「ねえ……昭、戻ろう」
なんで、と昭は呆れたように振り返った。
「誰かに知らせたほうがいいよ、これ」
なんとなく、このまま放置しておけない。熱い最中に遠くまで散歩しようという気は完全に殺がれていた。
昭は未練がましく西山の北のほうを見たが、それでもやっぱり気にかかるのだろう、神妙に頷いて引き綱を引っ張った。
「戻るぞ、ラブ。偵察はまた今度だ」
「ちょっと、タツさん」
竹村タツが気怠い中で店番をしていると、小走りに弥栄子と武子がやってきた。盛んに手招きをしている。
タツは団扇を使ったまま、気のない目を向けた。弥栄子と武子は、灼けた村道を横切って店の中に駆け込んでくる。
「あんた、見た?」
「見たって、何を?」
「そこのお地蔵さん」弥栄子は三之橋の袂を指した。「首が落ちてるのよ、首が」
タツは眉を寄せ、陽射しに目を細めながら橋のほうを見やる。小さな祠の前に笈太郎が屈み込んで、中を覗いているのが見えた。
「橋の向こうで笈太郎さんに会ってね。なんでも水口の塚も壊れてたんだってさ。かち割られてね。験の悪い話だって言いながら橋を渡ったら驚くじゃないの。地蔵の首が落ちてんだもの」
そう、とタツは呟く。今朝の騒ぎはそれだったのか、と思った。朝、起きて表を覗いたときに、橋の袂に数人の老人が集まっているのが見えた。タツ自身は、朝いちばんに祠に参るような殊勝な習慣は持ち合わせがないが、近所の老人の中には、起きたらまず祠に手を合わせて掃除をする、という連中がいる。そのうちの誰かが見つけて人を呼んだのだろう。
「どうも、ゆうべのうちに壊されたみたいね。首から肩にかけて、滅茶苦茶になってるのよ。いったい誰があんな罰当たりなことを」
本当にねえ、と武子は大仰に渋面を作った。
「とんでもない話だわ。おおかた、大川の息子とか、あのへんの若い悪たれがやらかしたんだろうけどさ」
そうだろうか、とタツは思う。あんな古くさい地蔵を壊してなんになるというのだろう。もちろん破壊のための破壊なのだろうが、あんなものを壊して下がるような種類の溜飲があるとも思えない。
思っていると、郁美が店先に顔を出した。弥栄子は弾かれたように床几から腰を上げ、声を張る。
「ちょっと郁美さん、あんた、見た?」
郁美は薄く笑った。
「見たわよ。そこの地蔵さんでしょう」
「そうそう」と、頷きながら、弥栄子はどこか気勢を挫かれた顔をしていた。「酷い話よねえ」
「あれだけじゃないわよ」
「知ってるわよ。水口もでしょう?」
「そう。水口も。それも、上と下、両方よ」
え、と武子が声を上げた。
「両方って。二之橋の袂のと、いちばん下のと、どちらも?」
「そう。あたしが今朝、下のを見つけてね。ほら、うちの近所だから。それで気になって近所を一巡りしたの。二之橋の袂の塚もやられてたし、一之橋の向こう岸の弘法さまもやられてたわ。上外場のいちばん上の塚もね」
弥栄子も武子も、あんぐりと口を開けた。
「なに……じゃあ、水口と村道に沿って全部?」
「みたいね。ひょっとしたら他のもやられてるんじゃないかしら」
どこか得意げに言って、郁美は床几に腰を下ろした。
「あれは村の守りだからね。悪いことが起こるわよ、これから」郁美は言って、薄く笑う。「賭けてもいいわ。今年の夏は、ろくなことになりゃしないから」
清水恵は、陽射しの傾き始めた道を歩いた。
家並みや田圃の間を縫って北へと向かう。小川にかかった橋を過ぎるとき、ちょうど顔見知りの老婆とすれ違った。あらあ、恵ちゃん、お洒落して。お出かけ?」
まあ、と恵は言葉を濁した。年寄りの話し相手なんかしたくもなかった。
「大きくなったわねえ。もう高校生? すっかり娘さんらしくなって」
その台詞は、前にあったときにも聞いた、と恵みは辟易した気分で思ったが、口にはしなかった。話し相手になるといつまでも放してくれない。そういうものだと悟っている。
『そうそう』と老婆が口にしたので、恵みは急ぐから、と言ってその場を立ち去った。どうせ庚申塚がどうのこうのという話だろう。家を出てからもう二人も、その話を持ちかけてきた年寄りがいる。
村のあちこちにある塚や石碑が、夕べのうちに壊されたらしい。迷信深い年寄りはまるで犯罪でも起こったように騒いでいたが、恵にはたかが石のことじゃないの、と思えてならなかった。いまだにあんなものがあって、掃除をしたりお供えをしたりする人間がいることのほうが不思議だ。
(馬鹿みたい……)
恵は口の中で呟いて先を急いだ。道から道へと北を目指して歩いていくと、徐々に西山が迫ってくる。門前の集落に入ったところで西山の縁に出た。
恵は曲がり角まで来て西山に登る坂を見上げた。外国映画にでも出てきそうな洋館。道は恵の佇んだ角から緩い傾斜で上がり、小高い尾根を一周して門前の製材所の裏手に出るのだが、恵の位置からは家に続く私道に見えた。緩く上がった道に対し、少しはすかいに閉ざされた門。門扉は古い木でできていて、黒い金具がついている。門柱は煉瓦だろうか。赤い色が新しく、周囲を取り巻く白い塀もまた眩しいほど新しい。高い塀の上には尖った鉄棒が植えられていた。
恵の立った位置からは、塀と植樹されたばかりでひ弱な感じのする気の先端と建物の屋根だけが見える。それでも恵は、家の外形が現れた頃からずっと工事を見守っていたので、塀を透かして建物の全部を見取ることができた。黒ずんだ灰色の石でできた壁、やはり黒ずんだ窓枠とそこに嵌った板戸。玄関は建物の右手、少し奥まっていて、左手には複雑な形に張り出した出窓がある。
けれども、知っているのはそれだけだ。工事の最中から高いフェンスに囲まれ、かろうじて外壁は覗き見ることができたものの、内部がどうなっているのか、知る術が恵にはなかった。どんな部屋があって、どういう内装になっているのか、それをとても知りたいと思う。
六月に完成したきり今日までまだ、住人が越してきたという話は聞いていなかった。いったい、いつになったら住人は姿を現すのだろう。ずっとこんなに、それを待っているのに。
(お家の中を見てみたい)
どんな部屋だろう。家具はどんなで、カーテンや絨毯はどんな風なのだろう。やはり壁に絵をかけてあったりするのだろうか。花瓶に花が生けてあったりするのだろうか。
(どんな人が住むのかしら)
恵と同じ年頃の娘がいるだろうか。いるとしたら、親しくなりたい。彼女の部屋はどんなだろう。少なくとも形ばかりの洋間に、大型のスーパーの家具コーナーで買ったベッドや三段ボックスを並べている恵の部屋とはぜんぜん違っているはずだ。ちゃんとした家具と模様の入った厚い絨毯、大人のものみたいな机と箪笥、クローゼットの中を覗かせてもらうのは、すばらしく楽しいことに違いない。
(男の子がいたりするのかな)
少し年上の息子でもいいのに、――そう考えて、恵は恥じ入った。小学校の頃から使っている勉強机の抽斗の奥に隠した写真。別にまだ告白をしたわけでもされたわけでもないけれど、あんなふうに写真を隠していて屋敷に住まう男の子のことを考えるのは、写真の彼に対して後ろめたい気がする。
でもそう、優しいお兄さんという感じなら。一人っ子の恵はいつも兄弟が欲しかった。特に欲しいのは鷹揚な兄だ。聡明で、何でもできて、誰にも自慢ができて、同級生の女の子が羨むような兄。親しくあの家の彼の部屋を訪ねることができて、妹みたいになれたら。――でもきっと、彼を恵の家に招いたりはしない。どこもかしこも、煮物の匂いが染みついているような、そんな家には。
(高校生ぐらいの子供がいますように)
工事が始まった昨年以来、何度目か、恵は祈った。もしも子供がいないとしたら、おっとりした老人が住むのだろうか。孫みたいに可愛がってもらえたら、あるいは上品な中年の夫婦で、娘みたいに扱ってもらうのでもいい。
(あの家に入りたい)
親しく出入りして、まるで自分の家のように隅の隅まで熟知していられたら。
(どうしてあたしは、あの家の子供じゃないんだろう)
そうだったら、本当に良かったのに。堅苦しい父親の子供でもなく、口うるさい母親の子供でもなく、始終がみがみ言う年寄りの孫でもなく。
(あそこに行きたい……)
恵は引き寄せられるように坂に向かって足を踏み出した。ほんの五メートルほど登って足が止まる。これ以上は惨めになるだけのようで、近づくことができなかった。たまらず家を見上げると、そこには恵を拒むかのようにぴったりと閉ざされた門が立ち塞がっている。
「見てくれよ、これ」大川富雄は両手をカウンターの客に示した。
大川酒店の中には、短いカウンターがある。レジの脇に客が試飲できるよう、椅子をいくつか置いているのだが、そこが飲んべえの溜まり場になっていた。夕飯前から酒を求めて集まった連中に、大川は|瘡蓋《かさぶた》のできた両手を見せた。先日、余所者の車に引きずられて横転したときにできた怪我の痕だ。
「まったく、とんだ野郎がいたもんさ」
客のひとりが、同情するように頷いた。
「豪勢な車を乗りました余所者だってんなら、ろくな奴じゃないのは分かりきってるさ。そいつ、まさか兼正の新入りじゃねえだろうな」
「さあな。高見さんは違うだろうと言ってたが。何にしても、そのまんまずらかったんだ。こっちはナンバーも覚えてねえし、今頃は雲隠れしちまってんだろう」
「ひょっとしたら、そいつかもな」顔を赤く酒灼けさせた老爺が言う。「ほら、ゆんべ一之橋の弘法さまが壊されだろう」
なに、と大川は目を剥く。
「なんてえ罰当たりな。そういうことをすんのは余所者だよ。余所の連中は、ああいうのをちっとも大事にしねえからな」
違いない、と声を上げる客がいる一方で、どうだかな、と言う客がいる。その老爺は、黙って脇で棚の整理をしていた大川の息子に目をやった。
「あっちゃんじゃねえだろうな」
客のダミ声に、大川篤は顔を上げた。
「かーっとなってぶち壊したんじゃねえのかい」
「賽銭をくすねようとしたんだろう」と、別の客が篤を笑った。「あっちゃんは昔っから、手癖が悪いからな」
篤はまだニキビの痕が残る顔に、露骨にふてくされた表情を浮かべた。客をねめつけて、そっぽを向く。
「その態度はなんだ」言ったのは大川だった。「生意気な真似をするんじゃねえ。図体がでかくなったからって、いい気になるんじゃねえぞ」
篤は無言で棚に目をやった。つまみの缶詰をざっと棚に突っこんで、空いた段ボール箱を手に立ち上がる。
「おい、篤。もうちょっと丁寧にやれ」
「やった」と、篤は短く答え、箱を下げて店を出る。背後で、二十歳を過ぎても棚の整理ひとつ満足にできない、と大川が客に零しているのが聞こえた。
「高校も、お情けで出してもらったようなもんだ。勤めに出ても続かねえ。いい年して、粋がるしか脳がねえんだからな。何だってあんなろくでもねえ餓鬼が生まれたんだか」
篤は店の裏手に回り、空き箱を放り出す。思い切りそれを踏みつぶして箱の山に叩きつけた。
ふざけるな、と篤は胸の中で吐き捨てて店を後にした。古ぼけた石像なんて知るものか。子供の頃、賽銭箱の小銭をくすねていたのは事実だが、今時、五円十円が入った賽銭箱などありがたくもなんともない。いつまでも子供の頃の話を持ち出して、何かというと篤のせいにするのも気に入らなかった。
店の脇の路地を出て、商店街に出たものの、行く当てはなかった。こんなとき、車かバイクで飛ばしてやったらさぞかしすっきりするだろうという気がしたが、篤は車もバイクも持たない。高校の頃には貸してくれる友人もいたが、卒業して村に引っ込んでしまうと縁が続かなかった。店の車やバイクは鍵を親が管理している。何かにつけて締まり屋の母親は、篤がガソリンを無駄遣いすることを警戒して、配達の時でなければ鍵を渡してくれない。自分の稼ぎがあればいいが、篤は一日、店を手伝わされているにもかかわらず給料を貰ったことがなかった。飯を食わせて小遣いまでやっているのだから店を手伝うのは当然だ、というのが親の言い分だ。
篤はそう言う何もかもが気に入らなかった。腐った気分を変えたくて、遊びに行こうにも遊び場がなく足がない。いい歳をして車ひとつ持てないでいる自分、それが惨めだから友達にも会えない。バスに乗っていくのも迎えに来てくれと頼むのも、自分の不甲斐なさを露呈するようで気が進まなかった。するともう、この山の中に閉じこめられて身動きができない。何かというと小さい頃の悪戯を持ち出して監視するような目を注ぐ年寄りたち、自分とは違うと一線を引く同年配の連中。親や弟妹ですからが、篤を爪弾きにし、見下げた目で見る。
気に入らない、面白くない、何もかもに腹が立つ。憤怒を足裏に込めて篤は路面を踏みしだく。無目的に足を叩きつけて、気がつくと夕暮れの迫る中、西山の麓まで来ていた。
蒸すような熱気と、意味もなくたそがれた|蜩《ひぐらし》の声。村人の誰もが家へと急ぎ、篤を振り返る者すらいない。
――構うものか。どうせ篤に声をかけてくるのは、お為ごかしの年寄りばかりだ。いつまでもぶらぶらしてるんじゃない、親に心配をかけるな、|臑《すね》を|囓《かじ》っているんじゃない、もう少ししっかりしろ、弟や誰それを見習えと、言われることなど想像がついた。そうでなければ非難がましい詮索か、あからさまな揶揄だ。
(馬鹿にしやがって)
篤は時折、疾風のような速度に乗って村を捨て去ってしまいたいという欲求にかられる。だが、どうして篤がそんな逃げ出すような真似をしなければならないのだろう。消えて無くなるのなら自分ではなく村のほうであるべきだ。篤は路肩に唾を吐いて、苦いものを吐き出そうとしたが、それはべっとりと胸から口腔に貼り付いたまま取れなかった。
ほんの少し前方に西へと上がる坂道があった。兼正に向かう坂だ。それを登ったのには格別の意味があるわけではなかったが、中腹まで行って屋敷の偉容が見えてくると、篤の胸にひとつの創案が降って湧いた。
夏前に建ったきり、住人の現れない無人の屋敷。越してきたという噂もあったし、人影を見たとか声を聞いたという話もあったが、まだ誰もいない、というのが実情のようだった。余所者の建てた家。村とは厳然として違う何か。それが村の中に割り込んで、傲慢にも村を――篤らを見下ろしている。
篤はぴったりと閉ざされた門の前に立った。茜色の空を背景に暗く佇む屋敷には、やはり人の気配がない。篤は何気なく周囲を見渡す。やはり誰の姿もなかった。
誰もいない。――見ていない。
ここで、と篤は気取った門柱を見上げた。
(忍び込んでも分からない)
身の丈ほどの木製の門扉に、辺りを窺いながらそろりと手をかける。
忍び込み、屋敷の中に入り込んでも。窓を叩き割り、家の中に泥をぶちまけてやっても誰も見ていないのだから篤の仕業だと分かるはずがない。それどころか、住人がいないのだから、そんなことがここで行われたということさえ誰にも知られないままだ。住人がいつ越してくるのかは知らないが、越してきて初めて、家の中が荒らされているのに気づく。
(悪くない)
篤は口元を歪めて笑った。越してきた奴らは、さそがし驚くだろう。こんな大層な屋敷を建てて、村の者を見下げたつもりだろうが、その生意気な鼻面に、文字通り泥を塗ってやるのだ、と思うと、鬱積した何かが晴れる気がした。
よし、と軽く声を上げて、篤は門扉をよじ登る。塗られたばかりの茶色い門扉や、そこに打たれた真新しい黒い金具に足跡がつくのが楽しかった。故意に門扉を蹴りたてるようにして登って越える。広い前庭には黄昏が落ち、いかにも無人のそれらしく、どこか荒涼とした感じが漂っている。そこをめがけて飛び下りた。誰に対してかは分からない、ざまを見ろ、という気分がした。
どこから入り込んでやろう――と篤は家を見上げた。物物しい石組みの外壁、どっしりと威圧感のある建物の正面、右手に大きな窓が見える。庭に向かって張り出しているそれには雨戸がない。ぴったりとカーテンが引かれていて、ほんの少しの隙間からは家の中に|蟠《わだかま》った暗闇がのぞいていた。
あそこからガラスを割って入ってやろうか、と思う。窓には細かく桟が入って幾何学模様を描いていたからガラスを割っても入れそうにはなかったし、第一、それではつまらない、と思い直した。
そんな派手なことはしたくない。もっとこっそりと中に侵入するのだ。そうすれば越してきた連中は、中に入って初めて、立派な家が見る影もなく荒らされているのに気づく、というわけだ。
薄く笑いながら、篤は建物の外壁に沿って裏手へと向かった。篤にはよく分からないが、大層な建物であることは確かだった。壁はいかにも重々しく、しかも屋根までが高い。古びた石壁が大きな空間をぴったり閉ざして抱え込んでいる。中にはきっと、さっきカーテンの隙間から見た暗闇が|蹲《うずくま》っているのだろう。
正面を過ぎて脇へ曲がると、建物の影が落ちている。すぐ脇には細い路地を挟んでガレージらしき建物が建っていた。白っぽく塗装された真新しいシャッターが下りている。
篤は何となく周囲を見回し、自分が完全に塀と建物に囲まれて外から切り離されていることを確認した。真新しいシャッターを二、三度蹴る。金属が悲鳴を上げる音はガレージ内部に反響し、至近の距離に聳える外壁に|谺《こだま》して、ぎょっとするほど派手に響いた。思わず身を|竦《すく》める。あまりの音に不安になった。
(誰もいない……)
いないはずだ。建物は西山に孤立していて隣家もない。いくら物音を立てても、誰の耳にはいるはずがない。そう分かっていても、周囲を窺わずにいられなかった。今にも誰かに|誰何《すいか》されそうな気がして、篤は少し怯む。シャッターがへこむくらい蹴ってやりたかったが、傷がついたことで良しとした。――そう、目的は建物の中に侵入することだ。
ガレージと建物の間には、ごく狭い路地が延びている。そこにはもう薄闇が舞い降りていて見通しは利かなかった。行き止まりのようだが、路地に面してドアか窓でもあるんだろうか。周囲を窺いながら、篤は薄暗い路地に足を踏み入れ、さらに裏手へと進入路を探して歩いた。
思ったよりも開口部が少なかった。路地に面して窓が一つあったものの、それは篤の背丈ほどの位置にあり、しかも板戸が閉まっている。足場もないし、そこから出入りはできそうになかった。路地の奥には壁が立ち塞がっているだけだった。ガレージと建物を繋ぐ通路があるのだろう。篤は舌打ちをする。踵を返そうとして、わずかに身を固くした。
唐突に、背後に誰かいる、という気がした。なぜそんな気分になったのかは、自分でも分からない。暗い石壁とガレージの間の細い路地、その奥にいる自分。背後に誰かいて、自分の背中を見ている。路地の入口との間に立ち塞がっているという予感。
(馬鹿な……)
そんなはずはない。住人はまだいないのだから。篤はそろそろと背後を振り返った。暗い路地の先に残照を浴びた庭が見えた。もちろん、入口と篤の間には誰の姿もない。
気のせいか、と自分の思い違いを恥じながら路地を戻りかけ、半分ほど歩いたところで篤は再度、足を止めた。今度は路地の奥の方から視線を感じた。たった今自分が歩いてきたところ、背後、その――上のほう。
はっと篤は背後を振り仰ぐ。陰鬱な色の外壁の上のほう、二回に窓がひとつ見えた。板戸はなく、ガラス窓の外に鉄格子が嵌っている。
まずい、という気がした。誰もいるはずがない、なのに誰かから見られている気がする。あの窓だ。あそこに誰かがいて篤を見下ろしている。
引っ越してきた、という噂もあった。ひょっとしたら誰も知らないうちに、住人は越してきていたのかもしれない。
いや――と篤は思う。もっと奇妙な噂も聞いた。ここには、いるはずのない住人がいる、という。子供だましの怪談話。
(まさか)
思いながらも、足が速まる。路地から庭に出たものの、やはりどこからか見られている、という気がしてならなかった。篤は家を見上げる。妙に威圧感のある、暗い家。
嫌な感じだ、と思ったとき、たった今、自分が出てきた路地の奥から小さな音がしたような気がした。路地に敷かれた砂利を誰かが踏みしめるような音。
そんなはずはない、路地にはドアがなかった。誰もいなかったのは確かだ。なのに、足音を忍ばせ、誰かが近づいてくるような気がしてならない。
篤は門へと駆け戻った。ガレージに傷をつけてやった、それで今日のところは良しとしよう。背後を何度も窺いながら、門扉を乗り越えた。見渡した付近の山は樅の林、樹影が濃くて林の中には一足早く夜が訪れている。
門を飛び降り、篤は坂を駆けだした。坂の脇、夕闇の下りた下生えの中から、がさりと音がしたのは、その時だった。篤は音のしたほうを一別し、足を急がせる。それは明らかに篤の後を|蹤《つ》けてきた。篤が小走りになればスピードを上げて下生えを掻き分け、林の中を付き従ってくる。
篤は|形振《なりふ》り構わず坂を駆け下った。角まで下ると下生えを掻き分ける音がやむ。振り返るとそれは、逡巡するような間のあと、音を立てて坂の上のほうへと戻っていった。下生えの間に、ちらりと白茶けた毛並みを見たような気がした。
「犬かよ……」
篤は吐き出す。そう言えば、最近、野犬が多いという話を聞く。それか、と思って安堵し、すぐさまそうやって安堵する自分に腹が立った。誰も見ていなかったようなのが幸いだ。野犬に怯えて血相を変えて逃げてくるなんて。せっかく敷地に忍び込んでいながら、シャッターを蹴っただけで逃げ出してきた。
そういう自分が苛立たしくてならなかった。自分にそんな無様な真似をさせた物が憎い。何もかもが気に入らない。――この坂も、あの家も、本当に何もかも全てが。
子供の遊び場は限られている。それは、渓流の河原であり、橋を渡った向こう側にある神社であり、御旅所であり、ほんの少し山を登った樅の木陰だった。
|裕介《ゆうすけ》は家の前の橋を渡って、神社に向かった。日の暮れた神社の境内は無人だった。誰もいないことなら知っている。家の角にいて、橋を渡って神社から戻ってくる子供たちを見たのだから。しゃがみこんで、買って貰ったばかりのミニカーを走らせていたけれども、裕介に目を留め、声をかけてくれる者はいなかった。
加藤裕介は近所でたった一人の一年生だった。自分より下の子供は三歳のマコトがいちばん上だし、上は三年生の三人組がいちばん下だ。ぽっかり子供のいないところに生まれてしまった。それで裕介は一人だ。裕介より下の子供たちはそれぞれ遊び仲間を持っている。ボールやバットを持って楽しげに橋を行き来するのを見ていたので、すごく楽しいことがありそうな気がしていたのだけど、やはり神社は神社でしかなかった。
裕介はミニカーを握ったまま、鳥居の下に立ちつくした。ぽっかりと開いた空間、本殿は閉じた家だし、神楽殿は開いた家だ。ぎっしり何かを抱え込んで戸をぴったり閉じた建物と、それとは反対に壁すらなくて空っぽのままポカンと口を開けている建物。片隅にうずくまる小さな稲荷としおれた旗、境内の木は故意や身を落としている。
神社にはよく来る。祖母のゆきえが毎朝、掃除をするのについてくるからだ。朝の神社は裕介にとって、他人の家の座敷みたいな場所だ。何もなくて、でも何かありそうで、つんとしている。昼間の神社は余所の茶の間か台所みたいだ。裕介には入れない、入れないのがちょっとがっかりきてしまう種類の場所。
「留守番だ」
裕介は陽の落ちた神社を見渡して、そう結論づけた。日暮れの神社は留守番をしている家みたいだ。がらんとして隙間だらけで、よく知っているのに、知らない場所のようだ。こないだまでは祭りで人が多かったから、いっそうそういう気分がした。
裕介は鳥居の下にミニカーを置いて、代わりに石を拾った。年長の子供たちの真似をして鳥居の上に投げ上げてみたけれども、少しも楽しくなかった。なぜあの子たちは、あんなにはしゃいでいたのだろう。石よりもミニカーのほうが良いと気づいて、裕介はそれを握りしめた。けれども別に、ミニカーを握っているから楽しいということもない。
ちぇっと石を蹴ると、それは藪の闇の中に転がり込んでいった。ふいに風が吹いて、枝が鳴った。何かに驚いて飛び起きたように蝉が短く鳴くのが聞こえた。
楽しくなんかない。気味の悪い場所だ。
裕介は後退る。だからといってこのまま家に戻ると、いちばん楽しいところを見逃してしまいそうな木がした。もう誰もいないのだから、楽しいことなんてありはしないのだけど。
しばらく思い悩み、裕介は目に見えて濃くなる木陰の闇と背後の橋を見比べた。橋の正面には明かりのついた店がある。あの電気屋が裕介の家だった。父親は「ハイタツ」と「コウジ」にしょっちゅう車に乗って出かけ、祖母は店番をしている。裕介は学校に行って帰ってひとりで遊ぶ。裕介には母親がいない。お母さんという名前の写真や位牌や墓は見たことがあったけれども、実際にあったことは一度もない。裕介が小さい頃に死んだのだ、と父親が教えてくれた。死ぬというのがどういうことか、裕介にはよく分からない。たぶんそれは、山から這い下りてきた鬼に捕まる種類のことなのだと思う。
鬼、と自分で思ってぎくりとした。日が暮れてからで歩いてはいけないのだ。たとえ父親がシュウリで遅くなって、しばらくご飯の時間にならず、祖母が台所に行って裕介はぽつんとテレビを見ていなければならないにしても、暗くなったら家にいないといけない。鬼が来るから。
裕介はミニカーを握りしめて、鬼が来たらすぐさまそれを投げつける準備をしながらそろそろと退った。鳥居をくぐったところでくるりと背を向け、橋に向かって駆け出す。橋の中程に来て、ガラス越しに明るい店の中が見通せるようになってから足を止めた。正面、明かりの点った自分の家の上を見る。西の山は黒い影になって横たわっていた。
(ほんとは知ってる)裕介はとぼとぼと橋の残りを渡った。(鬼はあそこにいるんだ)
おばあちゃんは墓から出てくるというけれども、鬼だって土の中なんか嫌に決まってる。だからあの、気味の悪い家にいるのだ。あの中に隠れて夜を待っている。そうして、みんなをあそこに連れて行くのだ。そうに決まっている。
そう息を呑んだところだったので、まさしく自分が見上げている山の斜面に、小さな明かりがひとつ点ったのを、裕介は見逃さなかった。山寺よりもずっと西、尾崎医院や門前の家並みが点す明かりよりも高い位置にそれはある。
(あそこ……)
じっと見つめる裕介の目の前で、二、三度瞬き、その明かりは唐突に消えた。
裕介にはそれが、何か怖いことの前兆のように思えた。おずおずと川端の道を横切り、そうして店へと駆け戻っていった。
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「あら、いらっしゃい」
静信が書店の中に入ると、田代留美がレジに立っていた。表に面して大きく取られた窓からは眩しい陽射しが降り注いでいたが、店内にはクーラーが利いていた。静信は、ほっと汗を拭う。
「こんにちは。お願いしていた本が来たと、マサさんから電話をもらったんですけど」
静信が言うと、留美はちょっとまっくださいね、と言い置いてレジの奥の棚を探った。棚には医学関係の表題をつけた大判の本が何冊か見える。あれは敏夫の注文だろう。
村にある書店は、田代夫妻の経営するこの田代書店が唯一だった。店舗の片隅に雑誌や新聞を置く店こそ珍しくなくても、専門の書店は他にない。もともとは門前の文字通り山門前にあって経本や図画を扱っていたのが、先代の頃に商店街の外れに移転して書店として店を開けた。ごく小さな住宅兼用の店舗だったものを、住居を潰して拡大し、棚を増やしたのは十年ほど前、息子の正紀の代になってからだ。田代正紀は静信の二級上、小学校から高校まで同じ学校に通った。
「これかしら。すみませんね、パパはいま喫茶店に油を売りに行ってて」
留美はゴムバンドでひと括りにした数冊の本を棚から引っ張り出した。留めつけてあるメモに目をやり、ひとり頷く。
「これだわ。――まだ二冊、届いてない本があるみたい。取次にないので版元に問い合わせてるって」
「いつも済みません」
留美は微笑んで本を紙袋に収めていく。それを待ってレジの近くの棚を見るともなく物色していたときドアの開く音がして、熱気と一緒に「どうも」という陽気な声が入ってきた。
「やあ、お暑いですな」
駐在の高見だった。駐在所は田代書店の斜め向かいにある。
「若御院が入るのが見えたもんでね」
「本当にお暑いですね」
留美は高見に頭を下げた。高見はそれに会釈してから、
「若御院、聞きましたか」
「何をです?」
「いや、例のベンツなんですがね」
あら、と留美は手を止めた。
「前田さんとこの茂樹くんを引っかけたっていう、あれですか? そう言えば、若御院がちょうど居合わせたんですよね」
田代夫妻の自宅は、現在は前田家と同じく下外場の集落にある。
「ええ」
「前田さんの所の奥さん、神経質だから。あれですっかりピリピリしちゃって。ラジオ体操にもついてくるんですよ」
「おやまあ」
高見が呆れたような声を上げた。留美は溜息交じりに微笑む。
「気持ちは分かるんですけどね。国道が近いから。うちの子にも国道の向こうには行かないよう言ってるんでけど、子供は行くなって言うと行きたがるから。それに、国道の向こうは堀江自動車の廃車置き場があるでしょう。あそこも危ないからって言ってあるんですけど、何度か子供の姿を見かけたことがあるもの」
堀江自動車は、自動車の修理工場だ。ガレージ裏にはかなりの面積の廃車置き場がある。これは付近の親たちの頭痛の種だった。子供たちにとっては、これ以上の遊び場はない。しかしその遊び場は危険だし、そこに行くためには国道を横断しなければならなかった。
「横断歩道も信号もあるんだけどねえ。どうして余所の連中は、あれを見落とすんだろうねえ」
「本当に。この間もね、父兄会の集まりで歩道橋を設置したらどうか、って話も出てたんですけどね。歩道橋なんてあっても使うかしら」
「まったくです。しかも、歩道橋は年寄りには辛いしなぁ」
国道で災難に遭うのは、概ね子供か老人だった。高見は嘆息し、それから思い出したように静信を見る。
「そう、で、あの車なんですけど、大失敗ですわ」
「どうしたんです?」
「いやね、あの日の夜に見たって言うんですよ。大塚製材の息子が」
「夜ですか」
「ええ。かなり遅い時間にね、黒塗りのベンツが村道を下って村を出て行くのに行き会ったそうで。例によって危なっかしい運転だったそうですよ。それが夜の十一時くらいだったって言うんです。あいつ、それまで村のどこかにいたんですわ」
高見は言って、大仰な溜息をついた。
「こっちは、てっきり子供を引っかけて逃げたんだから、さっさと村を出て行方をくらましたに違いないと思っていたでしょう。そしたら、夜までどっかに隠れてて、ぬけぬけと村道を通って出ていったんですよ。あの後、村道の入口を見張るなり、もうちょっとあちこちを探すなりしときゃ良かったと思ってねえ」
「しかし、隠れるといっても、あんな車が止まっていたら目立つでしょう」
子供を引っかけた車がいる、という噂はあっという間に村中に広まったはずだ。とはいえ、一口に村といっても実際にはそれなりに広い。だから住民の全部というわけにはいかないだろうが、かなりの数の村人がそれを知っていたのは確かだし、見慣れない車には注意を払ったはずだ。
「そうなんですよ」高見は言って、声を低める。「それでねえ、やっぱり兼正の車なんじゃないかって話なんです」
「まさか」
「いや、他にね、考えられんでしょう。村を出るまで、見た者がおらんのですわ。電気店の加藤さん――あそこの、ゆきえさんが、村道を上に逃げていくのを見てるんですが、それから先はさっぱり。けれども電気店は、ちょうど一之橋の袂ですからね」
ああ、と静信は頷いた。一之橋をさらに上に向かったというのなら、問題の車は上外場の集落か、さもなければ門前の集落に向かったのだ。――ただし一旦、北上し、回り込んでどこかへ行ったのならその限りではないけれども。
(いや)と静信は思う。(上外場か門前――さもなければ山入)
村の北、北山の向こうにある飛び地のような集落。
「兼正は門前でしょう。それで兼正の屋敷に入ったんじゃないかって、ね。塀の中に入れちまって門を閉めれば村の連中の目につかないじゃないですか。それで|人気《ひとけ》が絶えるまで中に隠れてたんじゃないかって」
「山入というこてとはないですか」
まさか、と高見は手を振った。
「あそこは老人ばかり三人っきゃいないんですから。あんなところに入り込んだらかえって目立つでしょう」
「しかし、兼正は門前でも西の外れです。兼正に言ったのなら、門前を横切ったことになりますけど、それこそ誰かが見ていて当然なんじゃないでしょうか」
「ああ、そうか。それもそうですねえ」高見は首を傾けた。「一応、山入のご老体に訊いてみたほうがいいですかね」
兼正じゃないかしら、と口を挟んだのは留美だった。
「なんだか気味が悪いわ、あの家。得体が知れないっていうか」
そう、と高見は頷く。
「いやね、加藤さんとこの倅が――裕介くんでしたか、あの子もね、婆さんと店番をしてて車を見てるんですけど、車は兼正に行った、って言うんですよ。いや、別に兼正に行くのを見たわけじゃない、きっとそうに違いないって話なんですけどね」
高見は言って苦笑した。
「どうも裕介くんは、兼正のあの家をお化け屋敷か悪党の住処みたいに思ってるみたいなんですわ。それで、悪い奴の乗った車なら、兼正に言ったに違いないってえ、子供じみた発想なんですけどね」
なるほど、と静信も留美も笑った。