探してる間もない。……おおごとだわ、こりゃ」
「感染方法は何です?」
清美に問われて、敏夫は首を傾けた。
「それが良く分からない。静信に患者同士の関係を調べてもらってるんだが、どう考えても接点のなさそうな患者がいるんだ」
「直接感染ってことは考えにくそうですね。清水さんとこも、被害に遭ったのは恵ちゃんだけだし。丸安製材は義一さんだけでしょ。丸安なんて、義一さん、寝たきりで下の世話まで家族がやってたんだから、真っ先に家族に移りそうなのに」
「あたしたちも、でしょ」と、やすよは茶々を入れる。「訪問看護に行ってたんだから。あたしたちがこうして雁首並べてられるんだから、直接感染はないでしょ。飛沫感染もないわよね。血液感染ってことはありそうだけど。あたしたちは手袋するけど、家族はしてなさそうだもんね」
「だったら、それこそ丸安の家族に被害が出て当然でしょ。それがないんだから、血液感染ってこともないんじゃないの」
「じゃあ、媒介動物? そりゃ、本当に大変だ」
「媒介動物なら、もっと犠牲者が出た場所が集中するんじゃないの。もう村全体で出てるって感じじゃない。むしろ発症率の問題じゃないの? 感染しても発症率が低いんじゃないかしら。続く家族と続かない家族がいるのは、体質の問題じゃないの?」
「そうねえ……」
「続く家族と続かない家族、か……」敏夫はひとりごちる。「まあ、ここでそういう話をしても始まらない。とにかく、もっと症例が集まらないことにはな」
「そうですねえ」
「いまのところは媒介生物を疑っている。それが最も可能性が高そうだ。ただ、最近の患者の現れ方を見ていると、家族に集中して患者が現れることはまれだ。後藤田さんのところや工務店の場合のほうが例外的だな。どうやら感染率、もしくは発症率はあまり高くない、とは言えそうだ。だからって気を抜くなよ。とにかく手荒いと手袋、これは徹底しとくように」
「それから医療ゴミの取り扱いですね」
清美が言って、敏夫は頷く。
「みんなも心配だと思うが、気をつけていれば予防は可能だと思う。自分の身を守るためでもあるし、病因を汚染源にしないためにも、充分に気をつけて欲しい」
敏夫の言葉に、誰もが頷く。
「それから、このことは広めないように。まだ何ひとつ確かになったわけじゃないんだからな。無用の混乱を引き起こしても益がない。しかるべき処置は、おれと石田さんとでやるから、黙っているように」
これにも、全員が頷いた。
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安森淳子は、自分がどういう顔をすればいいのか分からなかった。幹康の葬儀がじきに始まる。祭壇の前には徳次郎と節子が憔悴しきった顔を深く面伏せていた。まるで互いしか縋る者がない、というようにしっかりと手を握り合っているのが痛々しかった。
淳子の夫の和也は、仲の良かった親族を亡くして悲嘆に暮れている。いや、むしろ呆然としているようだった。呆然とするのは淳子も同様だったし、もちろん悲しくもあった。だが、工務店の葬儀はこれで三度目だ。最初に奈緒が死に、それから進が、そして幹康が。奈緒が死んだとき、声をあげて泣いた淳子は、三度目の今日、悲しみより深い困惑を持て余している。
それは舅の一成も同様だったようだ。控えの間から遠目に徳次郎と節子を見やり、渋い顔をして首を傾げた。
「どうなってるんだ、いったい」
そうね、と溜息をついたのは、姑の厚子だった。
「立て続けに三人も。あたしはもう、かける言葉がなくって」
「まったくだ。だが、こりゃあ何かおかしくないか」
何がです、と厚子は瞬いた。一成はさらに渋い顔になった。
「続きすぎるとは思わんか。叔父さんのとこだけじゃない。親父も、山入も。まさか、悪い病気でも流行ってるんじゃないだろうな」
淳子は辺りを憚るような一成の低い声に、背筋を強張らせた。やめて、と厚子はさらに低い声を上げる。
「そんなことを口にしないで」
「しかしな、前にも若御院が来て、色々と親父のことを訊いていったろう。見舞客がどうとか。あれは、若御院もそれを考えてのことじゃなかったのかな」
「やめてください、ってば。うちでも葬式を出したことを忘れないで」
「忘れてない。だからこそ言ってるんじゃないか。親父を入れたら四度目だぞ。これで墓地に四本目の真新しい墓が建つんだ」
「お義父さんが変な病気のはず、ないでしょ。人に移るような病気だったら、世話してたあたしたちに、とっくに移ってますよ」
ねえ、と同意を求めるように厚子に見つめられ、淳子は釈然としないながらも頷いた。
「親父は、三人とは事情が違うだろう」
「違いますよ。もう長患いだったんだから。でも、余所の人から見たら違いなんて分からないわ。変に伝染病だなんて話になったら、お義父さんのせいにされちゃうわ。だから軽々しくそんなことを口にしないで」
しかし、と言いかけて一成は呻いた。
淳子は祭壇とその側の徳次郎夫婦を見比べた。そう、義一はもともと具合が悪かったのだし、それも他人に移るような病気ではなかった。だが、何かの伝染病だと考える以外に、立て続けの不幸を説明する方法があるだろうか。
淳子は不思議に、盆の初め、死んだ奈緒と材木置き場で話をしていた夜のことを思い出した。正確には、桐敷正志郎に会ったときの気分を。なぜだか分からない。自分が取り返しのつかないことをした気がして背筋が寒かった。それと同じ気分がする。――そう、取り返しのつかない何かが動き始めてしまった、という気分が。
かおりは昼食時、茶の間のカレンダーを何気なく見ていて、今日が九月十一日であることに改めて気づいた。九月十一日、日曜日。十一という数字。一がふたつ。八月の十一日だった、恵がいなくなったのは。あれから、ひと月が経ったのだ。
とたんに胸のあたりが締め付けられるような気がした。夏休みの間、頻繁にあった気分だ。九月に入って新学期が始まって、それでようやく忘れた気がしていたのに、ささいなことを契機にして、こうしてまた蘇る。
喉許に何かがつかえたような気分で、かおりは口の中のものを呑み下し、箸を置いた。食事が喉を通らない。――というより、恵のことを思い出すと、食事をしたり学校に行ったり台所を手伝ったりする、そういう日常的な行為の何もかもに気後れがした。それは、たとえば学校の朝礼で、笑うべきじゃないところで笑ってしまったときの気分に似ている。とても不謹慎なことをしてしまった感じ。一抹の後ろめたさ。
かおりが箸を置いたのを見とがめて、母親の佐知子が険のある顔をした。
「かおり、ちゃんと食べなさいよ」
促されて頷いたものの、喉に小骨が引っかかっているような気がする。ずっとこうだ。何気なくテレビを見ていても、こんなことをしていていいのだろうか、と思う。クラブに行っても授業を受けていても、恵が死んだのに、という思いから逃れることができなかった。テレビや本や友達の会話が楽しくて、声を上げて笑ったり、心底楽しんだりした自分に気づくと、恵の死を失念していた自分が、とてつもなく薄情で非道な人間のように思えて居場所のなさを感じてしまうのだった。
昼御飯をかきこんでいた昭が、かおりのほうをチラリと見て「元気、出せよな」と言う。
「うん……」
佐知子も軽く溜息をついた。