レイフは夢もない深い眠りに再び沈んでいったようで、その寝顔は安らかなものになっている。温かくて、健康そのものの幼い子供の顔だった。
クリスターとそっくり同じものだけれど、違っていた。
12分の差。
クリスターは密かに溜め息をついた。いくらクリスターが望んでも、今までずっとそうしてきたのだと言っても、今レイフを連れていくことはできないのだと彼は悟ったのだ。
(ゆっくりお休み、レイフ)
彼は、寂しそうな目をして、囁いた。
「好きだよ」
アリスは、何度目かの溜め息をつきながら、1人、湖の岸辺に腰を下ろして、眼下に広がる月明かりに光る水面を眺めていた。
クリスターは戻ってこないかもしれない。
「ふん、馬鹿馬鹿しいわ。あんな子供なんて、待っててやる必要もない。さっさと帰ってしまえばいいのに…」
同じことをずっと彼女はひとりごちていたのだが、実際帰ろうとしなかったのは、それ程、あの大人びた綺麗な少年が気にいっていたからだ。
しかし、さすがに年下の子供に振りまわされているこの状況に我ながら腹立たしさを覚え、やはり帰ろうとアリスが起き上がりかけた時、
「アリス」と、彼女を呼ぶ声が、すぐ後ろでした。
思わず「ひっ」と息を飲んで、アリスはうろたえつつ振りかえった。
すると、彼女の待ち人である赤毛の少年が、妙に悄然とした様子で佇んでいた。
「あ…ああ、びっくりした。クリスター、あなたって、まるで猫みたいに何の気配もさせずに近づいてくるのね…」
アリスは我知らず胸の上を押さえた。早くなった心臓の鼓動が感じられる。それから、クリスターが1人でいることに気づき、眉を寄せた。
「レイフは…駄目だったのね?」
クリスターはこくりと頷いた。
「だから…無理だって、言ったのに…」
クリスターは黙りこくったままやってくると、アリスの隣に腰を下ろした。
「レイフは、何て言ったの?」
月明かりにうかびあがるクリスターの横顔、決して彼女を見ようとはせず、己の想念に捕らわれている、誰も寄せつけない頑な表情に、アリスは少し不安になった。
すると、クリスターはゆっくりと首を横に振った。
「何も。僕は、レイフを起こさなかった」
アリスは首を傾げた。
「どうして? あなたは、レイフに一緒に来てもらいたかったんでしょう?」
クリスターはうつむいた。
「駄目なんだ。だって、レイフは…まだあんなに子供で…早く僕に追いついて欲しいのに…追いついてくれないんだ…」
「クリスター!」
アリスははっと息を飲み、思わず動転して叫んだ。クリスターの、じっと湖を睨みつけているその目から唐突に涙が零れ落ちたからだ。
「僕はレイフに一緒に来てもらいたかった…ずっと同じでいたかったのに…」
そう震える声で呟いて、クリスターは抱え込んだ膝の上に顔を伏せた。
アリスは何と声をかけるべきか分からなくて、しばらく、クリスターの細い肩が微かに震える様に魅せられたかのように見入っていた。
やがて、アリスは優しい声音で慰めるように囁きかけた。
「馬鹿ね、クリスター。泣くことなんてないわ。ずっと一緒になんていられるはずがないじゃないの。あなたとレイフは違う人間なんだから」
「違う!」
思いの他激しい声がそう否定するのに、アリスは黙りこむしかなかった。
「違う…違うよ…」
今度は、ふいに自信がなくなったかのように、弱々しい頼りなげな声が呟いた。
「クリスター…」
アリスは、ふいに、この風変わりな少年が心底愛しくなった。
本当は、もっときつい調子でたしなめてもよかった。こんな重度のブラザー?コンプレックスには、その馬鹿さ加減をうんと思い知らせて、間違いを正してやるべきなのだ。
例えどんなに姿形がそっくりでも、ずっと一緒にいて、何もかも同じにしてきたのだといっても、クリスターとレイフは、将来、同じ1人の女の恋人や伴侶になることはできないし、同じ子供の父親になることもできないのだという、当たり前のことに早く気づいた方がいい。そうする方が、本人達のためだろう。
しかし、アリスは実際にはそうはせず、手を伸ばして、微かに震えているクリスターの頭をいたわるように撫でてやりながら、語りかけたのだ。
「それでも、あなたはここに1人で戻ってきたのね、クリスター。レイフの為に待ってあげるんじゃなくて、1人でも先に行こうと…あなたがそう決めたんでしょう?」
クリスターの体が怯えたように大きく震えるのがアリスの手に伝わった。
2人一緒でないと恐いのだ。今まで1人で何かをしたことなどなかったから。クリスターが何を恐れているのか、アリスには分かったような気がした。
「大丈夫よ、クリスター。レイフは少し出遅れただけで、すぐにあなたに追いつくわ。それにね、こんなこと、別に大したことじゃないのよ…」
母親めいた優しい口調で言って、アリスはクリスターの肩に手を置き、ゆっくりと体重をかけて、その体を柔らかな草むらの上に敷いたブランケットに押し倒した。
クリスターは身を固くして、だからといってアリスをはね除けて起き上がるわけでもなく、唇を引き結び、不安げに揺れる瞳で彼女を見上げていた。
その両頬をアリスが手で挟むと、クリスターはびっくりしたように首をすくめた。
「綺麗ね」
まだ少し涙の残った、クリスターの琥珀色の瞳を覗き込んで囁くと、アリスは彼の額にキスをした。
クリスターは思わず目を閉じた。すると、その震える瞼の上に濡れた頬に、唇にと、アリスは順番にキスを与えていった。
クリスターはアリスの優しい愛撫にただ身を任せ、己の意思などどこかに置き忘れてしまったかのように、じっと横たわっていた。
(レイフ…)
その頭の中は、しかし、残してきた弟のことで一杯だった。
柔らかで清潔なベッドの中で無心に眠りをむさぼっていたレイフの幼い顔、その熱のこもった肌のすべすべした感触や甘い匂い。
アリスがしてくれる気遣いに満ちたキスさえ、つい触れてしまったレイフの唇の感触を思い出させるものでしかなかった。
レイフは、クリスターを映し出す鏡のようなもの、もしかしたら、あんなふうになっていたかもしれない彼自身。この期に及んで、やはりレイフがいるあの温かい暗がりにやはり戻りたいのかもしれない―。
アリスと2人きりでここにいることにクリスターは鈍い後悔の念に苛まれていた。しかし、そんな微かな迷いも、やがてアリスの指先に肌の敏感な部分を触れられ、ふっと漏らした熱い溜め息と共に消えていった。
「アリス…」
クリスターはふいに目を開けると、己の体を緩やかに撫で下ろしていた手を捕まえ、そのままアリスの体を抱きしめるようにして己の下に組み敷いた。
アリスは逆らわず、むしろ次にクリスターがどう出るのか興味津々の様子で、彼の下でされるがままになっている。
これでいいのだろうかと、おぼつかなげな手つきでクリスターがアリスのすらりとした脚を撫で押し開くと、彼女はくすぐったそうな笑い声をたてて、彼が下着を脱がすのを手伝ってくれた。
さてはこういうことがしやすいようにわざわざスカートをはいてきたのか。全く、大したものだと感心しながら、クリスターはたぶんこんな時にふさわしいだろうと思う台詞を囁いた。
「好きだよ」
そう口にした瞬間、クリスターはかあっと体が燃え上がったような気がした。
(好きだよ、レイフ)
一瞬、ここに来る前に弟に対して呟いた自分の言葉とだぶって、彼は慄いた。それから、突然衝動的な強い昂ぶりを覚え、仰向けになって横たわったまま誘うように微笑んでいるアリスに挑みかかっていた。生まれて初めて覚える激しい興奮だった。
「アリス…アリス…」
うわごとのように、もうあまり意味のなさなくなった名前を、クリスターは呼びつづけた。
そうして、初めはうまくいかなかったが、アリスが協力してくれたおかげで何とかうまく己を彼女の中におさめた。それだけの刺激でもう弾け飛んでしまいそうだったが、クリスターは低い呻き声をあげて体を前後に揺すり、そして、やはり呆気ないくらいに簡単に果ててしまった。
(レイフ…)
アリスの柔らかい胸に顔を埋め、とても穏かな気分で、クリスターは肌の下で激しく打っている心臓の鼓動を聞いていた。アリスの温かさがとても慕わしく、愛しくて、このままずっと抱きしめていたいと思った。
しかし、日頃が馴染んでいるものとは違う温もりと匂いに包まれていることに、やがて違和感を覚え、顔をしかめると、クリスターはそっと彼女から体を離した。
「クリスター?」
アリスの不思議そうな問い掛けには答えず、クリスターは彼女のすぐ隣に寝転がった。火照った体の上を吹きぬけていく夜風が気持ちいい。
1人でこういう特別な体験をした時、どういう反応をすればいいのだろうか。2人ならもっと、ああだこうだと言い合ったりできて、よかったのだろうか。それは、もう分からないけれど。
いずれにせよ、終わった。やり遂げた。成功した。
クリスターはひんやりとした空気を思いきり吸いこんで、吐き出した。
何しろ気が狂わんばかりに興奮していたので、少し乱暴だったかもしれないし、自分のしたいようにしすぎてしまったかもしれない。おまけに早く終ってしまったのでアリスには色々不満が残ったことだろうが、初めての性交なんて、きっとこんなものだ。
アリスから離れ、荒い息を吐きながら地面の上に横たわって、クリスターは頭上に相変わらず冴え冴えと輝く月を眺めていた。
(前と同じだ)
それで別に世界の何が変わるわけでもないし、確かに、こんなこと、別に大したことじゃないんだ。
隣にいるアリスが気だるげな声で何事か呟き体に腕を回してきたが、何となく応える気になれなくて、クリスターは黙っていた。それどころか、彼女には悪いけれど、少しわずらわしくさえ感じていた。
レイフの所に早く帰りたい。それに、いつもならばとっくに夢の中にいるはずの時間なのだ。
「ね、クリスター、今、何考えてる?」
緊張と興奮が冷めた後、急速に疲れと眠気がこみ上げてくるのを覚えながら、クリスターはあくびをうまく押さえこんで、アリスの耳にはとても優しく響くだろう声でこともなげに答えてみせた。
「アリスのことだよ」
そんなことは嘘に決まっているということは、誰よりも彼自身がよく知っていた。
SCENE4
「っ…うぅっ…!」
明け方近く、レイフはベッドの中でしきりと寝返りを打ち、びくりと体を震わせたかと思うとふいに目を見開いた。
(あ…あれ…?)
むくりと身を起こし、自分がいる場所を確認するかのようにきょろきょろと辺りを見まわした。それから、ここがキャンプに訪れている湖のほとりにあるキャビンの自分達の部屋であることを思い出し、肩を大きく揺らせるように溜め息をついた。
(何か、変な夢見た…)
レイフはベッドの上に坐りこんだまま、しばらくの間、ぼんやりした。ひどく汗をかいて、暑くて、もやもやと変な気持ちがしていた。
夢。よくは覚えていないけれど、アリスが出てきたような気がする。
レイフは怒ったように顔をしかめて、再び横になろうとした。
(あれっ?)
その時、レイフは奇妙な顔をして、パジャマのズボンと一緒にパンツをまくり、恐る恐る手を突っ込んで探ってみた。ぬるりと濡れていた。
レイフはばつが悪そうに唇を歪め、下着の中から手を出すと、しょんぼりと頭をうなだれた。
(おねしょ…しちゃった…?)
何となく納得できない気がして、助けを求めるように隣のベッドに視線を向けた。
クリスターは反対側に顔を向けてぐっすりと眠りこんでいる様子だ。
「おにいちゃ…」と呼びかけて、レイフは言葉を飲みこんだ。理由はよく分からないけれど、何だか後ろめたくて、恥ずかしい。
クリスターには内緒にしよう。
それから、そのまま寝るのも気持ちが悪かったので、汚れたパンツを脱ぐと、取り敢えず丸めてベッドの下に隠しておいた。
朝になったら、お母さんにごめんなさいと謝って、洗ってもらおう。下着を脱いでしまったのでおなかとお尻がすーすーするけれど、夏だし、それで風邪をひくことはないだろう。
そうして、再び掛布を引き上げて寝転がったのだが、変に目が冴えてしまって、レイフは寝つけなかった。
変な夢を見た。
そのことばかりが気になって、思い出そうとすれば、心臓の鼓動が激しくなった。
大嫌いなアリス?ゴールドバーグが出てきたのなら嫌な夢だったのに違いないのに、実際それほど嫌な気持ちはしないことも不思議だった。
(だって…あのアリスが、何だかさ…)
レイフはベッドの中で1人赤くなって、ぶるぶると頭を振ると、目をつむって、無理矢理にでも寝る構えに入った。しかし、忘れようと思えば思うほど、気になってくるものなのだ。
(いつも嫌な奴だけれど…夢の中のアリスは嫌じゃなかったよ…いつもあんなふうなら、オレはきっと…仲良くできるのに…)
そう、いつもクリスターには優しいのにレイフには意地悪ばかりする彼女が、夢の中ではとても優しかったような気がしたのだ。
「レイフ、レイフ、どこにいるんだい?」
クリスターの呼ぶ声が聞こえても、レイフは返事をせずに、ロッジの裏手に広がる林の木の根もとに隠れるように坐りこんでいた。
しかし、どんなに息を殺していても、クリスターから隠れることなどできなかった。いつだって、レイフがどんなにうまく隠れたつもりでも、クリスターは彼の居場所を易々と探し出してしまうのだ。
この時も、土を踏みしめる足音がすぐにレイフのもとに近づいてきた。
「こんな所にいたのかい、レイフ。アリスが待っているから、早くおいでよ。彼女はもう行っちゃうんだよ。だから、お別れを言わないと」
レイフは悲しそうにかぶりを振った。
「行かない」
その声は、今にも泣き出しそうな震えを帯びていた。
「アリスが帰っちゃうのが、そんなに嫌? おまえが、そんなに彼女のことが好きだったなんて思わなかったよ」
レイフはびっくりしたように顔を上げた。
「好きなもんかっ! あんな奴、早くいなくなればいいって、ずっと思ってたよ! だって…だってさ、オレのこと苛めてばかりで…クリスターをオレから取り上げて…すごく、すごく嫌な思いばっかりしたんだから…」
この日の朝、突然、アリス達家族が休暇を終えて帰るのだという話を聞かされて、ショックを受けたのは、クリスターではなくレイフの方だった。しかし、アリスがいなくなることが寂しいなどと認めたくなくて、真っ赤な顔で、しどろもどろになりながら反論している。
それを聞きながら、クリスターはふと別のことに気がついたように眉を寄せた。
「ねえ、レイフ、風邪でもひいたの? 声が変だよ」
唐突に聞かれて、レイフは黙りこんだ。顔をしかめ、喉をそっと押さえて、ぼそりと呟いた。
「知らない。そうかもしれない。パンツを脱いで寝ちゃったから、寒かったのかもしれない」
「えっ?」
「…何でもない」
そんな弟をクリスターはまじまじと見つめ、実際レイフが居心地悪くなるくらい、穴が開きそうなくらいに見つめ、ふっと微笑んだ。
「風邪じゃないと思うよ、それ」
レイフは瞬きをした。それから、嬉しそうに笑っているクリスターの顔を凝然と見つめながら、己の喉に、確かめるように、また触れた。
12分の差。
何かある度に、その差をいつも意識してきた。どうしても超えられない、とても大きな違いであるかのように考え、焦り、不安を覚えてきた。けれど、そんなに思いつめることはなかったのかもしれない。
「母さんの言った通り、やっぱり、それ程差はなかったね」
そう、たった12分の差でしかないのだ。
「行こうよ」
クリスターはレイフに向かって手を差し出した。
「僕と一緒に行こう。今アリスにちゃんとさよならを言っておかないと、彼女が行ってしまってから、すごく後悔すると思うよ」
レイフは小さく頷き、その手を取った。クリスターが引っ張るのにあわせて、起き上がった。
双子兄弟は手を握り合ったまま、しばし、お互いの顔を見詰め合った。
頭上に生い茂る葉の間から漏れてくる金色がかった光が、彼らのそっくり同じつややかな紅い髪や顔の上で踊っている。
辺りはしんと静まり返り、木々の緑に囲まれ隠されて、まるで、ここには2人だけしか存在しない、隔絶された別世界にいる、そんな錯覚に一瞬だけ捕らえられた。
「おおい、クリスター、レイフは見つかったのか?」
父親の呼ぶ声が聞こえた。
2人は夢から覚めたように瞬きをし、そちらを振りかえった。林の向こうに、彼らがこの夏休みに両親と一緒に泊まっているロッジが見えた。
「急ごう」
クリスターが言うのに、レイフは素直に頷き返した。隠れてこっそり泣いていたことがアリスにばれないように眼の辺りを手の甲でこすり、じっと見守っている兄に笑いかけた。
「うん」
彼が11才の夏―。
まだまだ一人前の大人とは言えなかったけれど、それでも、もう小さな子供ではない兄弟がそこにいた。
再び、彼らを呼ぶラースの声がした。
2人は頷きあい、彼らを待ちくたびれているだろう大切な人達のもとに、手をつないだまま、一緒に走り出した。
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