饭饭TXT > 海外名作 > 《爱人(日文版)》作者:[日]渡边淳一【完结】 > 爱人.txt

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作者:日-渡边淳一 当前章节:15373 字 更新时间:2026-6-15 15:59

 どうやら絵里は今夜もお酒を飲みながら、女の生き方をめぐって議論をするつもりらしい。

 満開の桜を見たあと、三人は誓願寺から革秀寺、長勝寺、最勝院の五重塔などを見て廻った。

 いずれも津軽藩主に関わりの深い寺院で、国や県の重要文化財に指定されている。さらに沢山の寺院が並ぶ禅林街や亀甲《かめのこう》町の豪壮な商家あとなどを見る。

「たしかに、ここはみちのくの小京都ね」

 絵里がいうとおり、歴史の重みを伝える建物がしっかりと守られている。

「まだ、行っていないお寺があるのよ」

「でも、これくらいでいいわね」

 いかに小京都とはいえ、寺院はいささか食傷気味である。かわりに旧偕行社や外人宣教師館、旧国立五十九銀行本店など、明治の名残りをとどめる建物を見学する。

「弘前って、こんな素敵な町だと思わなかったわ」

 絵里が正直に告白すると、眞佐子が皮肉る。

「せいぜい、リンゴがとれる田舎町くらいに思っていたのでしょう」

「そのリンゴって、いつ穫れるの?」

「秋にきまっているじゃない。もうじきこのあたり一帯、リンゴの花であふれるのよ」

「リンゴの花って、白いんだったっけ?」

「見渡すかぎり真白い花でうずまって、その上を初夏のそよ風が流れて……」

 修子は昔きいた、「リンゴ追分」という歌を思い出した。そのおおらかなメロディーは、野面《のづら》一帯、純白の花でおおわれる、津軽の初夏の風物詩なのかもしれない。

「そうそう、ここまで来たのだからリンゴジュースを飲まなくては」

 思い出した眞佐子はリンゴジュースの工場まで行き、リンゴ百パーセントというジュースを飲ませてくれる。

「どう、東京で飲むのとは違うでしょう」

 たしかに自然の味わいが濃いが、それはまわりの爽やかな空気のせいもあるのかもしれない。

「そろそろ、戻りましょうか」

 黒石を出たのは昼前だったが、花見を楽しみ、寺院や旧《ふる》い建物を訪ね、ジュースを飲んでいるうちに、日は暮れかけたようである。

 東京では見られぬ大きな夕陽が、津軽の野の果てに沈みかけている。

「やっぱり、少し肌寒いわね」

 絵里がいうのにうなずきながら、修子はふと遠野のことを思った。

 あの人はいまごろどうしているだろうか。今日は箱根でゴルフをするといっていたから、この時間ではもう終って、風呂にでも入っているかもしれない。遠く離れているのに、急に彼を身近に感じたことに修子は戸惑ったが、それは津軽の夕暮れの寂しさのせいかもしれない。

「さあ、真直ぐ帰るわよ」

 津軽娘の眞佐子は疲れた気配も見せず、ハンドルを握る。

 今夜も眞佐子の家では沢山の料理を用意して待っていてくれた。刺身や山菜の煮ものなどとともに、少し冷えるというので鳥鍋が準備されている。

 食事はやはり二階の広間でとることになったが、眞佐子の母がきて鍋をつくってくれる。

「なんもありませんけど、うんと食べて下さい」

 眞佐子は標準語だが、眞佐子の母の言葉にはところどころ津軽弁が顔を出す。文字だけを追うと粗野にきこえるが、そのなかに素朴なあたたかさが滲《にじ》んでいる。とくに初めに会ったとき、「よぐきたねし」といって迎えてくれたが、その一言をきいただけで気持が和《なご》んだ。

 空腹の三人は一斉に鍋をつつき出したが、眞佐子の母がいるので、酒を控えていると、彼女のほうからいいだした。

「寒いはんで、お酒を飲んだほうがあったまるでしょう」

 さすがに造り酒屋の女将《おかみ》さんだけあって、ものわかりがいい。

 鍋とともに酒を飲むうちに、三人はたちまちリラックスしてしまった。例によって友達の消息や噂話をしていると、眞佐子の母がぽつりとつぶやく。

「眞佐子も早く嫁さいってくれればいいんですけど、ずっと一人で困ったもんです」

 途端に、眞佐子が母の肘をつつく。

「お母さん、一人なのはわたしだけじゃないのよ」

 叱られて、眞佐子の母は慌てて頭を下げる。

「ご免なさいねえ、勝手なことをいって、したばってここは田舎なもので、東京のようにはいかないんですよ」

「どうせわたしは家を出た者ですから、気にしなければいいでしょう」

「そうしゃべるけど、みんな心配してるんだよ……」

「もう、その話はやめましょう」

 東京でもそうだが、田舎ではとくに適齢期を過ぎて一人でいると、いろいろといわれるらしい。それは修子の実家のある新潟でも同様で、三十を過ぎて結婚しないでいると変り者のように思われる。

「お母さん、もういいから、あとはわたし達でするわ」

 眞佐子にけむたがられて、眞佐子の母は腰をかがめて退《さが》っていく。

 三人だけになって、みなは同時に溜息をつく。

「眞佐子が結婚に憧れるわけ、わかったわ」

「いっときますけど、わたしだって結婚するだけなら、相手は沢山いるのよ」

「それはお互いさまだけど、あんなにお母さんに心配されては、気が重いわね」

「だから家に帰るのが億劫《おつくう》になるの。大体、田舎の人はわたしのことを心配しているといいながら、それがどんなに相手を傷つけているのか、わからないのよ」

 いままで田舎を自慢していたのに、いつのまにか田舎嫌いになる。このあたり、眞佐子は故郷を愛しながら一方で憎悪する、いわゆる二律相反のアンビヴァレントな心情に揺れているようである。

「それはね、田舎だけでなく、日本の社会全体の問題よ。とにかく他人のことにお節介をやきすぎるんだわ」

「そうだ、そうだ」

 絵里の発言に、眞佐子と修子が手を叩き、それに力を得て絵里が続ける。

「どうして女の子だけ、二十五、六になったらお嫁にゆかなければならないのよ。三十だって四十だって、他人に迷惑をかけなければ一人でいても平気でしょう」

「要するに男が保守的なのよ。東京だって適齢期になって一人でいると、“そろそろ嫁にいかないの”なんてきくでしょう」

「あれは一種の脅迫だわ。そうやって女を職場から追い出そうって魂胆だから」

「でも、その点では女も同罪よ。適齢期をこえた女性がいると、陰であれこれいうでしょう」

「大体、女にだけ適齢期なんてのがあること自体、おかしいわ」

「そのとおり」

 こういう話題になると、三人の意見は直ちに一致する。

「適齢期なんて差別語は絶対許せないわ。絵里、この言葉の追放運動をテレビでもやってよ」

「そうね、そのキャンペーンは面白そうだわ」

「とにかく、われわれは団結して頑張らなくちゃ駄目だわ」

「でも、そういう眞佐子が、一番先に裏切りそうね」

「変なこといわないで」

「じゃあ聞きますけど、眞佐子はいつまでも一人でいるって、断言できる?」

「そんな、先のことまではわからないわ」

「それじゃ、やっぱり当てにならないじゃない」

「でも、適齢期という差別語をなくすることには賛成よ」

「やっぱり、独身を貫くという意味では、眞佐子より修子のほうが信用できるわね」

 絵里が盃を干して、修子を見る。

「あなたは、結婚自体を認めてないのよね」

「別に、否定しているわけじゃないわ」

「でも、いまのところは結婚する気はないのでしょう。結婚しようと迫ってくる人がいても、相手にしないでしょう」

 修子は答えぬまま、岡部要介のことを頭に浮かべてみる。

 岡部は取引先の商事会社に勤める三十三歳の青年だが、もう二年ほど前から、修子へ好意を寄せている。

 一度だけ酔いにまかせて、「結婚して下さい」といわれたことがあるが、修子は冗談にまぎらして聞き流した。それ以来、結婚のことはいわなくなったが、いまでも修子がその気になったら受け入れてくれるかもしれない。

「やっぱり修子の場合は、彼氏ががっちりついているからね」

 眞佐子が勝手に解説するが、修子は必ずしも、遠野がいるから一人でいるわけではない。それより、いまのところは一人でいるほうが自分に合っているから、そうしているにすぎない。だが、そのあたりの気持を、うまく眞佐子に説明するのは難しそうである。

「あんないい人がいたら安心よ。わたしも修子の立場ならメトレスになって一人でいるわ」

 絵里が助け舟を出してくれるが、修子の考えとは少し違うようである。

「いくら彼がいたって、安心なんてことはないわ」

「だって彼は大人だし、経済力があるでしょう」

「わたしは別に、彼から特別のものをもらってないわ」

「そう、修子はそういうことのできない子よね」

「それに、奥さまじゃないから……」

 いかに彼氏に経済力があったところで、それが修子のものになるわけではない。現在の法律では妻はたしかに保護されているが、それ以外の女性は法的になんの保護も受けていない。

「やっぱり、妻の座は大きいわよね」

「国で保障してくれてるわけだから」

 眞佐子と絵里が交互にうなずく。

「結婚は、保険みたいなものかもしれないわね」

 修子がぽつりというと、二人が笑い出した。

「なによ、その保険って」

「要するに、まさかのときのために、入っておくのよ」

 現実に愛人という立場にいる修子の意見だけに、二人は納得したようである。

「じゃあ、結婚するってことは、保険に入るようなものなの」

「それにさえ入っておけば、年齢《とし》をとって病気になっても、面倒を見てもらえるわ」

「そういうとき愛人、じゃなくてメトレスはどうなるの?」

「見捨てられるだけよ」

 修子があっさりといったので、二人はきょとんとしている。

「あなた、それでもいいの?」

「いいも悪いも、それを選んだのだから……」

「あなたは、強いわね」

 眞佐子は改めて感心したように修子を見る。

「わたしは、それだけ強くなれないなあ」

「もちろん、そういう人は結婚したほうがいいわ」

「でも、修子はどうして、その保険に入る気がおきないの」

 真剣な眞佐子に、修子は微笑で答える。

「保険も、入ったら入ったで面倒だし、やめたくなっても簡単にやめにくいでしょう」

「そうそう、そういう問題はあるわ」

 すでに結婚という保険に一度入って解約した経験のある絵里が、身をのりだす。

「いいと思ってうっかり入ると、かえって高くつくわ」

「でも保険に入っておけば安心だし、老後の心配もないわけでしょう」

「それはうまくいったときのことで、保険に入りさえすれば、すべて安心ってわけでもないわ。それに保険にもピンからキリまであって、当てになる保険もあるけど、なんの足しにもならないどころか、こちらが借金を背負わされる保険もあるからね」

「それは、貧しい人のところにお嫁にいった場合のこと?」

「はっきりいって、わたしはいまさら、手鍋下げてもって感じで結婚する気はないな。やっぱり結婚するなら、ある程度経済力のある人でないといやだわ」

「そりゃ、あるにこしたことはないけど……」

「それに保険に入るとよさそうだけど、安心しすぎて駄目になることもあるでしょう。妻という座に安住して、ぶくぶく肥って他人の噂話だけするようになったり」

 絵里はテレビディレクターだけに、その種の人妻を沢山見ているのかもしれない。

「でも、結婚しても老けずに、ますます美しくなる人もいるでしょう」

「そりゃ、いないわけじゃないけど、がいして緊張感を失って、夫か子育てだけに没頭して、気がつくと、ただのおばさんになってしまう人が多いわ」

「しかし、子育ては大切なことだし、やり甲斐があると思うな」

「もちろんそうだけど、それだけの女にはなりたくないと思わない」

 子供がありながら離婚した絵里と、結婚願望派の眞佐子のあいだには、やはり溝があるようである。

「とにかく、全部が全部、いいってわけにはいかないわ」

「結婚という保険の安定をとるか、自由という名の不安定をとるか、というわけね」

「いままでは女性は圧倒的に安定のほうをとってきたけど、最近はそうでもなくなってきたみたいね」

「でも、わたしは修子のように強くないから、やっぱり安定のほうをとるわ」

「わたしは、なにも強くはないのよ。ただ我儘なだけなの」

「いまは家庭に縛られず、一人でいたいってわけね。でもその考えはいずれ変ることもあるでしょう」

「もちろん変るかもしれないけど、変らないかもしれないわ」

「そんな暢気《のんき》なことをいってると、本当にお嫁に行けなくなるわよ」

「脅かすのね」

「脅かすわけじゃないけど、心配してるのよ」

「でも、そうなったら、そうなったで仕方がないわ」

「お見事」

 絵里が拳《こぶし》でテーブルの端をどしんと叩く。

「やっぱり、修子は強いのよ」

 絵里にいわれて、修子は苦笑しながら、自分はそんなに強いのではなく、強くさせられたのだと、心のなかでつぶやいてみる。

 浮  橋

 毎朝、修子は八時少し前に家を出る。

 瀬田のマンションから赤坂の会社までは小一時間あれば行けるから、定刻の九時よりはかなり早めに着くことになる。

 だが修子は時間ぎりぎりに駆けつけるのは好きではないし、それより少し先に着いて自分のまわりだけは、きちんとしておきたい。

 会社に着いて、修子がまず手をつけるのは社長室と自分の部屋との掃除である。といっても、おおまかな掃除は、清掃会社のほうでやってくれるので、修子がやるのはテーブルを拭き、書棚や窓ぎわに乾布巾《からぶきん》をかけ、花を飾ることである。

 社長室にくる客がときどき「ここはいつも塵《ちり》一つなく、清潔で気持がいいね」と褒《ほ》めてくれる。

 自分でいうのも可笑《おか》しいが、掃除だけは自信があるが、その几帳面さは母から受け継いだものである。

 一通りテーブルと棚を拭き終ったところで、修子は花を活け、コーヒーを淹《い》れる。もっとも、花は毎週、月曜日の朝に新しいのを買ってきて活けるので、他の日は水を替えるだけである。

 飾る花はいろいろだが、社長室にはクリスタルの大きな花瓶がおいてあるので、主に季節の洋花になる。他に社長のテーブルの上に、クリスタルの小さなボウルをおき、そこに牡丹やスイートピーの花などを、水に浮かせておく。

 掃除が終ると、修子は資料室に行き、昨夜から今朝にかけて各地から入ってきたファックスやテレックスを調べ、社長に廻すべきものを選んで整理する。さらに主な朝刊に目を通し、会社に関係があるものをチェックし、ときに切り抜く。これらの仕事が一段落した十時過ぎに馬場社長が現れる。

「お早ようございます」

 どんなときでも、修子は朝の挨拶だけは明るい声でいうように努めている。

 社長は今年五十二歳で、遠野とは三つ違いである。

 だが外見や性格はずいぶん違う。

 遠野はかなりの長身だが、馬場社長は横幅があって、やや小柄である。

 遠野は意外に繊細でナイーブなところがあるが、馬場社長は猪突猛進、ひたすら強引に突きすすむタイプである。もしかすると、その行動の明快さが、本社の幹部にかわれて、外国企業の日本支社長という要職を与えられたのかもしれない。

 同業者や取引先の人々には、やり手のマネージャーと思われているようだが、修子には優しい、話のわかる社長である。

 この社長のただ一つの欠点は、英語があまり得意でないことである。もちろんある程度の読み書きはできるが、会話が苦手である。

 外国企業の日本支社長なのに、英語が苦手で務まるのかと首を傾《かし》げる人もいるが、基本的な意思さえ通じれば、さして問題になることはない。それより日本人をつかうには、日本人のマネージャーのほうがいいということで、二年前にいまのポストに就いた。

 むろん社長の語学の足りないところは、修子が補うことになる。

 社長が部屋に坐ると、修子はまずコーヒーを運び、それからあらかじめ揃えてあったファックスとテレックスを差し出す。それに社長が一通り目をとおしたころを見計らって、修子は社長の今日一日のスケジュールを説明する。

 ロイヤルクリスタルの製品は、ここ数年で急速に日本での需要をのばし、いまや当初の三倍の売上げに達している。製品自体かなり高価なものだが、円高と好景気が幸いして企業の贈答用の需要が多く、これからの中元商戦が一つのヤマ場である。

 それでも、国内はまだ東京と大阪が中心で、中京はじめ北海道や九州など、地方にいかに浸透させるかが今後の課題になっている。

 現在、東京の本社を中心に、営業関係もいれて二百人の社員がいるが、さらに増員する予定である。

 いま伸びざかりの会社だけに、社長のスケジュールは忙しい。

 今日はまず十時半から販売促進の会議があり、それから二組ほど来客がある。午後は香港にいるサザランド東洋支配人がきて社長と要談する。そのあと品川のホテルで開かれる関連会社のパーティに行く予定になっている。

 修子が社長と同席するのは、サザランド支配人と会うときだけだが、これは二人だけで、他の社員は同席しない。むろん修子が通訳するが、支配人はかつて日本の支社長をしていたので気が楽である。

 修子は日本で英語を習ったあと、ロンドンに三年間ほどいたが、支配人に「綺麗な英語だ」と褒められたことがある。サザランドのような、根っからのロンドンっ子に褒められたことは、修子にとって大きな自信になったが、できることならさらに半年、ロンドンに留学して勉強したい。

 社長は一通りのスケジュールをきくと、コーヒーを飲みながらテーブルの上の花を眺める。

「これは珍しい、日本の花だね」

「テッセンですけど、結構、クリスタルに合うようです」

 最近、修子は趣向を変えて、ときどき和花を買ってくる。今朝も、思いきって茶室などに使うテッセンを買ってきて、首の長い花器に挿してみた。細い枝の面白味を出すために、一部花器の下まで垂らしてみたが、それがクリスタルの面に映って清々しい。

「こういう活け方は、外人にはできないだろうな」

「おかしいですか?」

「いや、そんなことはない。それより今度、和風の花瓶もつくるように本社にいってみようか」

 クリスタル製品は、食器はもちろん、花瓶から置きもの、小物入れなど、さまざまなものがつくられている。そのことから考えれば、和風の花器があっても、おかしくはない。

「君はお花ができるのだから、どういうのがいいか少し考えてみてくれ」

 社長はそういってから、ふと思い出したようにきく。

「京都のホテルを、頼んでおいてくれたかな」

「はい、土曜の夜、一泊ですね」

 社長はその日、大阪に出張して京都に泊ることになっている。

「部屋は、ツインかな」

「そうかと、思いますが」

「ダブルにしておいてくれないか」

 社長はそこでまた慌てたようにつけ足した。

「一人だけど、どうせ泊るならダブルのほうが楽だからね」

「承知しました」

 秘書という立場上、修子には社長の一挙手一投足が手にとるようにわかる。

 最近、社長は赤坂にあるクラブの女性と際《つ》き合っているらしいが、今度の大阪への出張には、その女性を連れていくのかもしれない。

 修子がそう感じるのには、いくつかの理由があるが、まずこの数日、岡田と名のる女性から二度ほど電話がきた。社長への電話はすべて修子がいったん受け、それから社長のデスクへ廻すので、誰からきたかすぐわかる。それにいつもは修子にとらせる新幹線の切符を、今回は珍しく社長自身が買うといいだした。そしていま、ツインの部屋をダブルに替えてくれという。

 たしかに社長がいうとおり、ダブルのほうが寝心地がいいかもしれないが、そのあと、いい訳がましく理由をいうところが怪しい。

 だが、修子はそんなことを追及する気はないし、ましてや他人にいう気なぞない。社長の秘密を守るのが秘書の第一の務めである。

 それより、修子が興味があるのは、表面はやり手といわれる分別ざかりの男が、それとはべつの、さまざまな顔を秘めていることである。

 男はみんな、ああなのだろうか。

 社長を見ながら、修子は遠野のことを考える。

 仕事柄、遠野もよく出張するが、これまで、彼がべつの女性と二人で出かけた気配はない。

 もちろん、だから安心というわけではないが、その種のことで疑ったことはないし、深く考えたこともない。

 はっきりいって、修子は遠野と逢っているときに彼の愛を確認できればいいし、それ以上、彼の行動を探ろうとは思わない。

 よく女性のなかには、黙っていると男は図にのるから、うるさくいったほうがいいという人もいるが、騒げばかえって火をかきたてることになりかねない。ともかく、修子はまだ、そういうことで遠野と争ったことはない。

 それにしても、男というのは困った生きものである。

 社長は、はたから羨《うらや》まれるほどの美しい夫人をもっている。彼女は四十半ばだが上品で、ほとんどの社員が「社長には惜しい……」といっている。

 そんな素敵な妻がいながら、密《ひそ》やかに別の女性と旅行する。

 社長にかぎらず、オフィス.ラブを楽しんでいる男性は他にもいる。

 もちろんそういう男性がいるということは、相手になる女性もいるということだが、遊んでいない男達もそうした不倫に憧れているようである。

 しかも困ったことに、遊んでいる男のほうが生き生きとして仕事もよくできる。

 会社にも、修子にいい寄ってくる男性はいる。それも独身ならともかく、妻子がいて、表面、実直そうな男性が平然と近づいてくる。修子が独身のせいもあるだろうが、そういう男達を見ていると、男とは一体なんだろうと考えこんでしまう。

 どうやら、この生きものは女とはまったく違うらしい。

「性懲《しようこ》りもなく」とも思うが、見方を変えると、それが男の可愛いところなのかもしれない。

 いずれにせよ、修子が遠野を愛しながら一步距離をおき、冷静に見られるのは、そうした男性の実態を別の視点から見ているせいかもしれない。

 その日のサザランド東洋支配人と社長の会議は順調にすすんだ。

 話の内容は、馬場社長のほうから、日本国内のシェアを広げるための新しい企画を披露し、それにともなう経費の増額を求めたものだが、支配人は全面的に協力することを約束した。

 通訳を終えて別れるとき、支配人は修子に「相変らず、チャーミングだ」といってくれた。お世辞かもしれないが、褒められて悪い気はしない。

 支配人が去ったあと、修子が少しはずんだ気持でタイプを打っていると、岡部要介から電話がかかってきた。

「今夜ですけど、覚えているでしょうね」

 いつものことだが、電話での要介の声は少し怒っているように聞こえる。

「あなたが忘れていないかと思って、確認の電話をしたのです」

 岡部要介とは今夜六時に、赤坂のホテルで逢って食事をすることになっていた。

「僕は少し早めに行ってますから、入って右手のコーヒーラウンジですよ」

 修子はうなずきながら、一カ月前の遠野の誕生日に同じホテルで食事をしたことを思い出した。もっとも遠野と逢ったのは旧館で、今度は新館である。

「あなたさえよかったら、会社の前まで迎えに行ってもいいんですけど」

「大丈夫です。一人で行けますから」

 要介は早生れなので修子より一つ年齢が上の三十三歳である。商事会社としては中堅の大同物産に勤めているが、実家は仙台で大きな家具店をやっているらしい。そんなところの息子が独身のまま、何故、修子のような三十を越えた女を追いかけるのか、不思議な気がするが、本人はかなり真面目である。

 二カ月前に逢ったときには、「あなたのような女性が、僕の長年探していた理想です」と、やはり怒ったような口調でいった。それ以来何度か誘われたが、その都度、断っていたので今度も心配になったのかもしれない。

「じゃあ、必ずきて下さい」

 もう一度念をおして要介は電話を切ったが、そのあと十分もせずに今度は遠野からかかってきた。

「おや、いまはボスがいないんだな」

 電話の声の調子で、遠野はそばに社長がいないのがわかるらしい。

「なにをしている?」

「一寸、タイプを打っていました」

 遠野も少し時間があいて、自分の部屋からかけているらしい。

「今夜は、どうしている?」

「どうって……」

 修子はキイの上に指をのせたまま、聞き返した。

「久し振りに食事でもと思っていたんだが、また会合が入ってしまってね」

 遠野は、いいわけのつもりで電話をよこしたようである。

「そのあと、なるべく早く戻るけど、修は?」

「わたしも少し、遅くなるかもしれません」

「どこかへ行くのか」

「一寸、お食事に……」

「誰と?」

 修子は少し間をおいてから答えた。

「お友達です」

「部屋には何時ごろに、帰る?」

「十時までには戻るつもりです」

「じゃあ、同じ頃に合わせよう。それ以上、遅くなることはないだろうな」

 自分が遅くなるときは連絡もよこさないくせに、修子が遅くなるときにはいろいろきいてくる。

「相手は女の友達なのだろうな」

「そうよ……」

 修子はうなずきながら、案外あっさりと嘘をつける自分に呆れてもいる。

 修子が約束の六時に、赤坂のホテルのコーヒーラウンジに行くと、岡部要介はすでに来て待っていた。

「このホテルの旧館のほうに素敵なレストランがあるんですが、そちらに行きませんか」

 そのレストランはこの前、遠野と一緒に行ったところだが、修子は初めてのようにうなずいた。

 要介は先になってエレベーターに乗り、旧館への通路を経て、二階のレストランへ行く。

「岡部です」

 あらかじめ予約してあったらしく、要介が名前を告げる。

 マネージャーは丁重に頭を下げてから、修子を見て、「おや……」といった顔をする。

「どうぞ、こちらへ」

 そのまま案内されて、やや入口に近い席に向かい合って坐る。

 今日の要介は淡いグレイのスーツに臙脂《えんじ》のネクタイを締めて、なかなか渋くまとめている。大学時代はラグビーをやっていたというが、がっしりした肩幅にその名残りが見える。

「ここは、来たことがありますか?」

 いきなりきかれて、修子は曖昧《あいまい》に答える。

「大分前に、一寸……」

「都心にあるけどなかなか落着いて、雰囲気がいいので……」

「とても、静かだわ」

 まだ時間が早いせいか、レストランには二組の客しかいない。

「なにに、しましょうか」

 要介はメニューを見ていたが、やがて一番高価そうなディナーのコースを示す。

「これで、いいですか」

「わたしは、もっと軽いので」

「大丈夫ですよ、食べられなければ残してください」

 要介は、さらにワインリストを広げる。

「なにか、ご希望のワインはありますか」

「なんでも、結構ですから……」

 修子は安いのでかまわないのに、要介はまた高いのを頼んだようである。

 ソムリエはうなずき、それから修子を見て軽く会釈する。

 ここへは遠野と何度か来ているので、マネージャーもソムリエも修子を覚えているようである。

 べつに遠野と来ていることを知られて困るわけではないが、せっかく要介が案内してくれたところを、あまり知っているように振舞っては悪いような気がする。

「じゃあ、乾盃」

 ワインが注《つ》がれたところで要介がグラスを差し出し、それに修子も合わせる。

「どうですか、これはシャトー.ジスクールの七五年ものです」

「飲みやすいわ」

「この年は葡萄が豊作で、最近のものでは一番いいといわれています」

 要介はいろいろ説明してくれるが、どこかにわか仕込みの知識といった感じが否《いな》めない。

 もしかすると、要介は今日のためにワインのことまで勉強してきたのかもしれない。それを早速披露するところが青年の若さであり、気取りかもしれない。

 だが正直いって、修子は遠野といるほうがはるかに気が楽である。

 当然のことながら、遠野はそんな説明はなにもしないし、好きなものを暢《の》んびり食べているだけである。むろん遠野と一緒なら、相手の懐具合まで心配することもない。すべて彼のペースに任せておいて安心である。

 しかし要介といると、自分が介添役になって、面倒を見てやらなければならないような気になってくる。一流のレストランにきて、高価な食事をご馳走されながら、どこかはらはらさせられるところがある。

「最近は青山のあたりにも、いいレストランができてきて……」

 オードブルを食べながら、要介は都内の高級店や料理のことについて話すが、どうやら修子のほうが、その種の店には多く出入りしているようである。

 もちろん、それは秘書という立場から社長のお伴をしたり、遠野と一緒に行くからで、修子一人の力ではそう頻繁《ひんぱん》には行けるところではない。

 当然のことながら、要介の年齢では高価なところに行く機会は少ないはずだが、ことさらに知っているようなことをいう。

 そんな要介を見ていると、同じ年齢なのに稚《おさな》さを感じる。

 もともと男と女が同年齢の場合、女のほうがませている場合が多い。それは表面の態度だけでなく、人生の体験においても同様かもしれない。

 正直いって、修子はこれまで三人の男性を知っている。最初は学生のときに史学科の助手と親しくなり、二人目はロンドンにいた商社員で、三人目は遠野である。

 当然のことながら、三人のなかでは遠野と最も親しく一番影響も受けてきた。遠野と較べると、他の二人の男性はごく軽い存在にすぎない。

 むろん男性を多く知っていれば、それだけ人生経験が豊富というわけでもない。

 だが妻子ある遠野と際《つ》き合い、愛人という立場に立たされて、修子はいままでとはべつの男女の内側を見たような気がする。

 こんな修子と較べると、要介はかなり純情かもしれない。彼は彼なりに遊んでいるのかもしれないが、独身だけに、男と女の深いところまではわかっていないようである。

 その証拠に、要介はまだ女性に多くの夢を抱いているらしい。女を信じ、女の美しいところだけを見て、それがすべてと思いこんでいるようなところがある。

 要介が修子に求めているのも、そうした夢の部分のようである。

「あなたのような女性が、僕が長年探していた理想です」

 そう面と向かっていわれたとき、修子は背筋に冷水を浴びせられたような気がした。

「わたしはあなたが思うほど、美しくも心が優しい女でもないわ。それどころか、大人しい仮面のなかに、独善やふしだらや我儘など、さまざまな悪いところを秘めているのよ」

 修子はそういいたい気持をおさえて黙っていた。

 だが要介はそういう部分には目をくれようともせず、ひたすら誠実に迫ってくる。

 いまもやや上気したような目で修子を見詰めるが、その度に修子は射すくめられたような気がして息苦しくなってしまう。

 純粋すぎる人は怖い。修子が要介からのデートの申し込みの度に感じる気の重さは、そういうところに原因があるのかもしれない。

 それでもときどき要介と会うのは、その純粋な目差しに見詰められる緊張感が心地いいからである。たまにならそういう青年の一途《いちず》に迫ってくる感じも悪くはない。

 しかしいま修子が一番愛しているのは遠野である。彼を信頼し、最も大切に思っていることはまぎれもない事実である。

 だがときに、要介の熱い目差しや賞讃の言葉も欲しくなる。

 考えてみると、要介は、修子が一時的に|ときめく《ヽヽヽヽ》ための刺戟剤のようでもある。

 それで修子は満足だが、刺戟剤にされた要介こそいい迷惑である。そんなことにだけ利用するのは悪いと思うが、要介は修子の本当の気持をまだわかっていないようである。

 事実、今夜も要介は、修子が自分を好きだから出てきたのだと思っている節がある。

 その証拠に、「僕を、多少は好きですか」と堂々ときいてきた。

 ワインの酔いのせいかもしれないが、単なる冗談とも思えない。

「もちろん、嫌いな人とは食事をしないでしょう」

 はっきりいって、いま修子は要介を好きではあるが、愛してはいない。好ましい青年とは思っているが、そこから一步すすんで親しくなろうとは思わない。

 修子のなかで、「愛している」と「好き」とはべつものである。

 この違いを、要介がどれだけわかっているかは不明である。

 何度かワインを注がれているうちに、修子は少し酔ったようである。

 メインのビーフククイレが終り、デザートにメロンがでたところでトイレに立つと、目の縁が赤い。

「少し、飲みすぎたわ」

 化粧室から戻ってきて両の頬をおさえると、要介が改まった口調でいう。

「どうして、あなたのように美しい女性が独身でいるのですか」

 いきなり話題が変って戸惑っていると、要介がさらに続ける。

「あなたが独身でいるなんてもったいない。いま、好きな人はいないのですか」

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