饭饭TXT > 海外名作 > 《爱人(日文版)》作者:[日]渡边淳一【完结】 > 爱人.txt

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作者:日-渡边淳一 当前章节:15406 字 更新时间:2026-6-15 15:59

 夜に入ったばかりの時間に起こすのは奇妙だと思いながら、修子はブランケットの端を持上げた。

 遠野が起きてきたのは、それから十分あとだった。ズボンをはいているが、シャツは手に持ったままである。

「パジャマが欲しいんだけど……」

 修子は暖房を少し強くしてから答えた。

「もう、起きたのですから、いらないでしょう」

「しかし、部屋にいるあいだはパジャマのほうが楽だ」

 そのまま、遠野はソファに坐る。

「そういえばお腹が減った。食事にでも行こうか」

 修子は呆れて、きき返した。

「帰らないのですか?」

「どこへ?」

「お家へに決っているでしょう」

 家庭でどんな争いがあるのか知らないが、退院した日くらいはまっ直ぐ家へ戻るべきである。

「みな、お待ちになっているでしょう」

 遠野は答えず、コーヒーをブラックのまま飲む。

「今日、退院したことはご存知なんでしょう」

「もう、帰ってこないほうがいいと思っているかもしれない」

「そんなことないわ」

 修子は大阪の病院で見た、遠野の娘の顔を思い出した。妻はともかく、あの髪をうしろに束ねた娘だけは、父の帰りを待っているに違いない。

「病院はお昼に出たのに、夜になっても帰らないなんて可笑《おか》しいわ。どこに行っているか、いまごろ探しているわよ」

「ここにいることは、知っている」

「どうしてですか?」

「もう、俺達のことはわかっている」

 重大なことをいっているのに、遠野の表情は呆れるほど暢んびりしている。

「病院で、修に書いた手紙を読まれた」

「誰に?」

「書きかけたまま、枕頭《ちんとう》台の抽斗《ひきだし》に入れてあったのを、ワイフがきて読んだ」

「なぜ、そんなことを……」

「君がきてくれないからだ」

「でも、そんな大事なものを……」

「迂闊だった……しかし読んでもらって、かえってさっぱりした」

 遠野は照れ臭さを隠すように、かすかに笑った。

「その手紙、いただいてないわ」

「もちろん、そのまま捨ててしまった」

「なにが、書いてあったんですか」

「修を好きだってことを、いろいろと。あれを読んだら誰でも諦める」

 そんなことがあったとは、修子は知るわけもない。

「悪いわ……」

「悪い?」

「奥さまに」

「いつか、はっきりさせねばならなかったことが、少し早まっただけだ」

 遠野は一つ咳払いをすると、自分にいいきかせるようにいった。

「これでいいんだ……」

 二人が黙ると、急に暖房の音が甦る。

 いま、いろいろなことを考えなければならないと思いながら、修子の頭の中は混乱しているようである。そのまま冷えたコーヒーを眺めていると、遠野がいった。

「結婚しよう」

 咄嗟《とつさ》に答えかねていると、今度はもっと優しい声でいった。

「俺達、一緒になろう」

 遠野の声が耳元で囁き、彼の手が肩にのせられる。

 瞬間、修子はバネ人形のように遠野から離れた。

「駄目よ、そんなこと……」

「俺はもう決めたんだ、それはワイフも知っている」

「でも、まだはっきりいったわけではないのでしょう」

「電話でいった」

「それで……」

「黙っていたけど……」

 修子は立上ると寝室へ行き、洋箪笥から遠野のジャケットを取り出した。

「これを着て、帰って下さい」

「これから帰って、どうするのだ」

「いろいろ奥さまとお話ししたほうがいいわ」

「もう充分話して、話すことはない」

「そんなことはないわ。あなたはまだ本当に奥さまの気持をきいていないでしょう」

「そんなことをきいても、俺の気持は変らない」

「あなたは我儘よ、身勝手で無茶苦茶よ」

「修のためにやったのに、どうして我儘で無茶苦茶なのだ」

「いいから、とにかく今日は帰って……」

 修子は遠野にジャケットをおしつける。

「修は喜んでくれると思った」

「お願いですから、早く……」

 わけがわからぬという顔で、遠野は修子を見ていたが、やがて静かに立上った。

「本当に、帰ったほうがいいのか?」

「………」

「せっかく、一緒になれるというのに……」

 目を伏せたまま修子はゆっくりと首を横に振った。

 いま、遠野がいなくなったほうがいいとか、一緒になりたいなどといっているわけではない。そんなことよりまず独りになりたい。独りになって、いろいろ考えてみなければならないことがありすぎる。

「帰ったほうがいいのか?」

 再び念をおし、修子がうなずくと、遠野はジャケットに腕をとおした。

「修はどう思っていても、俺は彼女とは別れる。……いいだろう」

 そうきかれても、修子に答える言葉はない。

「寒そうだな」

 遠野はベランダへ行き、外を眺めている。

「車を呼んでくれないか」

「いまの時間は、角まで行けば拾えます」

「足がね……」

 修子はそこで、遠野が足を怪我して、退院してきたばかりであることに気が付いた。

 慌てて電話をすると、車は五、六分でくるという。

 それを伝えると、遠野は立ったままうなずいた。

「とにかく、俺はそのつもりですすめるから、修もその覚悟でいてくれ」

 遠野の言葉をききながら、修子はまるで他人の話をきいているような気がしていた。

「入院して、かえって踏ん切りがついてよかった。これから俺達はいつも一緒に暮せる」

 再び遠野が近付いてくる。また肩に手を伸ばし、抱きしめられそうである。

 修子は怯えたように身を退きながら、つぶやいた。

「もう、車が来ます」

「まだだ」

「いいえ、来ます」

 修子が首を左右に振ると、遠野が肩口に顔を寄せる。

「なにを、恐がっているんだ」

「………」

「恐いことなんか、なにもないよ」

 静まり返った夜の部屋で、遠野の声が悪魔の囁きのように聞こえる。

 未  来

 高層ホテルのバーの真下に、都会の明りが犇《ひし》めいている。

 ネオン、ビルの窓々、車のヘッドライトなど、さまざまな光りが交錯《こうさく》するなかで、ひときわ目立つのは高速道路である。上から見ると金のベルトのように、夜の街を貫通する。だがよく見ると、それは一台ごとの光りの集りで、すべてが一定の方向に動いているのがわかる。

 先程から、遠野と修子は窓ぎわの席に向かい合って坐ったまま、その光りの帯を眺めている。二人のあいだには円いテーブルと、グラスがおかれ、はたから見ると、ともに高いビルからの夜景に見とれているとも、会話に疲れて少し休んでいるともとれる。

 やがて、遠野が腕組みしたまま視線を戻す。

「しかし、わからない……」

 その声に誘われたように、修子もテーブルのほうに視線を戻した。

「なにが、不満なのだ」

 苛立つ気持を抑えるように、遠野はウイスキーを飲み干す。

 それから一つ咳払いするとボーイを呼び、水割りの追加を頼んでから、修子のグラスを指さす。

「もう一杯、……別のものにする?」

「これで、いいわ」

 ボーイはアルコール分の薄いカンパリソーダであることをたしかめてから去っていく。

「もう、何度もいったように……別れるのは、はっきりしているのだ」

 どういうわけか、「別れる」という言葉をきく度に、修子は電流にでも触れたように怯える。

「俺が別れることに、文句はないのだろう」

 もちろん、それは遠野の問題だから、修子が口を挟む筋合いのものではない。

「別れることには、向こうも同意している」

 そのことも何度かきいたし、遠野の真剣な口ぶりから、嘘をいっているとは思えない。実際、遠野は退院した日に自宅へ戻っただけで、そのあとからは築地のマンションで独りで住んでいる。

「ここまできたら、戻るわけにいかないんだ」

 そこまで遠野が踏み切っていることも、修子はわかっている。

「それなのに、修はなにを考えているのかわからない」

 ボーイがウイスキーの水割りとカンパリソーダを持ってきたので、遠野は言葉をのみ、ボーイが去るのを待って続けた。

「俺が妻と別れて、独りになってどうして不満なのだ」

「………」

「それを望んでいたのだろう」

 たしかに、修子の気持のなかに、遠野が独りになることを望んでいた部分はある。そうなれば、いつも二人だけで自由に逢えると夢見たこともある。

 だがそれは、遠野が妻と一緒にいるという条件の下でのことで、妻と別れてからでは事情は違ってくる。

 いま遠野が妻と別れると、それは願望でなく現実となる。

 この一週間、修子が悩んだのはその現実の重さである。いままでは願っても不可能なものとして、遠野が独りになる状態を想像し、夢見ていた。だが気がつくと、その空想が手を伸ばせば届くところまで近付いている。修子にはその近付きすぎた現実が怖い。

「当然、修も喜んでくれると思っていた」

 再び、修子はびくりと肩を震わせた。

 たしかに、遠野が妻と別れることを望んだことはあったが、それは「喜ぶ」という気持とは少し違う。遠野が独りになれば、妻子ある夫《ひと》と際《つ》き合っている罪悪感は消えるが、それを「喜ぶ」というような、単純な言葉で表されては困る。

「せっかく妻と別れて一緒になるというのに、どうして喜ばないのだ」

「ああ」と、修子は思わず心の中でつぶやいた。

 いまようやく遠野が結婚しようといってくれるのに、自分が素直に飛び込んでいけない理由が、修子にはわかったような気がした。

 言葉尻をとらえるようだが、「せっかく妻と別れて……」といういい方のなかに、「お前のために」という恩着せがましさが含まれているようである。思いすごしかもしれないが、「ここまでしてやっているのに」と、遠野はいいたいのかもしれない。

 だが誤解されては困るが、修子は自分のほうから離婚を迫ったことは一度もない。いま、遠野はたしかに別れるといっているが、それは遠野が決め、自分からいいだしたことである。

 むろん築地のマンションで遠野の妻と会ったことで、夫婦の亀裂は一層深まったのかもしれないが、それを修子のせいにされては困る。修子は遠野のマンションへ行くことも、ましてや彼の妻に会うのを望んだわけでもない。

 はっきりいって、この数カ月、遠野と妻とのあいだで相当のもめごとがあったようだが、それは修子とは別の世界のできごとである。こちらが直接、関知していることではない。

 実際、だからこそ、今回の遠野の結婚の申し出に修子は驚き戸惑った。正直いって唐突にもきこえた。

 だが遠野のなかでは、妻との不和と、修子との結婚の決意とはつながっていたようである。

 妻との亀裂が深まり、もはや恢復不能だから、別れて新しい結婚へ踏み出そうとする。

 少し穿《うが》ちすぎかもしれないが、遠野の態度はそんなふうに見える。

 正直いって、修子はそんな形でプロポーズされたくなかった。仲の悪くなった妻の替りに君を、といわれるのでは辛すぎる。

 それより、もし本当にわたしを愛していたのなら、妻と不和になる以前にきっぱりと別れて、それから「一緒になろう」といって欲しかった。

 我儘かもしれないが、プロポーズにもそういうけじめが欲しかった。

 修子の戸惑いを察したのか、遠野は思い直したようにいう。

「もちろん、修が手放しで喜んでいるとは思っていない。修がそういう女でないことはわかっている」

 修子は目を伏せたまま、グラスのなかの氷を見ていた。バーは薄暗いが、天井のスポットライトが、直接、グラスに当って重なり合った氷が輝いている。

「でも、ここまで踏み切れたのは修がいたためだ。修がいなければ、いままでのまま中途半端な生活を続けていたかもしれない」

 遠野の言葉をききながら、修子は次第に息苦しくなってきた。

「修のおかげ」ということで、遠野は感謝を表しているつもりかもしれないが、そういわれても修子はあまり嬉しくはない。

 修子がいたから別れられたということは、裏を返せば、修子がいなかったら別れはなかった、ということではないか。

 女は欲張りなのか、単なる妻の替りではなく、その人にとって絶対的なものでありたい。

 残念ながら遠野ほど人生経験のある男でも、そこまで女の気持は見抜けないようである。

「でも、丁度、いい潮時だった」

 遠野がさらに続ける。

「とにかく、俺達はここまできてしまったのだ。ここまできた以上は一緒になるよりない」

「待って……」

 ゆっくりと、修子はグラスから顔を上げた。

「そんなことは、無理よ」

「何故?」

「いけないわ」

「われわれがやろうとしていることが、世間からみて感心したことでないことは知っている。しかしここまできたら仕方がない」

 いま、修子がいいたいことはそういうことではない。世間にどう見られようと、そんなことは気にしていない。

 それより修子が拘泥《こだわ》っているのはプロポーズにいたる遠野の態度である。

 二人が知り合ってから五年ものあいだ、妻とはうまくいっていないといいながら、別れるそぶりもなく、見ようによっては、両方うまくやっていきたい、という態度のようにも見えた。それを修子は非難するつもりはないが、そんな状態が行き詰ったからといって、一緒になろうといいだすのでは勝手すぎる。

 はっきりいって修子はいま、遠野という男の身勝手さと節度のなさに失望しかけている。もう少し毅然として筋を通す人だと思っていた。

 修子が黙りこんでいると、遠野がテーブルの上の伝票を手にして立上ろうとする。

「ここでは落着かないから、修のところへ行こう」

「ここでいいわ」

 今夜、ホテルのバーで遠野と逢ったのは、修子からの希望である。遠野自身は修子の部屋か、あるいは旅にでも出てゆっくりと話したかったようだが、旅先や部屋で逢ったのでは、せっかくの決心が鈍ってしまう。

「ここにいましょう」

「どうして?」

「わたしはここがいいわ」

 修子のきっぱりしたいい方に、遠野は渋々また椅子に坐ったが、気持は苛立っているようである。

「一体、どういうつもりなんだ」

「………」

「もう、俺を部屋に入れたくないというわけか」

 なおも答えず夜の窓を見ていると、遠野が舌打ちした。

「はっきりしろ」

「このまま、逢わないことにしましょう」

「要するに、別れたいというわけだな」

 はっきりいって、修子は今夜、そこまでいうつもりはなかった。

 昨夜考えた結論は、たとえ遠野が妻と別れても一緒にはならない、ということだけだった。このあと、遠野との関係を続けていくかいかぬかまでは決めかねていたし、ましてや別れると、決心したわけでもない。

 だが遠野と話しているうちに、曖昧《あいまい》にしていることが、かえって相手に迷惑をかけることに気がついた。それがお互いのあいだを一層こじらせ、ひいては自分に嘘をつくことになる。

「もう、隠さないではっきりいってくれ」

 遠野は残ったウイスキーを飲み干すと、荒々しくグラスをテーブルにおいた。

「俺と別れたいんだろう」

「………」

「そうだな?」

 そう矢継早にきかれると、修子は詰ってしまう。もう少し優しく時間をおいて尋ねてくれたら、うまく答えられそうだが、一気に問い詰められると黙らざるをえない。

 そのままうつむいていると、遠野がゆっくりとつぶやいた。

「そうか……。修は最初から、俺と一緒になる気なぞなかったんだ」

「………」

「初めから、遊びのつもりだったのだ」

 遠野のいうことは、みな間違っている。修子がそんないい加減な女でないことは、遠野自身が一番よく知っているはずである。だがそうでもいわなければ、遠野の気持は鎮まらないのかもしれない。

「まさか、そんな心変りをしているとは知らなかった。いつから、変ったのだ」

 きかれて、修子はこの数カ月をかえりみた。

 築地のマンションで遠野の妻と逢ったときも、彼が大阪の病院に入院したときも、修子はまだ遠野のことを思い続けていた。

 はっきり修子の心が揺れだしたのは、この数週間かもしれない。

 彼が退院してきて、はっきり妻と別れるといい出してからなのか。不思議なことに、心の底で願っていたことが現実になりかけて、修子の気持は次第に萎《な》えていった。

 特にこの数日、毎日のように遠野から妻と別れるという話をきかされているうちに、修子のなかで、いままでの彼とは違う別の遠野が見えはじめてきた。

 たしかにこれまでの遠野は強くて優しくて、修子自身も知らなかった無数の可能性を引き出してくれた。それは精神的な成長とともに肉体の面での開花も含んでいる。まことにこの五年間は、修子自身が大人の女として花開いた貴重な歳月で、遠野に従《つ》いていくことに、なんの疑いも不安も抱いていなかった。

 だがいま結婚という具体的な言葉を聞き、これから始まるかもしれない遠野と二人だけの生活を思ったとき、新しい不安が次々と修子に襲いかかってきた。

 たしかに遠野は精力的な男だが、ともに住む夫としてみたとき、かなり我儘で自己中心的である。一旦、仕事に熱中しだすと家庭を忘れ、さらには妻も忘れる。当然のことながら時間も不規則で、家に帰ってきても、自分の衣類は脱ぎっ放しで散らかすだけで、家事は一切しない。

 いままではそこに男らしさを感じていたが、ともに生活するようになっても、それを許して従いていけるだろうか。

 はっきりいって、これまでは月に数回逢うだけで、それ故に彼の我儘を感じても一時のことだと思い、そのときが過ぎれば忘れられたが、いつも側にいるとなると、そうはいかないかもしれない。たまにしか逢えぬから成り立っていた優しさや愛しさも、日常という慣性のなかに入ると色褪せ、汚れていくかもしれない。

 長年、修子が描いてきた家庭は、夫と妻が協力しながら支えていく家庭である。結婚しても、たとえ子供が生れても、修子は仕事を捨てる気はない。我儘といわれても、夫や子供のために、仕事を犠牲にしたくない。

 その観点から遠野を振り返ると、修子の願う夫の像とは大分違っているようでもある。

 このままでは、世話のかかる男という荷物を、背負うだけになるかもしれない。

 修子の考えていることを知ってか知らずか、遠野がさらに問い詰める。

「俺が離婚すると知って、嫌になったのか?」

 その推測は半ば当っているようで、半ば当っていない。遠野が離婚すると知って嫌いになったわけではないが、彼に従いていくのが怖くなったことだけはたしかである。

「どんなになっても、従いてきてくれると思っていた」

「でも、そんな約束は……」

「約束はしなくても、そう思うのは当然だろう」

 遠野の声が高くなったので、修子はあたりを見廻した。幸い隣りの席はあいていて、その先に二人連れの客がいるが、こちらには無関心である。カウンターの手前にいるボーイだけがときどき視線を向けるが、近付いてくる気配はない。

「本気になったのは、俺だけだったというわけか」

 遠野はそういってから、氷をカリカリと噛む。

「俺だけその気にさせて、それは、卑怯というものだろう」

 卑怯という言葉を、修子は頭の中で反復した。そういわれると、そのとおりのような気もするが、自分は遠野を裏切ってはいないとも思う。

「要するに……」

 遠野は自嘲するようにかすかに笑った。

「俺が嫌いになったというわけだな」

「いいえ……」

「じゃあ、何故、ついてこないのだ」

 高ぶる遠野の声を聞く度に修子は悲しくなる。

 いままで自分が愛し、慕ってきた人は、こういう人ではなかった。自分よりはるかに年上で、それだけ人生を知り尽し、どんな時にも冷静で、抑制がとれていた。彼に従っていくかぎり、間違いはないのだと信じきっていた。

 だがいま目の前にいる遠野は人が変ったように荒々しく猛々しい。修子が憧れていた、大人の冷静さには程遠い乱れようである。

「聞いているのか……」

 修子は慌てて目を閉じる。こんな喚《わめ》き続ける、子供のような遠野を見たくはない。

 だが遠野の声は静まりそうもない。

「せっかく一緒になれるというのに、いまのままのほうがいいのか」

「………」

「いまの、愛人のほうがいいのか?」

 問い詰められて、修子はゆっくりとうなずいた。

「本気か……」

「………」

「本当にそう思っているのか」

 正直いって、いまの立場が絶対に好ましいと思っているわけではない。

 だがいままでのように、遠野とは一緒になれぬと思いながら、彼を恋しているほうが爽やかで、緊張していたことだけはたしかである。

「わからん……」

 顔をそむける遠野に、修子は静かにつぶやいた。

「素敵でした」

 いまさらそんないい方は酷《こく》かもしれないが、遠野は恋人としては素敵な男性であったが、家庭の夫としては少し違うかもしれない。男達がよく、「あの女性は恋人にはいいけど、妻としてはどうも……」というように、遠野も夫より恋人に向いているのかもしれない。

 これまで修子はそうした遠野の、いい面だけを見てきたようである。

「なにが、素敵なのだ」

「いままで……」

「要するに俺と一緒になるより、独りでいるほうがいいというわけだな」

「わたし、独りで生きていけます」

「そんなことをきいているのではない。修をいまの立場から解放してやりたいんだ」

「いまのままで充分です」

 修子はフランス語のメトレスという言葉を思い出していた。その語感は女の自立と毅然さを思わせて爽やかである。

「本当にそう思っています」

 修子はいま初めて、なぜ遠野の愛人の立場で納得していたかに気がついた。

 たしかに愛人という地位は不安定だが、同時に美しい存在でもある。

 日常の雑事をある程度忘れて、お互いにいたわり合うこともできるし、たまに逢うが故に美しいところだけ見せ合うこともできる。誕生日や二人が初めて逢った記念日など、節目節目となるときは、必ず二人で過ごそうと努力し、その都度、燃えていける。

「いまのままでいいのです……」

 修子は再び窓を見た。

 高層ホテルから見下す都会の明りは何本もの天の川が地上に舞いおりたように輝いている。予報では大陸から寒気団が近付いているといっていたが、冷えた夜の大気が街の明りを一層鮮やかにしているようである。

 修子はその無数に輝く光りを見ながら、自分の部屋を思った。

 ここから自宅の方角は見えないが、朝八時に出てから、もう十二時間以上、部屋は閉ざされたままになっている。いま帰ると暗くて冷えきっているが、その冷えた暗い部屋に、修子は無性に帰りたくなった。

 いつもは誰もいない部屋に戻るのが淋しかったが、いまはその孤独な静けさが懐しい。

 修子は窓から視線を戻すと、横においてあったハンドバッグに手をかけた。

「帰るのか?」

「はい……」

 修子がうなずくと、遠野は行く手をさえぎるようにテーブルに両手をついた。

「まだ、話が終っていない」

「………」

「俺達のことは、なにも解決していないじゃないか」

 それをきいて、解決したと思ったのは、修子一人の思いこみだったことに改めて気がついた。

「俺はワイフとも別れて、一人になるんだぞ」

 いままで怒りに燃えていた遠野の目が、潤んでいる。

「一体、どうしてくれるのだ」

 声を荒らげながら、遠野の顔は泣きだしそうである。

「ご免なさい……」

 修子は静かに頭を下げた。

 自分が、遠野をこんなところまで追い込んだとしたら、謝らなければならない。

 だがいいわけじみるが、修子はこれまで遠野と一緒になりたいといったことはない。心の中で思ったことはあっても、口に出して求めたことはない。妻と別れるのは、遠野が一人で決めたことで、そのことについて相談を受けたわけでもない。それが修子のために好ましいと思ったのかもしれないが、その責任をとれ、といわれても困る。

「どうしても、一緒になれないのか……」

 遠野がすがるように修子を見詰める。

「頼む……」

 頭を下げる遠野から顔をそむけて、修子は目を閉じた。こんな気弱な遠野を見るのは初めてである。いままで修子の前に立ちふさがり、がっしりととらえて離さなかった遠野はどこにいったのか。

「やめて下さい」

 修子は目を閉じたまま首を横に振った。

 五年間、愛し合ってきた人と別れるときは、もっと明るく爽やかでありたい。

 いま別れるからといって、修子は遠野を嫌いになったわけでも、憎んでいるわけでもない。それどころか、いまも遠野が与えてくれた沢山の優しさと豊かさには感謝している。

 そのたしかな男が、女の前で深々と頭を下げたりしないで欲しい。いつまでも、遠野は強く逞《たくま》しく、傲慢でいて欲しい。いままでのように、世間など気にせず堂々と生きて欲しい。

 ひ弱で情けない遠野なぞ見たくはない。実際、遠野が強くなければ、五年間、彼を愛し続けてきた自分自身はなにをしてきたのか、わからなくなる。

「ご免なさい……」

 修子はもう一度いうと、バッグをわきに引きつけた。

「どこへ行くんだ」

「帰ります」

「駄目だ」

 一礼して修子が立上ると、遠野も立上る。

 突然、二人が席を離れたので、ボーイも驚いたようである。カウンターの前に立っていた男が、こちらを見ながらレジの方へ移動する。

 修子は振り向かず、小走りにバーを出たが、遠野は会計をするのに手間どったようである。

 そのあいだに、修子はあいていたエレベーターに乗ってロビーへ下りた。

 遠野には悪いが、いまは逃げるよりない。修子は早足でフロアーを駆け抜けると、自動扉から外へ出た。

 そのままタクシー乗場に向かいかけたとき、うしろで呼ぶ声がした。

「おい、待てよ……」

 振り返ると、遠野の顔が開きかけた自動扉の先に見える。

「非道《ひど》いじゃないか」

 遠野は追いつくと、呼吸を整えるように大きく肩で息をついた。

「黙って帰る奴がいるか」

「帰ります、といいました」

「俺は許していない」

 男と女がいさかいをしているのは、誰の目にもわかる。

 ホテルに出入りする客やポーターが怪訝《けげん》そうにこちらを見ている。恥ずかしくなって、修子がさらにタクシー乗場へ步き出したとき、いきなりうしろから左腕をとらえられた。

「待て……」

「いやです」

 手をふりほどこうと、肘をつき出した瞬間、修子は頬に一撃をくらった。

 不思議なことに、痛みより痺《しび》れのようなものが顔面をおおい、次の瞬間、修子は眩暈《めまい》を覚えてうずくまった。

「大丈夫ですか」

 すぐポーターが駆け寄ってきて修子を支えてくれる。顔をおおったままうなずく修子の背後で、遠野の罵《ののし》る声がして、男達が揉《も》み合っているようである。

 ふらつく体を立て直して修子はポーターに訴えた。

「車に乗せて下さい」

 修子はいま遠野から逃げることしか考えていなかった。

「こっちですよ……」

 ポーターが修子を抱えるようにして、車にのせてくれた。

「どこへ行きますか?」

「瀬田へ……」

 運転手に答えて振り向くと、遠野は喚きながら男達におさえこまれていた。

 瀬田のマンションに着くと、十時を少し過ぎていた。

 修子は明りをつけ、暖房のスイッチを入れてから、ソファに横になった。

 打《ぶ》たれて三十分も経つのに、左の頬がまだ火照っている。しかもそのとき、奥歯を噛んだらしく、口の内側が少し切れて唾に血がまじっている。

 鏡で見ると、頬の赤味はほとんど消えたが、口の粘膜の切れたあたりが疼《うず》き、少し腫れているようである。

 冷やしておけば、そうたいしたことにはならないだろう。修子は冷たいタオルを頬に当てながら、遠野のことを思った。

 あれからまっ直ぐ帰ったのか、それともポーター達と揉み合って喧嘩にでもなったのか。いずれにしても早々にホテルを去ったに違いない。

 そのあと、街をさ迷っている遠野を、修子は想像する。

 コートを持ったまま、冷える夜を一人で步いているのか、それともどこかで、浴びるように酒を飲んでいるのか。

 それにしても、見事な一撃であった。これまでも一度、遠野の妻と会ったあとに打たれたことがあるが、それは仲直りのための暴力であった。今回のように切羽つまって、しかもこれほど激しく打たれたのは初めてである。

 だが不思議なことに、遠野に憎しみは覚えない。

 場所柄も忘れて、あれほど強く打ったのは、余程腹に据えかねたのか。修子は改めて、今夜のことを思い返した。

 初め逢ったときには、穏やかに話し合って、笑顔で別れるつもりでいた。一週間前に、一緒になる気はないことを告げてあるのだから、わかってくれるものだと思っていた。

 だが、美しく別れるということは、修子の幻想だったようである。

 深く愛せば愛すほど、別れは辛く、恨みや憎しみは増す。

 もし美しい別れがあるとすれば、二人がともに恋人をつくったときだけで、それ以外の美しい別れなぞ、まやかしなのかもしれない。

 だがそれにしても、もう少しきれいな別れ方はできなかったのか。

 他人の見ている前で、打たれて別れるのでは淋しすぎる。

 いまとなっては、遠野と別れることより、別れ方に悔いが残る。

 しかし考えようによっては、打たれたことで、かえって気持が定まったといえなくもない。

 人はどこかで、別れを決心しなければならないときがあるが、いま初めてその機会が、訪れたようである。

 遠野がようやく妻と別れる決心がついたとき、彼から去っていくのは身勝手すぎるかもしれないが、ここまで事態がすすんだからこそ、決心できたのかもしれない。

 遠野がいよいよ妻と別れるときいて、修子は自分のしていることの怖さと、これからの責任の重さに気が付いた。

 もし、遠野がそこまで決断しなければ、修子はまだまだ彼にすがっていたかもしれない。

「そうか……」

 修子はうなずくと、ソファに坐り直した。

 いまになって修子は自分が遠野に惹《ひ》かれていた理由がわかってきたようである。

 遠野は他人の夫で、自分とは永遠に結ばれない。たとえ結ばれたとしても、そのためには、多くの人々の犠牲と憎しみをかわなければならない。

 修子が愛したのは、そんな困難な状況にある遠野という男だったのかもしれない。あるいは、そうした緊張している状況そのものに、惹かれていたのかもしれない。

 実際、修子はその緊張状態のなかで、美しく艶《あで》やかになってきた。

 遠野はそれを、天性のものだといったが、そんな単純なものではない。

 遠野を愛する以上は彼の妻に負けたくない。他の人からも一目おかれる女でありたい。そうした前向きの意志が、修子を美しく、張りのある女性にさせたことは否《いな》めない。

 考えてみると、遠野は修子に対して、いくつかの思い違いをしていたようである。

 たとえば今夜も、「修を愛人という立場から解放するために、妻と別れるのだ」といったが、女はみな、愛人より妻の座に憧れているのだと思いこんでいるようである。

 しかし必ずしも、すべての女性が妻の座を求めているわけではない。

 数ある女性のなかには、妻よりは愛人でいるほうが好ましく、自分に合っていると思っている女もいる。一生でなくても、一時、その方が自由で、自分の才能を伸ばせると思うこともある。あるいは結婚という形式自体を忌避している女性もいる。

 もしかして、妻という立場に立たされるかもしれないと知って、修子ははじめて、愛人という立場の居心地のよさに気が付いた。

 それは具体的にいうと、一人でいる気楽さであり、一日のスケジュールを自分の思うままに立てられる楽しさであり、自分のライフスタイルを確立できる喜びでもある。もちろん好きなときに、好きな友達と会うことも、多くの男性と際《つ》き合うことも可能である。

 むろんその裏には、独りでいる淋しさや、結婚していない頼りなさもあるが、なにごとも利点があれば欠点もある。

 眞佐子は結婚することで生活と心の安定をとり、絵里は夫と別れることで自由と仕事をえた。

 人それぞれ、いずれをとるかによって選択は異なってくる。

 いま、修子は妻という立場を否定する気はないが、あえて他人から奪おうというほどの意欲はない。ましてや犠牲を払い、さまざまの人の怨嗟《えんさ》をかってまで、妻の座につきたいとは思わない。

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