(……いやだ)
恵を忘れて片づけてしまうなんて嫌だ。そんな自分にはなりたくない。そう思って、恵のために泣ける自分を確認しようとするのだけど、少しずつ、それが難しくなっている。
かおりは唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで、そうして机の抽斗から恵の葉書を引っ張り出した。丁寧に書かれた残暑見舞い、懐かしい恵の文字。
(……こんなに丁寧に)
心を込めて、なのに投函できなかった。どんなに無念だっただろう。
恵が死んだと聞いて、家に駆けつけて、でも、少しもピンと来なくて。呆然としていたかおりが、ようやく泣けたのは、この葉書を見つけた時だった。こんなに丁寧に、と思うと、それだけで涙が溢れて止まらなかった。三十五日の時もそうだった。今も悲しい。可哀想だと思う。なのにどうして涙が出てこないのだろう。
心を込めて、ともう一度、心の中で繰り返す。そうやって自分に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで含めるように言い聞かせないと涙が出てこない。――涙が出るほど悲しいという気持ちになれないのだった。
(こんなの、嫌だ)
たった四十二日で、悲しみが摩耗してしまうなんて。そんなことがあっていいはずがない、と懸命に自分に言い聞かせても、以前のような呑まれるような感情の高ぶりはやってこなかった。
それどころか、こうして葉書を見ていると、別の意味で後ろめたい。発作的に恵の部屋から持ち出してしまったけれど、こんなことをして良かったのだろうか。あのときはそうしなければならない、という気がしたのだが、時間が経つに連れ、なぜ自分がこんなことをしたのか分からなくなった。恵の部屋が片づけられてしまうのじゃないか、と焦ったのは覚えている。恵のいた痕跡が拭い取られてしまう。そうなる前にひとつでもいい、痕跡を救い出そうとしたのだけれども、よく考えると本当に恵の部屋が整理されるとは限らない。
自分のしたことが疑問に思えたのは、あの直後、学校で教師と話をしたせいなのかもしれなかった。
たまたま、かおりは当番だった。英語の教師にプリントの印刷を手伝ってくれと頼まれ、もうひとりの当番の子と印刷室に行った。
「田中さんは最近、元気がないね」と、その教師――広沢は言った。「悩み事でもあるふうだね」
友達が死んで、という話をしたのは、もうひとりの当番、小池|董子《とうこ》だった。それで初めて知ったのだけれども、広沢と恵の父親は友達らしい。葬儀で広沢の顔を見かけたようにも思ったが、そんな縁だとは思わなかった。その広沢から、恵の父親がひどく気落ちしてすっかり塞いでしまっている、と聞いた。かおりはそれで、少し救われた気がしたのだった。誰もが恵の死を片づけたわけでも、片づけてしまいたいわけでもないのだと思ったし、そこに至ってようやく、自分よりも恵の両親のほうが辛いのに違いないという、ごく当然のことに気がついたのだった。まるでこの世には、自分以外、恵の死を悲しんでいる者はいないような気がしていたけれども、それがとても不遜なことだったと気づいた。
それでも――と、かおりは思う。だったら忌明けを繰り上げたりせずに、せめて四十九日まで恵を家にいさせてあげればいいのに。広沢が首を傾げたので、かおりは、法要がまるでお祓いのように思われたことを話したのだった。
「ああ……なるほど」と、広沢は複雑な感じで笑った。「それで田中さんは、恵ちゃんが家を追い出されるように感じたんだね」
頷くかおりに、広沢は、けれども、と言う。「それは少し、誤解があるね」
「……誤解?」
「うん。人が死ぬとね、四十九日の間、この世とあの世の境目に留まっているんだよ。まあ、境目と言っても、どこにあるのかよく分からないから、その間は仏壇に留まってるというふうに言うね。これを家にいると言えば、確かに家にいることになるのだろうけど、死んでもうこの世にはいないんだけど、まだあの世にも行けない。というのも、行き先が決まらないからだね」
「行き先?」
「そう。輪廻転生という言葉を聞いたことがないかな。人は、六つの世界を転生しているんだね。死んでは生まれ変わり、ぐるぐる廻っている。死んだ人は生前の行いによって、次の生まれ先を決められるんだよ。七日ごとにそのための裁判が行われるんだね」
言って、広沢はやんわり笑った。
「要は、閻魔様の前に引き出される、というやつだね。七日ごとに呼び出されて取り調べが行われる。生前の行いが悪ければ、いわゆる地獄に堕ちるのだけれど、生前の行いが良ければ極楽に行く。極楽にいけるほど行いが良くない場合には、もういちど人に生まれて修行をやり直すことになるんだ」
「人に……?」
「そう。六つの世界を転生するから、六道輪廻というんだよ。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界。法要はね、いわばその裁判で、少しでも良い判決をください、早く終わらせて極楽に行かせてやってください、とお願いするために営むんだよ」
かおりは、ぽかんと瞬いた。小池董子のほうを見ると、董子は心得たような顔をしていた。
「董子ちゃん、知ってた?」
「うん。うちのお祖父ちゃん、弔組の世話役だもん。そういう話なら小さい頃からいっぱい聞かされるから」
広沢は微笑んだ。
「四十九日で結論が出ない時は、百箇日、一周忌、三回忌に持ち越されるんだそうだよ。長々と境目――中陰とか中有とか言うんだけども、そこに留まっているのは、むしろ良くないことなんだね。もちろん、早く良い結果が出たほうが死者だっていい。だから遺族は、そのために法要を行って、仏様の加護で早く良い結果が出るように祈るんだし、死んだ人の代わりにお経を上げたり、お布施をしたりして死者の徳を追加しようとするんだね」
そうだったのか、と、かおりのほうが憑き物が落ちた気分だった。誰も――少なくとも恵の両親は――恵を追い出そうなんてしてない。忘れよう、片づけようとしていたのじゃなかった。
そう分かってみると、自分の行為が馬鹿馬鹿しく、軽はずみなものに思われた。どうしてあんな、今にも恵の部屋がなくなるように感じてしまったのだろう。恵が大切にしていたものの全てが、おざなりに処分されてしまうように思ったけれども、
本当に恵の家族はそんなことをしただろうか。
それを思うと、自分のしたことが恥ずかしかった。それでも恵はこの葉書を両親に見られたくはなかったはずだ。それだけが救いだ。かといって、恵はそれを、かおりがこうして所有していることだって望んではいないだろう。もしも自分なら――と考えると、宛先に届けられるか、さもなければ誰の目にも触れないところに処分されて欲しいと思うような気がする。
(どうしよう……)
かおりは、あの日以来、何度もそうしたように、葉書を見つめて考え込んだ。もちろん今さら恵の両親には渡せないし、それはやはりするべきじゃないという気がする。もとの場所に戻してこようか。でも、なんと言って恵の部屋に入れてもらおう。恵の代わりに自分が処分してしまうのがいいのだろうか。それとも――。
かおりは葉書の宛名を見つめた。
彼のために書いた残暑見舞い。書いてそれきり、投函できずに恵は死んでしまった。こんなに丁寧に書いたのに。
(恵……これ、出したかっただろうね)
心の中で、はっきり呟いてみたけれど、やはりもう涙は出てこなかった。
でも、投函したかったのは確かなはずだ。恵はそのために書いたのだから。だからこそ、かおりは葬儀の時、これを宛名の当人に手渡してやろうと思ったのだ。なのに当の本人が、いらいなと言った。
(あんな酷い人のことが好きだったの?)
少しも恵の死を悲しんでるふうじゃなかった。恵がこんなに思いを込めたものなのに、だから渡してやりたかったのに、夏野は喜ぶどころか、とても迷惑そうだった。
(付き合いがあったわけじゃない、って……恵はあんなに好きだったのに)
恵の思いを、恵の死を、あんなにも軽々しく扱った夏野が許せない。
かおりはじっとその葉書を見つめた。
――投函してやろう。彼はこれを受け取る義務がある。
それがいい、とかおりは立ち上がった。自分が持っているより、処分してしまうより。恵だって投函したかったはずだし、夏野だってこれを見れば、恵の気持ちに気づくかもしれない。自分がどんなに酷いことを言ったのか、理解するかも。
かおりは階段を駆け下りた。母親が何か、また小言を言ったようだけれども、構わずに表に出る。何度も通い慣れた道を小走りに走って恵の家の側まで来た。ポストは恵の家のすぐ近くだ。
(たったこれだけの距離だったのに)
それを歩いて投函にいけないほど、恵は具合が悪かった。突然、急に悪くなって、だからとうとう……。
かおりは最後にもう一度、葉書の文面を見つめた。それをポストの中に差し入れ、少し迷う。何だが自分は、こうすることで楽になりたがっているように思えた。
別に、持て余してるわけじゃない。恵がそれを望んでいたから、自分が代わりにそれを行うのだ。そう自分に言い聞かせても迷う。葉書が指を離れたのは、背後から声をかけられたからだ。
「――かおり?」
昭の声がした。驚いて、かおりは葉書を放し、そして葉書はポストの中に落下していった。それを鼻先で追うように、昭がかおりの脇から顔を突き出した。
「あーあ。お前、なんで今ごろ残暑見舞いなんだよ。いま、九月だって分かってるか?」
ぎくりとして、かおりは昭の顔を見つめた。
「やだ。……見たの?」
「見えたんだよ。じーっとポストの前に立ってるんで、何してんのかな、と思って覗き込んだら」言って、昭はわざとらしく溜息をついた。「かおりがここまで常識知らずだとは知らなかったぜ」
「いいじゃない。まだ暑いもの」かおりは苦しく言い訳をして踵を返す。「それに、暑中見舞いならお盆までじゃなきゃ
いけないけど、残暑見舞いにはいつまでって期限はないでしょ」
「こんな物知らずな奴が姉貴だなんて、おれ、涙が出ちゃいそう」
追いかけてきた昭を、かおりは振り返った。
「なによ」
「残暑見舞いにだって期限ぐらいあるだろ。九月も終わろうかってのに、無茶言うよな。しかも、暑中見舞いは盆までじゃないの。おれは立秋までだよ。恥ずかしいなあ、もう」
かおりは瞬いた。
「嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。あれは立秋までなの」
「……立秋っていつ?」
「知らない。でも八月の最初のほう。盆よりは前だよ、確か」
「でも」と、かおりは呟いた。「恵が言ったんだよ。お盆までだって……」
昭はきょとんとした。
「恵ぃ?」
「そう。いつだったか、恵がそう言ったの。だからあたし、ずっとそうなんだと思ってた……」
昭は溜息をついた。
「恵って物知らずなくせに、妙に自信満々なところがあったからなあ」
そうだったのか、とかおりは思った。立秋を過ぎたらもう残暑見舞いで良かったのだ。恵がそれを知っていたら、ちゃんと自分で投函できたろうに。
そう思い、かおりはふと足を止めた。背後のポストを振り返る。たったいま、季節外れの葉書を呑み込んだポスト。赤いポストのある四つ角。あれを曲がってすぐのところに恵の家はある。
恵は投函できなかった。あんなにポストが近くにあるのに。なぜなら、恵はお盆から残暑見舞いだと思っていたから。なのにお盆には具合が悪くて、寝込んでしまっていたから。
(でも、たったあれくらいの距離、歩けないほど具合が悪かったんなら……)
「恵……あれをいつ書いたんだろう……」
ひとりごちた声を聞きとがめたのか、昭が首を傾げた。
「なに? あれって恵が書いたの?」
しまった、と思ったが遅い。かおりは不承不承、頷いた。
「内緒よ。……恵が残したの。だから季節外れだけど、投函してあげようと思って」
「へええ」
「恵は、十三日から残暑見舞いだと思ってたんだと思う。でも、十三日には具合が悪かった。ううん、十一日にはもう悪かったの。山の中で倒れちゃったんだから
」
「じゃあ、その前に書いたんだろ」
「その前だったら、暑中見舞いでしょ。恵はそう思ってたんだもの」
「そっか。じゃあ、具合の悪いのに無理して書いたんだ」
「そういう……ことだよね?」
恵が葉書を書いたのは、具合が悪くなってからだ。そうとしか思えない。けれども何かが引っかかる。何かおかしい。
足を止め、首を傾げていたかおりは、自分が大塚製材のすぐ脇まで来ているのに気づいた。積み上げられた材木の山を見ていて、ふと思う。
「恵……いつ桐敷の奥さんにあったんだろ」
「はあ?」
「あたし、奥さんを見たの。十三日」
「そう言ってたよな」
「うん。恵のお見舞いに行く途中だった。それで恵にそう言ったの。綺麗な人だったよ、って。そしたら、恵が知ってる、って」
「知ってる? じゃあ、恵も奥さんにあったことがあるんだ」
「だよね? でも、十一日、坂の下で会ったときにはそんなふうじゃなかった。だって恵、家族がどういう人なのかも知らなかったんだもん。奥さんと娘さんがいるって噂をしたら、初耳だって顔してたもん」
昭は首を傾げる。
「ええと? それが十一日なんだよな? それって恵がいなくなった日のことだろ?」
「そう。坂の下で別れたの。恵は坂を登っていった」
「でもって、夜中に見つかったんだよな。具合が悪くて山で倒れたんだろ。それからずっと寝込んでて」
「そうだよ。もしも十二日か十三日に外を歩いてたら、恵、葉書を投函してるよ。十二日に投函したら、着くのは十三日以降だもん」
「てことは、十二日にも十三日にも家から出てないってことだよな? だったら兼正の奥さんにも会うわけないんだから、十一日だよ。そうとしか考えられないじゃん。坂を登っていって、それで奥さんにあったんだ」
「でも」と、かおりは呟く。「あんなに大騒ぎになったんだよ? 山狩りして、兼正の若い人が出てきて手伝ったって。誰も恵がどこに行ったか知らなくて、あたしが坂の下で見かけたのが最後だったの。兼正の人が会ったんなら、そう言うんじゃない?」
昭は首をひねる。
「会ったのに、黙ってた……」
「でも、なんで?」
――何があったのかしらね。
かおりの母親はそう言う。
――女の子があんな時間まで。戻ってきてから、様子がおかしいって言うじゃないの。何かあったのよ、きっと。あんたも気をつけるのよ、かおり。夏には変な人が多いんだからね。
(本当に何かあったのかも……)
かおりは顔を上げて西の山のほうを見た。かおりが今いる位置からは、樅の山しか見えない。
(坂の上で、何か)
何か、恵が具合を悪くするようなこと。他人に知られては困るようなこと。
「なあ……かおり」と、昭が珍しく深刻な声を出した。「最近、えらく死人が多いと思わないか?」
かおりは首を傾げる。
「思う、けど」
「それって、兼正が越してきて以来だよな」
どきりとした。そうだったろうか。自身がないが、前後しているのは確かだ。
「でもって恵、急に具合が悪くなって死んで、その具合が悪くなる直前にさ、兼正に登っていったんだよな。そこでたぶん、奥さんに会ってる」
「う、うん」
「お前さ、十三日に会ったんだろ、桐敷の奥さんと。それ、製材所の康幸兄ちゃんと一緒だった、って言ってなかったか?」
かおりはハッと息を呑んだ。
そうだった。大塚製材の康幸と一緒にいたのだ。そして――。
「康幸兄ちゃんも死んだんだよな」
かおりは立ち竦んだ。そう、ちょうどこの辺りだ。材木置き場の中で、千鶴に何やら説明していた康幸。それから起こしして、康幸は急に身体を壊して死んだ。
「恵は奥さんと会ってるはずだ。でも兼正の誰もそんな話――」
「ねえ……やめよう」
「かおり?」
「なんだか恐いよ。そういう話するの、やめよう」
かおり、と声をあげた昭に、かおりは首を振る。その場を逃げ出して家へと駆け戻った。
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3
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「あれ、また引越だ」
夏野は足を止めた。
「うん?」と、例によって煙草を会に出てきた徹も足を止める。「ああ、ほんとだ」
ちょうど武藤を出てすぐ、刈り入れの終わった田圃越しに見える家並みにトラックが横着けになっていた。夏野はとっさに腕時計を見る。
学校の帰り、バスで保と一緒になった。そのまま保にくっついて武藤に戻り、夕飯までごちそうになって家に戻るところだった。そろそろ退散しようかと思っていたとき、徹の父親が戻ってきた。このところ病院は忙しいらしく、武藤の帰りが遅い。遅いばかりでなく、家に仕事を持ち帰っているらしい。母親の静子がそれを手伝っているのも見かけたことがあった。こんな時間まで仕事か、と時計を見たが、その時点ですでに夜の十時を廻っていた。案の定、腕時計の針は十一時に近づこうとしている。どう考えても引越には遅い時間だ。
「また高砂運送だ」
夏野がひとりごちると、徹は首を傾げる。
「また?」
「ついこの間も、変な時間に引越してただろ。あれも高砂運送だった」
「そんなこともあったっけか」
「もうボケ始めてるよ、このおっさんは」
聞こえよがしに溜息をついてみせると、徹の拳が飛んできた。それを笑って|躱《かわ》し、徹と別れる。夜道を家へと向かいながら、何か妙だ、と思っていた。
死人の続いた夏。それが終わってみると、今度はやたらと転居を見かける。いや、何も終わってないのかもしれない。武藤の帰宅が日を追うごとに遅くなっているのが、その証拠だ。とにかく忙しい、と武藤は零している。忙しいということは、それだけ患者が多いということ、具合の悪い者が増えているということだろう。実際、葬式を見かけることも多い。それがどんな人間かは知らないが、確実に人が死んでいる証だ。
過疎にさらされている村というのは、こんなものなのだろうか。引越が多い。――だが、その引越がいちいち夜に行われているのは解せない。しかもどれも同じ運送会社というのは、どういうことだろう。
釈然としない気分で家に戻った。玄関に入って靴を脱いでいると、湯上がりらしい母親が渋い顔で出てくる。
「おかえり。また武藤さんとこ?」
「うん」
「いつもいつも、御飯まで御馳走になって。近所なんだから夕飯ぐらい食べに戻ってくればいいじゃない」
うん、とこれには生返事をしておく。
「せめて、一回、家に戻ってからでかければ? まったく、どこの家の子なんだか」
どこの家もないもんだ、と夏野は心で呟いた。ここは「家」じゃない。そもそも夫婦という形態を拒み、家という制度を拒んだのは自分たちじゃないか、と思う。ここは単に二人の男女と子供が一人寄り集まっているだけの場所だ。両親の生き方を云々しようとは思わないが、当たり前を拒みながら同時に当たり前を要求する無頓着さには辟易する。
ぶつぶつ言っていいる母親を無視して部屋に戻ろうとすると呼び止められた。
「ねえ、葉書が来てるわよ」
母親は下駄箱の上を示す。
「おれに?」夏野は葉書を手に取った。「――何だ、これ?」
それは残暑見舞いだ。文面に目を通し、それを裏がえして夏野は眉を顰めた。
「今頃、残暑見舞いなんて、変な話ねえ。誰、その清水さんって」
「人の手紙読むなよな」
「あら、葉書なんだから仕方ないでしょ」
母親を冷たく見やって、夏野は葉書に目を落とす。
――清水恵。
「清水さんちの娘さんじゃないの、それ」
「……だろうな」
「嫌ね。どうして今頃、葉書が来るの。気味が悪い」
「誰かの悪戯だろ」
そう言って、さっさと部屋に向かう。部屋の明かりをつけ、改めて葉書を眺めた。
間違いない、これはあの「清水恵」だと思う。だが、恵は八月の半ばに死んだ。死者から手紙が来る道理はないし、残暑見舞いにはどう考えても遅すぎる。恵が死ぬ前に書いたものか。それが何かの事故で、今頃になって届いたのだろうか。
なんとなく割り切れないものを感じたが、ことさら気味悪く感じる必要があるとも思えなかった。夏野はそれをゴミ箱に放り込もうとし――なぜというわけではないものの、その手を止めた。
後生大事に保存しておく気はない。だが、捨てるのは何も今日でなくてもいいだろう、という気がした。
徹は自販機の下に屈み込んで、煙草のパッケージを取り出した。釣り銭をポケットに戻し踵を返す。夜道を歩きながら、どこか妙な気がする、と思っていた。
葬式が多い、引越が多い。――確かに多いと思う。これまでこんなことはなかった。これまでなかったことが起こったから異常だと短絡する気もないが、どうにも釈然としない。近頃、村はどこか変だ、という気がしてならなかった。調子が狂っている感じ、歯車の噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み合わせがズレてでもいるような。あるべき状態からひどく逸脱している。
無意識のうちに煙草のパックを投げ上げていて、それを取り落としした。掌の上で跳ねたそれは路面に落下し、不規則にバウンドしながら転がっていく。転がった先に若い男の姿が見えた。男の手がそれを拾い上げる。
「ああ、済みません」
「いえ。どうぞ」
手渡してくれた男の顔には見覚えがない。徹より若干、年上だろう。村の人間の全てを知るわけではないが、同世代の者はさすがに分かる。見覚えがない以上、兼正の誰かだとしか思えなかった。
「ひょっとして、兼正の人?」
そうです、と相手は笑った。
「同じ年頃の人にあったのは初めてだな。ぼくは辰巳といいます。よろしく」
「どうも、こちらこそ。おれは武藤です」
「ぼくぐらいの歳の奴って、村にはいないのかと思いましたよ」
「そんなことはないです。数は少ないんで、遭遇率は低いと思いますけどね」
答えながら、こいつが、と思っていた。こいつが噂の「兼正の若いの」だろう。正雄のところに現れた奴だ。
「――散歩ですか?」
「そういうわけでもないんですけど、ぶらぶらと。家の中は退屈だけど、行くところがなくって。村の若い人は、毎日何をして過ごしてるのかな」
辰巳の言に、徹は笑った。
「村の中じゃ、テレビ見て寝るぐらいしか、することはないな。あとはタベるくらい。もうちょっと有意義に遊ぼうと思うと、村を出ないとどうしようもない」
辰巳は瞬いた。
「じゃあ、やっぱり溝辺町まで行かないといけないんですね。車で?」
「そう」
「でも、車で遊びに出かけると、飲みに行けないでしょう」
「まあ、額面はそう言うことになるけどね」
辰巳は溜息をつく。
「いいところだと思うんですけど、さすがに遊び場がないんで時間を持て余すな」言って、辰巳は笑う。「かといって、昼間に出歩くと、自分が珍獣になった気分がして」
徹は笑った。
「遊び相手がいないと、どうにもならないよ、この村じゃあね。かといって、溝辺町までわざわざ出かけていったところで、一人で楽しく過ごせる場所があるとも思えないけど。特に夜はね。溝辺町まで出ようと、夜が早いのは変わらないから。まあ、都会と違って田舎はそんなもんだよ」
「なるほどなあ」
「そんな大した遊び場はないけど、それでもよければ今度、案内するよ」
「本当に?」
徹は頷く。
「よかったら週末にでも声をかけてもらえれば。おれは中外場に住んでるから。病院で事務をやってる武藤の家、と訊いてもらえればすぐに分かる」
「ああ――尾崎医院に勤めてるんだ」
「親父がね。おれは単なる会社員だけど。やたら賑やかで落ち着かない家だけど、よかったら遊びに来てくれ」
ありがとう、と辰巳は笑う。どこか含みありげに徹を見た。
「そう言ってもらえて嬉しいな。――必ず伺います。どうぞ、よろしく」
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二十八日、法事で身動きが取れなかった彼岸がようやく明け、静信は中外場の通称、三安――安森家を訪ねた。突然、嫁がいなくなったというのが、気になって仕方なかったからだ。
三安の地所は中外場の一番南、西山から流れる細い川に架かった橋の袂にある。コンクリートで囲まれて、川というより水路と言ったほうが似つかわしい。その向こうは下外場。
静信は三安の地所に入り、まっすぐ玄関に向かったが、その間にも表に面した雨戸が引かれているのに気がついていた。時刻はほぼ二時、家の者が寝ている時間ではないだろう。それで山入の村迫家のことが思い出された。静信はなんとなく、予感のようなものを感じながら玄関のガラス戸の前に立つ。
案の定、ガラス戸は開かなかった。呼び鈴を押してみても応答がない。念のために裏のほうへと廻ってみたが、どの窓もぴったり閉ざされ、雨戸を引かれ、戸締まりがしてあった。
少し用を足しに出かけるなら、誰も戸締まりをしたりしない。ここまでの戸締まりをするのは長期、遠方に出かける時だけだ。
困惑して表に戻り、静信は道を挟んで向かいの家に向かった。周囲は田圃ばかりで、三安に隣家はない。最寄りの家は向かいの田茂だけだった。中外場に二軒ある田茂のうちの一軒だ。こちらのほうも三安と同じく典型的な農家の造作で、表に面した雨戸は全部開いていたし、縁側から奥の方に人がいるのが見て取れた。
「済みません」
縁側まで行って静信が声を上げると、奥でテレビを見ていたのだろう、横顔を見せていた中年の女が振り返った。田茂由起子だ。
「あら、若御院」
由起子は言って立って、縁側に出てくる。
「しのぎやすくなりましたねえ。どうなさいました」
「済みません、お向かいの安森さんなんですけど」
ああ、と由起子は声を上げる。
「三安に御用ですか? あそこ、越したんですよ、つい一昨日」
え、と静信は声を上げた。
「まあ、お上がりになってください。何もないですけど、お茶くらい」
由起子が熱心に勧めるので、静信はありがたくそれを受けた。奥の茶の間ではテレビが点いており、その周辺には幼児用の玩具が散らばっていたが、子供の姿は見えない。お茶を用意して戻ってきた由起子は、それを慌てて集めながら、孫がやんちゃ盛りで、
と笑った。
「やっと歩くようになったら、もう目を離せなくって。そのへんに玩具を散らかすし、始終、大声を上げるしで大変。嫁とお祖母ちゃんが連れて買い物に行ったんで、やっと一息ついてたところなんですよ」
由起子は言って目を細める。
「お祖母さんはお元気ですか」
「お陰さまで。わたしより元気なくらいですよ。お祖父さんが早死にだったぶん、自分は長生きするんだ、なんて言ってますけど、本当にそうなりそうですねえ」
「それは結構なことです」と、静信は微笑み、ところで、と続けた。「安森さんですが」
ああ、と由起子は袋菓子の口を開けながら表のほうを見た。
「引越したんです。一昨日、というよりその夜中なんですけどね」
「夜に越してしまわれたんですか」
ええ、と由起子は頷く。
「若御院のところにも挨拶がなかったんですか? いえ、うちにも何の挨拶もなかったんですよ。とにかく、車の音がして、それももう寝ようかって時分でしたから、何事かしらと思って見たら、向かいにトラックが停まってたんです」
「高砂運送……ですか?」
由起子は瞬き、ああ、と一拍おいて頷いた。
「そう言えば、松のマークが入ってました。そういう何かおめでたい名前の運送屋でしたっけ。よく御存じですね」
まあ、と静信は言葉を濁した。
「その運送屋のトラックが入ってましてね、荷物を運び出してるふうなんで、驚いてお向かいに行ったんですよ。そしたら、引越すことにした、って。――それが妙な話なんですよ」
由起子は声を潜めて身を乗り出す。
「若御院、あそこのお嫁さんがいなくなったの、御存じです?」
「そういう噂は聞きましたが」
「いなくなったんです。八月の末なんですけどね。お向かいの米子さんが見なかったか、って言ってきたのが夕方だったかかしら。話を聞くと、朝からいない、っていうじゃないですか。起きたらもういなくて、出かけてるのかと思っていたら、未だに帰ってこないって言うんですよ。あたし、駐在に届けたら、って言ったんです。最近、村じゃあ何が起こるか分かったもんじゃないですから」
分かるでしょう、と言いたげに由起子は目配せをする。静信は曖昧に頷いた。
「その時は夜になれば帰ってくるだろう、なんて言ってたんですけどね。結局、翌日にも帰ってこなくて。米子さんに様子を聞いたら、日向子さんの旅行鞄がなくなってて、着るものなんかが減ってるんですって。出ていったんだ、って米子さんは、そりゃあ怒ってて。――でも、こう言っちゃあなんですけど、いつかそういうことになりそうな気がしたんですよ。あそこはお嫁さんと折り合いが悪かったから」
はい、と静信は相槌を打つ。
「もともとね、日向ちゃんと|弘二《こうじ》くんが一緒になるのも、すったもんだがあったんです。米子さんは日向ちゃんが気に入らなかったんですよ。いい子だったんですけどね、わりとサバけた――っていうか、今ふうのぱあっとした子だったから。それをまた、弘ちゃんが結婚するって勝手に決めてね。結婚するって話が出た時には、もう式のことも決めてたんですよ。どっか外国に行って二人だけで式を挙げるって。それで米子さんも誠一郎さんも怒っちゃってね。外国でなんてとんでもない、そういうことを勝手に決めるとは何事だって話ですよ。第一、二人が結婚するなんて聞いてない、許したわけじゃないって。まあ、あたしでも自分の息子のことなら大喧嘩ですよ。絶対に結婚なんてさせない、って凄い剣幕だったんですけど、実を言うと日向ちゃん、その時にはもうお腹に子供が入っててねえ。させるもさせないもありませんよ」
「子供さんがおられたんですか?」
「結局、流産しちゃったんですけどね。子供がいるんじゃしょうがない、日向ちゃんの親だって黙っちゃいませんから。それで間に人が立って、なんとか丸く治めて、溝辺町で式を挙げることにして。そしたら今度は日向ちゃんのほうの御両親と揉めてね。ほら、三安の長男は家を出てますでしょう。高校の時から良く出来て、結局、都会のいい大学に行って、都銀かなんかに就職しちゃいましたから。ところが日向ちゃんの親は次男だからっていうんで結婚を許したらしいんですよ。それが同居だってことだから、話が違うって。また弘ちゃんが、調子のいいことを言ってたみたいでねえ。両家で揉めたんですけど、そうしてる間にも日向ちゃんのお腹は大きくなるし、弘ちゃんは弘ちゃんで、米子さんベッタリの子でしょう。小さい頃から米子さんの姿が見えなかったら、泣きながら探して歩くような子でしたからね。同居は嫌だって言うんなら、もういい、って言いだして、結局、日向ちゃんの親が折れる形で決着がついたんですけどね」
はあ、と静信は頷く。
「そんなこんなで一緒になったんですけど、結婚前からそれじゃあ、上手くいくはずがありませんよ。とにかく喧嘩が絶えなくてね。米子さんも誠一郎さんも日向ちゃんには冷たく当たる、弘ちゃんはそういう時、母親の肩を持つ、そのうえ子供を死なせちゃって、それだって米子さんたちは日向ちゃんを責めるんですけど、日向ちゃんや日向ちゃんの親にしたら、それもとんでもない話でしょう。本人だって一時は危ないって状態だったのに、子供亡くして、あげくに責められたんじゃ堪りませんよ。実家に帰るの帰らないのって話でね、さすがにあたしたちも米子さんを諫めたんです。それはないだろうって。それで今度は米子さんたちが頭を下げて、なんとか丸く収まったんですけど、やっぱり喧嘩が絶えなくてねえ」
「ああ……そうですか」
「こういうのってねえ、旦那がちゃんと間に立てば何とかなるものなんでしょうけど、なにしろ弘ちゃんがマザコンって言うんですか、親の肩ばっかり持つんでねえ。それで日向ちゃんとは喧嘩が絶えなかったみたいなんですよ。日向ちゃんも悪い子じゃなかったんですけど、何かあると黙ってない性分だったしねえ。――まあ、それで日向ちゃんがいなくなったって聞いた時も、とうとう実家に帰ったんだな、と思ったんですけど。迎えに行ってあげなさいよ、って弘ちゃんにも言ってたんですけどね、弘ちゃんも米子さんたちも、本人が出ていきたいなら勝手にしろ、でしょう。でも、こういうことっていうのは、そんなもんじゃないですか。別れるなら別れるでちゃんとしなさいよ、って、あたしらもアドバイスしたんです。それでようやく実家のほうに連絡したら、実家には帰ってないって。向こうの親御さんのほうが血相変えちゃって」
静信は瞬いた。
「向こうの親御さんも御存じなかったんですか?」
「そうなんですよ。親が乗り込んできて、今日まで連絡がなかったのはどういうことだ、娘に何かあったらどうしてくれる、って、そりゃあ掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]み合いになりそうな剣幕で。結局、親御さんのほうが失踪届を出すとかいう話だったんですよ。米子さんたちは米子さんたちで、きっと男でもいたんだろう、それで逃げたに違いないって、とんでもないことを言い出すし。いえね、うちの嫁が日向ちゃんとはわりによく口を利いてましてね、それで言うんですけど、日向ちゃんってのは、ぱあっとした外見のわりに、意外に堅い子でねえ。そんなタイプじゃないんですけど、一見すると髪も赤いし、身なりも派手だしで誤解されやすいんですよ、遊んでるんだろうって。そりゃあ、良く溝辺町には出かけてて、夜遅くまでで歩くこともあったみたいですけど、婚家がそんなふうだから、実家に戻って愚痴を言ったり、女友達に会って慰めてもらったりってことだったんです。それを米子さんたちは夜遊びが多かった、てっきり男がいたに違いないってねえ」