饭饭TXT > 海外名作 > 《爱人(日文版)》作者:[日]渡边淳一【完结】 > 爱人.txt

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作者:日-渡边淳一 当前章节:15437 字 更新时间:2026-6-15 15:59

 今夜受けた暴力は、どちらに働くのか。ベッドに打ちのめされ、強引に奪われたあとも、修子はまだ自分で自分がわからない。

 ただ一つはっきりしていることは、いきなり頬を打たれて、やみくもに奪われたという事実だけである。途中、体のほうから馴染みはしたが、それはごくわずかで、やはり一方的に奪われたという印象は強い。

 逡巡している修子に気が付いたように、遠野が耳元で囁く。

「好きだぞ……」

 くすぐったさを交えて、その声はいましがた狼藉《ろうぜき》を働いた男の声とは思えぬほど、優しさに満ちている。

「もう、離さない、絶対に……」

 途中から、遠野の声はかき口説く女の声のように弱々しい。

 いつもなら、これほどの優しさを与えられたら、修子のほうから自然に寄り添っていくはずである。だが今夜の修子は相変らず仰向けの姿勢のまま無言である。体はともかく、心は男の優しさを受け入れるほどほぐれてはいない。

「おい……」

 返事のないのに苛立ったのか、遠野は横向きになって再び修子を抱き寄せる。

「愛しているんだ」

「………」

「誰よりも、お前を一番……」

 修子はそれをききながら、一番がいるのなら、二番、三番もいるのかと考え、すぐその自分の冷ややかさに気がついて驚く。

「わかったろう」

 返事のない修子にかわって、遠野は自分でうなずいている。

「寒くないか?」

 さきほどの暴力に、遠野は後悔しているようである。少しやり過ぎたと思って照れているのかもしれない。やがて遠野の唇が近づき、軽く横向きの修子の耳元に触れる。いつもは感じる心地よさが、今夜はまだくすぐったさのままとどまっている。

「風邪をひく……」

 遠野がシーツを引き寄せ、裸の肩口にかけてくれるが、修子の頭はすでに醒めている。

 何時なのか、部屋に帰ってきたのが六時半で、遠野が駆けつけてきたのが八時過ぎだから、もう九時は過ぎているかもしれない。

 遠くで雷鳴のような音がし、近くでベランダを閉める音がする。

 引越しが終るころから雨雲が広がっていたから、雨になったのかもしれない。

 淡い闇のなかで、修子はゆっくりとあたりを見廻した。

 ベッドの足元にブラウスとスカートが重なり合い、枕元にブラジャーが散っている。修子が身につけているのはスリップだけで、それも右の肩紐がはずれ、お腹のあたりでひとかたまりになっている。

 修子は急に恥ずかしさを覚えて上体を起こした。

「起きるのか?」

「………」

「お腹が減った?」

 男が無理矢理犯したあと、女は裸のままで横たわっている。その女に空腹か、ときくのは少し滑稽ではないか。だが遠野はその滑稽さに気が付いていないようである。

「寿司屋なら、まだやっている」

 たしかにこのままベッドにいるより、起きて外へ出かけたほうがすっきりするかもしれない。

 修子はブラジャーを手にすると、まわりに散った衣類を集めた。

「十分くらいで、準備はできるだろう」

 遠野はもう出かけると決めたようである。

 修子はバスルームに行って鏡を見た。抱かれる前に打たれた頬に痛みはないが、軽く火照《ほて》っている。他に首や肩などを強く締めつけられたが、とくに傷はない。右の手首と左の膝の内側が少し痛いが、たいしたことはなさそうである。

 外見で見るかぎり争ったあとはないが、体の奥や心には争いの余韻が残っている。

 改めて髪を直し、ルージュを引いていると、遠野が覗きにきた。

「もう、いいかな」

 すでに、遠野はネクタイを締めてジャケットを着ている。

「遅くまでやっているところを思い出した」

 遠野は赤坂のホテルの最上階にあるレストランの名前をいう。

「いま、車を呼ぶ」

「近くでいいわ」

「夜だから、乗ってしまえばすぐだ」

 償いのつもりで、高級なレストランへ連れて行こうとしているのかもしれないが、そんなところで、暴力で奪った女とどんな会話をしようというのか。

「少し、雨が降っている」

 迷いながら修子はベージュのオーガンディーのスーツを着て、ゴールドのシンプルなチェーンをつける。なにか思いっきりお洒落《しやれ》をしたいと思いながら、一方でひどく自堕落《じだらく》な恰好をしたいとも思う。

 曖昧な気分のまま、準備ができたところで遠野と一緒に部屋を出る。知らない人が見たら、お忍びの男女が夜の街へ出かけるところと思うかもしれない。

 だが二人は無言のまま、マンションを出て車に乗る。

 夜になって降り出した雨は次第に強まり、私鉄の駅に近いネオンが二重になっている。

 その揺れるネオンを見ていると、遠野がそっと指をからめてきた。

 強くてたしかな指がしっかりと修子の指を握る。

 男はこれで解決したと思っているようだが、修子のこだわりはまだ消えていない。

 秋  色

 結婚披露宴は、結婚する本人達にとっては一世一代の晴舞台だが、出席するものにとってはいささか気の重いこともある。

 新しい人生のスタートを切る二人を祝福するにやぶさかではないが、多くの場合、休日の貴重な時間をさき、かなりの出費も覚悟しなければならない。以前は会費制のつましいものが多かったが、最近は年ごとに豪華になり、都内の一流ホテルともなると二、三万はつつまなければならない。これが、秋の結婚シーズンのように集中してくると、結婚式のおかげで家計が逼迫《ひつぱく》するということも生じてくる。

 くわえて修子のような独身者は、披露宴に出席する度に人々の好奇の目にさらされる。

「まだ、お一人なの?」「どうして結婚なさらないの?」「今度は修子さんの番ね」といった質問を、笑顔ではぐらかしているだけでも疲れてしまう。

 そんなせいもあって、このところ修子はできるだけ披露宴への出席を避けてきた。

 だが今度の安部眞佐子の結婚式だけは、そんなことをいっていられない。

 絵里と眞佐子と修子の三人は、学生時代からの仲間で、大学を卒業したあとも際《つ》き合ってきた。とくに眞佐子は三十を越えた今日まで、数少ない独身の友達として親しかった。

 はっきりいって、眞佐子とは生き方や考え方は大分違う。男性関係も、遠野という年上の恋人がいる修子にくらべて、眞佐子には男の影はほとんどない。恋愛について話をしても、堅い一方の眞佐子よりは、絵里とのほうが意見が合う。

 だが女友達の場合、ものの考え方よりライフスタイルが近いほうが親しみが増すことが多い。

 その意味で、眞佐子は得難い友達であった。

 みなで集っても、横にもう一人独身の眞佐子がいるかぎり、修子は一人ぼっちで取り残されることはない。他の披露宴に出たときでも、眞佐子がいてくれると独身者が二人になり、人々の好奇心も半減される。

 その最も大切な親友の眞佐子が、いよいよ結婚してしまう。

 彼女が婚約したことを絵里からきかされたとき、修子は冗談だと思った。眞佐子だけはまだまだ独身でいるものと思いこんでいただけに、裏切られたような気さえした。

 だがここまできては諦めるよりない。眞佐子が結婚したら、親しい仲間うちでの独身者は自分と絵里だけになる。

 今朝目覚めたとき、修子はそのことを思い出して少し心細くなった。

 眞佐子の披露宴は四谷に近いホテルでおこなわれた。

 十月半ばの休日と大安、それに秋晴れが重なって、まさに絶好の結婚式日和である。

 修子は正午すぎから美容院へ行き、髪を整えてから出かける準備をした。

 着ていくものは、三日前からシャネルの渋い茶のスーツと決めていた。一年前、遠野に買ってもらったものだが、会社に着ていくとたちまち女子社員達に見付かって、羨ましがられた。

 たしかにそれ一着で三十万近くしたのだから、一般のOLが簡単に買える服ではない。おそらくこれまで遠野がくれたプレゼントのなかでも、高いほうである。

 もっとも修子はとくにおねだりして買ってもらったわけではない。ただ欲しいと思って眺めていると、「プレゼントしようか?」といってくれたのである。

 遠野はときどき思い出したように豪華なものを買ってくれる。それはまさに衝動的としかいいようがないが、思いがけないだけに喜びも大きい。

 修子が遠野から受けているのは、そうした贈りものだけで、生活費や部屋代などの援助は一切受けていない。

 女が愛を捧げてきた代償として、それは高いのか安いのか、修子にはわからない。

 ただ前に一度、絵里が、「あなたは彼にいろいろ尽しているのだから、きちんと毎月、決ったお金をもらうべきよ」といったことがある。

 しかし修子は初めから、金銭的な援助を受ける気はなかった。

 男性から決った額を受け取っては、二人のあいだが、与える人と受けとる人の関係になってしまう。悪く勘ぐれば、彼からお金をもらい、その代償として愛を捧げている、ということになりかねない。

 五年間、修子は遠野を愛してきたが、かわりに経済的援助を欲しいと思ったことはない。これまで遠野に従《つ》いてきたのは、彼が好きだからで、金銭とは無縁である。むろんときたま素敵なプレゼントをもらったが、それは遠野の自発的な行為で、修子から要求したものではない。

「彼に尽しているのだから……」といわれても、それは修子が勝手にしていることで、誰に強制されたわけでもない。むろん遠野も、そのお礼のために買ってくれたわけではない。

 いま修子はその遠野からプレゼントされた服を着て、鏡のなかを覗いている。

 濃い渋茶色が秋の深さを思わせ、ダブル型に並んだ金のボタンが、地の単調さを救っている。

 修子はそのスーツの左胸にシルバーの葉形の上にパールが三個並んだブローチをつけて、横を向く。

 買ったのは一年前だがさすがに仕立てがしっかりしていて型が崩れず、ウエストと背のラインがとくに美しい。これなら花嫁よりは地味で、しかも華やかさもそなえている。

 修子は鏡の中の自分にうなずいてから、もう一週間、遠野と逢っていないことを思い出した。

 三光電器のイベントの打合わせで、遠野は四日前から大阪へ出張している。

 出かける前に逢いたいといってきたが、修子は体調が悪いことを理由に断った。事実、生理が終りかけていたのだが、断ったのは、その理由からだけでもない。

 一カ月前に遠野の妻と会ってから、修子の気持は遠野から一步退いていた。そのことで彼を嫌いになったとか、愛が醒めたというわけではないが、二人のあいだに、水をさされた感じは否《いな》めない。

 眞佐子の結婚披露宴は賑やかで豪華であった。

 新郎がすでに開業している歯科医であるうえに、新郎の父親が歯科医師会の役員もしているところから、招待客は三百名を越えている。しかも新郎が四十歳というせいもあってか、年配の人達が多く、修子達は若いほうである。

 仲人の挨拶から来賓の祝辞、テーブルスピーチと、代議士もまじえて、社会的地位のありそうな人が続々と登場する。さらにウエディングケーキは三メートル近くもあり、それを切ったあと横においてある酒樽を二人で割る。

 男性のほうは再婚ということで地味にやるのかと思ったが、その逆で、再婚だからじめじめせず派手に、ということになったようである。

 眞佐子の夫になる人は中肉中背で、額は少し禿《は》げあがっているが、眞佐子を余程、気に入っているらしく、絶えず彼女のほうを気遣いながら、なにをいわれても笑っている。

 出席者の大半が、新郎についてはよく知っているだけに、宴の主賓はなんといっても眞佐子である。彼女が打掛けからウエディングドレス、さらにイブニングドレスと衣裳を替えるたびに、大きな歓声と拍手がおこる。

 当の眞佐子は初めこそ緊張していたようだが、「わたしも新郎にあやかって、再婚したい……」というテーブルスピーチのころからは笑顔も見せ、幸せ一杯の様子である。

 やがて新婦の友人代表として、絵里が指名される。

 テレビのディレクターだけに絵里は堂々として、眞佐子の初心《うぶ》さを披露し、「この初心な女を妻と同時に母にした男は、生涯その責任をとらなければならない」といって、満場の拍手を浴びる。

 絵里が席に戻ってくると、まわりの人達は親しみを覚えたらしく、絵里と修子に、「あなた達は独身ですか」ときいてくる。

 二人がうなずくと、男性達は次々と寄ってきてお酒を注ぎ、握手を求めてくる。

 そのうち新郎の一人っ子の四歳の少女が、新郎と新婦とのあいだにはさまって坐り、そこでまた会場がわく。さらに眞佐子がこの子を抱いて、夫と三人並んで立つが、すでに子供は馴れているらしく、眞佐子の母親姿も板についている。

 宴は五時からはじまったが、七時を過ぎても終る気配はなく、八時になってようやく新郎の父親の挨拶がはじまった。

 出口に近い一段高いところで、両方の親が並び、修子は久しぶりに眞佐子の父親を見た。

 上背のある、いかにも東北人らしい実直そうな父親の横に、小柄な眞佐子の母が立っている。スポットライトを浴びて緊張しているようだが、母親の表情には、ようやく娘を嫁がした安堵がうかがえる。

 修子はそれを見ながら、田舎にいる母を思い出す。

 もし自分も結婚すれば、母はあのような満足そうな笑顔を見せるだろうか。

 考えているうちに挨拶が終り、長かった宴も幕となる。

 このあと同じホテルの別室で、新郎新婦をまじえて親しい仲間だけで二次会がおこなわれる。

 修子と絵里がその会場へ行って待っていると、パーティドレスに着替えた眞佐子が現れた。

「おめでとう、とっても素敵な披露宴だったわ」

 二人が次々に握手をすると、眞佐子は「ありがとう」をくり返しながら声をつまらせる。二人の親友に祝福されて、結婚式の感激が一気にこみあげてきたらしい。

「あのご主人なら、大丈夫よ」「きっと幸せになれるわ」

 三人で話していると、新郎もくわわって座はますます賑やかになる。

 当然のことながら、新郎と新婦はもみくちゃにされ、それを見届けて修子と絵里は二次会の会場を出た。

 宴のあとは、常に侘《わび》しさが残る。

 もっとも、それは今日結ばれた新郎と新婦には無縁で、修子と絵里だけの問題かもしれない。

 二人はそのままホテルの最上階にあるバーに行ってカウンターに坐った。

「ご苦労さま」

 ともにジンフィズのグラスを持って乾盃すると、修子は軽い疲れを覚えた。

「ついに眞佐子もいってしまったわ」

 修子がつぶやくと、絵里がかすかに笑った。

「淋しい?」

「そうねえ……」

「でも、わたしがいるでしょう」

 たしかに絵里はいま独身だが、すでに一度結婚して子供までもうけている。同じ独身といっても、修子とは事情が違う。

「あんなのを見ると、修子もお嫁にゆきたくなる?」

 そうストレートにきかれると答えにくいが、友人の結婚式の度に心が揺れることはたしかである。

「でも、眞佐子もこれからが大変よ。今日は、一生で一度のお祭りだからいいけれど」

 たしかに結婚よりは、結婚してからのほうが問題かもしれないが、一生で一度のお祭りさえ経験していない女には、結婚式はやはり眩しく映る。

「でも、あなたは一度しているからいいわ」

「結婚しても、別れるんじゃ意味がないでしょう」

 絵里は結婚に一度失敗しているだけに自嘲気味にいう。

「しかし、男の人はいいなあ、子供がいても平気で再婚できるんだから」

 そういえば、絵里はいま再婚話が暗礁にのりあげているだけに、かえって辛かったのかもしれない。

「やっぱり一人がいいよ、そのほうが気楽で暢気《のんき》だし」

 絵里は煙草に火をつけると、ボトルが並んでいる正面の棚に向かって煙を吐く。

「結局、みんな一人になるんだもん」

「………」

「それとも、修子も一度、してみる」

 絵里はまるでスポーツでもするように、簡単にいう。

 修子は苦笑しながら、先日、社長が見せてくれた見合いの相手の写真を思い出した。上背もあって顔も優しそうだが、なにかもの足りない。

「結婚なんて、ダンピングしたらいつでもできるわよ」

「ダンピング?」

「そう、安売りよ」

 修子はグラスを見ながら、遠野を思った。

 この数年、結婚のことを考える度に遠野が前に立ちふさがってきた。とやかくいっても彼がいるかぎりつまらぬ結婚にとびつくこともない。そう思い、自分にもいいきかせてきたが、今日は少し揺れている。

「修子、彼となにかあったの?」

「どうして?」

「なんとなく、元気がないから」

 修子は答えず氷が輝くグラスの底を眺める。

 そのまま黙りこんでいると、十人近い客が入ってきてなか程の席に坐る。いずれも同じ紙袋を持っているところを見ると、やはり披露宴からの帰りなのかもしれない。三十前後の男性の中に若い女性がまじって、陽気な笑いがおきる。

 修子がなに気なくそちらを見ていると、絵里が思い出したようにいう。

「あなた、そのスーツ、とっても似合うわ」

「絵里に褒《ほ》めてもらえるなんて、光栄だわ」

「新婦の眞佐子より、ずっと素敵だった」

「眞佐子はウエディングドレスだから、比較にならないわ」

「修子にも、一度、ウエディングドレスを着せてみたいなあ」

「じゃあ今度、貸衣裳屋さんにいって着てみましょうか」

 修子が冗談まじりにいうと、絵里は真顔でうなずく。

「最近は、あれを着たくて結婚する若い女性が多いらしいわよ」

「ウエディングドレスのために結婚するの?」

「それを着て式を挙げて、ケーキを切って、メインテーブルに坐って、みなからお祝いの言葉をもらって、そんな素敵なことってないでしょう」

「でも、相手の男の人への愛情はどうなるの?」

「それは、あとで考えるのよ」

 たしかに花嫁姿は女の夢ではあるが、それだけに憧れて結婚するなぞ修子には考えられない。

「そんな結婚で、長続きするのかしら」

「危なっかしいけど、でも結婚ってわからないからなあ。熱烈な恋愛の結果一緒になったペアがすぐ別れたり、あまり気のりしない見合結婚なのに案外うまくいくこともあるし。一緒に生活するってのは、また別のことだから」

 たしかに、そのあたりの男女の機微は修子にも察しはつく。

「要するに、相性ね」

「それが一つ崩れだすとずるずると傷が広がって、気が付くと取り返しがつかなくなるのよ」

 そういうと絵里はカウンターに頬杖をつく。

「とにかく女も仕事をしていると難しいわ」

「でも、最近は理解のある男性が多いでしょう」

「理解があるといっても、男はやっぱり我儘だし、女も収入が多くなるとだんだん生意気になるから」

 絵里の夫は同じ局のサラリーマンだったが、別れたころは彼女のほうが収入が多かったらしい。

「このごろ、家庭をもっていて仕事もばりばりやる女性が素敵、という感じってあるでしょう」

「それができたら理想だけど……」

「でも、ああいうの危険だと思わない? 表面は恰好よさそうでも、裏では揉めていたり家庭内離婚のようなケースが多いのよ」

「やはり、女は家庭に戻れってこと?」

「でも一度社会に出て、禁断の木の実を食べてしまったら、家庭に戻れといわれても難しいわ」

 絵里の場合は迷った末に、禁断の木の実を食べるほうを選んだことになる。

「修子だって、家にいて夫にかしずくだけの生活なんて、いやでしょう」

「そんな目に会ったことがないからわからないけど、本当に好きな人となら、案外、いられるような気もするけど」

「一時的には可能かもしれないけど、じき退屈するわよ」

 修子は遠野との生活を考えてみるが、彼に家を守ってくれといわれたら、案外素直にいられそうな気もする。

「世間の奥さま族は、みなそうしているのでしょう」

「それで満足できる人はいいけど、疑問をもっている人も結構、多いと思うなあ」

「でも、家にだけいるのって楽でしょう」

「そこなの、主婦はそれに甘えて堕落してしまうんだわ」

 家庭に閉じこもることを、絵里は簡単に堕落というが、修子には、それなりの充実感もあるように思える。

「家庭にいていい悪いは、人それぞれじゃないかなあ」

「でも男の人に従《つ》いていくには、やはり尊敬できる部分がないと難しいわね」

 たしかに離婚するころ、絵里は夫を尊敬できなくなったといっていた。

「修子は、あの人を尊敬できるでしょう」

 あの人とは、遠野のことをさしているようである。

「尊敬できなければ、これまで際《つ》き合ってこられないわよね」

 はたしていま、遠野を尊敬しているのかときかれたら答えにくいが、彼が自分とはべつの能力を持っていることだけはたしかである。

「考えてみると、あなた達のような関係が理想かもしれないわね」

「そうかなあ……」

「だって、お互い好きなときに逢って、家庭に縛られてないから新鮮でしょう」

 修子は遠野の妻の顔を思い出したが、彼のマンションで会ったことまではいう気になれない。

「たしかに、なんでも結婚すればいい、ってわけでもないわね」

「………」

「あなたのようないい女は、さすがといわれるような、いい男とするべきよ」

「わたし、そんなにいい女じゃないわ」

「そんなことはない、あなたは綺麗だし仕事はできるし、頭もいいし……」

「今日はどうしたの、そんなに褒めて」

「修子がつまらない結婚をしないように、ブレーキをかけとくの」

「どうぞ、ご安心を。わたしはまだまだいたしませんから。第一、する相手もいないし」

「いるわよ、あなたがその気になったら、沢山いるわ」

「慰めて下さって、ありがとう」

「素直じゃ、ないんだから」

 先程の若者の席から、再び賑やかな笑いがおこる。男達と一緒の女性達は二十二、三であろうか、そのころは修子もなんの迷いもなかった。

「わたしはもう、結婚なんかに拘泥《こだわ》らないわ」

 絵里はウイスキーを飲み干すと、きっぱりした口調でいった。

「一人のほうが、ずっと気楽よ」

 好きな男性と結婚できないことで、絵里は開き直ったようである。

「無理して結婚という保険に入ることもないわ」

「でも結婚してると、年齢《とし》をとって孤独になったり、病気にかかったときにも安心でしょう」

「だから、老後が心配な人は入ったらいいし、わたしは一人でも淋しくない、一人のほうがむしろさっぱりしていいと思う人は、結婚する必要はないわ」

「わたし達のような立場は、保険にならないわけね」

「愛人というのは保険といっても短期保障で、老後までって感じじゃないわね」

「フランスのメトレスもそうかなあ」

「向こうのほうは、もっとドライな感じがするわ」

「それで、慣れているのね」

「日本の結婚保険もピンからキリまでで、結婚していても病気になったら入院するよりないし、最後はどちらか一人になってしまうから、結局は同じよ」

 たしかに修子の母も父と別れたまま一人で暮らしてきた。

「それでも、結婚してるほうが安心でしょう」

「一般的にはそうだけど、この保険、一度入ったら夫婦という枠に縛られて自由がきかないし、解約は難しいし、いろいろ問題はあるのよ」

 絵里のいい方がおかしくて、修子は苦笑する。

「どこかに、もっといい保険はないかしら」

「無理に結婚という保険に入らなくても、老後を保障する方法はいろいろあるでしょう。たとえばお金を貯めておくとか……」

「やっぱり子供がいるのは強いわね」

「子供がいても、彼等が寄ってくるのはお金が欲しいときだけで、親が思う半分も子は思ってくれないものよ」

「あなた、いまからそんな醒めた目で、子供を見ているの?」

「この前、老人の日の特集番組をつくったら、老人ホームにいるお年寄のほとんどは子供がいるのよ。それなのに子供達は面会にこないんだから」

「全部が全部、そうでもないでしょう」

「子供なんか、いてもいなくても孤独は同じよ。むしろ子供に囲まれたときのほうが孤独を感じるって人もいたわ」

「世代が違うと考え方はもちろん、食べものも趣味も、みんな違ってしまうから」

「年齢をとったとき一番必要なのは、同じ年齢ごろのわかり合える友達よ」

「うちの母も、たまに東京に出てきても、すぐ古い友達のいる田舎のほうがいいって、帰って行くわ」

「年齢をとればとるほど、お婆さんが多くなるから」

「じゃあ、わたし達もお婆さんになっても、会うのかな」

「お互いに腰を曲げて、杖をついて、そのときは眞佐子もくるわよ」

「なんか、暗い話になったわね」

 二人は顔を見合わせて笑ったが、結婚式の帰りにこんな話をするのも、三十半ばが近づいた年齢のせいかもしれない。

 絵里と別れて、修子が部屋に戻ると十一時だった。披露宴のあとの二次会の会場を出たのが九時だったから、それから一時間少し、絵里と話していたことになる。

 部屋に戻ると、修子はシャネルのスーツを普段着に着替え、サイドボードの棚からブランディのボトルを取り出してクリスタルのグラスに注いだ。

 クリスタル製品でいま一つ欲しいのはデカンタだが、そこまではまだ手が廻らない。それでもクリスタルの宝石入れを眺めながら、クリスタルのグラスでブランディを飲んでいると、少し贅沢《ぜいたく》な気分になる。

 そのままFENから流れるロックを聴くうちに、酔いが廻ってきた。

 ホテルのバーで三杯ほど飲んで、いままた一杯だから、修子としてはかなりの量である。

 どうしてこんなに飲もうとするのか、自分でも不思議だが、今夜は少し気持が高ぶっているようである。さらにもう一杯、ブランディを注いで氷をくわえていると、電話が鳴った。

「だあれ、いまごろ……」

 つぶやきながら受話器をとると、遠野からだった。

「いま、帰ってきたのか?」

「もう少し前よ」

「三十分前に、一度、電話をした」

 修子は遠野が大阪に行っているのを知りながら尋ねた。

「いま、どこですか」

「大阪だけど、明日の夕方には帰るから逢おう」

「駄目よ」

 自分でも思いがけず、修子はきっぱりという。

「どうしてだ」

「どうしても……」

「きちんと、理由をいえ」

「保険にならない人とは、逢わないことにしたの」

「ホケン?」

「さっき絵里と話していて、はっきりしない人は駄目だって」

「どういう意味だ?」

 遠野はよくわからないようだが、電話で説明するのも億劫《おつくう》である。

「とにかく、明日の夜、あけておいてくれ」

「あけられません」

「酔っているのか?」

 修子は普通に喋っているつもりだが、少し調子にのりすぎているかもしれない。

「どうして、酔ったんだ」

「いろいろな男に注がれたの……」

 呆《あき》れたのか、受話器からかすかな溜息が洩れる。

「今日は結婚式だな」

「彼女、とても綺麗だったわ」

「相手は大分、年上なのだろう」

「あなたほどではないわ」

「………」

「わたしもお嫁に行こうかなあ」

 軽い冗談のつもりだが、遠野にはショックだったのかもしれない。

「とにかく明日逢おう。重大な話があるんだ」

「また、重大なお話?」

「茶化すんじゃない」

 短い沈黙があってから、遠野が思い直したようにいった。

「こちらにきて、ずっと修のことを考えていた。このままでは、いかんと思っている」

 修子は答えず、受話器のコードを延ばしてソファに坐る。

「大阪へくる前、またワイフと喧嘩になった。今度は子供もいたし……きいているのか?」

「はい」

「彼女は完全におかしい、いくら話してもわかろうとしない。今度こそ、家を出る」

「保険をやめるの?」

「なんのことだ?」

「いえ、こちらの話です」

「修が側にいてくれなければ、俺は仕事ができない。俺がどれくらい好きか、知っているか」

 遠野の妻に会う前なら素直にきけた言葉が、いまの修子にはかえって空々しく響く。

「修が、一番好きだよ」

 遠野がなんといおうと、修子の脳裏から、遠野の妻の顔は消えない。

「明日、逢ってよく話す」

「話しても、無駄よ」

 修子は他人ごとのようにいうと、自分から受話器をおいた。

 その日、一日、修子はよく働いた。

 朝、九時前に会社に着いて、社長室とそれに続く応接室を清め、昨夜から朝にかけて入ったファックスとテレックスをまとめた。部屋の掃除は、清掃会社に依頼してあるが、机や窓ぎわの埃や調度の汚れは、修子が直接、乾布巾《からぶきん》で拭かなければならない。

 十時過ぎに社長が出社してからは来客が三組あり、その一組はイギリス人で、修子が同席して通訳をした。午後は浦安にできた倉庫の開所式に社長と一緒に出掛け、そのあと外人もくわわったパーティに出席してから、修子一人会社へ戻った。そこで至急、ニューヨークの支社へ出す手紙をつくってタイプで打った。

 秘書という仕事は、表面は華やかそうにみえるが、実際は雑役係みたいなところがある。

 今日一日の仕事を見ても、掃除から客の接待、通訳、スケジュール作成、英文書類の翻訳、分類、手紙の代筆、タイプ、ワープロの操作から電話の取次、社長の衣服の世話まで、数えあげたらきりがない。これを上手にこなすには、相当の体力が必要で、少し体調が悪かったり心配ごとがあると、態度や表情に表れ、来客にまで悪い印象を与えかねない。

 修子はとくべつ秘書としての専門の教育を受けたわけではないが、相手に不快な印象を与えることだけは避けるようにつとめてきた。

 当然のことながら、自分の部屋を出て一步会社へ向かったら、気持を完全に仕事のほうへ切り換えなければならない。

 これまで、修子は自分では、気持の揺れの少ないほうだと思っていた。女性によっては、機嫌のいい日と悪い日の差がありすぎる人もいるが、秘書がそれを表に出しては失格である。

 だがそうはいっても、私生活と会社での生活を完全に切り離すのは難しい。

 この前、遠野の妻と会ったあとは、仕事をしていてもときどき彼女の顔がちらついたし、眞佐子の婚約をきいたときには、しばらくそのことが頭から離れなかった。

 忙しくて仕事に追われているときは、個人的なことも忘れがちだが、暇ができるとかえって思い出す。

 そういう意味では、忙しいほうが雑念にとらわれず、仕事に集中できるともいえる。

 その日、社長に頼まれた手紙をタイプで打ち終えて一息ついたとき、修子はごく自然に遠野のことを思いだした。

 昨夜の電話では、今日夕方、東京に戻ってから食事をすることになっていた。例によって、重大な話があるといっていたが、また妻とのいざこざをきかされるだけかもしれない。

 どういうわけか遠野はこのごろ、妻とのトラブルを逐一、修子に教えてくれる。とくにこちらでききたがっているわけでもないのに、子供達が妻に味方している、といったことまで話しだす。

 もしかすると、妻との不和を告げたほうが、修子が安心するとでも思っているのか。あるいは話しながら同意を求めているのか。いずれにしてもそんな話はあまりききたくない。

 修子が手紙を封筒に入れて時計を見ると五時で、退社の時間であった。

 日が短くなり、早くも明りのつきはじめたビルの窓を眺めているうちに、修子はふと、要介のことを思い出した。

 要介とは一カ月前、気まずい別れ方をして以来、逢っていなかった。その後、彼からは詫びの電話が入り、そのあとさらにジャズのコンサートに誘われたが、修子は断った。

 要介は単純に、修子がまだ怒っていると思ったようである。

 たしかにその当座は、要介に失望し、許せないと思っていたが、日が経つにつれて落着いて要介の気持を考えられるようになり、それとともに自分にも反省すべきところがあったことに気がついた。

 なによりも、気まずいことになった最大の原因は、酔っている要介を女一人の部屋に入れたことである。初めから誘わなければ、要介もあんな醜態を見せることはなかったはずである。

 もっとも、修子としても、まさか要介があんな大胆なことをするとは思わなかった。「お茶を一杯」といったとおり、一杯だけ飲んで帰るのだと簡単に思いこんでいた。もちろん要介のほうも、初めは女性一人の部屋を覗いてみたいと思っただけなのかもしれない。それが途中から自分を抑えきれなくなり、暴力をふるってしまった。

 その意味では修子も要介も被害者であり、加害者であるともいえる。

 修子は手帖を開いて、要介の会社の番号をたしかめた。

 いま五時になったばかりだから、まだ会社にいるかもしれない。いつも忙しいといっているから、すぐ帰るわけはないだろう。

 プッシュホンのボタンを押しながら、要介に電話をしている自分がわからなくなった。

 今日、要介に逢うつもりなぞ初めからなかったのに、急にかける気になったのは、遠野からの電話を避けるためかもしれない。もし向こうからかかってきたら、先に約束があるというために、要介を探してみる。

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