「じゃあ、もう一度、通していいかな」
彼の声にも変化はなかった。ただ譜面台に向き直る際の横顔に赤みが差し、再度通された『ヴォカリーズ』は、思った以上に速いテンポで始まった。その音はまるで彼の照れを代弁しているかのように、軽やかだった。しかしそれも最初だけで、曲が進むにつれて冷静さを取り戻したさく也の弓は、速度も安定し本来の音を紡ぎだす。そして悦嗣もようやく、演奏者としての自分を取り戻すことが出来た。
続けて『なつかしい土地の思い出 第二曲スケルツォ』を通す。打って変わっての軽快なアレグロに、悦嗣の指は緊張した。引き込まれる隙を与えられない。どちらかというと速い曲調が得意な悦嗣には、この曲は弾きやすいし心地よい。
「ここのピアノは、子供も弾きやすいようにハンマー軽めにしてるから、ちょっと走りがちになるんだけど、入りはあれくらいで良かったのか?」
悦嗣はハ短調のスケールを弾いて聴かせた。母の好みで柔らかい音がする。
「良いと思ったけど。中間部のレガートをあまり遅くしたくないから、あれぐらいのほうが対比が出て面白い。あんたは速い曲の方が得意なんだな?」
「性格がせっかちだからな、次の音を待ちきれないんだ。それにおまえと演るなら、アレグロかプレストのがいいよ。緩い曲は聴きこんじまって、あのザマだ。ああ、だからってヴォカリーズはあまり速くするなよ。さっきは、も少しあっさり弾いてくれって言ったけど、最初の方が音にあってるし、気持ちよさそうだった」
「あれは…」
さく也が口篭もった時、母屋側のドアが勢いよく開いた。例の如く、ノックはない。
悦嗣は前髪をかき揚げながら、
「だから、ノックくらいしたらどうなんだ、夏希。今日は俺だけじゃないんだぞ」
と、入ってきた夏希を嗜める。休憩用に母に頼んでおいたコーヒーが、トレイに乗って彼女の手にあった。カップは三つ、自分の分も忘れていない。
「ごめんなさい、さく也さん。エツ兄も」
彼女はさく也に向っては丁寧に、兄にはあきらかについでで向き直って謝った。
「俺は母さんに頼んだんだけどな」
カップを受け取りながら悦嗣が言うと、夏希は口をへの字に曲げた。
「ずるいよ、エツ兄。来るなら言ってくれればいいのに。わざわざ外から入ったりして。ほんっと、ケチなんだから」
「言えば、こうやって邪魔しに来るだろうが」
「ひっどーい! 私だってちゃんとわきまえてます。今日だって、おにぃの車で気がついてたけど、休憩まで我慢したんだから」
「休憩ってのは、『休む』『憩う』って書くんだ」
「可愛い妹が、憩いにならないっての?」
「うるさい妹は、邪魔なだけです」
夏希の口は、今度は大きく息を吸い込み、頬をプーッと膨らませた。
さく也は二人のやり取りを、口をはさむでもなく見ていた。さすがに夏希も恥ずかしくなったのか、それ以上は悦嗣に反論しなかった。
コーヒーを飲み終える間、夏希のおしゃべりがつづいた。物怖じせずさく也にいろいろと質問する。言葉数は少ないものの、さく也は嫌がらずに答えた。
夏希はそのまま残って練習を聴いていたい風だったが、悦嗣は許さなかった。いつもならもっと粘る彼女も、中原さく也を前にしては、やはり調子が出ないらしく、おとなしく引き下がるほかない。
「どうせ来週には聴けるんだから、その仏頂面やめろ」
「せっかく演奏者の妹なのに、なんの特権もないなんて」
引き下がりながらも、未練がましい夏希であった。
そんな彼女のために、さく也は『タイスの瞑想曲』を披露した。もちろん伴奏は悦嗣で、夏希は『妹の特権』を行使出来たわけである。こういう思いやりある行為が、さく也から出ることは、悦嗣には意外だった。もっと芸術家肌で、気難しい質なのかと思っていたので。
――案外、普通なのかもな
心なしか演奏中のさく也は楽しげに見える。そんな彼を見ながら、悦嗣はそう思った。
Slow Luv op.2 -3-
(8)
練習以外の夜で悦嗣の時間が取れた日は、「日本のオーケストラを聴いてみたい」というさく也に付き合って、演奏会に出かけた。十二月のこの時期は、ベートーヴェンの第九ばかり。そんな日本のコンサート事情は、
「こんなに同じプログラムばかりで、聴きに行く人間がいるのか?」
彼には不思議に思えたようだった。結局、彼は昼間に一人で行ったコンサートも入れて、五回も第九を聴いたらしい。
「聴きに行く人間が、ここにいたってわけだ」
と、悦嗣は笑った。
模範演奏の練習を二人が一緒にしたのは、当日を入れると三回だけ。今回の二曲が、悦嗣の弾き慣れた得意系の曲ということもあって、合わせることだけに集中することが出来た上に、さく也のヴァイオリンとは相性が良いのか、もしくは彼が悦嗣の力量に合わせてくれているせいか――後者なのだとしたら、伴奏者として情けないことなのだが――、たいして時間を掛けずに済んだのだ。
「力量に合わせて弾いたことなんかない。合わせなきゃならない人間と演れるほど、心広くないし」
当日、大講義室に運び込まれたグランド?ピアノを、自ら調律する悦嗣の様子を見ながら、さく也は答えた。ピアノはホール用のフルコンサートで、月島芸大一の名器である。
「あんたは自分のピアノに自信がないのか?」
「ないね。楽しんで弾くのは好きだけど、人前でしゃっちょこ張って弾くの慣れないんだ。そんなのでいい演奏が出来るとは思ってない。だからピアニストになれなかったのさ。まあ、今日は母校だし後輩の前だから、ちったぁ気が楽だけど」
それでも緊張はしている。調律する手が冷たいのは、ワイヤーやピンを触っているせいだけではない。半年前のコンサートで英介に指摘されるまで、自分の指が本番前に冷たくなることに自覚はなかった。
――いつも英介が手を握ってくれてたのか。
チューニング?ハンマーを持つ右手を見る。あの時の英介の柔らかい手の温もりが蘇った。
〝でもそう言う時って、出来がいいんだよな。エツは緊張したら開き直って、肩の力が抜けるから。今日はいい演奏が出来る?
声が、笑顔が、悦嗣を励ます。
「…ッシュン」
脇でくしゃみが聞こえ、英介の幻は消えた。
「空調入れたばっかで冷えるから、部屋に戻ってろよ。まだリハ、出来ないぞ」
「珍しいから見てる」
「物好きだな。俺の上着、羽織っとけ」
イスにかけていた上着をさく也に手渡した。一瞬触れた手が冷たい。こちらは緊張からというわけではなさそうだった。
「ほらみろ、手、冷たいぞ。ポケットにカイロが入ってるから」
遠巻きに学生達が二人を見ていた。悦嗣はただのOBにすぎないが、さく也は『中原さく也』なのである。ザルツブルグ当時のことを知るものは少なくても、半年前のコンサートと大人達の騒ぎ様で、その有名はすでに知れていた。ソロで弾くと言うので、尚更、興味津津といったところだ。ヴァイオリン専攻の学生などは特に、お近づきになってレッスンをつけてもらいたいと思っているのだろうが、さく也の冷たい印象が彼らの足を止めていた。
学生の中には夏希の姿もあった。悦嗣が調律の仕事をしている時は、たとえ場所が実家であっても、彼女は決して邪魔をすることはなかった。さく也が彼女に気がついて、悦嗣に教えた。顔を上げてそちらを見ると、夏希が満面の笑みで手を振った。兄が応えてくれたのを確認すると今度は、
「さっく也さーん」
とさく也に向って力いっぱい手を振る。彼女のよく通る声は部屋中に響いた。さく也は少し面食らったようだった。
「ちょっと手を振ってやってくれ。後でうるさい」
悦嗣の言葉に、さく也は腰のあたりで躊躇いがちに手を振る。あきらかに複数の黄色い声がして、慌てて手をコートのポケットのしまい込んだ。それを見て、悦嗣は声を出して笑った。
調律が終わって、一時休憩をとったあと、リハーサルとなった。その頃には学生たちも追い出され、講義室には演奏者二人と二、三人の大学関係者が残った。立浪教授もその中にいる。
「手、温まったか?」
ケースから楽器を取り出すさく也に、悦嗣は声をかけた。
「これくらいなら弾ける」
自分の手はまだ冷たい。カイロを握っても温まるのはその時だけだ。部屋はすっかり温かくなっているというのに。
月島の学生の前で弾くだけで、こんなに緊張しているなんて。悦嗣は自嘲気味に笑った。両手に息を吹きかけて、ピアノの前に座った。
(9)
曲の始まりから終わりまで、痛いくらいの静寂が部屋を支配していた。
模範演奏の会場として用意された大講義室には、定員の倍以上の人間が入っていたのだが、その存在をまるで感じさせない。皆が皆、呼吸さえも忘れている――一曲目の『なつかしい土地の思い出 第二曲スケルツォ』が終わって何のリアクションもない『会場』を、悦嗣はちらりと見回した。割れるような拍手が沸き起こったのは、残響と演奏の余韻が、完全に消え失せた瞬間だった。
使用された講義室は、サロン?コンサートを考えて設計されていた。拍手は渦となって響き渡り、その経験のない迫力に、悦嗣は気圧される。
さく也はというと、拍手が鳴り止むのを弦を調整しながら待っていた。応えることなく。こういったことは慣れているのかも知れない。
拍手はなかなか止まなかったが、さく也はそれを無視して悦嗣にAを要求した。彼がチューニングを始めると、ようやく周りは静かになった?
悦嗣は指先に息を吹きかける。曲の間、忘れていた緊張が戻ってきた。しかしそれは懐かしい心地よさを含んでいた。
中原さく也の音は、好奇心に満ち溢れた幾百の耳を一蹴する。感想などの差し挟む余地を与えない。それほど影響力のある音色を、彼の弓は紡ぎだした。
アンサンブルの時とは格段に違う。これが彼本来の音なのか?
――引き摺られる…
指先の冷たさが、辛うじて悦嗣のピアニストとしての器量を保っていた。あの時のように、『楽』に取り込まれて『正気』を失うわけにはいかない。無伴奏曲ではない以上、今、このヴァイオリンと音楽を作っているのは、自分のピアノだけなのだ。引き摺られて、その役割を放棄することは許されなかった。
対等ではありえない、しかし負けられない。
演奏中、一度合ったさく也の目は、冴えていた。
模範演奏が終わって、休憩。その後は、学生アンサンブルの演奏である。聴くだけでも聴いてやってほしいという、大学側の要請だった。
休憩の間、さく也は学生や教授連に取り囲まれていた。さく也の冷たい印象から二の足を踏んでいた彼らも、演奏を聴いてしまってからは、もう我慢することが出来なかったらしい。
悦嗣はその様子を階段状の一番後ろの席で、面白そうに見ていた。こればかりは助けられない。さく也は懇意でも困惑でもない表情で、輪の中心に座っている。あまり口の開閉が見られないので、ほとんど会話が成立していないことがわかった。
悦嗣の隣の席に、
「お疲れさん」
と立浪教授が座った。悦嗣は「どーも」と軽く頭を下げた。
いつもなら軽口で何やら話し掛けてくる教授が、黙ったままで悦嗣同様、さく也を見ていた。
「加納は」
暫くの沈黙の後、彼が言った。
「いくつになったんだ?」
悦嗣は前を向いたままで「三十一」と答える。
「おまえは…なんて時間を無駄にしたんだ」
口惜しげな声のトーンに、教授の方に顔を向けた。
「曽和が言っていた。加納は自分の才能を信じていないって。私はそこまでおまえを評価してなかったけど、半年前の演奏を聴いて、曽和の言ったことがわかった気がしたよ。今日の演奏は、それ以上だ。在学中から、せめて五年前からでも本腰入れていたら、三大タイトルの一つも夢じゃなかったのに」
悦嗣は頬杖をついて、またさく也の様子に目を向ける。
「才能には不可欠な要素が、二つ要ると思ってるんです」
教授の言葉を受けるように、悦嗣が言う。
「努力と度胸がそれ。俺にもし才能ってものがあるとしても、努力と度胸が伴わないかぎり、無いのと同じさ」
昔から練習は嫌いだった。練習しなくてもそこそこ弾けたので尚更だ。練習不足は人前での緊張に拍車をかける。それを知りながらステージに立つ度胸は、悦嗣にはなかったのだ。
「おまえは馬鹿だ。それがわかっていながら…」
楽しく弾ければ良かった。コンサートやコンクールで弾く事だけが、ピアニストのすべてだとは思わなかった。緊張感も気負いもなく、好きな曲を好きな時間に弾く。それでいいと思っていた。
「あの頃は、それを乗り越える原動力がなかったからな」
顎から手を外し、大きく伸びをする。
「先生、俺、実は少し後悔してるんです。もっと真剣にピアノと向き合えばよかったって。コンクールとかなんとか関係ない。ただあいつの音に相応しいものでありたかった」
辟易したさく也が、階段を悦嗣に向って上ってくるのが見えた。先ほどまで二人が演奏していた壇上は、アンサンブルの準備が始まっているから、やっと解放されたらしい。
「あいつの音が…中原さく也の音が俺に後悔させるんだ」
「後悔しているなら、今から取り戻せよ」
悦嗣はさく也の姿を見ながら答える。
「さっき先生も言ったじゃないか、『せめて五年前から』って」
教授は目を見開いた。
さく也が目の前まで来た時、悦嗣は立ち上がった。ポケットから煙草を取り出す。休憩時間は五分ほど残っていた。一本くらいはゆっくり吸える。
「いやはや、彼はバケモノだな。おまえはよく弾いてるよ」
立浪教授の言葉に、悦嗣は肩を竦めた。話が見えないさく也は、二人を交互に見た。
悦嗣は「外の空気を吸いに行かないか」と彼に話しかけ、頷くのを確認すると立浪教授に軽く頭を下げる。教授は英介と似た印象の笑顔で、手を振った。
Slow Luv op.2 -4-
(10)
模範演奏を含む一連の予定が終了したのは、午後四時半を回っていた。大学側は更に一席設ける算段をしていたのだが、さく也は承諾しなかった。
「疲れたから」
思いのほか長くなった拘束時間を考えると――立ち会わなくてもいい、ピアノの調律から居たので――、誰も無理強いは出来ない。残念がる人々は悦嗣に取り成しを頼んだ。しかし自身も疲れていた悦嗣は、「断っていいんだな」と確認するだけに留めた。
気恥ずかしいくらいの見送りを受けて、悦嗣の車は大学を後にした。
冬の薄暮は通り過ぎるのが早い。大学を出てどれだけもたたないうちに、辺りはすっかり暗くなった。葉の落ちた街路樹のシルエットが寒々しい。
疲れを理由に帰途についたが、車はさく也の泊まるホテルには直行せずに、市街地に入って食事をした。二人とも、愛想をこれ以上使う気になれなかっただけ、つまり大勢と食事をする気になれなかっただけだったので。
それからどこに行くとも決めず、車を走らせている。
「時間取って悪かったな。学生アンサンブルまで聴かせて、大学側も遠慮ってものが無え」
「一日空けてたから、気にしてない。音楽を聴くのは嫌いじゃないし」
聴くことは嫌いではないだろうが、さく也は学生アンサンブルの演奏に、感想らしい感想は述べなかった。
三回生で構成されたアンサンブルの演奏は、可も無く不可も無く…と言ったところ。中原さく也の演奏の後では、聴き劣りするのは仕方のないことだった。それは本人達も自覚しているらしく、妙な緊張感がある。そして聴く側の学生達と、その師匠達にも伝染していた。悦嗣もまた、その一人だった。緊張感を引き出した張本人のさく也は、いつもの調子で演奏を聴いていた。
ヨーロッパの音の中に常日頃いる彼の耳に、学生の音はどう聴こえていたのだろう。音が下がっても、演奏が微妙にズレても、表情に何の変化も見えなかった。その様子が新たな緊張を呼んでいた。
終わった後で感想を聞かれての「楽しめました」は、素っ気ない一言で、さく也のアドバイスを欲しがっていた学生達は、沈黙せざるを得なかった。
「本当に楽しめたんだから、ちゃんと感想だと思うけど」
その時の周りの反応を思い出したのか、さく也が呟く。食事中に摂ったアルコールが、彼の口を滑らかにしていた。たったコップ二杯のビールで、あきらかに口数は三倍になった。悦嗣は彼を車で送るつもりだったので、唇を湿らせただけで飲まなかった。
「曲がりなりにも音楽学部だから、もっと踏み込んだ言葉が欲しいんだよ」
「そう言うのは苦手なんだ。俺自身、勉強中なんだから。俺の演奏に対しての感想が欲しいくらいだ」
「意外だな。関心なさそうなのに」
「人並みだよ、俺」
さく也は明日、ウィーンに帰る。何回か演奏会を聴きに行ったことは聞いたが、その他に何かをしたという話はなかった。ずっと海外生活であるとはいえ、「東京近辺は地元」と話していたところをみると、観光をするほど馴染みがないわけではなさそうだった。もしかしたら予定があったのかも知れない。しかし余計な模範演奏会などが入ったものだから、多少は変更したこともあるだろう。
「別に予定を変更したりしなかったけど」
クリスマスを控えて、とりどりのイリュミネ―ションで飾られた街を抜け、車は湾岸線に入っていた。
「もともと観光が目的じゃなかったし」
「じゃあ、なんでこの時期に? クリスマスなら向こうが本場だろう? 飛行機代だって、一番高い時だし」
「最初の三年は試用期間なんだ。休暇は自由に決められなくなる。それに」
ライトアップされた橋を珍しげに見ていたさく也は、悦嗣に向き直った。
「会いたかったから」
すっかり忘れていたことを、その一言で悦嗣は思い出した。
半年前に示された、さく也の想いの一片。
この数日はまったく感じなかった。目の前にいた彼は、ヴァイオリニストとしてのさく也であったし。
「…わざわざ?」
まぬけな質問だ。自分のことがまぬけに思えたのはこれで二度目。一度目は英介の結婚披露宴で、彼への気持ちを自覚した時だった。
「わざわざ」
さく也は微笑んで答えた。
「だから目的はちゃんと果した。一緒に弾けたし。最初の練習の時にヴォカリーズが遅くなったのは」
言葉が途切れて、フイッと窓の外に目を戻した。
「…弾き終わりたくなかったから」
声音は少し下がったが、聞こえないほどではない。
悦嗣は頬が熱くなる感覚を覚えた。車外を見るさく也の表情はわからない。しかし自分はあきらかに赤面していることがわかった。
会話が途切れるバツの悪さを取り繕うために、悦嗣は話を継いだ。
「俺は引き摺られて大変だった。楽しむ余裕なんかなかったさ。思えば、中原さく也の音をじっくり聴いたことがないな、弾くのに精一杯で。気を抜いたら、指が止まりそうになる。おまえと演る時は、真剣勝負みたいなもんだ」
「俺の演奏を聴きたいのか?」
振り返らずにさく也が言った。声の調子は戻っている。
「聴きたいね。だから一曲は無伴奏を入れて欲しかった」
「どこか、車を止められる? 道路傍じゃなく、少しは静かなところがいいけど」
「えっと…」
「あそこは出口じゃないのか?」
さく也が指差す前方に、ジャンクションを示す標識が見えた。悦嗣は促されるまま左の車線に入った。
(11)
〝中原さく也の音を聴いたよ?
冒頭の一言で、悦嗣のキーボードを打つ指は動きを止めた。指先が思い出して震えたのだ。中原さく也というヴァイオリニストの音を思い出して。右手で左手の拳を包み、グッと力を入れた。
そのヴァイオリンのために用意されたステージは、海辺りの広場。防風とアラ隠し――眼前が古い埠頭だったので――の植樹のおかげで、ライトアップされた橋の姿が遮られ、夜景を楽しむには不向きな場所だった。もう少し進めば繁華なアミューズメント?エリアなので、人の流れは大抵そちらに向かう。だから人気と言えば、犬の散歩をする人くらいだった。
しん…と空気は澄んでいた。月の白さが際立って、ライトのかわりに辺りを晧晧と照らしていた。
奏者は一人。観客も一人。
――シャコンヌだ…
冷気を裂いて、音が翔ける。
闇に吸い込まれることなく、風にざわめく枯れ枝の、乾いた音をものともしない。すべての音をかき消して、それ以外の存在を許さないかのように、次々と変形し変容する『シャコンヌ』
何度も何度も繰り返される第一主題、多用される重音。ヴァイオリンという楽器の感情の高まりは、それらによって極限まで表現される。
音は生まれた瞬間から旋律を創り、『楽』と成って、聴くものの耳を支配した。
悦嗣は我知らず身震いした。寒さからではない。中原さく也の演奏に、体が反応したのである。
全身が耳となって、その音を受け止めていた。
〝押さえつけられて動けない。そんな感じだった?
あの十五分を文章に出来ない。元々文才の無い悦嗣なのだが、どんな表現も陳腐に思えて、更に語彙を貧困にしていた。
イスの背にもたれて、煙草に火を点けた。
弓が最後の音を奏でて、『シャコンヌ』が終わっても、余韻が悦嗣を縛った。目の前にさく也が立って、初めて曲の終わりを知り、忘れていた冷気が体を包んだ。
「聴いた?」
さく也の口元に白い息が漏れた。
「聴いた」
言い知れぬ敗北感を、悦嗣は感じていた。感想は言葉にならなかった。
――俺は…、どうして悔しいんだ?
それは車中にあっても、しばらく拭えなかった。
楽器の違いはあっても、差は歴然だ。感嘆より先に立つものなどあるはずはないのに、悦嗣の心中はその感情に囚われて、口元は引き結んだままだった。大人気ないとは思った。「ありがとう」の一言も出ない。ただ黙って、ハンドルを握ることしか出来なかった。
悔しいのは――中原さく也に対してではない。自分自身に対して悔しいのだ。なぜ、自分は聴くことしか出来ないのだろう? なぜ彼のように弾けないのだろう? なぜ、今になって自分は……。
奇妙な沈黙。悦嗣は視界の隅で助手席のさく也を見る。目は閉じられ、頭が悦嗣寄りに少し傾いでいた。心持ち開いた唇の様子に、幼さが残っている。結局、宿泊先のホテルが近くなり、悦嗣が声をかけるまで、さく也は起きなかった。
車を路肩に止め、二人は外に降り立った。後部座席から楽器を取り出すさく也に、
「…『シャコンヌ』、ありがとう」
と、悦嗣が言った。心を占めていたものは、幾分、払拭されていた。
さく也は悦嗣を見つめた。
「あんたが忘れないように弾いたんだ」
うたた寝でアルコールが抜けたのか、さく也の声はいつもの調子に戻っていた。
「次に会うまで、俺のことを忘れないように。『帰国』と言ったら、エースケだけじゃなく、俺のことも思い浮かべるように」
さく也のヴァイオリンとその演奏を聴いた後で沸いた感情。彼の思惑通り自分はきっと忘れない。 忘れられない…と悦嗣は心の中で肯定した。
見透かされたのかと思った。
「案外、根に持つほうなんだな。今度はちゃんと覚えとくさ」
だから努めて平静を装う。
「うん」
と答えたさく也は、肩からヴァイオリン?ケースを下げてホテルの方向に体を向けた。
「でも、あんたが覚えていてくれるのは、きっと音だけだ」
「中原?」
「ヴァイオリニストとしての俺を、ピアニストとして見ている」
ヒュッと風が走った。
「それでもかまわないけど」
頬にかかった髪を払いのけ、さく也は一歩踏み出した。前回の空港同様、振り返らなかった。
メールの文面は止まったまま。さく也のヴァイオリンについて書き連ねたところで、悦嗣のなけなしの文章力は使い果たされてしまった。感情的とも言える文面は、ただそのことだけに終始している。今更、他の事柄をくっつける気にはなれなかった。
煙草の煙を天井に向かって吐き出す。目は形の成さない紫煙を暫く追った。耳は『シャコンヌ』をリバースする。間にさく也の、別れ際の言葉を挟みながら。
確かにあの弓が創りだす音楽に惹かれている。しかしさく也が時折り示す素直な想いは、応える術を持たない悦嗣を戸惑わせた。そして抑えることしか出来ない英介への想いを、刺激するのだ。
〆の一文もつけないまま、送信をクリックした。メールは一瞬でいくつもの国境を越えて、英介のもとに届くだろう。支離滅裂で尻切れトンボな文面を見て、彼が微笑む様が想像出来た。
「エースケ、おまえは今ごろ何してんだ?」
画面に浮んだ送信完了の文字に向かって、話し掛ける。
英介の奏でるやわらかなチェロの音色が、聴こえた気がした。長い一日の終わりに、疲労感が押し寄せた悦嗣の気持ちを和ませる。
とにかく今日はもう寝よう。英介の音色が耳にあるうちに――PCの電源を落とし、ベットに倒れ込んだ。その時、音は再び、中原さく也の『シャコンヌ』に変わっていた。悦嗣はもう一度英介のチェロをイメージしたが、戻って来なかった。長く息を吐いた後、あきらめて目を閉じる。
眠りに入るその瞬間まで、『シャコンヌ』は途切れることはなかった。
Op.2 end
Slow Luv op.3 -1-
「ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう。今、ボストンにいるはずだから」
英介がそう言った時、悦嗣の心の一隅が熱くなったのは、またあのヴァイオリンと合わせられるという高揚感からなのか、それとも――
(1)
七月に入ってすぐの仕事の依頼は、悦嗣の頭を傾げさせた。八月に行われるピアノ?リサイタルの調律で、ピアニストのご指名という話なのだが、
「ユアン?グリフィス?」
今まで仕事を受けたことのない名前だったからだ。
ユアン?グリフィス自身は知っている。前回のショパン?コンクールの覇者だった。アメリカ出身で、『リヒテルの再来』と評されていたのを、音楽雑誌で読んだことがあった。華やかな曲を得意とし、ハリウッドスターばりのルックスも手伝って、日本でも最近注目され始めている。彼に関しての悦嗣の知識は、その程度であった。知人にも彼と接点のある人物はいない。
「ああ、やっぱりエツに頼んだんだな?」
接点がありそうな人間が一人いた。曽和英介である。彼は七月に夏期休暇で帰国した。国立歌劇場が休みのこの時期、基本的にWフィルも休みに入る。
「エースケが紹介してくれたのか?」
「違うよ。彼から聞かれたんだ。夏に日本でリサイタルをすることになったから、エツシ?カノウに頼みたいって」
接点はあったが、謎は残った。悦嗣は優秀な調律師だと評価はされていたが、国際的なピアニストの仕事はほとんどなかった。楽器店に一応所属しているが大手と言うわけではなく、個人的に引き受ける時も知人関係ばかりだから、滅多にその手の仕事が回ってこないのだ。誰かの代理で、二、三回というところだった。
「どうすっかな、やっぱ代わってもらうか。英会話も出来ねえし」
一番のネックは語学である。
「通訳なら俺がするけど? ユアンとは友達だし。せっかくショパン?ファイナリストのピアノを調律出来るんだから、引き受けろよ」
「友達ねえ。おまえも国際的だな」
「もともとはさく也の友達。ジュリアードのサマー?レッスンで知り合ったらしい」
「ジュリアード! Wフィルにザルツブルグ?セミファイナリストにショパン?ファイナリスト。別世界だと思ってたものが、急に身近になってきた」
大げさにリアクションして見せる。
「エツだって、居てもおかしくなかった世界だ。俺の言うことに耳を傾け、努力してくれていたら」
英介は真顔で言った。彼は学生時代から、悦嗣にコンクールに出ることを勧めていた。一年前の六月にはブランクを承知で、自分達のアンサンブル?コンサートのピアニストとして起用した。悦嗣がそれをきっかけにして、ピアニストと言う選択肢を考えてくれればと思ったからだ。
だから言葉の端に少し棘があった。せっかく見えた道筋を悦嗣はそれ以後、利用せずにいたので。演奏会の依頼も母校の講師の件も、結局どれも断って、未だに人のピアノを調律している。
「少しはユアンに刺激されるといいんだ」
更なる棘を含んだ、らしくない英介の物言いに、悦嗣は鼻を鳴らして答えた。
(2)
毎年、八月の中旬から九月の中旬にかけて、仙台で音楽祭が開かれる。オーケストラのコンサートを始め、オペラにアンサンブルやリサイタルといったプログラムが、約一ヶ月に渡って組まれていた。これに関連して、青少年のための音楽講座、楽器のメンテナンスといった催しも会場を分散して行われ、街は音楽一色となる。
音楽祭の二日目にユアン?グリフィスのピアノ?リサイタルが入っていた。当日の朝、悦嗣と英介は仙台駅に着き、その足でホールに向かった。
「結構、重い鍵盤が好きなんだな?」
あらかじめ渡されている調律データを見ながら、悦嗣が呟いた。
「もともとベートーヴェン弾きなんだ。体も手も大きいし」
「ベートーヴェン弾き? で、ショパン?」
呟きに対する英介の答えに、意外と言う目で悦嗣が返した。ベートーヴェンが得意と言うことと、ショパンが得意と言うこととは、イコールにならないことが多いからだ。
「ま、いろいろと事情がね」
と、英介は苦笑した。
会場に案内され、悦嗣はステージ上に、英介はすることもないので客席に座った。しばらくすると英介を囲むようにして、何人か人が座った。今回の音楽祭に出演する即席オーケストラのメンバーで、どうやら彼の知り合いらしい。この時期に帰国していることを知って、英介にも参加しないかと話が回ってきたと、悦嗣は聞いている。
「エツ、ユアンが来たよ」
小休止とばかりに悦嗣が大きく伸びをした時、英介が声をかけてきた。彼の少し後ろに長身の白人が立っている。青い瞳が悦嗣を凝視していた。
悦嗣は会釈する。
「まだ少しかかるけど?」
英介に話している間も、ユアン?グリフィスの目が悦嗣から外れることはなかった。まるで値踏みされているかのようで、あまりいい感じがしない。鮮やかな青い目が、更に冷たい印象を与えた。
「なんだ、まだガキじゃないか…」
ユアンが呟いた言葉はもちろん英語だったが、「kid」という単語は聞き取れた。悦嗣が振り返る。長身の彼と目があった。
ユアンは踵を返すと、スタスタと下手の方へ歩いて行ってしまった。
「なんか、俺、嫌われてるのか?」
英介に耳打ちすると、意味深に笑われた。
「おまえ、何か知ってるだろう?」
「ユアンはさく也の追っかけなんだ」
「追っかけ? なんだそりゃ?」
「さく也をパートナーにしたくて猛アタックしてる。ところがライバル登場。つまりエツ」
悦嗣は持っていたハンマーを、思わず落とした。
「パ、パートナーって?」
「もちろん仕事上もだけど、生涯の。二人ともゲイだからね」
拾ったばかりのハンマーを、またも取り落とす。いきなり血圧が上昇したような気がした。英介から『ゲイ』の二文字が出るとは、思いもしなかった。
「仕事、先に終わらせろよ」
英介は落ちたハンマーを拾い上げ、悦嗣に手渡した。悦嗣の口は半開きになったままだった。
Slow Luv op.3 -2-
(3)
「ユアンがエツを指名したのは、ライバルを知っておきたかったからじゃないかな」
仕事が終わって、遅い昼食を近くの喫茶店で悦嗣と英介は取っていた。
「ライバルって、意味わかんねえ…」
意味がわからないことはない。さく也から寄せられている想いは、とっくに知っているし、キスをしたこともある――それも二度も。思い出すと、頬に赤味が差しそうだ。
「今年の春にユアンが、一緒に組んでヨーロッパを周らないかってさく也を誘ったんだけど、他に組みたい人間がいるからって断ったんだ。その時出た名前がエツシ?カノウだったわけ」
「そんな話、聞いてない」
「さく也はエツが好きなんだよ。見てて微笑ましいくらいだ。おまえからメールが来たらしい時の、機嫌がいいことったら」
悦嗣は複雑な気持ちだった。自分が好きな英介が、自分のことを好きなさく也の話をする。
「おまえの口から出ている話だとは、思えない内容だな」
英介は笑って「ゲイはすでに一般的だろ?」と答えた。
「自分よりガキなやつにガキって言われた」
「ライバルが自分と同じくらいだったからじゃないかな。今までは、年の離れた人ばかりだったから」
再度、悦嗣の口が半開きになる。
「さく也はファザ?コンなんだ」
と、英介は付け加えた。
昼食を終えてホールに戻ると、リハーサルが始まっていた。
リサイタルのプログラムは、ショパン?コンクール優勝者らしく、ショパンでまとめられている。もともとはベートーヴェンを得意としているという英介の話だが、正反対のショパンでタイトルを取ったことからみて、かなりの才能だと思われた。
「二十二日のオケ?コンにも出るのか、こいつ」
総合プログラムの八月二十二日の欄は、地元オーケストラのコンサートが入っていた。演目はベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』。ピアニストの名前がユアン?グリフィスだった。