小さく傾いた扉が動く音がして、静信は自分がそれを待ちわびていたことを知る。
「こんばんは」と笑うその幼い顔を、静信はしげしげと見た。
「……どうしたの?」
いや、と静信は首を振る。娘ほどの年頃の少女に、今や自分が精神的に依存しているのを自覚して複雑な気分がした。
「また落ち込んでるのね。今度は何があったの?」
「敏夫と……ちょっと」
「喧嘩したの? 世話のやける人ね」
沙子は言って笑う。そうだね、と静信は苦笑した。
「また尾崎先生に当たられちゃったの?」
「少し違う」
苦笑して、静信は空洞の祭壇を見る。少し迷って、かいつまんで事情を語った。
「分かっているんだ。敏夫はぼくではない。敏夫は敏夫なりに良かれと思って行動しているのだし、それが自分にとっての最善ではないからといって、ぼくには敏夫を責める権利はないんだ。……けれども」
その先の言葉を、静信は見失った。
「腹が立つ?」
「ノーというのは正直じゃないな。そう、腹が立つんだよ。どうしてそんなことをするんだ、と思う。自分に怒る権利がないことは分かってる。けれども無視できない。結果として相手を責めて、責めた自分に嫌気がさすんだ……」
実際のところ、と静信は視線を自分の掌に向けた。
「敏夫のほうが普通なんだと思う。そうだね、ぼくは確かに君の言うとおり、センチなんだよ。敏夫はぼくを理想主義者だという。その通りなんだと思う。ぼくのほうが特異なんだ。敏夫のほうが当たり前で。どちらがマジョリティだと問われれば、敏夫のほうがマジョリティなん゛し、その立場に立てば、ぼくの言うことは潔癖すぎるし青臭いんだろう。だから本当に、ぼくには敏夫を責める権利はないんだ。なのに責めてしまうんだよ」
「それで落ち込むとここに来るのね」
静信は首を傾げた。
「室井さんは殉教者になりたいんでしょう?」
「ぼくが?」
「そう。神様に殉じて自分を捧げてしまえるような、そういう人間になりたいんだわ。けれども神様の姿が見えない。……なぜなら自分は神様に見放されているから」
静信は苦笑して首を横に振った。
「そう? でも、わたしにはそんなふうに見えるけど。室井さんは本当にロマンチストなのね。絶対的な正義ってもの、理想ってものを貫きたがってるみたい。――絶対的な正義とか理想って、神様の別名よね?」
「ああ……そう。そうだね」
沙子は頷く。
「室井さんは神様に忠実でありたいのね。村で疫病が流行ってる。神様の意志に従うなら、その蔓延を食い止めて、村の人たちを助けることが正しいことよ。だから室井さんは、そうしようと努力する。村の人たちを助けたいのは尾崎先生も同じだわ。でも、尾崎先生は室井さんほどロマンチストじゃない」
静信は黙って沙子の顔を見守った。
「尾崎先生だけじゃない、全ての人が、と言ってもいいんだと思うけど。誰だってそこに疫病が蔓延してれば、食い止めなきゃ、と思うわよね? けれども中には、目的のためには手段を選ばない人もいるし、それが正義だと分かっていても自己保身や臆病から行動できない人もいる。自分の安全を守りたい、だったら、疫病対策なんて自分が安全でいられる範囲内のことよ。それ以上はできないの。別の人にとっては、自分の存在意義を貫きたい、そういうことかもしれない。だったら自分の意地や矜恃のほうが優先なの。疫病対策はそれに抵触しない範囲内。そうやって優先順位をつけていく。
けれども、室井さんは唯一絶対の神様に奉仕したい。絶対的な正義に対して忠実でないと我慢できないんだわ。神様より優先される何かがあっちゃいけないの。――でも、自分ひとりしか信奉してない神様の絶対性ってどこにあるの?」
「ああ……」静信は顔を両手に埋めた。「その通りだ」
「室井さんは神様を信じているのよね。それに奉仕したいと思ってる。殉じられるほど忠実でいたいんだわ。けれども誰も、室井さんの信じる神様を信じてない。それを確認するたびに、室井さんは実は神様なんていなくて、それは単に自分が固執してる価値観でしかない――誰もが持ってる多様な価値観のひとつでしかないことを悟るんだわ。それは神様じゃない。室井さんはそのたびに神様を見失ってしまう」
沙子は軽く笑った。
「だから室井さんは落ち込むとここに来るのね。ここを建てた誰かさんに共鳴するんだわ。神様を信じたい、それに殉じたい、なのに神様が見つからない。あの祭壇と一緒」
静信は祭壇を見上げた。掲げられるべき神を持たない空洞の祭壇。
「そこに神様を据えるべきだって分かってるのに、どういう神様を据えればいいのか分からないんだわ。自分の思い描く神様は、理念としては理想的だけど、自分だけのものだから神の名に値しない。かといって、世の中の人が指し示す何かは、大勢の人の信仰を集めているけど、理念としては不純で、やっぱり神の名に値しないように見える」
「……そうだね」
「神様の|僕《しもべ》なのに、その神様は室井さんの前に姿を現してくれない。だから室井さんは自分が神様に見捨てられているように感じるんだわ」
静信は頷いた。
「……そうかもしれない」
沙子は首を傾げた。
「これを訊くのは酷いかしら。子供の無邪気な残酷さってことで許してもらえると嬉しいんだけど。――だから室井さんは死にたかったの?」
「だから?」
「この世のどこにも神様がいないから。自分の前には姿を現してくれないから」
いや、と静信は首を振った。
「そうじゃないと思うよ」
「思う?」
「うん。……ぼくには分からない。実を言うと、ぼくも動機を知らないんだ」
「まさか」
本当に、と静信は苦笑した。
「ぼくがとても理想主義者で、そしてその理想が、自分だけの理想でしかないことにしばしば喘いでしまうのは確かだと思う。そういう自分の有様をこの聖堂に重ねて見てるのも確かだろうね」
けれども、と静信は祭壇を見上げる。
「実を言うと、ぼくは絶対的な何かなんて信じていない。あればいいとは思うけれども、ないんだってことを分かってるんだ。ひとつの価値観が絶対的であるなんてことは、そのように統制された結果としてしか生じないことだと思うんだよ。そして統制の結果、絶対的な地位に祭り上げられた理想なんて、理想を語る値打ちがない。ぼくは君が考える以上に理想主義者なんだ」
沙子は呆れたように静信を見つめた。
「そのようね」
「だから、そんなことじゃないんだ。こんな、簡単に理屈にしてしまえるような、言葉で表現できるようなことが原因じゃない……」
それはもっと深いところからやってきた。知識や理屈や言語を司る部位などとは別の、まったく異質な部分から唐突に浮上し、静信を突き動かした。衝動、としか呼びようのない、それ。
「自分でも不思議に思う。……ぼくはいったい、あのとき何を考えたんだろうね」
[#改段]
[#ここから3字下げ]
十章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
1
[#ここで字下げ終わり]
夏野は暗闇の中に横たわっていた。ステレオのパネルの明かりだけが光源で、小さな音量でAMのラジオがなっていたが、すぐにそれが疎ましくなって消した。後に残ったのは無音だった。微かな素子の明かりと、無音。
夏野はそこから「死」をイメージしようとしてみたが、上手くいかなかった。
徹は今日――いや、もう昨日だ――の午後、山の中に埋葬されてしまった。もうこの世のどこにもいない。
永遠の停止。少なくとも、どんなに暗くてもどんなに音がなくても、他のいかなる感覚が遠くても、「死」はこうやっているのとは、全く別物だろう。これが死だ、という認識さえも失われる。認識の主体である自己が消え去ってしまったら、あとには何が残るのだろう。自分以外の全てがそこに残っても、それを夏野はもはや知覚することができない。それは夏野にとって、世界のほうが消失することに等しいはずだが、世界を失ったと認識する夏野自身もそこにいない。そういう虚無。虚無と認識されることもない全き無。
徹はそこに行ってしまったのだし、夏野もいずれはそこに行く。両親も保も葵も、全ての人間がそこに向かって突き進んでいる。自己と世界の全てを喪失する破滅に向かって。
怖いとは思わなかった。ただひたすら不思議だった。想像することさえできない無というものが、明らかに存在することが不可解だ。確実に存在するのに、誰もそれに手を触れることができない。触れた瞬間、それを知覚することは不可能になる。
自分がいなくなる。「いる」と感じる自分自身でさえ存在しなくなる。それは消え去るというよりも、永遠に凍結され停止されるのにイメージとしては近い気がした。
いずれにしても、と夏野は思う。徹は行ってしまった。村を出た。それを望んでいたのは自分だったはずなのに。夏野は置いて行かれてしまった。
続く死者。恵、徹。他にもいる。村のあちこちで何度も葬式を見たように思う。そして転居。どこかの誰かが逃げたとか引越したとか。徹だって訝しんでいた。今年は変だ、と。変だと言われるほど多くの人間が村を出て行って、なのに夏野はまだ村に囚われている。
そっと溜息をついて、夏野はそれで微かな物音に気づいた。それは捲れ上がった布が、はたりと落ちる音に似ていた。何気なく音の出所とおぼしき方向を見ると、枕許に近いカーテンが揺れていた。それは風に揺れるというふうではない、まるで誰かがカーテンを捲り上げてみて手を放した、それが今も揺れているというふうに見えた。
夏野はなんとなくその動きを見守る。カーテンはすぐに静まり、風に揺れるでもなく無表情に垂れている。
気のせいだったろうか、と思う。音を聞いたのも、揺れているのを見たと思ったのも。窓の外で微かに物音がした気がした。それはあるいは、夏野自身が起こしたベッドの軋みだったのかもしれない。意外に夜にも物音はするものだ。
夏野はじっとカーテンを見守る。窓を開けていただろうか。――開けていたと思う。部屋に戻ってから窓を開けて、閉めた覚えがない。
カーテンは動かない。物音ももうしない。全てが気のせいだと言わんばかりで、それで逆に、夏野は確かに誰かがカーテンを動かしたのだ、という確信を抱いた。誰かがカーテンを捲り、そして窓の外で物音を立てた。
夏野は起き上がり、そしてカーテンの端を捲ってみる。ちょうど窓の外がわずかに覗けるほど捲って手を放すと、さっき聞いたのとまったく同じ音がした。
やはり、これだ。夏野は窓辺により、少しだけカーテンを開けてみる。窓ガラスは部屋の暗い光に黒い鏡のよう、陰鬱に陰影のついた自分の姿が映っている。さらにカーテンを開くと、十センチほど開いた窓の雨戸越し、艶のない闇が覗いていた。付近には何の物音もない。
夏野は窓ガラスに額を寄せる。室内の光が身体の陰になって遮られたが、やはり何も見えなかった。おぼろに闇の濃淡で、裏庭の空洞じみた横に長い広がりと、その向こうの林、茂みが見える。すぐ近くにこんもりと盛り上がっているのは木苺の茂みだ。それが揺れている。付近の下生えも林の梢も動いていない。ただ柔な枝を伸ばした木苺だけが身震いするように動いていて、それもすぐに静まった。まるでさっきのカーテンのように。
その動きを見守っているうち、そうやって闇を見つめている自分を誰かが見ている、という感覚を得た。視線を感じる。自分を見ている誰かの気配が、そう遠くないところにある。
目を凝らしてみても、闇の濃淡以外、何も見えなかった。ほんの一メートルほど離れた林の中に、誰かが潜んでいたとしても、夏野には見えないだろう。あまりに窓の外には明かりがなさすぎる。
視線は断ち切られることなく、注がれている。確かに誰かが、夏野を見ている。
しかし、誰が?
真っ先に浮かんだのは、同じ歳の少女の|俤《おもかげ》だが、これはあまりにリアリティを欠いていた。すでに夏野は恵がいないことを承知している。恵の机は未だ教室に残されていたが、最近では花が飾られることもない。最初は恵がいた位置に他人を拒むようにして残っていた空席は、席替えのたびに目立たない辺りに移動して、今では本当に視野の中に入らない隅の最後列に弾き出されてしまっている。それは、恵の存在をこの世から抹消していく手続きの一環だった。確かな現実性をもって、恵の死亡をこの世に刻みつけ、そうして刻まれたそれは、もはや摩耗していこうとしている。
いまや、恵が存在しないことは、夏野にとって、自分が存在することと同等に自明のことだった。だから、自分を見ている誰かが恵のはずはない。
「……徹ちゃん?」
声にならないほどの声で、零れ出たのはそれだった。死者が別れを言いに生者を訪れるという。あまりによくある怪談話。ひょっとしたらそれだろうか。そんなことはあり得ないと思いつつも、それは妙にリアリティを伴っている。
だったら、どんなにいいだろう。別れを言いに訪れることができるなら、徹の意思と、意志に従って行為をなすほどの何かが、抜け殻が埋葬されてしまった今も、どこかに残っているのなら。
闇に目を凝らしたが、やはり何も見えなかった。もう物音もしない。木苺の茂みも動かない。そうしている間に、視線も感じられなくなっている。
徹かもしれない何かは立ち去ってしまった。――そんな気が、夏野にはした。
[#ここから5字下げ]
2
[#ここで字下げ終わり]
十月五日、敏夫のもとにまた訃報が届いた。外場の村迫博巳が死亡した。わずか九歳の子供は決着が早かった。
昼には石田から連絡があった。明日には、頼んでおいた報告書のとりまとめが終わるという。
「悪かったな、急に」
いえ、と石田は妙に安堵したような声音で答えた。
「おれか静信が兼正に連絡を取って」敏夫は言いかけて、控え室に顔を覗かせた汐見雪に頷く。「いま、行く。ちょっと待ってもらってくれ」
石田の声に、敏夫は苦笑した。
「どうもうちの午前の診療時間は、二時、三時までになったようだ」
「そりゃあ、お手を取らせて済みません。なんでも土日にも診察をしてるんですって?」
「幸い、うちのスタッフは理解があってね。なんだが、今日はレントゲンの担当が欠勤なんで天手古舞いだ」敏夫は笑って、「とにかく、できるだけ早い時期に会えるようセッティングをする。そうだな――明日、書類ができたらもういちど連絡をくれるか? あまり先走っても何だし、それを聞いてから兼正に連絡をしてみよう」
「分かりました。じゃあ、終わったら連絡をします。先生に?」
「おれは急患出ているかもしれないから、静信のほうに連絡してもらったほうがいいだろう」
石田は了解して電話を切った。敏夫はTVX線室に急ぐ。途中で物療室から患者を送り出している清美に会った。
「永田さん、下山さんは?」
「お大事に」清美は患者を押し出してと敏夫を振り返り、声を低める。「ひれがまだ連絡がないんです」
「おかしいな。あの人は無断欠勤は、したことがないんだが」
レントゲン技師の下山が出てこない。今に至るも連絡がなかった。
「連絡してみましょうか」
清美は表情を曇らせる。武藤の例があるからだ。
「してみてくれ。ひょっとしたら、疲れ果てて寝てるのかもしれないが」
清美は頷き、廊下を急ぐ敏夫を見送った。それから事務室に向かう。そこから下山の家に電話をした。
下山は溝辺町の外れにできた住宅地に住んでいる。病院までは車で三十分ほどだ。
コール三回で下山の妻が出た。名乗って事情を伝えると、彼女は、まあ、と声を上げる。
「済みません。自分で電話するって言ったのに、してなかったんですか?」
「ええ」
「ちょっと待ってくださいね」
無理に変わらなくても、と言おうとしたが、間に合わなかった。ややあって、下山が電話口に出た。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ああ……永田さんか」
下山の声は低かった。
「みんな心配してるのよ。どうしたの、具合でも」
清美が全部を言う前に、下山が口を挟んだ。
「辞めます」
え、と清美は言葉に詰まった。
「いま、何て言ったの?」
「仕事を辞めます。先生にそう伝えといてください」
清美はぽかんと口を開けた。
「下山さん……そんな」
事務机に向かっていた十和田が、怪訝そうに顔を上げた。
「勘弁してください。女房と子供がいるんです。家のローンだって残ってる」
清美は口を開きかけ、けっきょく噤んだ。
「そう……。でも、先生に直接、話をしたほうがいいと思うけど。それも嫌?」
下山は、勘弁してください、ともう一度言って電話を切った。
清美は深い溜息をつく。十和田がどうしたんですか、と訊いてきた。
「辞めるんだって。……下山さん」
そんな、と十和田も言ったが、すぐに視線を書類の上に落とす。
「……そうですか」
清美はなんとなく頷き、診察室を覗き込む。敏夫はまだTVX線室から戻っていない。隣の処置室でやすよと雪が、次の患者のために器具を消毒していた。
「先生、まだ?」
「まだです」雪は笑う。「下山さん、いないと、ペース狂っちゃいますね」
「辞めるんだってさ」
やすよも雪も、弾かれたように顔を上げた。雪が、そんな、と声を上げて、やすよがそれを制す。壁の向こうにある中待合のほうへ目配せをして、内緒話に誘うように、手招きをした。
「辞めるって……」
「勘弁してくれ、って言われちゃったわ。先生にそう伝えてくれって」
「どうしてえ?」雪は子供のような声を上げる。慌てて自分で口を塞ぎ、声のトーンを落とした。「だって、こないだだって下山さん、外場に越してこようかって言ってたのに」
「武藤さんとこの件が堪えたんでしょ」
言ったのは、やすよだった。
「でも」
「下山さんには奥さんも子供もいるんだからね。子供だって小さいし、家だって去年、建てたばかりでしょ。ローンだってあるだろうし」
清美は頷く。
「そう言ってたわ」
「実際、それとなく覚悟してたとはいえ、武藤さんとこから死人が出ると、堪えちゃうわよねむ言って、やすよはさらに声を低める。「武藤さんだって悔やんでたもの。自分が持ち帰ったんじゃないか、って」
「そうね……」
「武藤さんとこのお葬式に行って、目の当たりにしちゃったから考えちゃったんでしょ。こればっかりは、下山さんを責めるわけにはいかないわ。あの人は外場の人ってわけでもないし」
「そんなの、関係ないですよ」憤然と雪は口を挟んだ。「気持ちは分かるけど、なんか……こう……」
やすよは肩を竦める。
「もっとやり方がありそうな気はするけどね。せめて先生に相談して、みんなに一言、詫びるとかさ」
「そう、それですよ」
「でも、もう外場に足を踏み入れるのが怖いんでしょ。そんなもんだと思うわよ。そのうち、溝辺町の人たちも気が付いて、それこそ学校とか職場でさ、外場の連中とは関わり合いになるなとか、そういう話になっていくのよ」
清美は溜息をついた。
「いかにもありそうな話よね」
呟いたところに、敏夫が診察室に戻ってきた。敏夫に下山の件を伝えると、敏夫も、敏夫に従って戻ってきた律子も軽く息を呑んだ。しかしながら、律子は何も言わなかったし、敏夫も「そうか」と言っただけだった。
「十和田くんに言って手続きをしてもらってくれ。武藤さんもまだ忌引きだし、こんな時なんで急がなくていい。下山さんには悪いが、そのくらいは辛抱してもらおう」
清美は頷いた。急に、ひどく心細く、同時に恐ろしく感じられた。
自分たちはどうなるのだろう、――これから。
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
村迫米穀店の前には、見慣れた提灯が出ていた。それを見た途端、武藤葵は泣きそうな気分になった。抹香の匂い、人のざわめき、夜には似つかわしくない賑々しさ。どれも経験したばかりだ。やっと終わったところなのに。葵は繰り返す悪夢の中に迷い込んだような気がした。
立ち竦んだ葵を、弟の保が促した。
「……行こう」
うん、と葵は頷く。そろそろと店に近づき、中を覗き込んだ。店の中の棚は壁に寄せられ、それを鯨幕が覆っている。奥の戸は外されて、住居が真通しに見えた。上がってすぐのところに村迫宗貴が坐っている。
葵は数珠を握りしめて、宗貴に近づいた。そっと声をかけると、泣き腫らしたふうの赤い目が葵を振り仰ぐ。
「……ああ、武藤さんとこの」
葵は頭を下げた。
「このたびは、御愁傷様です」
「どうも御丁寧に。――武藤さんのところも、お兄さんが亡くなったんだって?」
はい、と葵は頷いた。
「そりゃあ大変だったね。もう落ち着いたかい?」葵は苦労して微笑んだ。「宗貴さんのところも、大変でしたね。その……お辛いでしょう?」
うん、と宗貴は頷いた。
「まだ小さかったからね。別に大きかったから構わないってわけじゃないんだけど、どうしても不憫な感じがしてね」
「分かります」
「でも、ひょっとしたら、まだろくに物心もついてないようなものだし、今のうちのほうが良かったのかもしれないね。仕事を持って、それこそ彼女でもいたらさ、そのほうが可哀想なのかも」
そんなことは、と言いかけて、葵は嗚咽に言葉をとぎらせた。残された者にとっては、子供だろうと大人だろうと関係ない。家族が死んだという意味では同じだ。
保が「姉さん」と、軽く小突いた。葵は頷き、懸命に涙を拭う。
「済みません。お悔やみを言いに来たのに」
「いいんだよ。こっこそお悔やみを言うよ。本当に残念だったね」
はい、と葵は頷いた。
「あの……正雄くんは?」
宗貴は複雑そうに顔を歪めて笑った。
「二階。しんどいとか言ってね、降りてこないんだよ、部屋に籠もったまま」
「そんな……お通夜なのに?」
宗貴は苦笑する。
「あいつは博巳のことが気に入らなかったんだよ。家の人間の関心が、博巳に向いてしまったのが面白くなったんだろう」
「そんな……」
「死んでも顔色ひとつ変えなかったからね」と、宗貴はどこか不快なものを呑み下すような表情をした。「そう、でおしまいだよ。まったく他人事の顔してる。降りてこいって言っても、関係ないってさ」
そういう奴なんだ、と宗貴の声は吐き出す調子だった。
「……あたし、兄が死んで動転してて、お通夜のとき正雄くんに酷いこと言っちゃったんです。それてお詫びしないとと思って」
「先に正雄が失礼なことをしたんでしょう。こちらこそお詫びしなくちゃな」
「どてんもないです」
「正雄は降りてこないよ。二階の部屋にいるから。悪いけど、勝手に行ってくれるかな」
葵は頷き、保を促した。
弔問客の間を縫って、二階へと上がる。正雄の部屋は保が知っていた。保はドアを開けようとしたが、鍵がかかっているらしく開かない。改めてドアをノックした。
「おい、正雄」保が呼びかけたが、部屋の中から返答はない。「いるんだろ? おい」
「正雄くん、葵です。お願い、開けて」
しばらく中からは何の気配もなかった。何度かノックを繰り返し、呼びかけると、やっと中で身動きする気配がしてドアが僅かに開いた。部屋の中は暗い。まるで隙間から外の様子を窺うようにして、正雄が顔をわずかにのぞかせた。
「あの……ええと、御愁傷様です」
葵が言うと、正雄は視線を逸らす。
「おれ、関係ねえから」
そんな、と言いかけ、葵は言葉を呑み込んだ。今夜は詫びに来たのだ。責めるようなことを言うべきじゃない。
「その、この間は御免ね。あたし、酷いことを言ったと思う」
べつに、と正雄は掠れた声で言った。
「御免な。ちょっとおれたち、動転してて」
「……そう」
正雄は低く言って、ドアを閉めた。かちりと中で鍵を下ろした音がする。
「――正雄」
保がドアを叩く。葵も呼びかけたが、もはや部屋の中からは何の応答もなかった。
しばらくドアの前で声をかけていたが、
保が溜息をついたのを合図に、葵もノックする手を止めた。ひどく泣きたかった。
保がそっと促して、仕方なく踵を返した。また改めて謝ろう、と思いながら。
正雄はしばらくドアの脇にもたれ、廊下の物音を窺っていた。
軽い足音が廊下を遠ざかり、下に降りていくのを聞いてドアを離れ、ベッドによろめき寄る。足に力が入らず、腰が抜けたように坐る破目になった。勢い余って倒れ、後頭部を壁にぶつけたが、正雄は特に反応をしなかった。虚ろに目を開いて天井を見ている。その目には憑かれた色がある。結膜が異様に青味を帯びていた。顔は白く、唇にも色がない。その唇を、正雄は同じく色味を失った舌で舐めた。異様に喉が乾いている。水が欲しかったが、動くのは億劫だった。
「……水」
呟いた声は、ドアの外までは届かなかった。
正雄は天井を見つめたまま、水、ともう一度、呟いた。
[#ここから5字下げ]
4
[#ここで字下げ終わり]
窓の外で、また人の気配がした。
夏野は机を離れ、カーテンを少し開けてみる。なんとなく窓は閉めている。だから窓から見えるのはガラスに映った自分の姿だけだった。
ぱたりと部屋の中で音がして、振り返るとスタンドの明かりの中、机の上に開いておいた英語の辞書が閉じたところだった。――そう、何かが動かなければ音は生じない。
気配、というものを、正確にはなんと言えばいいのか、夏野には分からない。それは呼吸音、衣擦れの音、あるいは身動きにまつわる小さな音の集合なのかもしれないし、聴覚ではなく臭覚に訴える者なのかもしれない。別にオカルトじみたものでも、超常的なものでもないと思う。「これ」だと指摘できないほど些細な、意識に引っかからないほど微細な何かが気配として察知されるのではないかという気がしていた。
(……視線)
そう、気配はそのように解釈することができても、視線はどう解釈していいのか分からない。確かに誰かに見られている、という気がすることがあり、振り返ると実際に誰かの視線に出会うことがある。経験的に、視線は察知できるものだという気がしているが、なぜ察知できるのかは分からなかった。けれども確かに、あると思う。そして今も、それを感じる。
誰かが見ている。おそらくは窓の外、林の下にわだかまった闇の中から。
(……でも、誰が?)
徹ではない、という気がした。もしも徹が別れを言いに来られるものだとして、だとしたら、今、夏野を見ている誰かは徹ではない。別れを一度だけ言いに来るのは徹らしい振る舞いのような気がした。けれども再度、訪ねてくるのは徹らしくない。いつまでも未練がましくやってくるのは、徹に全くそぐわない。
(だったら、誰だ?)
ふっと浮かんだのは、やはり恵のことだった。一度なら恵ではない。けれども二度以上続けば恵だという気がする。恵本人ではなくても、恵のような誰かだ。
窓に顔をつけてみたが、やはり闇の中に人影は見えなかった。窓を離れ、カーテンを閉じて息をつく。視線のような何かが途切れたのを感じた。その安堵感が、かつて恵に感じていたものにひどく似ていた。
(けれど、清水は死んだ……)
徹もいないのだし、恵いない。訪ねてこられるはずがない。
机に戻り、なんとなく雑然としてたものを放り込んでいる箱を見た。地所の箱田。それを書類差し代わりに本の間に立ててある。
夏野はその中から一枚の葉書を取った。捨てようと思いながら、なんとなくここに入れておいた。
[#ここから2字下げ]
結城 夏野 様
[#ここで字下げ終わり]
宛名の、無邪気な気取りを感じさせる文字。時季外れの残暑見舞い。届くはずのないものが夏野の手に届いた。
夏野はそれを見つめ、ゴミ箱に放り込もうとして、なんとなくやめた。もとの箱の中にぞんざいに戻す。取っておきたい意思があるわけではない。あえて捨てようという意思がないだけのことだ。
耳を澄まし、息を吐いて、夏野は閉じてしまった辞書をもういちど開く。まだ今日の予定を消化できていない。これは夏野にとって「勉強」という行為ではなく、村を出て行くために支払わねばならない「代価」だ。やらなければ、それだけ望みが遠のく。
窓の外のことは意識から閉め出して、夏野は辞書を引き始めた。
[#ここから5字下げ]
5
[#ここで字下げ終わり]
十月六日の午後、結城がクレオールに行くと、準備中の札が下がっていた。宛が外れた気分で踵を返し、なんとなく家に戻る気にはなれなくて、仕方なく近所をぶらぶらと歩いた。あたりを一まわりして再度クレオールの前を通りかかると、準備中の札が外されている。おや、と思いながらドアを押すと開いた。
「いらっしゃい」
長谷川がカウンターの中から笑う。
「ついさっき来たら準備中だったんですよ。てっきり今日は休みなのかと思った」
ああ、と長谷川は苦笑した。
「そりゃあ、失礼しまたね。ちょっと出てたもんで。葬式だったんですよ」
「――葬式」
「ええ。商店街の中に米屋があるでしょう。あそこの子供が死んだんですよ。わたしも個人的に親しいわけじゃないんですけどね、いちおう商店街の寄合で付き合いがあるんで、お悔やみに」
またか、と結城は思う。少し俯き、考え込んだ。
「どうしました?」
「いや――これは絶対におかしい。また、としか言い様がないでしょう。武藤さんのところの息子さんも亡くなったばかりですよ。こんなに人が死ぬなんてどうかしてる。そう思われませんか」
「それは……」長谷川は目に見えて狼狽した。「確かにそうかもしれませんが」
「田舎ではこんなものだ、というなしは聞きました。そうなのかもしれないと思う。けれども、それも死者がこの半数ならの話です。これはどういう常識に照らしてもおかしいと思う」
結城は言って、長谷川の顔を見た。
「伝染病なんじゃないでしょうか」
長谷川は言葉に窮したように黙り込んだ。俯いたその顔色で、長谷川もそれを疑っているのだ、と結城は悟る。
「でも……役場からも何も言ってきませんし……」
「伏せている、ということは考えられませんか。それこそ村がパニックになるのを恐れてのことだとは」
「……そうかもしれません」
店の中には結城と長谷川だけ、そこに妙に明るくピアノの音が響いていた。黙りこくったままでいると、店のドアが開いた。入ってきた田代は店の中の妙な空気に気づいたのか、結城と長谷川を見比べた。
「どう――したんです?」
結城は同じ指摘を繰り返した。田代もやはりそれを疑っていたのだと、その表情を見て分かった。誰もがおかしいと思っているのだ。それを口に出せないでいた。
「確認したほうが良くはないでしょうか」
結城の声に、田代はしばらく考え込む。結城は言い添えた。
「もちろん、収拾がつかなくなることを心配して、伏せてあるのかもしれません。だったらそれでもいい、わたしも協力します。ですが、このまま黙ってはいられない。明らかにおかしいと分かっているのに、確認しないで不安なままでいるなんてことは、わたしにはできません」
「そうだねえ」と、田代は沈痛な表情で頷いた。「そのほうがいいだろうね」
尾崎医院に電話をしたのは田代だった。敏夫を呼び、少し話をしたいことがある、と切り出す。敏夫はそれで話の内容を予想したようだった。低く、分かった、とだけ答え、その内容については問わなかった。今からクレオールに来る、という。午後の診察が始まるまでに戻らなければならないが、それでいいかと問うので、田代は了承した。長谷川は表に出準備中の札を再び下げた。
敏夫は本当に、いくらも経たないうちにやってきた。結城も病院で、あるいはここで、何度かあったことがあるから初対面ではない。敏夫は入ってくるなり、ごく何気ない調子で長谷川にコーヒーを注文し、カウンターに腰を下ろして煙草に火を点けた。
口火を切ったのは田代だった。この中では最も敏夫と付き合いが長い。
「その……村迫の博巳くんが死んだろう」
ああ、と敏夫は悪びれた様子もなく頷いたが、どこか緊張感が漂っていた。
「武藤さんとこの長男も死んだ。なんだかね、死人が続きすぎるような気がするんだよ」
「それで?」
「ここで話をしてたんだが――伝染病ってことはないのかな」
敏夫は煙を吐きながら田代をじっと見つめる。田代は慌てて言い添えた。
「いや、もしも事情があって伏せているんだったら、おれたちも協力する。ここだけの話でいいから、もしもそうならそう言ってもらえないかな。どうも変な気がして、なんだかもう、釈然としなくて――」
敏夫は煙草を揉み消し、軽く息を吐いた。
「伝染病じゃない。少なくともこれまでの死者で、伝染病で死んだ者は一人もいない」
「――本当に?」
「医師免許を賭けてもいい。全くのシロだ。少なくともおれが診た限り、伝染病に罹っていた患者はいない」
割って入ったのは、結城だった。
「じゃあ、これだけの死者が続いたのは偶然ですか?」
「偶然にしちゃ続きすぎてることは認める」