「いや…何でかな?」
と逆に問い返す有様だった。
彼が悦嗣を見つめる。悦嗣の目を逸らさせない。
「そのことは、あんたにとって、ものすごい秘密なのか?」
「エースケには一生言うつもりはないから、そう言うことになるかな」
さく也の表情が緩んだ。
「だったら、チャンスはあるってことだ…」
「え?」
さく也の言葉は呟きに近く、周りの声に溶け込んで、何を言ったのか聞き取れなかった。
聞き返す悦嗣の鼻先に、彼の顔がある。
キスをされるのではないかと思った時、
「さく也、そろそろ入ろうかって」
と、英介が呼びに来た。
さく也はゆっくり立ち上がる。悦嗣がぎこちなく続いて、三人はウィルとミハイルの元へ向う。見送る側はロビーから先には進めない。
「また機会があったら演ろうぜ。久しぶりに緊張感があって面白かった」
ミハイルが言ったことを英介が訳すと、悦嗣は苦笑した。
三人は見送る人に軽く手を振り、ゲートの方に向った。
入り際、さく也は入り口にいた係員に何やら話しかけた後、悦嗣達の元へ駆け戻って来た。
「どうしたんだ? 何か忘れ物か?」
英介の問いはあっさり無視され、彼は悦嗣の前に立った。
手に持っていた『日本の名勝百選』を適当に開く。ページには青く晴れ渡った空に優美にそびえる富士の写真、その青空にボールペンで文字を書き始めた。ペンは入り口の係員に借りたものだろう。
アルファベットと数字の羅列。
「俺の連絡先」
書き終えるとそれを悦嗣に渡し、笑みを作った――素面で見た初めての笑みである。それから再びゲートへ向う。
「…って、おい、これミハイルのじゃ」
後姿を悦嗣の声が追う。しかしさく也は振り返りもせずにまっすぐ行き着き、係員にペンを返して入り口を潜った。姿はすぐに人波に消えた。
悦嗣は手に残された『日本の名勝百選』を見る。雲ひとつなかった青空に躊躇いもなく綴られた文字は、彼の口元を緩ませた。
空港の展望台から、三人を乗せた飛行機を見送る。
既に薄暮を通り越して、夕陽の名残は西の雲に細い筋となっていた。それでも雲を抜けた機上の彼らは、まだオレンジ色の夕陽を見ることが出来るかもしれない。
悦嗣にとって現実離れした一週間が終わった。十年分は鍵盤を叩いた気分だ。寂莫感がないと言えば嘘になる。が、英介には口が裂けても言えない。
「いい演奏会だったよ」
隣に立つ英介の声は、感慨深げに響いた。
「そうだな、記憶はぶっ飛んでるけど、音は覚えてるよ」
「どうだ? 少しはやる気出たろう?」
「…出るもんか」
言葉の最初に間が開いた。「しまった」と思った時には、案の定、英介が突っ込んだ。
「今一瞬、肯定しそうになったくせに」
〝あんたのピアノは弾きたがってる?
英介の言葉に、あの無愛想なヴァイオリニストの声が重なる。
たちまち耳はあの時の『楽』の音を追い、そして指先は鍵盤の重さを懐かしむ。
「エースケ、おまえなぁ」
あきれた口調で答えることで、その感覚を記憶の隅に追いやった。
悦嗣のそんな胸中を見抜いているのかいないのか、英介は破顔する。
「もう行こうぜ、腹減った」
二人は滑走路を背にして、並んで歩き始めた。
「エースケのおごりだからな」
「なんで?」
「この一週間、本業を犠牲にして協力したんだ、当然だろ?」
「はいはい、好きなだけ飲み食いしてくれ。エツのやる気の代金と思えば、安いもんだ」
「なんじゃそら」
〝少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った?
『日本の名勝百選』が、悦嗣の手の中でささやく。
「…そうだな、俺もだよ」
英介に聞こえない声で、それに応えた。
Op.1 end
Slow Luv op.2 -1-
(1)
〝今日、帰国した。夕食でも一緒にどうだ??
そのメールが悦嗣の携帯電話に入ったのは、実家のレッスン用ピアノを調律し終わった時だった。送信相手のアドレスは見覚えのないアルファベットだったが、直感的に曽和英介からだと思った。帰国と言う文字を使う知り合いは、今のところ彼しかいなかったからだ。
「変な時期に帰ってくるんだな」
十二月と言えば、演奏会の大盤振る舞いの時期である。無神論者がイベント的に騒ぐ日本のそれと違い、キリスト教圏を持つヨーロッパでは、一年の内で最も大切な行事のクリスマスがある月。オーケストラは『彼』の誕生日を、美しい音楽で人々と祝うのだ。それにWフィルは毎年、ニューイヤー?コンサートで年を明けることになっている。
〝いいけど、今晩、月島学オケのクリスマス?コンサートがあるんだ。よかったら一緒に聴きに行かないか? 晩飯はその後ってことで。六時に正門前でどうだ??
曽和夫妻はまだ離婚調停中だったので、その関係で帰って来ているのかも知れない。そんなことを考えながら返信すると、すぐに〝ok?が返ってきた。
調律したてのピアノを試し弾きする。臙脂色のグランド?ピアノは母好みの柔らかな音色がした。加納四きょうだいは皆、このピアノにお世話になった。
六月のアンサンブル?コンサート後も、悦嗣は調律の仕事を続けていた。英介が言った通り、『加納悦嗣、何者?』としばらく周りは騒がしかったが、本人が演奏活動に積極的ではなかったので、一ヶ月も経つ頃には普段の静けさが戻った。
ただ出身校の月島芸大だけはさすがにしつこく、講師の口をしきりに勧めてくる。大学行事の折は必ず招待状が来て、公開レッスンや模範演奏の依頼も忘れない。レッスンを受けたいと、直接訪ねて来る学生もいた。今のところ、それらを断ることが煩わしく、悩みの種だった。
今夜の月島芸大学生オーケストラのクリスマス?コンサートも、大学からご丁寧な招待状がきた類なのだが、妹の夏希が所属していて、彼女の最後の学オケコンサートということで――四回生なので――、聴きに行くことにしたのだ。
試し弾きの曲が終わる。鍵盤カヴァをして蓋を閉めると、商売道具を持ってレッスン室を出た。
(2)
私立月島芸術大学では、毎年十二月の第二土曜日に学生オーケストラがコンサートを催す。時期的なこともあってクリスマス?コンサートとされていた。構内の音楽ホールでこじんまりと催される小規模なコンサートなのだが、親しみ易いプログラムとチャリティも兼ねていたので、近隣の住人は毎年楽しみに足を運んでいた。
今年のメイン曲は合同合唱団付きでヘンデルの『メサイア』から抜粋、それとラデッキ―行進曲にクリスマス?キャロル数曲が予定されていた。
六時半の開演に合わせて、人々が正門を潜る。それを横目に悦嗣は英介を待っていた。約束の時間を既に十五分ほど過ぎていたが、待ち人はまだ来ない。
――時間にきっちりしてるあいつが、珍しいな
と思って時計を見るために落とした視線上に、彼の前に止まった靴が入った。
「遅かったな、何かあったかと思ったぜ?」
目を上げると、立っていたのは英介ではなかった。
右目の下に小さなほくろ。見忘れることのないポーカーフェイス。
「おまえ、中原…」
「道が混んでたんだ、ごめん」
抑揚のない声は、中原さく也だった。
「なんで、ここに?」
「あんたに誘われたから」
コートのポケットから携帯電話を取り出した。画面を悦嗣に見せる。そこには昼間に悦嗣が打ったメールの文面が表示されていた。
「あのメール、おまえだったのか? 帰国ってあったから、てっきりエースケだと思った」
「帰国って言ったら、エースケなんだな」
「そりゃあ…」
中原さく也とはあのコンサート以来会っていない。彼の住所と電話番号が書かれた『日本の名勝百選』は本棚に並んでいたが、連絡したことはなかった。
あのコンサート自体、一時の夢のような体験だった。その時間を共有した英介以外の三人もまた、夢の中の登場人物で、戻った日常生活においては存在感がまるでない。
ただ思い出す時には、中原さく也は鮮明だ。その弦の音と――あの唇の感触と。
しかしそれも時折りのこと、やはり『帰国』と言えば英介しか思い浮ばない。
「開演は何時? まだ入れるのか?」
口篭もった悦嗣を気にする風でなく、さく也が言った。さっき一瞬トーンが下がったように感じたのは、気のせいだったか?
「そうだな、急ごう。ホールまで距離あるから」
時計を見直し、悦嗣は歩き出した。
さく也と肩を並べて歩く。遠ざかっていた記憶が、そろりそろりと蘇ってきた。
月とビルと悦嗣とさく也。切り取られたあの場面――何を話せばいいのかわからない。
チラリとさく也を見やる。横顔からは表情が読み取れない。
「今の時期、忙しいだろ?」
変に意識するのも良くない。恋愛の有無はともかくとして、こうして再会したことは何か縁があってのことだろうし、自分を訪ねてくれたことを素直に喜ぶことにした。
「移籍することになって、その関係で時間が出来たから」
「移籍? どこに?」
聞き返した悦嗣に、さく也は不可解な目の表情を見せた。
「Wフィル」
「ああ、そうなのか。エースケ、喜んだだろ? 来て欲しがってたから」
「あんたが言ってたんじゃないのか…」
「え?」
「Wフィルのオーディションを受けさせたらどうかって、あんたが言ってたってエースケから聞いたけど」
彼の目の意味がわかって、悦嗣はため息をついた。
「エースケの野郎、目的の為なら、相変わらず何でも使うヤツだな」
半年前、似通った手口でまんまとアンサンブル?コンサートに引き摺りこまれた悦嗣である。あの時は卒業単位を大目に見てもらった恩師を使われた。実際、恩師本人も喜んで協力していた節が無きにしも非ずだが、巻き込んだのは英介なのである。
「あ、でも、Wフィルって言えば世界最高峰じゃないか。その腕に相応しいと思うぞ、俺も」
一応、この場にいない英介をフォローする。これもやはり惚れた弱味というところか。
「ありがとう」
そのフォローに、さく也は小さな声で答えた。すっかり陽は暮れていたので確信は持てない。しかし冴えたその頬に心なしか照れが浮んだように、悦嗣には見えた。
そうこうするうちに、音楽ホールに着いた。開演まもなくの会場は満席に近く、二人は最後列に近い端の席を、ようやく見つけて座った。
「盛況なんだな?」
ざわめくホール内を見渡して、さく也が言った。
「入場券は安いし、日本人好きする選曲だしな。演奏もそこそこ聴ける。ファースト?チェロには、俺の妹がいるんだ」
四回生だけパンフレットに顔写真が載っている。チェリストの欄の夏希を指差した。さく也がそれを覗き込んだところで、一ベルが鳴った。開演五分前である。
ロビーに出ていたり、間際に滑り込んできた客が、通路を慌ただしく通り過ぎる。悦嗣に気づくと、何人か足を止めて声をかけた。それはサークルの後輩であったり、同期であったり、教授であったり。本ベルが鳴って客電が落ちるまで続いた。
(3)
前半のプログラムが終わってのインターミッションに、一番に声をかけてきた人物を見て、悦嗣は苦笑した。
「なんだ、その笑いは? おまえも水臭いな。来てるのなら声かけろよ」
白髪交じりだが、それほど年配ではない彼は、悦嗣の肩をばんばん叩いた。
「あんたは鬼門だからな、ここんとこ」
悦嗣は肩を竦めた。
さく也は彼と目が合って、軽く会釈する。彼も人懐こい笑顔でそれに応えた。笑うと更に年若く見える。
「あれ、君、見た顔だな? 私の講義取ってたっけ?」
「月島出身じゃねーよ。ああ、中原、これはここの教授の立浪さん」
「よろしく。これってのはひどいな。『恩師の』ってつけるべきだろ、加納クン?」
立浪教授は『恩師の』の部分を強調する。「ほざけ」と悦嗣は短く発した。
「招待状出してたろう? こんな隅っこに座ってないで、来賓席に来ればいいのに」
「とんでもねぇ。黙って聴くだけじゃ済みそうにないからな」
「よくわかってるじゃないか。例の件、考えてくれたか?」
「講師の件なら、この前、断ったでしょうが。俺はちゃんと仕事持ってんですよ」
「だから非常勤で良いって言ってるだろ」
「人に教えるなんて、出来ねぇよ。もっと適任いるっしょ?」
「『月島の奇跡』の折り紙つきだ」
「またエースケか。いい加減、結託すんの止めろよな」
悦嗣の口調はすっかり学生の頃に戻っている。立浪教授は気安い性格で、試験期間以外は研究室を開放していたので、学生達の出入りも多かった。悦嗣も英介もその中にいて、特に可愛がられていた方だと言える。良いようにこき使われていた気もするが。タメ口になってしまうのも、またそれを許されているのも、悦嗣だからこそだろう。
「加納は私に借りがあるでしょ?」
この人懐こい笑顔がくせもので、英介はこの教授を手本にして、最強の笑顔に開眼したのでは…と悦嗣は思っている。
「卒単の借りなら、半年前に返したぜ、釣りが出るくらいに」
「私の借りはね。でもおまえ、花井先生と米本先生にも借りがあったよな、た?し?か」
あきれて思わず、
「汚ったねぇ」
と声が大きくなる。
クスリ…と、さく也が隣で小さく笑った。
「なんだよ」
「借りを作り易い体質なんだな」
さく也が答えた。
「ああ、思い出した。どっかで見た顔だと思ったら」
立浪は二人の短い会話に割って入った。悦嗣とさく也は、彼を見た。立浪はさく也の方に目を向ける。
「君は中原さく也くんだね?」
と言ったところで、五分前の予ベルが鳴った。
「続きは終わってから、ゆっくりな。中原くんとも話したいし」
立浪は空いていた悦嗣の真後ろの席に座った。終演後に速攻逃げる魂胆は見透かされている。
悦嗣は大きく息を吐いた。
(4)
「加納はね、有名人なんだよ。一年の頃から月島じゃ知らない人間はいなかったくらいだ」
立浪教授は隣に座るさく也に、悦嗣や英介達が学生だった頃のエピソードを話していた。さく也は興味深気に聞いていたが、話の肴にされている当の悦嗣はまったく相手にせず、外方を向いてアルコールを口に運んでいる。
クリスマス?コンサートが終わった後、案の定、振り切れなかった立浪教授に連れられて、悦嗣とさく也は彼の行きつけの店で飲んでいた。
立浪教授との同席は嫌ではない。学生の時もよく飲み食いに連れて行ってもらった。卒業後も英介が大学に残ったこともあり、時折りは飲みに行っていたが、悦嗣が転職し、彼も助教授から教授になって忙しくなってからは、少し間遠くなっていた。だからこうして旧交を温めるのは、本来嬉しいことなのだ。
しかし今日は、ただ楽しく飲みにきたわけではないことを、悦嗣は知っている。
「とにかく実技は常にトップクラスでね、練習嫌いで曲の好き嫌いも激しいんだけど、課題はちゃんとこなして、そこそこの成績を取って行くんだ。本番に強いっていう典型。ただ学科に弱くて、私の比較概論を落としたのも、とにかくレポートの出来が悪くてね。 私なんかまだ提出してもらえただけマシだったかな。 音楽史のレポートなんて、踏み倒して卒業していったらしいから」
「そんな昔の話、してんじゃねえよ」
「じゃあそろそろ、今の話しようか?」
立浪教授は微笑んだ。苦虫をかみ殺す…今の悦嗣の表情を表現するにふさわしい言葉だった。
月島芸大の非常勤講師の口を、立浪教授は特に熱心に勧めてくる。卒業の時も外部に、それもまったく畑違いのメーカーに就職が決まった悦嗣のことを大げさに嘆いて、いずれは講師にするから大学に残れと勧めていた。
半年前のアンサンブル?コンサートで演奏家としてステージに立った悦嗣は、この世界で少なからず注目されていたし、現役生の刺激にもなっている。話題性を求める大学側の利害にも沿おうというものだ。
「ダメダメ。人に物を教えるのは性に合わない」
「サークルでは面倒見、良かったじゃないか。今でも語り草だぞ、初代部長の手腕は」
「だから、後輩の面倒見るのと、学生を指導するのがなんで一緒くたなんだよ」
と言って思い出した。これと似たような会話をしたことがある――英介と。あの時はバイトのピアノ弾きと、クラシック?アンサンブルのピアノ弾きを同列にした内容だった。今回の一連のことは、つまりはそこから派生しているのだと、感じずにはいられない。
「人を指導するのは同じだろう。あの時はおまえ自身も学生だった。だから教えるのは後輩しかいなかった。でも今はちゃんと大学を卒業した学士で、講師になれば教える相手は学生しかいない。ほら、同じじゃないか?」
「すり替えだっちゅうに」
ヒートアップする二人の会話は、周りの目などお構いなしだ。この攻防戦に負ければ悦嗣はまたもや、英介にしてやられたことになる。
「なかなか頑固だな」
あきれたように教授が言った。
「どっちが。まったく」
悦嗣はグラスをあおった。そこで一先ず『停戦』。これ以上押し問答をしたところで、意地になった悦嗣に隙は出来ないと思ったのか、立浪教授が下りた格好になったが、決着がついたわけではないことを悦嗣は知っている。
ため息をついた教授は、放ったらかしにしていたさく也に向き直った。
「昔はもっと可愛かったんだよ、この子も。先生、先生ってなついてくれたものなのに」
「デタラメ教えるなよ」
悦嗣の声が教授を越えて、さく也に届く。
「照れてるんだよ」
いたずらっぽく教授は笑った。そして「ところで」と話をつなげる。
「今回はいつまで日本に? もし時間があるなら、特別公開レッスンをお願い出来ませんか?」
悦嗣に対するのとは打って変わって丁寧な口調。さく也は顎を支えていた腕を外した。
「それとも、マネジャーか誰かを通さないとダメかな?」
「プライベートで来ているので。それにレッスンを人につけるのは苦手だから」
「レッスンじゃなくてもいいんですよ。模範演奏でも。世界レベルの音を、うちの学生に聴かせてやって頂けませんか? 音楽は本物を聴くことで豊かになるものだから、君の弦の音をぜひ聴かせたい」
――こいつが受けるもんか。
これは悦嗣の心の声。確かに中原さく也の音を聴くことは、いい勉強になるだろう。レッスンをつけるのは苦手かも知れない。しかし、あの音を聴くだけでもそれに勝るものが得られる。
さく也はどんな表情でこの話を聞いているのだろうか…と彼を見る。
視線に気づいたのか、彼もまた悦嗣を見た。
「いいですよ、弾くだけなら」
意外な言葉がさく也から出て、喜んだのは立浪教授。驚いたのは悦嗣である。
「そのかわり、俺もお願いしてもいいですか?」
「いいとも。何でも言ってくれたまえ。日にちでも時間でも、そちらの都合を優先させるから」
「十日ほどいますから、その間ならいつでもいいです。お願いは、加納さんの講師の件をしばらく引っ込めて頂けませんか?」
更に意外な言葉が出る。今度は立浪教授が驚いた。
「それは、どう言う意味かな?」
「彼と共演する話が出ているので、そちらに専念してもらいたいから。しばらく音楽から遠ざかっていたせいか、彼本来のピアノからはまだズレがあるように思えます。人のためにではなく、自分のために時間を割く方が先決だと思うので」
あのさく也が滑らかによく喋る。きっとアルコールが入っているせいだ。
それより何より、彼の話はまったくの初耳だった。共演のことなど何も聞いていない。
「そうなのか、加納?」
「え、いや…その」
「そうか、遂にプロとして食ってく覚悟が出来たか、水臭いな。なんで私に言わないんだ」
立浪教授の意識がさく也から、再び悦嗣に戻る。
悦嗣はどう答えていいのかわからず、口篭もることしか出来なかった。さく也はと言えば涼しげな顔をして、空になったグラスを軽く上げてギャルソンを呼び、おかわりを頼んでいる。
「なんだ、なら講師の話はしばらく凍結してもいいぞ、加納。演奏活動するなら、話は別だ」
上機嫌な教授に対して、答える言葉の見つからない悦嗣であった。
Slow Luv op.2 -2-
(5)
クリスマス?コンサートの打ち上げと、忘年会を兼ねた飲み会でさんざん飲んだ夏希は、二日酔いの典型的な症状で朝を迎えていた。月島芸大学生オーケストラ団員の四回生は、この演奏会が弾き収めだ。。だからその打ち上げでは例外なく、どの学生も自分の限界以上に飲んでしまうのだった。どこからどうやって帰ってきたのか、夏希の記憶は飛んでいた。
あくびで吐き出された息が、まだアルコール臭を帯びている。
「おはよう、頭いたーい…、クスリない?」
パジャマ姿のまま居間に入ってきたそんな我が娘を見て、母親は遅い朝食の用意の手を止めて、ため息をついた。
「二日酔いに効くのなんてないわよ。まったくもう、いい年頃の娘が、二日酔いになるほど飲むなんて」
ため息をつかれた夏希は、言われたことを気にする風でもなく、テーブルのサラダ?ボウルからプチトマトをつまんだ。母がその手を軽くはたくと、トマトはボウルの中に戻った。
「先に着替えてきなさい。エツがお友達を連れて泊まってるから、そんな格好でウロウロしないで」
母がコンロに目を戻すのを確認して、夏希は再度プチトマトをつまみ、今度は口に放りこんだ。
「友達? 誰? エースケさん? それとも秋本くん?」
「初めての方よ。だから早く。お兄ちゃん達はもう起きてるんだから」
「へいへーい」
もう一つトマトを頬張った。着替えに戻ろうと体を向き直した時、ドアが開いた。
「エツ兄! 昨日、聴きにきてくれた?」
入ってきたのは悦嗣で、夏希は抱きついた。酒臭い息に年の離れた兄は、顔をしかめた。
「行った行った。おかげで疫病神に捕まったけどな」
「何それ? あれ?」
夏希は悦嗣の後ろに誰か立っていることに気づいた。
首を伸ばして見る。確かに今まで兄が連れてきた友達の中にはいなかった顔である。が、まったく知らないというわけでもない。
相手は夏希と目が合ったので、軽く頭を下げた。右目の下のホクロに目が止まった。
「えっ、もしかして中原さく也…さん?」
付け足したような敬称は、さすがに呼び捨てはまずかろうと言う、一瞬の判断からだ。
「夏希、早く着替えてきなさい」
母の再度の促しは、少し怒りモードだった。夏希は舌をぺロッと悦嗣に見せて、今度こそ素直に居間を出て行った。
悦嗣はさく也にテーブルの席をすすめた。母が温めた味噌汁を二人の前に置いた。
立浪教授から悦嗣とさく也が解放されたのは、夜中の二時だった。
悦嗣はそこそこ自分の酒量を知っているし、立浪教授の前で酔いつぶれて、意識の無いうちに何かを承諾させられることを警戒し、努めて注意していたので、最後まで正気を保っていられた。
かたやさく也はと言えば、知らぬ間に眠ってしまっていて、泊まっているホテルも聞き出せない状態だった。たまたま悦嗣の実家に近く、連れ帰ったのである。妹の夏希が遅かったせいかまだ母は起きていたので、ちゃんと布団の上で眠れたのは助かった。
「あの子ったら、幾つになってもガサツで困るわ。やっぱり男兄弟に囲まれて育ったせいかしらね。ちゃんとおはようって言った?」
「言ってない」
と、悦嗣が言い終わらないうちに、どたどた足音も高く夏希が居間に戻ってきた。
「おはようございます! 先ほどはどうも失礼しましたっ。私、この『不肖な兄』の妹で夏希と申します」
まっすぐさく也の方に歩み寄りその手をとると、握手した。ぶんぶんと音がしそうな勢いである。
さく也はされるにまかせ、かろうじて「どうも、中原です」と呟いた。
「感激、ホンモノに会えるなんて。昨日、後輩が中原さく也が来てるって言ってたけど、本当だったんだぁ」
そこから先は機関銃の如き単語の羅列が、延々と続く。血縁者たる母も兄も口を挟めないのだから、赤の他人のさく也など太刀打ち出来ない。それでもその目に嫌な色は見えなかった。彼女の天真爛漫で嫌味のない性格が、人を不快にさせないことを悦嗣は知っている。
それに――さく也と二人ではさほど会話は進まない。六月に成り行きでクインテットを組んでステージに立ったが、親交を深めるには至らなかった。何しろ悦嗣がコンサートに出ることが決まってから本番までは五日ほどしかなく、その時間はすべて練習に費やされたからである。それ以後、会う機会もなかった。
そして――さく也の自分に対する気持ちを、悦嗣は図りかねていた。打ち上げの夜のキスの意味も、空港ロビーでの言葉の意味も。
夏希のおしゃべりな性格は、朝食の時間を明るくしてくれる。だから無理に止めようともしなかった。
(6)
「ユニークな妹だな」
食べ終わってから悦嗣は、離れのレッスン室にさく也を案内した。言葉の洪水の中に浸かるのにも、さすがに限界が見えてきていたので。
「一日一緒にいたら、耳鳴りがするぞ」
エアコンのスイッチを入れながら、彼の言葉に答える。噴出し口から温風が流れた。
振り返り、今度は悦嗣が聞いた。
「兄弟は?」
壁一面は書棚になっていて、楽譜が並んでいる。さく也は近寄って一冊を手に取り、頁をめくった。
「弟がいる、双子の」
「双子?」
悦嗣は意外に思った。てっきり一人っ子と言う答えが返ると予想していたからだ。お互いの家庭環境まで話す間柄にまだないから、親兄弟の影が見えないのはあたりまえだが、それ以上に、彼はそれを想像させない。
「へえ、同じ顔がいるのか」
「二卵性だからあまり似てない」
次の答えは素っ気なかった。なので会話もそこで終わり。悦嗣は夏希の才能を実感した――このさく也相手に途切れる事無く喋りつづけることが出来るのは、一種の才能と称することが出来よう。それは立浪教授にも言えることだった。あちらは年の功も加わっているので、計算も入って始末に負えないところがある。
中原さく也は月島芸大で模範演奏をすることになった。プロの演奏家に頼むのだから、本来、相応のギャラが発生するのだが、彼はそれを受け取らないかわりに、立浪教授にある条件を呑ませたのである。
『加納さんの講師の件をしばらく引っ込めて頂けませんか?』
「おまえ、なんであんな条件出したんだ? 共演の話なんて無いだろ」
楽譜に目を落としていたさく也が、悦嗣を振り返った。
「あんたに貸しを作っておくのも、面白そうだと思って」
悦嗣はポカンと口を開けた。またもや会話が途切れる。
さく也は四、五冊楽譜を選ぶと、悦嗣の座るピアノの上に置いた。どれもヴァイオリン?ソロの楽譜である。もとは悦嗣の所有物で、伴奏の課題や学内演奏会で使用したものだった。卒業してからは使うこともなく、家を出る際に置いていったので、ずいぶん久しぶりに目にする。
「どれか弾ける?」
「もともと俺の楽譜だ。このチャイコ(チャイコフスキー)は、スケルツォなら弾ける。ヴォカリーズもよく弾いた」
「じゃあ、この二曲にする」
ラフマニノフの『ヴォカリーズ』とチャイコフスキーの『なつかしい土地の思い出』を残して、あとの楽譜は片付けられた。それからその二冊を、悦嗣に渡す。
悦嗣は顔をしかめた。渡された意味はわかっていた。
「俺?」
「弾けるかって、ちゃんと確認した」
「立浪はバッハのシャコンヌを期待してたぞ」
シャコンヌはバッハのヴァイオリン?ソナタで、無伴奏の難曲。酔って眠ってしまったさく也は覚えていないことだが、立浪教授はこの曲を演奏してもらいたいと悦嗣に話していた。無伴奏ヴァイオリン曲の頂点に立つ曲この曲は、プロの演奏家ならレパートリーに加える努力をする。
「一人で弾くのは好きじゃないし」
さく也は考慮する気もなさそうだった。「弾けないから」と答えないところをみると、彼もやはりプロなのだ。
「ここは使わせてもらっていいのか?」
「夜なら構わないと思うけど。わかってんのか? 俺は仕事あるんだぞ」
クリスマス?コンサート等々で調律の依頼が毎日入っている。それとなく断っているつもりだが、わかってくれているとは思えない。と言うよりも、聞く耳持たない風情がある。
それに今ひとつ強固に断れないのは、悦嗣の指が鍵盤を懐かしがっているからだ。六月に聴いたあの中原さく也の『音』を、もう一度感じたがっている。
「ヴァイオリンは?」
プライベートの旅行だと聞いている。ウィーンからの距離を考えると、仕事でもないのに、大事な楽器を持ってきているとは思えない。彼くらいの弾き手が使っているヴァイオリンは、そこそこ銘器のはずだ。
「持ってきたよ。あんたと弾くつもりだったから」
さく也はさらりと答えた。
悦嗣はため息をついた――まったく、どいつもこいつも。
「わかったよ。この二曲だな?」
そしてわくわくしている自分も、気後れしている自分も。
夜、マンションに戻ってPCのメールをチェックする。ここ数日開けていなかったので、ダイレクトも合わせて結構な数のメールが入っていた。その中に曽和英介の名前を見つけた。悦嗣はそれをクリックした。彼からのメールは約一ヶ月ぶりだ。
〝久しぶり。元気にやってるか? こっちは演奏会続きで忙しい。移動も多くて…?
英介の口調そのままの文面を読み進む。彼の近況が目に浮んだ。どんなに忙しい毎日であっても、きっと楽しそうに演奏しているに違いない。英介は本当にチェロが好きで、単純な音出し練習でさえ嫌がらずにこなしていた――「音がきれいに鳴るのが、嬉しいんだ」と。
目元に笑みが浮ぶのを、悦嗣は止められない。
〝…そうそう、さく也がWフィルに入ることになった。オーディションの演奏は、すでに語り草だ。主席団員以外は聴けないきまりなのが、本当に残念だよ。正式入団は来年早々だから、それまでオフを決め込んだらしい。日本へ行くって言ってたよ?
「もう来てんだよ、エースケ」
読み終わったメールを閉じながら、独りごちた。
昼間、仕事道具を取りに戻った時に持ち帰った楽譜『ヴォカリーズ』と『なつかしい土地の思い出』が、机の上で悦嗣を誘っている。手にとって開いた。ラフマニノフもチャイコフスキーも好きな作曲家だった。コンクールや試験向きという事もあって、よく弾いたし、弾かされた。
立浪教授から日程の連絡が入り、さく也が了解したので、ウィーンに帰る前日の午後に月島芸大の大講義室での模範演奏が決まった。
この状況を知ったら英介は、
「やっぱり、弾きたくなっただろう?」
と無敵の笑顔で言うに違いない。そして反論出来ない自分の姿を、容易に想像できた。
中原さく也とは、二日後の夜に最初の音合わせを予定している。
悦嗣の指はすでに臨戦態勢だ。あの時の吐き気にも似た緊張感ではなく、陶然となる瞬間だけを思い出している。
あきらかに半年前とは違う。音を知ってしまった指は、悦嗣の感情などお構いなしだった。
「まったく…仕様がないな」
その独り言は、何に対してなのか。零れた言葉は、静まり返った部屋の中に飲み込まれた。
(7)
ぽたり…と、手首を霞めて水滴が落ちた。悦嗣には自覚がなかった。その水滴の出所が、自分の目であることに。顔を上げて頬をそれがつたった時、初めて涙だということに気が付いた。袖口で拭う。指が微かに震えていた。
演奏会でもなんでもない。場所は実家のレッスン室で、ピアノは国産。ヴァイオリニストとピアニストの二人きり、そしてただの音合わせ練習――なのに、この涙はなんだろう。
さく也の方を見ると、ペグで弦を調整していた。淡々としたその表情に、無意識に高揚した悦嗣の涙腺は、ようやく落ち着いた。それでも耳には先ほどまでの『ヴォカリーズ』の余韻が残る。
――なんて音…出しやがるんだ
緩急と強弱のタイミングを、簡単なデモ?プレイで打ち合わせた後、まず『ヴォカリーズ』から通した。
半年ぶりに聴いた中原さく也の音。アンサンブルのそれではなく、ソリストとしての音が悦嗣を圧倒した。感傷的なヴォカリーズの旋律をより一層に際立たせて、悦嗣を包み込む。
「…ンポ、遅すぎた」
頁を戻しながら、さく也が何かを呟いた。やっと悦嗣の意識は『今』に戻る。
「え、あ、何だっけ?」
「粘り過ぎたかも知れない。重い感じ、しなかったか?」
楽譜から目を外して、彼が悦嗣を見た。その目が少し見開かれる。「はっ」と悦嗣は目をぬぐう。左目の端に、涙がまだ残っていた。
「…そうだな、も少しあっさり弾いてくれ。俺の涙腺が緩む」
言い訳しても仕方ない。これが英介なら、さり気なく突っ込んでくれるところなのだが――「もっと泣いてくれていいんだよ」とか「エツにしては殊勝な言葉だな」とかなんとか――、さく也は何も言わないタイプな上に、間が中途半端に開いて、悦嗣の言葉は置き去りにされた。