SCENE 1
真夜中に、汗びっしょりで、ベッドの中で目覚める。
周囲はしんと静まり返って、感じられる音といえば、自分の胸の中でどきどき鳴っている心臓の音だけ。
子供部屋に上がった時は一階のリビングでテレビを見ていた両親も、何時の間にか寝室に引きこもって休んだらしい。
起きている人の気配は、自分以外、他にはない。
緊張に強張った体をほぐそうと大きく胸を上下させて深呼吸をし、両手で顔を覆った。
(ああ、やっぱり、夢に見ちゃったよぉ…)
寝る前に、あんな気持ちの悪いホラー映画を見たからだ。タイトルなんか知らない、ちょっと昔に話題になった、悪魔にとりつかれた子供の話。何が恐いかって、化け物みたいになった女の子の顔で、そんなに恐いなら見なければいいのに、隣で全然平気な顔をしている双子の兄弟の手前、ついやせ我慢をして最後までしっかり見てしまった。
恐いものや気持ち悪いものは、忘れたいと思えば思うほどいつも夢に見てしまう。案の定、今夜も、あの映画の女の子に家の中を端から端まで追いかけまわされる、ぞっとするような悪夢にうなされてしまった。
顔を横に向けて向こう側の壁にかけられた時計を見ると、闇の中にうっすらとうかびあがる針は、やっと深夜の2時を回ったところをさしている。
どうしよう、夜が明けるまでまだこんなに時間がある。
心細く不安な思いでいっぱいになって、自分が横たわる二段ベッドの下から上のベッドの底をじっと見つめた。
一瞬、そこで眠っている者を呼びたい衝動にかられ、口を開きかけて、やめた。
11才にもなって、恐い夢を見たくらいで兄弟を呼ぶなんて、男らしくないぞ。
口をぎゅっと引き結び、目を大きく見開いて、自分に向かってのしかかってくるような闇を睨みつけた。目を閉じると、またあの嫌な夢が戻ってきそうで、できなかった。唇が震えた。
やっぱり恐かった。1人ではいたくない。
すると、上のベッドで身じろぎをする気配がした。
声に出さない彼の呼びかけが届いたかのように、二段ベッドの上で眠っていた片割れは目を覚まして、ベッドから上体を乗り出すようにして、低い声で問いかけたのだ。
「ねえ、レイフ、今呼んだ? 」
レイフは、すぐには答えなかった。口許まで引き上げた布団の端をぎゅっと握り締めて、その陰で溜めていた息を吐いた。
「…おにいちゃん……」
我ながら赤面したくなるくらい、心細げな声をしていた。
レイフが起きていることを確認すると、答えも待たずに、彼はするすると上のベッドから下りてきて、床に降り立った。
「夢、見たの? 」
あくびを噛み殺し、眠たい目をこすりながら、彼はベッドの中の弟を覗き込む。
「だから、見るなって言ったのに。苦手なくせに…」
レイフは何か言い返そうとしたが、兄の手が布団を捲り上げるのに口をつぐんで、彼が入って来やすいよう、体を奥にずらした。
「馬鹿だね」
レイフは唇をとがらせた。
「だってさ…クリスターがあんな平気そうな顔をしてるのに…オレだけ恐いなんてさぁ…」
「ふうん、じゃあ、僕のせいなんだ?」
「それは…違うけど……」
しどろもどろになる弟に、クリスターは喉の奥で笑った。間近にある、その顔を、レイフはじっと見つめた。
もともとレイフは夜目がきくので、明かりを消した部屋の暗がりの中でも、窓からうっすらとさしこんでくる外の道路沿いにある街灯の弱々しい光だけで、充分に相手の顔は分かった。
もう1人のレイフが、そこにいる。
12分だけ年上の双子の兄の笑顔を眺めていると、不安と緊張に固くなっていた体が次第にほぐれていくのが分かった。
「僕の顔に何かついてる? 」と、クリスターが不思議そうに聞く。
「笑顔が」
レイフは、答えた。
「じゃあ、おまえも笑えよ」
そう悪戯っぽい声で囁いて、クリスターはレイフの脇腹に手を這わせ、くすぐった。たまらず、レイフは身をよじって、甲高い笑い声をたてた。
「やめろよっ、くすぐったいよ!」
足をじたばたさせて布団の中で逃げようともがく弟を押さえつけ、クリスターは尚も脇腹を攻撃しつつ、言った。
「しっ、あんまり大きな声は出さないで。父さんや母さんを起こしちゃうよ」
「うっ…ぐぐぅ……だから、やめろって……」
両手で口を押さえて必死で笑い声を押さえているレイフの上にのしかかったまま、クリスターは、やはり声を殺して笑った。そうして、笑いの発作に小刻みに震えている弟の体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「双子でよかったね。本当の一人ぼっちになることなんて、ないんだもの」
「うん」
すっかり気持ちが和らいで、嬉しそうにそう答えるレイフから体を少しずらすと、クリスターは彼のパジャマのボタンを一つずつ外して、脱がしてやった。それから、自分もパジャマを脱いでしまうと、弟の隣に横になって、ぶつかるようにしがみついてくる体を包み込むようにしっかりと抱きしめた。
兄弟は、お互いの存在を確かめあうかのように、相手の体をさすったり、鼻先を押しつけて、どこか甘いような肌の匂いをかいだりした。子猫のようにじゃれあった。
「気持ちいいね…」
やがて疲れてきたレイフは兄の胸に頭を預けると、小さなあくびをして、目を瞑った。夢に対する不安は、すっかり消えてなくなっていた。とても親しく馴染み深く感じられる暖かい肌を通して伝わってくる、規則正しい心臓の鼓動を子守唄のように聞きながら、とても安らかな気持ちで、やがて彼は眠りに落ちていく。
そんな弟の肩をあやすように叩いてやりながら、クリスターも再び催して来た眠気に小さくあくびをして、目を閉じた。
こうやって2人で寄りそっていると、こんなにも安心できるのは何故だろう。まるでこの世には何も悪いことなどない、自分達を傷つけることのできるものなどないといった気分になれる。
そう言えば、彼らの母親が、いつだったかこんな話をしてくれた。
(あなた達が生まれた時、しばらくの間、何故か二人とも元気がなかったのよ。別にどこが悪いわけでもない、健康そのものなのに、レイフはずっとぐずっているし、クリスターはあまりミルクを飲んでくれないし…どうしたらいいのか分からなくて、困り果てていたわ。そうしたらね、2人を一緒にしてみたらって、一人のナースが言ってくれてね。赤ちゃんにとって、外界に出てくるのは大変なストレスなのよ。だから、少しでも生まれる前にいた場所に近いようにしてあげたら、安心できるんじゃないかって。それで、あなた達を同じ保育器に入れてあげたら、たちまちそれまでの不調がすっかり治ってしまってね。ぴったり身を寄せ合って、安心してすやすや眠っているあなた達を見て、こんなに小さいのにちゃんとお互いが分かるのねって、驚いたものだわ)
双子でない人達は、一体どうやって、夜、たった1人の寂しい時間に耐えて過ごしているのだろうかと、クリスターはいつも不思議に思う。
規則正しい弟の寝息と肌に触れるその温もり、少しくすぐったい髪の感触に微笑みながら、クリスターは体を傾けて、その頭に、すべすべした頬に唇を押し当てた。
ここは、とても安心できる。
(いつまでも、ずっとこうしていたい)と思いながら、静かに寝息をたてている弟の隣で、クリスターもまた幸せな夢の世界に飛び立っていく。
クリスターとレイフ、兄弟二人きりの、この子供部屋。
ベッドの中のこの温かい暗がりの中で寄り添いあい、肌を合わせ、お互いの体に回しあった腕の中に存在する、それは、閉じられた、彼らだけのちっぽけな楽園だった。
SCENE2
僕達にとって、それはごく当たり前のことだった。
生まれてから、いや、生まれる前から、ずっとそうしていた。この先もずっと変わることはない、失うことなどありえないと、疑うこともなく無邪気に信じていた。
この頃の僕達は子供過ぎて、自分達以外の所に広がる世界のこともそこにいる他の人間達のことも、全く考えてはいなかった。
自分達自身も、その2人きりのエデンにいつまでも留まってはいられない、変わっていくのだということにも気づいていなかった。
それとも、気づきたくないだけだったのだろうか。
別に何も、多くを望んでいたわけじゃない。そう、僕達が守りたかったもの、ずっと守り通そうとしたものは、罪のない子供時代の、今はもうなくしてしまったあの部屋、そこにあったささやかな幸せ、それだけだった。
「やだっ、やだったら、絶対に嫌だ!」
ついに癇癪を起こして涙目で叫ぶレイフに、彼らの父親ラースは一瞬鼻白んだ顔になった。それから、どうしてこんな極端な反応を息子がするのか分らずに当惑しつつ、再び口を開いた。
「どうして、そんなに嫌がるんだい? おまえくらいの年の子は自分だけの部屋を欲しがるものだ。それに、おまえたち2人はとても成長が早くて、あの子供部屋じゃそろそろ狭くて不自由だろうと思って、提案してみただけなんだよ。そんな怒ったよう顔で言うことじゃないだろう?」
2人が小学校の過程を終えて中学校に進む前の夏休みの最初の日曜の朝、オルソン家の食卓は、父親が何気なく持ち出した提案によって、突然不穏なものとなった。
「秋からはおまえたちも上の学校に進むんだし、丁度いい機会だと思ったんだ」
辛抱強く尚も話を続ける父親を、レイフはまるで敵を見るような目つきで、テーブルを挟んだ向かい側の席から睨みつけている。
その手が掴みしめたスプーンで皿の中のチョコレートシリアルをいらだたしげにかきまわすのを、隣に坐ったクリスターはいつこぼすんじゃないかとはらはらしながら見守っていた。
「自分達だけの部屋なんか欲しくない。このままでいいっ!」
強情に訴えるレイフの横顔に、クリスターは目を向けた。怒りに紅潮した頬が涙に濡れているのに、クリスターは、手を伸ばして拭ってやるか抱き寄せて唇を押し当てるかして慰めてやりたかったが、この状況でそんなことをすれば父親がどれだけ戸惑うか分かっていたので、やらなかった。
「このままでって…それじゃあ、一体いつまでそうしているつもりなんだ? いくら双子の兄弟だからって、何もかもずっと一緒にはできんのだぞ。おまえ達はもう11才になる。そろそろ分かってもいい頃だ。それぞれが別々の部屋を持ち、違う友達や、違う興味の対象を見つけて、そうやって少しずつ独立した一人前の大人になっていくんだ」
だが、ラースの言葉はレイフに混乱しかもたらさなかったようだ。
レイフは、父親がまるで理解できない国の言葉を話しているかのような奇妙な顔をして、不安げに瞳を揺らすばかりだった。
ラースは、途方にくれた面持ちで、一瞬迷った後、こう言った。
「おまえ達は、今でも時々一緒に寝ているんだろう?」
途端に、レイフはばつが悪そうな表情をした。口に出してそうだとは言わなかったが、その顔だけで認めてしまったも同然だった。
ラースは深い溜め息をついて、腕を組み、椅子の背に体をもたせかけた。
「ちゃんと自分のベッドで寝なさいと、母さんからきつく言われたはずだろう? 父さんとも男同士の約束をしたな、レイフ?」
約束を破ったと責められたレイフは、顔を赤らめてうつむいた。なんだかんだと言っても父親のことが好きなので、彼を裏切ったり失望させたりすることに罪悪感を覚えたのだ。
「ごめん…でも…本当に時々なんだよ…嘘をつくつもりじゃなかったんだよ…」
クリスターはレイフがかわいそうになった。
(そんなふうに責めては駄目だ、父さん。レイフは、何が悪いのか、どうして駄目なのか、本当には理解していない。ただ頭ごなしに怒られて、こんな後ろめたい思いをさせられては、ますます混乱するばかりだよ)
弟が取り乱していく様子をこれ以上見ていられなくて、クリスターは正面を向いた。
すると、父の隣で静かにこの親子の口論を聞いていた母親のヘレナと目が合った。話しているうちに段々感情的になってくる父とは対照的に、物静かで理性的な母は、クリスターと同じで、口をはさむタイミングを見計らっているようだった。しかし、息子と視線があうと、唇を微かに動かして、声には出さずに尋ねてきた。
(あなたはどう思っているの、クリスター? )
クリスターは胸の奥で激しい感情が沸きあがりかけるのを意識したが、弟と違って、それを素直に表に出すことはできなかった。
「なあ、クリスター、何とか言ってやってくれよ」
ふいにラースがそう呼びかけるのに、クリスターは肩で軽く息をついた。
「おまえの口から弟にちょっと言い聞かせてやってくれ。こいつには結局誰よりもおまえの言葉が一番きくんだからな」
クリスターはためらった。
(ずるいよ、父さん、そんな役目を押し付けるなんて。僕を裏切り者にするつもり?)
クリスターはますます気が滅入ったが、パニック寸前の弟と苛立ちが怒りに変わりつつある父親の間に立てるのは自分だけだという自覚から、ついに口を開いた。
「たぶん、父さんが心配するようなことじゃないと僕は思うな」
ラースの視線を真向から受けとめて、クリスターは何でもないのだというように笑って言った。
「確かに、そういうことはあったかもしれない。例えば、この間のテレビで見た、すごく盛り上がったベースボールの試合のことで、2人でベッドの中で話しこんだことがあったよ。初めは興奮して目が冴えてたんだけれど、いつの間にかそのまま眠りこんでしまったみたいで、気がついたら朝だった。そんなふうなことなら、時々あるよ。でもね、だから、それが何?」
ラースが気をくじかれるくらいにあっさりと、こともなげに彼は言った。
「別に、今でも小さな子供みたいに一緒でないと眠れないなんてことはないんだよ。第一、あのベッドで2人で寝るなんて窮屈で、あえてそうしたいとは思わないな」
「うむ…おまえの言うとおりなら、別に父さんがこうまで心配して口やかましく言う必要はないが…」
ラースは、彼の言葉をおとなしく聞きながら不思議そうに首を傾げている息子を相手に、何となく緊張して、背筋を伸ばし、椅子に座りなおした。
年の割に大人びたいかにも賢そうな顔をして、大人相手でも物怖じすることなく落ちついて話すクリスターは、外見だけでなくその態度も、おかしいくらい母親に似ていた。
そのせいかもしれないが、クリスターが言うことは、ラースはそうなのかと妙に納得して受け入れてしまうようだ。
それに対して、弟のレイフはラースにそっくりな気性をしている。屈託がなくて無邪気な子だが、感情の起伏が激しく、自分でもコントロールすることができない。だから、ラースにとっては、読みやすく、可愛い反面、自分と同じ欠点が目について、つい叱ってしまうことが多かった。
それでも、ラースが息子達のどちらも愛していることに変わりはなかった。彼は、男の子が欲しかったので、一度に2人も息子を授かったことに踊りあがらんばかりに狂喜したものだった。双子は育てにくいかもしれないなどと言われても、それがどうした、こんなに可愛い子供が2人もいるなんて最高じゃないかと、全く気にしていなかった。しかし、子供達が成長してくると、時々親である自分にも理解できない部分が見えてきて、それが彼に説明しがたい不安を覚えさせるのだ。
「それから、僕達に別々の部屋を持たせてくれるって話だけれど、それも僕は別に今すぐじゃなくてもいいと思う。父さんの言うとおり、あの部屋が狭く感じられるようになってきたのは確かで、自分だけの持ちものが増えてきたりしたら、そのうちどうしても自分だけの部屋が欲しくなるだろうと思うけれど…今はこのままで充分だよ。ねえ、父さん、いくら小学校を終えたからって、昨日の今日で、僕らが全く別のものに変わってしまうわけじゃないんだよ。そんなふうに、あまり急かさないでよ」
「いや、別に無理強いをするつもりじゃなかったんだが…ただ、ちょっと提案をしただけのつもりだったんだが…ううん、父さんは、ついむきになってしまったみたいだなぁ」
あんまりクリスターが落ちついているものだから、つい感情的になって自分の考えを押しつけようとしていたことが恥ずかしくなって、ラースは頭をかいた。
「でも、父さんの提案は、そのうちそうするんだということで覚えていてくれよ。本当に、おまえたちはあっという間に大きくなってしまいそうだからな。この1年で、10センチくらい背が伸びたんじゃないか?」
「14歳くらいに、よく間違えられるよ」
クリスターは、父親の気持ちが静まったことにほっと安堵して、肩の力をぬいた。
「部屋を変える時は新しいベッドを買ってよ、父さん。大人向けの手足を思いきり伸ばせる大きなのをね」
これは、父親を安心させる為の駄目押しのようなものだったが、余計なことだったかもしれない。少なくとも、クリスターが話している間じっと押し黙ってその語ることに神経を集中させていたレイフにとっては、言い過ぎだった。
がたん。いきなり大きな音をたてて椅子を引くと、レイフは、それをほとんど蹴り倒さんばかりの勢いでテーブルから逃げ出したのだ。瞬間、その手がテーブルにあたって、食べかけのシリアルの入った皿を床に落としてしまった。謝りも振りかえりもせずに、ダイニングから走り去り、2階に駆け上っていくレイフに、ラースはかっとなって椅子から身をうかせ、怒鳴った。
「レイフ、戻ってこい! 戻ってきて、おまえが汚したこの床を掃除するんだ。母さんの手を煩わす気か、この馬鹿…!」
返事をしないレイフに、ラースは本気で怒ったらしい。テーブルから離れて、その後を追っていこうとした。
「待って、ラース」
彼の太い腕を、ヘレナの綺麗な手がそっと押さえた。
「レイフのことは、頭が冷えるまでしばらく放っておいてあげて。あなたが今行っても、2人とも感情的になって収拾がつかなくなるだけよ」
双子兄弟と同じ鮮やかな紅い髪と琥珀色の瞳を持つ、美しいだけでなく賢く理性的な妻に、ラースは一目置いていた。人はいいのだが、すぐにかっとなってしまう彼を静められるのは、いつも彼女だけだった。天から彼のもとに舞い降りてきた女神であるかのように、夢中で惚れこんでいたからだろう。
「しかし、あいつはまた、こんな馬鹿みたいな癇癪をおこして、それを謝りもせずに逃げたんだぞ。ここで怒ってやらんと、あいつのためにならんだろう」
ラースは肩を怒らせ、今にもヘレナの手を振りきって、レイフを叱り付けに行ってしまいそうだったが、結局そうはせず、彼女に引かれるまま椅子に座りなおした。その手をなだめるようにそっとさすりながら、ヘレナはテーブルに取り残された双子の片割れを見やった。
「クリスター、レイフのことをお願いね」
心配のあまり青ざめた顔でレイフが消えて行った方向と父の様子を見比べているクリスターに向かって、ヘレナは落ちついた声で囁いた。
クリスターは迷わず頷くと、すぐに椅子から立ち上がって、弟の後を追った。
(全く、レイフは、一体どうしたっていうんだ? 俺は何も理不尽なことを言ったわけでも、無理に押しつけようとしたわけでもないんだぞ。あいつらが段々大きくなってくるのを見て、そのことを自覚しろ、年にふさわしい行動を取れと促しただけじゃないか。今すぐでなくてもいいとさえ言ってやったのに…大体、別々の部屋を与えられることのどこがそんなに嫌なんだ? 別に、それで兄弟が引き裂かれてしまうわけでもないだろうに…いや、あいつの反応は、まさにそんな感じだったな。なあ、双子っていうのは、ああまでお互いに対して執着するものなのか?)
2階の子供部屋を目指して階段を上っていく途中、ダイニングで話し合う父母の声が聞こえたので、クリスターはつい足を止めた。彼の聴覚は並外れてよく、ごく低い囁き声でも何を話しているのか聞きとることができた。
(もう少し待ってあげて、ラース。あの子達もいつかは分かるようになるわ。お互いから離れる準備がまだできていないだけなのよ)
クリスターは階下を見下ろして、眉を僅かにひそめ、それから、再び階段を上り出した。耳がよすぎるというのも考えものだ。聞きたくないことまで聞こえてしまう。
(大人というのは、勝手なものだな)と、クリスターは思った。
彼ら兄弟がすごく小さかった頃は、むしろ2人がぴったりとくっついていることを喜んだものなのに。いつもおそろいの服を着せられ玩具も同じものを1つずつ与えられた。親だけでなく外で会った他の大人達も、そっくりな双子達が元気いっぱい転げまわるように遊んでいる様子に目を細め、『1人でも可愛いけれど2人揃うと一層可愛い」なんてことを言って、よくお菓子をくれたものだ。ヘレナに連れられてよく行った公園では、芝生の上で遊んでいると、気がつけば学校帰りの女の子達に遠巻きにされ、もの欲しげなうっとりした注視にさらされた。近所ではちょっと有名な小さなアイドルのようなものだった。だから、2人が一緒にいることは、他の人達も幸せにするいいことなのだとその時は思っていたのだけれど、どうやら事情は変わりつつあるらしい。
「レイフ、入るよ? 」
クリスターは、一応そう断ってから、自分のものでもある部屋の扉を開いた。
「レイフ?」
返事はない。クリスターはレイフのベッドの方に近づいていった。膨らんだ布団の下から、ごく低いすすり泣きがもれてくる。
クリスターは棚の上からティッシュペーパーの箱を取ると、それを無言でレイフが隠れている布団の中に押しこんだ。しばらくして、ごそごそとまさぐる気配がし、激しく鼻をかむ音がした。
「そんなふうに強くかむと、また鼻血が出るよ」
クリスターはベッドの端に腰を下ろし、布団の上から弟の体をなだめるように軽く叩いている。しばらくするとレイフも少し落ちついたのだろう、掛布からそっと顔を出して、クリスターに向かって囁きかけた。
「クリスター…」
クリスターはにっこりした。
「うん」
レイフの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったので、クリスターはティッシュの箱を掛布の下から探し出すと綺麗に拭いてやった。
「おまえは、本当に世話が焼けるねぇ」
レイフはベッドの上で身を起こし、クリスターの顔を間近でじっと覗き込んだ。
「どうして」と、彼は幾分恨めしそうに言った。
「あんなこと、言ったんだよ。別々の部屋なんていらないのに。このままでいいのに。裏切る気かよ、兄ちゃん」
クリスターは困ったように首を傾げた。
「だって…ああ言わないと、父さんは納得しないだろう?」
「でも、じゃあ、父さんに言われるままオレと離れてもいいんだ、クリスターは」
「離れるなんて大げさだよ。僕らは同じ家に暮らしているんだよ」
「でも、嫌なんだ、ここのがいいんだよ」
レイフが引っ張るので、クリスターは自分も弟のベッドの中に入っていった。ラースに見つかったらまた怒られるかもしれないが、仕方がなかった。
「僕だって、ここが好きだよ」
レイフの温もりで一杯の布団に一緒に包まれて、クリスターは相手の体に腕を軽く巻きつけて囁いた。
「なくしたくないよ」
昔は、もっとたくさんの、2人だけの秘密めいた遊びがあった。
ごく幼かった頃、彼らには自分達だけに通じる、省略を多用する単語と手振りによる会話があった。それを禁じたのはラースだ。
どうして駄目なのかと兄弟が尋ねると、彼は困ったような顔でこう言った。
「他の人達にも分かるようなちゃんとした言葉で会話しないと駄目だ。自分達だけに分かればいいってものじゃないんだぞ。そんなことを他の人達の前でしたら、皆、おまえたちが他の星からやってきたエイリアンであるかのような不安な気持ちになって、おまえ達から離れていってしまうだろう」
不安になったのは本当はラース自身なのだろうが、確かに彼の言うことは正しい。そっくり同じ姿をした人間2人がそこにいて、周囲のことなど眼中になく、お互いだけに熱中している。眺めている第三者にとっては、疎外感と嫉妬、不安な苛立ちを覚えさせられる光景だろう。
他にも、お互いを鏡に映る像に見たて向かい合って同じ動作をしてみる遊びとか、ベッドの中で裸になって一緒に眠ることも、今ではもうやめた「してはならない」ことだった。
クリスターには大人達がそれらの遊びを禁じる理由が理解できたが、レイフには納得できない。彼の意識はまだ2人が一括りに扱われていた幼年時代から脱け出しておらず、引き離されることに強い抵抗を覚えている。
彼にとって、クリスターはもう1人の自分だった。一緒にいることが当たり前なのに、それを否定されることは、まるで自分の存在そのものが悪いのだと言われているも同然だった。
「心配することはないよ、レイフ。父さんも僕達が嫌がるなら無理は言わないから。よかったじゃないか、この部屋でこれまでどおり一緒にいられるんだよ」
「でも、いつかは離れなきゃならないんだろ?」
「まだ先の話だよ、考える必要はないよ。1年か、ひょっとしたら、2、3年くらいこのままでいられるかもしれない。その頃には僕達の考えも変わって、離れることにそれほど抵抗を覚えなくなっているかもしれないし」
「そんなこと、本気で信じて言ってる訳じゃないだろ?」
レイフの鋭い追求に、クリスターは口篭もった。彼自身、全く信じてなどいなかった。
彼らの母ヘレナは聡明な人で、双子兄弟のことも、いつだってラースよりずっと理解していた。兄弟が1人前の人間として別々に生きなければならないということをいつかは理解し受け入れるようになると考えて、今は見守るつもりでいるらしい。
彼女は半分正しく、半分間違っているとクリスターは思う。
いつまでも弟と2人、このままではいられないということは、少なくともクリスターの方はとっくに分かっている。
だが、では別の人間としてなど生きられるのだろうか。それを思うと、弟の手前いつも落ちついて見せてはいるけれど、たまらないくらい不安になる。
できるはずがないとさえ、半ば途方にくれて、考える。
弟と2人でする遊びを全て禁じられても、幼いあの頃2人でかわした言葉の大半は忘れてしまった今でも、奥深い所では依然として薄れることのない強いつながりがある。どんな手だてを使って彼らを隔てようとしても、それを断ち切ることなどできはしない。目に見える形だけを矯正しようとしても、実際、何の意味もないことだった。
彼らは、1つの生き物なのだ。
「クリスター、痛いよ」
何時の間にか、無意識にレイフの体を力いっぱい抱きしめていたようだ。弟の苦しげな声に、クリスターははっと我に返って、腕を緩めた。
「ごめん、つい、ぼうっとして…」
きまりが悪そうに言って、クリスターは布団の中から這い出、ベッドの上で上体を起こした。
弟のものであるベッドから見渡せる自分達の部屋を、クリスターはしみじみと眺めた。同じ形の机と椅子が左右の壁に沿ってある。2人の玩具をなおしておく大きな木の箱とかおそろいの服が入っているクローゼットとか。
いつまで一緒に使えるだろうか。このままずっと何もかもを共有しつづけることは、やはりできないのだろうか。
「ねえ、レイフ」
自分の中で強い欲求がせりあがってくるのを感じて、クリスターはそれを忘れるためにも、唐突に調子を変えて、全く違う話を弟に対して持ち出した。
「考えても仕方がない、気持ちが塞ぐだけのことより、目の前のもっと楽しいことを考えようよ。ほら、もうすぐだろ。アッシュフィールド湖で2週間のキャンプだよ。おまえだって楽しみにしてるいんだろ? ね、後で父さんの所に行って、今年はカヌーやボートのこぎ方を教えてって頼もうよ。去年まではまだ小さいから無理だ、危ないって触らせてくれなかったけれど、今年は大丈夫だと思わない?」
レイフは、キャンプと聞いて途端に目を輝かせた。気持ちがころころ変わるのは、レイフの長所であり欠点だ。
アッシュフィールド湖のキャンプ場は、オルソン家が夏休みによく利用する場所だった。美しい湖畔のロッジを借りて過ごす2週間ほどの家族の休日を、毎年双子達は心待ちにしていた。
「カヌーかぁ、オレ、やりたかったんだ。今年は父さんもいいって言ってくれるよね」
「それから、山歩きや釣りもたくさんやろう…お日様が昇ってから沈むまで1日中遊び回ろう。僕達はきっと日に焼けて真っ黒になるよ」
さっきまで泣いていたのが嘘のように明るい笑顔になって来週の週末からの家族一緒の休暇の計画に浸っている弟の様子に、クリスターの気持ちも和らいだ。
レイフの笑った顔は好きだ。少しの陰りも卑屈なところも歪みもない、まっすぐな彼の気性そのものの屈託のなさが好きだ。見ていると、何だか胸の奥ががほかほかと暖かくなる。
クリスターもついつりこまれて、さっきまでの胸を締め付ける不安や父親に対する微かな怒りも忘れ、微笑んでいた。
弟の無邪気なこの笑顔を見ることが、クリスターにとって何よりの幸せであるかのようだった。
彼らが幼かった頃、そして、その後もずっと―。
SCENE 3
12分間の差。
クリスターは、オレよりも12分早くこの世に生まれた。
逆に言えば、オレは12分あいつに遅れたわけだ。
その差を意識し始めたのは、いつの頃からだったろう。たぶん、小学校に上がった辺りだと思う。
気づいたのは、親以外の大人の評価というものがオレ達の生活に入りこんできたからだ。
クリスターは早熟だとよく言われ、オレよりもずっと早く読み書きも覚えて、いつも本ばかり読んでいたけれど、それを差として考えることは、それまでなかった。けれど、学校という小さな競争社会に入ると、どうしても自分達が比べられているとことを意識しないわけにはいかなくなった。
クリスターは、成績では同じ学年の子供達の中で群をぬいていた。教師の質問にはいつもすらすらと答えたし、逆に鋭い質問をして彼等を戸惑わせることもあった。
実際、クリスターにとって、それらのクラスは物足りなかったのではないだろうか。3年になる頃には、クリスターにはデルタプログラム(天才児特別教育プログラム)を受けさせた方がいいのではないかと学校から勧められた。近隣の幾つかの学区の子供達の中から僅か20人だけが受けられる特別クラスなのだが、迷った挙げ句、クリスターは辞退した。オレと離れて、別の学区にある学校に通うのが嫌だったからだ。
一方、オレは別に成績は悪くなどなかったが、それでも、兄と比べると明らかに劣っていた。
時々、「双子なら、同じ能力を持っているはずなのにねぇ」というようなうかつな教師の言葉に傷つき、かつては意識したこともない、その差に焦り、どうにかして埋めようとあがいた。
何もかも同じはずの相棒に見出した違いに、オレはどうしても我慢ならなかった。だが、如何せん、どんなに努力しても、追いつくことのできるものではなかった。
同じ遺伝子を持ってはいても、発現するかしないかで、個性という名の違いは出てくるものらしい。唯一の慰めは、身体能力では2人の差はほとんどなく、ひょっとしたらオレの方が少し上かもしれないことだった。
オレは同じ年の誰よりも速く走ったし、高く跳ぶこともでき、反応も速かった。昔NFLの選手として短い期間ながら活躍した父親の影響で始めたフットボールでも誰よりも優れていたし、中学校のチームから誘われることもしばしばあった。
だが、オレは別に、それによってさえもクリスターを追い越したいわけではなかった。
ただ、あいつと同じでいたかっただけなのだ。
そう考える時点で、オレは、初めからあいつに負けていたのかもしれない。
「お母さん、お母さん、クリスターが風邪をひいたみたいなんだ、声が変なんだ」
明日からキャンプ旅行に出かけるという日の夕方、キッチンで夕食の準備をしていたヘレナの所に、不安げな面持ちのレイフがクリスターを引っ張ってやってきた。
「風邪をひいたの、クリスター?」
大げさに、まあ、大丈夫なの、早く病院に行かなきゃというような感情的な反応をすることは、この母に限ってなかった。彼女は洗った手をタオルで拭いた後、キッチンの隅っこで弟に伴われてじっと黙りこくっているクリスターのもとにやってきた。
「口を開けて、喉の奥を見せてちょうだい」
素直に従うクリスターの喉を調べ、喉もとのリンパ腺の辺りも触れてみながら、ヘレナは首を傾げた。
「別に喉に炎症はないし、リンパ腺も腫れていないし…」
白い手を息子の額に乗せて、彼女はクリスターの顔を覗き込んだ。
「熱もない。別に風邪という訳ではなさそうだけれど」
クリスターは一瞬ためらった後、口を開いた
「風邪じゃないと思うよ…たぶん…」
しかし、そう囁くクリスターの声の異常にヘレナも気がついたようだ。
確かに、ここ数日クリスターは声が出にくそうにしていた。
「本当に大丈夫なの? 明日からキャンプなんかに行っても平気? 悪くなったりしない?」
自分のことのように兄の体を案じているレイフに、ヘレナは顔を向けて、穏かな声で促すように言った。
「平気よ。おにいちゃんは病気じゃないと思うわ。試しに、ちょっとテストをしてみましょうね。クリスターをくすぐって、笑わせてみて」
くすぐって、笑わせろ?
レイフは目をぱちくりさせたが、こういう悪戯は大好きだった。ひるんだ顔でじりっと後じさる兄を見ると、とたんにその気になって飛びかかり、むしゃぶりついて脇腹の弱い部分をくすぐってやった。
「や、やめろよっ、レイフ…ひゃっ…はははっ…!」
たまらず笑い出したクリスターの喉から迸った声は、しかし、レイフの高く澄んだものとは異なって、不安定ながら大人の男の声のようだった。
「やっぱり変だよ、その声!」