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作者:日-渡边淳一 当前章节:15397 字 更新时间:2026-6-15 15:59

 修子が首を傾《かし》げると、遠野は少し照れたように笑ってから修子の額に接吻をした。

「じゃあ……」

 ようやく安心したように遠野はドアを開け、廊下に出てからもう一度手を振った。

「お休みなさい」

 修子は軽くうなずくと、遠野がドアを閉めるのを待って内側から鍵をかけた。

 部屋に一人になって、修子は髪を掻き上げ、それから一つ伸びをした。

 なにか大きな嵐が去って、ようやく自分の時間が戻ってきたようである。

 修子はバスキャップをかぶり、浴槽に湯を張って体を沈めた。

 北陸育ちの母の血を受けて、修子の肌は白い。若いころ、その白さが恥ずかしくて、小麦色の肌に憧れたこともあった。

 だが遠野は、「修の白い肌を見ていると、欲しくなる」といい、「よく見ると、白い肌がいろいろな色に変る」ともいった。そんなところまで見られていたのかと、修子は顔を赤くしたが、その肌が湯のなかで息づいている。

 不思議なことだが、遠野の愛を受けるようになってから、修子の肌は瑞々《みずみず》しさを増したようである。それも二十代の後半から艶《なま》めいてきたことが、奇妙で不思議でもある。

 修子は丹念に体を洗ってから、髪をシャンプーした。再び湯につかり、充分あたたまってから鏡に向かう。両の眼尻に小皺《こじわ》が一本ずつ出ているが、それは焦っても仕方がない。お世辞か慰めか、遠野は「少し皺があるほうがいい」といってくれたが、いまはそれを素直に信じることにする。

 バスルームを出て乳液をつけ、ナイトクリームを塗り、髪をブロウして、修子はようやく、今日一日が終ったことを実感する。

 深夜の二時近くだが、これからはもう誰にも邪魔されない自分だけの時間である。

 修子はソファに横向きに坐ると、思いきり脚を投げ出す。

 小さい頃、バレエをやったことがあるが、そのときに右の拇指《おやゆび》の爪を潰《つぶ》して円くなっている。そこがいまでも気になるが、一人では隠すこともない。

 喉の乾きを覚えて、冷蔵庫からビールを出し、テーブルの上のラジオカセットをFENに合わせる。外国放送は英語の勉強にもなるが、音楽も多い。それを聴きながら、再びソファに横になる。

 好きな人に抱かれたあと湯につかり、ビールを飲みながら音楽を聴いている。もうこの部屋は、自分だけの天国で、誰も侵入してくる者はない。

 修子はこんな気儘に、暢《の》んびり過ごす時間が気に入っている。どんなに愛《いと》しい男性がいても、一人で寛《くつろ》ぐ時間だけは失いたくない。自分が自分に戻る時間を大切にしたい。

 女が一人で生活して三十も過ぎてくると、自分なりの生活のパターンが身についてくる。どんなに好きな人ができても、これだけは崩したくないという生活のリズムができてくる。

 修子が結婚にいま一つのり気になれないのは、そんな我儘《わがまま》な部分が残っているからかもしれない。

 グラスを飲み干してさらにビールを注ぎ、音楽を聴いていると電話のベルが鳴った。

 コードを長くしているので、腕だけ伸ばして受話器をとると遠野の声だった。

「いま戻って、部屋にいる」

 遠野は自宅の電話とは別に、書斎に直通の電話をもっていてそこからかけているらしい。

「まだ、起きていたのか……」

「お風呂に入って、ビールを飲んでいたわ」

「眠くないのか?」

 深夜のせいか、遠野の声は少しくぐもってきこえる。

「変なときに眠ったから、かえって目が冴えて……」

「じゃあ、一緒に起きている」

「どうして、休んだほうがいいわ」

「修一人、起こしておくわけにいかない」

 そこで、遠野は急に声を潜める。

「愛している……」

 突然いわれて修子は戸惑う。

「きこえた?」

「きこえたわ」

「頼りないな」

 またしばらく沈黙があってから、遠野が一つ空咳《からぜき》をした。

「じゃあ、切るよ」

「お休みなさい」

 修子は受話器をおくと、いまの余韻を打消すように再びラジオを高くして、ビールを飲む。

 旅  路

 ゴールデンウイークの五月三日に、修子は安部眞佐子と小泉絵里の二人と羽田で落合って、青森へ向かった。三人はともに大学時代の同級生で、眞佐子は丸の内口にある商事会社に勤めているが、いまだに独身である。絵里は赤坂にあるテレビ局のディレクターで、同じ局の男性と五年前に結婚したが、去年別れてしまった。

 結局、修子も含めて、三人はいずれも独身である。

 大学時代の友人の大半は結婚して、初めのうちこそときたま会ったり、彼女等の家に呼ばれて行ったこともあったが、いつのまにか疎遠になり、気がつくと独身の友達とだけ親しくなっている。このあたりは類は友を呼ぶというのか、自然の成り行きらしい。

 残念なことだが、女の場合、既婚か未婚かによって、話題や関心のあり方が違ってしまう。

 しかし同じ独身といっても、その実態は三者三様である。

 たとえば眞佐子だが、彼女は大学を卒《お》えたときからいままで、一貫して結婚を望んできた。しかし理想が高すぎたのか、縁がなかったというべきか、いまだに独身である。それでも、いわゆる結婚願望派で、三人のなかでは最も真っ当なお嬢さま、といえるかもしれない。顔立ちも色白でおっとりとして、良家の嫁におさまれば、いかにも似合いそうである。

 彼女に較べると、絵里はやや色黒だがシャープな顔立ちで、いかにも働く女性といった感じである。五歳の男の子までいるのに一年前に離婚したが、幸い経済力もあるせいか、離婚したあとも明るく前向きに生きている。

 この二人に較べると、修子はほぼ中間かもしれない。三十二歳まで独身できて、妻子ある遠野と結ばれているが、といって結婚を否定しているわけではない。適当な人がいてチャンスがあれば、結婚してもいいとは思う。

 だが、とくに焦って相手を求めるほどの積極的な気持はない。要するに、結婚はしてもいいし、できなくてもかまわない。結婚懐疑派というより結婚という形に拘泥《こだわ》らない。その意味では自由派とでもいうべきかもしれない。

 修子がそんな気持になったのは、母の生き方と無縁ではなさそうである。

 修子の母は、いまも新潟に住んでいて健在だが、海産物問屋をしていた父は、修子が高校生のときに、他の女性を好きになって家を出てしまった。それ以来、母は父からの仕送りで生活には困らなかったが、淋しい生活を送ってきた。

 結局、母の一生は修子と二人の男の子の子育てに追われただけであった。しかも長男が結婚したあと、嫁と折合いが悪くなり、六十半ばに達したいまは別れて一人で暮している。

 修子の子供のころは父と母は仲睦《なかむつ》まじかったのに、気がつくと別居同然で、あれだけ可愛がって育てた息子とも一緒に住んでいない。

 そんな母の姿を見ていると、結婚とはなんなのかと考えこんでしまう。少なくとも、結婚さえしてしまえば安心、というような気持にはなれない。

 なまじっか結婚などして相手に頼るより、自分なりの生きていく道を失いたくない、母を見て感じてきたそんな思いが、眞佐子のように素直に結婚に憧れる気になれない原因かもしれない。

 女が三人集れば姦《かしま》しいというが、まさにその言葉どおり、三人は修学旅行にでも行くような浮き浮きした気分で羽田を発《た》った。

 例によって、絵里はピンクのジャケットに同色のジョッパーズという派手な服装に、円いつば広の帽子をかぶって、赤坂ファッションがそのまま東北に飛び出てきた感じである。眞佐子は白のブラウスに白のパンツと一応お嬢さまスタイルだが、胸元には大きなフリルがついている。

 そのなかで、修子は濃紺のブルゾンスーツに白いTシャツをのぞかせて、三人のなかでは最も落着いた服装である。

 ゴールデンウイークの青森は新緑にはまだ間《ま》があって、街路樹も裸木のままである。

 眞佐子の実家は青森から南西に二十キロほど下った黒石にある。ここの造り酒屋だときいていたが、空港に降り立つと、店で働いている若い青年が迎えに来ていた。

 まだ昼を少し過ぎたばかりなので、三人はその青年の車で青森の街を見ることにした。

「初めに港にいってみましょう」

 眞佐子の意見で、車は街を抜けて港に出る。

 青函連絡船がなくなって淋しくなったというが、その閑散とした港がかえって旅情をそそる。

「やっぱり、北の海は男性的で素敵ね」

「はるばる来た、という感じね」

 絵里と修子が感想をいいながら眺めていると、眞佐子が海の彼方《かなた》を指さす。

「もっと晴れると、この方角に北海道が見えるんだけど」

「あの先が津軽海峡でしょう」

「わたし、ここへ来るといつも啄木の歌を思い出すの。“船に酔《え》ひてやさしくなれるいもうとの眼見《めみ》ゆ津軽の海を思へば”っていうの」

「へえ、眞佐子も結構ロマンチストなのね」

「そうよ、東北人は外見はもっそりしていても、本当は大変なロマンチストなのよ」

 三人でお喋りをしながら、修子は先程から、迎えに来てくれた青年が一人だけ離れて、車の横で突っ立っているのが気になっていた。

「あの人、退屈じゃないかしら?」

「いいのよ、彼はとっつきが悪いけど、別に機嫌が悪いわけじゃないから」

 そういえば青年は最初に会ったとき、「どうも……」といったきり、一言も発していない。

「まさか、眞佐子を好きなわけじゃないでしょうね」

「冗談はやめてよ、わたしはもう家を捨てた人ですから」

「あなた、恰好いいこというわね」

 絵里はそこで講義をはじめる。

「前になにかの本で読んだけど、全国の県人|気質《かたぎ》のなかで、“初めての人に会うのは気が重い”と答えたのは、青森県人が一番多いんですって」

「それは、こちらの人はナイーブだからよ」

「他に“年上の人には自分を抑えて従う”と答えた人も、青森が一位だったわ」

「わかってるわ、どうせわたしは保守的だといいたいのでしょう」

「そうじゃなくて、無愛想だけど根はいい人だ、という意味よ」

「いいえ、青森人はじょっぱりなのです。要するに融通のきかない頑固者ってわけなの」

「そうかなあ、眞佐子を見ていると、そんな気はしないけど」

「でも頑固な分だけ、進取的なのよ」

「それで、何度もお見合いをするわけね」

 そこで大笑いになって、三人はまた車に戻る。

 晴れているが、風は冷たく、途中、桜が満開のところだけ春が訪れている。

 三人とも青年がいるせいか、車のなかでは口を慎む。

 三十分ほど走って着いた眞佐子の実家は、黒い板塀が角まで張り巡らされ、入口は冠木門《かぶきもん》で、さすがに地方の造り酒屋らしい豪壮さである。

「そうか、あなたはここのお嬢さまだったのね」

 絵里は改めて感心したように、眞佐子を見直す。

「お嬢さまに、あまり失礼なことをいってはいけないなあ」

「もう、いい加減にしてよ」

 玄関に眞佐子の母と兄嫁らが迎えに出てくる。修子と絵里はその二人に挨拶したあと、二階の座敷に案内された。

「少し狭いけど、この部屋に一緒でいいかしら」

「狭いどころか、広すぎるわ」

 部屋は十畳は充分にあり、窓ぎわに手摺《てすり》がついている。

「これだけの家が、東京にあったら凄いわね」

 絵里がいうのに、修子がたしなめる。

「なんでも東京におきかえて考えるのが、東京人の欠点よ」

 お茶とお菓子をご馳走になってしばらく休んでから、三人はまた先程の青年の案内で、市内にある盛美園へ行く。ここは京都の公卿《くぎよう》がつくらせた枯山水の庭園が有名で、園内には御宝殿や御霊《みたま》屋など貴重な建物がある、津軽一の名園である。

「なんだか、東北の小京都といった感じね」

「眞佐子の顔の、少しおっとりしている理由がわかったわ」

「どうせ、津軽|呆《ぼ》けだといいたいのでしょう」

「そうじゃなくて、お公家《くげ》さんの血を引いているのかもしれないわ」

「やっぱり、あなたはよく見ているわ」

 たちまち眞佐子は機嫌をよくして青年に写真を撮らせる。

 庭園のあと黒石温泉郷を見て帰ると六時であった。

 眞佐子の家では、家族全員が一緒に食べるようだが、それでは落着かないだろうということで、二階の部屋に別膳をつくってくれた。そこで食事をしようとしていると眞佐子の父が現れた。かなり上背のある人で、グレイの紬《つむぎ》に兵児《へこ》帯を締めている。

「いらっしゃい」

 眞佐子の父は敷居の前で立ったまま、修子と絵里に頭を下げる。

「いつも、眞佐子がお世話になっています」

 二人は慌てて坐り直した。

「この度は勝手におしかけてきて、お世話になります」

「こんな田舎でなにもありませんが、どうぞゆっくりしていって下さい」

 両手を帯に当てたまま、眞佐子の父はそれだけいうと静かに頭を下げて去っていく。

 のっしのっしとした跫音《あしおと》が廊下の彼方に消えたところで、絵里が大きくうなずく。

「眞佐子が結婚しない理由がわかったわ、あなたファザコンなのでしょう」

「そんなことないわ」

「あんな立派なお父さまがいたら、東京のヒョロヒョロした男がいやになるの、わかるなあ」

「そんなふうに、決めつけないでよ」

 眞佐子が抗議するが、絵里はいま父親が立っていた方角を見てうっとりしている。

 食卓にはひらめ、まぐろ、あわびなどの刺身とともに、蟹《かに》ときゅうりの酢のもの、蕨《わらび》や蕗《ふき》などが入った山菜の煮物から帆立のフライまで、テーブルからはみ出るほど並べられている。

 さらに造り酒屋だけに、吟醸酒から一、二級酒、冷酒まで、さまざまな酒が揃っている。

「こんな豪勢な食事をするのは、久し振りだわ」

 酒好きの絵里は目を輝かせて、まず冷酒から口をつける。

「うん、旨《うま》い,修子もやってみない」

 修子もウイスキーよりは清酒のほうが好ましい。一口飲むと、こくのある香りが舌に滲《し》みる。

「眞佐子も少し飲んだら」

 どういうわけか、酒屋の娘なのに眞佐子はアルコールに弱くてすぐ赤くなる。

「今夜は帰らなくていいんだから、安心して飲みましょうよ」

 絵里はもう自分の家にいるような気分になって飲みだす。

 そのまま酔ううちに、自然にまた結婚や恋愛の話になっていく。

「あなた、あんな素敵なお父さまがいるのなら、結婚することないじゃない」

 絵里はまだ、眞佐子の父親に拘泥《こだわ》っている。

「無口で渋くって、しかも頼り甲斐がありそうで、わたし、眞佐子のお父さまに惚れちゃいそう」

「ちょっとちょっと、冗談じゃないわよ」

 修子は慌ててブレーキをかける。

「でも、好きな人は遠くから思っているだけのほうがいいのよね、一緒にならないほうが」

「そうかなあ、わたしはそうは思わないなあ」

 すでに赤い顔になった眞佐子が反論する。

「好きな人とは、やはり結婚してこそ、本当の愛が貫けるわ」

「眞佐子はまだ子供だから、そんな夢みたいなことをいってるのよ」

「あなたのように離婚してなくて、悪うございました」

「あのね、結婚して一緒に棲むということは、寝呆けた顔もヒステリーのときの顔もみんな見せるということなの」

「みんな見せても、本当の愛があればいいでしょう」

「ところがそうはいかないんだなあ、結婚はきれいごとじゃなくて現実の生活だから、家で毎日素顔をつき合わせていると、夫と妻というより、ただの共同生活者になっちまうわけよ」

「そりゃ、夫婦だから当然でしょう」

「そこが問題なの。ただの共同生活者ということは、男と女でなくなることだから、気どることも恋いこがれることもない」

「そこは二人で努力しなきゃ……」

「これだから、いくら説明しても無駄だわ」

 絵里は呆あきれたというように両手を拡げると、修子に助けを求める。

「ねえ、修子、このロマンチストのお嬢さまに、なんとかいってやってよ」

「修子もわたしと同じ意見よ、愛さえあればなんとかなるわよね」

 二人に同意を求められて、修子は苦笑する。

 たしかに愛しているということは大きいが、それだけで、すべてがうまくいくとも思えない。

「どちらでも、いいんじゃないかしら」

「そんないい加減なこといわないで、はっきりしてよ」

「結婚したければすればいいし、したくない人はしなくてもいいし」

「それじゃ、答えになってないわ」

「修子はもともと醒めているのよ……」

 絵里がいったとき、眞佐子の兄嫁が顔を出した。

「片桐さん、階下《した》に、お電話がきてますが」

「誰かしら……」

 修子は首を傾《かし》げながら兄嫁のあとを従《つ》いていく。

 電話は階段をおりた先の板の間にある。そこで受話器を耳に当てると遠野からだった。

「変りないか?」

「ええ、元気だけど、なにか……」

 出かける前に、修子は遠野に、眞佐子の家の電話番号を教えてきた。

「やっぱり、青森にいるんだな」

「嘘をいっていると思ったのですか」

「そんなことはないが、一寸、気になったものだから。声をきいて安心した、明後日《あさつて》、帰るのだろう」

「夕方、六時ごろになります」

「羽田に迎えに行こうか」

「絵里も眞佐子もいるから、大丈夫よ」

「じゃあ、すぐマンションに行く、いいだろう」

 遠野はそこで少し間をおいてからいった。

「早く、逢いたい」

「嬉しいわ」

「じゃあ、わかったな」

「はい、承知いたしました」

 眞佐子の兄嫁が近付いてきたので、修子は他人行儀な言葉をつかって受話器をおいた。

 修子が電話を終えて部屋へ戻ると、絵里が待っていたようにきいた。

「誰から?」

 二人とも、修子が遠野と際《つ》き合っていることは知っている。

「彼からでしょう」

 当てられてうなずくと、絵里が詰めよる。

「淋しくて、旅先まで電話をよこしたってわけね」

「そんなんじゃないわ」

「いいなあ、わたしもやっぱり彼氏をつくろうかな」

「あら、絵里だっているじゃない」

 眞佐子がいうとおり、絵里は最近、取材で知り合った若いカメラマンに好意を寄せている。

「駄目よ彼は、見た目はいいけど落着きがなくて。やっぱり彼氏は年上で、頼りになるほうがいいなあ」

「じゃあ、修子にでも頼んでみたら」

「ねえ、修子、誰かいい人、いない?」

 絵里がきくと眞佐子が茶化す。

「でも、わたし達より年上となると、みな結婚しているでしょう」

「そんなの平気よ、べつに結婚するわけじゃないんだから」

「そうかなあ、わたしはやっぱり、妻子もちはいやだなあ」

「そういうこといってるから、いつまでたっても子供なのよ」

「じゃあ、お聞きしますけど、あなた達は妻子ある人と際き合って、罪の意識は感じないわけ?」

 酒の酔いも手伝ってか、今夜の眞佐子は威勢がいい。

「感じるも感じないも、なにも相手を奪《と》ろう、というわけじゃないでしょう」

「でも、その人の奥さんや家族は悲しんでるわ」

「そんなことは向こうの事情で、こちらの知ったことじゃないわ」

「それは無責任よ、それじゃ泥棒猫みたいなもんじゃない」

「ちょっと、ちょっと……」

 絵里が口をたしなめるように、眞佐子を睨《にら》む。眞佐子も気が付いたのか、修子に向かって軽く頭を下げる。

「ご免なさい、べつに、あなたがそうだといってるわけじゃないの」

「いいのよ……」

 修子は苦笑しながらうなずく。

 眞佐子のいうことは正論で、誰も文句のつけようがない。だが人を好きだということは理屈ではない。道理ではいけないとわかっていながら、おさえきれないときもある。

 したがって、そこから先は、人それぞれの良識と感性の問題になる。

 修子は遠野を愛しているが、それは自分と逢っているときの遠野だけである。自分から離れて会社へ行ったり、家庭に戻ったときの遠野まで、自分の|掌《てのひら》のなかにとどめておこうとは思わない。

 このあたりが、修子の遠野に対する愛の良識であり、限界である。

 しかし、それは修子が勝手にそう思いこんでいるだけで、まわりの人々まで納得するとはかぎらない。知らない人のなかには眞佐子のように、泥棒猫と思う人もいるかもしれない。

「たしかに、彼がべつの女《ひと》のご主人であることは、間違いないわ」

「修子が、そんなことをいいだしては駄目よ」

 絵里が盃を持ったまま身をのり出す。

「泥棒猫といわれても、こちらが好んでなったわけじゃないでしょう。近づいてきたのは向こうだし、そうさせた裏には、彼の奥さんの責任もあるわけだから」

「じゃあ、全部、向こうの責任だってわけ?」

「そんなこといってないわ。ただこちらだけでなく、向こうにも責任がある。要するに男と女の問題は、一方がいい悪いってことじゃなくて、どっちもどっちだってことよ」

「だから、初めから妻子ある人を、相手にしなければいいのよ」

「そんなことは、わかっていることなの」

 絵里は、話しても仕方がないというように溜息をつく。

「あんたも一度、妻子ある人を好きになってみるといいんだわ」

「結構です。わたし、そういう人は好きにならないといったでしょう」

「はいはい、あなたは立派な家柄の素敵なお坊っちゃまと、ご結婚なさいませ」

「また、わたしを馬鹿にしてるのね」

「そうじゃなくて、あなたのような古い家のお嬢さんは、きちんとした結婚をすべきだわ」

 たしかに実直そうな眞佐子の父や母を見ていると、彼女だけはまっとうな結婚をして欲しいと思う。

「要するに、わたしを、経験不足といいたいのでしょう」

「男女の話って、人によっていろいろ段階があって、見方も考え方も違うのよね」

 絵里がやや自棄《やけ》っぱちにいうが、このあたりが第一夜の結論のようである。

 翌日、三人は遅い朝食を終えてから、眞佐子の運転で弘前へ向かった。

 黒石から弘前までは、十キロ少しで、夜なら車を飛ばすと十分で行ける。

 だが連休と桜の見頃が重なって、三十分以上かかってしまった。おまけに城のまわりは車を停められず、ようやく見付けた駐車場は城からかなり離れている。

「弘前の桜の唯一つの欠点は、ゴールデンウイークに満開になるってことなの」

 眞佐子が嘆くとおり、市内だけでなく東北各地、さらには、修子達のように東京からおしかけてくる客もいる。

「でもおかげで、わたし達一緒に会社を休んで見にこられるわけでしょう」

「それにしても、今日はとくべつだわ」

 ゴールデンウイーク後半の中日《なかび》にくわえて晴天とあって、城へ向かう道は人であふれている。

 弘前城は慶長十六年(一六一一)に、二代目津軽藩主|信牧《のぶひら》が完成したもので、天守閣をはじめ、辰巳櫓《たつみやぐら》、丑寅《うしとら》櫓、追手門、亀甲《きつこう》門など、往時の風格をそのまま残している数少ない城である。

 表の通りから来て真先に目につくのが追手門である。城門にしては一層目の屋根が高く堂々として、左右の漆喰《しつくい》壁に並ぶ銃眼とともに気品と厳しさを備えている。

 この門を過ぎると桜に囲まれた砂利道になり、それを踏みしめていくと南大門を経て天守閣を望める広場に出る。

「うわあ、素敵」

 三人は歓声とともに、満開の桜のうえに君臨する天守閣を見上げる。

 どういうわけか修子は城を見ると、美しいとか重厚という感じを越えて、なにか全身を揺さぶられるような高ぶりを覚える。

 恥ずかしいが、それは男性に抱かれ、激しく責められている感覚に近い。なにか性的衝動に近い艶《なま》めかしさを城は備えている。

「ねえ……」

 修子は絵里にいいかけてやめた。

 この城に感じる艶めかしさは、男性経験の豊富な絵里になら、わかってもらえそうだが、白昼にいうべきことではないようである。

「こういう、お城みたいな男性って、いないかしら」

 修子が別のいい方をすると、眞佐子が聞き返す。

「お城が男性ですって?」

「だって堂々として飾りっ気がなくて、男らしいでしょう」

 見上げながら、修子は遠野を思い出していた。あの人もお城のように堂々としているが、ときに気弱になるときがある。一見毅然としているようで、意外な脆《もろ》さを秘めているようである。

「男より、お城に惚れたほうが間違いないわよ」

「でも、男ならいつまでも風雪に耐えて、毅然としていて欲しいわ」

 修子はつぶやきながら、いま何故、こんなことをいいだしたのか不思議だった。

 下乗橋を渡り、石垣に沿って登ると本丸に出る。ここまでくると四方の眺望が一気に展《ひら》ける。

「あれが岩木山よ」

 眞佐子が指さす方向にまだ白く雪をかぶった岩木山が見える。満開の桜と緑の老松と雪をかぶった山が重なり合って、津軽はいままさに春|爛漫《らんまん》である。

「いいなあ、こんな大きな自然のなかで生きてゆけたら……」

 絵里がつぶやきながら、空に向かって深呼吸をする。

「もう、東京のちまちましたところに帰るのがいやになってしまったわ。眞佐子、どうしてあなた東京に出てきたの」

 絵里がきくと、眞佐子は急に冷ややかないい方になる。

「それなら、あなたが此処《ここ》に住んでみたら」

「いられるものなら、本当にいたいわ」

「平気よ、家のいまつかっているお部屋を提供するし食事も大丈夫よ。それならあまりお金もかからないでしょう」

「でも、仕事があるわ」

「それそれ、そこが曲者《くせもの》なの。東京の人は田舎にくるとすぐ、こんな素晴らしい自然があって羨《うらや》ましいといいながら、いざ住みなさいといわれると、みな仕事があるからといって帰っていく。本気で住む気なんかないくせに、一時、田舎の気分に浸って持ち上げるだけなの」

 珍しく眞佐子が気色ばんでいうので、修子と絵里はぽかんとして聞いていた。

「要するに、東京の人々にとって、田舎はただの気晴らしにくる、遊び場にすぎないのよ」

「そんなこといわれても、観光にきたんだから仕方がないでしょう」

「観光は観光で結構ですけど、それなら、こんなところで住みたいなんて、気楽にいわないで欲しいわ」

 二人が黙っているので、眞佐子は少し言葉をやわらげた。

「まあ、いまではわたしも東京に馴れて、あなた達と同じ考えだけど、ここに住んでいる人はみなそれぞれに大変なのよ」

 たしかに、物見|遊山《ゆさん》で桜を見にくる人と、そこに住んでいる人とでは、その土地に対する思い入れが違うのは当然かもしれない。

「少し、写真を撮りましょうよ」

 気分を変えるように絵里がいって、三人は改めてあたりを見廻す。

 まず岩木山をバックに交互に撮り、それから通りがかりの若い男性に、三人一緒のところを撮ってもらう。

 礼をいってカメラを受け取ると、写真を撮ってくれた青年が話しかけてくる。

「東京から、来たんですか」

「そうよ、あなた達は?」

 男は二人とも北海道の学生で函館からきたらしい。

「やっぱり、東京の人だと思いました。初め見たときからセンスがよくて素敵だから……」

「嬉しいことをいって下さるわ」

 おだてられて、三人はたちまち上機嫌になる。

「今度は、僕達のカメラに入ってくれませんか」

「こんな、おばさんと一緒でいいの」

「光栄です」

 今度は五人が交互に撮り合い、最後に絵里が名刺を出す。

「ここに送って頂戴」

「へえ、テレビのディレクターですか」

 男は名刺と絵里を見較べる。

「僕達も卒業したら、テレビ局に入りたいんです」

「頑張りなさい、あなた達なら大丈夫よ」

 絵里はすっかり姐御《あねご》の気分になって、青年の手を握ってやる。

 本丸から観光館の横を通り、西の濠端《ほりばた》にいくと、道の両側の桜が花のトンネルをつくっている。

「これが散りはじめると、まさに花吹雪よ」

 一部、早い花が散りはじめているが、まだひとひら、ふたひら、といった感じである。

 みな、花の美しさに歓声をあげながら、人々の顔は桜色に輝いている。

「全部で桜は何本くらいあるのかしら」

「約五千本、ここは東北一よ」

 眞佐子が胸を張るが、さすがにこれだけの花の名所はそうあるものではない。

 三人はトンネルを抜けて濠を渡り、いまも残る武家屋敷の前の枝垂《しだ》れ桜を見て車に戻った。

「このあとは、お寺をまわります」

「少し休みましょうよ」

 絵里は車の中で煙草に火をつける。

「本当に、桜を満喫したって感じね」

「なにか、少し疲れたわ」

 あまりに咲きすぎる桜は、見る者を疲れさせるようである。

「桜は一生懸命、咲きすぎるのよ」

「少し手を抜いてもいいのに、それができないのね」

 絵里が煙を吐いて車の窓を開ける。

「桜を見ていると、なにか怖い感じがしない。ほら、真剣に迫ってくる男のように」

「そう、そう……」

 絵里が大きくうなずく。

「ああいうの、いやあね。とくにこのごろの若い男って、そういう傾向があるでしょう。ちょっと際《つ》き合っただけで、すぐ結婚してくれとか一緒になろうとか……」

「素敵な人にいわれるんなら、いいけど」

「素敵な人でも、あまりべとべとされるといやだわ」

「その点、修子の彼氏はいいわよね」

 突然いわれて、修子が面食らっていると、絵里が続ける。

「彼氏は大人だから、万事わかって大きく包んでくれるでしょう。なんだか、わたしも愛人になりたくなった」

「悪戯《ふざ》けないで……」

「この前ある雑誌に、フランスのクレッソン首相はミッテラン大統領のメトレスと出ていて、恰好いいと思ったわ」

「なあに、そのメトレスって?」

 眞佐子がきくと、絵里が待っていたように答える。

「フランス語で、愛人ってことよ」

「それはアマンというんじゃないの」

「違う、アマンは男のこと、女性に可愛がられている若い男のことよ」

 三人とも大学は英文科だが、絵里は別のルートから、知識を仕入れてきたようである。

「日本でいう愛人は女性のことだから、メトレスというの」

「クレッソン首相が大統領の愛人だって、それ本当?」

「本当でも嘘でも、首相がメトレスだなんて洒落てると思わない」

「でも、凄いわねえ」

 女性の首相が大統領の愛人だと書くほうも書くほうだが、それで平然としているほうも大変なものである。

「じゃあ、ボウボワールはサルトルのメトレスだったわけね」

「そうそう、そのとおり」

 それでは、わたしは遠野のメトレスか。修子がそこまで思ったとき、絵里がつぶやく。

「首相が愛人なんだから、これは立派なものよ」

「完全に自立してるわね」

「自立も自立、こんな頼りになる愛人はいないわ」

 そんな愛人もいるのかと、修子は驚くが、はっきりとそう書かれたら、修子はじっとしていられないような気がする。

「でもこれからは、わたしは誰々のメトレスよ、と堂々という人もでてくるかもしれないわ」

 絵里はそういってから、修子のほうを探るように見る。

「どうお、修子」

 いきなりきかれて、修子は少し間をおいて答える。

「わたしはそこまで自信がないけど」

「でも、メトレスという感じは悪くないでしょう」

「それはそうだけど……」

「わたしも、メトレスになってみたい」

「そんな無責任なこと……」

 絵里は少し遊び心が過ぎているようでもある。

「しかし、いやならあなただってやめるでしょう。それなのに結婚する気もなくて一人でいるわけだから……」

「いまの状態のほうが、わたしに向いてるからよ」

「それじゃ、やっぱり、いいわけじゃない」

「そうじゃなくて、なんとなく、一人でいるほうが合ってるみたいなの」

「そのまま、年齢《とし》をとっても淋しくない?」

 突然、運転席から眞佐子がきいてくる。

「淋しいかもしれないけど、仕方がないでしょう」

 絵里が替りに答えてくれる。

「それで、すむの。子供のいない老後って、孤独でしょう」

「でも、子供がいても孤独でしょう」

「そんなことないわ。やっぱり子供がいたら賑やかだし、多いほうが安心だわ」

 修子が黙っていると、絵里が車の灰皿で煙草をもみ消した。

「さあ、それから先は夜のお楽しみにとっておいて、そろそろ出かけましょうか」

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