饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.26

作者:日-小野不由美 当前章节:15361 字 更新时间:2026-6-15 17:40

「昭の言う通りよ。ショックだったのは分かるけど、いい加減に元気を出しなさい」

 そうだね、とかおりは呟いた。けれども忘れられない。十一日、恵はいなくなった。十二日の夜のうちに見つかった。十三日、お見舞いに行った。それが恵と会った最後になった。十四日、かおりは何も知らなかった。恵が死ぬほど悪いなんて夢にも思わずに、ありふれた夏の一日を過ごした。そして十五日。突然電話がかかってきた。

「恵ちゃんだって、あんたがそうんなふうなのを見たら悲しむわよ。恵ちゃんのぶんも頑張らなきゃ」

 かおりは俯いた。何度、佐知子にそう言われただろう。かおりが悲しんでいては、恵も悲しむ。そんなことでは安心して成仏できない。恵は哀れにも死んでしまったのだから、これからは、かおりが恵のぶんも生きなくてはいけない。恵みがとうとう手に入れられなかった様々な喜びを、かおりが代わりに手に入れるべきなのだ、と」

 そうだろうか、と思う。本当に恵はそんなことを望んでいるのだろうか。それはひどく身勝手な言い分に聞こえる。恵だって、かおりが幸せになるのを見るより自分が幸せになりたかったに違いない。自分が死んだのに、友達が悲しんでさえいなかったら、そちらのほうが何倍も辛いのではないだろうか。佐知子の言葉は、まるで「片づけなさい」と言っているように聞こえる。死んでしまった人のことなんて、いつまでも大事にしてないで、片づけて捨ててしまいなさい、と言っているようだ。かおりにはそれが、恵に対する裏切りのように思える。佐知子にそう言われれば言われるほど、自分だけは恵のことを忘れたりしない、「片づける」なんてことはしないのだ、と思わないでいられない。

 軽く手を握って顔を上げると、卓袱台の向こうから父親が心配そうにかおりを見ていた。かおりはちょっと笑って箸を取る。食欲がないわけではないけれども、食事を続けることに抵抗があった。それは「片づける」ことの一種だ、という気がする。

「そういえばさ」と、昭が誰にともなく呟いた。「昨日、下外場のどっかで、また人が死んだみたいだな。忌中の|提灯《ちょうちん》が出てた」

 佐知子は眉を顰める。

「あらやだ。……また?」

 昭は妙に重々しく頷く。父親がそんな昭を見て、まるで苦いものを口に含んでしまったような顔をして目を逸らした。

「なんか変なんだよなあ。恵だろ、それから製材所の康幸兄ちゃん。その前にもさ、山入で三人も死んだじゃないか。なんでこんなにいっぱい、人が死ぬんだ?」

「そういうこともあるのよ」と、佐知子の声は素っ気ない。「死に事ってのは続くもんなの。とはいえ、もういい加減にして欲しいわよね。こう続いたんじゃ験が悪くって」

「そういう問題かなあ。なんさあ、良くないことが起こってるって感じがするんだよなあ、おれ」

「馬鹿なことを言わないで」佐知子は大仰に顔を顰めた。「山入の人たちはお年だったんだし。康幸さんだって恵ちゃんだって病気で死んだんでしょ。べつに殺されたんじゃないんだから」

 そうだけど、と呟く昭に目をやって、田中は口の中のものを呑み下した。|中埜《なかの》渡のことだ、と分かった。下外場に住む中埜が死んだ。昨日、死亡届が出されて、田中は石田にそれをコピーして渡した。そうやって夏以来、渡したコピーは十九枚にも及んでいる。しかもこのところ、ペースが速い。素人目にも事態が加速しているのが分かった。

 役所でも何かがおかしいという声が上がっている。尾崎医院の敏夫と石田が頻繁に連絡を取っているが、そのせいではないのか、と囁かれていた。誰も声を大にしないのは、所長の視線を|慮《おもんばか》ってのことだ。出張所の所長は外場の人間ではない。町役場から任命されて村外から通ってきている。石田は所長を無視する形で敏夫と行動しており、職員の誰もがそれを分かって口を噤んでいた。外場には外場のルールがあって、それでつつがなく動いている。村外者である所長は、三役を中心に編成された村のシステムの中に居場所がない。完全な部外者だが、所長には所長としての面目もあり立場もある。だから所長を通せば、帰って事態はスムーズに動かなくなることを役所の誰もが心得ていた。

 そもそも村だったころの体質を今も引きずっているのだ。溝辺町に合併されていながら、村は未だに独自の存在であろうとし、町の干渉を拒もうとする傾向がある。町のほうでもそれを了解していて、どこか放任しているような気配があった。何事かあっても、所長は通さず、ひいては町にも通さず、とりあえず蚊帳の外に置いておく、そういう暗黙の了解が役所にはある。そうしているうちに兼正を通じて町を経由して所長に話が通る。それで初めて役所の足並みが揃う。

 とはいえ、十九枚の死亡届は、田中の胸ひとつに納めておくには重すぎた。特にこうして、自分の妻が事態を軽視しているのを見ると、危機感が高まる。昭のほうが正しい。外場は変だ。そういってやれない自分に焦りを感じる。

 重い息を吐いて顔を上げると、かおりと視線が合った。かおりは恥じるように俯く。田中が、気落ちしているのを責めているのだと思ったのかもしれなかった。いかにも不承不承、というふうに箸を使い始める。

 無理をする必要はないのだ、と思う。かおりは友人が死んだことが悲しいのだ。悲しいという思いは、かおりの中に自然に湧き上がってくるもので、それを意志の力でどうにかできるものでもないだろう。悲しむな、と周囲が言えば、かおりはそれを隠すしかなくなる。佐知子のように元気を出せ、と命じることは害こそあれ、益はないような気がした。だが食事はしたほうがいい。体力はつけておくに越したことはない。――田中はそう思い、あえて口を挟まなかった。

 元子はいつものように家を出て、遠目に葬式の行列を見た。輿のうえに棺が載せられ、大勢の人間に担ぎ上げられて末の山のほうへと向かっている。

 なんとなく親指を握り込んで隠した。元子の両親は二人とももう死んでいて、そんなことをする必要もないのだけれど、葬式の行列や霊柩車を見るとそうしないではいられない。隠した親指は今では、子供たちであり、夫や舅姑や――そんな家族の象徴なのかもしれなかった。

 国道に出て、例によって感じる不安を堪えながら「ちぐさ」へと向かう。店にはいると、喪服を着た客が数人、見えた。埋葬式に参加しない会葬者が流れてきたのだろう。元子は少し胸を押さえた。きっと彼らは店に入るとき塩を撒いたりはしてないだろう。葬式で拾った何かは店の中にまでついてきているのだ、という気がしてならなかった。

 そんな元子を励ますように、カウンターの中から加奈美が笑い、軽く手を振る。元子は頷いてカウンターの中に入り、仕事にかかろうとして瞬いた。調理台の片隅の、客の目からは死角になる位置に、紙ナプキンを敷いてそこに塩が盛られていた。元子は、加奈美でもこんなことをするのか、と思った。

 目を丸くして加奈美を見ると、加奈美は会葬者の群を目線で示して、照れたように肩を竦める。

「なんとなくね。気持ちの問題」

「そうね」と、元子は微笑んだ。

「なんだか続いてる感じがして。ちょっと縁起担ぎになっちゃうわね」

 そういえば、加奈美の母親と仲の良かった誰かが死んだ、という話を聞いた。山入でも不幸があり、常連客の娘も死んだ。夫が父親の同僚だから悔やみに行っていた。例年にない暑い夏だとはいえ、こうまで続くと、確かに縁起のひとつも担ぎたくなる。

「……きっともう終わるわ」と、元子は小声で言った。「夏の猛暑も終わりがないように見えたけど、さすがに朝晩は涼しくなってきたもの」

 そうね、と加奈美は笑った。

「葬式? 中埜の息子? ――あらまあ」

 タケムラの店先には十年一日のごとく、老人たちがたむろしている。大塚弥栄子の知らせを聞いて、広沢武子がすっとんきょうな声を上げた。

「あそこは爺さんのほうが酒飲みで、何度も倒れてたのにねえ」

「そうなのよ。中埜で葬式だって聞いたとき、わたしも爺さんがとうとう酒に呑まれたんだと思ったのよ」

 武子は頷く。

「肝臓壊して、片足を棺桶に突っこんでるようなもんなのにねえ。そういうのに限って、周囲に迷惑をかけながら長生きすんのよ」

 違いない、と笑った年寄りを、タツは冷ややかに見る。まったく、おめでたいことだ。この連中はこのところ葬式が続いていることをどう思っているのだろう。内心でひとりごちているタツの目の前を黒塗りのハイヤーが通っていった。立派な車だったから、おそらくは中埜じゃない。ついさっきも、立派な外車が通りがかって寺への道を訊いていった。工務店の葬式が寺であるという。おそらくはそちらに出る弔問客のものだろう。

 思っていると、まだまだ夏めいた陽射しの中、伊藤郁美がやってきた。郁美は通り過ぎるハイヤーを見送り、これ見よがしに顔を顰める。

「また葬式かしらね」

「中埜で葬式なんですって」

「中埜?」

 大塚弥栄子が頷いた。

「そう。下外場の外れのほうの家よ。そこの息子が死んだのよ。働き盛りなのにねえ」

 郁美は鼻を鳴らし、薄く笑った。

「今年の夏は葬式ばっかりだわ。だからろくなことにならないって言ったのよ」

「あんた、毎年そう言ってるじゃないかい」

 佐藤笈太郎が、脂で黄ばんだ歯を見せて笑った。いかにも汚れた前歯は自前のものだ。笈太郎はそれを自慢にしている。

「嘘よ、そんなの。別に毎年、言ってるわけじゃないわ。今年は特別。こんなに葬式が多いじゃない」

「仕方ないわよ。年寄りばっかりなんだからさ」武子が言うと、弥栄子も笑う。郁美はそれを底冷えのする目でねめつけた。

「よく笑ってられるわね。弥栄さんのところだって葬式が出たばっかりじゃないの」

「うちじゃないわよ。製材所の話でしょ。大塚製材とは確かに縁続きだから葬式には行ったけどね。縁続きったって、縁は切れてるもの」

 弥栄子は手を振る。武子と笈太郎が心得たように頷いた。

「妙な新興宗教に入れあげちゃって、何かというとうちにまで勧誘に来るんで往生してるのよ。寺なんか宛にしてると、ろくなことにならないなんて言って、それで自分のところの孫が死んでりゃ世話はないわ」

 笈太郎が深々と頷いた。

「お寺さんを粗末にしたから罰が当たったんだよ。そうなると思ってたよ、おれは」

 まったくだわ、と弥栄子は笑う。

 郁美が鼻を鳴らした。

「信心たって、ちゃんとした神様を信心しなきゃ意味がないからね。あたしは寺を崇めてたからって、御利益があるとは思わないけど。まあ、製材所がろくでもないのにたぶらかされているのは確かだわねえ」

 はいはい、と武子は言って郁美を遮った。このまま放置しておけば、怪しげなことを言い出すのに決まっている。

「まあ、葬式が多いのは確かよね。こう続くと、次は自分の番のような気がしてびくびくしちゃうわ」

「あんたは大丈夫よ。なんとかは世にはばかるっていうでしょ」

「そうなんだけどさ」と武子は笑ったが、郁美は目をひたと宙に据える。

「兼正が越してきてからよね」

 タツは目を見開いた。

「何を言い出したんだろうね、この人は。兼正が越してきたのは、山入で不幸があった後だよ」

「でも、家が建って以来よ。あの場所は良くないのよ。造作しちゃいけなかったの。それに山入は関係ないのよ。あれは村迫の家の問題なんだから。義五郎さんは村迫の不運に巻き込まれたんだもの。その後に葬式が続いたのは、兼正が越してきてからでしょう。下外場で高校生が死んで」

「ああ、清水の徳郎さんとこの孫娘」

「それから立て続けじゃない。葬式があって、なんだか始終、救急車が出入りしてるのを見るわよ。兼正よ、兼正。絶対に何かあるわよ。あの連中が厄を呼び込んだんだわ」

 タツは溜息をついて首を振った。また始まった、と辟易とする。

 だが、葬式が多いのは事実だ。郁美が思っているより、ここに集まる老人が思っているよりはるかに多いのではないかという感触を、タツは得ている。

(何かが起こっている……?)

 そうかもしれない、と胸の中に重いものが淀んでいく気がした。今年の夏はどこかおかしい。――いや、近頃の外場は変だ。それだけは確かだという、直感があった。

 夏野は、武藤に行く、とだけ両親に声をかけて家を出た。数学でどうしても解けない問題がある。武藤兄弟は――徹の妹の葵も含め――教師としてはあまり頼りにならなかったが、保は虎の巻の収集家だ。ひょっとしたら一年の時のものがあるかもしれないと思いついた。高校は違うが、幸いなことに使っている数学の教科書は同じだ。

 まだまだ残暑が厳しい。うんざりしながら青い空を仰いでいると、さほど遠くないところで鐘の音がした。脇の道を覗き込むと、道路際の家から白い布で覆った棺が運び出されるところだった。

 まただ、と夏野は足を止めた。その家が何という家なのかは知らない。ずいぶん近いな、とだけ夏野は思った。山入、恵、そしてその後にも両親が二度ばかり弔組の用で出ている。これで五件目ということになりはしないか。それもひと月程度の間に。

 昨年もこうだっただろうか、と思う。夏野は外場に越してきた昨年、葬式を見かけた覚えがなかった。今年の夏まではゼロだったのに、いきなり八月に入って以来、立て続けに葬式を見る。ひと月に五件ということは、均せば一週間に一軒以上の葬式があった勘定になる。これはどう考えても多すぎはしないだろうか。

 首を捻りながら、武藤に行った。保の部屋に上がり込んで、葬式があった、と告げたが、保は別に気を惹かれたふうでもなかった。

「なんか、葬式が多いのな」

 夏野が言うと、保は「そうか?」と段ボールの箱の中を探りながら気のない返事をした。

「こんなもんなんじゃねえの? 誰かが死んだとか、死にそうだとか、始終聞くぜ。――ああ、あった。物持ちがいいよな、おれも。感謝しろよ」

 虎の巻を差し出す保に、夏野は溜息をついてみせる。

「こういうんでなく、教えてもらえるともっと感謝するんだけどな」

「他人を頼りにしちゃ、いかんなあ」保は笑って、「大学に行くつもりなんだったら、塾に行きゃあいいのに」

「こんな田舎の塾が大学入試の役に立つかよ。通信のほうがマシ」

「可愛くねえ」保は、わざとらしく渋面を作って腕を組んだ。「なにかっつーと田舎、田舎って馬鹿にするあたりも可愛くないけど、通信でちゃんと勉強するところが最高に可愛気がない」

「おれ、堅実な性格だから」

 よく言うよ、と保は笑う。夏野も笑ってノートを開いた。

 勉強が好きなわけじゃない。これは夏野にとって、外場を出るために支払わねばならない代価だ。何が何でも村を出たい。そのために必要だからやる。出たいという思いが切実だから続いているだけのことだ。

(それでも、あと二年……)

 まだそんなにもある。たったの二年だ、と自分を慰めのが近頃は難しい。恵が死んで以来のことだ。外場に囚われたまま出られなかった恵――それが背中にぴったりと張り付いて後から夏野を急き立てる。早くしなければ、蜘蛛の糸のように何かが絡みついて解けなくなる。ここでの暮らしも悪くないか、と思うようになって、何もムキになってまで村を出ようとする必要はないじゃないか、という気分になるのだ、という気がした。

 ――それでなぜいけないのだ、という内心の声がした。村に馴染んで居心地がよくなって、外に出ることを望まなくなるなら、それはそれで幸せな状態なのではないだろうか。なのに夏野は、そういう状態こそが忌まわしくてならない。それは蜘蛛の巣に引っかかった抜け殻を想起させた。安穏としてはいても、空疎になった自分が残る。おそらくは。

 頭をひとつ振って、問題に取り組んだ。ついでに武藤でちゃっかり夕飯をごちそうになって、今日のノルマを片づけると十時を過ぎていた。保の両親に礼を言って武藤を後にする。煙草が切れた、と徹が一緒についてきた。

「夜風はさすがに涼しくなったなあ」

 徹は西の山を見上げた。虫の音が盛んだ。それに誘われたように暗い山肌から吹き下ろしてくる風は、いくぶん涼やかなように思われた。

「このまま秋になんのかな」

「さあて。彼岸のごろに、また戻ったりするからな。でも、夏は暑かったから、今年の冬は早いかもな」

「なに、そういう法則があるわけ?」

「いや。単なる憶測」

 これだよ、と夏野は徹を小突く。徹は快活な笑い声を上げ、そして急に口を噤んだ。

 徹は道の先を示す。西の山から外場の中心部に向かって、だらだらと道は下っている。その道の先のほう、一軒の家の塀も何もない地所の中にトラックが止まっていた。コンテナの扉が開いて、荷物が運び込まれている。

「引越だよ。こんな時間に」

 徹が呆れたように言った。夏野も頷く。夜間の引越とは御苦労なことだ。コンテナの横腹に松のマークが見えた。――高砂運送。

「夜逃げかもな。文字通り」

 徹が笑う。夏野はただ肩を竦めた。そういえば、と徹は荷物を運び出す作業服の連中を見守りながら続けた。

「|三安《さんやす》の嫁さんが逃げたって言ってたなあ」

「うん?」

「中外場にそういう家があってさ。正確には安森だけど。その三安の嫁さんが消えたんだってさ。朝、起きたらいなかったんだと」

「家出?」

「だろ。若い嫁さんなんだけどさ、舅姑と折り合いが悪かったらしいんだよな。旦那とも始終、揉めてて、そんでとうとう愛想を尽かして出ていったって話」

「そういうことが、ここでもあるのか」

 徹は苦笑した。

「田舎だって馬鹿にすんなよ。ここだって一応、世間並みのことは一通り起こるんだよ」

「そりゃ、お見それしました」

 夏野が言うと、徹は軽く背中を小突いて歩き出した。夏野はほんの少し、トラックを振り返る。夜逃げではないだろう。ああも堂々と大型トラックを横着けにして、夜逃げも何もないんじゃないかと思う。にしては、夜に引越というのも釈然としないが。

 夏野はふと、少し前にも、夜に引越、という言葉を聞いたことを思い出した。そう、あれは越してきたのだ。兼正の住人が。夜に越してきて、そして――と、夏野は軽く首を傾げる。越してきた、住人を見かけたという噂は聞くが、夏野は今に至るも住人を見かけたことがなかった。徹の言うように、まったく無関係で終わりそうだ。予定通り夏野があと二年で外場を脱出できたならば。

「どうした?」

 徹が振り返った。なんでも、と夏野は呟いて小走りに後を追う。徹が笑った。

「……羨ましいか?」

 夏野は顔を顰める。

「そんなんじゃねえよ」

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 月曜日、大川富雄は、電話口から松村の声が聞こえてくるなり、怒鳴り声を上げた。

「松、お前、いま何時だと思ってやがる」

「済みません」と、そもそも気弱な松村の声は、受話器の向こうでさらに蚊の鳴くような案配だった。

「朝から大口の配達が溜まってんだ。それを昼になろうかって時間になっても出てこねえ。月曜は忙しいことぐらい分かってるだろうが。何のために給料を払ってると思ってる。電話してくる暇があったら、さっさと出てこい」

「……あの、それが」

 松村の声はさらに弱く、しかも途切れがちだった。この男はいつもこうだ、と大川は内心で舌打ちをする。松村安造は大川より十も年上だが、甲斐性という点では息子の篤といい勝負だと大川は思っている。ただ松村は根っからの小心者で、篤のように後先考えずに無謀な真似をしたり妙に粋がってみせるだけの度胸がない。だから安心して集金を任せられるところだけが違っている。あとはもう、無能なところ、受け答えひとつからしゃっきりとしなくて大川を常に苛立たせるところまで大同小異だ。

「言い訳なら、出てきてから言いな。悠長に電話でお話ししてるような暇はねえんだ」

 松村が何かを言いかけたが、大川はそれを制す。店の前に止めたトラックからビールのケースを運び降ろそうとしている若い作業服の男に大声をかけた。

「おい、どこに停めてる。そんなとこに荷を降ろすんじゃねえ!」

 配送の若い男は、息子の篤と同年配のようだった。同じように恨みがましい目を大川に向ける。初めて見る顔だった。

「倉庫は裏だ。脇に行け、脇に。店の前に積まれちゃ、商売にならねえ。路地に下ろしてくれっていつも言ってるだろうが。いつもの若いのはどうしたんだ」

 これには返事をせず、若い男は大川をひと睨みしてケースを荷台に戻した。

「あの……大将、実はですね」

 トラックがバックするのを見守っていて、大川は自分が受話器を握ったままで、電話が依然として松村と繋がっていることを思い出した。

「実はもへったくれもねえ。さっきからぐずぐずと、何なんだ、お前は」

「それが……娘が」

 そこでようやく、大川は松村の声が涙混じりであることに気づいた。

「娘――康代ちゃんかい」

 二十の半ばになるのだったか。父親に似ず、はきはきした、しっかり者のいい娘だ。

「……それが、亡くなりまして」

「亡くなった? 死んだのか、いつ?」

「今朝方、具合を悪くして、救急車を呼んだんですけど、さっきとうとう。……そんなわけなんで」

 レジの番をしていた妻のかず子が、怪訝そうな顔を大川に向けてきた。もの問いたげな視線を受けて、大川は頷いてみせる。

「……わたしゃもう……どうしていいか」

 松村の声が嗚咽に途切れた。

「馬鹿野郎。こんなときこそ、おまえさんがしっかりしねえでどうする。いまどこだ? 病院か? どこの病院だ。ああ――とにかく、すぐに行ってやっから。世話役に連絡は済んだのかい」

 はいとも、いいえとも、松村の返答は、はっきりしない。大川は再度、とにかく行くから、と伝えて電話を切った。かず子がそれを待ちかねたように口を開く。

「亡くなったって、誰が? まさか松村さんとこの康代ちゃんじゃないわよね」

「そのまさかだ」

 まあ、とかず子は声を上げる。棚の整理をしながら聞き耳を立てていたらしい篤が「もったいねえ」と、不謹慎なことを言うので、大川は息子を睨みつけた。

「行って加勢してやらにゃ。なにしろ松はあの通りの奴だからな」言っている間に、荷の積み下ろしが済んだのか、配送の若いのが伝票を持って店に入ってきた。大川はぞんざいにサインして控えを受け取った。「とにかく上外場の世話役にも連絡しといたほうがいいだろうな。松のとこは、女房も頼りにならねえから」

「そうねえ。……あたしも行ったほうがいいかしら」

「行ってやれ。仏さんはまだ病院だから急ぐこたねえ。店を出る前に配達先に電話して、店の者に不幸があったんで配達が遅れると言うんだな。急ぐとこだけ篤に行かせて、あとは後日に廻してもらえ」

 かず子は頷いた。夫は短気で粗暴なところもあるが、決して情のない男ではないし、口煩いかわりに面倒見もいい。こういうときは、夫に任せておけば間違いない。

 上外場の世話役に連絡するため、大川は店の奥に連絡先を探しに行った。かず子は配達のメモを引き寄せ、カウンターの抽斗から配達先の電話番号を控えた帳面を探し出す。奥の住居から、大川に言われたのだろう、姑の浪江が出てきた。

「康代ちゃんが死んだんだって? 今年は死に事が続くわねえ」

「本当にねえ。つい先だっても」と、言いかけて、かず子はふと手を止めた。清水園芸で葬式があったばかりだ、と言いたかったのだが、それよりも気にかかることがあった。

「……ねえ、お義母さん。薄目を開けて寝るひとっているのかしらね」

「いるんじゃないの。そういう人の話を聞いたことがあるわよ」

 そうよね、とかず子はひとりごちる。

「なあに。どうしたの?」

 浪江に問われ、かず子は自然、眉を寄せた。

「昨日、大沢さんのとこに行ったのよ、郵便局の。なんでも大沢さんの具合が悪いらしくてね、お見舞いがてら様子を訊こうと思って。別に大したことはない、って奥さんは言ってたんだけどね、茶の間に襖が開いてて、間から大沢さんが寝てるのが見えたの」

 窓際に面する寝室は茶の間よりも明るかった。大沢は茶の間の方を向いて伏せっており、だから大沢野顔がよく見えた。薄目を開いて瞬きもなく、身動きもない。顔色は土気色でどことなく弛緩して見え、臘で覆ったような妙な質感があった。

「死んでたみたいに見えたのよ」

 まさか、と浪江は顔を顰める。

「そんなはず、ないでしょう」

「そうなんだけど。でも死人の顔みたいだったのよ。まさか奥さんに、死んでるんじゃない、とは言えないから、ずいぶんと悪いんじゃないのって訊いたんだけど、奥さんはたいしてことない、よく寝てるって」

「じゃあ、そうなんじゃないの。奥さんがそう言うんだから」

 そうね、とかず子は呟いた。大川がばたばたと出ていくのを送り出し、雑用を片づけ、浪江に店のことを頼んで、かず子も支度をする。篤は留守居としては頼りないが仕方がない。こういうとき頼りになる娘と次男は、学校に行っている。

 小走りに店を出て、上外場に向かう。その途中で郵便局の前を通りがかった。かず子はなんとなく足を止め、住居になっている二階の窓を見上げる。

(……あれは死人の顔だ)

 どうしても、その印象が拭えない。かず子は、郵便局の中に入ろうとし、シャッターが降りたままなのに気づいた。張り紙ひとつないのに困惑して、かず子は周囲を見渡した。向かいの後藤田衣料品店の久美と目が合う。店を訪ねようとする前に、久美のほうが店先に出てきた。

「ねえ、どうしたの、これ」

 かず子が郵便局を示すと久美は首を傾ける。久美の老いた顔にもどこか困惑した色が浮かんでいた。

「それがねえ。引越したのよ、大沢さん」

 まさか、とかず子は呟いた。

「そんなはずないわよ。あたしは昨日の夕方、会ったんだもの」

「それが昨日の夜中なのよ。夜中の二時過ぎだったかしらねえ。表にトラックが止まってて、煩いんで目が覚めたのよ。そしたら荷物を運び出してたんだもの、驚くじゃない」

「そんな――あそこは、旦那さんの具合も悪くて」

 久美は重々しく頷いた。

「運送会社の人が抱えて車に乗せてたわよ。毛布にくるんでねえ。慌てて表に出て、奥さんを捕まえて何事なのって訊いたんだけど、引っ越すことにしたから、ってそれだけ言って、お世話になりましたでもなくトラックに乗って行っちゃったのよ」

「まあ……そんな」

「|長田《ながた》さんたちにも連絡がなかったみたいよ。朝、いつも通りに出勤してきて、シャッターの前でおろおろしてたから。あたしゃ、大沢さんがこんな突拍子もないことをする人だとは知らなかったわ」

 そうね、とかず子は頷いた。目の前に薄目を開けた大沢の寝顔(……死に顔のような)がちらついた。胃の腑のあたりが、ぞわりとした。なんだろう、この得体の知れない気持ちの悪さは。

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 火曜、終業間際の大塚製材では、まだ帯鋸の唸りが響いていた。静信はその光景を感慨深く見た。製材所の建物の天井まで掛け渡されたベルト状の帯鋸、そこから落ちる|大鋸屑《おがくず》を受け止める溜まり、小さい頃、丸安製材に入り込んで、よくあの溜まりに潜り込んで遊んだ。大鋸屑が満ちたプールは子供にとって砂場以上に魅力的だったし、その底のほうではカブト虫やクワガタの幼虫やさなぎが見つかったものだ。

 体中を大鋸屑だらけにして母親に叱られたのはもちろん、衣服の下に入り込んだ大鋸屑は得てして子供に途方もない不快感を与えるのだが、それを我慢するだけの価値は充分にあった。

 懐かしく製材所の様子を見つめていたので、声をかけられるまで大塚隆之が間近にいるのに気づかなかった。

「若御院じゃないですか」

 声をかけられて、ようやく静信は我に返る。作業服に身を包んだ隆之と視線が合って、慌てて頭を下げた。

「お久しぶりです」

 顔を上げたとき、鋸を監督していた大塚|吉五郎《きちごろう》と目が合った。吉五郎は不快げな顔をして視線を逸らした。

 大塚製材は、丸安製材と並ぶ製材所だった。村に製材所は何軒もあるが、中でもこの二つが群を抜いて大きい。かつては寺の檀家で、檀家総代でもあったと聞いているが、静信が大学を出、本山での修行から戻ってきて寺を手伝うようになる以前に檀家を抜けた。吉五郎の死んだ妻が新興宗教に入信して、吉五郎も同じく入信したせいだ。静信の父、信明は何度も足を運んで説得に努めたらしい。その頃の確執のせいだろう、吉五郎は寺の者に当たりが悪い。

 これに対して、息子の隆之は、当時の確執を知らないのか、知っていても拘るほどのことではないと思っているのか、格別に当たりが悪いというわけでもない。村のあちこちで顔を合わせても、特に不快な顔をされたことはなかった。

「お久しぶりですね」

 隆之は笑顔を見せた。

「ご無沙汰してます。お仕事中に申し訳ありません」

「どうしました」

「つい先だって、康幸さんが亡くなったという話を小耳に挟んだものですから」

 ああ、と隆之は痛いところを突かれたような表情を見せた。

「それでわざわざ。――ありがとうございます」

 隆之は軍手を脱いで、作業服のポケットに突っこむ。汗を拭いながら事務所を示した。

「まあ、どうぞ。お茶ぐらいしかないですけど」

「お仕事中ではないのですか。ご焼香だけさせていただいて、と思ったのですけど」

「いいんです。今日はもう、上がろうと思ってたところなんで」

 隆之は笑い、近くの者に何事かを告げて、先に立って事務所へと向かった。製材所の脇にある事務所に入ると、隆之の妻の|浩子《ひろこ》が事務机に向かって帳簿を開いていた。静信に気づき、腰を上げて会釈をする。

「あら、お久しぶりです」

「康幸の悔やみに来てくだすったんだ」

 隆之が言うと、困ったように笑い、礼を言う。

「突然、済みません。ひょっとしたら出過ぎかとも思ったのですが」

「いいんですよ。ありがとうございます。わざわざ来ていただけるなんて――」

 浩子は微笑んだまま、くしゃりと泣きが絵になって、それで静信はひそかに良心が痛むのを感じた。

「とりあえず、お茶でもどうぞ」

 隆之は言って、事務所の隅の冷水器から麦茶の冷えたのを注いで差し出す。空いた椅子を勧めた。

「本当に、このたびは突然のことで……」

 まったくねえ、と隆之は苦笑する。

「元気だけが取り柄のような奴がね、わたしより先に逝くとは思いませんでした」

 そうでしょうね、と静信は低く返す。隆之と浩子の言によれば、やはり康幸は突然に寝込んだらしい。夏風邪だろうか、とここでもお定まりの台詞が聞かれた。甘く見ていた、まさかこんなことになるとは思わなかった。夜中に突然、呻き声を上げたと思ったら痙攣し始めて、と隆之は瞬いた。

「救急車を呼んで、国立に運び込んだら、腹の中が血だらけだって話でね。緊急に手術をすることになったんですが、死んで出てきました。間に合わなかったようで」

「そうですか……」

「肝臓を壊してたらしいんです。黄疸が軽かったんで、私らも気がつかなかったんですけどね。別に深酒をするわけでもない、壊すような理由もないと思ってたもんだから。本当に、寝耳に水とはこういうことを言うんですかね」

「それはさぞ、お辛かったでしょう。……もう落ち着かれましたか?」

 そうですね、と隆之は寂しげに笑った。

「あいつが死んだ当初は、夫婦喧嘩ばっかりでね。わたしは母親が何で気づかなかった、とこいつを責める、こいつはこいつで一緒に働いててどうして気づかなかったと責める。おまけに親父は親父で、私らの信心が足りないせいだとか言うし、近所の者の中にゃ、新興宗教なんかにかぶれるからだ、と聞こえよがしに言うのもいて」

 そんな、と静信は眉を顰めた。

「そういうことは、何も関係ないでしょう」

「若御院にそう言ってもらえると、正直言って溜飲が下がります」と、隆之は自嘲するように言った。「村の連中は――いや、寺を責めていると取らないでくださいよ――やっぱり檀家を離れることに批判的なんですよ。寺と村と、本当に一枚岩なんでね。実際、あちこちでね、かつかつと引っかかる。まるで村を離れた余所者のようだ、と思うことがありますよ」

 浩子が取りなすように微笑む。

「特にね、ほら、お祖父さんが区長を降ろされちゃったでしょう。別にうちがどうこうなんじゃなくて、単にお祖父さんがもういい歳だってことなんですけど、すっかり臍を曲げてしまって、悪し様に言うもんだから余計にこじれちゃって」

「そうですか……」

「一時はそれで、喧嘩ばっかりでしたよ」と、隆之は苦笑する。「家の中が寒々しくてね、私らにしたら、ちゃんと信心だってしてきたつもりです。なのになんでこんな目に遭うんだと思ったら、いっそ寺に頭を下げて檀家に戻ろうか、とか」

「いけません」とっさに静信は口を挟んだ。「そういうふうにお考えになっては駄目です。信仰は自生するもので、他から強要されるものじゃない。人の最も自由な部分の支柱となるものなのですから、不自然な曲げ方をしてはいけません」

 隆之は驚いたように瞬いた。静信は我に返り、思わず恥じ入って俯く。

「済みません。……妙なことを」

 いえ、と隆之は笑む。

「そう言ってもらえると安心します。――なあ?」

 隆之は笑って浩子を振り返る。浩子も頷いた。

「ええ、……本当に」

 その口振りで、どれだけの非難があったのか、想像がついた。確かに村は寺を中心に結束している。強固な団結力は、強固な排他主義の上に成り立っているものだ。ましてや大塚製材は、ずっと檀家総代を務めてきた。いわば寺を支える柱だったのが、突然、寺に離反したにも等しいわけだから、檀家の者たちがそれをどう捉えるか、想像がつこうというものだ。

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