要介のきき方はいつも突飛である。予告もなしにずばりと核心に触れてくる。
「わたし、当分、結婚はしません」
「しかしいつまでも独りでいるわけにはいかないでしょう」
「とにかく、いまのところは結婚する気はないんです」
「じゃあ、他に好きな人がいるのですね。そういう人がいるから暢《の》んびりかまえているのでしょう」
修子が黙っていると、要介が目を伏せながらいう。
「変なことを、きいてもいいですか」
「なんでしょう?」
「あなたは秘書でしょう。間違っていたら悪いけど、社長と秘書とは親しくなることが多いというけど……」
「まさか……」
修子は食後のデザートのメロンにスプーンをつけたまま苦笑する。
いかにも、要介が考えそうなことだが、修子は社長を好ましく思ってはいても、愛を感じたことはない。社長もそのあたりのことは承知していて、仕事以上に近づくことはない。
「じゃあ、社長とはないと信じていいんですね」
「少し、お酔いになったんじゃありませんか」
「済みません」
要介は素直に謝る。
「しかし、あなたは絶対に好きな人がいるでしょう。いなければ、そんなに悠々としてはいられないはずだけど」
「わたし、悠々としているように見えますか」
「よくはわからないけど……」
「わたし、結婚には向いていないのです」
「そんなことはない。あなたは綺麗好きだし、家庭に入ったらいい奥さんになれる」
「どうして、そんなことがわかるのですか」
「あなたを見ていればわかります。とにかく、美しくて色っぽい」
「そんな……」
修子は大袈裟に驚いてみせたが、それと同じことは会社の男性達にもいわれたことがある。
色っぽいと、自分で意識したことはないが、よくいわれるところをみると、男性達はその種のものを感知する独特の勘があるのかもしれない。
「あなたは、世田谷の瀬田に住んでいるといったでしょう」
要介はそこで言葉を探すように少し間をおいた。
「そこに、本当に一人で住んでいるのですか」
「もちろんよ」
「まさか、誰かと住んでいるわけではないでしょうね」
修子は一瞬ぎくりとした。遠野とは同棲というわけではないが、彼がときどき泊っていくことはたしかである。
「今度一度、部屋に遊びに行ってもいいですか」
「かまいませんけど、遠いし、狭いところですから」
「でも電車に乗れば、ここから一時間もかからないでしょう」
「そのうち、お招きします」
「本当は迷惑なのでしょう」
「そんなことはありませんけど、あなたは会社の近くで、いつでも会えるから……」
「外で会うのもいいけど、あなたの部屋にも行ってみたい」
要介は少し駄々っ子みたいなところがある。それが可愛いときもあるが、ときに鬱陶《うつとう》しいときもある。
「今日、これから、行ってはいけませんか」
「それは無理よ……」
修子は慌ててナプキンで口を拭いた。
「散らかっていて、とてもお見せするようなところじゃないわ」
「でも、一度でいいからあなたの部屋を覗《のぞ》いてみたい」
「駄目よ」
修子は首を横に振りながら、今夜、遠野がくるといっていたことを思い出した。十時か、もう少しあとになるかもしれないが、仕事の関係のパーティに出たあとにくるといっていた。
「じゃあ、お茶を一杯、飲ませてもらったら帰りますから、いいでしょう」
「………」
「失礼なことはしません、お願いです」
要介が深々と頭を下げる。はたから見るとどんな風に見えるのか、修子は気になる。
「さあ、もうそんな話はやめましょう」
「やっぱり、駄目ですか」
「そのうちね」
「じゃあ、かわりに、これから僕と一緒に飲みに行って下さい」
腕時計を見ると八時半だった。
これから飲みに行っては遠野が部屋にくるまでに帰れないかもしれない。
そう思いながら、要介と飲みに行くことを考えていた。
秘書という仕事は比較的孤独である。会社に出ても一般の社員とは離れて、一人だけ社長や重役のそばにいる。
修子は、野球の捕手を見る度に、なんとなく秘書の立場を思い出す。フィールドにはチームメートが散らばっているのに、捕手だけ一人、他のチームに近いところにいて、バッターやアンパイヤーに囲まれている。
秘書も常に社長の近くにいるので経営者側の人間のように思われるが、経営者ではない。いいかえると、どちらつかずの中途半端な存在である。
そのせいか、社の女性達と親しく話すこともあまりない。
むろん昼休みや仕事が終ったあとで、彼女等と話す機会はある。が、仕事の都合で昼食が遅れたり、秘書室で一人で食べることも多いし、たとえ一緒になっても、彼女等のほうで秘書という立場に一目おいているようなところがある。そんな特別扱いがいやで、修子はできるだけみなのなかに入っていくように努めるが、それでもいま一つ入りきれない。
このあたりが秘書の淋しさだが、それで少し助かっているところもある。たとえば遠野からの電話だが、直接秘書室に入ってくるので一般の社員には知られずにすむ。さらに隔離されている分だけ、社内のつまらぬ噂話に巻きこまれることもない。
いま、修子が社内で最も親しくしているのは、広報部の庄野千佳子くらいなものである。彼女は修子の三歳上で、結婚して子供もいるが、広報部の課長をしている。なかなかのやり手で上司の信頼も厚いが、気性がさっぱりしていて女子社員のなかではもっとも気が合う。
彼女を除けば、修子はむしろ男性社員とのほうが話し易いし、彼等も気軽に話しかけてくれる。なかには総務部長のように、「このごろ、また一段と色っぽくなったな」と、素早くお臀《しり》に触っていくワルもいる。
だがそれだけ気軽に話していても、そこから一步すすんで本気で近付いてくる男性はいない。こんな状態に対して、千佳子は彼女なりの解説をしてみせる。
「あなたほどの女なら、きっとどこかにいい人がいると思いこんでいるのよ。男ってみなプライドが高いから、この女性は難しいと思うと、すぐ諦めてチャレンジしてこないのよ」
そんな風にいわれるといささか残念だが、こちらから「近付いてきて」と、頼むわけにもいかない。
しかしこういう状況下では、向こう見ずな岡部要介の存在は貴重である。社内の男性達が考えたり戸惑っているのに、彼だけはまっしぐらに向かってくる。
もっとも要介の場合は、社外の人間であるだけに気が楽なのかもしれない。
「これから、赤坂に行きましょう、一寸知っているバーがあるのです」
いまも要介は強引に誘ってくる。
久し振りに若い男性と二人だけで食事をしたせいか、もう一軒くらい飲みに行ってみたい気もするが時刻はすでに九時に近い。これからバーへ行くと、マンションに戻るのは十一時近くになって、遠野との約束の時間に遅れてしまう。
もっとも、彼とはっきり、時間の約束までしたわけではない。大体、十時ころにマンションに来るつもりかもしれないが、遠野のことだから、十時半になるか、十一時になるかわからない。
だがもし十時にくると、部屋に入れずに、外で待ちぼうけをくわすことになる。
こんなときのために、修子は何度か、遠野に鍵を渡そうかと思ったことがある。彼が鍵を持っていれば、こちらが多少遅れても、部屋のなかで待つことができる。実際、遠野も「部屋の鍵があると便利だけど……」といったことがある。
だが、修子は苦笑しただけで渡さなかった。
正直いって、修子は遠野に隠さねばならぬことは一つもない。自分のいないあいだに部屋に入られても困ることはない。
それでも遠野に鍵を渡さなかったのは、修子の意志からである。
むろん、遠野を信用していないとか、それほど愛していないといった理由からではない。
どんなに深く結ばれていても、自分の部屋だけは自分のものにしておきたい。そこだけは自分の聖域として残しておきたい。修子が鍵を渡さなかったのは、それだけの理由からで他意はない。
しかし眞佐子などにいわせると、そんな修子の態度を冷たいという。他人ではないのだから、渡すべきではないかという。
だがそれでは、彼と彼女との平凡な関係に堕してしまう。せっかく二人で緊張した愛しい関係を保っているのに、鍵を渡した瞬間から通俗な男女のあり方に変貌してしまう。
たとえ愛していても、二人のあいだに、侵すべからざるものを一つくらいおいておきたい。男女のあいだはほどよい障壁があったほうが、新鮮で爽やかな関係を持続することができる。
こんな修子の気持を、初めは遠野も納得しかねたようである。不満そうに、「君の気持は、よくわからない……」とつぶやいたこともあった。
だがそのうち諦めたのか、それとも理解したのか、鍵を欲しいとはいわなくなった。
鍵はなくても、遠野は部屋に来たいときに自由に入ってこられる。むろんあらかじめ電話をしてからだが、それで二人の関係が崩れることはない。それどころか、ほどよい緊張関係は相変らず保たれている。
しかし正直いって、今夜のような場合はあきらかに不便である。彼が鍵を持っていないばかりに、修子も暢《の》んびりできない。
だが考えてみると、修子は今夜は初めから要介と食事をするだけのつもりであった。それを誘われるままにもう一軒行こうと思うこと自体、修子の予定変更であり、我儘である。その結果、多少のわずらわしさがおきるのは、今夜にかぎったことではない。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
要介が腰を浮かしかけたのを見て、修子は慌てて首を横に振る。
「やっぱり、ここで失礼します」
「どうしてですか。さっき誘ったときは黙っていたでしょう」
「せっかくですけど、またこの次に誘って下さい」
修子が丁寧に頭を下げると、要介は不貞腐れたように椅子に背を凭《もた》せた。
「誰かが、待っているんですね」
「そんなんじゃありません、ただ一寸、用事を思い出しただけです」
「本当は、僕を避けているのでしょう」
「ご免なさい。またべつの機会にゆっくりお逢いしましょう」
執拗に問い詰められるうちに、修子は若い男の一途さが鬱陶しくなってくる。
修子が瀬田のマンションに戻ると、九時半を少し過ぎていた。
部屋に入ると、修子は指輪とイヤリングをクリスタルのバスケットに入れてから、ピンクのセーターと紺のスカートに着替え、髪にヘアーバンドをつけた。化粧は遠野がくるかもしれないのでそのままにして、湯を沸かして郵便物を見る。
湯が沸いたところでお茶を淹《い》れ、ソファに坐ってゆっくり飲みながらテレビを入れる。
そろそろ十時で、夜のニュースショウが始まる時間である。
外資系企業に勤めているせいもあって、修子は部屋にいるときはできるだけニュース番組を見る。今日一日の大きな事件が大体わかるし、外国のニュースも身近に感じる。
その点ではニュースショウは便利だが、一時間以上も続くせいか一つ一つのニュースが長すぎたり、ニュース以外のものが入ってきて興味を殺《そ》がれることもある。
途中、修子は立上ってバスルームに行き、浴槽に湯を張った。
再びソファに戻ってテレビを見ているうちに、十一時になる。
修子はもう一度、お茶を淹れ直してから遠野のことを思った。
十時ころといったが、やはり少し遅れてくるようである。こんなことなら、要介ともう一軒、飲みにいってもよかったが、いまとなっては仕方がない。
修子はテレビを消し、ジャズのピアノ曲を聴きながらロンドンにいる友人の美奈子に手紙を書きはじめる。
修子がイギリスにいるときに知り合った友達で、二年前にイギリス人と結婚した。どういうわけか、修子の誕生日にはまだ少し間があるのに、バースデーカードを送ってきたので礼状を出すことにする。
会社では社長の替りに英文で何通も手紙を書くのに、いざ私用のとなるとなかなか書けない。それをようやく書き終えて、時計を見ると、十一時半だった。
いったい、あの人はどこへ行ったのだろうか。
いままでも遅れることはあったが、そういうときは必ず電話をよこした。それがないところをみると約束を忘れたのか、それとも余程楽しいことでもあったのか。
仕事の関係のパーティだといっていたから、そのあと銀座にでもくり出したのかもしれないが、それにしても電話の一本くらいよこしてもよさそうなものである。
修子は苛立つ気持をおさえるように、サイドボードの棚からリキュールのボトルを取り出して、グラスに注ぐ。いつもは眠られぬときに、睡眠薬がわりに飲むのだが、今夜はかえって目が冴えてきそうである。
一口飲んで、また音楽に耳を傾ける。
正直いって修子は、遠野を待って苛立つ自分が好きではない。
眞佐子などは、好きな人を待っているときが楽しいというし、その気持もわからぬわけでもないが、待つのはやはり辛い。とくに修子がいやなのは、待っているうちにいろいろな想念にとりつかれ、ついにはその男を怨むようになることである。できることなら男を憎んだり怨みたくはないし、それ以上に、そんな状態に自分を追いこみたくない。
そのまま、二杯目を飲んでいると、電話のベルが鳴った。
修子は受話器を見詰め、ベルが五つ鳴ったところで取ると遠野の声が返ってきた。
「遅れて済まん、もう少し待ってくれないか」
どこかのバーにでもいるのかと思ったが、声以外に物音はしない。
「いま、どこですか」
「一寸ね。……急用があって、家に戻っている」
思いがけない返事に修子が黙っていると、遠野が声を低めていう。
「たいしたことではないんだが、あと一時間以内にはいく」
「でも、十二時を過ぎますよ」
「大丈夫だ。遅くなっても行くから、待っていてくれ」
修子は、テーブルの上のグラスを見たまま答える。
「べつに、無理しなくてもいいわ」
「そうではない、とにかく行く」
「でも……」
修子は皮肉や腹いせにいっているわけではない。パーティに出ていたのに急に家に戻ったところをみると、かなり重要な用事があったに違いない。そんなときに、約束をしているからといってまたわざわざ出てくるまでもない。
いままで修子が少し苛立っていたのは、遠野がこなかったからではなく連絡がなかったからである。本当にくるのかこないのか、わからないまま宙ぶらりんな状態にいる自分がいやで、落着かなかっただけである。
「とにかく、あとでよく話す」
自分の家のせいか、いいにくそうである。
「じゃあ、もし出られるようになったら、電話を下さい」
「そうするから、待っていてくれ」
そのあと、遠野はもう一度、「わかったね」といって電話を切った。
修子は受話器を戻してからもう一口リキュールを飲み、それからバスルームに行って鏡に向かった。
あの人がくると思って、いままで化粧を落さずにいたが、もう洗ってもよさそうである。
修子は髪をゴム輪でうしろに留め、洗面台にお湯をとる。まずクレンジングクリームで顔を拭きとり、フォームで洗い流していくうちに、少しずつ遠野の影が薄れ、素顔の修子が甦ってくる。
そのままぬるま湯で顔を洗い終ったところで、修子はようやく普通の自分に戻ったような気がして水を飲む。
修子は寝つきはいいほうである。床に入ると大抵は二、三十分で眠れるし、疲れているときはソファでテレビを見たまま仮眠《うたたね》することもある。
「君の最大の長所は、寝つきと寝起きのいいところだ……」と、遠野に皮肉まじりにいわれたこともある。
年頃の女性なら、もう少しもの思いなどに耽《ふけ》りながら眠られぬ夜を過ごすほうが、サマになるような気がするが、仕事をもっていてはそんなことをいっていられない。それに寝不足は三十を過ぎた肌には覿面《てきめん》に響くし、明日の仕事にもさしつかえる。
よく眠るのが美しさを保つ秘訣とわり切っているが、今夜だけは少し眠れない。枕元のスタンドの小さな明りだけをつけ、ブラームスのシンフォニイを聴きながら目を閉じるが、ごく自然に遠野のことが頭に浮かぶ。
電話のあと連絡がないが、本当にこれから来られるのか。
家から電話をしているせいか、遠野の話し方はいつになく歯切れが悪かった。まわりに人でもいたのか、小声で落着きがなかった。
修子はまだ、遠野の家を見たことがない。もちろん住所は知っていて、行く気になれば行けないわけではないが避けてきた。
初め、遠野を知ったときから、修子は、彼の家での生活は自分のあずかり知らぬことであり、別の世界のことだと決めてきた。したがって遠野の妻にも会ったことがない。
せいぜい、ときに洩らす遠野の言葉の端から、修子より一廻り年上の、中年の女性を想像するだけで、それ以上のことはなにもわからない。
おかげで、いま遠野のことを考えても、彼の困惑した顔が浮かんでくるだけである。
修子は寝返りをうち、枕元の時計が十二時半を示しているのをたしかめてからスタンドの明りを消す。
眠るとき、修子は明りがないほうがいいが、あとで遠野がくると闇に戸惑うかもしれない。修子はもう一度小さな明りをつけなおし、光りを遮《さえぎ》るようにスタンドの笠を傾けた。
そのまま目を閉じ、息を潜めているうちに軽く眠ったらしい。
漠然とした意識のなかでかすかな音をきき、目を覚ますと入口のチャイムが鳴っている。
修子は慌ててベッドから起き、時計を見た。
午前一時である。
チャイムはいったんとまり、今度はどんどんとドアを叩く音がする。
急いでリビングルームの明りをつけてドアを開けると、待ちかねたように遠野が飛び込んできた。
「眠っていた?」
余程急いできたのか、遠野は額に軽く汗を滲《にじ》ませ髪が少し乱れている。
「水を一杯、くれないか」
修子は冷蔵庫から冷えた麦茶をとり出してグラスに注ぐ。
「うまい」
遠野はそれを一気に飲み干すと、ソファに坐った。
「遅くなってしまった……」
「くる前に電話をくれると、いったでしょう」
「そのつもりだったけど、電話をする時間が惜しくてね」
坐った遠野の上体は軽く揺れて、少しアルコールの匂いがする。
「酔っているんですか」
「たいして、飲んでいない」
遠野は坐ったまま背広を脱ぎ、ネクタイをゆるめる。
「今日は疲れた……」
「なにか、あったのですか」
「あったあった、沢山ありすぎて、なにから説明していいかわからない」
遠野はそこでネクタイを投げ捨てると、一つ大きく溜息をつく。
「ここにきて、ようやくほっとした。もう一杯、水をくれないか」
修子が再び冷蔵庫から麦茶をとり出すと、遠野がつぶやく。
「修は本当にいい女だ、最高だよ」
「急に、どうしたんですか」
「いい女だから、いい女だといっているんだ」
「わたしは、そんないい女じゃありません」
「いや、いいよ。家《うち》の奴にくらべたら問題にならん」
どうやら、遠野は家で妻といさかいをしてきたようである。電話でいいにくそうにしていたのは、そのせいなのであろう。
「どうも、女というのはわからない」
「あなたは、一番よくわかっているんじゃありませんか」
「それがわからない。とにかく、長くいるとろくなことはない」
「………」
「まったく、どうしようもない」
遠野はそういってから、ぽつりとつぶやく。
「子供のやつが警察につかまってね」
思いがけない話に、修子は思わず坐り直す。
「ただ、仲間とバイクを飛ばしていただけらしいんだが……」
遠野には子供が二人いるが、その下の高校生の男の子のことらしい。
「警察からはすぐ帰されたんだが、悪いのはすべて俺のせいだということになってね」
争いの細かいことまではわからないが、それだけで大体の察しがつく。
「とにかく、女は興奮しだすと、いうことが無茶苦茶だ」
遠野のいうこともわかるが、彼の妻にもそれなりのいい分はあるのであろう。いずれにせよ修子が関わり合うべきことではない。
「それで大丈夫なのですか」
「とにかく、大変な夜だった」
遠野はそういうと、寝室へ行こうとする。
「駄目よ」
修子はきっぱりと首を左右に振った。
「今日は、このまま帰ったほうがいいわ」
「喧嘩をして家をとび出してきたのに、いまさら帰れるか」
「だからこそ帰ったほうがいいわ。このまま帰らないと心配されるでしょう」
「心配なんかしない、いままでだって何度も泊ってるじゃないか」
遠野はときどき少年のようになる。これが十七歳も年上の男性かと思うほど駄々をこねる。
「今夜はどんなに遅くなってもくるといったろう。ちゃんとその約束を守ってきたのだ」
たしかに遠野が約束どおりきてくれたことに修子は感謝している。とくに喧嘩をしたあとに出てくるのは、相当の勇気が必要であったに違いない。
しかしだからといって、このまま引き留めて部屋にかくまう気にはなれない。
そこまでしては、二人の争いの渦中に自ら巻きこまれることになりかねない。夫婦の争いは、あくまで夫婦のあいだで解決すべきで、他人が入りこむべき問題ではない。
遠野は好きでも、そのあたりの|けじめ《ヽヽヽ》だけはきちんとしておきたい。
「これから帰っても、むし返すだけだ」
軽く下を向いた遠野の顔は陰になって、中年の男の疲れが滲《にじ》んでいる。
「泊っても、いいだろう」
今度は、哀願するような口調になる。
「ここしか、俺の安らぐところはない」
「じゃあ、少しだけ休んで、それから帰って下さい」
「今日は朝から働きづめで、おまけに警察沙汰で疲れてるんだ、これから眠ったら何時に起きられるかわからない」
「大丈夫です、三時には起こしますから、朝になる前に帰って下さい」
「頑固な奴だ」
「わたしが頑固なのでなく、あなたが勝手なのよ」
修子はそれだけいうと、脱ぎ捨てられたままの遠野の上衣をハンガーに掛ける。
枕元の目覚まし時計の音はさほど高くはない。ゆっくりと木琴でも叩くようにやわらかな音が続く。その少し間の抜けた音をきいていると、修子は自然に目が覚める。音の高さより、そのリズムが頭に馴染んでいるようである。
目覚めたとき、時刻は三時五分すぎだった。
修子は背を向けている遠野の肩をそっと叩いた。
「時間ですよ、起きて下さい」
休む前、二人は軽く抱き合っていたはずである。
遠野は修子の額に接吻をし、パジャマの胸元を開いたが、そこまでで安心したように眠ってしまった。
それにつられて修子も目を閉じたが眠りは浅く、その大半は夢であったような気がする。
どういうわけか、少し離れた位置から遠野が呼んでいる。彼のうしろには妻がいるようだがよく見えず、見知らぬ人が前を行き来する。場所は会社の近くのようでもあり、大分前に遠野と一緒に行った京都の街角のようでもある。奇妙なことに、修子の前にはサザランド支配人が車を寄せて待っている。
そんなとりとめもない夢を見ているうちに、目覚まし時計が鳴りだしたようである。
「起きて下さい」
もう一度、肩を揺らすと、遠野はようやく気が付いたらしく、仰向けのまま二、三度、頭を振ってから目を開いた。
「もう三時ですよ」
遠野は「なあんだ……」というように顔をそむけ、それから一つ欠伸《あくび》をした。
「もう少し、眠る」
「駄目よ、少し休んだら帰る約束だったでしょう」
背を向けた遠野の肩を、修子はもう一度引き戻す。
「いまならまだ暗いから、さあ、起きて」
「放っといてくれ」
今度は遠野は蓑虫《みのむし》のように背を丸くする。
「このまま眠って、明日、会社はどうするのですか」
「ここから出て行く」
修子のところには、遠野の下着はあるが、ワイシャツやネクタイの予備はない。
「昨日のままじゃ、おかしいわ」
「かまわん……」
遠野はうるさいというように、タオルケットを目深に引き寄せる。
「やっぱり起きなきゃ駄目よ。喧嘩をしてきたのでしょう」
「だから、帰らないといっているだろう」
「そんなの卑怯よ」
「どこが、卑怯なんだ」
「だって、奥さまは家にいるのでしょう」
どのような事情にせよ、喧嘩をして自分だけ逃げ出してくるのは狷《ずる》い。
幸い、遠野は修子の部屋という逃げ場があるが、妻のほうには出ていくべき場所がないはずである。いずれにしても、男だけが一方的に逃げてくるのは身勝手というものである。
「お願いですから、今日だけは帰って下さい」
こういうときは、母親のように優しくいったほうが効き目がある。相手は分別ある大人より、ヤンチャ坊主だと思って対応したほうがよさそうである。
「あなたが、きてくれたことは嬉しいけど、今夜は帰ったほうがいいわ」
修子に訓《さと》されて、急に家のことでも思い出したのか、遠野は呆《ぼ》んやり天井を眺めている。
「喧嘩なんかしていないときに、ゆっくり逢いたいわ」
「………」
「さあ、起きて」
そのまま修子はリビングルームに行って明りをつけた。
つい二時間前、遠野が脱いだ背広とズボンが、壁の端のハンガーにぶら下っている。それをおろしてネクタイを伸ばしていると、遠野が起きてきた。
「コーヒーでも呑みますか?」
「いや、濃いお茶がいい」
修子が流しで湯を沸かすと、遠野は諦めたように服を着はじめた。
まだ眠気は覚めぬらしく、気怠《けだる》そうにワイシャツに腕を通している。
「ずっと、起きていたのか?」
「少し眠りました」
「明日、会社は大丈夫か?」
サイドボードの上の時計は、すでに三時半を示している。
「あなたが帰ったら、もう一度、眠ります」
「まだ三時間くらい、あるかな」
「すぐ、眠れたらね」
修子は微笑んでカーテンのかかっている窓を見た。
「車を呼びましょうか」
「出たら、拾えるだろう」
修子が立上ると、遠野も仕方なさそうに立上って出口へ向かったが、沓脱《くつぬ》ぎの前で振り返る。
「帰るぞ……」
「わかったわ」
修子がうなずくと、遠野の上体が近づき、顔を寄せてくる。そのまま短い接吻をして、遠野は体を離す。
「騒がせて、悪かった」
「お休みなさい」
遠野が軽く手をあげ、少しおどけたように片目をつぶる。その顔にうなずくと、ドアが外側から閉まる。
修子はなお廊下を去っていく跫音《あしおと》をきき、それが途切れたところでゆっくりと鍵をかけた。
薄 暑
修子の誕生日は、遠野のそれより三カ月あとの、七月の半ばの土曜日であった。
その日、修子は目覚めるとともに、自分が三十三歳になったことを自覚した。
といっても、顔や姿がとくに変ったわけではない。ただパジャマのまま朝のコーヒーを飲みながら、今日で三十三歳になったとしみじみ思っただけである。
ついにというか、いよいよというか、三十の半ばに近づきはじめたようである。
正直いって三十歳になったときは、自分がそんな年齢《とし》になったことに驚き、かつ呆れた。これから年齢の欄に、「三十歳」と書くことを思っただけで気が滅入った。
だがその衝撃も一年も経つと薄れ、去年あたりまでは、三十代といっても、まだなったばかりだとたかをくくっていたのに、三十三歳ではかぎりなく二十代に近いというより、三十半ばに近い。
コーヒーを飲みながら、修子は先日、向こうの雑誌で読んだ「エイジング.コンプレックス(Aging Complex)」という言葉を思い出した。
男も女もある年齢に達すると、その年齢にコンプレックスを抱くようになるが、女性の場合はまず二十代の後半にそれを感じ、次いで三十代の半ばからまた強く感じはじめるという。もしそうだとすると、修子はこれから本格的なエイジング.コンプレックスに悩まされることになる。そんなこと、年齢をとったら当然だと思いながら、みんなはそれをどう切り抜けていくのか気になる。いずれにせよこれで完全な三十代になってしまった。そう思った途端、修子はこれからの自分にかすかな不安を覚えた。
はたして、このままでいいのだろうか。
はっきりいって二十代の前半はなにがなんだかよくわからぬまま、がむしゃらにすすんできた。大学を卒《お》えてロンドンに出かけたのもこの時代で、仕事よりも目先の好奇心のままに動いていた。
少しは自分の生き方に目標をもち、それに意図的に立ち向かえるようになったのは二十代の後半からで、そのころになっていくらか地に足がついてきた感じである。いまの外国企業の秘書という仕事についたのもこの時期で、ようやく自分の才能を発揮できる仕事にめぐりあえたようである。
これまでの歳月は、現在の地位をうるための必要な期間であったと思えば納得もできる。
だがこのあともいまの仕事を続けていくだけでいいかとなると、問題が残る。
たしかにいまの仕事は女性としてはやり甲斐もあるし、給料も悪くはない。他のOL達からは羨まれるほどのいい条件である。
だが三十半ばに近づいてみると、同じ仕事を続けていくだけでは、少しもの足りない気がしないでもない。生意気をいうようだが、いまの状態からもう一步踏み出して、なにか自主的なことをやってみたい。
といっても近々に仕事を辞めるとか、新しい仕事を始めるということではない。
そうした仕事のことより、修子の心の内側でなにか一つ、現状から抜け出したいと願っているものがある。それが具体的になにを表すのか、修子自身にもよくわからないが、このままでは現状に馴染むまま日常のくり返しのなかに自分が埋没しそうである。
三十三歳の誕生日をきっかけに、なにかいま一つ熱中できるものを見付けて、自分を大きくしたい。
そんなふうに思うのも、三十代半ばに近付いた年齢と無縁ではないかもしれない。
梅雨の半ばのせいか、空は相変らず低く雲がたちこめ、鈍い朝の明りがベランダをおおっている。グルーミィな朝だが、雨が降らぬならこんな天気も悪くない。むしろ会社が休みの土曜日には、陽が翳《かげ》ったほうが気持は落着く。
修子はしばらくベランダを眺めてから、また視線を部屋に戻した。
正面にテーブルをはさんでソファがあり、その先にサイドボードがある。サイドボードの棚には、ワインやブランディのボトルとともに、さまざまなグラスが並んでいる。サイドボードの棚の上には、エナメル仕上げのティファニーの置時計があり、その横に縦長の花瓶が並び、白いカラーの花が三本挿し込まれている。さらに棚の端には昨夜までつけていた指輪とイヤリングが入ったクリスタルのバスケットが輝いている。
リビングルームは十畳間だが、他にはキッチンへ続くコーナーに二人用の白木の食卓テーブルがおいてあるだけで、あとは入口の近くに電話台があるだけである。
女の友達は、「男の部屋みたい」というが、修子は縫いぐるみや人形などで飾った部屋はあまり好きではない。それらがあるとたしかに女らしいかもしれないが、見方によってはくどくて、雑然とした感じになる。それよりも、部屋の調度はあっさりとして、清潔なほうがいい。壁も、ソファのうしろにバラディエの少女の坐像が一枚かかっているだけで、あとは淡いベージュ一色である。
よく見ると女が生活していることはわかるが、家庭の匂いはしない。
その静かですっきりした部屋のなかでコーヒーを飲みながら、修子は昨夜、母と電話で話したことを思い出した。
いつものことだが、母は修子の誕生日を覚えていてくれて、週末に実家に帰るように電話をよこしたのである。誕生日に、たまに母と二人で過ごすのもいいと思ったが、その日は、遠野と小さな旅行へ出かける約束があった。
「お盆に、まとめて帰るわ」
そう答えて雑談していると、母がなに気なくつぶやいた。
「わたしら、あんたの年頃には子育てで手一杯だったけどね」
修子は、いつもの母の愚痴のようなつもりできいていたが、考えてみると、修子の年齢のとき、母はすでに三人の子供がいたことになる。もっとも、いまでは三人も子供がいる家庭は珍しく、修子の大学時代の友達でも子供がいても一人か二人までである。
「子育て以外に、考えたことはなかったの?」
「考えようにも、子供がいるとそんな暇はなかったから」
母の言葉をききながら、修子は子供がいる友人の顔を思い浮かべてみた。
当然のことながら、彼女らは結婚しているため独身の修子とは話題もあわず、親しく際《つ》き合ってはいない。それでも二カ月前に渋谷で偶然会った友人は子供の手を引きながら、つい数日前に自分の誕生日がきたことも忘れていたと話していた。
その女性の屈託のない表情には、年齢をとったことを憂えている気配はなく、それどころか「早くこの子が学校に行くようになってくれれば」と、目を細めながら子供を見詰めていた。