「いますぐですか」
「ゆっくり、食事をしてからさ」
「賛成」
修子は答えながら、素直になっている自分が不思議で可笑《おか》しかった。
箱根からの帰り、芦ノ湖を見下すスカイラインを廻ったので、東京へ着くと午後五時を少し過ぎていた。
朝方、晴れかけていた梅雨空は午後になって再び雲が広がり、蒸し暑さが戻っていた。
「少し、寄っていこうかな」
用賀のインターを降りたところで遠野がつぶやいたが、修子は黙っていた。
「これから、なにか用事があるのか?」
「ありませんけど、今日は帰ったほうがいいわ」
このまま遠野を部屋にいれると、またずるずると一緒に過ごして甘えたくなるかもしれない。
だが遠野は土曜から家を空けたままである。自分から「少し……」といっているところをみると、一、二時間休んでいくつもりなのかもしれない。あまり時間もないのに立ち寄っていこうとするところが、遠野の優しさであり、困ったところでもある。
用賀のインターから修子のマンションまでは十分もかからない。車がマンションの前に着いたところで、遠野がもう一度つぶやいた。
「寄らないほうが、いいかな」
今度は、修子は笑顔でうなずいた。
「箱根、とても楽しかったわ、ありがとう」
遠野はハンドルに片手をのせたまま別のことをいった。
「あれは、本当にいいのか?」
「あれって……」
修子は通帳のことだと気がついたが、知らぬふりを装った。
「よかったら、おいていく」
「昨夜、いったとおりよ」
遠野は車の前方を見たまま、溜息をついた。
「わかった、今夜はずっと部屋にいるのだろう」
「もちろん、どこにも出かけません」
「じゃあ、あとで電話をする」
「気をつけてね」
遠野はようやく納得したようにハンドルを握ると、修子に軽く目配せした。
そのまま車は動き出し、最初の信号を左へ曲って消えていく。
いつものことだが、車を見送りながら、修子はある憩《やす》らぎと淋しさを覚える。むろん憩らぎは、一人になった解放感であり、淋しさは、遠野が自分から去っていった孤独である。
もしかすると去っていった遠野も、同じような思いを味わっているのかもしれない。
修子は気をとり直してマンションの入口のドアを押してなかへ入り、郵便受けを見た。数枚のダイレクトメールや広告のチラシとともに、荷物が届いている旨のメモ用紙が入っている。
それを持って管理人室に行くと、五十半ばを過ぎた管理人が蘭の鉢植えを持ってきた。
「昨日の午後、届いたんですが……」
修子は礼をいい、鉢を抱えてエレベーターにのってから、花に添えられたカードを開いてみた。
「お誕生日、おめでとうございます。岡部要介」
花をみた瞬間、あるいはと思ったが、やはり要介からであった。
前に一度、住所をきかれて教えたことがあったが、それを覚えていたようである。
それにしても見事な蘭である。両腕をまわしてようやく抱えられる鉢に、十数個の胡蝶《こちよう》蘭が淡いピンクの花を咲かせている。
管理人が昨日の午後に届いたというところをみると、修子が箱根に出かけた直後に違いない。そのまままる一日、管理人の部屋で放置されていたことになる。
「ご免なさいね」
修子は花に謝りながら、要介にすまないことをしたような気がしてきた。
こんな花が待っているのなら、もっと早く帰るべきだった。
だが正直いって、誠実ではあるがいささか無粋な要介が、花を贈ってくれるとは思っていなかった。それに胡蝶蘭は優雅すぎて、猪突猛進タイプの彼にそぐわない。
花を抱えて鍵を開けると、部屋はカーテンで閉じられたまま熱気がこもっている。
独身の侘《わび》しさは、部屋に戻っても外出したときのまま変化のないことである。修子の会社には、その侘しさがいやで結婚したという女性もいる。
だが今日は美しい花と一緒だから気がまぎれる。
修子は蘭の鉢をいったん電話台のわきに置き、それからベランダの手前に置き換えてみた。
花の位置が高いので、奥のほうが落着きそうである。
修子はジーンズと白い綿シャツに着替えてからベランダを開き、部屋の空気を入れ換えた。
相変らず梅雨空だが、新しい空気を呑みこんだ部屋は蘭の花を得て生き返ったようである。
修子は手帖で要介の部屋の電話番号をたしかめてから、かけてみる。
だが呼出音だけで、返事がない。
日曜日だからどこかに出かけたのであろうか。
ベランダの手前におかれた花を見ながら、修子は改めて要介のことを思った。
この前から要介は、修子の誕生日には二人だけで食事をしたいといっていた。むろん遠野との約束があったので断ったが、それでも誕生日を忘れずに花を贈ってくれたのは嬉しい。しかもかなり高価そうな蘭の花である。
いささか見栄っぱりの要介のやりそうなことだが、相当の出費であったに違いない。
「こんな無理をしなくてもよかったのに」
花につぶやきながら見とれていると、電話が鳴った。
要介からかと思って受話器をとると、遠野だった。
「どうしている?」
「どうって、コーヒーを飲んでいました……」
「やっぱり、修のところに寄ればよかった」
遠野の声は少し元気がない。
「いま、お家でしょう」
「家だけど、帰ってみると誰もいなかった。みんな出かけたらしい」
自嘲気味にか、遠野は軽く苦笑したようである。
「これから、飯でも食いに行こうか?」
一度帰った久が原の自宅から、遠野はまた出てくるつもりらしい。
「夕食はまだだろう」
「………」
せっかく帰ったのに、家族がいなくては淋しいだろうが、それは遠野の事情で、修子とは関係のないことである。
「日曜日だけど、寿司屋くらいならやっているだろう」
「でも、まだお腹はすいてないわ」
「じゃあ、これからそっちに行こうかな」
修子は答えず花を見ていた。もしこの胡蝶蘭が若い男性から送られてきたと知ったら、遠野は嫉妬するのか、それとも無視するだろうか。
「いいだろう?」
もう一度きかれて、修子は首を横に振った。
「駄目よ」
「どうして……」
「今日は、一人で休みたいの」
「冷たいな……」
遠野が冗談めかしていったのに、修子は、「ご免なさい」といって受話器をおいた。
暮れるとともにまた雨が降ってきたようである。といっても細く忍びやかな雨音はしない。
修子は再びベランダを開けて掃除機をかけたあと、バスルームで湯を浴びた。ゆっくり温まってパジャマに着替えると、旅の疲れがでたのか少し眠くなった。そのまま小一時間ほど、ソファで仮眠したようである。
目覚めたとき、つけたままのテレビは八時台のドラマをやっていた。
修子はしばらくそれを見てから、空腹を覚えて流しに立った。
昨日から出かけていたので、冷蔵庫には卵と鶏肉が少し残っているだけである。
それで饂飩《うどん》をつくることにして湯を沸かし、ダシをとってから醤油と味醂《みりん》でツユをつくった。そのあと鶏肉を電子レンジで解凍していると、また電話のベルが鳴った。
ガスをとめて出てみると、絵里だった。
「あなた、昨日からどこへ行っていたの?」
いきなり問い詰められて、修子はなにか悪いことをしてきたような気になった。
「一寸、箱根のほうに……」
「彼氏と一緒でしょう、いいご身分ね」
絵里はそういってから、急に甲高《かんだか》い声になった。
「ビッグニュースよ、眞佐子が結婚するのよ」
「本当……」
修子は一瞬、冗談をいわれているような気がした。
「一カ月前にお見合いしたといったでしょう。その人と、ついに婚約したの」
たしかに一カ月ほど前に、眞佐子は歯科医と見合いをしたはずだが、また例によって、見合いだけで終るのだと思っていた。
「でも、ずいぶん急ね。絵里はどうして知ったの?」
「昨日、彼女のほうから報告してきたのよ。それですぐあなたに報《しら》せようと思ったら、いないじゃない」
大学の仲間のなかでは絵里が一番才女であったが、結婚に関する好奇心はみな同じである。
「じゃあ、やっぱり歯医者さんと」
「そうなの、この前、するといってたでしょう」
「でも一カ月で決めるなんて、余程気に入ったのね」
「それがよくわからないの。歯医者さんといっても相手は四十歳で、しかも子供がいるのよ」
「じゃあ、再婚じゃない」
「もちろん、前の奥さんは病気で亡くなったらしいけど、四歳の女の子が一人いるんだって」
もともと、眞佐子は仲間三人のなかでは最も晚手《おくて》で、男性には臆病すぎるほど慎重であった。実家も青森の旧家で、保守的な家庭に育ってきたはずである。そんなお嬢さんが四十歳の子供連れの男性と結婚するとは意外である。
「どうして、そんなことになったの?」
「それがよくわからないんだけど、お父さんの代から品川のほうで開業していて、相当の資産家らしいわよ」
「じゃあ、お金が目当てってわけ」
「そんなわけでもないんだろうけど、眞佐子は東京に住みたがっていたでしょう……」
たとえ東京に住めるといっても、それだけで子連れの中年男と結婚するとは思えない。
「それで、本人はなんていってるの?」
「やはり、再婚で子供がいることが気になってるみたいだけど、結構、楽しそうに喋るのよ」
「惚《のろ》けるの?」
「とにかく、相当、熱心に口説かれたみたいよ」
「そりゃ、眞佐子は独身だもん」
「“君を世界一の幸せな妻にする”っていわれたんですって」
「キザねえ」
婚約や結婚の度に、女の友達が豹変するのを、修子はもう何度となく見ている。かつては仕事だけに熱中していた女性が、恋人ができた途端に仕事のことなぞ見向きもしなくなった例もある。また男嫌いのはずの堅い女性が、彼氏の惚け話ばかりするようになった例もある。
いずれも一概に悪いとはいえないが、少しは毅然と筋を通してもらいたいと思うこともある。
いま、絵里の話をきいたところでは、眞佐子も豹変しそうな予感がする。
「青森の、お母さん達は許したのかしら」
「見合いのうえでの婚約だから、もちろん承知なのでしょう」
ゴールデンウイークに遊びにいったときに会った感じでは、眞佐子の両親は古風で律義な人のように見えた。
「眞佐子も焦ったのかなあ……」
「でも、われわれの年齢では、子連れの中年でも文句はいえないわ」
絵里にいわれて、修子は改めて自分の年齢を考える。
たしかに、三十三歳に対して四十歳では、さほど年齢が離れているわけではない。
「眞佐子も、そろそろこのあたりが年貢の納めどきと思ったんじゃない」
絵里の説明はいささかストレートだが説得力がある。
若いころは、ひたすら好きな人と一緒になることだけを夢みているが、現実の結婚はさまざまな妥協の結果のようである。それはいままで結婚してきた、いろいろな友達の例を見ればよくわかる。むろん愛があるにこしたことはないが、さほどなくても結婚生活は続けていけるものらしい。眞佐子もそういう女性と同じだと思いたくないが、多少の打算はあったのかもしれない。
「で、式はいつなの?」
「相手のほうは、いますぐでもいいっていうんですって。でもやはり秋ごろになるらしいわよ」
修子は、眞佐子の嫁ぐ姿を想像したが、まだはっきりイメージとしてわいてこない。
「じゃあ、眞佐子に電話をしてみようかな」
「彼女、きっと、喜ぶわよ」
絵里はそういってからいい直した。
「でも、放っといたほうがいいかもね。いま電話をすると、惚《のろ》けられた挙句に、早く結婚しなさいなんて、説教されるかもしれないわよ」
電子レンジが鳴ったので、修子はあとでまた電話することにして受話器をおいた。
そのままキッチンに駆けていくと、レンジのなかの鶏肉が解けている。
修子はそれを取り出して俎板《まないた》の上で刻み、改めて湯を沸かした。饂飩のツユはすでにできているので、あとは麺を熱湯にとおせばいいだけである。
一段落したところで修子は手を拭き、ベランダのほうを振り返った。
かすかに湯が沸きたつ音がする部屋のなかで、胡蝶蘭だけが場違いのように咲き誇っている。
その気品のある花の姿を見ながら、修子は自分一人だけ取り残されていくような淋しさを覚えた。
陽 光
長梅雨が明けて、修子の体調はようやく恢復《かいふく》したようである。
といっても梅雨のあいだ、病気であったり、体調をこわしたわけではない。ただどことなく気持がぴりっとしないまま、日を過ごしてしまったという感じである。
修子はときどきこの種の無気力さにとらわれるときがある。それは生理の変調によることもあるが、それとは無関係に精神的な不安定さにもとづくこともある。もっとも梅雨の季節は、みな大なり小なり、この種の無気力感にとらわれるのかもしれない。
だが、今年の場合は長梅雨の鬱陶しさにくわえて、眞佐子の婚約という事実が、修子の気持に多少影響を与えたようである。
絵里からそのことをきかされたのは、梅雨の半ばの箱根から帰ってきた夜だった。
初めそれをきいたとき、修子は即座に信じかねたが、そのあと本人と会い、直接きかされては信じないわけにいかない。
しかも話しながら眞佐子の顔には自然に笑いが洩れ、「あの人……」という言葉を連発する。婚約した喜びを一人でおさえきれぬようだが、それをきかされるうちに修子は次第に落着かなくなってきた。
たしかに親友の婚約はおめでたいことだが、こうあけすけに惚《のろ》けられると、きいているほうがしらけてしまう。たしかに天真爛漫で正直なところが眞佐子のよさでもあるが、独身の修子にはいささか応えた。
すべてがそのせいというわけでもないが、それ以来、少し気が滅入ったことはたしかである。
もっとも、だからといって婚約した眞佐子を羨《うらや》ましいと思ったわけではない。
眞佐子が結婚するからといって、自分まで慌ててすることはない。眞佐子は眞佐子で、自分は自分である。それはよく承知していながら、ついに彼女も嫁いでしまうという淋しさにとらわれたことはたしかである。
これで絵里と眞佐子と自分と、三人の親友のなかで、正式に結婚していないのは修子だけである。結婚が人生において絶対に必要なこととは思わないが、自分だけが一人前にならぬまま、取り残されていくような不安がある。
梅雨の半ばから末まで続いた気持の落ちこみは、この不安と無関係ではなさそうである。
揺れる修子の気持がいくらか納まったのは、梅雨も終りに近い七月の半ば過ぎに、絵里と眞佐子と、青山のレストランで食事をしてからである。
三人で会ってゆっくり食事をするのは、ゴールデンウイークに東北に行って以来だが、ここでも眞佐子の婚約のことが話題の中心になった。
例によって、眞佐子は幸せ一杯の風情をかくさなかったが、途中から、彼との約束があるといって帰ってしまった。
いままで眞佐子が最後まで残ることがあっても、先に帰ることなぞ一度もなかった。取り残された二人は呆気《あつけ》にとられたまま、改めて事態が変ったのを痛感した。
「これでどうやら、われわれ三人の友情もヒビ割れね」
絵里は自棄《やけ》気味に、ウイスキーの水割りを飲みはじめた。
「女って、好きな人ができると、どうしてあんなに簡単に友情を捨ててしまうのかなあ」
たしかに眞佐子は初心《うぶ》だったが、一旦好きな人ができると、ひたすら尽すタイプかもしれない。
「彼女は結婚したら、仕事をやめるのね」
「ご主人が歯医者さんで、四歳の子供がいるんだから仕方がないでしょう」
「わたしはもし結婚しても、仕事を捨てる気にはなれないわ」
修子がいうと、絵里がわが意を得たようにうなずく。
「もちろんよ。わたしが前の夫とあっさりと別れられたのも、仕事があってきちんと収入があったからよ」
絵里はすでに離婚経験者だが、その別れ方が爽やかであったところが自慢の一つでもある。
「でも年輩の男性は、結婚する以上は、家庭に入るように要求するでしょう」
「どんな理由があれ、家庭に入ってしまったらおしまいよ。専業主婦ほど、無知で独りよがりなのはないわ」
「結婚しても、素敵な人もいるけれど……」
「それは稀よ」
テレビのディレクターとして多くの主婦と接しているせいか、絵里の主婦批判は手厳しい。
「毎日、子供だけ相手にして家に閉じこもっていたら、そうなるのも仕方ないんじゃない」
「わたしは絶対にいやだわ。やっぱり家にいると気が楽だから精神的にも緊張しないし、体もぶくぶく肥るでしょう。眞佐子もいまにそんなふうになるわ」
ウイスキーが廻ってきたのか、絵里の言葉は辛辣である。
「いくらお金があってご主人が優しくても、それに甘えていたら、家事しかわからない女になってしまうわ」
「でも、眞佐子はいま、それがお望みなのでしょう」
「それはそれでかまわないけど、独身のわれわれの前で、あんなに惚《のろ》けなくてもいいと思わない」
それは修子も同感で、今日の眞佐子は、いままでの堅くて控えめだった彼女とは別人のようなはしゃぎようであった。
「わたしはべつに、眞佐子に妬《や》いているわけじゃないのよ」
少しいいすぎたと思ったのか、絵里はいい直す。
「わたし、眞佐子にだけは、もう少し素敵な結婚をして欲しかった」
そこから先は、互いの結婚観を披露しあうことになる。
絵里も修子も、結婚を絶対に必要なものと思っていない点では同じである。ただ絵里が結婚に失敗して、いささか懲《こ》りた結果であるのに対して、修子は結婚に対しては白紙である。いい相手がいればしてもいいし、いなければしなくてもいい。そのあたりは流動的に考えている。
「要するに、自分を殺してまで、結婚をする気はないというわけね」
絵里にきかれて、修子はうなずく。
「お互い、それぞれの生き方っていうかライフスタイルがあるでしょう。この年齢《とし》まできたら、それを壊したくないから、それを認めてくれる人が現れるまで待つより仕方がないわ」
「でも、それはかなり我儘な意見よ」
「そうなると、結局、一人でいるよりないわね」
いささか淋しいけど、そのあたりは覚悟をしているつもりである。
「いっそ、眞佐子のように、何も彼《か》も忘れて首ったけになれるといいんだけど……」
正直いって、修子は眞佐子を羨ましいと思う。それは今度婚約したからというより、相手のことにそれほど惚れこめる性格に対してである。
「あなたは、もともと醒めてたから、眞佐子みたいになるのは無理よ」
修子はそれと同じことを遠野にもいわれたことがあった。もっとも遠野は非難したわけでなく、性格として指摘しただけであったが。
「眞佐子のようになれると、楽だろうなあ」
「でも、好きな人ができると、女はどうしてあんなに視野が狭くなって、独りよがりになるのかなあ」
絵里の嘆きをきいて、修子は、ひたすら夫に従うだけだった母のことを思い出した。
「考えようによっては、彼氏しか見えないときが女の一番幸せなときなのかもしれないわ」
「じゃあ、われわれのように、何人もの男性が素敵に見えるときは不幸ってわけ?」
「何人も?」
「あなたは、そうじゃないの?」
いきなりきかれて修子が戸惑っていると、絵里が追討ちをかけてきた。
「ところで修子、誰かと結婚する気はないの?」
「………」
「Tさんとか、もちろん他でもいいけど……」
絵里は遠野のことを承知で、あえてTと頭文字で呼ぶ。
「彼とは、そんなつもりじゃないわ」
「あなたほどの女なら、他に寄ってくる男が沢山いるでしょう」
修子は遠野と要介の他に、社長を介して知った独身の医師や、大使館のパーティで知り合った輸入会社のオーナーなどの男友達を思い出したが、いずれも結婚の対象として考えたことはない。
「われわれの年齢になると、これと思う人はみな奥さんがいて難しいわね」
「自分の生き方を変えてまで、一緒になりたいと思う相手はいないでしょう」
「それに、わたし自身が臆病なのかなあ」
「結婚というのは、生れも育ちも違う人間が一生一緒にいることだから、そりゃ大変よ」
「とにかく、眞佐子のように素直になれるといいなあ」
最後は結局、眞佐子のことに話が戻るが、久しぶりに絵里と思いのたけを喋ったので、気持はいくらかすっきりしたようである。
梅雨明けとともに、猛暑が一気に寄せてきたが、それとともに修子の会社は忙しくなってくる。
お中元の贈答用にクリスタル製品の需要が増えたとともに、家庭でワインやブランディを飲む人が増えて、グラスの売りあげも伸びてきたからである。営業担当者は各デパートや小売店からの注文に追われて、休日も休めないと悲鳴をあげている。
一般の需要が伸びるとともに、修子のところへくるテレックスやファックスの量も増え、来客も多くなる。
おかげで、いつもは五時半に終る勤務が、六時から、ときには七時、八時になることもある。
修子が遠野と食事をする約束をしたのは、そんな忙しいなかの一日であった。
遅れると悪いので少し時間をずらして七時に、銀座の七味亭というレストランで逢うはずだったが、夕方五時に、遠野のほうからキャンセルの電話がかかってきた。
「せっかくだけど、大阪から重要な客がきて、際《つ》き合わなければならなくなったんだ」
遠野の予定の変更には馴れているので、修子はあっさりとうなずいた。
「いいわよ、また別の機会で」
「食事のあと、少し飲むことになるかもしれないが、十二時迄には戻る」
仕事がら、遠野はいろいろな人と食事をするようだが、接待のあとは決って酔って、修子の部屋にきても眠るだけである。正直いって修子はそんな遠野がもの足りないが、疲れ果てて眠る顔を見ると少し可哀想になる。
「修の横で休むとき、一番安心する」という遠野の言葉は、満更、誇張ではないようである。
夕食の約束がなくなったので、修子が暢《の》んびり残った仕事を片付けていると、広報課長の庄野千佳子が現れた。
「今晚、あいている?」
千佳子はこれから食事をしたあと、「ベナ」という銀座のクラブに行ってママに会う予定だという。
「あの話、ようやくうまくいきそうで、これから店を見せてもらうの」
あの話というのは、クラブにボトルのかわりにデカンタをおく件である。
最近は日本でもクリスタルのグラスが出廻ってきたが、一般の人々にはいま一つ馴染みがない。とくにグラスは中年男性のあいだに浸透させなければ販路が開けない。
この方法を千佳子にきかれて、修子は銀座のクラブにグラスを一時的に貸して、クリスタルの美しさを知ってもらったらどうだろうと提案した。
千佳子は直ちにその案に関心を示したが、グラスはつかう度に洗い、割れる心配があるというので陽の目は見なかった。だがかわりにデカンタなら滅多に洗わないし、テーブルの上においておくだけで美しいので、いいだろうということになった。
しかし貸すとなると高価なものなので、落着いた雰囲気の、しかも客筋のいいクラブでなければ難しい。そのことで遠野にきくと、「ベナ」がいいということで、千佳子に紹介したのである。
「そもそもあなたが考えたことだから、一緒に行って」
そういわれると、修子としても断るわけにいかない。
六時に連れ立って会社を出て、赤坂の溜池に近いレストランで食事をし、「ベナ」へ行くと八時半だった。
丁度、ママが出てきたところだったが、店にはまだ一組の客しかなく閑散としている。この種の高級クラブは九時過ぎから混み出すようである。ママは早速、デカンタをおく棚を見せてくれて、最初は特別の客にかぎって、つかってみたいという。
「もちろん、遠野さんにも、つかっていただくわ」
ママは三十七、八らしいが細身の美人で、着物を着ているせいか修子よりはずいぶん年上のように見える。
「このごろ、遠野さん、ちっともいらっしゃらないのよ」
修子は前に一度会っただけだが、ママは覚えていたらしく、そんなことまで話す。
「うちのほうとしては、こういう事情でお願いしたいのですが……」
仕事熱心な千佳子は店のマネージャーに貸し出しの約束事項を説明して了解をとる。
「少し、飲んでいらっしゃいませんか」
仕事の話が終ってからママがすすめてくれるが、女二人では落着かないし、客が入りだしたので遠慮する。
ママはエレベーターの前まで送ってきて、「お二人とも素敵ね。あなた達のような方がうちにもいると助かるのですけど」と愛想をいってくれる。
お世辞にしても、銀座のママに美しいといわれて悪い気はしない。
二人は急に元気がでて、新橋に近い小さなカウンターだけのバーに寄ることにした。
「ベナ」の高級さとは月とスッポンだが、千佳子の行きつけの店で安心である。そこで一時間ほど飲んで瀬田のマンションに着くと十一時半だった。
遠野は十二時迄に戻るといっていたが、当てにはできない。
修子は少し酔っていたのですぐパジャマに着替え、冷たい水を飲んでソファに休んだ。
そのまま呆《ぼ》んやりしていると、クラブの華やかな嬌声が甦ってくる。
あの人は、まだあんなところで飲んでいるのだろうか。
それにしても男はどうしてそんなところで大金を費《つか》うのか、修子には理解できないが、遠野にいわせると、すべて仕事を円滑に運ぶためだということになる。
それも接待なのか、とりとめもなく考えながら、酔いを醒ましていると、電話のベルが鳴った。
「もし、もし……」
受話器をとったが返事がなく、そのまま二度くり返したところで一方的に切れる。
このごろときたま無言の電話がかかってくる。初めはただの悪戯《いたずら》電話かと思っていたが、いまのは受話器の向こうで、息を潜めているような感じであった。
誰かがこちらのことを窺《うかが》っているのか。不気味になってサイドボードの上にある置時計を見ると十二時である。
遠野が帰ってきたのは、それから小一時間経った午前一時近くだった。
入口のチャイムを鳴らし、ドアをどんどんと叩く。その乱暴な調子で酔っているのがわかった。
修子は休もうかと思いながら、ソファに横になって深夜テレビを見ていた。
急いでドアを開けると、思ったとおり遠野は酔って前のめりに入りこんでくる。
「危ないわ……」
驚いたことに、酔っているのに両腕に鉢を抱えている。
「ほら、お土産だ」
鉢は胡蝶《こちよう》蘭で、白とピンクの花が遠野の顔をおおうほどに咲き誇っている。
修子はそれを受けとり、足元の覚束ない遠野の手をとって迎え入れる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫にきまっている。その花、凄いだろう」
よろけながら、遠野は自分の持ってきた花を自慢する。
「どうしたんですか、こんな立派なお花を」
「買ってきたんだよ、この前のやつよりいいだろう」
どうやら、遠野は誕生日に要介から贈られてきた花のことを覚えていて、それより素敵な花を買ってきたらしい。
もっとも、遠野は要介からの花を見ても無関心だった。初めに一言、「どうしたのだ」ときいたが、「お友達からいただいたのよ」と答えたらそのまま黙っていた。
だが実際は花のことを気にしていたようである。岡部要介という若い男から贈られたことは知らないにしても、男性からきたことは気付いていたのかもしれない。
要介から贈られた胡蝶蘭が枯れたころを見計らって、新しいのを買ってきたところが可笑《おか》しい。しかも前のよりいいだろうと威張るところが、子供のようである。
修子はこんな遠野が気に入っている。すでに五十に近いのに少年のように突っ張ってみせる。その年齢と似合わぬ稚さが初々しい。
「凄く、重かったんだぞ」
たとえ車とはいえ、鉢を抱えたまま帰ってくるのは大変だったに違いない。修子は感謝をこめて|恭《うやうや》しく頭を下げる。
「わたしのために、わざわざ買ってきて下さるなんて嬉しいわ」
「誰にあげるのかって、クラブの女性に冷やかされたよ」
「じゃあ、銀座で買ったんですか」
「帰ろうと思ったら、花屋があったから……」
たしかに銀座には何軒か花屋があって、深夜まで開いている。修子も一度見たことがあるが、店の開店祝いやホステスの誕生祝いに贈るようである。
「銀座のお花なら、高かったでしょう」
「今夜は、思いっきり金をつかってやった」
修子はソファに坐った遠野から、上着を受けとる。
「大阪の三光電器の話が今日、正式に決った。契約もとり交したからもう大丈夫だ」
以前から、遠野の会社では三光電器の創立五十周年を記念したイベントの仕事をとろうと努めていたが、それが決ったのでご機嫌らしい。豪華な花を買ってきたのもそのせいかもしれない。
「凄いわねえ」
修子とは直接関係ないが、遠野の会社が大きい仕事をとれたことはやはり嬉しい。
「修の、おかげだ」
「わたしは、なにもしてないわ」
「いや、俺が諦めそうになったとき、絶対、諦めては駄目だといってくれた」
たしかにそんなことをいった覚えがあるが、広告業界の競争の激しさも知らずに勝手なことをいっただけである。
「ビールはないか?」
「もう、ずいぶん飲んでるでしょう」
「とにかく、乾盃だけでもしたいんだ」
修子が冷蔵庫からビールを取り出してグラスに注ぐと、遠野が姿勢を正した。
「修子と、新しい仕事のために乾盃」
「あなたと、新しい仕事のためでしょう」
「いや、まず修子だ」
こんな機嫌のいい遠野を見るのは久しぶりである。やはり念願の仕事をとれたことが気持を明るくさせているようである。
ソファに並んで坐りながら乾盃を終えると、遠野が膝をぽんと叩いた。
「これで、うちの会社も少しは大きい顔ができる」
多くの業者が犇《ひし》めきあうなかで、そんな簡単に伸びられるとも思えないが、今度の仕事をとれるか否かが会社の浮沈をかけた問題であったようである。
「この一カ月、本当にご苦労さま」
「俺の苦労は、修子にしかわからない……」
この仕事にとりかかってから、遠野は少し痩せて顔に疲れが滲《にじ》んでいた。とくに誕生日のお祝いで箱根に行ったころが、一番難しいときであったようである。
「こんな苦労を、うちの奴はわからない」
遠野が突然、妻のことをいいだしたので修子は黙った。
「あいつは、俺の仕事にはまったく関心がない」
「それは、あなたが話さないからでしょう」
「いや、違う」
グラスを持ったまま、遠野の上体が揺れている。
「もう、ずっと前から、駄目だ」
まだ初夏のころ、遠野が部屋にくるといって、こられなかったときがあった。結局、最後にはきたが、そのとき遠野の家庭では息子のことをめぐってトラブルがあったようである。
「最近は、お互いにあまり話すこともない」
遠野がこんなに率直に、家庭や妻のことを話すのは珍しい。
「向こうは向こうで勝手にやっている」
「でも、それはあなたが勝手なことをするからでしょう」
「それはそうだが、俺だけ悪いわけでもない」
黙っていると遠野はさらに喋りそうなので修子は立上ったが、遠野はなおも続ける。
「俺達は夫婦といっても、別居しているようなものだ」
以前、遠野は、自分達は恋愛結婚だといったことがあるが、かつては愛し合って子供までつくった夫婦が、いまは他人のように口をきかないということが修子には理解できない。さらに不思議なのは、そんな二人が同じ家に住んでいるという事実である。
「わからないわ……」
「俺もわからない」
もし遠野のいうことが本当だとすれば、結婚ほど当てにならないものはない。どんなに愛し合って身近にいても、崩れるときは崩れてしまうものなのか。それを現実に見たり聞かされると、結婚に対してますます臆病になってしまう。
「くだらないことを、いってしまった」
遠野はビールを飲み干すと、思い出したように花を見た。
「友がみな、我れより偉く見ゆる日よ、花を買いきて妻と親しむ」
誰の歌なのか、きいたことがあるような気がしていると、遠野が説明する。
「啄木の歌だけど、いい歌だろう」
「でも、胡蝶蘭では少し豪華すぎるんじゃありませんか」
「たしかに、この歌の花はカトレアか、せいぜい薔薇《ばら》か菊くらいが似合うかもしれない」