なぜソリストではないのか。これだけの腕を持っているのに、とつづくはずだったが、言葉にならなかった。
「ごめん、見失った。もう一度、セカンド?テーマからいいか?」
二人はページを一つ戻した。
中原さく也の音色は、圧倒的な力で悦嗣の耳を惹きつける。
ピンと張った艶やかな、そして迷いのない音。そこから紡ぎだされた旋律に、指を止めて聴き入ってしまいたい誘惑を、悦嗣は感じていた。
と同時にプロの力を思い知る。このヴァイオリンに、自分のピアノは対等ではいられないことを。
一楽章終わるごとに簡単なチェックを行うが、それはほとんど必要なかった。演奏中、タイミングを計りたい所で悦嗣がさく也を見ると、弓が、音が、応えてくれるからだ。 チェックはその時のことを書き付ける、ちょっとした『間』でしかない。
一度通した後、休憩が取られた。
「すごいな」
パラパラと膝に乗せた楽譜をめくりながら、悦嗣は呟いた。
ペットボトルから直接水を飲んでいたさく也は、悦嗣を見る。
「なぜソロでやらない? それだけ弾けるのに。それともあっち(ヨーロッパ)じゃ、ソロで回っているのか?」
スタジオ内は禁煙なので、悦嗣は火を点けずに煙草を咥えた。
尋ねてからしばらく間が空く。それにしても中原さく也は表情の乏しい男だな…と思った。
「寂しがりやなんだ」
その表情の無い顔で、さく也は答えた。
今のは冗談なのだろうか?
「冗談」
無言の疑問符への答えは、一瞬の沈黙の後。とても冗談を言った口調には聞こえない。
「真顔で言うなよ」
「笑うのに慣れてない」
「それも冗談か?」
「これは本当」
悦嗣はあきれたように息を吐いた。
こいつは俺をからかっているのか…とも思った。こちらに端正な横顔を向けて、彼はペットボトルをラッパ飲みしている。
そう言えば、前回の印象がない。
第一ヴァイオリンが若い東洋人だったことは覚えていた。妹の夏希がその名前を口に出したので、認識したくらいだ。演奏では第一ヴァイオリンの音をよく聴いて弾いたつもりだが、自分のことで必死だったのと、今回ほど音のインパクトはなかったように思えた。
――本当に上手いんだ、こいつ。
確かにアンサンブルでの演奏も、プロの中では水準以上だろう。しかし今日の演奏を聴いた後では、それすらも平凡な演奏に感じられる。
中原さく也の才能は、ソロで遺憾なく発揮される性質のものだ。
「セカンド?テーマで止まったのは、見失ったんじゃないんだ。聴き入ったっていうか、聴き惚れたっていうか。あの後、引き摺られるのを抑えるのに苦労したぜ」
「そうなのか? そんな風には聴こえなかったけど」
「俺は素人同然だからな、プロの演奏に圧倒されるのはあたりまえだけど、それを差し引いてもすごいと思うぞ。ずっと聴いていたかった」
さく也は少し首を傾げている。相変わらず無表情で、悦嗣の言葉に何のリアクションもない。
「ま、聞き飽きた言葉かも知んないけどな」
煙の立たない煙草にそろそろ我慢出来なくなり、喫煙フロアに行くために悦嗣は立ち上がった。ドアに向う足を止め、振り返らずに言った。
「聴いていたかっただけじゃない。もっと本腰入れて音楽やっとけば良かったって後悔した。今の俺じゃ、子供の発表会クラスにしかならないってのが、悔しい。その音に対して、ほんと失礼だよな。…一本吸ってくる」
英介がスタジオ入りしたのは夕方の五時過ぎだった。あとの二人も一緒で、第二ヴァイオリンのミハイルが、『男気』と漢字で書かれたTシャツを嬉しげに広げて、さく也に見せる。
「浅草に連れて行けってうるさくって」
無邪気に喜ぶミハイルを見て、嬉しそうに英介が言った。
「さく也のレクチャー、よくわかったろう? 俺が口で言うより、あいつのヴァイオリン聴く方が早いと思って」
交代した理由を言い分けする。いつもの笑顔で。
「まあな」と短く答えて、悦嗣はさく也の方を見た。
仲間と一緒になっても、無表情さ加減は変わらない。悦嗣に人見知りしていたわけではないらしい。
「じゃ、成果を見せてもらおっかな」
と英介はケースからチェロを取り出す。ウィルとミハイルも自分の楽器を持って、ポジションについた。
最後に位置に着いたさく也が、悦嗣を一瞥する。応えて悦嗣はうなずいた。
前回は言葉にして『ずたボロの出来』だった。『止まらなかった』ということなど、評価されるに値しない…と、悦嗣は思っている。中一日とは言え、同じ音では許されない。
新たな六つの耳はすでに、第一音を待ち構えている。期待とはあきらかに違うプレッシャーを発しながら。
さく也の弓が微かに揺れる。ピアノとチェロが反応して、第一楽章が鳴った。五小節のユニゾンが終わってテンポが変わる。ピアノ先行で第二ヴァイオリンとヴィオラも加わり、音楽はいよいよ広がっていく。
抑えたアレグロ。劇的起伏に富み、それでいて決して大げさではなく、繊細な情感を伴い、二つの主題は展開していった。
一昨日、聴く余裕など無かった悦嗣の耳に、今は四つの弦の音が押し寄せる。混乱せずに自分を保って入られるのは、午後、自分の為に演奏されたさく也のパイロット?プレイのおかげだ。
上手く弾けているかどうかはわからない。しかし生みだされる音楽は聴こえる。
それぞれの楽器の声音も聴こえる。
成果が予想以上だったことに、英介は驚いていた。
――エツのスイッチ?オンってとこだな
承諾させてからの一日で、ずい分弾きこんだらしい。テンポの緩急にも遅れずについてくる。こちらはさく也のおかげだろう。
それとさく也。第一ヴァイオリンが上手くリードしている。よほど相性がいいのか、感性が似ているのか、彼の演奏もまた、横浜と埼玉での演奏とは違って聴こえた。
ピアノのみならず、他のパートをも引っ張るそれを、第二ヴァイオリンとヴィオラも感じているようだった。
「どうしたんだ、サクヤの奴、珍しく積極的だな?」
第二楽章が終わって、さく也が一度演奏を止めた。それからピアノの元に歩み寄ると、悦嗣に何か話しかける。そのいつもとは違う様が、ウィルの気を引く。
「ピアノもさ。この前とじゃ別人だな。あれって二日前だったよね? どんな魔法使ったんだ、エースケ?」
ミハイルが興味深げに尋ねる。
「あれが彼本来の姿だよ。やっと戻るべき姿に戻ったんだ。本番まで明日一日しかないのが残念だ。きっと面白い解釈のブラームスが出来たのに」
「どういう意味さ?」
英介はミハイルを見る。
「今は俺たちに合わせるのでいっぱいいっぱいだけど、あと一週間あれば自分の中で消化して、逆に引っ張ってくれるからさ」
さく也が席に戻った。そしてヴィオラのウィルに、
「Eが少し低い。チューニングしなおせって」
と伝えた。
「あいつが言ったのか!?」
ムッとウィルの口元が引き締まる。
「さすが調律師、耳いいねぇ」
とミハイルがからかうと、さく也は彼に向き直り言った。
「セカンドはいつもより鳴らした方がいい。多分ファーストが鳴らしすぎてるせいだと思うけど、弱すぎる」
ミハイルはポカンと口を開けた。英介は二人の反応にクスクス笑う。
「くっそー、素人のくせに」
ウィルの口を塞ぐように、Aが鳴った。それにミハイルが続けた。
「もう素人じゃない。明後日にはプロとして同じステージに立つんだから。それにウィルのEはいつものことだろ? 僕のは半分サクヤのせいさ。ちゃんと言ったろう? 自分が鳴らしすぎるって」
「鳴らしすぎるせいだと思うけど…だ。人の話は正しく聞けよ」
「エースケ、ウィルが八つ当たりする」
英介が口を開きかけると、もう一度Aが鳴った。
さく也がチューニングし直すと、他の三人も倣った。
Slow Luv op.1 -4-
〔金曜日〕
一秒でも時間が惜しい悦嗣に、英介は当日までの間、スタジオを用意してくれた。
「おまえまで、付き合わなくていいのに」
そして練習にも付き合ってくれた。
「少しでもいいコンディションで、エツには明日がんばってもらいたいからな。どーせオフだし、建設的ないい暇つぶしさ」
「暇つぶしかよ」
残りの三人は観光に出かけるとかで、前日同様、夕方にスタジオ入りの予定だった。
さく也はともかく、ウィルヘルムとミハイルは日本が初めてで、今回は観光もスケジュールに組み込んでいると、悦嗣は聞いていた。
来日した四人はオーケストラのオフを利用して、ヨーロッパでもアンサンブルのサロンコンサートを開いたり、音楽祭に出演したりしているらしい。特にさく也以外はWフィルの所属で、日ごろの練習も同じくしているから、息もよく合っている。
「中原さく也はWフィルじゃなのか」
「うん、所属はNフィルで、ウィーンでは中堅くらいかな。うちのオーディションを、受けるように勧めてるんだけど、面倒臭いって受けないんだ」
「面倒くさい?」
「変わってるんだ、あいつ。そういうとこも誰かさんと似てると思わないか?」
英介はニヤニヤと笑った。
「おまえなぁ」
と、悦嗣はその額を軽く小突く。そしてピアノの前に座ると、指慣らしに簡単なメヌエットを弾き始めた。
英介も傍らに立って、それを楽しげに聴いている。
学生時代を二人して思い出していた。英介が演奏する時の伴奏はいつも悦嗣が担当し、テストが近づくとレッスン室に篭って、遅くまで練習したものだ。自分のテスト練習はなおざりだった悦嗣も、彼の練習にはまめにつきあった。
思えばあの頃から、すでにそれは芽吹いていたのかも知れない。
今では無くなった二人だけのこうした時間が、実はとても嬉しい。
「さく也はすごいだろう?」
メヌエットが終わったところで、英介が話し掛ける。学生時代の懐かしい空気は霧散した。
悦嗣はブラームスの楽譜を開く。第一楽章の冒頭の音符を見ると、第一ヴァイオリンの音が聴こえるような気がした。
「ああ、すごいな」
昨日、中原さく也と合わせた感想を話した。
あまりの『音楽』に、聴き入って手が止まってしまったこと、演奏再開後も何度も止まりそうになったこと、その音が耳に――今も楽譜を見ただけで――響いてくること。
「あれは天性のソリストだ。アンサンブルするのは反則だろーが。セカンドはどうしてもその差を埋められない。ヴィオラのEが目立つのも、チェロのテンポが鈍く聴こえるのも、あれの所為だ」
こうしてあの音を言葉にして表現すると、鳥肌が立つ思いがする。
「それから、自分が素人だって思い知らされる」
「さく也が本気だしたのは、今回、この前のセッションが初めてだ。ステージではあんなことはないよ。きっとエツが本気にさせたんだ」
「おまえは褒め殺しの天才だな」
「子供は褒めて伸ばせって言うだろう?」
彼は甘い笑顔を作る。
「冗談じゃなく、エツに触発されたんだよ。さく也は人に対してひどく慎重で、なかなか自分を出さない、感情にしても音楽にしても。だから無防備に自分を出すようになるのは、よほど相手を信頼しているってことなんだ」
英介はチェロ?ケースの方に動いた。
「きっかけは何でも構わない。さく也もエツも、その才能を無駄にしてほしくないから。
…ま、俺が一緒に演りたいってだけなのかも知れないけどさ。Wフィルのファースト(ヴァイオリン)は、若返りが必要だし。それに、俺は特にエツのピアノのファンだから」
彼は話ながら、楽器とパイプ椅子をピアノの傍に持ってきた。
英介の言葉に、悦嗣は胸の辺りが熱くなるのを感じていた。それはだんだんと首から頬へと上っていく。
隔てられた四年など、結局、何の用も為さなかったのだ.。想いを再確認したおかげで、むしろ感情の抑えがきかなくなり、表情に出てしまいそうになる。
「指慣らしに、もう一曲どうだい? あれ合わさないか? エルガーの『愛のあいさつ』」
頬が紅潮するのではないかと思った。
『愛のあいさつ』は、彼の披露宴で二人で合わせた曲だった。英介への気持ちに気づいた、あのスピーチの後で。それを思い出すと、頬の熱さは途端に冷めていく。
「『愛のあいさつ』 考えてみれば不吉な曲だぜ」
「なんで?」
「五回、友達の披露宴で弾いたけど、その内二組が離婚して、一組は離婚調停中だ」
英介は「いい打率だな」と爆笑した。
「笑ってる場合か。調停中はてめぇだろ? ほら、チューニングしろよ」
と悦嗣が促すと、英介はチェロを持って座った。
さあセッション…と、悦嗣がブレスで出を合図した時、スタジオのドアが開いた。
入って来たのは観光に行っているはずのさく也だった。
「あれ、さく也どうした?」
英介は手を止める。さっきまでの話題の主がタイミングよく現れて、悦嗣は思わず彼を凝視する。
「寝過ごしたら、置いてかれた。ホテルにいるのも暇だから」
荷物置きに用意された机にヴァイオリン?ケースを置くと、大きなあくびを一つしてさく也は答えた。
「じゃあ、一緒に暇つぶししようか。寝覚めの一曲、エルガーの『愛のあいさつ』なんだけど」
と、いたずらっぽく英介。
「俺は暇つぶしの道具かよ」
悦嗣の口が、への字に曲がる。
その言葉にさく也の口元が綻んだように見えたのが、悦嗣には意外だった。
〔土曜日〕
〝ウィーン東京カルテット+ONE 室内楽はいかがです??
このコンサートは曽和英介と中原さく也が出演すると言うことで、クラシック界は注目していた。
英介は日本人初のWフィルのチェリストであり、その実力は楽団内でも評価が高いと言われている。
そしてザルツブルグ国際コンクールにおいて、十四歳で二位入賞を果しながら、それ以後表舞台から姿を消して、すっかり忘れられた伝説の中原さく也が、初めて日本で演奏するのだ。
音楽関係者の関心は、否が応でも高くなる。先に行われた横浜と埼玉のコンサートは、期待を裏切らない出来で、その評判が東京のチケットをソールド?アウトにしていた。
…という噂は、悦嗣の耳にも入っている。そして噂は本当なのだと、ゲネプロで実感した。
悦嗣は楽屋の鏡の前に座り、自分の顔を見る。
「情けねぇ面だ」
ゲネプロでの四重奏は素晴らしい出来だった。息の合ったその音は、間違いなくウィーンの音。悦嗣はその中に紛れ込んだ異物で、どうしても聴き劣りするのは否めない…などと口にしようものなら、英介に叱られる。
すでに最初の曲が始まっている。悦嗣の出番まで、インターミッションを入れて一時間半強というところか。それが終われば、この緊張から解放される。
ドアがノックされた。
「小夜子」
「久しぶりね」
ドアを開けると、曽和小夜子が立っていた。意外な訪問に、悦嗣は目を見開く。
「来てくれたのか」
「エースケに聞いたの。久々にエツが弾くんだもの、聴かなきゃ」
ドアを大きく開け放して、彼女を中に招き入れた。
「ガッカリさせなきゃいいけどな」
「エツは本番に強いから、楽しみにしてるわ。でもひどい顔色」
「緊張してるんだ。吐きそう。コーヒー、飲むか?」
楽屋に用意されたポットから紙コップにコーヒーを注いで、彼女に渡した。
「自信家のエツにしては、ずい分と弱気ね」
悦嗣は首をすくめてみせた。
彼女とは英介の渡欧の際に会ったきりだから、四年ぶりになる。
「変わらないな。編集長になったんだって? おめでとう」
「ありがとう。エツも変わらないわね。なんか若返ったみたい。仕事はどう?」
「まあまあ。これのおかげで商売上がったりだけどな」
悦嗣はどれだけ強引に――立浪教授にまで手を借りて――英介が、このコンサートに自分を引き摺り込んだか、彼女に話して聞かせた。
「エースケは、エツのピアノ、好きだもの」
と、小夜子は笑った。
「もう始まってるだろ? 聴かなくていいのか?」
「横浜の時に聴きに行ったの。ピアノ五重奏だけ曲目が変わったから、それだけ聴きに来ればいいって、エースケが」
彼女の口は、ためらいなく英介の名前を語る。二人が離婚調停中だということを、感じさせない。
「聞いたよ、離婚の話」
悦嗣の言葉に、小夜子は目を伏せた。
「そう」
「なんとかならないのか? エースケはまだおまえに惚れてるぞ」
上げた彼女の目は笑んでいる。
「わかってる。お互い、嫌い合ってるわけじゃないもの」
「だったら」
「でも、夫婦であり続ける必要もないの。お互い、それがわかってる」
「小夜子」
言いかける悦嗣の口を、小夜子の人差し指が抑えた。
「これは私達の問題よ。エツは独身だし、わからないでしょう?」
「それを言われると、反論出来ない」
悦嗣は苦笑った。
小夜子は部屋の時計を見る。
「そろそろ行くわ。頑張って。大丈夫、エツなら」
「そうかな?」
「そうよ、だって『月島の奇跡』が太鼓判押してるんだもの。それに二人が組むと、無敵じゃない。自信持って。いつもの俺様面してよ」
そう言うと立ち上がり、彼女は楽屋を出て行った。その後ろ姿を見送って、ドアを閉める。
小夜子のつけていた香水の、花のような香りが残っている。離婚の話をもっと追求したかったのに、英介同様、上手くかわされてしまった。
彼女が去り一人になると、吐き気にも似た緊張感が戻ってきた。
今、どのくらいまで進んでいるのだろう。
「いつもの俺様面…か」
パンッと、両手で頬を打った。
Slow Luv op.1 -5-
暗い舞台裏、悦嗣はインターミッションが終わるのを待っていた。
借り物の燕尾服は、着慣れないせいか気恥ずかしい。今日はノータイ。スタンドカラーのシャツはスタッドを一つだけ使い、銀色の十字架がついたペンダントをつけろと指示された。ペンダントは演奏の邪魔になるからと断った。開いた胸元が気になるので、もう一つスタッドを付けさせてくれと言ってみたが、却下された。
あと五分。
悦嗣は楽譜を小脇に挟み、両手を見た。
「エツ、手、貸してみ」
いつの間にか英介が、目の前に立っていた。
言われた通り手を差し出すと、彼は自分の両手で包み込むように握りしめた。その手は温かく、やさしい感触がする。
「やっぱり冷たい。エツは緊張すると手が冷たくなるから」
「そうだっけ?」
ここが暗くてよかった…と悦嗣は思った。きっと今、赤面しているに違いない。
「でもそういう時って、出来がいいんだよな。エツは緊張したら開き直って、肩の力が抜けるから。今日はいい演奏が出来る」
「呪文みたいだな、落ち着いてきた」
「よかった、いいデビューになるよ」
「何言ってやがる。こんなことは、これっきりだ」
「みんなが放っておかないさ」
「本人にやる気がなきゃ、無意味だろ?」
「やる気になるよ」
英介は自信たっぷりの口ぶりでそう言うと、手を離した。
「なるもんか」
本ベルが鳴った。
英介は袖に向った。チェロ、ヴィオラ、第二、第一ヴァイオリン、ピアノの順で出る。
悦嗣の前にはさく也。彼は悦嗣を一瞥する。それはいつも通りの表情のない目だったが、かえってそれが英介の手の温もり同様、悦嗣を落ち着かせる。
この第一ヴァイオリンが、きっと自分を引っ張ってくれる。
「GO」のサインが出て、英介が一歩ステージに踏み出す。
悦嗣は拳を、グッと握った。
ヨハネス?ブラームス作 ピアノ五重奏曲ヘ短調作品34
第一楽章 アレグロ?ノン?トロッポ ヘ短調4分の4拍子 ソナタ形式
第二楽章 アンダンテ?ウン?ポコ?アダージオ 変イ長調 4分の3拍子 三部形式
第三楽章 スケルツオ アレグロ―トリオ ハ短調 8分の6拍子
第四楽章 ポコ?ソフテヌート―アレグロ?ノン?トロッポ―テンポⅠ(プリモ)―
プレスト?ノン?トロッポ ヘ短調 8分の6拍子 序奏付きロンド形式
ブラームスが三十一才の時に完成させた、唯一のピアノ五重奏曲。情熱的でありながらメランコリック、しなやかな情感や諦念といった、後年の作風の片鱗を垣間見せる。この曲は一八六八年にパリで初演され、プロイセンの王女に捧げられた。数多のピアノ五重奏曲の中でも最高傑作と評される、名曲中の名曲である。
鍵盤に触れた瞬間、悦嗣はブラームスの作り出した音楽の中に取り込まれた。
自分の指から生み出された音は、四つの弦に吸い寄せられる。
それは縒り合され、そして螺旋となり、ステージを巡り、ホールを巡る。
一瞬のようであり、永遠のようであるこの一曲。ただ、不思議と落ち着いていられた。
昨日までとは違う、楽屋で感じていたものとも違う。幸せな緊張感――悦嗣のその感覚は、形容するとそういったところかも知れない。
長く忘れていた『楽』の世界。緊張感さえも魅力的に変容する。
「こんな緊張感なら、永遠に続いてもかまわない」
と思えるほど、悦嗣は『楽』に酔っていた。
「エツ?」
立ち上がった悦嗣に、英介はミハイルとの会話を止めて声をかけた。
「ちょっと風にあたってくる。調子に乗って飲み過ぎた」
と答えて、悦嗣は非常口の表示が出ているドアに向った。
日本での三公演を無事終えての打ち上げが、ホテルのバーを借り切って行われていた。英介以外の三人は、明日の夜便でウィーンに帰ることになっている。
今回の演奏会が盛況であったことと、滞在最後の夜ということもあって、みんなの酒量も自ずと進んでいた。特に悦嗣には、次々に注ぎ手がやってくる。さすがに悦嗣も『公式の場』での限界に近づいていて、酔い覚ましがそろそろ必要だった。
非常口を開けると地上に下る非常階段が右手に、バー専用の空中庭園に上る短い階段が左手に伸びている。
悦嗣は迷わず左に足をかけた。
演奏がいつ終わり、どうやって楽屋に戻ったか覚えていない。記憶は楽屋のドアを、夏希が蹴破るがごとく開けたところから始まった。
「エツ兄! なんで黙ってたのよ! ひどいじゃない!」
彼女の声はあまりに大きく、音の世界にいた悦嗣を容赦なく現実に引き戻し、隣室の英介をも引き寄せた。
「エースケさんも、教えてくれたらよかったのに!」
「それじゃあサプライズにならないじゃないか」
英介が例の最強の笑顔で、夏希をかわしてくれたのはありがたかった。
その後、次々と知人が訪れ、慌ただしく打ち上げ会場へ移動し、余韻や心地よい疲労感に浸ることは許されなかった。
やっと一人になれる。人に囲まれるのは嫌いではないが、今はあの時の音を思い出したい気分なのだ。
五段ほどの階段を上ると、こじんまりと整えられた庭に出た。夜景の邪魔にならないように、常夜灯は地面に直置きにされていた。
半月が浮んでいる。そのまわりに、薄い雲と高層ビルを従えて。
「風流だなぁ…」
悦嗣は上着のポケットから煙草を取り出すと、火を点けた。
ライターの小さな炎に照らされたのは、自分の手。二時間前の感触が、まだ残っている。弾ききったんだな…と、あらためて見直す。
ゆっくりと煙を吸い込み、紫煙の行方を追って上げた目に人影が映った。
「うわぁ!?」
思わず声が上がる。
庭を囲む手すりに身をもたせて地上を見ていた人影は、その声に気づいて振り返った。夜に慣れた目が、中原さく也だと確認した。
「お…おどかすなよ」
悦嗣は口から落ちた煙草を拾い上げながら言った。
「驚いたのはこっちだ」
さく也はまた外に目を戻す。
悦嗣は隣に立った。
「何してるんだ、こんなところで?」
大仰に驚いたことの、バツの悪さをごまかすように話し掛けると、
「酔いさまし」
と答えた。
眼前に都会の夜景が広がる。週末とあってビルの窓の灯りは少ない。それでも地上に下りるにしたがい、灯りの数は増えていく。使い古された『宝石のような』という表現が、やはりぴったりと合う。
「俺も。調子に乗って勧められるまま飲んじまった。さすがにキツイな」
「強そうだ」
「どうかな。でも若い時ほど飲めなくなった」
さく也がクスクス笑う。
「なんだよ」
「若い時ほどって、まだ若いじゃないか」
「今よりもっと若い頃だよ。それにな、日本じゃ三十過ぎたら、もうおじさん呼ばわりなんだぞ」
新しい煙草に火を点けて、すぐに消した。ここのところ本数が増えたことは自覚している。さく也はまだ笑っていた。アルコールが入っているせいか、彼は普段になくよく笑った。
「今日、いい演奏だった」
そしてよく話す。
「自分でもそう思う。出来はともかくとしてな」
「いい出来だったよ」
「そ…そりゃ、どうも」
酔っているとはいえ、中原さく也に誉められるの悪い気はしない。
演奏の間中、悦嗣の耳は無意識に第一ヴァイオリンの音を追っていた。一度も臆することなく弾きつづけていられたのは、その音が必ず聴こえていたからだ。
「ファーストのおかげだ。俺はその音に何度も助けられたよ」
それは素直な気持ちから出た言葉だった。
「その音があると思うから、開き直って弾けたのさ」
さく也の反応はなかった。少し奇妙な間が空く。
「おまえ、照れてるな?」
悦嗣はからかい気味に言った。言った自身が照れているのだが。
「酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
答えたさく也の額を、軽く悦嗣の手が弾いた。笑い声が夜に響く。
二人は並んで手すりにもたれた。テールランプが流れるアスファルトの川を、見るとはなしに見ていた。
「この話、エースケに無理やり推しつけられた時は腹立ったけど、今は受けてよかったと思ってる。世界レベルの音と一緒に演れたんだからな。この先二度とない機会を与えてもらって、あいつに感謝してる」
「これからだって演れるさ。あんたのピアノは弾きたがってる」
「俺のピアノは、いいとこ学生レベルだ」
「レベルなんて関係ない。聴く奴が決めるんだ、その演奏の価値を。あの拍手、聞いたろう?」
さく也は悦嗣の方に向き直った。
「あの拍手はクインテットのものだ。アンバランスな演奏にスタンディングオベーションするほど、東京の客は程度低いのか?」
悦嗣の耳に、割れんばかりの拍手の音が蘇った。フラッシュバックされる自覚のない記憶。ただ拍手の音は鮮明だ。
「少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った」
その言葉は呟きに近かった。
悦嗣の手が、彼の頭をクシャクシャと撫でた。
「さんきゅ、でも酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
二人はまた笑った。
ひとしきりに笑った後、不意にさく也の両腕が悦嗣の首に回される。
まだ笑みを作ったままの悦嗣の唇に、彼のそれが重なった。閉じられた目元に、月明かりが睫毛で影を作る。
冷たい唇、熱い舌先。
突然のことに腕を引き剥がすことも出来ず、悦嗣はただ呆然と立っているだけだった。
やがて名残惜しげに唇が離れて、ほろ酔いの潤んだ瞳が、呆けた悦嗣を見つめた。
「俺、一人部屋なんだけど」
と言う言葉に、やっと悦嗣は我に戻った。
酔いはすっかり醒めていた。
「い…いや、俺は…、ごめん、俺、その気は…その、無いんだ」
しどろもどろに答える。まださく也の唇の感触が残っている。
彼は一度瞬きして、悦嗣の首に回した腕を外した。
「そうなんだ? てっきり同じだと思ってた。エースケのこと、いつも熱っぽい目で見てるし」
「え、ええ!?」
さく也は悦嗣から体を離す。
「でも違ったのなら、今のキスは忘れてくれ」
彼は腕時計を見た。
「そろそろ戻らなきゃな」
そう言うと、再び呆けて立ち尽くす悦嗣に、おかまいなしに歩き出した。
悦嗣は無意識に唇を指でなぞって、その後姿を見ていた。
さく也の姿が短い階段を下り、視界から消える頃になって、ようやく彼の足も前に出た。
Slow Luv op.1 -6-
〔日曜日〕
夏休みにはまだ早く、連休もない六月の日曜日。夕方の国際線は、それでも出入国や見送り?出迎えの人々で大した混みようである。
その人ごみの中に悦嗣もいた。夜の便で離日する英介以外の三人を見送る為に。
ウィルヘルム?ブルナーとミハイル?クルセヴィッツは、英介や日本で懇意になった人々と、楽しげに話をしていた。
悦嗣は彼ら以外と面識がなかったので、ロビーのイスに腰掛けて、頭上で交わされる英語の会話を聞いていた――と言っても、内容が理解出来るほどの英語力はない。その上ひどい二日酔いで、頭の回転も今ひとつだ。
それでも聞いているフリをしているのは、隣に中原さく也が座っていたからである。
さく也は本に目を落としていた。チラリと横目で見ると彼の唇が視界に入る。昨夜の感触が、悦嗣の唇に蘇った。
結局あの後、席を同じくして飲むことはなかった。先に戻ったさく也は、座るなり眠ってしまっていたから。
「なんだ、やっぱり酔ってたんだ」
と、悦嗣は自分に納得させた。
それでもどうにも意識してしまい、お開きになるまで彼を避けたのである。
そして、今もやっぱり彼を避けていた。少しあからさまかも知れない。
悦嗣の耳は、さく也の音を覚えている。酔った上の冗談であったなら、気まずいままで別れたくなかった。
でも何て話しかけようか。
視界の端のさく也が、顔を上げて悦嗣を見た。思案していたことを見透かされたのか?
「あ、いや、退屈だなって思って」
英介達はいつの間にか離れた場所で輪を作っていた。知人があいさつに来るたびに、その方向へずれるためだろう。
「あいさつしなくていいのか? 知り合いもいるだろう?」
空港に着いてから、さく也の元にも何人か別れのあいさつに来たが、彼は軽く会釈するだけでほとんど話さなかった。相手も本命はウィルやミハイルであるらしく、定形句を二言三言残して、すぐに二人の元へと歩み寄って行く。
「見知っているだけだ。話したことない」
だから悦嗣の問いにも素っ気ない。
〝さく也は人に対してひどく慎重で、なかなか自分を表に出さない?
英介の言ったことが思い出される。
「何読んでるんだ?」
会話になるような話の糸口を探す。
「ミハイルが日本土産に買った本。暇つぶしに貸してくれた」
本を閉じて、悦嗣に表紙を見せた。
「『日本の名勝百選』? 面白いのか?」
「それなりに」
沈黙。
「今回は観光も目的だって聞いたけど、どっか周ったのか?」
「寝過ごしてばかりだったし、東京近辺は地元だから」
沈黙。
努力は三、四回で底を尽いた。もともとさく也とは大して話したことのない悦嗣だった。昨夜ぐらいである、何となく会話が弾んだのは。
それもお互いアルコールが入っていたからだと言える。
さく也は閉じた本を開いて目を戻してしまった。悦嗣は知らずに溜息をついていたのだろう。
「昨日のことなら、忘れてくれと言ったろう?」
とさく也が言った。
悦嗣は彼を見る。さく也は片頬を向けたままだった。
「覚えてたのか…」
「記憶が無くなるほど飲めないんだ。それに酔った勢いで誘ったことはない」
口調は淡々としていたが、彼の頬は少し上気している。
〝無防備に自分を出すようになるのは、よほど相手を信頼してるってことなんだ?
また英介の声がした。
「なあ、」
上気した頬に語りかける。さく也が振り向いた。
「俺、その気はないとか言ったけど、」
どうしてこんなことを口走ったのかわからない。
「おまえが気づいた通り、エースケが好きなんだ」
不器用な感情表現を見せられたからなのか。
「エースケだから、好きなのかもしれない」
自分に寄せられる信頼を――英介の言った通りだとして――裏切りたくなかったからか。
「どうして俺に?」
だからさく也のその問いに答えられず、