この日は日曜だったが、玄関は開いていた。開けるようにした、という話を、静信は敏夫から電話で聞いている。それで控え室を覗き込んだが、敏夫の姿はなかった。診察中なのだろう。声をかけようかどうしようか悩み、
とりあえず勝手に控え室に上がり込んでメモを書いて残した。どうするかは――敏夫が決めるだろう。
敏夫は昼休みに控え室に戻ってそのメモを見た。小池老の一家が転居したこと、保雄が無断で辞職していたこと、その頃から一家の具合が悪かったこと。話を聞く限りそれは例の前駆症状に似ていること――。
良かったら、小池老に話を聞いてみてくれ、と静信は結んであったが、敏夫はそのメモを投げ出した。具合が悪かった、という言葉は気になるが、転居者にかまけている暇はない。今日も朝から叩き起こされて、全身が泥のように疲れていた。
気にならないわけではない。だが、それは静信の言い訳に見えた。無理にも疫病と転居を結びつけて、自分の行動を正当化しようとしているように。
今でなくてもいい。――敏夫はそう思い、ソファに身体を投げ出し、目を閉じた。
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5
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村迫宗貴は精米の機械を止めて倉庫を出た。宗貴の家は村に一軒だけの米穀店だった。そもそもは格別良いということもないが、悪いということもない商売だが、近年になって米の流通が様変わりした。店もそれに合わせて変えていかざるを得ない。溝辺町の同業者の配達区域が拡大したせいもあって、最近では日曜だからといって休んでいられなかった。
とはいえ、父親の宗秀はまだまだ元気だし、妻の智寿子も嫌がらずに店を切り回してくれる。年中無休で店を開ける、と決めたときには不安だったが、やってみるとさほどの困難はなかった。まだ手のかかる子供が二人いて、智寿子は家事をしながらだから大変だろうが、これに関しては不平を言ったことがなかった。そんな智寿子に感謝してか、それとも単に孫が可愛いからか、宗秀も気を遣って、何かというと自分が留守番をするから子供を遊びに連れて行ってやれ、と言ってくれた。
倉庫から店に戻ると、その智寿子が、待ちかねたように奥から転がり出てきた。
「あなた――博巳の様子が変なの」
宗貴は手袋を脱ぎながら、智寿子の顔を見る。
「変って」
「ぐったりとして元気がないの。でも、熱もないし、下痢もしてないようだし」
ふうん、と宗貴は呟いた。そう言えば昼食のとき、いつになく博巳が穏和しかったような気がする。
「博巳はなんて言ってるんだ?」
「何も」智寿子は首を振った。「どこか具合が悪いんじゃないの、って訊いてもきょとんとしてるし」
「風邪かな」
宗貴の言葉に、智寿子は低く呟いた。
「また正雄くんに何かされたんじゃないかしら」
「智寿子」
宗貴は咎める調子だ。智寿子はキッと顔を上げた。
「あなたはいつもそうやって庇うけど、正雄くんが博巳を苛めてるのは確かなのよ。妙な痣をこしらえてるのだって、しょっちゅうなんだから。博巳を脅して口止めしてるの。でも、智香だってそう言ってるし、博巳だって否定しないわ」
宗貴は溜息をついた。
「しかしな……」
「正雄くんは博巳が気に入らないの。智香もよ。お祖父ちゃんが、博巳や智香のほうに興味を示すのが我慢できないのよ」
「親父は充分以上に正雄を可愛がってるよ」
「正雄くんにとっては、それじゃ不充分だってことでしょ。初孫ができるまで、お祖父ちゃんの興味を独占してきたんだもの」
宗貴は半信半疑の様子だ。宗貴はいつも、父親の宗秀は正雄に甘い、と言うが、宗貴だって甘いと思う。もう子供ではないのに、まだまだ庇護を必要としている子供のように正雄を扱う。
そもそも、と智寿子は唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んだ。正直なところ、智寿子と正雄は折り合いが悪い。それは智寿子自身も自覚していることだ。
智寿子は宗貴の明るい屈託のない|為人《ひととなり》に惹かれて結婚した。その智寿子の目から見ると、正雄は暗く、屈折が多すぎる。常に人を上目遣いで見る、そのくせ決して視線を合わせようとしない。隙を窺うような目つきで見て、人を試すような振る舞いをするし、絡む。
――義姉さんは、兄さんのどこがいいの。
結婚することが決まって、何度目かに会ったとき、正雄にそう訊かれた。明るい屈託のないところ、人望のあるところだ、と答えると、正雄は卑屈な笑みを浮かべた。
――じゃあ、おれたみいなのは、嫌いだろうね。同居なんて我慢できないんじゃないかな。
そんなことはないわ、と智寿子が否定するのを待ちかまえている顔だった。好きよ、という言葉を待っている。さりげなく、そう言わなければ同居に差し障りがあるぞと恐喝しながら、正雄は褒め言葉を|強請《ゆす》り取ろうとしているように見えた。
――まだ分からないわ。正雄くんを良く知っているわけじゃないし。
――きっと嫌いになるよ。おれ、兄さんほど出来が良くないし。
そのようね、と答えたいのを我慢して、自分がなんと答えたのか、智寿子は覚えていない。覚えているのは、その時以来、正雄が嫌いになった、ということだけだ。智寿子はそもそも、義弟が気に入らなかった。夏場や風呂上がりに妙な目で智寿子を見ているのも気味が悪い。何度か、しげしげと干した下着を見ている姿を見かけ、以来、自分の下着は正雄が学校に行っている隙に始末するようになった。
「ねえ、病院に連れて行ったほうがいいんじゃないかしら」
「そうだな」と、宗貴は困ったふうに笑った。「様子を見て、本当に具合が悪いようなら、連れて行ったほうがいいかもな」
「そんなんじゃ、だめ。すぐに行かないと。どこか調子が悪いのよ。もしもそれが頭を打つかどうかしたせいだったら?」
おいおい、と宗貴は目を丸くした。
「考えすぎだよ」
智寿子は頭を振る。
「怖いの。このところ、あちこちでお葬式が続いているでしょう? 気のせいかもしれないけど、それですごく不安なのよ」
「まあ、葬式は確かに多いかな」宗貴は表情を曇らせた。「だからって博巳は関係ないだろう? そんなふうには考えられない?」
智寿子が再度、首を振ると、宗貴はよし、と声を上げた。
「じゃあ、明日いちばんに――」
「今からじゃだめ? 尾崎医院、近頃は日曜日にも開けているのよ」
「へえ。――まだ間に合うな。今から連れて行くよ。なんでもなければ、智寿子も安心できるしな」
「ありがとう」
智寿子は智香を隣に預けると、元気のない博巳を急かして着替えさせた。博巳の手を引き、宗貴の車に乗り込もうとしたところに正雄が帰ってきた。
「へえ、出かけるんだ」
「博巳の具合が悪いんだ。ちょっと病院に連れて行ってくる」
宗貴が言うと、正雄は薄笑いを浮かべて博巳を見る。
「兄貴も博巳には甘いなあ。おれが風邪引いても、寝てりゃ治るっていうくせにさ」
宗貴は正雄を無視して車に乗り込んだ。
「大事にされてて良かったなあ、博巳」
正雄が後部座席を覗き込んできて、思わず智寿子は正雄を睨んだ。正雄は何か言いたそうにしたが、車が動き出したので結局、口を噤んだ。
尾崎医院は、平日ほどでもない混み具合だった。たいして待たされることなく診療室に入り、問診を受ける。智寿子は「ひょっとしたら頭でも打ったのじゃないかと思って」と敏夫に懸念を伝えた。
「頭を打った? どういう状況で?」
「いえ、そういうこともあったかもしれないって――。この子、不器用で始終転んだり、階段から落ちたりしてるものですから」
そう、と敏夫は答えただけだったが、どこか気遣わしげな表情だった。検査には時間がかかった。以上に丁寧なように、智寿子には思われた。
「頭部に異常はないな」
敏夫が言ったとき、もう患者は他に残っていなかった。宗貴と智寿子、博巳の三人だけが取り残されていた。
「ただ、貧血が出てる」敏夫はまるで、それが難病の告知でもあるかのような口調で言った。「ひょっとしたら、難しい貧血かもしれないな。ちょっと経過を観察するから」
智寿子は青ざめた。宗貴も同様に顔色を変える。
「それは、たとえば白血病とか――」
「今の段階ではなんとも言えない。とりあえず、予約を入れておくんで明日も来てもらえるかな」
智寿子は救いを求めるように宗貴を見た。宗貴にしてみれば、智寿子の不安を取り除いてやろうという、それだけのために博巳を連れてきたつもりだった。まさか敏夫にこんな顔をされることになるとは思わなかった。
まさか、と思う。……まさか、うちでも葬式を出すことになるのじゃないか。
「……それは、だいぶ悪いのかい」
昔なじみの気安さで、宗貴は敏夫の顔を覗き込む。本当のところが聞きたかった。
「本当に、今の段階ではなんとも言えないんだよ。ただ、貧血にも色々あってさ。種類
によってはガクッと悪くなることもあるから、目を離さないようにしたいんだよ。博巳くんはまだ小さいし」
「ああ……うん」
「トイレの回数と、尿の色には気をつけてやったほうがいいな。もしも血尿があったりしたら、夜中でもいいんで連れてきて。それ以外でも、具合が急に悪くなるようなことが――たとえば、息苦しそうにしているとかがあれば連絡して」
ああ、と答えながら、宗貴は手が震えるのを感じていた。まさか――こんなことになるなんて。
抱き上げるには大きく重くなった息子を抱えて車に戻った。後部座席に座らせると、隣に座った智寿子が、恐ろしいものから守ろうとするように博巳を抱き寄せた。気と、ほんの僅かのドライブを、宗貴も智寿子も無言で通した。
家に戻ると、宗秀が不機嫌な顔で待っていた。
「こんな時間までどこに行ってたんだ」
「すみません」智寿子は詫びた。「博巳の具合が悪くって。それで病院に」
なに、と宗秀は博巳の顔を覗き込む。
「寝かせてきますね」
智寿子はそれだけを言って、博巳の手を引いて二階に上がった。宗秀は不満そうに宗貴を見る。
「それにしても、二人がかりで行くほどのことなのか。今何時だと思ってる。配達から戻っても店番がいない。夕飯の支度をしてる様子もない」
「正雄に行って出たんだけどな」
「あいつは部屋に閉じこもったまま出てこん。あいつだけを残して留守番の役に立つものか。――それで? 博巳は大丈夫なのか」
それが、と宗貴は口を濁した。
「ちょっと難しい病気かもしれないって。貧血らしいんだけど、貧血にも色々あるからって言ってた」
宗秀は目に見えて狼狽した。
「まだ、はっきりしたことは分からないみたいだけどね。とにかく明日も連れてこいって。具合が悪くなったら連絡してくれって、マジな顔で言われちゃってさ」
宗秀は押し黙る。
「なに、博巳、本当に具合が悪いの」
声がして、振り返ると正雄が店を覗いていた。ああ、と宗貴の声は、自然、低くなる。
へえ、と正雄は言う。
「それで義姉さん、顔色が変わってたんだ。最近、死に事も多いしさ」
「正雄、縁起でもないことを言うもんじゃない」
宗秀の叱責に、正雄は薄笑いを浮かべた。
「事実だろ。最近、葬式ばっかりだもん。うちだけは特別だなんて思わないほうがいいんじゃない? 確率ってのは個人的な心情に頓着してくれないもんだからさあ」
「正雄!」宗秀は声を荒げる。「その言い方はなんだ」
正雄は怯んだ様子だったが、すぐにまた薄笑いを浮かべた。
「だって事実だろ」
「正雄」宗貴は口を挟む。「よせ。それ洒落にならねえぞ。博巳は本当に具合が悪いんだ。ひょっとしたら難しい病気かもしれない」
へえ、と正雄は呟く。
「まあ、そういうこともあるよ。死なない人間なんていないんだからさ。そこで血相を変えるのは、自分だけは、って傲ってた証拠だよ」
正雄、と宗貴が怒鳴る前に、宗秀が怒鳴った。
「お前、なんだ、その物言いは! お前には情ってものがないのか!」
「なんだよ……」正雄は一歩退る。「ちょっと言ってみただけだろ」
「軽口のネタにできるようなことか!」
「おれが言ったんじゃない、そういうふうに言う奴もいるってだけの話で……」
「もういい」宗秀は吐き捨てるように言って、宗貴を見た。「――智香は」
「隣。預けて出たんだけど」
「連れに行ってくる」
憤然とした様子で出て行く父親を見送り、そして宗貴は正雄を振り返った。正雄はどこか傷ついた顔で、同じように父親を見送っていた。宗貴の視線に気づくと、顔を歪めて二階へ駆け戻っていった。
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九章
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武藤は目覚ましの音で目を覚ました。――十月三日、月曜日。
大きく寝返りを打って息をひとつ吐くと、家の中の賑やかな物音が耳に流れ込んでくる。慌ただしく家の中を走り回る足音は、おそらく保のものだろう。それに向かって何かを言う葵の声が聞こえていた。静子の用意する朝食の匂いが微かに流れている。
目覚めは悪くなかった。先週から、妻の静子が事務を手伝いに来てくれるので楽だ。溜まっていた書類もこの土日、静子と十和田の手を借りて、とりあえず処理することができた。肩の荷をひとつ降ろしたような気がする。
かえして言えば、自分はそれだけ疲弊していたのだと思う。こうやって手伝ってもらうことのできる自分はいいが、誰も手伝うことのできない敏夫の疲労を今さらながら再確認した。
(若先生は大変だ……)
それを配慮した看護婦たちが、土日にも出勤すると言いだした。昨日には村の外から通ってきていた二人の看護婦が村に越してきて、とりあえず尾崎家の持っている貸家に納まっている。
(いい子たちだ……)
病院はスタッフに恵まれている。これで敏夫も少しは楽になるだろう。それも常日頃、敏夫がスタッフを大事にするからなのだし、そう思うことは気分が良かった。静子がパートで来てくれるから、武藤にも余力ができた。土日に付き合うくらいのことはできる。十和田も手伝うと言っているし――。
布団の中でトロトロと、そんなことを考えていると、静子の足音が寝室の前を通り過ぎていった。手伝ってくれるのはありがたいが妻も大変だな、と思う。パートに出て、その他にいつも通り家の中の用事を片づけるわけだから。そう思うのは、つねづね病院でやすよや清美の愚痴を聞いているからなのかもしれない。
「徹、いい加減にしなさいよ」
二階に向かって声を上げる静子の声が聞こえる。徹はまだ起きていないのか、と思った。二十歳にもなってまだ母親に起こされないと仕事に行けないのか、と思うと、情けないようでもあり微笑ましいようでもある。
「徹ってば。遅刻するわよ」
武藤はようやく身体を起こした。
「あんた、今日も休むの?」
階段を昇っていく静子の声を聞くともなく聞きながら、そういえば、と武藤は思った。徹は一昨日の土曜日、仕事を休んだのだったか。「風邪をひいたから休むんですって」と、静子が呆れたように言っていたのを思いだした。静子は徹がサボったのだと思ったらしい口調だった。
かつん、と小さく何かが胸の中で引っかかる感じがしたが、武藤にはその理由が分からなかった。耳は聞くつもりもないのに家の中の物音を拾い、頭は吟味するつもりもないことを思い出している。
「――徹!」
静子の強い声が真上から遠く聞こえた。武藤は同時に大きく伸びをし、どうしてだか、そういう自分の暢気な振る舞いに違和感を覚えた。自分が何かそぐわないことをしているような感じ。何に対して「そぐわない」と感じるのかは自分にも分からない。
徹、と再び静子の強い声がした。金切り声のように聞こえた。おや、と思い、天井を見上げると同時に、再度、静子の悲鳴じみた声がした。
「お父さん! お父さん!」
武藤は布団を跳ね除けて立ち上がった。急速に、良くない予感のようなものが立ち込めてくるのを感じていた。馬鹿な、と思う。悪いことなど起こるはずがない。そう思いながら部屋を飛び出すと、きょとんと階段のほうを伺っている保に出会った。どうしたの、とこれまた暢気そうに葵が洗面所から顔を出す。
武藤は二階へ駆け上がり、寝室の真上にある徹の部屋に向かった。静子は部屋の入口でへたりこんでいた。
「――お父さん、徹が」
「どうした」
部屋に飛び込もうとしたが、静子がパジャマの膝に縋りついてきたので果たせなかった。徹の六畳間には布団が敷かれ、徹はそこに横たわっている。部屋の中は締め切られたカーテンのせいで暗かったが、窓が細く開いているらしく、吹き込む風がカーテンを揺らし、時折、鮮明な明かりが射し込んだ。
その明かりが、一瞬、徹の寝顔を照らし出した。徹は半ば目を開いて、あらぬ方向を見ていた。
「――徹」
武藤は縋りつく静子を引き剥がし、大股に布団へと歩み寄る。膝をつき、息子の顔を覗き込み、虚ろに半ば開いている目を見て、それが微かに混濁しているのに気づいた。あらぬ方角を見たまま動かない。それどころか、瞬きすらない。もう一度、名前を呼んでこちらを向かせようと息子の顔に手をかけ、指先にひやりとした皮膚の温度を拾った。
体温がない。もう、冷たい。こちらを向かせようとした力以上に、あらぬほうを見たまま動こうとすまいとする徹の身体は頑なだった。
「徹……おい」
まさか、と思う。こんなことがあるはずがない。何かの間違いだ。早くどこが間違っているのか気づかなければ、取り返しがつかないことになる。
「お母さん、どうしたの?」
葵の声が聞こえた。階段を上がってくる足音。来てはいけない、と武藤は振り返った。戸口に坐り込んで同様に背後を振り返っている静子、階段を上がってくる葵、その後を追うように、保が何か下から言っているのが聞こえる。
(来るな)
誰も見るのじゃない。誰も知らなければ、なかったことになる、と馬鹿げた思考が浮かび、同時に危険に近づくのじゃない、という危機感のようなものが浮かんだ。
「どうしたの?」葵は怪訝そうに部屋の中を覗き込む。「お兄ちゃん、どうかしたの?」
何も、と武藤は言いたかった。何でもないから、下に行っていろ。だが、武藤は低い自分の声を聞いた。言ったという自覚はなかった。
「……病院に電話してくれ」
「え?」
「病院に電話して、若先生に来てくれと言うんだ。急いで」
「お兄ちゃん、どうしたの」
武藤は答えられなかった。葵の背後から保が怪訝そうに覗き込む。
「具合、悪いの?」葵の顔が不安に硬直するのが見て取れた。「救急車、呼ぼうか? そのほうが」
「いいんだ。若先生を呼びなさい」
「でも」
「……お兄ちゃんは、死んでる」
静子が座ったまま飛び上がったふうに見えた。血相を変え、そのまま這ってこようとする。葵が、保が部屋に飛び込んでこようとするのが分かった。
「とにかく電話するんだ!」
徹に近寄せてはならない。
「ここはこのままにして、先生に来てもらうんだ。保、お母さんを下に連れて行け」
でも、と保がたたらを踏む。這ってきた静子を抱き留め、叫んで徹に縋り付こうとするのを力ずくで押し戻す。
「降りてなさい。保、連れて行くんだ」
「でも」
「いいから」
畳に爪を立てる静子を、むりやり部屋の外に押し出す。保に押しつけるようにして襖を閉じた。近寄らせてはならない。――隔離しなければ。
思って、武藤はその場にへたりこんだ。
例のあれだ。そうでなくてどうして、こんなにも唐突に息子が逝ってしまうわけがあるだろう。
「なんで……」
気づかなかったのだ、もっと早くに。そう、徹は土曜に仕事を休んだのだ。風邪だと言っていた。それがどれほど恐ろしい言葉だったか。だが、武藤はそれに気づかなかった。なぜだかそれは、武藤たちを避けてくれるような気がしていた。
大丈夫だと思っていたのだ。なぜなら、武藤はそれを分かっていたから。疫病に気づいていないのならともかく、武藤は疫病の存在を知っていた。だから、物陰からそれが襲いかかってくることはないのだと、なんとなくそう思いこんでいた。
「……どうして」
なぜそんな誤解をしたのだろう。なぜ分かってやれなかったのだろう。息子の危険に気づかず、みすみす息子を死なせた。
いや、と武藤の中の理性は思う。敏夫はまだ原因も治療法も分からないといっていた。いったん発症したら、最悪の事態になるしかないのだ。だから武藤がそれに気づこうと気づくまいと、結果が変わったわけではない。
自分にそう言い聞かせるものがあったが、到底、武藤は自分でもそれを信じることはできなかった。自分が気づけば助かったのではないかと思う。どこかの時点で、自分が誤らなければ、修正は可能だったはずだ。今からでも遅くない。何か正しい方法があるはずだ。全てを正常に戻すための方法が何か。
だが、そんな方法など存在しないことは明らかだった。
「……済まん」
武藤は畳に突っ伏した。
「済まなかったなあ、……徹」
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2
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静信に武藤徹の訃報を伝えたのは、中外場の世話役である小池老だった。
「事務長さんとこの長男さんが亡くなって」
小池牢は、わざわざ寺にやってきてそう言った。
「事務長――武藤さんですか? 徹くん?」
「そうだ。若御院、この村はいったいどうなっとるんだ」
小池に言われて、静信は返答に窮した。
「死に事が多すぎるとは思わんかね。死に事だけじゃない。わしの息子だって――」
言って、小池は口を噤む。
「わしは、この歳まで生きてきて、こんな妙な目に遭ったのは初めてだよ。やたら人が死んで、やたら人がいなくなる。普通じゃ考えられるような妙な案配のことがあまりに続く。こないだまで、村は普段通りだった。それが最近の村はどうかしてる。若御院はそう思わんかね」
「……そうですね」
「伝染病だって噂を、若御院は知っとるかね」
「聞いてます」
「実際のところ、どうなんだね」
「ぼくには分かりません」
「兼正の女房と娘は身体か悪いというじゃないか。それが村の連中に移ったということは考えられんかね」
静信は眉を顰めた。
「それはあり得ません。桐敷さんの奥さんと娘さんはSLEといって膠原病です。膠原病は伝染しませんから」
「じゃあ、兼正が何かしてるという話は」
静信は明らかに怒っているふうな小池老の顔を見返した。
「兼正の住人だよ。あいつらが越してきてから変だ。わしだけじゃない、みんなそう言ってる」
「それは……無関係でしょう。越してきてから、とおっしゃいますが、実際には桐敷さんのところが越してくる以前から死に事は続いています」
「死に事だけのことを言ってるんじゃない。この村は変だ、という話をしとるんだ。そもそも、兼正の土地にあんな家が建ったところから、この村はどうかし始めたんだ」
「小池さん」静信は小池老の目を見る。「どうかしている、とは具体的に何を指しているんですか?」
小池は黙した。
「村が変だということは、わたしも認めます。死に事が多すぎるのは確かで、何か原因があるのかもしれません。けれども桐敷さんのところは無関係でしょう。あの一家が越してこられたのは、村で死に事が続き始めた、その後のことです。転居が多いことも認めます。それもはなはだ、不審な転居が多い。何がどう変だとは言えませんが、尋常の転居じゃない、それが続いているのは確かだと思います。小池さんのところを筆頭に、何かがおかしいのは確かです。兼正の家が変わっていることも認めます。桐敷さんが一風変わった人々だと言うことも認めます。けれども、桐敷さんが変わった家に住んでいることと、死に事や転居の間に何の関係があるというんですか?」
「いや……それは」
「どう関係するというんです? 桐敷さんが何をできるというんです? 亡くなった人たちは別に誰かに殺されたわけではなのですよ。明らかに病死です。桐敷の奥さんと娘さんは病気を抱えていますが、これは他人に移るようなものじゃありません。関係のしようもないでしょう。引越した人たちだって、誰かに拉致されたわけじゃないんです」
「それは、そうだが」
「お願いですから、冷静になってください。小池さんの落胆は分かりますが、小池さんがそんなことをおっしゃると、村の人たちはそれを信じてしまいます」
「わしは……別に」小池は目を逸らす。「息子がどうこう、というわけじゃ」
小池は言ったが、静信の目からすると、息子に捨てられた衝撃を老人が引きずっていることは明らかだった。それを誰かのせいにしたくて、スケープゴートとして余所から入ってきた桐敷家にそれを負わせようとしている。理不尽な排斥に向かって踏み込もうとしているように見えた。
「とにかく今は、武藤さんのところです」
小池は、ああ、と気まずげに呟いた。
「そう、それを相談に来たんだった。武藤さんに聞いたんだが、あちらは寺の檀家に入っているんだって?」
静信は頷いた。
「ええ。武藤さんのお母さんの十三回忌のときに、身近に墓を移したいということで」
寺の斡旋で墓所を求め、墓を移して檀家に入っている。だが、と静信は思った。火葬にするべきではないだろうか。村の者は土葬に対して拘りがある。火葬に対しては抵抗が大きい。だが、武藤家はそもそも村の者ではない。これまで死者を火葬にしてきたのだ。だったら抵抗はないはずだ。火葬にしたほうが安全なのだが、と思う。
「埋葬はどうなさるんでしょう。これまで荼毘にしてこられたのだし、納骨できるお墓もお持ちなわけですし」
「いや、村の慣例通りにということなんだ。尾崎の若先生もこれまで通りにしたほうがいいんじゃないかと勧めたようだがね、奥さんがせっかくだから、と言って」
静信は頷いた。武藤は村に墓所を求めたときから、そもそもそのつもりだったのだ。村の一員として、何事かあれば弔組の手を経て墓所に埋葬され、そうやって完全に村に根付くことを考えていた。武藤は事情を分かっているだろうから、諭せば火葬に同意するだろうが、いまさらそれを強く勧めるのも躊躇われた。
「そういうことなんで万事、慣例通りってことで。戒名は相応でいいということなんで、枕経を頼みますな。通夜は今日、葬儀は明日、いつも通り昼前ってことでいいかね」
「……結構です」
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律子が休憩室にはいると、すでに敏夫がいて、ぐったりとした様子で椅子のひとつに腰を下ろしていた。おはようございます、と声をかけたが、帰ってくる声は低い。目線を合わせようともしないので、よほど疲れているのだろうと思い、黙ってコーヒーを淹れに立った。
コーヒーを淹れているうちに、やすよが出勤してきて、十和田が出勤してきた。それを配る頃には雪と聡子が到着した。妙にむっつりとした敏夫のほうを気にしながら、引越の首尾を話しているうちに清美がやってきた。
「武藤さん、遅いわね」
清美が時計を見上げたときだった。
「――武藤さんは来ない」敏夫が低い声で口を挟んだ。「忌引きだ」
え、と律子は敏夫の顔を見返した。疲労の色が濃い、いたく気落ちしたふうな――。
「何かあったんですか」
勢い込んだのは、やすよだった。敏夫はむっつりと頷いた。
「徹くんが亡くなった。武藤さんとこのいちばん上の息子さんだ」
そんな、と律子は絶句した。まさか、と問いかけるような声を上げたのは誰だったろうか。これに対して、敏夫は再び、むっつりと頷いた。
あれだ、と思った。律子は目眩を感じた。前方にだけ注意していたから、いきなり背後から足下を掬われたような気がした。
「そんな……」
「手の空いた者は、折を見て悔やみに行って構わない。弔組がいるんで人手は足りてるようだが、みんなも武藤さんの顔を見ないと落ち着かないだろう。通夜が終わるまでに診療が終わるかどうかも怪しいしな。明日は葬式の間だけ、休診にするから」
敏夫は自分でも、脱力しているのか、怒っているのかが分からなかった。いずれにても対象は武藤でも病気でもなく、自分自身であることだけは確実だった。
疫病、深刻な事態。空回りしている間に、スタッフの家から犠牲者が出た。なぜ徹の不具合に気づかなかった、と武藤を責めたかったが、それは不当だということを敏夫自身、分かっていた。武藤は家にも仕事を持ち帰っていた。この休日にも出勤してきている。妻の静子もその手伝いに追われていた。その状態で息子のことにまで目が届くだろうか。それも両親の庇護を必要とする幼い息子というならともかく、徹は立派な大人だ。
だが――この病にかかった者は、自ら不調を訴えない。それどころか本人自身が不調に気づいてないふうですらある。家族が気づかなければ、どうにもならない。
もっと、注意させるべきだった。まずスタッフの安全について考えるべきだった、と思う。ひょっとして、と恐ろしい疑惑が首を擡げる。徹は何からそれに感染したのだろう。人だろうか、媒介生物だろうか。そうであれば構わない。だがもし――病院から持ち出した何かだったら。あるいは武藤が不顕性感染していたとしたら。
(そんなことを考えてる場合じゃない……)
今は診療時間中だ。しっかりしなければ。
思いながら、何をするのも億劫で、敏夫は椅子に深く身体を預けて後悔に浸っている。ようよう机の上に目を戻し、何をすれば良かったのだか、と内心で首をひねって、そもそもどうして自分はぼんやりしてているののだろう、と不審に思った。
ぼんやりしている暇などないはずだ。なのになぜだか、目の前に患者はいないし、側に指示を待っている看護婦がいるわけでもない。これはどういうことだろう、と背後を振り返って首を巡らせると、俯いていた律子が顔を上げた。困ったように微笑む。
「……いらっしゃいませんね」
敏夫はその言葉の意味を取りかねた。律子が言葉を補う。
「広沢の豊子さん」
そうか、と思った。広沢豊子の予約時間なのだ。だから時間を空けてある。敏夫は急速に覚醒した気がした。
「まだ来てないのか?」
「ええ」
またか、と敏夫は内心で悪態をつく。どうして、どいつもこいつも、と癇癪を起こしたい気分がした。ちょうどその時、診察室に顔を出したのは清美だった。
「先生、いちばんにちょっと出てきます」
敏夫は頷き、ついでに、と声をかけた。
「済まないが、武藤さんとこの帰り、広沢豊子さんのところに寄ってくれないか」
清美は瞬いた。
「来てないんですか? ――ええ、分かりました」
頷いた清美が戻ってくるまでには小一時間がかかった。清美は狐につままれたような顔をしていた。
「どうだった」
敏夫が訊くと、口ごもる。
「あの……広沢さんなんですけど」清美は珍しくぼそぼそと、「いません」
「いない? 出かけてるのか?」
「そうじゃなくて……あの、引越したんだそうです、ゆうべ」
敏夫はまじまじと清美の顔を見た。
「なんだって?」
「わたしも、びっくりして。いったら誰もいなくて、戸締まりがしてあったんです。どこか開いてないかと思ってウロウロしてたら、隣の人が出てきて、広沢さんならゆうべ越したって」
「馬鹿な……」
そんなことは言ってなかった。あれだけ豊子に念を押して、豊子だって来る、と頷いたはずだ。
どうなってるんだ、と言いかけ、敏夫は静信の言を思い出した。村では不審な転居が続いている。そう、いつかメモをもらった。どこかの家が転居して、その前に家族の具合がおかしかったらしいと――。
敏夫は立ち上がり、メモを探しに行こうとして、清美が何か言いたげに身体をもぞもぞと揺すっているのに気づいた。
「――なんだ?」
「いえ。……全然、関係ないですけど」口ごもり、口ごもり、清美は言う。「なんだか、その……広沢さんといい、妙な気がして……いえ、別に病気とは関係ないんですけど」
「どうしたんだ」
「武藤さんとこの徹さん、仕事を辞めてたんですって」
敏夫は清美に向き直った。
「辞めた?」
「ええ。武藤さんも知らないうちに、会社に電話して辞めるって――それが、二日前の話だっていうんです。でも……二日前っていうと、これまでの例から考えて、もう具合の悪かった頃ですよね……?」
確かに、と敏夫は思う。今朝死んだのだから、徹は数日前から体調を崩していたはずだ。
「まさか、徹くん、知ってたんでしょうか、この病気のこと。それで……でも、何も言わないで……」
「まさか」敏夫はいい、さらに静信の言葉を思い出していた。「――そういうことじゃないだろう」
「そうですよね」安堵したように、清美はちょっと笑みを零す。「考えすぎですよね」
敏夫は頷いたが、背筋が冷えていくのを感じていた。徹は村外通勤者だ。そして、他にも村外通勤者が、突然に辞職していたと、静信は言ってなかったか。
敏夫は控え室に向かい、デスクの上のフォルダを漁る。静信から預かったメモも何もかも、全部ここに入れてあるはずだ。