SCENE 1
「まあ、そっくり! 驚いたわ、双子なのね!」
アリス?ゴールドバーグが叫ぶようにそう言った瞬間、その口から覗いた銀色の歯列矯正器具に、ついクリスターの目はいってしまった。
あんなものをつけていて、気持ち悪くないのだろうか。
家族揃って出かけたアッシュフィールド瑚で、兄弟は彼女と出会った。
オルソン家が借りたロッジの隣に、彼女の家族はやはり休暇で滞在していたのだ。そうして、ヘレナがアリスの母と親しくなったことから家族ぐるみの付き合いが始まった。
オルソン家のバーベキューディナーに招待されて、両親と共にやってきたアリスは17歳。長いストレートの金髪とくすんだ緑色の瞳のなかなかの美人だった。
紹介されたオルソン家の双子を見て目を丸くした彼女は一目で彼らを気に入ったようで、湖を臨むことができるロッジの前庭でのディナーの間中、クリスターとレイフに向かってしきりと話しかけてきた。
レイフは、この年の異性と話す機会は今まであまりなかったせいか、緊張のあまり、ついぶっきらぼうになってしまったようだ。別に彼女のことが嫌いなわけではない。むしろ健康的に日に焼けた伸びやかな手足とか、ぴったりとしたティーシャツの胸のふくらみがまぶしくて、気になって仕方がないくせに、6歳も年上の相手に何をどう言っていいかも分からず、怒ったような顔つきで視線を逸らして黙り込んでいた。
レイフの反応から、自分は嫌われていると取ったのか、それとも単に話にならないつまらない子供だと結論したのか、やがてアリスはクリスターだけを相手にすることにしたようだ。
次第に夜も更け、父親達は適当にアルコールも回っていい気分になり、母親達はやはりお喋りに熱中し出した頃、表に持ち出していたラジオからいいムードの音楽が流れてきた。
「ねえ、クリスター、踊りましょうよ」とアリスが言って、椅子から立ち上がった。
「ダンスなんてできないよ、僕」
大抵の物事には動じないクリスターが怯んだように囁くのも聞かず、なかなか強引な彼女は彼の手を引っ張って、立ち上がらせた。親の目を盗んでほんの少し飲んだビールのせいで、幾分大胆で解放的な気持ちになっていたのかもしれない。
クリスターは、最初は困った顔をしていたが、彼女の勢いに負けて結局ダンスのパートナーをすることになった。
クリスターがちらっと弟の方を見ると、レイフはぽかんとした顔で兄が連れ去られていくのを見送っていた。
レイフを放っておいて自分だけが女の子と仲良くするなど、クリスターは何となく気まずい気分がした。
「アリスの足を踏みつけるんじゃないぞ、クリスター!」
ほろ酔い気分のラースは息子に向かってからかうように叫んだ。
クリスターが年上の女の子の積極的な態度に戸惑いつつも、一所懸命に相手をつとめている姿にヘレナも微笑みを誘われたようだ。しかし、ふとレイフの方に視線を移し、彼が一人ぼっちで、苦痛に満ちたくるおしげな目をして、少し前にはやったバラードにあわせて踊っている2人を追っているのにふと眉をひそめた。
「あなたのお母さんって、すごい美人よね、クリスター。昔ミス?アメリカに出たことがあるんですって? あなたのお父さんが自慢していたわよ」
アリスにリードされて、初めてにしてはなかなか上手にダンスの相手を務めながら、クリスターはぴったりと彼女が身を寄せてくるのに少し困っていたのだが、表情には出さずに穏やかに答えた。
「うん、ミス?マサチューセッツ洲として準決勝までいったんだけれどね。そこでちょっとトラブルがあって、辞退したんだ」
「あら、それも何だかカッコイイわ。自ら辞退したなんて」
「母さんはそういう経歴はあまり誇らしくないそうなんだけれど。ミスコンに出た女性なんてグラマーなだけの馬鹿女だろうと男どもに思われがちで嫌なんだよ。それに、基本的に、あれは女性蔑視の考えに基づいているものだからって、どちらかと言えば母さんは反対なんだ。時々ね、テレビのコマーシャルなんかで、無意味な女の人のヌードが出てくると、『馬鹿な女!』って不機嫌そうに呟くんだ。本当に馬鹿なのは、その女の人じゃなくて、そういう広告を作った製作者やそれを喜んで見ている男の人達なんだということは承知しているけれど。たぶん母さんはフェミニスト寄りなんだと思うよ。でも、テレビのトークショーに出ている人達みたいに、ミスコンは性を商品化するもの、男女平等の理念に反するものだから何が何でも絶対やめさせるべきだなんて、凝り固まっているわけじゃないんだよ」
アリスがいきなり足をとめたので、クリスターは危うくぶつかりそうになった。
「ど、どうしたの、アリス?」
アリスは顔をぐいっと近づけ、戸惑って瞬きをする彼の琥珀色の瞳につくづくと見入った。
「あなたって、子供のくせに妙にインテリぶった生意気な話し方するのね、クリスター。それも面白いけれど、あんまり過ぎると女の子を退屈させるわよ」
「ご、ごめん」
別に謝る必要はなかったのかもしれないが、どんなに大人びて見えようがクリスターも所詮は小学校を終えたばかりの子供だったので、アリスの奔放な物言いや態度には振りまわされてしまうようだ。
一方のアリスはクリスターのことは自分より年下だとは知っていたが、さすがらまだ11才だとは夢にも思っていなかったはずだ。大体、フェミニズムについて論ずる11才など、そう簡単にいてたまるものではない。
アリスにたしなめられて、恥ずかしそうに頬を赤くして、どうしたらいいか分からないというように黙りこんだまま瞳を揺らしているクリスターに、アリスは表情を和らげて微笑んだ。
「あなたはお母さんにそっくりね、クリスター」
アリスは声を低めて、囁いた。
「こんな綺麗な男の子、私、見たことがないわ」
「ア、アリス…」
自分を見つめるアリスの潤んだ目にクリスターはどぎまぎした。こんな状況ではどういう態度を取れば一番よいのか本から得た知識で対処できるものではなく、さすがに経験不足の彼には分からなかった。できれば、適当な言い訳をして彼女から離れレイフのいる場所に戻りたかったのだが、その言い訳の仕方が分からずに、クリスターは身を固くして立ち尽くしていた。
アリスの瞳に悪戯っぽい光が瞬いた。
アリスは、クリスターの肩越しに彼らのことなどおかまいなしに自分達の話に熱中している大人達を見やったかと思うと、ちょっと身を屈めるようにして彼の唇に軽くキスをした。
クリスターの体が小さく震えた。
「私、喉が乾いちゃった。ヘレナおばさん、コーラをもらってもいいですか?」
何事もなかったかのようにテーブルに戻っていく彼女のすらりとした後ろ姿を凍りついたように立ちつくしたまま、クリスターは呆然と見送った。
思考停止状態。
少しして頬に上ってきた血を意識しながら、クリスターは己の唇を手の甲で軽く押さえた。
女の子にキスされてしまった。もちろん、こんなことは初めて。
刺すような視線を感じてそちらを見ると、案の定、泣きそうな顔をしているレイフと目があった。
妬いているのだ。だが、どちらに?
クリスターがばつの悪い気分で見返しているうちに、レイフはぷいっと顔を背けてしまった。
後であれやこれやと言ってなだめてやらなくてはならない。全く、アリスのおかげで、楽しいキャンプが台無しになりそうだ。
だが、困ったと思う反面、彼女との出会いに、これまで覚えたことのない不思議と胸を躍らせる興奮をクリスターは見出してもいた。
毎年同じように繰り返される、家族だけの休暇に、今年はまた別の楽しみが加わったようだ。
アリスは年上だし、奔放で、どう接したらいいか分からない部分もあるけれど、だからこそクリスターは興味をかきたてられる。あんなふうに突然にキスされても嫌な感じはなかった。むしろ他人に意表を突かれたことを喜んでいた。
唯一の不安はレイフのことで、アリスはどうやらクリスターだけに関心を抱いており、また、レイフもアリスに反発を、少なくとも今の時点では覚えているということだった。
クリスターはできれば3人で仲良くしたいのだが、この分だとそれは難しいかもしれない。
テーブルに戻ったアリスは、コーラのグラスを手にヘレナと談笑しているが、隣に坐っているレイフには見向きもしない。レイフも怒ったように頬を膨らませて、彼女とは反対の方向に視線を向けてしまっている。
クリスターは、その様子に内心溜め息をつきながら、アリスに触れられた唇に指先をそっと持っていった。
そして、まだ心臓がどきどきしているのを意識しながら、アリスがあんなふうなキスをレイフにもしてくれたらいいのにと思った。
SCENE2
あんな女、大嫌いだと、レイフは思っていた。
何の関係もない他人のくせに、当然のように彼らのもとにやってきて、我が物顔にクリスターの隣の場所を占拠し、レイフなどそこに存在しないかのように振る舞う。
アリスは、レイフのことを余計な邪魔者だと考えているのだ。本当はクリスターと2人だけになりたいのに、レイフがいるからそれができない。
全く、気のきかない子ね、どこかに行ってくれないかしら。そんな刺すような視線を向けられる度に、レイフは居たたまれなくなった。だが、そこは本来自分の占めるべき場所なのだという思いと、こんな女に負けてたまるかという意地で、逃げ出しはしなかった。
大人達の前ではそれなりに礼儀正しくしているアリスだけれど、実のところ、性格はかなり悪い。少なくともレイフに対しては、そうだった。
性格ブス。
一体どうしてクリスターがアリスを気にいったのか、レイフには理解できなかった。実際、同じ年の友達と遊ぶ時よりもアリスと話している時の方がクリスターは楽しそうだ。
子供じみたところのほとんどない、頭がよすぎる理屈家の彼には、年の離れたアリスの方が一緒の時間を過ごして満足できる相手なのかもしれない。
それにしたって、アリスの正体を知れば、クリスターには優しくてもレイフには意地悪ばかりすることを知れば、たちまち嫌いになってもよさそうなものだ。
もしかして、本当にクリスターは気がついていないのだろうか。いつもはレイフよりもずっと察しがいいクリスターなのに、騙されている? 信じたくないけれど、おそらく、そうなのだ。
クリスターを騙すことができるなんて、恐るべし、アリス?ゴールドバーグ。
レイフは、本当に、アリスのことが苦手だった。
「あら、クリスター、ボートをこぐの上手じゃない。とても初めてだとは思えないわよ!」
アリスのはしゃいだ笑い声を聞きながら、レイフはボートの隅っこに膝を抱えてうずくまり、一人ぼっちで、惨めさを噛み締めていた。
目を上げると、慎重にオールを使ってボートをこいでいる兄のすぐ傍に脚を触れあわすようにして坐っているアリスの姿が見えてしまうので、レイフは自分の膝か頭上から降り注ぐ7月の強い日差しを反射してキラキラと光る水面をひたすら睨みつけているしかなかった。
この日、クリスターとレイフがボート遊びをするという話をどこで聞きつけてきたものか、アリスは湖畔の貸しボート屋にいた兄弟のもとにやってくると、いつも通りの強気な口調で言ったのだ。
「私も一緒に乗りたいわ。ねえ、いいでしょう、クリスター?」
この言葉にレイフは激しく抵抗した。
「このボートに3人も乗ったら、窮屈だよ!」
せっかくの兄弟2人きりのボート遊びをアリスに邪魔されてはたまらないとレイフは決死の思いで抗議したつもりだが、アリスには全くこたえていなかった。
「あら、そうなの? 嫌なら、あなたが残ったら?」
アリスにつんとした調子で返されて、レイフは開いた口が塞がらなくなった。
あなた、一体、何様のおつもり?
そうとも、何故レイフが置き去りになどされなければならないのだ。後から割りこんできたこの女こそ、放置されてしかるべきではないか。納得できない、できるはずがない。
「こんな勝手な我が侭女の相手をすることなんてないよ、クリスター。行こう!」
癇癪を起こす寸前になりながら、レイフはクリスターに向かってすがるような気持ちで叫んだ。
頼むから、こんな奴の言うことなんか聞かないでくれ。楽しい計画でいっぱいだったはずのキャンプなのに、アリスが現れてからクリスターと2人で過ごす時間は滅茶苦茶にされっぱなしなのだ。だから、このボートだけは絶対に譲れない。クリスターと一緒にいる所にこんな余計な闖入者など欲しくない!
クリスターにレイフの思いが伝わらないはずはない。分かってくれるはずだ。いつだって、そうなのだから!
なのに、一体どうしたことだろう。この時のクリスターは、ちょっと困ったような顔でレイフを見、それからその後ろで腕を組んで挑戦的な表情をうかべているアリスを眺め、肩で軽く息をついた後、こう言ったのだ。
「レイフの言うとおり、ちょっと窮屈な思いをさせてしまうかもしれないよ。それに、僕らはボートを漕ぐのも初めだから、うまくできなくて、アリスをイライラさせるかもしれない。それでもいいのなら、一緒に行こう」
レイフは、一瞬目の前が真っ暗になったような気がした。
兄の言葉が信じられず、とっさに聞きなおしそうになったくらいだ。しかし、彼がそうするよりも先にアリスがはしゃいだ声を上げ、レイフを突き飛ばすようにしてクリスターに駆けより抱きついたので、レイフは、そんな彼らを前に馬鹿みたいに口を開けてわなわなと震えることしかできなかった。
魔女。
(クリスターの馬鹿、クリスターの馬鹿…どうしてアリスなんかの言いなりになるんだよっ。馬鹿、馬鹿…。い、いや、違う…クリスターは悪くない。悪いのはアリスだ。男を…ええっとなんて言うんだっけ、そう、『たぶらかす』…悪い女なんだ。あ…『あばずれ』って言うんだ、きっと、こういうのを…)
ボートの上でも、レイフなどまるで視界に入らないかのようにクリスターばかりに話し掛け、必死にオールを操っている彼の腕の使い方を見ては、わざわざ触って、ああしろこうしろと教えているアリスに、レイフはもう怒る気にもならず、すっかり力のぬけてしまった体をボートの縁にもたれさせて、何度も深い溜め息をついていた。
寂しい。
その時だ。アリスがふいにレイフの方を振りかえり、声をかけてきたのは。
「レイフ、どうしたの? さっきからずっと黙りこくって、妙に元気がないじゃないの?」
おまえのせいだ、おまえの。
「ね、喉が乾いたんじゃない? ジュース、飲もうか?」
いきなりアリスがクリスターからレイフに注意を移し近づこうと立ちあがりかけるのに、彼の心臓はひっくり返りそうになった。
「い、いらないよ。オレ、別に喉なんて乾いてない」
どうしてこんな上擦った声になるのか、レイフ自身にも分からなかった。
「レイフの方は、まだ声がわりしてないのね。可愛いボーイソプラノだわ」
そう囁いて、アリスはくすっと笑った。
レイフは真っ赤になって、両手で口許を押さえた。
「アリス、そんなふうに立ちあがったら、危ないよっ」
クリスターの制止の声が上がった、次の瞬間、ボートが激しく揺れた。
「あ、危ないっ」と叫んで、とっさにレイフは起き上がり、アリスを支えるために腕を伸ばした。そう、彼は大嫌いなアリス?ゴールドバーグを助けようとしたのだ。
その胸をアリスの手がどんと突いた。中腰の不安定な姿勢でいたレイフはバランスを崩し、揺れるボートの縁に脚をぶちあて、そのままアッシュフィールド湖の澄んだ水の中に見事に転落した。
何故?
数瞬の間、何が起こったのかレイフには分からなかった。湖に落ちてしまった、早くボートに上がらなければ。必死の思いで水面にうかび上がり、濡れて滑るボートの縁を掴むと、レイフは自力で体を半分引き上げた。
「おにいちゃん…た、助けて…」
咳き込みながら助けを求める、その顔が引きつり、歪んだ。
ボートの中では、転びかけたアリスをしっかり支えたクリスターが彼女の顔を覗き込みながら、「大丈夫?」というようなことを囁いていた。アリスはその体に馴れ馴れしくももたれかかって、ご満悦の様子だ。レイフには、そうとしか見えなかった。
(あ、あの女~!)
レイフの中で、何かが音をたてて千切れ飛んだ。
低い唸り声を発し、鬼のような形相でボートに這いあがると、レイフはアリスに向かって怒鳴った。
「アリス、おまえ、わざとオレを突き飛ばしたな! おにいちゃんから離れろっ、この…悪女! そ、そんなふうにべたべた触るな、クリスターはオレのもんだぞ!」
アリスは、そんなレイフを肩越しに振りかえり、白々と冷たい目をして言った。
「何、言ってるのよ。あなたが勝手に私にぶつかって、勝手に落ちただけじゃない」
「よっ…よくも、よくも、よくも…そ…んな……!」
怒りも過ぎると適切な言葉さえ出てこなくなる。
湖に浮かぶ小さなボートの上だということも忘れ果てて、レイフは激昂のあまり身悶えし、激しく足を踏み鳴らした。
ぐらりと、またボートが揺れる。
「レイフ、やめるんだ!」
クリスターの鋭い叱責が飛んだ。
「こんな場所で暴れるんじゃない。ボートが転覆したら、どうするんだい? ともかく今は先に岸に戻ることにするよ。話し合うのは、それからにしよう」
クリスターにたしなめられて、今にもアリスに飛びかかろうと身構えていたレイフは、青ざめた。
「ど、どうして、アリスなんかの肩を持つんだよ、クリスター」
クリスターの厳しい顔をそれでも懸命に睨みつけていたのだが、やがて続けていられなくなったようにレイフは顔を背けた。
レイフの胸は情けなさで一杯だった。そのまま力がぬけてしまったようにへなへなとボートの中に坐りこみ、岸にたどり着くまで彼は一言も発しなかった。
「さあ、このタオルで体を拭きなさい。それから、すぐにロッジに帰って乾いた服に着替えるのね。いくら夏だからって、そのままでいたら風邪をひくわ」
ボートを返しに行っているクリスターが戻ってくるまで、レイフはアリスと2人きりで岸辺に取り残された。
少し離れた場所にあるカフェのテラスにアイスクリームを買っている家族連れが見えるくらいで、他に人影はない。
レイフは無言でアリスからタオルを受け取った。彼女と2人でいるのはやはり嫌だったので、少し歩いて、大きな樫の樹の根もとに坐りこんだ。
「悪かったわね、さっきは。でも、本当にわざとじゃなかったのよ」
レイフを追いかけてきたアリスが、そう話しかけた。
レイフは顔を上げて、悲しそうな目で彼女を見た。
まるで傷ついた小さな子犬のようだ。さすがに良心が咎めたのか、アリスはもう1度、
「ごめんなさい」と囁いて、レイフの手からタオルを取り上げると濡れた頭や顔を優しく拭いてやった。
レイフは逆らわなかった。何だか今初めて見るかのような目つきで、間近な所にあるアリスの顔を見、つんとした鼻の辺りにうっすらとあるそばかす、気の強そうな眉とその下の伏せられた瞼を縁どる長い金色の睫毛が木漏れ日を受けてキラキラと光っている様子に、綺麗だなぁと見惚れていた。
「どうしてなんだよ」と、ぼそりとレイフは呟いた。
「どうして…クリスターにはあんなに優しいのに、オレには意地悪するんだよ?」
アリスはタオルでレイフの腕を拭いてやっている手を止め、目を上げた。何故か、レイフは心臓がどきどきと鳴り始めるのを意識した。
クリスターは、アリスのことが気に入っている。
今まで、クリスターが好きになったものは、レイフも同じように好きになった。クリスマスにもらった大きなテディ?ベア、水槽の中でキラキラ光る熱帯魚、一緒に頼み込んで飼うのを許してもらった子犬。
けれど、アリスは嫌いだ。大嫌いだ。
「だって、あなたはクリスターとは違うもの」
激しくなっていた心臓の鼓動が、一瞬、止まったかと思った。
「ち、違うって…どこが……?」
激しくうろたえながら、レイフは聞き返した。
「そうね…」
不安げに瞳を揺らせているレイフを見下ろしながら、アリスは軽く首を傾げて、考えこんだ。
「クリスターと同じ髪」
そう囁いて、アリスはレイフの濡れた赤銅色の髪の一房をそっと引っ張った。
「同じ瞳、同じ鼻、同じ唇…」
歌うように言いながら、レイフの頬を両手で挟むようにして、アリスは顔を近づけてきた。
レイフは、緊張のあまり息ができなくなった。アリスの草色の瞳をこんなに近くで見たことなどなかったし、こんなふうにアリスがレイフの顔を長い時間じっと見つめてくれたこともなかった。クリスターに対しては優しく手をつないだり頭を撫でたりするアリスだけれど、レイフはあまり触られたこともなかった。クリスターとレイフの一体どこがそれほど違うというのだろう。
「何もかもがびっくりするくらいに同じね…でも、違うわ」
アリスの指がレイフの頬をぎゅうっとつねって、引っ張った。
「痛いっ! な、何するんだよっ!」
レイフは腕を振り上げて怒ったが、アリスは身軽に彼から飛びのいていた。
「あはははっ、面白い子ね。レイフ、クリスターなら易々と女の子に頬っぺたをつねられたり、そのことにびっくりしてそんな間の抜けた顔をしたりしないと思うわ」
ひくっとレイフの喉が鳴った。大きく見開いた両目からは堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「レイフ、レイフ、ここにいたのかい。ごめんよ、遅くなって…」
貸しボート屋から戻ってきたクリスターの声を聞いたが、涙でかすんだレイフの目にその姿はよく見えなかった。
「レイフ、どうしたんだ?」
クリスターがはっと息を飲むのが分かった、その瞬間、レイフは木の根元から跳ね起き、転がるように逃げ出した。
「レイフッ!」
クリスターはすぐにレイフを追って駆け出そうとした。しかし、その手首をアリスが掴んで引きとめた。
「待って、クリスター」
「アリス…レイフに、一体何をした?」
クリスターの声に険悪なものがこもったが、アリスは気づいた素振りも見せなかった。
「別に大したことじゃないわ。レイフはあなたとは違う、そう言ってやっただけよ。本当のことでしょう?」
クリスターはアリスの手を荒々しく振り払った。クリスターがこんな乱暴な態度を見せたことはそれまでなかったので、アリスはさすがにたじろいだ。
「違う」
クリスターは氷のように冷たい目をして、言った。
「間違っているのは、アリスの方だよ」
そう言い残して、そのまま立ち去ろうとするクリスターに、アリスははっと我に返ると、その前に回りこむようにして立ちふさがった。
彼女も、かっとなっているようだ。
「待って、クリスター。レイフを追いかけてもいいけれど、その前に1つ約束して欲しいの。今夜、もう1度ここに来てちょうだい」
クリスターは、当惑したように瞬きをした。
「レイフにも、もちろんおじさんやおばさんにも内緒で、こっそりロッジを脱け出してきて…そうね、今夜12時くらい…」
子供はもう寝ている時間だよと一瞬言いかけたが、アリスもクリスター自身も、彼のことをまだ11歳なのだとは全く思っていなかった。
「僕1人で?」
クリスターは、考えに沈みながら、聞いた。
「そうよ。レイフは、駄目…あの子はまだ本当にねんねだもの。クリスター、私の言ってる意味は分かる…?」
アリスはそっと声を低めて囁くと、手を伸ばし、クリスターの腕に指を滑らせた。
クリスターは頬を少し赤くして、体をずらしアリスの手から逃げた。
この年の女の子は皆、こんなふうに積極的で大胆なのだろうか。これで普通なのだろうか。こんな時男の子はどういう反応をしたらいいのだろうか。怯んでいるとは、思われたくない。
「…分かっていると思うよ、アリス」
でも、レイフが…と言いかけた、その唇をアリスのキスが黙らせた。彼女の歯列矯正器具が唇にあたって、少し痛いキスだった。
「この続きは、今夜しましょうね。逃げたら、私、あなたのことを臆病者だと思うわ、クリスター。だから、きっと来てよ!」
そうやって一方的に約束を取りつけると、アリスは大きく手を振って、笑いながら、風のように駆け去っていった。
その姿を、クリスターは立ち尽くしたまま呆然と見送った。
ひりひり痛む唇に触れた後ふと指先を見下ろすと、引っかかって唇が少し傷ついたのだろう、微かに血がついていた。今度彼女とキスする時は、用心しよう。
(今夜…たぶん、もう1度することになりそうだし)
少し赤くなって、クリスターは胸のうちで呟いた。それから、そうしたいのかしたくないのか、自分の気持ちをはかりかねて首を傾げた。
アリスとキスするのは嫌いではない。女の子とする色々なことに興味がないとも言わない。いや、正直言って、何も知らない子供でいることはつまらない、あらゆる意味で早く大人になりたいとクリスターは思っている。
「でも、レイフが……」
今度は声に出して呟き、クリスターは、迷いに揺れ動く目で、アリスが消えていった方から弟が駆け去った方へと頭を巡らせた。
SCENE 3
12時5分前。
「あら、あなたの方が早かったのね、クリスター」
柔らかく草を踏む足音が近づいてくることにクリスターはとっくに気がついていたのだが、今初めて分かったというような素振りで後ろを振りかえった。
「うん…」
どことなくはにかんで、クリスターはうなずいた。
今夜は、明るい満月がよく晴れた夜空にうかんでいる。
月明かりの下で、アリスの長い髪は白っぽく、その顔も青ざめて、昼間見る溌剌とした彼女とは少し違って見えた。いつもはジーンズ姿の方が多い彼女が、淡い色の膝丈くらいのワンピースを着てきたせいかも知れない。
「おばさん達には見つからないで出てこれたの? レイフは?」
「大丈夫、皆、ぐっすり眠りこんでいるよ。レイフは、恐い夢を見たとか、よほどのことがないと朝まで起きないし」
アリスは、笑った。その笑顔も、いつもとは違う、おぼろげなもので、クリスターはもしかしてアリスも不安なんじゃないだろうかという気がしてきた。
「本当によかったの、アリス?」
「何が?」と問い返されて、クリスターは顔を赤らめて、うつむいた。
夜でよかった。アリスの目では、クリスターが今真っ赤になっていることまで分からないはずだから。
「そんな所につったってないで、こちらにいらっしゃいよ」と言いながら、アリスは小脇に抱えて持って来た厚手のブランケットを草地の上に広げた。
「用意がいいんだね…」
半ば感心し半ば鼻白みながら、クリスターはおずおずとアリスの隣に腰をおろした。
「こういうこと…今までもたくさんした…?」
レイフみたいな言い方になっているなと、今の自分の緊張ぶりがクリスターはおかしくなった。
「女の子にする質問じゃないわよ、クリスター」
「ごめん」
素直に謝るクリスターに、アリスは軽い笑い声をあげたが、すぐに真顔になった。彼女はクリスターの肩に手を置き、自分の方に振り向かせた。
「あ、待って。アリス、僕にさせて」
アリスは眉を跳ね上げ、面白そうに目を輝かせた。
案外クリスターが積極的なことは彼女を喜ばせたようだが、クリスターは、ただアリスの歯列矯正具が唇に引っかかってまた痛い思いをするのが嫌だったのだ。
そうして、クリスターはためらいがちにアリスの肩を抱き寄せて、彼女の歯に引っかからないように慎重にキスをした。しかし、彼の頭の片隅では、別のことが引っかかっていた。
レイフを残して来てしまった。
クリスターが唇を離すと、アリスは小さな溜め息を漏らし、それから、彼の肩を促すように引っ張った。
クリスターは再びアリスの唇に触れ、彼女の手が自分の手を取って導くままにその柔らかい胸を探り始めた。
しかし、唐突にクリスターは彼女から身を離した。
「何よ」
不機嫌そうなアリスの声に、クリスターは顔を背けて立ちあがり、すぐ傍の大きな樫の木の下まで歩いて行った。アリスから離れると、しばし、そのまま考えこんだ。
「するの? しないの?」
溜め息をつきながら、アリスは幾分投げやりに問いかけてくる。
もっと大人びた子だと思っていたけれど、やっぱりまだ子供なのだと、がっかりしているのだろう。
それは別に構わない。アリスにどう思われるかなど、クリスターには結局それほど重要な問題ではなかったのだ。
クリスターは、樫の樹の下の暗がりの中、顔を上げ、不機嫌そうなアリスを遠くに眺めた。
「アリス、僕のことが好き?」
クリスターの問いかけに、アリスは一瞬ひるんだようだ。
アリスには影の中に隠れているクリスターの顔は分からないだろうが、クリスターには彼女の当惑がはっきりと分かる。
アリスは不安げな手で胸を押さえた。
「え、ええ…好きよ」
らしくもなく緊張して、アリスは応えた。その声は、微かな震えを帯びていた。
どことなく居心地悪げに、アリスはクリスターの次の言葉にじっと耳を傾けている。
「僕が好きなら」
唇からごく自然に滑り出た言葉を、クリスターはぼんやりと聞いていた。
「レイフのことも好きになってくれないと」
アリスは、はっと息を飲んだ。
「それができないのなら、僕はこのまま帰るよ」
アリスがクリスターの言っていることを理解するまで、少しの時間を要した。
「何…何を言ってるのよ、あなた…本気じゃないでしょうね? レイフを、どうして私が好きにならなきゃならないの?」
クリスターはすっと目を細め、畳み掛けるように言い募った。
「アリスがもしいいと言ってくれたら、僕はレイフをここに連れてくるよ、今すぐに」
アリスは呆然となって、急に何か得体の知れないものに変わってしまった、彼女のお気に入りの少年を凝視した。さすがのアリスもこんな展開は予想していなかったのだろう、しばし、返す言葉も見つからなかった。
クリスターが好きなら、レイフのことも好きになれ? 全く、ありえない話だった。
「あなたって、いかれてるわっ」
腹立たしげに吐き捨てて、アリスは身を起こしかけたが、ふと気を変えたように坐り直した。
「でも、どうしてそんなことをしたいと思うの、クリスター?」
クリスターは微かにたじろいだ。
「ねえ、どうして?」
アリスから自分の姿が見えない所に隠れたまま、クリスター自身もどうしてと口の中で呟いていた。
どうして? どうして?
「だって…」
震える手で、クリスターは口許をそっと押さえた。
「好きなものは何でも…僕達はずっと共有してきたから……」
その目は愕然と見開かれていた。自らの言葉にぞっとしたように激しく頭を振りかぶり、クリスターは両腕で己の体を抱きしめた。
「いいわよっ」
アリスの叩きつけるような言葉がクリスターを鞭打った。彼は文字通り震えあがった。
「レイフを呼んで来るといいわっ。ただし、あの坊やがこんなことをしたがるとは思わない。あなたと一緒に私に触りたがるなんて思えないけれど!」
その言葉に慄き、クリスターは逃げるようにその場から駆け出した。
(レイフ)
クリスターは、すやすやと眠っている弟のベッドの脇に立って、その顔を神妙な面持ちで見下ろしていた。
(レイフ、レイフ…起きてよ)
ベッドの中で、手足を投げ出すようにしてぐっすりと眠りこんでいる弟の邪気のない顔を、クリスターは祈るような眼差しで見つめながら、床に跪いた。
(レイフ、起きて、僕と一緒に行こうよ…)
規則正しい寝息をたてている弟の顔を覗き込みながら、クリスターは揺すり起こそうとして手を伸ばしかけるが、何故か躊躇い、下ろした。
(何もかもを僕達は一緒にしてきた。一緒に生まれて、同じベッドで眠って、同じ服に玩具、同じスポーツに夢中になって…ずっと同じでいた…。だから、ねえ…)
クリスターは顔を近づけ、甘えるようにじゃれつくように、弟のつやつやした頬を唇で軽くつついた。すると、レイフが寝返りを打って顔を傾け、その口がクリスターの口にあたった。
慌てて、クリスターはレイフから身を引き離した。とっさに口許を押さえた。レイフの唇の湿っぽくて柔らかな感触が残っている。頬がかあっと熱くなった。
後ろめたいことをしたような気分になって、当惑したまま立ち尽すクリスターの視線の下で、レイフはふいに顔を歪めると、右手を顔の上に持ち上げて庇うような仕草をし、唇を震わせた。
「馬鹿…アリスなんか、大嫌いだ…嫌い……どっかにいっちゃえ…」
昼間彼女に苛められたことがよほどこたえたのか、夢の中でまで悔し泣きをして、2、3度、ひくひくと喉を鳴らすと、レイフはまた静かになった。
レイフの規則正しい寝息だけが、静まりかえった部屋の中、聞こえる。
クリスターの方はレイフの眠りを妨げることが恐いかのようにじっと息を潜めているというのに、レイフは全く気づかず、実に無邪気で幸せそうだ。
クリスターはそんな弟の様子をしばし見守った後、再び身を屈めて、半ばはねのけられた掛布をかけなおしてやると、その頭を優しく撫でた。