饭饭TXT > 海外名作 > 《爱人(日文版)》作者:[日]渡边淳一【完结】 > 爱人.txt

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作者:日-渡边淳一 当前章节:15403 字 更新时间:2026-6-15 15:59

 いつもそうだが、要介は、修子が困ったり、淋しくなったときにだけ呼び出される。いわば、ピンチヒッターのようなものである。そのあたりのことを、要介は知っているのかいないのか。いずれにせよ、自分のいうままになってくれる男性を一人持っていることは、幸せというか女|冥利《みようり》に尽きるというべきである。

 いきなり電話をもらって、要介は驚いたようである。

「本当に、逢えるんですか」

 半信半疑ながら、声は弾んでいる。

「突然でご迷惑ですか?」

「そんなことはありません。でも本当に僕でいいんですか?」

 要介にしては珍しく皮肉ないい方だが、洗面台においてあった男性用の剃刀《かみそり》がきいているようである。

「あなたさえよろしければ、お食事でもいかがかと思って……」

 この前のことは忘れたように、修子はあっさりといった。

「じゃあ、一寸待って下さい」

 要介は誰かと、打合わせでもしているのか、少し間をおいてから答えた。

「それじゃ、何時に、どこへ行けばいいですか?」

「用事があるんじゃありませんか?」

「いや、大丈夫です。あと五、六分で出られます」

「急で、ご免なさい」

 修子は謝りながら、六本木にあるイタリア料理のレストランの名をいった。

 五時を過ぎると、十月の空はすでに暮れている。

 窓から見えるネオンの色が鮮やかなところをみると、外は少し冷えているのかもしれない。

 修子は机の上を整理し、カーテンを閉めて部屋を出た。

 出がけに、遠野から電話がこないのが気になったが、帰りの便が遅れたのかもしれない、と簡単に考えた。

 会社を出て車を拾い、六本木のイタリア料理の店へ行くと、少し遅れて要介が現れた。一カ月ぶりに見る要介は少し肥って、貫禄がついたようである。まだ中年肥りというには早いが、考えてみると彼も三十三歳である。

「少し、お肥りになりました?」

「そうですか……」

 あまり嬉しくないのか、要介は他人ごとのようにつぶやいて頬を撫ぜる。

 修子は、互いに逢わなかった一カ月のあいだのことを話そうかと思ったが、それをいいだすと、この前のことに触れざるをえないのでやめた。

 かわりに会社のことや日本シリーズのことなど、当りさわりのないことを話しながら食事をする。

 店は八階建てのビルの二階にあり、入口を花で飾っているが、なかは長いテーブルが並んで大衆的である。

 修子はここの硬い麺のスパゲッティが好きだが、要介も気に入ったらしく、蒸したアサリとともに、美味しいといって一気に食べる。

 修子は遠野を思い出しながら、要介との世代の差を感じる。

 ここにもし遠野を連れてきたら、まずテーブルが狭くて隣りの客と肘が触れそうだといって文句をつけるに違いない。

 そのくせ、狭い焼鳥屋で食べることには、あまり苦情をいわない。もちろん修子が黙っていると必ず和食の料理屋を選ぶ。

「イタリアンレストランのような、チャカチャカしたところは好かん」というのが、遠野の口ぐせだが、フランス料理も、余程のことがないかぎり食べない。

 しかし要介なら、なんの料理でも平気である。むろん店が狭くても、まわりがうるさくても一向にかまわない。

 それにしても、今日の要介は飲むテンポが早い。メインディッシュのすずきの姿焼きが出るころには、白と赤のワインのほとんどを一人で飲み干した。

 幸いワインは比較的安いので、支払いのほうは心配ないが、飲みすぎが気になる。

 修子はもう要介を部屋に入れたりはしないから、この前のようになることはないが、あまり酔うとやはり不気味である。この前で、男の怖さは身に沁みている。

「今度は水割りをもらおうかな」

「チャンポンにして、大丈夫ですか」

「まぜたほうが酔うというのは、迷信ですよ」

 わかったような理由をつけて要介は水割りを頼む。なにか、味をたしなむというより酔うために飲んでいるようである。

 やがてメインディッシュを平らげたところで、要介は見はからっていたようにきいてくる。

「今日、どうして僕に電話をくれたのですか?」

「どうって、久し振りにお逢いしたいと思ったからよ」

「彼のピンチヒッターって、わけじゃないでしょうね」

 図星をさされて修子が黙ると、要介がうなずく。

「いや、それで結構なのです、どうせ僕は便利屋ですから」

「そんなわけではありません。ただ今日は忙しくて、仕事が終るころに一息ついて外を眺めていたら、急にお食事をしたくなったものですから」

「修子さん……」

 グラスを持ったまま、要介が改まった口調でいう。

「無理することはありませんよ。もう、あなたに好きな人がいることはわかっているのですから」

「………」

「彼と約束していたけど、急に都合がつかなくなった、だから僕に電話をしたと、正直にいってくれればいいんです」

「違います」

 修子はきっぱりと顔を上げていう。

「好きな人はいますけど、今日はそういう理由からではありません」

「じゃあ、急に僕に逢いたくなった理由はなんですか?」

「男性のお友達と、一緒に食事をしてはいけないんですか?」

「成程、僕はあなたのお友達というわけですね」

「………」

「友情はあるけれど、愛情はないというわけですね」

 やはり要介は少し酔ってきたようである。こんなひねくれた態度を見るのは初めてだが、その責任は修子にあるのかもしれない。

「じゃあ僕に、一つだけきかせて下さい」

 要介は右手で薄く髭の生えた頬のあたりを撫ぜた。

「あなたはどうして、剃刀の彼氏と結婚しないのですか。好きなら、早くしたらいいでしょう」

「好きだから、結婚しなければならないということはないでしょう」

「しかし、普通はするでしょう」

「する、しないは、わたしの自由です」

 これと同じことは、前にもいったはずである。

「修子さん、逃げてはいけませんよ。本当は彼には奥さんがいて、結婚したくてもできないのでしょう」

「そんなことは、あなたにいわれなくてもわかっています。仰言《おつしや》るとおり、結婚はできないかもしれません。でも、わたしは好きなのです」

 少しいいすぎかもしれないと思いながら、修子はいいきる。

「結婚できるから好きとか、できないから嫌いといった、そんな打算的なことではないのです」

「それは別に、打算ではないでしょう」

「じゃあますます、わたしが結婚してもしなくてもかまわないでしょう」

「無理をしてるんじゃないでしょうね」

「無理なんかしていません」

「そのまま、独身でいいんですか」

「かまいません」

 要介に問い詰められているうちに、修子は次第に遠野に逢いたくなってきた。

「あとで、後悔しますよ」

「そんなこと、余計なお節介です」

「そうでしょうか」

「一寸、失礼します」

 修子は立上ると、まっすぐレジの横にある電話の前に行った。

「ちょっと、お電話を貸して下さい」

 レジの女性にいって受話器をとり、自宅のナンバーを押す。

 短い呼出音があってから、自分の留守番電話を告げる声が流れてくる。それをききながら暗証番号を押すと、留守中の電話の内容が伝わってくる。低い雑音とともに、ベルが鳴って切れる音が数回続き、そのあとで、待っていた遠野の声がきこえてくる。

「俺だよ、まだ大阪だけど、一寸、怪我をしてこれから病院へ行く。たいしたことはないが、あとでもう一度連絡する……」

「なんですって……」

 思わずつぶやいてもう一度きき直すが、やはり同じ台詞がくり返される。

 いままで、遠野は修子との約束を破ったことはない。もちろん、夜、修子の部屋へくるときに、十時というのが十一時になったり、ときには十二時を過ぎることもあるが、必ず電話をかけてくる。そういうところは誠実というか、こまめである。

 ましてや今回は大阪からである。夕方までには電話をするといっていて連絡がなかったから、修子は少し気がかりであった。

 もっとも夕方、会社にいたときは、彼からの電話を避けたいと思っていた。

 また逢って食事をすると、家庭の不和のことなどをきかされそうである。それより先に要介との約束をとりつけて断ったほうがいい。

 だがそう思いながらも、連絡がなかった遠野のことが心の片隅に引っかかっていた。実際そうだからこそ、要介との食事の途中で、自宅に電話をしてみたのである。

 このあたりは、虫が知らせたとでもいうべきかもしれない。

 それにしても、遠野が大阪で怪我をしたとは、思ってもいなかった。

 正直いって、初め留守番電話をきいたとき、遠野が冗談をいっているのだと思った。

 年齢のわりに遠野は茶目っ気があって、ときどき留守番電話に悪戯《いたずら》をすることがある。つい先日、絵里と飲んで遅く帰ったときには、「修子、お母さんだけど、あまり夜遊びをしてはいけませんよ」と、老婆の声音《こわね》を真似て吹きこんであった。また一カ月前には、「お名前だけでもお聞かせ下さい」という修子の声に合わせて、「お前のヒモだよ……」と、酔った声で入れてあった。

 だが今日の声の調子はあきらかに違う。初めから切羽つまったように落着きがなく、手短かである。声の裏に街の雑音がきこえるところをみると、路上の公衆電話からかもしれない。

 怪我をしたときいて、修子はすぐ遠野の家に電話をしようかと思ったが、遠野がいないところに電話をかけても仕方がない。

 やむなく、修子は遠野の会社を呼んでみた。

 だがすでに七時を過ぎていて留守番電話に切替えられ、「本日の業務は終了しました……」という女性の声だけがくり返される。

 社長が怪我をしたというのに、なんと暢気《のんき》な会社なのか。

 落着かぬまま修子が受話器をおくと、要介が心配そうにこちらを見ている。

 修子はそれを無視して、もう一度自分の部屋へ電話をし、遠野からのメッセージをたしかめてから席へ戻った。

 修子の長い電話に、要介は待ちくたびれたらしい。

「どうしたんですか?」

 なじるようにきくのに、修子は頭を下げた。

「申し訳ありませんけど、このまま失礼させて下さい」

「帰るんですか?」

 要介は慌てて、膝の上にあったナプキンを床に落した。

「一寸、知っている人が怪我をしたものですから……」

「怪我って、どこを?」

「それが、急でまだよくわからないんですけど、連絡があったものですから」

「でも、あなたから電話をしたのでしょう」

「家にしてみたら、留守番電話に入っていたのです」

 要介は床に落ちたナプキンを拾い上げると、修子を睨みつけるように見る。

「それ、まさか、嘘じゃないでしょうね」

「そんな……わたしもいまきいて、驚いているのです」

「これから、家に帰るんですか?」

「まっすぐ帰ります」

「病院へ行かないんですか?」

「場所がよくわかりませんし、大阪ですから」

「大阪……」

 要介はつぶやいてから、前の席を指さした。

「とにかく、坐って下さい」

「いえ、ここで失礼します」

「待って下さい、大阪なら、いま急いで帰っても仕方がないでしょう。それに病院も知らないんじゃ……」

「でも、心配なのです、急ぎますから……」

「修子さん」

 行く手をさえぎるように、要介が手を広げた。

「その人、あの剃刀《かみそり》の人じゃないでしょうね」

「………」

「そうなのですか?」

「ご免なさい」

 修子は答えず、テーブルの端にあった伝票を持つと、そのまま出口へ向かった。

 瀬田のマンションに戻ると、修子はもう一度、留守番電話をきいてみた。

 何度きき返しても、電話は遠野の同じ声をくり返す。他に二度ほど、呼出音が鳴って切れる音がききとれるが、声は入っていない。

 修子は受話器をおき、改めて部屋を見廻した。

 何故慌ててこんなに早く帰ってきたのか、これならもう少し要介と一緒にいても同じだった。遠野からの次の連絡をきくだけなら、あのまま六本木のレストランにいてもよかった。

 それを無理に帰ってきたのは、どういうわけなのか。

 しかし遠野が旅先で怪我をしたというのに、暢《の》んびり食事をしている気にはなれなかった。あのままいたら修子は落着かなくて、かえって要介に失礼なことになったかもしれない。いずれにせよ修子は一人になりたかった。一人で電話を待ち、遠野の声を直接ききたかった。

 だが要介にまた悪いことをしたことはたしかである。

 こちらの都合で呼び出しておきながら、急用ができたといって食事半ばで帰ってくる。これでは、要介が怒るのも無理はない。

 しかも、要介は敏感に、修子の好きな人に異常があったと察したようである。

 この前のきまずい別れ方にくわえて、今回の中座では、いくら寛容な要介でも怒るのは無理もない。

 だが修子はいま、途中で帰ってきたことを悔いてはいない。

 今度のことで、要介に嫌われるなら嫌われてもかまわない。絶対の安全|牌《パイ》を失うのは淋しいが、いつまでもそんな我儘を通せるものではない。

 修子は自分にいいきかせると、いつものように服を着替え、化粧を落した。

 髪が少しべとついているので風呂に入りたかったが浴槽に湯だけとって、コーヒーを淹《い》れた。

 食事はほとんど終りかけていたので、空腹は感じない。それより、風呂に入っているあいだに電話がきて、受け損なうほうが怖い。

 修子はそのまま低くテレビをつけ、ソファに坐ってコーヒーを飲んだ。

 ときどき入口に近いコーナーにある電話を振り返ってみるが、鳴りだす気配はない。

 いったいあのあと、遠野はどこの病院に運びこまれて、どんな治療を受けたのか。何故早く、電話をよこさないのか。気になりだすと落着かず、テレビも目に入らない。

 そのまま三十分ほど経ったところで、ベルが鳴った。

 すぐ受話器をとったが、返ってきたのは絵里の声だった。

「どこに、行っていたのよ」

「そんな、どころではないわ」

 修子が留守番電話のことを告げると、絵里も驚いて、「それは大変ね、はっきりわかったら教えて……」といって、電話を切った。

 そのあともう一度、ベルが鳴ったが、若い女性の声で、こちらの名前をいうとすぐ、「ご免なさい、間違いました」といって切った。

 再びソファに戻って見るともなくテレビを見ていると、十時になった。

 この分では、今日はもう電話はこないかもしれない。あきらめかけてバスルームへ行き、お湯を注ぎ足していると、再びベルが鳴った。

 濡れた手を拭いて受話器をとると、今度は年輩の女性の声である。

「片桐修子さんですか」

 女は修子の名前をたしかめてから、落着いた口調でいった。

「大阪城北病院の看護婦の坂田というものですが、遠野さんから頼まれまして……」

 修子は受話器を握りしめた。

「先程、遠野さん、無事に手術が終りまして、こちらの病院に入院しておりますからご安心下さい」

「手術をしたのですか?」

「右の足首の骨を折って、いまギプスも巻き終えて落着いています」

「どうして、骨を……」

 看護婦に手術したことだけを告げられても、修子には納得できない。

「わたしも詳しいことはわかりませんが、交通事故で車にはねられたようです。でもたいしたことはありません、他に手の甲にかすり傷があるだけで、麻酔も腰から下だけでもう醒めかけていますから」

「治るのですか?」

「もちろん、治ります」

「じゃあ、ずっとそちらに入院するのでしょうか」

「四、五日経って、手術の腫《は》れがひいたら、東京の方へ帰られても大丈夫かと思いますけど、そのことはいずれ、ご本人からきいて下さい」

「あのう、あの人、電話に出られるのでしょうか?」

「今日は無理です。でも、二、三日経てば、松葉杖をついて電話口までは行けると思います」

「………」

「よろしいでしょうか」

「すみません、ありがとうございました」

 修子は受話器に向かって頭を下げてから、慌ててつけ足した。

「あのう、よろしく伝えて下さい」

「わかりました」

「遠野さんへ……」

 いい直してから、修子はもう一度尋ねた。

「お見舞いには行けるのでしょうか」

「もちろん、面会時間のあいだならかまいません」

 修子はさらに病院の住所と電話番号をきき、それからもう一度、礼をいって受話器をおいた。

 正直いって、修子はこれまで、遠野が病気になったり怪我をする事態など、想像したことはなかった。

 遠野は常に自分の前に立ちはだかり、大きく自分を包みこんで揺るがない山のような存在だと思っていた。

「俺が五十になったとき、修はまだ三十三の女ざかりだ」といったことがあるが、年齢にかかわらず、遠野は永遠に強く猛々《たけだけ》しく、自分より長く生きていくのだと思っていた。

 だがそれらは、相手が年上で経済力があり、自分を女として目覚めさせてくれた男性であり、どんな文句をいっても笑ってきき過ごす包容力の大きさなどから、修子一人が頭の中で描いていた錯覚のようである。

 遠野といえども病気になって入院をする。ときには怪我もして、手術を受けてベッドに臥《ふ》す。

 その事実に、修子はそう簡単には馴染めない。

 だがそうはいっても、看護婦のいうことを信じないわけにはいかない。夢であって欲しいと思うが、看護婦が嘘をいうわけはない。

 修子は電話の前の絨毯《じゆうたん》の上に、ぺたりと坐ったまま溜息をついた。

 手術をして入院したというが、遠野はいまどんな恰好で寝ているのだろうか。ギプスを巻いているというから、片足を投げ出したまま仰向けにでもなっているのか。

 旅先だから、寝巻きや予備の下着などもなかったろうに。一人、会社の若い男性が従《つ》いて行くといっていたから、彼がいろいろ準備をしたのか。しかし男手では気が廻らないことも多いに違いない。

 修子は、痛みに耐えながらベッドで休んでいる遠野の姿を想像する。

 知らない土地の病院で一人で心細いだろうに。考えるうちに落着かなくなってくる。

 いっそ大阪へ行こうか。

 思いついて、時計を見ると十一時である。これからでは新幹線はないし、寝台車も無理かもしれない。行くとすると、やはり明日の朝の一番ということになる。

 幸い、明日は社長は出張で不在だが、休みをとるとはいっていない。

 突然で無理かもしれないが、頼むだけ頼んでみようか。そこまで考えて、修子は自分の身勝手さに呆れる。

 今日の夕方までは、遠野から電話がこなければいいと思っていた。要介と食事をしたほうが気晴らしになると思って出かけたが、その報いがいまきたようである。

「ご免なさい……」

 電話に向かってそっとつぶやく。

 別に遠野を嫌って避けたわけではない。ただ少し、気持がぶれただけである。

 その証拠に、怪我をしたときいただけで狼狽《ろうばい》し、明日にも大阪まで行こうとしている。

 修子は自分のなかに、そんな情熱が潜んでいたことに驚く。

 いままでいろいろ文句をいっていたが、いざとなると、やはり遠野のことが気にかかる。彼がいてこそ要介とも逢う気になるので、彼がいなくては、誰とも逢う気になれない。そんな一途な自分が、いじらしく新鮮でもある。

「よし、行こう……」

 いま遠野に尽さなくては尽すときはない。こんなときは、もう二度とないかもしれない。修子は自分を励ますように、膝を叩いて立上る。

「できることなら休暇をとって、しばらくいてあげよう」

 つぶやいてバスルームへ行き、洗面台の鏡を見て修子は立止った。

「まさか……」

 突然、修子は、遠野に妻がいたことを思い出す。

 まさか、遠野が妻を呼ぶわけはないと思いながら、怪我をして横たわっている遠野のかたわらに、妻が寄り添っている姿が浮かんでくる。

 地と空と山々と平原が、秋の大気のなかですっきりと分かれ、見渡すかぎり、不分明なところは一個所もない。澄明《ちようめい》とは、まさしくこうした情景をいうに違いない。

 その秋晴れのなかを、新幹線は一直線に西へ向かう。

 いま、電車は三島を過ぎたところである。

 右手に白壁の家やビルが並び、その先に富士山が見える。野や草花の果てでなく、密集するビルの先に富士山が見えるところが面白い。

 昔の人々がこの情景を見たら、驚嘆し、目を疑うに違いない。ビルと富士が共存する図なぞ、誰も想像できなかったに違いない。

 秋晴れの富士を見ながら修子はいっとき、遠野のことを忘れた。

 澄んだ空と秀峰のたたずまいが、旅に出る楽しさを思い出させた。

 そういえば、今日、東京駅で新幹線に乗るときも、修子は小さなときめきを覚えた。

 お弁当はなにを買って、どこに坐り、どんな人と会うだろうか。旅の目的とは別に、日常から逃れるということが気持を浮き立たせる。

 修子が再び遠野のことを思い出したのは、車窓から富士が消え、静岡へ近付いてからである。

 あと二時間少しで大阪へ着く。いま二時だから、大阪に着くのは四時過ぎである。それから病院までは一時間くらいかかるようである。

 修子が今日、朝の早い新幹線に乗れなかったのは、午前中に会社に出たからである。

 遠野が入院したからといって、すぐ休むわけにいかない。

 昨夜から考えた末、修子は、一旦、会社へ行き、いつものようにファックスや書類の整理を済ませてから、総務部長に、二日ほど休みたい旨を申し出た。

 理由は、「大阪にいる叔母が事故に遭ったので……」ということにした。

 実際、修子の母の妹が大阪にいるから、嘘とはいえないが、叔母の怪我くらいでなぜ大阪まで行くのか、ときかれたら困る。そのときのために、ただ一人の叔母で、身よりがないのだという理由を用意したが、そこまではきかれなかった。

 たまたま社長は不在だったし、有給休暇も残っていたので、部長は簡単に許してくれた。

 そのまま修子は午前中だけ仕事をし、昼過ぎに早退という形で会社を出た。むろん家を出るときから、旅行の準備をしてきたので、まっ直ぐ八重洲口へ向かった。

 昨夜の看護婦の話では、面会時間は午後一時から八時まで、といっていたから、多少遅くなってもかまわない。それより問題なのは、今夜のことである。

 遠野さえ承知すれば、修子はそのまま病室に付き添うつもりでいる。もらった休暇は一応、二日間だが、様子によっては、一、二日、延ばしてもかまわない。要は遠野の病状|如何《いかん》である。

 だが突然病院にいって、付き添いなぞできるのか。それ以上に、夫でもない人の許《もと》におしかけて、付き添っていてもいいのだろうか。

 不安だったので、修子は今朝早く病院に電話をして、付き添いがいるかいないかたしかめた。

 電話に出たのは、昨日の看護婦とは別の人だったが、いまのところは誰もいない、ということだった。

「いまのところ……」というのが気になるが、遠野が一人でいることはたしかなようである。

 それならやはり、側にいてあげたほうがいいだろう。

 修子は自分の着替えの他に、遠野のパジャマと下着をバッグに詰めこんだ。付き添うことを念頭において、動きやすいジーンズや前掛けも入れたので、大きめのバッグを持っている。

 大阪は、学生時代から何回かは行っているが、いずれも友達や会社の人と一緒に一、二泊しただけで、土地は不案内である。

 そんなところに一人でのりこんで大丈夫だろうか。病院の様子も看護婦さんも知らないだけに心細い。

 列車が大阪に近付くにつれて、修子は落着かなくなってきた。

 心配なあまり思いきって出てきたが、はたしてこれでよかったのか。少し早計というか、妻でもないのに、出過ぎたことをしているのではないか。

 秋の陽の輝く野面《のづら》を見ながら、不安が頭を掠《かす》める。

 だが、そうした不安とは別に、修子の気持は次第に高ぶってくる。

 とやかくいっても、いま、遠野を助けられるのは自分しかいない。そう信じ、実行することは、心地よい緊張感をそそる。

「もうじきですから、待っていて下さい……」

 車窓から目を離して、修子は心のなかの遠野に囁く。

 遠野の入院している病院は、大阪でも北の千里の近くにあるらしい。看護婦は新大阪から地下鉄を利用するようにいったが、よくわからないのでタクシーに乗った。

「城北病院……」というだけで、運転手は即座にうなずいた。

「初めて行くのですが、大きい病院なのですか?」

「そら、公立やから大きいですわ。二百ベッドくらいあるんやないですか」

 修子がうなずくと、運転手はさらに話しかけてくる。

「東京からですか」

「一寸、知っている人が入院しているので、お見舞いにきたのです」

「遠くから大変やね、どこが悪いんですか」

 運転手は話好きらしく、次々と話しかけてくる。おかげで退屈しなくてすんだが、道路は夕方のラッシュどきで混み、病院に着いたのは五時を過ぎていた。

 きいていたとおり、八階建ての大きな病院で、駐車場も広い。修子は正面玄関から入り、左手の案内所で、遠野の病室をきいた。

「右奥のエレベーターに乗って五階で降りて下さい。すぐナースセンターがありますから」

 いわれたとおり、修子は五階のナースセンターに行って、遠野の病室をきいた。

「これからお見舞いですか?」

 若い丸顔の看護婦が、時計を見ながら少し困った顔をする。

「夕食どきは、ご遠慮していただいているんですが……」

「でも、面会時間は八時までとききましたけど」

「食事が終ればかまいませんが、食事中は付き添いの方だけということになっていますので」

「その、付き添いにきたのです」

「遠野さんにですか?」

 看護婦はうしろにいた同僚と二言、三言話してから、修子のほうに向き直った。

「遠野さんのところには、付き添いの方がいますけど」

 修子は思わず、看護婦を見直した。

「今朝、お電話したときには、いらっしゃらないと……」

「五〇八号の遠野さんですね、昨夜遅く手術をして、ギプスを巻いている……」

「そうききましたけど……」

「じゃあ、今日、お昼過ぎから付いてたんじゃありませんか」

「誰でしょう?」

「よくわかりませんが、ここから三つ先の個室ですから、行ってみて下さい」

 看護婦はそれでいいだろうというように、奥へ去っていく。修子はバッグを持ったまま廊下の先を見た。夕食どきらしく、中程に白いアルミの配膳車が停り、そこから付添婦らしい人がお膳を運んでいる。

「お食事ですよ……」「ありがとう」といった声が廊下に交錯する。

 そのなかを、修子はバッグを持ったままそろそろとすすんでいく。

 廊下の右側が偶数の番号の病室になっているらしく、看護婦のいうとおり三つ目のドアのわきに、「遠野昌平」という名札がかかっている。

 修子はいったんその前を通りすぎ、ドアが閉まっているのをたしかめてから、もう一度病室のほうを振り返った。

 誰かがきているとしたら、遠野の妻なのか。今朝の時点では誰もいなかったのだから、昼頃にでもきたのだろうか。

 だが、遠野は妻とはほとんど口をきかず、家庭内離婚と同じようなものだといっていた。

 その妻が、大阪にまでくるだろうか。いやそれ以上に、遠野が妻を呼ぶだろうか。

 修子は再び病室に近づき、耳を澄ませた。

 相変らずドアは閉められたまま、静まり返っている。このなかで遠野一人、黙々と食事をしているのか、それとも付き添いの女性が介助しているのか。

 それにしても、こんなところでうろうろしていては怪しまれる。

 なかへ入って行く勇気もないまま振り返ると、廊下の先から配膳車が戻ってくる。食べ終った人から、順に食器を集めているらしい。

「どうしよう……」

 つぶやき、もう一度名札を見上げたとき、突然、ドアが開いて女性が出てきた。

 紺のスカートにピンクのセーターを着て、両手で膳を持っている。

 その顔を見て、修子は思わず叫びかけた。

 年齢はまだ十七、八か、童顔で髪をうしろに束ねているが、顔が遠野の妻にそっくりである。

 女性はそのまま配膳車のほうに向かい、膳を返すとまた戻ってくる。

 慌てて壁ぎわに身を寄せると、彼女はちらと修子を見ただけで、再び部屋へ戻っていく。

 ドアが閉まり、女性の姿が完全に消えたところで、修子は一つ息をついた。

 いまの顔は遠野の妻に似ているが、目のあたりは遠野にも似ている。

「そうか……」

 修子はゆっくりとうなずいた。

 付き添いの女性は、遠野の娘に違いない。

 遠野には男と女の子がいて、女のほうは今年、大学に入ったときいたことがあるから、その娘なのであろう。

 大阪で入院したときいて、妻に代って付き添いにきたのかもしれない。いや、妻ははじめからくる気はなく、娘をよこしたのか。それとも遠野が娘に頼んで、きてもらったのか。いずれにしても、遠野の側に娘がいることはたしかである。

 修子はいま一度名札を見上げてから、ナースセンターのほうへ移動する。

 そこを過ぎると踊り場になり、その先にエレベーターがあるが、その手前で修子は再び立止った。

 このまま帰ろうか、それとも思いきってドアをノックしてみようか。

 遠野の娘なら初対面だから、ただ「お見舞いにきました」といえば問題はないかもしれない。名前をきかれても、別の名をいえば妻に知られることはない。

 だがいくら偽名を使ったところで、遠野と話しているうちに、娘の方でおかしいと思うかもしれない。たとえ修子が他人行儀に振舞ったとしても、遠野がうまく装えるかどうかわからない。もともと正直な人だけに、娘を前に上手に演じられるという保証はない。

 それに表面だけつくろっても、若い女性は敏感だから、父の好きな人、と察するかもしれない。それも東京からわざわざきたと知ったら、ただの関係とは思わないだろう。

 もっとも、彼女が母親に内緒にしてくれれば済むことだが、そこまで望むのは虫がよすぎるかもしれない。母と娘の絆《きずな》は強いから、黙っているとは思えない。

 考えるうちに、修子はナースセンターの前を通り抜けて、エレベーターの前まできていた。

「やはり、帰ろうか……」

 つぶやいて、もう一度廊下の先を振り返る。

 ここから病室までは、三十秒もかからない。そのドアをノックしてなかへ入れば、すぐ遠野に逢える。せっかく休暇をとって大阪まできたのに、このまま帰るのは残念である。バッグのなかのパジャマも下着も無駄になるし、それを渡すことはあきらめたとしても、一目だけでも逢えないものか。

 遠野もベッドに臥《ふ》したまま、待っているかもしれない。

 考えるうちに、修子の足は自然にまたエレベーターから病室のほうへ戻っていく。

 だがドアの前まできて、いま見た娘の顔が甦《よみがえ》る。

 もう子供ではないのだから、自分の両親の仲が悪いことぐらい知っているに違いない。もしかすると、父に愛人がいることも気がついているかもしれない。

 しかし知っていたとしても、あのあどけない顔を見ると切なくなる。

 大学一年生だといっていたが、さすがに清純で初々しい。そんな娘を父の前で悲しませたくない。たとえ父の浮気を知っていても、会わなくてすむものなら会わないにこしたことはない。

 頭で想像しているのと、現実に会うのとでは、天と地ほど違う。その違いを、修子は遠野の妻と会ったときに実感している。

 いまさらいっても遅いが、遠野の妻とだけは会うべきではなかった。会うまでは好奇心で、会ってみたいと思ったこともあったが、いざ会ってみると事態はまったく違ってしまった。

 それ以来、修子の脳裏に妻の顔が焼き付き、忘れられなくなった。

 しかもそれがきっかけで、遠野とも、いままでのように素直に接しられなくなってしまった。遠野がなにをいっても、その先に妻の存在を感じて気持が騒ぐ。

 これと同じ辛さは、遠野の妻も味わっているに違いない。

「やっぱり、帰ろう……」

 自分にいいきかせると、修子は再びバッグを持って、エレベーターのほうへ戻りはじめた。

 京の紅葉はいまが盛りである。

 谷底を流れる清流にそって奥へすすむにつれて、紅葉はさらに濃さを増してくる。

 そういえば以前、遠野と一緒に京都に来たとき、紅葉のもとは、「もみいづる」という動詞からきたのだときいたことがある。

 たしかに真紅の紅葉をみていると、「もみいづる」という言葉が実感となって迫ってくる。狂ったほど赤くなった紅葉には、身を悶えて叫ぶ女の執念のようなものが滲《にじ》んでいる。

 いまも谷あいにいる修子の正面に、そのもみいづる紅葉がある。まわりに黄葉と松の緑があるだけに、その濃い赤が一層きわ立っている。

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