「これでいいわ」
修子はつぶやくと、タオルを冷やすために洗面台の前に立つ。
正面の鏡に、化粧を落して少し疲れた顔が映っている。やはり下顎のあたりが少し腫れて熱っぽい。
修子はさらに鏡に近付いて、小指で目の縁に触れてみる。
目尻に数本の小皺《こじわ》があるが、まだ化粧でかくせそうである。
しかしもう、若さや無邪気さだけで生きていける年齢ではない。
だが、だからこそ、いましばらく自由でいたい。誰にも拘束されず、独りで自分の道を探ってみたい。
「いいでしょう?」
鏡の顔に尋ねると、少し疲れた顔がうなずく。
「これから、大変よ……」
しかし、修子は意外にしぶとく生きていけそうである。
少女のときから体が弱く、泣虫だったが、いまは自分でも驚くほど強いところがある。
遠野を愛しながらも、家庭に戻っていく彼を、自分とは無縁の人として割りきろうとしたことも、彼が妻と別れるといいだしたときに彼から去ることを決めたのも、すべてその強さがあったからできたことである。
考えてみると、女は男より性格は強いのかもしれない。他の友達を見ても、くよくよ考えるわりには、切り替えが早い。決るまで延々と悩みながら、いざ決めると、もはや振り返らない。
気がつかぬうちに、修子もそんな逞しさを身につけたのかもしれない。
「大丈夫よね」
もう一度鏡に向かってたしかめたとき、電話のベルが鳴った。
冷えたタオルを片手に受話器をとると、絵里の声だった。
「もう帰っていたの?」
今夜、遠野に逢うことを、絵里にだけは知らせてあった。
「どうだった?」
修子はいつものように電話のコードを延ばして、ソファに坐った。
「全部、話したのでしょう」
「話したことは話したけれど、最後に打《ぶ》たれて……」
「どこを?」
「左の頬……」
突然、絵里の噴きだすような笑いが洩れてくる。
「殴られたんだ」
「思いきり、叩くんだもん」
「で、悄気《しよげ》ているんだ」
悄気ているというわけではないが、なにか大きな落しものをしてきたような虚しさがある。これから一人でどう生きていけばいいのか、考えだすと不安である。
だがいまそれを、たとえ絵里にでもいいたくない。別れに踏みきった日くらいは強く爽やかでいたい。
「べつに悄気てなんかいないわ。ただ、口の中が少し切れたので……」
「そんなに強く打たれたの」
「突然だったから」
「それで、喋り方が可笑《おか》しいんだ」
修子は空いているほうの手で、冷やしたばかりのタオルをくるくると円《まる》めた。
「それは、あなたを愛しているからよ」
「わかってるわ」
「後悔しない?」
「なにを?」
「彼と別れること」
そんなことは、いまきかれても答えられない。これから一気に悔いがおし寄せてくるかもしれないし、案外平気でいられるかもしれない。いずれにせよ遠野と慣れ親しんだ五年間の歳月がそう簡単に消え去るとは思えない。
だが別れると決めた以上、過去を思い出し、それを懐しんでいても仕方がない。これからどんな未来が訪れるのかわからないが、いまはとにかく、前へ向かって一步、踏み出さなければならない。
「後悔しないわ」
「本当かな?」
「だって、そう決めたんだから」
後悔しない、などという自信はないが、いまは自分の決めた道にそって步むよりない。
「いいでしょう」
「わかったわ」
絵里はつぶやくと、少し間をおいてから囁くようにいった。
「これで、あなたも一人ね」
「完全なフリーよ」
「じゃあ、二人でまたいい男を見付けようか」
「賛成……」
修子は思いきり明るい声でいうと、いつのまにか涙であふれた目頭に冷えたタオルを当てた。
あ と が き――メトレスについて
渡 辺 淳 一
本書の表題である「メトレス 愛人」は同義語で、愛人のことをフランス語で表すとメトレスとなる。
だが意味は同じでも、実際のニュアンスは大分異なり、日本語でいう「愛人」は、経済的にも精神的にも男性に頼っている感じがするのに対して、「メトレス」は自立して仕事をやりながら、他の男性と恋愛関係にある女性、といった感じになるようである。
本書にも「クレッソン首相はミッテラン大統領のメトレスよ」という会話がでてくるように、女性の身で首相という要職をこなしつつ、一方で特定の男性と親しく際《つ》き合っている女性、という意味になる。
ちなみに仏和辞典の「メトレス」の項には、女主人、女教師、女の実力者、といった意味から、主婦、女将、夫人、そして恋人、愛人、妾、情婦といった意味まで広く記されている。
いずれにせよ、メトレスがかなり実力や教養を備えている自立した女性を表し、日本語の愛人という言葉にある、暗さや甘えの部分がないことはたしかである。
もともと日本語は世界でも有数の豊かな語彙《ごい》を持った言語であるが、こと愛に関する言葉だけは、長年、人前で愛を表現することが抑圧されてきたせいか、極端に少なく貧しい。当然のことながら、夫以外の男性を愛する女性を表すには、「愛人」という言葉しかなく、あとは「妾」のような差別的な表現になってしまう。
本書の主人公は経済的に自立し、自分なりのライフスタイルをもち、キャリアアップを目指しながら、同時に妻子ある男性を愛している。
こういう女性をどう表すか。これまでの手垢のついた「愛人」という言葉だけではもの足りないため、あえてメトレスというフランス語と二つ並べて、表題に用いることにした。
くり返すが、メトレスとは男性に頼るだけでなく、自ら仕事をもちつつ、自らの意志で男性との愛を享受する近代的な女性の意味である。むろん妻であっても、主婦であってもかまわない。
この言葉が愛の言葉の貧しい日本でも受け入れられ、恋する女性達が年齢や未婚既婚の区別なく、メトレスという明るい名で呼ばれるようになることを願っている。
「週刊文春」一九八八年五月五日.十二日合併号~一九八九年二月二日号
一九九一年十二月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成六年十二月十日刊
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