この数年間、修子が遠野に抱き続けてきたイメージは、強く逞《たくま》しく、そして包容力のある孤高の男、といったものだった。家庭なぞ顧みず、一人超然と生きていく雄々しさに惹かれてもいた。
だが今度の怪我は、思いがけなく、そうした強さの裏に潜んでいた遠野の弱さを露呈したようである。それで家庭に戻ったわけではないが、逞しい遠野も家庭の絆《きずな》を引きずっているということを、露出したともいえる。
むろん、修子はそんな遠野を批判する気はない。遠野に妻子があり、壊れかけているとはいえ、家庭があることは百も承知である。
だがその種のことは、できうれば知りたくはなかった。見ないでいられれば、それにこしたことはないと思っているときに、ついうっかり垣間見てしまった。そんな衝撃が、いまだに修子のなかで尾を引いている。
もちろん修子がそのことをいったら、遠野は一言の下に否定するに違いない。
「俺は怪我で入院しても妻を呼ばなかった。大阪に娘がきたのは、手術直後でやむをえなかったからで、実際、東京に戻ってからは誰もついていない」
しかし一カ月近く入院していて、妻や娘が病室に現れないということがあるだろうか。下着や日用品など、家族の手で揃えてもらわねばならぬことはいろいろあるはずである。遠野が好むと好まざるとに拘らず、妻や娘の手を借りざるをえない。
それにしても、この入院で、遠野と妻との関係はどのように変ったのだろうか。やはりいままでどおり冷戦状態なのか、それとも入院をきっかけにいくらか緩和されたのか。
遊び步いていた夫が、病気を機に、妻の許《もと》に帰るという話をきいたことがあるが、遠野の場合はどうなのか。
考えていると、また築地のマンションで遠野の妻に会ったときのことが思い出されてくる。
あのとき修子は一方的にいいまくられ、返す言葉もなかったが、時間が経つとともに、遠野の妻の立場の辛さも考えられるようになってきた。もし自分が彼の妻の立場なら、もっと激しく罵ったかもしれない。彼女が泥棒猫といったのも無理はない。
修子がそのように少し優しく考えられるようになったのは、それだけ罵られても、遠野をたしかに掴んでいるという自信からくる余裕があったからかもしれない。
だが今度のように、遠野が入院した場合には、そう安閑としてはいられない。さすがに妻という立場は強く大きい。
この場合、若さや美しさや、より多く愛されているという事実はなんの価値もない。そんな事実より、戸籍が入っているという形式のほうが圧倒的な価値をもってくる。
「まあ、いいさ」
つぶやいてから、修子はこのごろ、よくその言葉を口にしているのに気がついた。
大阪から新幹線で帰ってくるときも、東京の病院に見舞いに行こうとしてやめたときも、眞佐子の家に一人で行ったときも、同じ言葉をつぶやいていた。
「まあ、いいさ」とは、相手の立場を認めたようで、その実、自分にも妥協をしいている。
年齢《とし》をとると自然にそうなるのかもしれないが、まだつぶやくには早すぎる。修子は自分にいいきかせると、テレビをつけソファの上に横向きになって足を投げ出した。
もう一杯コーヒーを飲む気はないが、口が少し淋しい。
修子は立上り、小さいグラスにリキュールを入れるとテレビを消して、ブラームスのピアノ曲に変えた。
リキュールは眠れないときに飲むが、今夜は眠るためではない。
ただアルコールで、軽く酔ってみたかっただけである。
舐めるように飲みながらピアノ曲をきいているうちに気怠《けだる》くなり、陶然とした気分になる。
独身でいて、幸せだと思うのはこういうときである。
誰にも邪魔されず、一人でソファに凭《もた》れたまま、自由に想像の羽根を伸ばすことができる。この気楽さは、夫や子供がいる主婦には味わえぬ、優雅さかもしれない。
二十代までは独身を恐れていたが、三十代に入ると女も開き直るのか。ともかく自分なりのライフスタイルが身につき、容易なことでは変える気になれない。
そのままリキュールをほぼ飲み終えたとき、電話が鳴った。
修子は上体を起こし、片手を伸ばしてソファの端にあった受話器をとった。
「もしもし、修子さんですか」
なにやら窺うような調子だが、要介の声である。
「いま、一人ですか」
考えてみると、遠野が怪我をして以来、要介には会っていない。
「この前はご免なさい、途中で失礼して……」
遠野が怪我をした日、修子は食事の半ばで帰ってきた。
身勝手な行動にさすがの要介も怒ったらしく、そのまま連絡がなかったが、修子も悪いと思いつつ、かけそびれていた。
「あの、怪我をした人、どうしましたか?」
「おかげさまで、大分|快《よ》くなったようです」
「それは、よかった」
珍しく要介はおだやかな声で答えると、ぽつりといった。
「一度、逢えませんか?」
あれほど無礼を働いたのに、また逢おうというのか。修子は要介の真意をはかりかねた。
「迷惑はかけません。ただ一度だけ逢っておきたいと思ったものですから」
「一度だけ?」
「実は僕、今度、結婚することになりました」
「結婚って、あなたが……」
「前から話はあったんですが、思いきってすることにしました。それで、もしお会いできたらと思って……」
「でも、結婚なさるのでしょう」
「ですからその前に一度……」
「………」
「あなたを好きだったものですから、最後の食事だけでも、一緒にできたらと思って……」
修子はなにか、要介が冗談をいっているのかと思った。深夜にふと思いついて電話をよこす。日頃、身勝手で生意気な女を懲《こ》らしめるために、結婚するといって驚かせ、それで自分の存在を認めさせる。
しかし、要介の話はそんな生易しいものではなさそうである。充分に考え、決心した末での電話のようである。
それにしても、わからないのは男心である。
いままで、自分一人を追い続けていると思ったのが、ある日突然、手のひらを返したように、別の女性との結婚に踏み切る。要介と最後に食事をともにしたのはつい一カ月前である。そのときは、結婚どころか、好きな人がいる素振りもなかった。
しかも不思議なのは、そのことをわざわざ告げてくることである。
もし本当に好きなら、そんなことはいうまでもない。
これではまるで、思うとおりにならなかった女に、当てこすりをしているようなものである。表面は結婚報告をよそおって、その実、「どうだ、羨ましいだろう」と誇示しているともとれる。
さらに不思議なことは、そんな相手と、もう一度、食事をしようと誘うことである。
その理由として、「あなたを好きだったから……」といっている。
しかし、これから結婚しようという男が、他の女性にそんなことをいってもいいのだろうか。もし結婚する相手を愛しているのなら、そんな理由で他の女性と逢うのは不謹慎ではないか。
それでは、他に好きな人がいるが、やむなく新しい女性と結婚する、と告白しているようなものである。
それで、修子をたてたつもりかもしれないが、そんなことをいわれても、嬉しくはない。
すでに結婚すると決めた男が、実はあなたのほうが好きだ、などというのは男らしくない。
修子は少し冷ややかな声で答えた。
「結婚なさるのなら、わたしと逢うことなぞ、ないんじゃありませんか」
「そんな意地悪は、いわないで下さい」
とくに責める気はなかったが、要介には皮肉ときこえたようである。
「彼女とは見合いなんです。半年前に見合いして、親からも強くすすめられていたので……」
「わたしと逢って時間をつぶすより、その方と食事をなさったほうがいいわ」
「彼女とは逢っています。この一カ月、飽きるほど逢いました」
要介の声が少し高くなる。
「彼女とは何度も逢ったので、ますますあなたと逢いたくなったのです。この気持、わかりますか?」
どうやら要介は酔っているようである。初めは穏やかな口調だったが、気持が高ぶるとともに、舌がもつれてくる。しかし酔いにまかせて出鱈目をいっているわけでもなさそうである。
「今度、僕が結婚する気になったのは、あなたのせいです」
突然、自分のせいだといわれて、修子はますますわからなくなる。
「あなたが冷たいから、結婚することにしたのです」
「でも、それはわたしとは……」
「もちろんあなたとは関係ありません。僕が決めたことです。でも原因はあなたにあるのです」
「………」
「僕はもう三十三です。いつまでも独りでいるわけにいきません」
そのことなら自分も同じだと、修子はうなずいた。
「そろそろ結婚しなければならないけど、あなたは僕とする気はまったくない。あなたの気持は彼のほうを向いたまま、僕なんか相手にしていない」
たしかに修子は、要介と結婚する気はなかった。
「いいんです。そのほうがかえって決心がついてよかったんです。だから僕はあなたを恨んでなんかいません。あなたが僕に関心がないのに、一方的に僕のほうから近付いていったのですから、責任は僕のほうにあるのです」
「………」
「でも、それなりに親しかったんですから、結婚する前に一度くらい、逢ってくれてもいいでしょう」
かき口説く、というのは、女だけの言葉かと思ったが、男にもあるらしい。軽い酔いにくわえて、顔の見えぬ電話のせいか、今夜の要介はもの怯《お》じするところがない。
「おかしな奴と、思っているかもしれませんが、あなたのような人に逢ったのは初めてです」
要介の言葉をきいているうちに、修子は雲の上にのせられているような気持になってくる。もともと要介はそうした、女性を心地よく酔わせる才能に長《た》けているのかもしれない。
「初めから、僕はこんなことになるような気がしていたのです。僕があなたに振られたあと、別の女性と結婚を決意して、最後にあなたと逢う。いま、そのとおりになっています」
開き直ったように要介の舌はなめらかである。
「最後に、一度だけ逢って食事をしましょう」
「でも、逢ってどうなるのですか」
「別に目的なんかありません。ただ逢えればいいんです、それで僕も納得できます」
「なにを納得なさるのですか?」
「その、彼女と結婚することを……」
どうやら、要介は一人でロマンチックな夢を描いているようである。
愛している女性と別れて、あまり気のすすまぬ相手と結婚する。その最後の思い出のために、二人だけの晚餐をとる。男の夢に対して、修子の尋ね方は少し現実的すぎたのかもしれない。
だが、要介の言葉の心地よさを感じながら、修子の気持は逆に醒めていく。
すでに結婚を決意した男と、いまさら食事をしたところで仕方がない。それは単なる打算や狡《ずる》さでなく、生来、女が持っている|けじめ《ヽヽヽ》である。女はときに|けじめ《ヽヽヽ》を忘れることもあるが、多くはしっかりと身につけている。それは恋に溺れやすい女に与えられた有力な武器でもある。
「いま一度逢えたら、僕は一生、あなたのことを忘れません」
修子は思わず笑いかけた。
これから結婚するというのに、冷たくされた女を忘れないために、食事をしたいという。男はそれでロマンチックな気分に浸っているつもりかもしれないが、そんな男を夫にする女性は可哀想である。結婚しようといわれた以上、女は自分が一番愛されていると思うが、男は裏でもう一人、別の女をかき口説いている。
それが男と女の違いといえばそれまでだが、かなり調子のいいロマンチシズムであることはたしかである。冷たいかもしれないが、修子はいま、そんな男の片棒を担ぐ気はない。
「お幸せになって下さい」
「逢って、くれないんですか?」
「これから奥さまになる人を、大事になさったほうがいいわ」
「もちろん大事にします。でもそれとこれは違うのです」
「逢って、誤解されるのはいやだわ」
「そんな、やましい気持なんかありません。ただ最後にゆっくりと食事でもしようと思っただけで……」
「わたしは、遠慮いたします」
「待って下さい、僕の話をきいて怒ったのですか?」
「どうしてわたしが怒るのですか?」
修子は苛立ちを抑えてきき返した。
「あなたは、怒る人ではないと思っていました」
「あなたはとってもいいお友達だったし、お世話にもなって感謝しています。いろいろ我儘ばかりいって、悪かったとも思っています」
「じゃあ、逢うくらいはいいでしょう」
「結婚は、いつですか」
「一応、来年の春の予定です」
「それなら、結婚なさってからお逢いしましょう」
「僕はいま、独りのときに逢っておきたいのです。独りのほうが自由だし、まわりを気にすることもないし……」
「それは、いつでも同じよ」
「でも、結婚したら妻がいるし……」
「じゃあ、結婚なさってから、奥さまと一緒にお逢いしましょう」
黙り込んだ要介に、修子は母親のように訓《さと》す。
「式の日取りが決ったら報《しら》せて下さい。祝電でも送らせていただきます」
修子はそれだけいうと、「お元気で……」とつけくわえて、受話器をおいた。
気がつくと、十一時を過ぎている。静まり返った部屋に流れるピアノ曲が、一層、夜の深さを思わせる。
修子はその静けさのなかで、要介の電話を思い返す。
せっかく誘ってくれたのに、食事くらい際《つ》き合うべきではなかったのか。
どういうわけか、このごろ少し意固地なところがある。もう少し柔軟に振舞ったらと思うのに、気が付くと頑なに反撥している。それも初めから、「こうしよう」という意志があるわけではない。話しているうちにふと気持が定まり、一旦決ると、もはや梃子《てこ》でも動かない。
この融通のきかなさは生来のものなのか、それとも最近になって目立ってきたのか。
正直いって、今夜も修子の意固地なところが出たようである。
初め、要介が結婚するときいたときは、驚きとともにはぐらかされたような淋しさを覚えたが、そのうち、なにか要介を信用できないような気がしてきた。
そうなるとたちまち、不信感だけが先走って、他のことは考えられなくなってしまう。そして最後は彼の求めを冷たく突き放すことになる。
だが落着いて考えてみると、要介は別に、無理なことを要求してきたわけではない。結婚前に一度だけ食事をしようという頼みを、受け入れることくらい簡単である。いままでの要介への仕打ちを考えると、それくらいのことを引受けるのは、当然の務めでもある。
何故、優しく承諾できなかったのか。
修子は改めて、自分の意固地さに呆《あき》れる。
以前はこれほど頑なではなかったはずだが、どうしてこんなになったのか。
修子の脳裏に自然に、遠野の顔が浮かんでくる。
もしかすると、気強く頑なになったのは、遠野を愛しはじめてからかもしれない。
振り返ってみると、遠野との恋は緊張の連続であった。妻子ある人と世間的には許されぬ、いわゆる不倫の恋をしている。その思いが、常に他人にうしろ指をさされまいという気構えになり、必要以上に突っ張ることになる。
もっとも、その緊張感は悪いことばかりに働くとはかぎらない。
修子が年齢より若く、美しい容姿を保っていられるのも、仕事をてきぱきとこなせるのも、緊張があってのことである。家庭という安住の場に入ったら、これほどの勁《つよ》さは保てなかったかもしれない。緊張こそ、女を美しくさせる原点である。
だがときに、それも過ぎると害になる。
このごろ、修子は自分が優しくない、と思うことがある。
たとえば眞佐子の家へ招待されたとき、眞佐子夫婦の歓待を受けながら、素直に感謝する気になれなかった。また絵里の悩みにも、親身になって考えてやらず、そんなことは自分で解決すべきだと、途中から突き放してしまった。
遠野の家族と会うわけはないと知りながら、見舞いに行かなかったことも、今夜、要介の願いをきき入れなかったことも、みな優しさが足りないからである。
どうして優しくなれないのか、自分で苛立ちながら容易に改められない。
「やはり我を張って、生きすぎたのかもしれない……」
だがなんといわれようとも、その頑なさから一つの|けじめ《ヽヽヽ》をつくり出してきたことだけはたしかである。
自分が愛しているのは、二人で逢っているときの遠野だけで、それ以外の彼は、あずかり知らぬ他人である。修子がいつも自分にいいきかせ、大切に守り続けてきたのは、そうした意固地さから生れた|けじめ《ヽヽヽ》である。
その善し悪しはともかく、そう思い、信じなければ、遠野への愛はもちろん、修子の存在自体も怪しくなる。現実に遠野への愛が揺れても、自らに課した|けじめ《ヽヽヽ》があるかぎり、揺れ動く幅は最小限でとどめることができる。
いいかえると、心の揺れを防ぐかわりに、修子は意固地さという厄介なものを背負ってきたともいえそうである。
「少し疲れた?」
残ったリキュールを飲みながら、修子は鏡に映る自分にきいてみる。
「大丈夫?」
もう一度たしかめるが、深夜の部屋で答えるのは低いピアノの音だけである。
冬 野
初冬の陽が部屋一杯に溢れている。
暦は師走に入っているのに、仮睡《まどろ》みたくなるほどの小春日和である。
修子はその陽だまりのなかでマニキュアを塗り続ける。
一本一本、陽にかざしながら丁寧に塗っていく。いつもはシルバーを塗るのが、今日は淡いピンクに変えてみる。
土曜日の午後で会社は休みだから、軽い悪戯である。
遠野から、退院すると連絡があったのは、昨夜の七時過ぎだった。
二日前にギプスをはずしてレントゲンを撮った結果、骨折の部分は順調に恢復《かいふく》し、足をつけて步いてもかまわないといわれた。長いあいだギプスを巻いていたので、まだ関節の動きが悪いが、それはリハビリテイションに通えば自然に治ってくる。
医師にいわれたことを報告してから、遠野が囁《ささや》いた。
「明日、午後に退院したら、まっすぐ修の部屋に行く」
「よかったわ、おめでとう」
思わずはずんだ声できいてみる。
「何時ごろになりますか?」
「退院の手続きがあるから、二時ごろになるかもしれない。とにかくまず君に逢いたいんだ」
ピンクのマニキュアを塗った修子のなかに、遠野の退院を待つ気持が芽生えたことはたしかである。
久しぶりに退院してくる彼を迎えるのだから、少し派手なマニキュアをつけてみようか。朝早く髪をブロウして黒いリボンで結び、襟元があいたサーモンピンクのブラウスに紺のスカートをはいたのも、いつもの部屋着からみると少しお洒落《しやれ》である。
遠野の退院を控えて、気づかぬうちに修子は装っていたようである。
マニキュアを塗り終えたとき、サイドボードの上の時計は三時に近づいていた。明るいと思った冬の陽はすでに力を失い、西の空が色づきはじめている。
修子はコーヒーを淹《い》れてから、また遠野のことを思った。
部屋へくるのは二時ごろになるといったが、それからすでに一時間経っている。
約束の時間から遠野が遅れてくることには慣れていた。飲んで帰ってくるときなどは、二時間から三時間以上も遅れたことがある。
だが今日は病院からの直行である。土曜日なので、退院の手続きは午前中に終るといっていたから、そう遅れるわけはない。
そこまで考えて、修子は別のことに気がついた。
もしかすると、遠野は病院から一旦、自宅に帰ったのではないか。
昨夜、病院からまっすぐ部屋に来るといわれたので、それを鵜呑《うのみ》にしていたが、退院といっても身体だけで出てくるわけではない。一カ月近く入院したのだから、寝間着や洗面道具など身の廻りのものがあるはずである。それらをひとまず家においてから来るのなら、二時や三時は難しい。
いや、それ以上に、一旦、家に帰ってから、また出てくることができるのか。
普段の日ならともかく、退院した日に外出など難しい。それを承知で遠野がいったとしたら、その場の思いつきか、それとも自分を喜ばせるためにいっただけなのか。
修子は再び時計を見、三時を過ぎているのを見届けてから、テーブルにある型録《カタログ》を手にした。
会社では最近、新しい製品をまとめたパンフレットをつくった。修子は営業でないので、特別自社の製品について知識を求められるわけではないが、ときどき来客に尋ねられることがある。そのときのためにも、新製品の傾向くらいは知っておく必要がある。
クリスタル製品はもちろん、皿からポット、コーヒーカップ、コンポートなど、さまざまなものが並んでいる。とくに陶磁器は色や絵柄が美しく、見ていて飽きない。最近は、本社でも東洋趣味をとり入れて、淡い紺か朱の単色のものが増えたようである。
だが修子が陶器のなかで一番気に入っているのは、ボーンチャイナである。
名のとおり、この陶器には牛の骨が入っているので、淡いクリーム色を呈し、人肌のような温《ぬく》もりがある。薄くて陽にかざすと、指の一本一本まで透けて見えるが、そのくせ、床に伏せて大の男がのっても割れぬほど強固である。修子のところにはすでに三枚一組の皿があるが、いま一つ直径が四十センチの大皿が欲しい。それなら食事のときはもちろん、飾りにつかうこともできる。
美しい型録を見るうちに、修子はいっとき遠野のことを忘れた。
再び修子が思い出したのは、陽が翳《かげ》り、初冬の冷気を覚えたからである。
今日はこないのかもしれないと思って、ヒーターを入れるために立上ったとき、入口のチャイムが鳴った。
修子は一旦、ドアのほうを振り返り、それから小走りに駆けて行き、ドアを開けると、遠野が立っていた。
「お帰りなさい」
思わず声をかけてから、修子はその言葉が自然に出たことに驚いた。
「久し振りだ……」
遠野は笑顔でうなずくと、右手に持っていた杖を軽くあげた。
「こんなものを、ついているのでね」
「大丈夫ですか」
「なくても步けるんだが、用心のためさ」
一カ月半ぶりに見る遠野の顔は、いくらか肥って色白になったようである。ギプスを巻いたままの入院生活で、運動不足だったのかもしれない。
「いいのか?」というように、遠野は奥をうかがってから、靴を脱いだ。杖なしでも步けるが、右足は開き気味に軽く引きずっている。
「昔のままだろう」
遠野がおどけていうのをきいて、修子は苦笑した。それくらいで、顔形が変るわけはない。
「綺麗になった」
「わたしが?」
遠野が改めて修子を見る。
「なにかいいことでもあったのかな」
「それなら嬉しいんですけど」
「今日はとくべつ綺麗に見える」
正面から顔を見詰められて、修子が目を伏せると、遠野の腕が伸びてきた。
「欲しかったんだ……」
修子はまだ陽が明るいのが気になったが、遠野はかまわず唇を求めてくる。
立ったままの抱擁をくり返して遠野は落着いたのか、腕の力をゆるめて一つ息をつく。
「ようやく逢えた……」
それは修子も同じ思いである。
「全部で一カ月半ほど、病院にいたことになる」
修子が一人で数えた日数も同じであった。
「長いあいだ、ご苦労さま」
「別に、仕事をしてきたわけではないから」
「でも……」
修子としては、遠い旅から遠野が帰ってきたような気がする。
「変りはなかったか?」
「別に……」
この間、遠野の妻や娘のことを思い、自分の立場を改めて考えた。そしてごく最近、絵里が若い恋人と少し疎遠になり、要介が新しい相手との結婚に踏み切った。それらはみな、修子に微妙な影を落したが、遠野に告げることでもなさそうである。
「久しぶりに修が淹れたうまいお茶を飲みたい。病院のはまずくて参った」
いわれて修子がキッチンに立つと、遠野はテレビのスイッチを入れた。
「もう、入院はこりごりだ」
「入院したおかげで、早く治ったのでしょう」
「治るといっても、ギプスを巻いたままだから、どんなふうになっているのか見当がつかない。ギプスを外してレントゲンを撮るときは、神様に祈るような気持だった」
「骨がついていなかったら、退院できなかったんですね」
「ようやく刑務所を出られると思っていたのが、また戻されるようなものだから」
「でも、病室ではテレビも読書も自由だし、お仕事もできたのでしょう」
「しかし、修に逢えなかった」
遠野の声を無視して、修子は戸棚から急須をとる。
「まったく、つまらないことで時間をつぶしたものだ」
「もう、大丈夫なのでしょう」
「折れたところを留めるのに、スクリューが一本入っているが、それは来年になってからでもとるらしい」
「また、入院するんですか」
「いや、それは外来でできるといっていた」
修子がお盆に茶碗をのせて持っていくと、遠野が怪我をした足を指さした。
「見るか?」
修子は目をそむけたが、遠野はズボンをまくりあげて右足をソファの上に投げ出した。
「こんなに痩せてしまった」
下腿《かたい》から足首のあたりは肉がそげ落ち、皮膚は黒光りして触ると剥《は》げてきそうである。
「ギプスのなかに入れたままだったから……。人間の足はやはりつかわなければ駄目だ」
「そこに、釘が入っているのですか」
足首の外側の踝《くるぶし》のまわりに、五センチほどの弓なりの傷痕がある。
「触ってみる?」
いわれて修子はそろそろと踝のまわりに触れてみた。
見た目には腫《は》れているようだが、触ってみると熱はない。
「痛くないんですか」
「大丈夫さ……」
遠野は自分で軽くつついてみせてから、傷痕に触れている修子の手に、自分の手を重ねた。
「病院で、こうして触ってもらいたかった」
「………」
「どうして、こなかったのだ?」
修子が答えないでいると、遠野がさらに強く握った。
「毎日、待っていたんだぞ」
修子が顔を背《そむ》けると、遠野が耳元で囁く。
「ベッドに行こう」
修子は傷口から手を離して、別のことをきいた。
「今日はまっすぐ、病院からきたのですか」
「もちろんさ、どうして?」
「一旦、お家に寄ってくるのかと思ったから」
「まっすぐ来るといったろう」
「でも、荷物は?」
「それは別便で、送ってもらうことにした」
「じゃあ、お家にはまだ……」
遠野がうなずくのを見て、修子はかえって不安になった。
「帰らなくて、いいのですか?」
遠野は黙ったまま煙草に火をつけた。ベランダからの陽を受けて、煙草を持った遠野の手が、テーブルの上に長い影を落している。
「入院中に、いろいろなことを考えた……」
遠くを見る目になって、遠野がつぶやく。
「仕事のことや家のことや、君のことも……」
遠野はそこで少し間をおいてから、言葉を選ぶようにいった。
「やっぱり、いまのままでは無理だということがわかった」
「………」
「これからはずっと修と一緒にいる」
「冗談はいわないで」
「冗談ではない、本気だ、もう決めたんだ」
少年のように光っている遠野の目を見ながら修子があとずさりすると、さらに遠野が追ってくる。
「今日の日を待っていたんだ」
長い入院による禁欲生活で、遠野は燃えているようである。
「待って……」
修子は少年を宥《なだ》めるようにいうと、先にベッドルームに入った。
白いレースのかかったベッドには、すでに短日の夕暮れが忍びこんでいる。修子はカバーを取り除き、壁に掛っていたネグリジェを除いた。遠野が入院しているあいだ、枕は一つであったが、久し振りに彼のために高めの枕を並べる。
「修の匂いがする」
部屋に入ってくると、遠野は獣のようにあたりを見廻す。
「休もう」
「足は大丈夫なのですか?」
「もちろん、足首以外はどこも悪くないんだ」
遠野が照れたように笑ってシャツのボタンをはずす。修子はレースのカーテンの上にさらに厚いカーテンを重ねるが、部屋にはまだ夕暮れの明るさが部屋に残っている。
「久しぶりに、修の美しい体を見たい」
「………」
「今日ははっきり見たいんだ」
遠野のねだる声をききながら、修子は獣に|凌 辱《りようじよく》される自分を感じていた。
気が付くと短い日はすでに暮れて、あたりは夜になっていた。
ずいぶん時間が経ったような気がしたが、枕元の時計を見ると六時である。
二人がベッドに入ったのは四時前だったから、まだ二時間少ししか経っていない。
だが休む前、カーテンの端から洩れていた夕暮れの明りはすでになく、闇の中で天井と壁の白い部分だけがかすかに浮き出ている。
日の短い夕暮れどきに眠ったことが、長い時間経ったような錯覚を与えるようである。
闇に馴染むように、修子はしばらく目を宙に遊ばせてから上体を起こした。
隣りで、遠野が軽く背を向けたまま眠っている。
一カ月以上も逢えなかったせいか、遠野の求め方は激しかった。その性急さに修子は戸惑いながら、いつか彼のペースに巻き込まれ、最後はいつものように満たされた。
そのまま、修子はしばらく遠野の胸のなかで眠ったようである。
もっとも目覚めたとき、修子は足だけ触れたまま、遠野とは少し離れていた。一カ月半ぶりに男の胸のなかに閉じ込められて、息苦しかったのかもしれない。
闇のなかでそろそろと起き出しながら、修子は下着をまさぐる。休む前はスリップもブラジャーもつけていたのが、いまは身につけているものはなにもない。
遠野が強引に脱がせたのだが、それがベッドのなかで散乱している。
修子はそれらをまとめて手にすると、寝室の片隅で身につけ、リビングルームへ戻った。
夏の日の六時はまだ宵の口なのに、初冬のいまは完全に暮れている。それでもベランダから見える街の明りは活気があり、夜がまだはじまったばかりであることがわかる。
修子はバスルームでシャワーを浴びてから髪を整えた。
一カ月半ぶりに抱かれて、体は懈《だる》いが、肌は潤ったようである。
愛を受け入れることで変る自分の体を、修子はあまり好きではない。できることなら、そういう行為とは無関係に美しくありたい。
だが修子の考えている以上に、体は正直らしい。
久しぶりの愛撫に翻弄されて、いままで淀んでいた血が軽快に流れはじめたようである。
遠野の行為は飢えた獣のように荒々しかったが、修子のなかにも、それを求める気持が潜んでいたのかもしれない。そんな自分が少し嫌だと思いながら、いまはさほど怨んでもいない。
軽く化粧を終えたところで、修子はキッチンに立ち、二人分のコーヒーを淹れた。
遠野はまだ休んでいるようである。修子はかまわず一人でコーヒーを飲みながら、休む前に遠野がいったことを思い出す。
「いまのままでは無理だ」といい、「これからはずっと一緒にいる」といいだしたが、あれは本当なのか。これまでもその種のことは何度かきかされているが、今夜のように真剣に訴えたのは初めてである。
もちろん、そのことはいずれたしかめなければならないが、それよりまず気になるのは、退院したあと、病院からまっ直ぐこちらへきたことである。
いずれこちらへ来るとしても、退院したらまず自宅へ戻るものだと思っていた。それは夫なら当然の行為であり、務めでもある。
それを無視してこちらへ来たのは、余程、決心してのことなのか。
退院した日に家に帰らぬのは、家庭と妻に対する公然たる挑戦である。
もし遠野のいったとおりだとすると、「別れたい」といわれた妻はいまごろなにを考え、なにをしようとしているのか。そして、あの遠野の妻によく似た娘はなにを思っているのか。
考えるうちに修子は不安になり、寝室のドアをそっと開けてみた。
瞬間、明りが部屋に流れこみ、その光りを避けるように遠野は顔をそむけ、それからゆっくりと目をあけた。
「起きたのか……」
自分がこれだけ心配しているというのに暢気《のんき》な人である。修子は乱れたベッドの端を直しながら近寄る。
「もう、七時ですよ」
遠野は時間の経過を反芻《はんすう》するように宙を見てから、一つ伸びをした。
「久し振りに、よく眠った。やっぱり馴染んだベッドは気持がいい」
「鼾《いびき》をかいていましたよ」
「少し暴れすぎた」
遠野はそういうと、枕元に立っている修子のスカートの端を軽く引いた。
「もう、着てしまったのか……」
「さあ、起きましょう」