饭饭TXT > 海外名作 > 《爱人(日文版)》作者:[日]渡边淳一【完结】 > 爱人.txt

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作者:日-渡边淳一 当前章节:15372 字 更新时间:2026-6-15 15:59

「いままでどおり、彼と結婚しないで恋人同士でいたら」

「恋人同士?」

「結婚しようとするから、難しくなるのよ」

「あなたって……」

 絵里は絶句したようにしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。

「なるほどね」

「そうでしょう」

「簡単なことね」

「そうよ、簡単よ」

 急にすすり泣きがとまり、考えこんでいるのか受話器の声が途絶える。

「ねえ、わかった?」

「でもそれじゃ、わたし達、永遠に他人よ」

「結婚して憎み合うより、恋人同士で愛し合ってるほうがいいでしょう。あなたが教えてくれた、メトレスよ」

 フランス語で愛人のことをメトレスというのだと、教えてくれたのは絵里である。

「あなたは立派に自立しているのだから、そういうことになるでしょう」

「もちろん、わたしは自立してるけど、向こうはただのアマンよ」

「男の愛人のこと?」

「そう、むしろわたしのほうが面倒を見てるわけだから……」

 そうとは思っていたが、堂々といいきるところが絵里らしい。

「あなたが羨ましいわ」

「それよりもっと気楽に考えたら」

「気楽にねえ……」

 絵里がうなずくのをききながら、他人のことだから冷静になれるのだと、修子は自分にいいきかす。

 夜  長

 遠野のマンションは築地の本願寺の先の閑静な一角にある。ワンルームばかりの五階建てでさほど大きくないが、会社のある八重洲口に近くて便利である。

 遠野がこの部屋に衣類や日用品などを大量に運びこんだのは、九月半ばの連休の一日であった。もちろんそれまでも遠野はここで何度か寝泊りしていたのだから、数本のネクタイや替え上着くらいはおいてある。

 だが泊るといっても、仕事で遅くなったときだけで、翌朝、早く出ていくので日用品はほとんどない。せいぜい洗面道具とインスタントコーヒー、それにグラスが数個、おいてあるくらいである。しかもこの部屋に泊るというのは家への口実で、実際は修子のマンションに泊ることが多いから、仕事のための部屋といっても空室に近い。

 修子も数回、訪れたことがあるが、いかにも泊るだけといった感じの殺風景な部屋だった。

 だが、今回は本格的な引越しである。

 遠野が運びこんだのは、十数着のスーツにワイシャツ、替えズボン、セーター、カーディガンなどから靴、さらにはゴルフウエアなど相当の量である。くわえて新しいソファ、テレビ、コーヒーセット、小皿から鍋まであって、簡単な料理くらいはつくれそうである。これらのなかには新品もあるが、衣類や食器は久が原の家から持ってきたものである。

 引越しの手伝いをしながら、修子は遠野の妻のことを考えた。

 一体、彼女は、夫がこれだけのものを持ち出して、不思議に思っていないのだろうか。

 もちろんそのことにも、遠野は口実を用意しているに違いない。

 この秋から、三光電器のイベントが本格的にはじまる。それには東京在勤の全社員をフルにつかっても足りないほどの大仕事である。その陣頭指揮のために、いちいち家まで帰っている余裕はない。一見、その理由はもっともなようで、かなり怪しいところがある。

 まずなによりも、遠野の家は大田区の久が原で、都心部から遠いといっても千葉や埼玉とはわけが違う。車をつかえば、深夜でも帰れない距離ではない。さらにこの秋から本格的に忙しくなるといっても、社長の遠野がいつも会社にいなければならないわけではない。実行の段階でさまざまな問題が生じても、居場所さえわかっていればなんとかなる。

 それを衣類から日用品まで持ち込んで、会社の近くに寝泊りするのは、いささかやり過ぎの感がなくもない。遠野の妻は、そのあたりのことをどう思っているのだろうか。

 そのことを修子は遠野にきいてみようと思って、ききかねた。

 もともと、遠野の家のことについては一切関知しないというのが、修子の方針であった。自分と逢っているときの彼だけを大切にして、それ以外のことについては考えない。修子はそう自分にいいきかせ、いままでそれを守ってきた。今回の部屋の整理にしても、遠野が手伝って欲しいというから手伝っているだけのことである。

 だが、こう荷物が多くては不安になる。それに運送会社の男性が、修子を遠野の妻と勘違いして、「奥さん」と呼ぶ。たしかに修子はベージュのパンツに縦縞のシャツを着て、白い前掛けをしているので、妻に見えるかもしれない。遠野は紺のズボンに白い長袖のシャツをまくり上げて指図している。

 一応、荷物が全部マンションに運びこまれたところで、修子は思いきってきいてみた。

「こんなに運んできて、お家のほうはどうなるのですか?」

「どうなるって……」

 遠野が額の汗をタオルで拭きとる。

「お家に、なにもなくなってしまうでしょう」

「もう、戻らないからいいのさ」

 修子が呆気《あつけ》にとられて見上げると、遠野は暢気《のんき》に笑っている。

「そんなことして、いいんですか」

「いいも悪いも、仕方がないだろう」

 なにが仕方がないのか、修子には一向にわかりかねる。

「これからずっと、ここに住むんですか」

「一応はそういうことになるが、これから修のところに行く回数が増えるかもしれない。迷惑か?」

「急にそんなことをいわれても……」

「邪魔をしないから、心配しなくていい。でもこれからは家にはほとんど帰らない」

 たしかにこれだけのものを持ってきたら、当座は帰らなくてすむかもしれないが、遠野の妻や子供達は今回の引越しをどう思っているのか。

「それ、本気ですか」

「前から、うまくいってないといってただろう」

「じゃあ、別居するということですか」

「まあ、そんなものだ」

 遠野はうなずくと、冷蔵庫に入ったビールを旨そうに飲む。

 家具と衣類をおさめ、部屋を掃除し終ると三時だった。昼過ぎからはじめたのだから、ほぼ二時間かかったことになる。

 ワンルームだが新しい家具をいれ、衣類を収納すると、狭いが落着いて、結構、部屋らしくなる。少なくともいままでの殺風景な雰囲気は消え、人が住んでいるあたたかさが甦る。

「ありがとう、これで大丈夫だ」

 遠野はまくり上げていたシャツの袖を戻し、煙草に火をつける。

「新しいので、コーヒーを淹《い》れてみましょうか」

 コーヒーもいままではインスタントしか飲めなかったが、今度からはドリップ式ので簡単につくれる。ワンルームで、ベッドの他には小さなソファが一つあるだけなので、そこに二人並んで坐ってコーヒーを飲む。

「それにしても、狭いな」

 冷蔵庫は流し台の下におさめ、バスとトイレは一緒で、結構、機能的につくられているが、見廻すとやはり狭い。部屋の半ば近くがベッドで占拠されているので、他は簡単な戸棚つきの机とソファがあるだけである。

「ここにずっといると、息が詰まるわね」

「やっぱり、酔って帰って寝るだけだ」

「お宅は広かったのでしょう」

 修子は遠野の家を見たことはないが一軒家であることはたしかである。そこを捨てて、どうしてこんな狭いところへ移ってきたのか。遠野にいわせると自由のため、ということになるのかもしれない。

「そうだ、包丁を買うのを忘れた」

 遠野が流しのほうを見ながらいう。

「ティッシュも洗剤もないでしょう」

「もっと大きい、屑籠も必要だな」

 実際に住んでみると、さらに足りないものがでてきそうである。

「明日でも、買ってきておきましょうか」

「ついでにインスタントラーメンや味噌汁もあったほうがいい」

「洗濯物はどうするんですか」

「管理人に預けておくとクリーニング屋に渡してくれるが、下着は難しいな」

「わたしのところに持ってきて下さい」

「そう頼めると、ありがたい」

 手伝っているうちに、修子はますます遠野の私生活に深入りしそうである。

「お宅にくる郵便物などは、どうなさるのですか?」

「ときどき、取りにいかなければならん」

 別居同然の生活をしながら、郵便物だけをとりにくる夫に、妻はどんな態度をとるのか。修子には想像しかねるが、遠野はけろりとしている。

「ようやく、これですっきりした」

「狭くて、そのうち逃げ出したくなるんじゃありませんか」

「そういうときは、修の部屋に行く」

「でも、あそこも広くはないわ」

「大丈夫、いずれ大きい部屋を借りるから……」

「ここから移るんですか」

「修と二人で住めるところにね」

 一体、遠野はなにを考えているのか。正式な離婚もせずに、そんなことをいう遠野の神経がわからない。

「さあ、来週から忙しくなるぞ」

 いまいったことなぞ忘れたように、遠野は両手を広げて伸びをする。

「今度のは、全部で五、六億の仕事だからね」

 遠野の会社は三光電器の創立五十周年の記念イベントの仕事を手に入れたが、その企画コンペで、大手の代理店をしのいで勝ったことが余程嬉しいらしい。

「いま、人を増やしているんだが、修もいまの会社を辞めて、うちのほうにきたらどうだ」

「あなたの秘書になるのですか」

「君が側にいてくれれば、鬼に金棒だ」

「せっかくですが、遠慮します。わたしがいたら、あなたがかえってやりにくいでしょうから」

「そんなことはない。いまの会社よりずっと高い給料を出す」

「いまのところを馘《くび》になったら、お願いします」

 冗談めかしていうが、修子はこれ以上、遠野の内側に入りこむ気はない。

「ところで、これから一寸、会社に行ってきてもいいかな」

「どうぞ、私はもう少し部屋を片づけてから帰ります」

「仕事は二、三時間で終るから、七時ごろならあく。一緒に食事でもしようか」

「時間を約束すると落着かないでしょう。わたしは部屋に戻っていますから」

「仕事が終り次第、電話をする」

 遠野は簡単に顔を洗うと持ってきた衣類から、グレイのスーツを選び出してネクタイを締めた。

「じゃあ、行ってくる」

「わたしは流しのあたりを整理して、バスルームを洗って、一時間くらいで帰ります」

「済まんが頼む」

 遠野はそういってから、修子の額に軽く接吻をする。

「部屋の鍵は管理人さんに預けておけばいいんですね」

「いや、修が持って帰っていい」

「じゃあ、あとでお返しします」

「それは修の鍵だ、君のためにつくったのだ」

 修子は慌てて首を横に振る。

「わたしはいりません」

「スペアだから、持っていたほうがいい」

「本当にいらないんです」

「とにかく、持っていてくれ」

 遠野はそれだけいうと、片手を振って部屋をでていった。

 そろそろ夕方だが、あたりは不気味なほど静まりかえっている。一般の家庭では夕食の支度のはじまるころだが、ワンルームマンションには、生活の匂いがない。

 遠野のように夜だけ泊る人か、地方から上京したときにつかう人が多いのかもしれない。当然のことながら家族ぐるみの際《つ》き合いはなく、隣りにいる人のこともわからない。その点では気軽かもしれないが、お互い見ず知らずの人が住んでいると思うと不安である。

 修子はドアの鍵を閉めてから、キッチンのまわりを濡れタオルで拭いた。長いあいだ掃除をしていなかったので、ステンレス台は染みで汚れ、一部は錆《さび》ついている。

 指先に力をいれて磨きあげてから、戸棚を拭き小皿とコーヒーカップを並べる。小皿はまわりに青い縞模様が走り、コーヒーカップは臙脂《えんじ》の細かい花柄である。いずれもダンボール箱におし込まれていたところをみると、遠野の家から持ってきたものに違いない。

 修子はコーヒーカップを手にとりながら、遠野の家庭を想像した。

 遠野の妻は、こういう花柄が趣味なのだろうか。

 修子はカップを持って窓からの陽にかざしてみた。白い硬質の地に小さな花がカップを取り巻くように並んでいる。薔薇の花でもあしらったのか、よく見るとあいだを蔦《つた》のようなものが走って、上下に揺れているように見える。

 遠野には少し似合わないが、彼の妻は、こんな明るい柄が好きなのかもしれない。

 それを三つほど戸棚に並べ終えたとき、入口のチャイムが鳴った。

 誰なのか、遠野なら鍵を持っているから、自分で開けて入ってくるはずである。

 管理人か、それとも先程の運送屋かもしれない。

 修子は手を拭いてから戸口に行き、ドアを引いた。

 かすかに軋《きし》む音がして、半ばほどドアが開くと、前に四十半ばの婦人が立っていた。

 一瞬、修子はどこかで会ったことがあるような気がしたが、それはワンピースの柄が、いま見たコーヒーカップの花柄と似ていたからかもしれない。

 婦人はやや小肥りで修子より少し背が高い。色白のおっとりとした顔立ちだが、目だけは険しい。

「あなたは、どなたで……」

 いきなりきかれて、修子はいい淀んだ。

「ここは、遠野さんのお部屋ですが……」

「わかっています。遠野はいないのでしょうか」

 その一言で、前に立っている婦人が遠野の妻とわかった。

「出かけてるのですね?」

 修子がうなずくと、夫人はなかへ一步入ってきた。

「あなたが、片桐修子さんですか」

「………」

「そうですね」

 遠野の妻が自分の目の前に立っているということが修子にはまだ信じられない。もしかして、これは誰かが仕組んだ冗談かとも思う。

 だが現実に向かい合っているのは、まぎれもなく遠野の妻と名のる女性である。

 修子は眩暈《めまい》にとらわれそうな不安に駆られて拳を強く握ったが、それでも膝のあたりが小刻みに震えてくる。

 修子に較べて、遠野の妻は落着いているようである。まるでここに、修子がいるのを予測でもしていたように冷ややかな表情で質《たず》ねる。

「ここで、なにをなさっているのですか?」

 部屋のなかにはまだダンボールの箱などがあり、修子が前掛けをしているところを見れば、引越しのあとの片付けをしていることは明白である。それをいま初めて知ったようにきく。

「あなたは、いつもここにいらっしゃるのですか?」

「いえ……」

「でも、いるのですね」

「違います」

 修子はゆっくり首を横に振ってから、つけ足した。

「遠野さんが……」

「主人が、どうかしましたか?」

 遠野に呼ばれたから来たのだ、というつもりであったが、「主人……」という言葉を聞いて、修子は弁解する気力を失った。どういうわけか、遠野の妻の「主人」という言葉のいい方には、あらゆる弁明を抹殺するほどの強さがある。

「主人はどこに行っているのでしょうか」

「いま一寸、会社のほうに……」

「じゃあ、じき戻ってくるのですね」

「それは……」

「戻ってこないんですか」

 瞬間、夫人の胸元の金のネックレスが鋭く光る。

「あなたはここで留守番をしてるのですか?」

「いえ……いま帰るところでした」

 夫人は戸口から奥のほうを窺うと、靴を脱ぎはじめる。修子が慌ててスリッパを出そうとしたが、夫人はかまわずなかへ入っていく。

「あなたが、きれいに片付けてくださったのですね」

 たしかに片付けたが、それは好んでやったのではなく、遠野に頼まれたからである。それをいいたかったが、夫人の態度には有無をいわさぬ強さがあった。

「あなたのような方がいたら、主人も安心するでしょう」

「わたしは、今日だけ……」

「他の日は、主人とは会っていないのですか?」

「………」

「あなたという人がいることは、わかっていました」

 夫人は改めて、修子のほうに向き直った。

「でも、あなたはご自分のやっていることがどういうことか、ご存じでしょうね」

 初め、ふくよかに見えた夫人の顔が、ベランダからの西陽を浴びて半分だけ輝いている。

「泥棒猫のように、他人のものを奪って……」

「そんな……」

 突然、夫人はそういうと、手に持っていた紙袋をベッドの上に放り投げた。

「それ、主人が忘れていった下着です」

「………」

「ご存じでしょうが、あの人は放っておくと何日も着替えない人ですから」

 夫人はそれだけいうとくるりと背を向け、そのまま足早に修子の脇を抜けて靴をはく。

 ばたんとドアが閉まる音をきいてから、修子ははじめて目覚めたようにあたりを振り返った。

 ワンルームの部屋は、夫人が現れる前と同様静まりかえり、キッチンの戸棚には花柄のコーヒーカップが三個、並んだままになっている。

 修子は戸口のほうを窺い、夫人の姿がないのをたしかめてからドアの鍵をかけ、一つ大きく息をつくとソファに沈みこんだ。

 もう三十分ほど、修子は両手で頭を抱えこんだまま、ソファに坐っている。

 突然、遠野の妻が現れてからの数分は、まさに悪夢であった。

 修子には思いがけず、しかも不可解なことばかりであった。なによりも不思議だったのは、彼女が修子の名前を知っていたことである。

 日頃の夫の行動から、外に好きな女性がいることは察したにしても、名前までどうしてわかったのか。

 これまで、修子は遠野の家に電話をしたことはもちろん、手紙を出したこともない。彼の家や妻とは無縁の存在だと思いこんでいた。それでも知ったとすると、密かに興信所にでも頼んだのか、あるいは一人で調べたのか。いずれにしても、名前までわかっているのなら、住所も知っているかもしれない。

 そして電話も。そこまで考えて修子は小さく叫んだ。

 この数カ月、しきりにくるようになった無言電話は、やはり遠野の妻からであったのか。

 思わず、修子は両手で髪をかきあげた。

 名前から電話番号まで知られていたとすると、自分達の行動はすべて見透《みす》かされていたことになる。そのことに不安を覚えて遠野に尋ねたこともあるが、遠野は初めから相手にしていなかった。妻との仲はとうに冷えていて、彼女は自分達のことには関心がないのだといい続けてきた。

 だがその見方は甘かったようである。あるいは楽観しすぎたというべきか。

 考えてみると、遠野の甘さは他にもある。たとえば、このマンションに妻は絶対に現れないと何度もいっていた。実際、修子はそれを信じて手伝いにきたのである。もし妻が現れるなら、いくら頼まれてもくることはなかった。

 もちろん今回は、引越しの忘れ物を持ってくるという用事があったのかもしれない。部屋の様子からみても、遠野の妻がいつも来ていたとは思えない。

 だがその用事にかこつけて、様子を見に来たのか、そして修子に会うことまで、予測していたのかもしれない。

 それは会った瞬間の、夫人の意外に落着いた態度からも察することができる。たとえ妻だとしても、いきなり夫の愛人に会ったら、もう少しうろたえ、戸惑うものではないか。

 しかし夫人はたじろぎもせず、まっすぐ修子を見据えた。「あなたはどなたで……」とたしかめ、「遠野はいないのでしょうか」と、落着いた口調で質ねた。

 それからの夫人の一言一言は、的確に修子に命中し、傷つけた。

 しかも最後の、「泥棒猫のように……」という一撃は、見事に修子の心臓を射貫《いぬ》いた。

 いままで修子は、遠野を彼の妻から奪っているとは思っていなかった。遠野と親しい関係にあっても、それは自分と逢っているときだけで、それ以外のときは、自分には無縁の人だと思っていた。だがそんな理屈は、修子一人の勝手な思いこみで、肝腎の遠野の妻には通じなかったようである。

 修子がなんといおうと、遠野の妻にとって、修子は敵であり、憎い女である。

 実際、その思いは、彼女の言葉の端々にあふれていた。

 たとえば部屋を見廻して、「あなたがきれいに片付けてくださったのですね」とつぶやき、「あなたのような方がいたら、主人も安心するでしょう」という言葉も、すべて痛烈な皮肉であった。

 そして最後に、遠野が下着を着替えないことを、「あなたもご存じでしょうが……」と、決めつけてきた。たしかに遠野には、身の廻りに無頓着な子供じみたところがあり、修子もそれは充分知っていた。

 だが夫人から直接、下着のことについていわれると、なにか二人の裏側まで見透かされたようなあと味の悪さが残る。夫人のいい方には、お前達のことはみんな知っている、といわんばかりの確信があふれていた。

 夫人の絶え間ない言葉の攻撃に対して、修子はほとんど無抵抗であった。ただ敵の蹂躙《じゆうりん》にまかせるまま目を伏せていた。

 この違いは、あらかじめ会うのを予測していた側と、不意打ちをくらった側の差であり、さらには正式に世間に認められている者と、認められていない者との差なのかもしれない。

「いやだ……」

 修子はつぶやくと、再び髪をかきあげた。

 こちらがいかに平和|裡《り》にと願っても、向こうが攻撃をしかけてくる以上、戦わざるをえない。穏やかに、というのは勝手な願いで、相手がそれを認めてくれなければ無意味である。

 考えこむうちに、自然に涙が滲《にじ》んできた。

 いまごろになって、悲しさがあふれてきたようである。

 遠野の妻と会っているときは呆気《あつけ》にとられて、戦う気力もなかったが、いまようやく悲しむ余裕ができたのかもしれない。

 一度出だすと涙はとめどもなくあふれ、指のあいだを伝って頬へ流れていく。涙で頬を濡らしながら、修子はいま自分がなにを悲しんでいるのか、わからなかった。

 遠野の妻に会ったことが悲しいのか、彼女にさまざまな言葉の矢を射たれたことが口惜しかったのか、遠野の部屋に一人残されたことが残念だったのか。

 そのすべてが悲しみの原因であるようで、そうでないような気もする。

 ただ一つだけはっきりしていることは、修子の考えていたことが、相手にまったく通じていなかったことである。遠野の妻に、修子はほとんど悪意を抱いていなかったが、向こうは明確に敵意を抱いていた。無理とは知りつつ、その肝腎のところを理解してもらえなかったことが淋しい。

 どれくらい泣き続けたのか、顔をあげると、ベランダからの陽はさらに傾き、その陽脚の先がベッドの上の白い紙袋にまで達している。

 修子はそれを見て、ついいましがた、遠野の妻がここに現れ、その紙袋を置いていったことを改めて思い出した。

 どういうわけか、まだ三十分も経っていないのに、それは遠い過去の出来事のように思われる。

 修子はゆっくり立上り、鏡に向かって顔をなおした。それからベランダのカーテンを閉めると、ベッドの上の白い紙包みをそのままクローゼットに納めた。

 まだキッチンのステンレス台を磨いたり、バスとトイレのタイルを洗おうと思っていたが、すでにやる気力は失っていた。

 修子は再び部屋を見廻し、カーテンから洩れる夕暮れの明りのなかで静まりかえっているのをたしかめてから、部屋を出た。

 築地の遠野のマンションから、世田谷の自分の部屋まで、修子は駆けてきた。

 といっても、電車のなかや步道で駆け足をしたわけではない。体は電車のシートにとどまっていても、気持は一目散に駆けているつもりであった。

 部屋に着いたとき、初秋の空は茜《あかね》色に染まった西の一帯を残して暮れていた。

 修子はすぐ窓を開け、新しい夜の空気を入れてから浴槽に湯を満たした。

 いつもは十時か十一時を過ぎてから風呂に入るのに、今日だけは早く湯につかりたい。湯が満ちたところで体を沈め、さらに手足を洗い、髪をシャンプーするうちに、全身から、今日一日の思いが流されていく。

 ほぼ一時間かけて体を清め、髪にドライヤーをかけていると電話が鳴った。

 修子はドライヤーのスイッチを止め、鏡に映った自分の顔をたしかめてから受話器をとった。

「いま、戻ったのか?」

「もしもし」といわず、いきなり話しかけてくるのが遠野の癖だった。

「向こうは、何時に出たの?」

「五時過ぎです」

「あのあと、片付けてくれた?」

 公衆電話からかけているらしく、遠野の声のうしろに車のざわめきがきこえる。

「いろいろとありがとう、これですっきりした」

 自分が去ったあとのことを、遠野はなにも知らないようである。

「どうしたの?」

「………」

「どうかしたの、おかしいな……」

 つぶやいてから、遠野がもう一度きき返した。

「電話、きこえる?」

「はい……」

「少し遅れたけど、これから食事にでも行かないか。まだ食べてないんだろう」

「………」

「よかったら、渋谷まで出てこないか」

「あまり、食べたくないんです」

「さっき一緒に食事をしようと、いったろう。先に食べたのか」

 車の音と遠野の声が入り乱れる。

「おかしいな、体でも悪いのか、なにかあったの?」

 修子は気持を整えるように、一つ息をついてからいった。

「奥さまが見えました」

「奥さま……」

「あなたの」

 また車の音が続いてから、遠野がきき返した。

「どこへ?」

「向こうのお部屋に」

 そのまましばらく沈黙があってから、遠野がつぶやいた。

「どうして……」

 それは遠野より、修子がききたいことである。

「忘れた下着をお持ちになって」

「それで……」

「受け取りました」

 遠野はようやく事態を呑みこんだようである。しばらく間があってから、きっぱりした口調でいった。

「いますぐそちらへ行く。そこにいてくれ」

「こないで下さい」

「なにをいうんだ、いま会社の前だけど、車を飛ばせば三十分で行ける。必ずいるんだぞ」

「いいえ……」

「とにかくいなさい、すぐ行く」

「来ても、逢いません」

 鋭い車の警笛がきこえたところで、修子は自分から受話器をおいた。

 遠野が部屋に来たとき、修子はソファに坐ってテレビを見ていた。

 画面では、最近若者のあいだで人気がある女性歌手が歌っていたが、目だけはそれを追って、頭のなかはべつのことを考えていた。

 彼がくる前に部屋から出ていこうか。そう思いながら決めかねているうちに、入口のチャイムが鳴った。

 修子は一旦、戸口のほうを見てから、また画面に目を戻した。

 いま遠野を入れては、これまで一人で思い悩んでいたことが無駄になる。このままもう少しじっくり考えてみるべきである。ここで邪魔されたくないと思いながら、一方では、いっそ遠野に、今日の一部始終をぶちまけたいという気持もある。前者は自分との戦いであり、後者には遠野への甘えが潜んでいるようである。

 どちらを採《と》るべきか、迷ううちにさらにチャイムが鳴り、どんどんと激しくドアを叩きだす。

 修子は立上り、跫音《あしおと》を潜めるようにドアに近付いて覗き穴から見ると、遠野がすぐ目の前に立って、「開けろ」と叫んでいる。

 このままでは、まわりの部屋の人々にも迷惑をかけそうである。

 仕方なく修子が鍵を外してドアを開けると、途端に遠野が前のめりになって飛びこんできた。

「なぜ、開けないんだ」

 余程急いできたのか、息を弾ませて修子を睨む。

 ドアを開けるのを躊躇《ちゆうちよ》した理由はいろいろあるが、それはいまいったところで無駄である。

 遠野は部屋に入るとソファに坐り、一つ大きな息をついた。

「灰皿は?」

 修子が食卓テーブルから取って差し出すと、遠野は気持を静めるように煙草を喫う。

「晚飯はまだだろう」

「………」

「食べに行こう」

「食べたくありません」

「食べに行く約束だったろう」

 遠野はいきなり煙草を揉《も》み消すと、立上った。

「そのままでいいから、出かけよう」

 修子が答えずベランダを見ていると、遠野が近づいてきた。

「本当に、会ったのか?」

「………」

「うちのが、きたのか?」

 修子がゆっくりうなずくと、遠野は戸惑ったように額に手を当てた。

 すでに外は完全に暮れ、見下す家々に明りが灯されている。

「まさか、来るとは思わなかった」

「………」

「それで、なにか話したのか」

 正直なところ、修子はもう、遠野の妻のことは思い出したくない。

「いってくれ」

「わたしの名前を、知っていました」

「修の名前を?」

 修子がうなずくと、遠野がきき返した。

「どうして?」

 そんなことまで、修子が知るわけはない。

「それだけか?」

「他にも……」

「どんなこと?」

 せっかく忘れようとしているのに、細々とききだそうとする神経が、修子にはわからない。

「きちんと話してくれなければ、わからない」

「わからなくて、結構です」

 修子の強い口調に、遠野は怯《ひる》んだようだが、やがて思い直したようにいった。

「気にしなくていい、彼女は少しおかしいんだ」

「おかしくなんか、ありません」

 好き嫌いは別として、遠野の妻のいっていることは当然でもあった。

「ゆっくり話せば、わかることだ」

「そうでしょうか」

「まあ、落着きなさい」

 落着きがないのは、むしろ遠野のほうである。再び煙草に火をつけ、数回小刻みに喫ってから修子の肩に手を当てた。

「とにかく、食事に行こう。久しぶりに“テラス”に行ってみようか」

 多摩川のほとりに、川を見下せる小綺麗なフランス料理の店がある。

「つまらぬことは忘れて、飲もう」

「待って下さい」

 修子は自分から、肩にのっている遠野の手を除《の》けた。

「今日は、一人にして下さい」

 このまま食事をすれば、水に流せると遠野は思っているのかもしれないが、修子には、そんな簡単に割りきれることではない。

「お願いですから……」

「駄目だ」

 遠野は修子を睨みつけると、突然、両手で抱きしめた。

「いやよ」

 叫んだ瞬間、修子は激しい平手打ちを頬にくらってよろめいた。

 愛があるから暴力が生れるのか、あるいは、暴力でしか表現できない愛があるのか。それからあとの遠野の行為は、まさに獣そのものであった。

 初め修子はそれを憎み、必死に抵抗した。強引にベッドまで運びこまれてからも、修子は全身をばたつかせ、伸びた爪の先で遠野の腕といわず顔といわず引っかいた。

 だがどこにそんな力が潜んでいたかと思うほど、遠野は微動だもしない。

 ベッドに仰向けに倒されて両の胸を締めつけられたとき、修子はこのまま息絶えるかと思った。一時は首まで締められて、意識が遠くなったような気もした。

 だがその苦しさのなかでも、修子はなお遠野を憎んでいた。

 これは愛とは無縁のただの暴力である。女だからといって抱き締めればいいというわけではない。そんな暴力で誤魔化そうと思っても、誤魔化されるものではない。

 しかし遠野の力が緩《ゆる》まる気配はまったくない。いまここで怯んでは、これまでの努力が水の泡になるとばかりに迫ってくる。

 結局、修子は暴力というより、その気迫に負けたようである。

 打たれた頬の熱さと息詰る苦しさのなかで、それほど欲しいのなら奪えばいい、という投げやりな気持が芽生え、それとともに急速に逆らう力を失った。

 にわかに従順になった女体に、遠野は一瞬、戸惑ったようである。これは本物の従順なのか、それとも男をあざむく手段なのかを見定めかねながら、修子の体を開いていく。

 いつもの遠野は優しく、前戯に充分の時間をかけ、それとともに修子は自然に潤ってくる。それに較べたら今夜の遠野は別人であった。強引というより、まさに暴行に等しい荒々しさである。

 だが修子の女体は少し潤っていたようである。

 暴力という緊張がかえって刺戟になったのか、それとも組敷かれるうちに、いままで馴染んできた感触が甦《よみがえ》ったのか。

 遠野が入ってきてからの修子は、半ば自分で半ば自分ではなかった。

 意識のなかでは、身勝手に奪う遠野を憎んでいながら、体は徐々に男の動きに従っていく。

 こんな反応を見て、男は女に自信を抱くのかもしれない。

 とやかくいっても抱いてしまえばそれまでで、女は体の誘惑に負けて最後は大人しくなる。それは単なる男の思いあがりでなく、女のある一面を表しているようである。

 かなり激しい喧嘩のあとでも、一度の抱擁でそれまでのわだかまりが霧消することはある。実際、修子は遠野とのあいだで、そんなことを何度か体験している。

 だが抱き締めて結ばれさえしたら、すべて解消するというわけではない。

 抱擁で消えるいさかいもあれば、それでも消えぬ争いもある。ときにはその強引さが、かえって男と女を離す引金になることもある。

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