饭饭TXT > 海外名作 > 《爱人(日文版)》作者:[日]渡边淳一【完结】 > 爱人.txt

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作者:日-渡边淳一 当前章节:15370 字 更新时间:2026-6-15 15:59

「それに、あなたはいま、お友達から偉く見られているのでしょう」

「そんなことはない……」

 遠野は挫折したわけでなく、逆にこれから大きな仕事をしようとしている。そんな男にこの歌は適《ふさわ》しくないが、男はときにこんな歌を口ずさみたくなるのかもしれない。

「それに……」

 修子は、わたしはあなたの妻ではないといいかけてやめた。それはたしかな事実だが、そこまでいっては、遠野を責めているようにとられかねない。

「今度の仕事が一段落したら、二人でゆっくり外国旅行にでも行こうか」

「二人だけで行けるのですか?」

「今度は、ヨーロッパに行ってみたいな」

 遠野とは二年前にハワイへ行っているが、ヨーロッパなら、久しぶりに修子が勤めている会社のロンドンの本社にも行けそうである。

「十月の半ばころはどうだ」

「早くからわかっていれば大丈夫よ」

「じゃあ、早速考えよう。新婚旅行は早いにこしたことはない」

「新婚旅行?」

 遠野はすぐ照れたようにつけ足した。

「そうなると、いいと思ってね」

「冗談はやめて下さい」

「怒ることはないだろう」

「………」

「さあ、寝よう」

 遠野は面倒と思ったのかワイシャツを脱ぎはじめたが、修子はいまの一言に拘泥《こだわ》っていた。

 ただの冗談なのか、あるいは遠野一流の優しさなのか、いずれにしても女を迷わせる言葉を簡単に口に出して欲しくない。

「そろそろ二時になるぞ、明日起きられないと大変だ」

 遠野は大きな欠伸《あくび》をすると、先に寝室に消えていく。

「修も、早く休め」

 寝室から呼んでいるが、修子はまだあと片付けがある。

 まず蘭の花をベランダの手前に移し、テーブルの上にあるグラスを流しに運び、ソファの上を整える。そのあとドアの鍵をたしかめてから明りを消し、寝室へ行くと遠野は枕元のスタンドを点《つ》けたままベッドに入っている。

「気持がいい、横になるのが一番だ」

 そのまま片手を伸ばして、修子のパジャマを脱がせようとする。

「だめよ……」

 修子は伸びてきた手を軽く払うとベッドから離れて髪からピンを抜く。

「暗くするわ」

「そのままでいい」

 かまわず明りを消し、ピンを鏡台において再びベッドへ近づく。

「早く、入ってくれ」

 遠野は今度は哀願するように、自分からブランケットを持ち上げる。

 それを闇のなかでたしかめながら、ベッドに下半身を忍ばせた途端、電話のベルが鳴った。

 修子はしばらく鳴り続ける電話を見てからそろそろと受話器をとる。

「もし、もし……」

 一度きいても返事がない。そのまま三度くり返したとき、かちゃりと音がして電話が切れた。

 仕方なく修子が受話器を戻すと、遠野がきいた。

「どうしたんだ」

「なにも、いわないけど、今晚、これで二度めよ」

「誰かの、悪戯《いたずら》だろう」

「誰かって?」

「このごろは、暇な人間が多いから……」

 いままでは修子もそう思っていたが、こう頻繁にくるとただの悪戯とは思えない。

「気持が悪いわ……」

 一瞬、修子は遠野の妻のことを思ったが、そこまで疑うのは行き過ぎかもしれない。

「今度きたら、黙っていればいい」

 うなずいて修子がベッドに入りかけるとまたベルが鳴った。

 修子は闇のなかで五回鳴るのを数えてから受話器をとった。

「もし、もし……」

 探るようにつぶやくと、今度は男の声が返ってきた。

「修子さんですね、僕、要介です」

 修子は慌てて受話器を耳におし当てて、横で寝ている遠野を振り返った。

「なんだか今夜は眠れなくて、……もしかして貴女が起きているかと思ってかけてみたのです」

 遠野には聞こえていないのか、仰向けに目を閉じたまま動かない。修子はさらに強く受話器を耳におしあてた。

「深夜に悪いと思ったけど、急に声を聞きたくなったのです」

「あのう……」

 修子はベッドの端に体を移動しながらきく。

「いま、初めてお電話をくれたのですか?」

「もちろん、いま初めてです。なにかありましたか?」

 どうやら、声のない電話と要介とは無関係のようである。

「こんな時間に、貴女の声を聞けるとは思いませんでした。なにをしていたんですか」

「別に……」

「じゃあ、もうベッドに入っていたんですか?」

「………」

「変な話だけど、どんな姿で休んでいるのか想像していたんです。パジャマかネグリジェか、色は白かピンクか……」

 大胆なことをいうところをみると、要介も少し酔っているのかもしれない。

「いま、一人ですか」

 修子が黙っていると、さらにきいてくる。

「側に、誰かいるのですか……」

「………」

「いるんですね」

「いいえ……」

「じゃあ、ぼくを愛しているといって下さい。愛していると……」

「………」

「いえないんですか」

 さらに声が大きくなったところで、修子は黙って受話器をおいた。

 要介とは、修子の誕生日のあとにもう一度会っている。例によって赤坂にあるテレビ局の近くのレストランで食事をしたあと、六本木のバーへ飲みに行ったのである。

 丁度、眞佐子の婚約の話をきいたあとだったので、修子の気持はいささか揺れていた。いつもなら多少飲んでも醒めているのが、その日にかぎって酔って、結婚とか男性についていろいろ喋ってしまった。

 といっても、直接、要介について話したわけでなく、遠野や別れた絵里の夫のことなどを念頭において、男性のいい加減さや浮気っぽさをなじっただけである。それに要介がうなずき、賛成してくれるので、つい調子にのって、最後には要介とカラオケバーへ行き肩を組んでデュエットまでしてしまった。

 修子としては酔いにまかせて歌っただけだが、要介はかなり親近感を抱いたようである。

 それ以来、会社だけでなく自宅にも電話をよこすようになった。

 修子は一人住まいだから電話をくれてもかまわないが、今夜のように深夜いきなりかけてこられるのは困る。しかも酔っているとはいえ、「愛している」と叫べというのは無茶すぎる。

 もともと要介には向こうみずなところがあるが、根は真面目な好青年である。実際そうだからこそ電話番号を教え、デートもしてきたのである。

 だが男はいろいろな顔を持っているらしく、素面《しらふ》のときは一途で誠実と思ったものが、酒の力をかりると我儘で強引な男にさま変りする。

 声のない電話に続く深夜の押しつけがましい要介の電話で、修子はいささか気が滅入った。

 すでに午前二時で、早く休まなければと思いながら、かえって目が覚めてくる。そのまま闇のなかで息を潜ませていると遠野がきいた。

「誰から?」

 やはり、遠野はいまの電話を気にしていたようである。

「一寸、お友達です……」

「もう、いいのか?」

「どうせ、酔っているんです」

 受話器を強く耳におし当てたから、要介の声がきこえたとは思えないが、受け答えの様子から、男からだと察したのかもしれない。

 だが遠野はそれ以上は尋ねず、軽く寝返りをうって背を向けた。

 これまで、遠野は嫉妬ということをあらわにしたことはなかった。修子が自分が勤めている会社の社長や男性社員の話をしても、黙ってきいているだけで、それにとくべつのコメントはくわえない。大学時代の男友達をまじえて軽井沢に行くといったときも、簡単に許してくれた。男性が一緒だからといって、修子の行動を制約するようなことはない。

 もちろんその裏には、浮気なぞしないという信頼と、自分を好きなはずだという自信があったからに違いない。

 修子はそんな遠野に憧れながら、ときに憎らしいと思うこともあった。たまにはこちらのもてるところも見せて、少し慌てさせてやりたい。

 だが、この一、二年で、遠野の態度は少し変ったようである。

 相変らず、修子の周辺の男に関心は示さないが、たまになに気なく尋ねることがある。会社の仲間と食事をして遅く帰ったときなぞ、「女の友達か……」ときいたり、外人に誘われた話などをすると聞き耳をたてる。表面は無関心を装っているようで、心の底では結構気にしているのかもしれない。

 その一つの例が今日の蘭の花である。銀座に花屋があったから買ってきたといいながら、その裏には、要介から贈られてきた花のことが頭にあったに違いない。

 嫉妬なぞしないように見せて、その実、細かく観察しているようである。ただ要介のようにストレートに出さず、やわらかくオブラートで包んでいるだけかもしれない。

 このあたりは年齢《とし》の功というべきか、あるいは中年の男の巧みさなのかもしれない。

 寝室の闇のなかでとりとめもなく考えていると、遠野がまた尋ねる。

「なにを、考えている?」

 静かになったと思ったが、遠野はまだ眠っていなかったようである。

「なにも……」

 遠野は軽く溜息をついたようだが、やがてゆっくりと向きをかえると両手を伸ばしてきた。

 それを避けるように身を退《ひ》くと、遠野はさらに近づきうしろから抱きしめられた。

「好きだぞ……」

 修子はその言葉を右の耳の真上できいた。耳朶《じだ》をすっぽりとおおわれて、まるで耳から熱湯が注ぎ込まれたようである。くすぐったさに修子が身をよじると、遠野はさらに強く抱きしめ、肩口からのしかかってくる。

 七十キロと四十五キロでは、到底、抗すべくもない。修子は遠野の胸の広さを全身で感じながら、辛うじて呼吸をする。

 その位置でしばらく抱きしめられ、とらえられた獲物が正気を失ってぐったりするのを待ちかまえたように、今度は胸元を開いてくる。

 酔っているのに、遠野が求めてくるのは珍しい。やはり今夜は気分が亢《たか》ぶっているのか、それとも先程の電話が刺戟になったのか。

 初めは勝手と思ったのに、抱かれているうちに修子も燃えてきて、いっそ身も心もずたずたに切り苛《さいな》まれたいとも思う。

 このあたりは遠野の計算どおりかもしれない。

 だが遠野が勢いがよかったのはそこまでで、そのあと結ばれはしたが、すぐ酔いと疲れに抗しかねるように力を失い、やがて腕だけで軽く抱いているだけになり、果てはその腕も解いて眠ってしまう。

 男の気の向くままに煽られたあと解放されて、修子は軽い不満を覚えたが、遠野の鼾《いびき》をきくと、それをなじる気力もなくなる。

「なんて身勝手な……」と思うが、しかしそんな遠野に、修子のほうも馴染んでいる。

 鼾とともに燃え残っていた修子の体も鎮まり、遠野の横に休んでいるということだけで気持が和んでくる。

 もうずいぶん長いあいだ、修子は遠野の鼾をきいているようである。それはときに大きくて荒々しく、工場の中にいるような錯覚にとらわれることもあるし、低くて忍びやかで、少女の寝息のようにきこえるときもある。

 だがいずれにしても、修子にとって遠野の鼾は苦痛ではない。心地よい子守歌というほどではないが、心を和ませるBGM的な要素はある。

 いったい、この鼾をききはじめて何年になるのか。

 次第に見えてきた闇のなかで、修子は五年という歳月を思い出す。

「早い」というのが実感だが、この間、自分の生き方についてあまり疑うことはなかった。

「もしかすると……」

 修子は心のなかでつぶやく。

「いま、この人の鼾が不思議でないように、一人で生きてきたことも不思議に思わなかったのかもしれない」

 つい少し前まで、修子はその考えに満足し、納得していた。

 見知らぬ人が遠野の鼾をきいたら、驚き呆れ、顔を顰《しか》めると同じように、三十三歳にもなって独身でいる女は、顰蹙《ひんしゆく》をかう存在なのかもしれない。

 だが、遠野の鼾が苦痛でないように、三十を越えて一人でいることも、修子にとってはさほど苦痛ではない。これまで一人できたことに違和感を覚えなかったのは、好きな男性の鼾に嫌悪を覚えなかったのと同じ程度のことなのかもしれない。

 多くの人々は独身でいることを女の生き方とか人生観と結びつけて考えるようだが、修子はそれでなにも問題がなかったから、続けてきたにすぎない。

 修子はそのことを眞佐子にいって、笑われたことがある。

「そんな勝手なことをいっても、世間では通用しないわよ」

 それをいわれたとき、眞佐子が急に大人びて見えた。恋の経験も少なく、堅いのだけが取り柄のように思っていた眞佐子が、意外にしっかりと社会というものをとらえている。その眞佐子に較べても、修子の世間への目は甘すぎるのかもしれない。

「彼氏の鼾が好きだから独身でいる、などといっても、誰も本気にしないわよ」

 修子が感じている独身の気楽さは、日中、大勢の人の前でいうとたちまち色|褪《あ》せ、オールドミスの勝手ないいぶんとしかきこえないようである。

 だがいま深夜のベッドで現実に遠野の鼾をきいていると、嘘ではなく、たしかに気持が和み、安心できる。とやかくいっても居心地がいいから独身でいるので、これは別に遠野のためでも結婚を避けているためでもない。

 夜、一人でいるときには修子は素直にそう思う。

 だがこの考えが通用するのは夜のあいだだけで、昼間、明るい光りの下に出るとたちまちリアリティを失い、独りよがりの考えと受けとられてしまう。

 口惜しいけれど昼間の社会では、女が三十を越えて独身でいることは異常ということになるようである。それは四十を越えて独身でいる男とか、妻子や夫があって浮気している男女とか、会社を休んでいるサラリーマンなどと同じように、社会の枠組みから外れた困り者として烙印をおされるのと同じである。

 たとえ本人がそれでかまわないといったところで、世間は認めてはくれない。

 眞佐子が慌てて婚約したのも、社内の若い女性が血眼になって彼氏を探しているのも、そうした社会の枠組みから外れたくないためかもしれない。

 そこまで考えて、修子は田舎にいる母の言葉を思い出す。

「早くお前もお嫁にいって、母さんを安心させておくれ」

 修子はその言葉にきき飽きて、今年の正月は一日早めて引揚げてきたし、今度のお盆も帰らないでおこうかと思っている。

 母には会いたいが、結婚しろといわれるのが嫌で帰らない。

 この母に、「彼氏の鼾と同じように、一人で生きていくことに馴染んだわ」などといったら、仰天するに違いない。

 とやかくいっても、母は昼の考えで生きている人で、修子の夜の思いまではわからない。いや、母だけでなく、修子のまわりにいる社員の大半も、そして要介も同じかもしれない。

「誰もわかってはくれない……」

 心の中でつぶやくうちに、修子は次第に孤独の殻に入っていく。

 いま、遠野の横にいて鼾をきいているあいだはいいが、朝がきて鼾がやみ、遠野が去っていくと、修子の理屈は通用しなくなる。

 このごろ目覚めるのが怖いと思うことがあるが、それはまた昼の世界に入っていくことへの怯《おび》えのかもしれない。

 修子はブランケットを顔の位置まで引上げて目を閉じた。

 明日の勤めがあるのだから休まなければと思いながら、妙に目が冴えて眠れない。

 だが遠野は相変らず、軽い鼾をたてて眠っている。大体、酔いが深くなるにつれて鼾も高くなるのが通例である。鼾に引かれるように修子は横向きになり、上体をまるめて遠野の胸元へ近づいていく。遠野の体には、煙草と汗が滲《にじ》んだような男の匂いがあるが、それを探るように顔を近づけていく。

 不思議なことに、鼾は離れてきくより身近できいたほうが苦にならない。肌と肌を接してきくと、それが彼の呼吸であり、生きている証しであることに気がつく。

 そのまま鼾のなかで目を閉じていると、また電話のベルが鳴った。

 修子は遠野の胸元からゆっくりと顔を離し、ベルの音を数えた。

 三回、四回と、ベッドのわきのテーブルの上で鳴り続ける。

 あの無言電話なのか、それとも要介なのか。遠野のほうを窺うが、起きる気配はない。

 八度目が鳴ったところで、修子はベッドから上体を起こして受話器をとった。

 おそるおそる耳に当てたが、無言である。

 そのまま、相手の反応を待ったが声はなく、二、三十秒経ったところで、受話器を置く音がして、電話が切れた。

 静まり返った部屋に、切れたあとの単調な音だけが響き、それをたしかめてから受話器を戻し、あたりを見廻した。闇に馴れた目には、窓の位置から箪笥の高さと鏡台の幅までわかるが、変った様子はどこにもない。遠野の鼾もいままでどおり続いている。

 そのことに安堵《あんど》してから、修子は小さく叫んだ。

「あっ……」

 無言の電話の主は、遠野の鼾をきかなかったろうか。受話器とはかなり離れていたので大丈夫とは思うが、きこえなかったという保証はない。

「もしかして……」

 修子はそこまで考えて、もう一度、電話を振り返る。もし遠野の妻がかけたとしたら、いまの鼾で、夫が側に寝ていることに気がつかなかったろうか。

「まさか……」

 修子は思わず身を竦《すく》めた。電話の主が遠野の妻だという証拠はないし、それ以上に、遠野の妻がここの電話番号を知っているわけはない。むろん修子は遠野の妻に会ったことも話したこともない。

 なにも知らぬ人が、深夜に何度もかけてくるわけはない。

 だが否定すると、すぐあとからべつの疑問もわいてくる。

 もし遠野の妻が本気で、修子の部屋を探そうとしたら簡単にわかってしまう。興信所にでも頼めば、住所はおろか電話番号までわかるはずである。

 突然、遠野の妻を身近に感じて修子は息苦しくなった。

 いままでは、遠野の妻は自分とは無縁の、生涯会うことも話すこともない人だと思っていた。たとえ遠野と深い関係になっても、それは自分と二人だけのときで、それ以外の彼とは無関係である。むろん彼を妻から奪おうなどと考えたこともない。二人でいるとき以外の遠野と距離をおくことで、修子は彼の妻とも無縁でいられると思いこんでいた。

 だが考えてみると、それも修子の夜の思いと同じように、独りよがりだったのかもしれない。

 修子がなんと弁解しようと、昼になれば遠野は妻子ある人であり、遠野の妻はまさしく彼の妻である。そして修子が争う気はなくても、遠野の妻が憎めば彼女の敵にされてしまう。

「いやだ……」

 闇の中で修子の目はさらに冴えてくるが、遠野は相変らず軽い鼾をたてながら心地よげに眠っている。

 眠れないとき、修子はリキュールを一杯飲む。小さな食後酒のグラスの底に注ぐだけだから、ほんの一口である。それでも飲むとすぐ体が熱くなり、そのまま気怠《けだる》くなって眠りに落ちる。

 その夜も最後はリキュールの力を借りて眠ったが、午前三時を過ぎていたので、翌朝目覚めたのは七時を過ぎていた。

 まわりを見ると遠野の姿はなく、リビングルームへのドアが開いたままになっている。

 慌てて起きて、髪を掻き上げながら部屋を覗くと、遠野はパジャマのままソファに坐って新聞を読んでいた。

「ご免なさい、寝坊して、なにも知らなかったわ」

「ようやく、お目覚めだな」

 遠野は新聞から目を離さずにつぶやく。

「だって昨夜は遅かったんですもん、一緒に起こしてくれるとよかったのに」

「もう少し待って、起きなかったら起こそうと思っていた」

 かなり酔って帰ってきても、遠野は朝はきちんと起きる。自分では年齢《とし》のせいだというが、酔いが残っていないところをみると、もともと芯が強いのかもしれない。

「大変、あと三十分しかないわ」

 修子がこんなに寝坊したのは珍しい。

「いますぐ準備をしますから、なにかお茶でも飲みますか?」

「いや、自分でやるからいい」

 遠野は自分で冷蔵庫から麦茶をとり出してグラスに注ぐ。修子はそれを見届けてから寝室へ戻り、鏡台に向かう。

 修子の朝の準備はさほど時間がかからない。顔はファンデーションを塗り、頭はセミレングスの髪を梳《と》かすだけですむ。余裕のあるときは髪を洗ってブロウするが、今日は初めからあきらめる。顔ができ上ったところで少し迷ってから、胸に刺繍《ししゆう》のあるブラウスに、シルバーグレイのスーツを着て、同色の輪型のイヤリングをつける。

「そろそろ、車を呼ぼうか?」

 リビングルームから、遠野がきく。

「君を送って、まっすぐ会社へ行く」

 修子の会社は赤坂だが、遠野の会社はその先の八重洲口なので通り途《みち》である。

「今日は楽だわ」

 車で行くとなると、満員電車でもまれなくてすむ。

 遠野は早速、電話で車を頼んでいる。自宅から出るときは会社の車らしいが、修子の部屋から出るときはタクシーを呼ぶ。

「十分くらいかかるらしいが、いいだろう」

「わたしはかまいませんが、このままじゃお腹が空くでしょう」

「大丈夫だ。どうせ覚悟をしていたから」

「そんな、意地悪はいわないで……」

 遠野が泊った朝、修子はトーストとハムエッグくらいの簡単な朝食をつくるが、今日は間に合いそうもない。

「いま、コーヒーを淹《い》れます」

「いや、いい」

 遠野が立上ってネクタイを結びはじめたとき、電話のベルが鳴った。

 修子がキッチンから戻って受話器をとると、また返事がない。

「なにもいわないわ……」

 修子が告げたが遠野は答えずネクタイを結び、背広を着る。修子は出しかけたコーヒー豆を戸棚におさめてベランダに立った。今日も曇り空だが、暑そうである。プランターに水をやり、洗濯物のないのをたしかめてから、カーテンを引く。

「行こうか……」

 遠野は小さな書類バッグだけ持ち、修子はハンドバッグとビニールのゴミ袋を一つ持っている。知らない人が見たら、少し年齢が離れているが、共稼ぎ夫婦の出勤と思うかもしれない。

 そのままエレベーターに乗り、二人だけになったところで、修子は思いきっていってみる。

「あの無言の電話、まさか奥さまではないでしょうね」

「奥さんて?」

「あなたのよ」

 遠野は信じられぬというように、大きく首を横に振った。

「まさか、どうしてうちのがかけてくるんだ」

「わからないけど、あなたのことが気になって……」

「しかし、ここの住所も電話番号も知らないだろう。大体、修と際《つ》き合っていることさえ知らないんだから」

「そんなこと、調べる気になればすぐわかるわ。興信所にでも頼めば簡単よ」

「まさか、うちのはそんなことはしない。第一、そんな才覚なんかありゃしない」

「勝手に、決めつけるもんじゃないわ」

「彼女は俺にはなんの関心ももっていない。どこに行って何時に帰ろうが知らん顔だ」

「そんな……」

 修子がいいかけたときエレベーターが一階についてドアが開いた。そのままマンションの裏手のゴミ捨て場の方に行きかけると遠野がいった。

「先に行って車で待っている」

 遠野はマンションの前の步道柵《ガードレール》をまたいで、待っていたタクシーに乗る。

 修子はビニール袋をゴミ捨て場におきながら、遠野の妻のことを口にしたのを後悔した。

 なにもいわなければ爽やかな気持で会社へ行けたのに、余計なことであったかもしれない。

 ゴミを捨てて朝の微風のなかに立っていると、遠野の乗ったタクシーが近づいてきた。

 修子が横に坐ると、遠野は美味しそうに煙草をふかす。その暢気《のんき》な態度を見ているうちに修子はまた少し意地悪をいいたくなる。

「でも本当に注意したほうがいいわ。奥さまがなにも気付かないなんて……」

「たしかに多少は気付いてはいるだろうが、それが修だとはかぎらないだろう」

「じゃあ、他にも誰かいるのですか」

「まさか、そんなことはいっていない」

 遠野は落着けというように、修子の膝を叩いた。

「俺が好きなのは、修一人に決ってるじゃないか」

 修子は前を窺ったが、運転手はハンドルを握ったまま二人の会話には興味なさそうである。

「とにかく、あなたは暢気すぎるわよ」

「そちらが心配しすぎるんだ」

「じゃあ、あなたが帰らないとき、奥さまはどこに行っていると思っているんですか」

「そりゃ、築地のマンションだろう」

 忙しいという口実で、遠野は会社の近くの築地にワンルームのマンションを借りている。修子も数回行ったことがあるが、シングルベッドが一つあるだけの殺風景な部屋だった。

「そこに、あなたがいないときはどうなるの」

「どこかに出かけていると思っているだろう。それに、電話なんかかけてこない」

「急用ってことがあるでしょう」

「そのときは、会社によこす」

 遠野は簡単にいうが、深夜、妻が築地のマンションに電話をかけたら、夫が不在なのはすぐわかるはずである。

「それで、よく奥さまは黙っているわね」

「………」

「なにも、仰言《おつしや》らないのですか」

 もう一度、修子がきくと、遠野は軽く溜息をついた。

「俺達は、もうそんなことで喧嘩をする時代は過ぎている」

「じゃあ、あなたがなにをなさっても、見逃して黙っているのですか?」

「俺が行方不明になったり死んだりしたら、多少慌てるかもしれない……」

 それほど冷えきった夫婦が、なお別れずにいることが修子には不思議である。

「でも、あなたは家に帰るわ」

「そりゃ、郵便物がきているし、着替えもしなければならない」

「それだけに帰るのですか?」

「それくらいだろう、休むときも自分の部屋で一人だし……」

「お子さんは?」

「もう大体、慣れているから……」

 ふと、修子は自分が検事にでもなって遠野を問い詰めているような気がした。彼の家庭のことなぞ、自分とは無縁なことだと決めていたのに、これでは自分から介入しているようなものである。

 修子は自ら慎むように窓を見た。

 車は山手通りを過ぎて渋谷に近づいている。このあと六本木を通って溜池の手前を左に曲ると修子の会社がある。同じ道路の上を走る高速道路は混んでいるようだが、下は比較的|空《す》いていて車が流れている。

「結構、早く着きそうだ」

 遠野にいわれて時計を見ると、八時二十分である。このあと赤坂までは二十分くらいで行けそうである。

「充分、間に合うわ」

「しかし、コーヒーを飲む時間はないだろう」

「これからですか」

 一度、赤坂のホテルで朝食をとってから会社へ向かったことがあるが、それほどの余裕はなさそうである。

「やはり、お腹が空いたのでしょう」

「そんなことはないが、もう少し一緒にいたい……」

 遠野の手が伸びてきて、修子の手を握る。修子もこのまま別れるのは心残りだが、遅刻するわけにいかない。

「あなたは、時間があるのですか?」

「今日の会議は十時半からだ……」

「じゃあ、どこかでお食事をなさったら」

「いや、築地のマンションに行ってみる。ネクタイも取り替えたいし、服も替えたいから」

 遠野は白い麻のスーツを着ているが、修子の部屋に一着、グレイのジャケットがおいたままになっている。

「今度、修のマンションのほうに、少し持ってきてもいいかな?」

 遠野は築地のマンションにも、多少の着替えをおいてある。

「でも、せっかくお部屋があるのですから、そちらにおいたほうがいいでしょう」

「向こうの部屋は殺風景だし、整理をするのも大変だ」

 ワンルームの狭い部屋だが、遠野一人では滅多に掃除をすることもないようである。

「奥さまに、整理してもらったらいかがですか?」

「あそこは俺一人の城だから、やたらに出入りされては迷惑だ」

「わたしも、出入りしないほうがいいでしょう」

「どういう意味だ?」

「向こうは向こうで、どなたか専属の方がいらっしゃるんじゃありませんか」

「妬《や》いているのか?」

「どうして、わたしが妬くの。築地のほうはわたしと関係ないわ」

「そんなことをいわず、たまに来てみたらどうだ」

「あなたのお城には、なるたけ近づかないことにしてるの」

「冷たい奴だ」

「冷たいんじゃないわ」

「じゃあ、なんだ……」

「それは、奥さまの役目よ」

「彼女は絶対こない、大丈夫だ」

 車が急停車したので前方を見ると信号が赤に変り、横断步道をサラリーマンの群れが行き交う。それを見て、修子は改めて出社前であることに気がつく。

「こんな話をしていると、会社に行っても落着かないわ」

「今日は、忙しいのか?」

「十時に、香港から大切なお客さまが見えます」

「会社では、名秘書らしいからな」

「仕事は仕事よ」

「これから会社に行ったら、べらべらと英語を喋って澄ましているのだろう」

 修子は肘で遠野を突き返して、姿勢を正した。

「あなただって会社へ行ったら、社長さまでしょう」

「俺が困った社長であることは、みんな知っている」

「三光電器の仕事を、とったじゃありませんか」

「仕事のことでなく、私生活でね」

「社員がそんなことまで、知っているのですか」

「こちらがいったわけではないが、なんとなくわかるらしい。修のことも感じているかもしれない」

「知られているなんて、いやだわ」

「なんとなく、大切な人だと思っているだけさ」

 車は六本木の交叉点にさしかかっている。夜、会社が終ったあとはネオンで輝いているが、朝の六本木はどこか色|褪《あ》せている。

 その交叉点を抜け、車が下り坂にさしかかったところで遠野が顔を近づけてきた。

「最近、いろいろと考えているんだ……」

「………」

「修と、一緒に棲《す》みたい」

 突然、耳元で囁かれて振り返ると、遠野が素知らぬ顔で前方を見ている。

 車が坂を下りきって前方に信号が見える。その一つ先を左に曲ったところが修子の会社である。その曲り角まできたところで、遠野が強く修子の手を握った。

「もう少し、待っていてくれ」

 修子が黙っていると、車が左に曲って正面に修子の会社のビルが見えてきた。

「そこでいい」

 遠野が運転手にいって車が停る。そのまま修子は目だけでうなずいて車を降りた。

 燈  火

 六時半に修子が会社を出ると、街はすでに夜になりネオンが輝きはじめている。

 つい少し前、仕事を終えて机の上を整理していたときは西の方の空が茜色《あかねいろ》に染まっていた。それが帰り支度を整えて外に出てみると、夕暮れの名残りはすでにない。

 修子は一瞬、「釣瓶《つるべ》落し」という言葉を思い出した。

 気づかぬうちに盛夏が終り、季節は秋に移っているようである。

「釣瓶落しの秋の陽……」

 つぶやいてから、修子はその言葉が若い女性に通じなかったことを思い出した。

 去年のもう少し遅いころだったが、若い女性社員と步きながらそれをいうと、彼女は怪訝《けげん》な顔できき返した。

「それ、どういう意味ですか」

 彼女はその言葉の意味はもちろん、「釣瓶」自体も知らなかった。

 仕方なく、修子は釣瓶の意味から説明した。

 あれはまだ小学生になる前だから三十年近く前である。祖母の家の近くに井戸があって、そこに太い紐《ひも》が下り、先端に小さな桶《おけ》がぶら下っていた。井戸から水を汲みあげるとき、その桶に水を満たして引上げる。釣瓶落しは、その桶が井戸の底に一気に落ちていくさまをいう。

 秋の夕陽は、そのくらい沈むのが早いという意味である。

 大学受験を目指したころ、修子は俳句か短歌で、この言葉に出遇ったような気がする。

 そのとき、修子は幼いときに見た井戸と釣瓶を思い出した。いまはすでに祖母は亡いし、井戸も埋めたてられたに違いない。

 だが、子供のときに上から覗いた井戸の怖さは、いまも脳裏に焼きついている。深い井戸の底に釣瓶が落ちていくように、秋の陽も見果てぬ暗黒の夜のなかに消えていく。昔の人はこの二つに、共通した怖れと侘《わび》しさを覚えたのかもしれない。

 いま外へ出た途端、「釣瓶落し……」という言葉を思い出したことに、修子は満足しながら、少し侘しさも覚えた。

 若い人々のあいだでは、死語になっている言葉を知っているということは、自分もそれなりの年齢に達したということかもしれない。

 自分ではまだ若いつもりでいても、すでに若い人と通じなくなっている部分がいくつかある。言葉の上でさえこうだから、感覚の上ではさらに開きがあるかもしれない。

 だが次の瞬間、そんな言葉を知っている自分を大切にしたいとも思う。

 古いといわれても「釣瓶落し」はやはり日本の自然のなかから生れた、味わいのある言葉である。それを知っているからといって恥じることはない。

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