饭饭TXT > 海外名作 > 《屍鬼/尸鬼(日文版)》作者:[日]小野不由美【完結】 > 尸鬼@txtnovel.com.txt

[#地付き]――創世記 第四章.34

作者:日-小野不由美 当前章节:15376 字 更新时间:2026-6-15 17:40

 少し漁ると、すぐにそれが見つかった。

 そう、中外場の小池だ。息子一家が突然、家出した。それ以前に、息子一家は具合が悪かったらしい。そして息子の保雄は、小池老も知らないうちに辞職していた。

 二十二プラス一名の姓名が記されたメモ。このところの転居者たち。敏夫はそれを改めて見つめ、そこに「前原セツ」という文字を見つけた。セツは患者だった。ずっと長いこと通院していたのに、そういえばもうずっと顔を見ていない。最後に会ったのはいつだったろう、そう記憶をまさぐって、どこかでセツの名を聞いたような気がした。

 いつだったか、律子と話をしなかったか。確かセツが薬を過剰に使っているとか。

 敏夫は椅子に腰を下ろす。

(そうだ……山入で事件が起こった日だ)

 そんな話を律子とした。セツは橋本病で甲状腺ホルモン剤を投薬されていて、それを勝手に――。

 敏夫は|蟀谷《こめかみ》に指を当てる。甲状腺機能低下症の場合、症状はまず全身の倦怠感だ。そして感情の鈍磨。それは貧血の症状に似ている。

「そうか……」

 セツは病状が悪化したのじゃない。あの時点で例の疫病に罹っていたのだ。それを病状の悪化だと思って薬を余計に使用した。律子が薬を二日分だけ出して、月曜に必ず来るように言ったが、セツは来なかった。それきり来院していない。いないはずだ。セツはその月曜に村を出てしまっている。

 山入|堙滅《いんめつ》は八月六日のことだ。セツの転居が八日。そしてセツは発症していた。セツは心臓に障害がある。もしもあれなら、弱った心臓を直撃しただろう。それでなくても発症してから数日、セツの場合は三日と持たなかったのに違いない。

「ギリギリだ……」

 セツは月曜の早朝――深夜と言っていい頃に転居している。だが、その頃のセツは、もはや朦朧としていた時期だろう。体調は悪かったはずだ。本人に自覚があったかどうかはともかくも、身動きに差し障るほど悪化していたはずだし、下手をすれば心不全の症状が出ていてもおかしくない。

 にもかかわらず引越した。その理由も行く先もメモには書かれていない。田茂定市がこれを調べたのだったか。定市にも分からなかった、ということだろうか。

「……あり得ない」

 これまでの事例から考えて、セツが引越などできるはずかない。最善の場合でも、もはや支える者がなくては、満足に歩くこともできなかったはずだ。そもそも予定していた転居だったにせよ、運送屋が何もかもやったにせよ、セツに采配ができたはずもないし、ましてや本人がそこからの旅に耐えられたはずがない。家族がいればともかく、セツは独居老人だった。

 しもし、と敏夫は息を呑んで、静信から委ねられた紙片を見つめた。ここに書かれている一家の全てが発症していたとしたら。敏夫は机の上に放り出したままのグラフを見た。横軸に日を、縦軸に罹患者数を取っている。現在の時点では罹患者数は死亡者数そのものだった。いまのところ、それは横軸に沿って切れ切れに続く点線でしかない。伝染病ならこれは波を描くはずだが、まだはっきりと波形を描くほどの罹患者が出ていない。

 敏夫はペンを手に取った。紙片に書かれた名前を辿る。前原セツは一人暮らしだった。猪田元三朗には妻がいた。家族構成を思い出し、仮に転居した一家の全員が発症したものとしてグラフに書き込んでいく。家族構成がはっきりしない家は、看護婦に聞いてみた。それでも分からない家は便宜上、三人として数える。

 全てを書き込んで、敏夫はしばらくそのグラフを見つめた。それは八月の初め、切れ切れの点として現れ、一週、二週と日を重ねるうちにごく小さな波を形作り、次第に高くなり、九月に入って明らかな連続する波形を現した。

「……そういうことか」

 敏夫はようやく悟った。静信が拘っていたのはこれだったのだ。そして、静信が思っていた以上に、疫病と転居の――あるいは辞職の間には強い関連性がある。

 小池老に会わなければ。会って息子一家の様子について問いたださなければ。

 そして、静信に会う必要がある。

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 静信はとりあえず支度をして、武藤家に向かう。武藤の落胆は酷かった。武藤は良く知っているだけに、落胆を見るのは辛い。ましてや武藤が自分を責めているふうだったからなおさらだった。

「なんで気付かなかったのか……」武藤は目を真っ赤に泣き腫らしている。「土曜にね、休むって言ったんですよ。会社は休むって布団から出てこないで、……そこでおかしいと思わなきゃいけなかったんだ」

 静信は何か慰めの言葉をかけようとしたが、実際のところ、出てくる言葉はなかった。死に至る数日間。武藤はこれを見逃したのだ。武藤が自分を責めずにいられない気持ちは分かった。これを慰撫しようとすれば、事前に気がついても助ける方法はなかったのだと、そう言うしかないが、もちろんそれが武藤の悲劇を軽減するとは思えなかった。

「おまけにあいつ、会社を辞めてましてね」

 武藤が顔を拭って、静信は息を詰めた。

「……辞めて」

「ええ。ひょっとしたら、あいつ、分かっていたのかな、と思うんですよ。わたしはことさら徹に何かを言ったことはなかったですけど、徹は気付いてたのかもしれないです。こいつが、罹ったらもうどうしようもない病気なんだってことに。それで……」

 それは違う、と静信は思った。

(まただ……)

 徹は溝辺町に勤めに出ていた。清水隆司らと同じだ。

 静信はそれを言うべきか迷い、武藤にそれを知らせることに意味を見出せずに口を噤んだ。なんと言えばいいのだろう? それはこの疫病の特徴のひとつだ、とでも言えばいいのか。因果関係などあるはずがない。言ったところで武藤に意味があるはずがない。

 枕経を上げて武藤家を辞去し、寺に戻って法事の準備に追われながら、静信はひどく困惑していた。

 疫病と辞意の間には、関連性があるように見える。不審な転居との間にも、何らかの関係があるように見える。しかしながら、どう考えても、関連などあるはずがなかった。

(単なる疫病だと思っていいのか)

 しかしながら、これが疫病でなかったら、何だというのだろう? 小池のように、誰かの謀略だとでも言おうというのか。

 分かるのは、これが尋常の事態ではない、ということだった。疫病だ、だから原因を探し、防疫方法を探して治療法を模索する。それは妥当な手段のはずだが、そんな尋常の方法で本当に事態を止められるのか、という気がした。これは敏夫や静信には手に負えない種類のことではないのか。もっと力のある誰かが、事に当たらなければ無為に時間を浪費するだけでないのか。

 静信は考え考え、そしてし空き時間を見つけて保健係の石田に電話をした。

「……ああ、若御院」

「あの――例の件なのですが、どうなっていますか?」

 静信が問うと、石田は一瞬、何のことか分からない、というような間を作った。

「……どう、とは?」

「ですから、石田さんがデータを取りまとめて、溝辺町のほうへ送っているんですよね? 何か反応はありましたか」

 石田は狼狽したように言葉を濁した。

「ええと……ええ……いえ」

「調査をしようとか、なにか指示はないのですか」

「あの……ありません」

 静信は溜息をついた。これだけの死者を、行政はどう思っているのか、と暗澹たる気分になる。

「これは出過ぎかもしれないのですが、少しせっつくというか――兼正に話を通して、動いてもらったほうが良いのではないでしょうか。このまま、町がその気になってくれるのを待っていては埒が明かない気がするのですが」

 そうですね、と同意する石田の声は、辺りを憚るような調子だった。

「ああ、済みません。隣に誰かおいでですか?」

「あ、いえ……その」

「とにかく、兼正の耳に入れるだけでもしておいたほうがいいと思うんです。事情を説明して、担当の方と少し話をしてもらったほうが」

「はあ……そうですね」

「担当者のお名前が分かりますか? とにかくまず、個人的に話をしてもらって」

 静信が言いかけたとき、石田がそれは、と口を挟んだ。

「――何か?」

「いえ……その」

 静信は眉を顰める。石田の応答は、いかにも歯切れが悪く、明らかに狼狽している様子だった。

「石田さん、どうかしたのですか?」

「ああ、いえ」

「データは上申されているんですよね?」

「はあ……その」

 ふっと直感のようなものが胸をよぎった。

「してないのですか?」

 石田は答えない。言葉にならない呻くような声で、自分が的を射たことを静信は悟った。

 なぜ、と言いかけ、理由はひとつしかないことに思い至る。

「……敏夫ですか」

 再び石田が呻いた。静信にとっては、それで充分だった。敏夫の気性は良く分かっている。敏夫が具体的に何を思い、どう石田を言いくるめ、何を指示したのか――それは分からなくても、それがどういう性質のものだったかは分かる。

「……分かりました。お仕事中、済みません。敏夫と相談してみますから、石田さんは気になさらないでください」

 静信が言うと、石田は小声で、済みません、と詫びた。

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 夏野が学校から家に帰ると、一枚のメモがダイニング?テーブルの上で夏野を待っていた。母親の書いたメモだった。

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おかえりなさい。

武藤くんのところの

 徹くんが亡くなりました。

私達は手伝いに出かけます。

これを読んだらあなたも来てください。

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 夏野はしばらく、その短いメモをじっと見つめた。

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武藤くんのところの

 徹くんが亡くなりました。

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 どうしても、二行だけ、うまく意味を把握できない文章があった。母親は何を慌てていたのだろう、と思う。こんな書き方をしたら、まるで徹が死んだようじゃないか。

 夏野はしばらく、母親がこの一見して徹の訃報を伝えるかのような文章で、本当は何を伝えようとしたのか、想像してみようとした。どんな単語が脱落し、文章上のどんな過ちが起こっているのか。

 ダイニング?キッチンに立ちつくしてメモを眺めている間、声をかけてくる者はいなかった。家の中の物音は絶えている。工房のほうからも音が聞こえなかったので、本当に両親は出かけているのだろう。

[#ここから2字下げ]

私達は手伝いに出かけます。

[#ここで字下げ終わり]

 夏野はそれをじっと見つめる。次いで、どうしても意図を読み取れない二行に戻った。

[#ここから2字下げ]

武藤くんのところの

 徹くんが亡くなりました。

[#ここで字下げ終わり]

 じっと文字を眺めたまま、夏野は思う。とにかく武藤家に行ってみよう。行ってみれば両親が本当はどこの家の手伝いに行ったのか、武藤家の誰かが知っているかもしれない。そして、ついでに徹たちにこの話をしてやろう。母親のうっかりしたミスが招いた、ブラック?ジョーク。

(……本当のはずはない)

 徹と恵とは違う。夏野とも。だって徹は、村を出ることを望んでなんかいなかった。

 村迫正雄もまた、その訃報を学校から帰ってから聞いた。家族に促され、慌てて武藤家に駆けつけると、見慣れた家には鯨幕が張り巡らされ、喪の装いを終えていた。

 人混みを掻き分け、いつものように縁側に回ると、やけに暗い着衣の人々が家の中にも溢れている。居間の隅のほうで肩を寄せ合うように据わった葵と保の姿が見えた。声をかけると、二人が顔を上げる。正雄は家の中に上がり込んだ。

「保――あの」

 坐ったまま正雄を見上げた保の目は真っ赤になっている。葵は涙に濡れた睫毛を瞬かせた。何か声をかけなければならない、と正雄は思う。こういう場合に、言わなければならないことがある。それが口から出てこない。

「おれ……びっくりして」

 保は頷く。頷いただけで言葉はなかったので、やはり正雄は次の台詞に詰まった。自分を持て余していると、葵が正雄の背後に目をやる。振り返ると、正雄同様、制服姿のままの夏野がやってくるところだった。

 夏野は居間に上がり込んでくる。まるで怒ってでもいるような顔つきでやってきて、正雄の脇に立った。正雄のほうには視線を寄越すこともなく、坐り込んだ葵と保の前に立ち塞がる。

 こいつは何を言うかな、と正雄は思った。見守ったが夏野は何も言わなかった。じっと二人を見下ろし、やがて抑揚のない声を出す。

 保が座敷のほうを指さした。夏野は頷き、正雄をその場においてさっさと廊下に出て行った。

「なんだよ、あいつ」

 正雄は言ったが、これに対する保らの返答はない。

 夏野は座敷に向かい、そこにしつらえられた棺を見て、では、母親のあのメモリは間違いでもジョークでもなかったんだ、と何度目かの確認をした。夜道を歩き、武藤家が見え、そこに鯨幕と忌中の提灯を見たとき、臓腑を鷲掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]みにされた気がした、その気分が舞い戻ってきた。

 それは何かに手ひどく裏切られた、という気分に近かった。それだけ自分は、訃報が何かの間違いであって欲しかったのだろう、自分の期待になど、世間は何の頓着もしてくれないことを改めて確認して、子供のように落胆している。何度経験しても慣れることのない、吐き気のするような気分。

 ぼんやりと立って棺を睨みつけていると、武藤が顔を向けて赤くなった目を瞬かせた。

「やあ……」

「……顔、見てもいいですか」

 夏野が訊くと、武藤は頷く。棺の蓋は開いたまま、白装束の身体の顔面には白い布がかけられている。武藤は壊れ物を扱うような手つきで、その布を捲った。

 間違いなく徹だった。瞬間的に吐き気を感じた。この期に及んでもまだ、自分はどこかで全てが間違いであったという期待を捨て切れていなかったのだ、と悟った。

 まじまじと徹の死に顔を見つめ、顔を上げると、白い布を手にしたまま、まるで何かを探すような顔で武藤が徹の顔を見ていた。

「……徹ちゃんの抜け殻だ」

 夏野が言うと、武藤は瞬き、夏野を振り返ってから頷いた。

「肝心の徹ちゃんは、どこに行ったんだろうな」

「さあ……」

「探す方法があればいいのにね」

「まったくだ」

 武藤は深く俯いた。夏野は武藤に頭を下げる。

「お悔やみを言います。おれ、こういう場合の常套句って分からないんだけど」

 武藤は頷いた。

「残念です、すごく。小父さんたちはそれ以上だろうけど」

「そうだね……そうなんだよ。とても残念だ。自分が情けなくて悔しくてね」

「……おれもです」

 正雄が座敷に向かうのと入れ違いに、夏野が座敷を出てきた。夏野は相変わらず怒ったような顔つきで、特に泣いている様子もなかった。正雄は駄目だった。周囲の様子を見るにつけ、徹は死んだのだという事実が胸に迫ってきて、そのうえ棺の中の徹を見るともう我慢ができなかった。

 兄のような存在だったのだと思う。実の兄たちより徹のほうがよほど正雄に優しかった。にもかかわらず、徹は奪われてしまった。母親の良子のように。正雄を残して逝ってしまったのだ。徹の顔を見ていると、失ったのだという思いが否が応でも身に迫ってきた。徹の物言いや、細かな思い出が去来して、正雄は泣きじゃくらずにいられなかった。

 武藤に励まされ、静子に慰められた。二人と一緒に泣いた。同じ悲しみを共有している、という思いが、いっそう涙を誘った。声がかれるほど泣いて、ようよう居間に戻ると、夏野はあいかわらず、むっつりと押し黙って坐っている。その平然とした顔を見て、正雄は苛立たずにいられなかった。

「……お前、泣きもしないのな」

 正雄が口にしたのは、深夜が近づいてからのことだった。残っていてもすることもないのだが、何かしら後ろ髪を引かれる気がして、武藤家を辞去する気にはなれなかった。それで保らと四人、居間の隅でむっつりと押し黙っていた。沈黙に耐えかね、正雄は時折、口を開く。零れ出てくるのは徹の思いで話ばかりだった。こんなことがあった、あんなことがあった、と小声で辿るうちに涙が溢れてきて、そのたびに保らと泣きじゃくることを繰り返す。そうしているうちに弔問の人波も途切れた。居間に残っていたのは、正雄ら四人だけだった。ついに夏野は、ただの一度も涙を見せなかったし、思い出話にも参加しなかった。

「少しも悲しんでないみたい。仏頂面して押し黙ってるだけでさ」

 夏野はちらりと正雄に視線を寄越しただけで、黙っている。

「お前、だいたい冷たいよ。情ってもんがないのかよ」

「……そういうことにしとけば?」

「なたん゛よ、その物言いは」

「絡むな」夏野はぴしゃりと言う。「おれたちが喧嘩していい状況じゃねえことぐらい、分かるだろうが」

「おれがいつ絡んだよ。お前こそ難癖つけてるんじゃねえぞ」

 夏野はうんざりしたように溜息をつく。

「喧嘩したいってんなら、またの機会に相手してやるよ。居間ここで保っちゃんたちに喧嘩の仲裁なんかさせんなよな。子供じゃねえんだから、ここにいる間くらい我慢しろ」

「お前……どっちが年上だと思ってんだよ」

「あんただろ。だったら、おれにできることぐらい、できるよな?」

「なんだよ、その言いぐさは!」

「いい加減にして」

 口を挟んだのは葵だった。葵は正雄を睨みつける。

「ナツの言う通りよ。喧嘩なら外でやって」

「なんだよ。葵ちゃんは腹、立たないのかよ。徹ちゃんが死んだんだぜ? こいつ、ぜんぜん冷たいよ。そうだろ」

「冷たいのはあんたのほうよ。ここで喧嘩の仲裁なんてさせないでよ」

「おれが冷たい? 冗談じゃねえぞ、どこがだよ。徹ちゃんが死んで、すげえ悲しいよ。さっきからそう言ってるじゃないか。どんだけショックだと思ってるんだよ」

「そんなの、あたしたちはそれ以上よ。うちの兄貴なのよ、分かってる? なによ、さっきからさも自分の不幸みたいに。自分だけが悲しいような顔をしないでよ。あんた、あたしたちを慰めに来たの? それともあたしたちに慰めてもらいに来たの?」

 正雄は血の気が引くのを感じた。保のほうを見ると、保も眉根を寄せたままじっと膝先の畳を見ている。少なくとも、正雄を弁護してくれようという気はなさそうだった。

「……分かったよ」

 正雄は踵を返した。足音を立てて居間を出る。逃げるように武藤を後にした。胸の中に苛立ちが湧き上がって渦を巻いた。その圧力でいまにも吐きそうだ。

 あんな奴ら、二度と知るもんか、と正雄は夜道を足早に戻った。

 正雄は徹を失った。それは、保や葵だって徹を失ったことには違いないが、悲しいのは同じだ、と思う。徹が死んでどれだけ悲しいか、それは家族だなんだとか、そういうことで決まるのじゃないはずだ。それは徹に対する思いの丈で決まる。家族だってだけで、正雄の悲しみを偽物のように言う権利はないはずだし、正雄の心情を無視してあんな酷い言葉を投げつける権利だってないはずだ。

 これっきり縁なんか切ってやる。二度と顔も見たくない。

 背中に張り付いた、いたたまれない気分から逃げるように足を速め、飛ぶ勢いで家に戻った。家が見えて、ようやく足を止め、荒い息をつく。

(どいつもこいつも……)

 誰も正雄の気持ちなど分かろうとしない。人の気も知らないで、と理不尽な扱いを受けたことに対する憤懣が胸の中で渦巻いて息苦しかった。

「くそ……!」

 吐き捨て、正雄は店のシャッターに手をかける。正雄が出かけているのを分かっていてシャッターを閉めてあるのも腹が立つ。しかも手をかけると、中から戸締まりがしてあった。正雄は思わずシャッターを蹴り、家の裏手へと廻る。

 裏口から家に入るためには、ずらりと並んだ人家を迂回して、一ブロックを回り込まねばらならなかった。たかだかそれだけの距離のことではあっても、正雄が出かけているのを分かっていて、と思うと腹立たしい。近しい人間が死んで、悔やみに出て行ったのだ。気落ちしている人間を待っていて慰めてやろうという気もないのか、と憤りで胸が灼けた。

 夜道を踏みしめ、角の衣料品店を曲がる。その店の脇から細く暗い路地が延びていた。路地といっても、一方通行とはいえ車がぎりぎり走れる程度の道幅はある。にもかかわらず角口に街灯があるきり、寝静まった家並みに挟まれた道は暗い。それすらも苛立たしい。

 路地の左右には、塀だの裏庭だの、あるいは小さな畑だのが続いている。かろうじてコンクリートで舗装されただけの道を、正雄は前のめりに歩いた。ひとつ角を曲がり、そして正雄は行く手に白い人影を見た。

 ぎょっとして足を止めた。無意識のうちに息を殺していた。それはひょっとしたら、徹が着ていた白装束とイメージがダブったせいかもしれなかった。

 白い背中――男の後ろ姿だった。路地を行き来する人影を見ることは、もちろん珍しいことではない。時間が時間だから近所の誰かが正雄と同様、家に戻るところなのだろう。それだけのことだ、と気を取り直し、正雄は歩みを進めようとした。そしてその人影がまさしく正雄の家の裏庭に入っていくのを見た。

(宗貴兄さん?)

 にしては少し、歳がいっているように思える。かといって宗秀と間違うほどの歳でもなさそうだ。背中の広さ、姿勢の具合、なによりも歩調が、そんなふうに見えた。

 そろそろと正雄は家に近づく。裏庭といっても、正雄の家のそれは広い。博巳らが遊べる程度の庭と、小さいいながらも家庭菜園が穫れる程度の広さではあった。人影は、裏木戸から庭に入っていった。確かにそのように見えたが、見上げた家の窓のどこにも明かりは見えない。しんと寝静まっているとしか思えなかった。

(変だな)

 正雄は首を傾げた。宗貴が出かけているなら、智寿子が起きて待っているだろう。第一、宗貴が出かけるとも思えない。家の連中はいま、博巳のことで手一杯だ。ご苦労にも枕許に交代で詰めている。

 気のせいだったのか、と思う。暗い夜道のこと、両隣の家に入っていったのを見間違えたのかもしれない。そう思いながら、正雄は裏口に向かう。ドアに手をかけると、さすがに裏口の鍵は開いていた。ドアを開け、家に入ろうとして、正雄は庭のどこかで物音を聞いた。さして多くはない庭木の陰のどこか。枝を揺するような音。

 正雄は動きを止めて振り返った。

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 敏夫が患者から解放されたとき、通夜はとうに終わっている時刻だった。慌てて武藤家に顔を出し、武藤と静子に改めて悔やみを言う。それからその場で小池老を捕まえた。

 息子さんたちの話を聞きたいんだが、というと、小池老は渋い顔をした。それを無理に促し、家に戻る小池に付いていって詳しい話を聞く。出て行ったという家族が具合が悪い様子だったというのは本当か、具体的にはどういう様子だったのか。聞けば聞くほど、小池の息子一家は発症していたのだとしか思えない。

(発症――転居)

 関連性などあるはずがない。なのに明らかな相関関係を描いている。何かがおかしい。あり得ないことが起こっている。

 考え込みつつ家に戻ったときには日付が変わっていた。私室では静信が待っていた。

「来てたのか」と何気なくいい、頷く相手の硬い表情を見て、良からぬ事態が起こったことを悟った。

「……何か言いたいことがありそうだな」

「石田さんに何を言ったんだ?」

 それか、と敏夫はひとりごちた。いつかはバレるだろうと思っていたが、いかにも時期が悪かった。敏夫はすでに手詰まりになっている。調査はほとんど進展していないに等しい。それどころか、正体不明の何かが附帯してきて、混迷の度合いを深めている。それなりの結論や結果があるならともかく、現在のような状態で、石田に口止めしたことを責められれば、敏夫としても返す言葉がない。

「理由を訊こうとは思わない。石田さんとデータを取りまとめて、兼正と会見できるようにしてくれ」

「静信――いいか」

「至急だ」

 敏夫は息を吐く。

「こういう場合、封じ込めしかないんだ。それで疫病の拡大は止められても、村は救われない」

「詭弁だ」

「詭弁? 冗談じゃないぞ。それ以外に、どう打つ手があるというんだ? 外場で疫病らしきものが流行っている。これの正体は分からないが、少なくとも既存の伝染病じゃない。法的な根拠がなければ、行政だって動けないんだ。救済策などとりようがない」

「じゃあ訊くが、その封じ込めは何を根拠に行うというんだ?」

「それは」

「具体的にどうやって封じ込めるというんだ。お前はまさか、町が警察や自衛隊を派遣してきて道路を封鎖するなんてことを言い出すつもりじゃないだろうな?」

 敏夫は痛いところを突かれて押し黙った。

「まったく現実的じゃない。いくら溝辺町がそれを望んでも、そんなことは実行できない。道路を封鎖するのならともかく、そうでなければどうやって村から人が出るのを防ぐというんだ。村外の職場に通っている人間をどうする。高校に通っている人間をどうするんだ。単に買い物に出る人間は? 店に入って店員と接触するのをどうやって止めるんだ。ナチスがユダヤ人にしたように識別票でもつけさせるのか?」

「……たしかに」敏夫は息を吐いた。「おれだって行政がそこまで思い切ったことができると本気で思っているわけじゃない。ただ、連中が保身に走ることは間違いない。外場は疫病の流行地として水面下で封じ込められることになる。有形無形の圧力で」

 静信の答えは低かった。

「疫病の存在が知られれば、外場は忌避され差別されることになる。そんなことは当然のことだし、それは行政が動こうと動くまいと変わらない。必ず起こることで、避けられない」

 敏夫は押し黙った。この一見して温厚な友人が、一線を越えると恐ろしく辛辣になることを敏夫はよく知っている。敏夫自身、かなりのニヒリストであることを自認しているが、静信は時に自分以上のニヒリストではないかと思うことがある。果たして本人は、それに気づいているのだろうか。

「……意味がないんだ。報告を差し止めても起こることは変わらない。報告したからといって、行政が医師団を派遣して外場を助けてくれるとは思えない。病名を特定できないというならなおさらだ。だかといって、積極的に外場が不利益を被ることもない。封じ込めなどあり得ない。そんなことはお前だって分かっているはずだ」

 敏夫は内心で舌打ちをした。そう――分かっている。その通りだ。

 静信は白々とした表情で敏夫を見た。

「封じ込めは言い訳だ。お前だってそんなことは信じてない。お前は状況を自分の支配下に置きたかったんだ」

 敏夫は息を吐いた。

「……おれは余所者に口を挟んで欲しくないんだ」

「そのために情報を握りつぶしたのか」

「そうだ」と、敏夫は静信を見る。「その通りだ。もちろん、封じ込めなんてことは起こらない。だが、律儀に報告書を上げていれば、連中はいずれ異常に気づく。外場で正体不明の疫病だと思われる疾病が蔓延していることを知るんだ。だからといって救済の手を差し伸べてくれるほど、連中が親切なもんか。自分の足許に火が点かなけりゃ何もしないんだ、絶対に。だが、不安にはなるだろう。それがいつ外場を溢れて溝辺町にも蔓延し始めるか分かったものじゃないんだからな。だから煩く口を出す。そうなることは分かり切ってる。

「役所が口を挟み始めると、お前は事態のイニシアチブを取れない」

「その通りだ。三役なんていったところで、非公式の存在でしかないんだ。外場の外にまでは通用しない。役所はおれに事態を任せてくれたりはしないだろう。煩く指図して来るに決まってるんだ。しかもおよそナンセンスなことを言ってくる」

 たとえば、と敏夫は、何度も想像したことを改めて確認した。村を流れる渓流は、溝辺町を貫く尾見川の源流になる。尾見川は溝辺町の水源だ。町がまず考えることは水源を汚染されないことだろう。生活汚水の管理、水質のチェック、目の前の患者救済には大して益もないことのために村は奔走させられることになる。そういうことが無数に起こるに違いなかった。

「連中にとっちゃ、外場救済なんかは二の次だ。自分たちの身の安全が優先、これが外場の外に漏れないことが最優先になるんだ。そのために細々と指図してくる。およそ実効性のない雑用に忙殺されて、肝心の患者をケアする時間も手間も奪われていくんだ」

 しかも、と敏夫は吐き捨てる。

「それが起こるときには、さらに状況は逼迫してるんだ。村の連中を見ろ。最近になってようやく異常に気づいた。村の中にいてさえこうなんだ。村の外の、所詮は対岸でしかない連中が異常を察知するのはいつの話だ? 外の連中が異常を認める頃には、村の中は混乱を極めてにっちもさっちもいかないようになってる。そこにのほほんと、報告書を出せだの、やってきて説明しろだのというナンセンスな指示が割り込んでくるんだ。そのくせ、口は出しても手は出さない。足を引っ張るだけだ。だから伏せたんだ」

 静信の声は冷ややかだった。

「それが正論だと思うなら、なぜ最初からそう言って石田さんを説得しないんだ?」

 敏夫は返答に詰まった。

「町が口を出してくるのは確実だろう。それがおよそ現場の人間にとってはナンセンスな指示になることも分かり切ってる。――それで? それにいちいち対応するのは面倒だから嫌だという駄々と、お前の主張はどう違うんだ?」

「それは」

「面倒なやりとりが必要になるのは確かだろう。だが、いまそれを済ませておくのと、状況がもっと逼迫して、行政の助けを借りなければどうにもならない段階になってからそれをするのと、どちらが本当に患者にとって有益なことなんだ?」

 敏夫は黙り込んで視線を逸らした。

「報告書を纏めてくれ。兼正にはぼくが話しに行く。どう理由をつけようと、お前は自分のすべきことを怠った。しかも意図的に、だ。こんなことは許されない」

 敏夫は息を吐いて項垂れる。

「静信……」

「お前は行政は無能だと責める。だから愚かな対応をするだろう、というわけだ。――違うんじゃないか? お前は無能であって欲しいんだ。愚かな対応をするような連中であって欲しい。そうに違いないと自分を騙すことで、報告を握りつぶす大義名分を捏造しているだけだろう。理由も何もない、お前は自分が状況を支配したいんだ。余所者に口を挟んで欲しくない。横合いからやってきて、自分の取り分を奪っていって欲しくないんだ」

 敏夫は静信の白々とした硬い表情を見た。

「つまりおれは、功名心にかられて石田さんに口止めをしたってわけか? よほど信用されてないんだな」

 静信は冷ややかな表情のまま首を横に振った。

「これはもっと単純なことだ。人間は誰だって自分が世界の中心だという幻想から逃れられないんだ」

「おれは途方もなく我が儘で利己的な人間だと思われてるらしい」

「そうじゃない。どんな人間も当人にとって自分は、この世界で唯一の主体なんだ。自分以外のものは全て認識の客体に過ぎないから、自分が唯一の中心点だという幻想から逃れられない。自分こそが中心点だと主張する有象無象の一例でしかないことを受容できないんだ。だから事態に巻き込まれ、単なる端役に成り下がることを拒む」

 それがお前の人間観か、と敏夫は問いたい気がしたが、声にはならなかった。静信はその内面に敏夫にも理解できない空洞を飼っている。時として現れる辛辣さ、人間や社会に対する途方もなくペシミスティックな態度は、そこから表出するものではないかと思うが、確信はない。それこそがかつて、この一見して何の問題もなさそうに見える友人が、死を選ぼうとした理由ではないかと思えたが、これについては本人に向かって訊いたことがなかった。敏夫はそれを話題にしたことがない。

「……悪かったよ」

 敏夫は軽く息を吐いて手を挙げた。

「お前の言う通りなのかもしれん。別に自分がヒーローになりたかったわけじゃないが、余所者が入ってきて指図されるしかない立場になるのが嫌だったのは確かだ。おれがこの事態を何とかするんだ、という気があったことも否定しない」敏夫は自嘲した。「正直言って、おれは事態を舐めてた。調べれば、それなりに原因が見えてくるはずだし、対処方法も分かるはずだと思ってた。だからおれにもなんとかできると思ってたんだ。だが、これはそれほど簡単なことじゃない。――さっき、小池さんに会ってきた」

「小池の昌治さん?」

 敏夫は頷き、広沢豊子が発症したこと、敏夫が念を押し、豊子も通院していたにもかかわらず、転居したことを告げた。前原セツもそうだった。転居者と疫病の間には、あるはずのない関連性がある。

「おれには手に負えないんじゃないかという気がしていたんだ。おれひとりでなんとかできると思い上がるのは危険すぎる、という気がしている。……武藤さんのこともあるしな」

 静信は頷いた。

「潔く非を認めるよ。至急、石田さんと相談して報告書を書いてもらう。それを持って兼正に状況を説明に行く。早急にだ。――それでいいか?」

 静信は頷いた。そうしてようやく、我に返ったように、困惑したふうな表情を浮かべる。

「ずいぶんな言い方をしたな」恥じ入ったように言う。「敏夫が最善を尽くしていることは分かっているんだ。……悪かった」

 敏夫は苦笑して見せたが、同時に背筋が冷える思いもしていた。内部に空洞を飼っていながら、こうして詫びる幼なじみの心根が、敏夫には今も理解できない。

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