饭饭TXT > 海外名作 > 《爱人(日文版)》作者:[日]渡边淳一【完结】 > 爱人.txt

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作者:日-渡边淳一 当前章节:15442 字 更新时间:2026-6-15 15:59

 修子はふと、ある一句を思い出した。

「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」

 この句もたしか旅の途中で遠野に教わったものである。詠んだ人は女性というだけで、名前は忘れてしまったが、句だけは不思議に覚えている。初めてきいたとき、修子はよく意味がわからず、文字に書いてもらって、はじめて句意がのみこめた。

 血のように燃える夕紅葉を見ているうちに、その樹によじ登り、紅葉のなかに溶けこみたくなってくる。だが樹に触れた瞬間から、女はたちまち狂女に変貌してしまう。

 美しいが、不気味な句である。朱に燃える紅葉には、どこか女を狂気にかりたてるような妖しさが潜んでいるのかもしれない。

 いまはまだ夕暮れには間があるが、谷あいは陽が翳《かげ》り、左手の斜面を通して射し込む陽が、その一本の紅葉に集中している。

 見詰めるうちに、修子は次第に紅葉の精に引きこまれそうな気がして目をそらした。

 まだ、自分は狂女にはなっていない。正常で、冷静に周囲のものを見詰められる余裕はある。

 だが昨日から何度か、危うく平静さを失いそうなときがあった。いけないと思いながら、いっそ思いきって遠野の許《もと》へ駆けていこうとする。

 昨夜から今日にかけては、そんな自分との戦いであった。

 いや、いま紅葉を見ているときでさえ、修子のなかには、狂女になりかけている部分がある。

 昨日、遠野に逢うのをあきらめて、大阪の病院を出たのは六時を少し過ぎていた。

 すでに夜で、あたりは病院の前とも思われぬほど、明りがあふれている。その光りに誘われるように、修子はタクシーに乗った。

「お客さんどこまで?」

 運転手にきかれて、修子ははじめて行く当てがないのに気が付いた。

「新大阪へ……」

 見知らぬ街では、結局着いたところに戻るよりない。

 二時間前、夕暮れの道を走ったと同じ道を、再びもどっていく。来たときといまと、変っているのは、夕暮れが闇になっただけである。

 新大阪に向かいながら、修子はなおどうするべきか迷っていた。

 これから東京に帰るには早すぎるが、といって一人で残るのも心細い。

 修子が京都に行こうと思いついたのは、切符売場に近づいて、新幹線の出発時刻表を見上げてからだった。

「東京」「名古屋」という文字とともに、「京都」という文字が並んでいる。それを見るうちに、つい京都行きの切符を買ってしまった。目的もなく、その場での思いつきにすぎない。

 だが考えてみると、京都には遠野と数回行ったことがある。最も新しいのは去年の秋、いまより少し遅かったかもしれない。すでに紅葉は終りかけていたが、二人で東山一帯の紅葉を見て步いた。

 大阪は未知に等しい街だが、京都なら多少、馴染みがあるし、遠野ときた思い出もある。それに京都にいれば、明日また思い直して大阪へ戻ることもできる。

 それらは切符を買ってから、修子が自分で考え出した理由だが、真先に京都行きを思い立ったところをみると、初めから京都へ行くつもりであったのかもしれない。

 結局、修子は昨夜、京都の三条にあるホテルに泊った。

 不思議なことに、大阪にいるときは気持が苛立ち、落着かなかったのが、京都に入ると自然に心が和み、そのうち今回の旅の目的が京都へくることであったような錯覚にとらわれた。

 夜、一人で食事をし、河原町通りなどを散步しても、修子はさほど淋しさを感じなかった。久しぶりに京都にきた解放感もあったが、同時に、遠野のいる大阪に近いという安心感もあった。

 いまからでも、行く気になれば行けるという思いが、修子の気持を穏やかにさせていたようである。

 一夜明けて今朝、修子は再び、大阪へ行くことを考えた。

 昨日の早退を含めて、正規にもらった休暇は今日までである。もっとも事情によって一日や二日なら延ばすことはできる。

 だが遠野に逢えぬのに、何日も京都にいても仕方がない。

 朝食を終えてから、修子は一度、病院へ電話を入れてみたが、交換手が出たところで、受話器をおいてしまった。

 遠野の様子をききたいが、付き添いの娘がでるかもしれない。たとえ看護婦にきいたところで、逆に名前を尋ねられそうである。

 余計なことをしてはいけない、という冷静さが、修子にはまだ残されていたようである。

 かわりに、東京の自分の部屋へ電話をしてみたが、遠野からの新しい連絡は入っていない。

 昨日の看護婦は、手術後二、三日は絶対安静だといっていたから、入っていないのは当然だが、修子はなにかはぐらかされた気持になった。

 やっぱり病室まで行って逢うべきかもしれない。

 考えるうちに、廊下で会った遠野の娘の顔が甦ってくる。

 たとえ行ったところで、あの娘の見ている前で遠野と逢うのは辛い。あの娘が横にいるかぎり、ゆっくり話すことはできないし、まわりを気にして逢うくらいなら、逢わないほうがいいかもしれない。

 途中から、娘の顔は遠野の妻の顔に変っていく。

 病院へ行く決心がつかぬままチェックアウトの時間が迫って、修子は部屋を出た。

 これから東京へ帰るにしても時間があるので、修子は荷物だけをクロークに預けて、紅葉を見に行くことにした。

 平日なので人出は少ないかと思ったが、タクシーの運転手にきくと、この時間帯では、すでに高雄のほうはかなり混んでいるという。

 修子は去年、遠野と二人で東山を步きながら、高台寺の近くの谷あいの径《みち》にまぎれこんだときのことを思い出した。高名な寺の庭園と違って、あたりは静まり返っていたが、その静寂がさらに紅葉の美しさを引き立たせた。

 あやふやな記憶をたどるだけなので迷ったが、三十分ほどして、修子はようやくその小径を見出した。右手は大きなお屋敷らしく、竹の柵が続いているが、それも半ば以上は朽ち、左手は小山が迫り、そのあいだを疎水が流れている。

 谷あいの紅葉に惹《ひ》きつけられて、修子は疎水べりの小径を奥へすすんで行く。

 突然、陽が射して、目の前の紅葉が真紅に染まる。陽が鈍いとき、紅葉は濃い赤色を呈しているが、陽が射すと明るい朱色に変る。

 ときに雲の動きで、一本の紅葉がさまざまな色を浮き立たせる。

 陽を受けて輝き出した紅葉に向かって修子はそっと手を差しのべた。

 一つ一つの葉は五センチにも満たず、先が五裂から七裂に分かれている。その各々に陽が照り返し、黄金の小波を見るようである。

 ふと見ると、光りのなかで|掌《てのひら》が透けてみえる。

 ときどき、遠野は修子の手を見ながら、白く透けるようだといってくれた。ときには手を撫ぜながら、陽にかざしたりもした。修子自身より、手のほうを愛しているのかと思うほど、手にこだわっていた。

 いま、紅葉のなかの掌を見るうちに、修子は濃密に遠野を感じた。

 かつて手に触れられ、見詰められた感触が、忘れていた遠野の愛撫を思い出させる。

「なぜ……」

 深山の紅葉のあいだに彷徨《さまよ》いながら、艶めいた感触にとらわれたことに、修子は驚き、たじろいだ。

 このまま一人でいると、紅葉の狂気にとりこまれるかもしれない。

 突然、静寂が怖くなり、修子は谷を戻りはじめた。

 なだらかな坂を下り、紅葉の下を抜けると疎水が広くなり、径が開ける。山ぎわのせいか、すでに紅葉は散りはじめ、枯枝の手前でとどまった落葉が川床を赤く染めている。

 紅葉はさらに小径や疎水を囲う石積みにも散り、まわりの羊歯《しだ》や杉苔とも重なり合っている。

 谷から小径を経て、少し広い道に出たとき、陽はまた翳ってきた。

 先程、谷あいに陽が射したのは、雲が切れた束の間であったようである。

 行く手にお休み処があるが、流しの車はなさそうである。

 修子はさらに石畳みの道を東大路に向かって下ったが、中程まで行ったところで電話ボックスが目にとまった。修子は一旦、その前を行きかけて立止り、それから数步戻ってボックスのなかへ入った。

 ガラスのドアの外には、やはり紅葉を求めて散策する人々が行き来するが、誰もボックスのなかには関心がなさそうである。

 修子は呼吸を整え、それから再び遠野の病院へ電話をしてみた。

 昨日から三度目なので番号は覚えている。

 午後のせいかすぐ交換手が出て、遠野のいる病棟のナースセンターを接《つな》いでくれる。

「もしもし……」

 修子の目の前で紅葉が燃えている。

「すみませんが、五〇八号室の遠野さんを呼んでいただけますか?」

「遠野さんですか……」

 今度の看護婦の声も初めてきく声である。

「遠野さんは手術したばかりで電話口には出られないので、付き添いの方でよろしいですか」

「かまいませんけど……」

 遠野が出られないことは覚悟のうえである。

 ずいぶん長い時間のようだが、ナースセンターから呼びにいって、出てくるまでには結構かかるのかもしれない。目の前のダイヤルを見詰めたまま、修子は何度か切りかけた。あと五つ数えるあいだに出なければ切ろうと思っていると、人の近づく気配がした。

「あのう、遠野ですけど……」

 瞬間、修子は髪をうしろに束ねた若い女性の顔を思い出した。

「遠野さんのお嬢さんですね」

「そうですけど……」

「お父さまのご容体、いかがですか?」

「どなたさまでしょうか?」

「カタギリ」といいかけて、修子は「カタノ」といいかえた。

「片野と申しますけど、あなたは?」

「娘のセイコです」

 片野では、遠野の妻に気付かれそうだが、まったく名前を変えたのでは、遠野に伝わらないかもしれない。

「実は……お父さまの会社の関係のものですけど、お怪我をしたときいたものですから……」

 落着くように、修子は自分にいいきかせた。

「足の骨を折られて手術をされたときいたのですが、いかがですか?」

「はい、おかげさまで……」

「そのまま、ずっとそちらに入院なさるのですか?」

「いえ、まだはっきりはわかりませんけど……」

「じゃあ当分はそちらに?」

「父は東京に戻りたいようですけど……」

「いま、痛みは?」

「大体、おさまったようです」

 娘は尋ねることに、最小限の答えしか返してこない。

「あのう、あなたはずっとそちらに付き添っていらっしゃるのですか?」

「はい」

 修子はさらに一つ、息をのんでからきいた。

「お母さんは、いらっしゃらないのですか」

「母は一寸……」

 娘の声が少しくぐもった。

「じゃあ、あなた一人で?」

「ええ……」

「あなたは学生さんですか?」

「そうです」

「お父さまの付き添い、大変ですね」

 しつこいとでも思ったのか、娘は返事をしない。修子は慌てて話題を変えた。

「わたしども、お父さまの会社に、大変お世話になっているものですから、心配していたのですが、お話をきいて少し安心いたしました」

「………」

「いずれ、東京にお帰りになったら、お見舞いに伺いたいと思いますけど、お父さまによろしくお伝え下さい」

「あのう、なんというお名前でしたか」

「カタノと申します」

「どこの会社の?」

 思いがけない質問に修子は詰った。

「丸の内の……東京硝子といいます」

「東京ガラス……」

 クリスタルとガラスでは大分違うが、それ以上はっきりいうのは危険である。

「じゃあお大事に。お父さまを大事にしてあげて下さい」

「ありがとうございます……」

 受話器をおいて、修子は大きく息を吐く。電話を一本かけただけなのに、大仕事をしたような疲れ方である。

 修子はいま一度、息を吸って髪を掻き上げた。

 思ったとおり、若い女性は遠野の娘であった。しかも、まだしばらくは遠野の病室にいるようである。いまの応対からみると、女性からの突然の電話に戸惑ったようだが、それが父の愛人とは、気が付いていないようである。

 しかしそれにしても、遠野はいまの電話を、修子からだとわかってくれるだろうか。

「東京硝子の片野」といったら、なにかを感じるはずである。怪我を知っている人はかぎられているから、修子からだと察するに違いない。

 陽が傾いて、山ぎわの道は急に冷えてきたようである。その冷気に追われるように坂を下りながら、修子は考える。

 せっかく大阪まできたのに、どうして自由に逢えないのか。これから遠野を奪うとか、自分の部屋に連れて行くというわけではない。

 ただ、心配で駆けつけてきただけなのに逢えぬとは、どういうことなのか。

 このまま、遠野が重態になっても、万一、死んでも、逢うことができないのか。

 いざというとき、見舞うこともできない関係とはなんなのか。

「帰ろう……」

 修子はつぶやくと、底冷えの京から逃れるように足を早めた。

 薄  陽

 暮れかけた冬陽《ふゆび》を受けて、電車が遠ざかって行く。忍び寄る冷気のなかで鈍く光る線路がゆっくりと左へカーブしている。ホームの端で、修子がそれを眺めていると、彼方から新しい電車が同じカーブを描きながら近付いてきた。

 日曜日の夕暮れどきだが、私鉄と交叉する駅のせいか、車内はかなり混んでいる。平日と違って家族連れや若い二人連れが多い。修子はその中程に立って吊り革にもたれながら軽い疲れを覚えた。

 今日は昼から眞佐子の家に招かれて、午後のいっときを過ごしてきた。

 眞佐子も夫も甲斐甲斐しくもてなしてくれて、とくに眞佐子は修子の好物のクラムチャウダーとチーズケーキを作って待っていてくれたし、眞佐子の夫は自慢の洋蘭を見せてくれたうえ、何枚も写真を撮ってくれた。さらに帰りには、わざわざ自分の車で駅まで送ってくれた。

 二人が心から歓待してくれているのはわかったが、修子は一人できたことを悔いていた。

 眞佐子の結婚後、品川の彼女の家を訪れるのははじめてなので、当初は絵里と二人で行く約束になっていた。日曜日の昼に渋谷で落合う時間まで決めていたのに、絵里に急な仕事が入って行かれなくなった。

 当日の朝それを知って、修子もやめようかと思ったが、眞佐子は、修子一人でもいいから来て欲しいという。

 それでやむなく出かけたが、やはり一人で行ったのは間違いだったようである。

 眞佐子と夫が、仲睦まじく尽してくれればくれるほど、修子は孤独を感じた。むろん二人の前ではそんな素振りは見せず、彼等に合わせて明るく話し、笑ったりもした。途中からでてきた四歳の子供を抱き、一緒に写真に写ったりもした。幸せ一杯の新婚家庭に招かれて、修子も満ち足りた表情をつくって見せたが、正直いって、幸せすぎる二人を見すぎたのかもしれない。

 むろん眞佐子と夫が、これ見よがしに振舞ったわけではない。それどころか、修子を一人にさせぬよう、いろいろと気をつかってくれているのがわかった。

 しかしそんな思いやりがわかればわかるほど、修子は居辛くなった。

 そのうち、眞佐子が少し甘えて「あなた……」とか、「うちの主人が……」という言葉さえ気になってきた。

 さらには眞佐子の夫が、「今度は、修子さんが結婚する番だなあ」とか、「もしよかったら、僕の友人を紹介したいけど」といった言葉まで胸にひっかかってくる。

「どうぞ、わたしのことなど放っといて、お二人でご自由に仲良くなさって下さいませ」

 修子はそういいたい気持をおさえて苦笑した。

 もしここに絵里がいたら、「修子には修子の生き方があるわよ」と、ぴしゃりといってくれたかもしれない。あるいは「あまり見せつけないでね……」と、やんわり皮肉ったかもしれない。

 途中から、修子は仕事にかこつけて逃げた絵里を怨んでいた。

 要領のいい絵里のことだから、初めからつまらないとみて急な仕事をつくったのか。まさかそこまで企むとは思えないが、二人の歓待を一身に受けて、修子はいささか疲れてしまった。

 二時間ほどいて、帰ろうとすると、まだ早いからといって引きとめられ、三時を過ぎてようやく解放してもらった。

 つい二カ月前まで、眞佐子は最も親しい友人であった。絵里と三人組といっても、心情的には眞佐子のほうに親近感を抱いていた。

 だがいまは、眞佐子ははるかに遠い存在になったようである。

 それも仲違《なかたが》いしたり、喧嘩をしたわけではない。相変らず眞佐子は誠実で子供じみた稚《おさな》さももっている。

 だがその誠実さは、自分一人で満足している誠実さで、いまの修子にはむしろ鬱陶しい。

 もし眞佐子が責められるとしたら、その押しつけがましさに気付かず、相手も自分と同様、楽しんでいると思っている無神経さである。

 それも眞佐子は悪気でやっているわけではなく、誠心誠意よかれと思ってやっているのである。

 そのことはよくわかりながら、修子のなかで少しずつ渣《おり》のようにたまっていくものがある。別に嫉妬するわけではないが、なにか自分と馴染めぬ世界にいるような苛立ちにとらわれた。

 いま一人になって感じる疲れは、そういう世界で無理に笑顔をつくってきた反動のようでもある。

 それにしても、眞佐子は結婚して本当に幸せそうである。もともと、女は結婚するものと信じ、結婚して家庭に入ることになんの疑いももっていなかった彼女のことだから、当然かもしれない。

 初め眞佐子の婚約をきいたときは、相手が再婚で子供までいるので、うまくいくかと心配したが、それは杞憂に終ったようである。

 幸せになれてよかった、と思うが、もし修子も同じ条件で結婚するかときかれたら、首を捻《ひね》らざるをえない。

 たとえ眞佐子がうまくいったからといって、自分もうまくいくとはかぎらない。眞佐子の幸せを羨ましいとは思っても、単純に同じ道をたどる気にはなれない。

 マンションへ戻ると、初冬の短い日はすでに暮れかけていた。

 ベランダを開けて空気を入れ換え、コーヒーを飲みながら、修子は母の年齢《とし》を思った。

 三十三歳のとき、母はすでに自分と弟達三人の子供を抱えて、| 姑 《しゆうとめ》に仕えていた。もともと彼女は絵が好きでデザイナーのような仕事をしたかったようである。

 だが結婚して家庭に入り、育児に追われるうちに仕事をするチャンスを逸し、子育てが終ってからでは自信がなく、そのまま外へ出る機会を失ってしまったようである。

 自分の生き方に悔いが残ったせいか、母は修子が語学を身につけ、仕事をすることに反対はしなかった。年頃に結婚をすることを望んではいたが、仕事をやめろといったことはない。

 そのせいもあってか、修子は好きな人と結婚できても、単純に家庭におさまる気はなかった。それより家庭は家庭として仕事も続けていきたい。欲張っているかもしれないが、子供が生れても、その方針は貫きたいし、それが不可能なような結婚ならしなくてもいい。そう考えているうちに、気が付くと三十歳を越えていたというのが、偽らぬ実感である。

 他人のせいにするわけではないが、修子が独りでいて比較的暢んびりしていたのは、母の轍《てつ》は踏みたくないという思いがあったからかもしれない。

 だが三十三歳という年齢に達したいま、母より充実した生活をしているかと考えると自信はない。

 これまで外資関係の会社で社長秘書として、一応華やかとみえる生活を送ってきたことに悔いはないが、いまの年齢でそれがベストの選択であったともいいきれない。

 短い日が、思いがけなく自分の年齢を思い返させたようである。

 修子は迷いを振り払うようにコーヒーを飲み終えると、午前中にした洗濯物にアイロンを掛け、箪笥《たんす》を整理した。

 そのまま奥の部屋に籠っていると、絵里から電話があった。

「どうだった、眞佐子のところ……」

 例によって、絵里はいきなりきいてくる。

「行かなくて正解よ、あてられて疲れてしまったわ」

 修子が説明すると、絵里は「眞佐子らしいわ……」と苦笑する。

「で、子供はうまくなついているの?」

「ママと呼んでいたから、結構いいんじゃないかしら」

「一度に妻と母親になって、眞佐子も大変ね」

「でも、ご主人がとっても優しい人で、幸せそうよ」

「彼のほうは再婚だから、少し負い目があるのよ」

 絵里は彼女らしい解説をくわえるのを忘れない。

「じゃあ、あなたも早く結婚しろ、といわれたでしょう」

「そのとおり、何度もいわれました」

「新婚ほやほやのくせに、もう先輩|面《づら》しているわけね。眞佐子なんかに威張らせては駄目よ」

「こちらは結婚したことがないんだから、仕方がないわ」

「まさか、弱気になったんじゃないでしょうね」

「そんなことはないけど……」

 修子が言葉を濁すと、絵里が声を低める。

「ところで、彼はどう?」

 遠野のことに話題が変って、修子はソファの上で膝を組み直す。

「あと、一週間くらいで退院するみたいだけど……」

 遠野は大阪の病院に五日間いたあと、ギプスを巻いたまま車で市谷の病院に移った。東京に戻ってからは、遠野が毎日のように電話をくれるので、様子はよくわかる。

 医師の話では、一カ月経てばギプスをはずし、そのあと半月くらいリハビリテイションに通えば、もとどおりになるという。

 当分は骨が接《つ》くのを待つだけなので、ギプスさえ巻いておけば、退院してもかまわないといわれたが、松葉杖でベッドの生活をしなければならないので、そのまま病院においてもらうことにしたようである。

 もっとも遠野は病院に残る理由を、家に戻って妻の世話になりたくないからだといっていた。

 そのまま、遠野は病室に電話を持ちこんで、口頭で仕事の指示をしているらしい。三光電器の仕事や、修子と一緒にヨーロッパに行けなくなったことが気にかかるようだが、それよりもまず一日も早く治ることである。

「あなた、まだお見舞いに行ってないの?」

「………」

 遠野が東京へ戻ってきてから、修子はまだ見舞いに行っていない。

 その前、大阪へ行ったときも、結局逢わずに帰ってきたが、そのことを絵里にはまだ告げていなかった。

「今度のところは、付き添いはどうなってるの?」

「もう大分|快《よ》くなったし、完全看護だから誰もいないわ」

 東京に移ってから、遠野の病室には付き添いがいないようだが、修子の頭からは遠野の妻と娘の顔が消えない。

 たとえいまは付き添いはいなくても、なにかの用事で突然、彼女達が現れないとはかぎらない。実際、病室から動けぬ体では、下着や衣類はもちろん、郵便物や日用品など、家から運ばねばならぬものがあるはずである。妻とは不和といっても、それくらいのものは届けにくるのではないか。

 病室には社員もきているようだが、彼等に会うのも気が重い。社員なら仕事のためという大義名分があるが、修子にはこれといった理由がない。そんな身で、のこのこ出かけていって、夫人に会ったのでは、これまで耐えてきたのが無駄になる。

 病院に行かないのは、修子の遠慮とともに、意地でもあった。

「あなたは、深刻に考えすぎるのよ」

「そんなことないわ、あの人は別の方のご主人ですから」

「それじゃいっそ、初めからあなたの部屋に連れてきたら、よかったのよ」

「なにをいうの……」

「松井須磨子のように。そうしたら向こうも諦めるでしょう」

 大正時代、新劇のスターであった松井須磨子は、妻子ある演出家の島村抱月を愛して同棲した。そのうち、抱月は悪性の流行性感冒から肺炎を併発したが、須磨子は抱月を入院させると、妻子に奪われることを恐れて、芸術座のわきの自分達の部屋から移させなかった。

 だが充分手当てもできぬまま、須磨子が舞台稽古に出ているあいだに、抱月一人、孤独のままに息を引きとった。もし病院に移しておけば、抱月は一命をとりとめたかもしれぬが、須磨子には妻に渡せぬ意地があった。

「わたしは、そんなに強くはないわ」

「でも、そうでもしなければ、奪《と》れないでしょう」

「待って……」

 たしかに修子は遠野を愛してきたが、是が非でも、彼を妻の手から奪いたいと思ったことはない。それが甘いといわれようとも、お人好しといわれようとも、いま逢っているときだけの遠野を愛せたらそれでいい。ましてや、遠野が入院したからといって、それを機会に彼を独り占めしようなどとは思わない。

「また、あなたのお利口さんが出てきたわね」

「お利口とは違うわ……」

「とにかく、一度くらいお見舞いにいったほうがいいわ。向こうも淋しがっているでしょう」

「毎日、電話で話しているから、大丈夫よ」

「でも、顔を見ると見ないとでは違うわ。いまさら恐れることはないでしょう」

 修子がいま、病院に行かないのは、遠野の妻や娘に逢うことを恐れているからではない。むろんそんな状態は避けたいが、それとは別に、これを機会に遠野との関係を考えてみたいと思っているからでもある。

 一体、このまま、遠野との関係を続けていっていいのか。それともこのあたりで別の生き方を探すべきなのか。遠野の入院は、そうしたことを真剣に考える機会を与えてくれたともいえる。

「あなたはやはり、遠野さんが好きなのでしょう」

 修子は少し考えてから、うなずく。

「そうね……」

 好きかときかれたら、「そうだ」と答えるよりない。その答えは、遠野と知り合ったころといまと変りはない。

 だが、「好き」という答えの内容を考えると、微妙な変化が生じているようである。

 いまは「好き」と答えながら、そのなかで少し戸惑っているものがある。かつては遠野のすべてが好きであったのが、いまはある状況で、という条件が必要かもしれない。もっとも、それがどのような条件か、修子もいま一つわからない。

「今度の入院で、彼のほうもきっと考えてると思うわ」

「なにを……」

「あなたのことを。病気なんかになると、改めて、自分やまわりのことがよく見えるようになるでしょう」

「少し、冷静になれるわね」

「冷静に?」

 絵里はきき直してからいった。

「そういう面もあるかもしれないけど、かえって燃え上るものじゃないかしら」

「………」

「もしかすると、大阪まで行ったんじゃないの」

 たしかにあのときは、不安のあまり大阪まで駆けつけたが、いまは少し醒めている。醒めたというのがいい過ぎなら、いくらか落着いて、遠野と自分のことを考えられるようになった、というべきかもしれない。

「どうして、行ったのかしら……」

「そんなこと、あなたからきかれても困るけど、好きだからでしょう」

 そうはっきりいわれるとうなずかざるをえないが、いま修子のなかでおきつつある変化は、修子自身でもうまく説明できそうもない。

 一週間、修子はなにも考えずに働いた。

 といっても、秘書の仕事が突然、増えたり、来客が多くなったわけではない。日によって多少の波はあるが、仕事の量はさほど変らない。

 だがやる気になれば、秘書の仕事はいくらでもある。

 たとえば、これまでの来客名簿や新聞切り抜きの整理、戸棚の模様替えなど、暇をみてやりたいと思っていたものに積極的に取り組んだ。さらにはカーテンを明るい色に替え、テーブルクロスとコーヒーセットも買い替えた。

「新鮮な感じになって、気持がいいね」

 社長は素直に喜んでくれたが、それが修子の個人的理由からとは気付いていないようである。ともかく忙しく動き廻っていると、プライベートなことは忘れられる。

 会社にいるあいだ、修子は遠野のことをほとんど思い出さなかった。

 だが夜になると、待っていたように遠野から電話がかかってくる。

 ほとんどが午後八時前後で、この時間帯が消燈前の最もかけやすいときなのかもしれない。

 その日の電話も、八時少し過ぎにかかってきた。

「どうしている?」

 電話はいつも、その一言からはじまる。

「別に、変りないわ」

 修子は普通に答えるが、遠野はその声から、なにかを感じとろうとしているようである。

「忙しいのか?」

 その質問から、今日一日のことを漠然と話しだす。遠野も病院の様子や、自分の仕事のことなどを話す。

 来週早々にはギプスをとってX線写真を撮り、それでよければ退院できること、担当の医師が三十半ばで、遠野と同じ千葉の出身であること、その医師が主任の看護婦と仲がよさそうなこと、今夜は病院食を食べる気がしなくて、寿司の出前をとったこと、などをとりとめもなく話す。

 修子はそれらに相槌をうちながら、ときどきコーヒーを飲む。いつも遠野の話は長くなるので、他のことをしながら暢《の》んびりときく。

 ひとしきり話が終ったところで、遠野が思い出したようにいう。

「今日、そちらから電話をくれるはずだったけど……」

「これから、しようと思っていたのよ」

 いいわけのつもりではなかったが、遠野はそう受けとったのかもしれない。

「病室でも、あまり遅い電話はまずいんだ」

 仕事のために必要ということで、遠野は医師の許可をえて、病室に携帯電話を持ち込んでいた。個室にいるのだから、いつかけてもよさそうなものだが、消燈のあとでは、まわりの病室に遠慮があるらしい。

「明日はどうなんだ?」

 きかれて、修子はスケジュールを思い返す。

「一寸、食事に行くかもしれません」

「誰と?」

「アメリカのお客さまです」

 相手は、会社の新製品の発表会のときに知った、アメリカの工業デザイナーだった。

「二人でか?」

「多分、そうなると思います」

「気を付けたほうがいいな、彼等は手が早いから」

「まさか……」

 たしかに外人は女性の扱い方に手慣れているが、それですぐ口説くというわけではない。それに万一、口説かれたとしても、そんな簡単にのるわけもない。そのあたりのけじめはわかっている。

「何時に帰る?」

「そんなに、遅くはなりません」

「じゃあ、十時に電話をする」

 以前、遠野は修子の行動を制約するようなことはなかった。食事に行くといっても、「そうか……」とうなずくだけで、相手や行先もほとんどきかない。たまにきいたとしても、「あまり遅くなるなよ」というくらいであった。

 それが「手が早い」などというところをみると、入院しているうちに気が弱くなったのか、それとも嫉妬深くなったのか。

「明後日《あさつて》は土曜だけど……」

 遠野が思い出したようにいう。

「午後にでも、病院へ来てくれないか。築地のマンションから、下着と一冊、持ってきて欲しい本がある」

「でも、もうじき退院なさるのでしょう」

「しかし、レントゲンの結果でどうなるかわからない」

「お嬢さまに、頼んだら……」

「あの子はマンションの鍵を持っていない。鍵を持っているのは修だけだ」

「それじゃ、お部屋から取ってきて、病院へ送ります」

「駄目だ、急ぐんだよ」

「明日、朝のうちに取りにいって送れば、明後日には着くでしょう」

「修に持ってきて欲しいんだ」

 どうやら、下着と本が欲しいというのは、修子を呼びつけるための口実のようである。

「修はどうして、病院に来てくれないんだ」

「別に、理由なんかありません」

「じゃあ、いいだろう。ここは個室で誰にも気がねすることはない。もう、二十日以上も逢っていないんだぞ」

 修子の脳裏にまた遠野の顔が甦ってくる。たしかに二十日以上も逢っていないが、修子のなかにある遠野の顔は意外に新鮮である。

「頼むよ、いいだろう」

 修子が黙っていると、遠野がかすかにつぶやく。

「冷たい……」

 瞬間、修子は目を閉じた。

 いま、遠野に逢いに行かないのは、冷淡だからではない。実際、冷たいのなら、こんな話を延々と続けてなぞいない。それより遠野に逢いに行かないのは、修子が自分と交した約束だからである。ここでそれを破っては、自分を裏切ることになる。

 正直いって、修子はその掟を守ることで自分の意志の強さを試している。

 遠野を知ったときから、修子は二人で逢っているときの遠野だけを愛し、それ以外の彼は無縁の人と決めていた。病院に入院しているときの遠野は、その後者の無縁の人である。

 それを無視して逢っては、せっかくの|けじめ《ヽヽヽ》が台無しになり、ひいては修子自身が崩れることになる。

「わたし、冷たくなんかありません」

「それなら、すぐ見舞いにくるべきだろう」

 苛立っている遠野に、いまの気持を正確に説明するのは難しそうである。

「早く快《よ》くなって下さい」

 いま修子がたしかにいえることは、それだけである。

 遠野との電話を切ると、修子はいつも軽い疲れを覚える。

 彼との電話が長かったのにくわえて、話しているうちに、遠野の妻と娘の顔が浮かんでくるからである。二人がいま、遠野の側に寄り添っているわけでもないのに、どういうわけか、彼の身近にいるような気がしてくる。

 修子がそんな錯覚にとらわれるのは、入院している遠野の姿が弱々しく、家庭的な印象を与えるからかもしれない。どういうわけか、ベッドに横たわっている姿やギプスを巻かれた脚は、日頃のばりばりと仕事をこなす遠野とは違った、家庭という場に戻った父や夫のイメージを思い出させる。

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