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作者:日-纸森けい 当前章节:15363 字 更新时间:2026-6-15 18:51

「出来ればこれも聴いて行きたいけど、俺はウィーンに戻らなきゃならないな」

 悦嗣のプログラムを覗き込み、英介が残念がった。

 ステージでは優美なショパンのワルツが流れている。鍵盤は重めに調整したが、それを感じさせない。長い指のせいか、無駄な動きがなく、弾いている姿も優雅だった。

 ショパン?コンクールの批評記事で、誰かが彼の音を『金色の旋律』と評していた。それでついたあだ名が『黄金のグリフィン』――夢見がちなあだ名だと思いながら、記事を読んだことを悦嗣は思い出した。実物を見るに、大げさな表現ではなかったんだなと妙に納得した。

「とてもベートーヴェン弾きに見えん」

 華やかな音色だ。典型的なハ二―?ブロンドがそれに乗って揺れて、光を振りまいている。彼のベートーヴェンを聴いたことがないから断言出来ないが、タッチを聴くかぎりでは、かなりショパン向きの弾き手に思えた。

「俺は一度、聴いたことあるけど、すごい迫力だよ。さく也のヴァイオリンとタッチが合わなくて、それを調整するためにショパンに出たらしい」

 そうしたら今度は華やかになりすぎて、やっぱりさく也の感性に合わなかったのだ。それを理由に、またしても演奏旅行を断られたらしい。

「どいつもこいつも、ソリスト向きなんだよ。何も無理してデュオする必要もなかろうに」

 悦嗣はあきれたように言った。

「それを惚れた弱味って言うんだろ?」

と、英介は笑んだ。惚れた弱味に心当たりがある悦嗣は、つられて笑った。少々、複雑な気持ちだ。

 プログラムの半ばまでリハーサルが済んだのを確認して、二人は席を立った。ここまで進んで、ピアニストからクレームも要望も無かったので、これ以上居る必要はないだろうし、何より悦嗣に禁断症状が出始めたからだ。つまり喫煙の。

「Wait !」

 音響のいいホールに声が響き渡った。歩き出した二人が振り返る。ステージからユアンが飛び降りるの姿が見えた。長い足をフル稼動して向かってくる。ガッと悦嗣の左腕を掴むと、なにやら英語で捲し立てる。しかし悦嗣にはさっぱりわからなかった。

「何、頭沸いてんだ、こいつ?」

 隣で英介がユアンの手を腕から引き剥がしながら、要点を通訳した。

「エツに何か弾けと言ってる」

 何事が起こったのかと、マネジャーらしい人間が駆け寄ってきた。ピアノの調律が気に入らずユアンがキレた…と思ったようで、肩を叩いて宥める。このマネジャーもユアン同様に長身だ。

 目線を上げて悦嗣が彼を見る。美形の怒った顔は迫力があった。仕事にケチをつけられたわけじゃないので、怒りの目は無視する。

「イヤだね」

「英語で言えよ。 一番短い単語だぞ」

「俺の脳は日本語対応ソフトしか入っとらん。それにおまえは今日、通訳として来てるんだろ」

 あきれたように悦嗣に一瞥くれて、英介はそのまま伝えた――一番短い言葉「No」

 白磁の頬が一瞬にして赤くなった。またも早口で英単語が吐き出される。英介はわざとゆっくりした語調で、ユアンの言葉に答えていた。自分に語学力がないことに、悦嗣は感謝した。表情から察するに、きついことを言われているだろうことがわかる。まともに理解出来たら、悦嗣の方がキレるかも知れない。

「僕の前で弾いて見せろ! サクヤのヴァイオリンに相応しいかどうか聴いてやる! 自分の耳で確かめる!」

「ユアン、まだリハーサルの途中だろう? 終わってからにしたら? それに彼は今日、調律師として来ているんだよ。最高のコンディションのピアノで君が弾けるように」

「だからなんだ!? 別に彼の調律じゃなくても良かったんだ。自分のどこがこいつに劣っているのか、それを聴くためにこいつを呼んだんだから、聴かないと済ませない! たかが調律師のくせに、納得出来ない!」

 ペチッ…と軽い音がユアンの両頬で鳴った。英介が両手でそれを挟んだからだ。彼にしては珍しく、目が怒っていた。

「エツはプロの調律師だ。その言い方は彼に失礼だろう? 少し落ち着いたらどうだ。自分を見失っているぞ」

 語気は荒くないが、声のトーンは幾分低くなった。あきらかに怒っている…ということがわかるのか、ユアンのマネジャーが英介の腕に手をかけた。ユアンの頬から手を外し、一度肩で息をすると、英介はにっこりと笑った。

 会話の中身はわからない。しかし彼が自分の為に怒ってくれたのだと、悦嗣にはわかった。

周りは緊張した雰囲気だが、不謹慎にもそのことが嬉しくて、口元が緩みそうになる。

「リハが終わってから話がしたいから、待ってろって言ってるけど」

 英介が振り返った。悦嗣は唇を慌てて引き締める。

「とにかく煙草を吸いにロビーに行く。終わったら言ってくれ」

 英介に叱られてどうにか落ち着いたユアンは、ステージに足を向けた。来た時同様、大股で戻って行く彼の後ろ姿を見送って、悦嗣と英介も入り口に向かった。

(4)

 リハーサル終了後、悦嗣達はステージに呼ばれた。仏頂面のユアン?グリフィスが、ピアノの前に座っていた。悦嗣に気づくと立ち上がり、ピアノの前を空けた。無言で座ることを促している。

 悦嗣はため息をついた。

「俺がここで弾く理由はなんだよ?」

 英介が悦嗣の言葉を伝えると、

「僕が聴きたいからだ」

とユアンが一歩踏み出し、悦嗣の前に立った。

 自重しているのか、先ほどのようにすぐには噛み付いてこない。ただ、悦嗣をまっすぐ見据える青い目と、引き結んで紅くなり時折り震える唇は、感情を隠さなかった。

「サクヤがどうしても僕の申し出を受けてくれない。最初は感性が合わないからと言われた。その次はオケに専念したいから、ソロもデュオもする気はないって。最近の理由は、エツシ?カノウだ。彼以外の伴奏で弾く気はないと言った」

 白磁の眉間に、縦線が入る。

「ここ一年、オフ?シーズンには日本に行ってばかりで、やっと捕まえたと思ったら、答えはいつも『No』だ。聴いたことのないピアノと比べられる気持ちがわかるか? どうして聴かずにいられる!? 僕のどこが君に劣っているんだ!?」

 どんどん語調が強まり、声も大きくなり始める。頬も紅潮するに至って、マネジャーがいつでも抑えにかかる態勢をとった。通訳のためのタイム?ラグが、今のところ歯止めと言ったところだった。

 どうして自分の周りには、レベルの違うものを比較しようとする輩が多いのか――悦嗣は英介を見やる。その意味を知ってか知らずか、彼は笑んだ目を返した。目は「弾いてやったらどうだ」と言っている。

「やれやれ」

 悦嗣はピアノの前に座った。

「劣ってるわけないだろ。プロとアマチュアじゃ土俵が違うし。俺の本職は知っての通り調律師なんだから」

 イスの高さを調節し、スケールを弾いてみる。ユアン?グリフィスのメニューに合わせているので、鍵盤の重さは一般向きではない。このテンションでは、細かい音符やアルペジオを多用した曲を、イメージ通りに弾けるとは思えなかった。

 指が鍵盤を叩いた。調律後の試し弾きや指慣らしで弾く中から、和音が中心のエチュードを選んだ。卒業以来、暗譜で曲を弾いたことがなく、レパートリーは少ない。程度で言えば中級と言ったところ。技術も解釈も可もなく不可もない。

 ユアンが期待したものとは開きがあったらしく、弾き終わるや否や、高音域の鍵盤に指を叩きつけた。甲高い不協和音がホールに響く。

「馬鹿にしてるのか!?」

「だから言ってるっつーに。 プロじゃないんだから、スラスラ暗譜で弾ける曲なんてあるもんか」

 悦嗣が立ち上がる。すぐ目の前に首まで赤くしたユアンが、自分を見下ろすように立っていた。十数センチ上にその目がある。言葉を出すための短いブレスが鳴ったが、悦嗣の方が早かった。

「それに感性に優劣つけることは出来ないぜ」

 見下ろすことはあってもその逆に慣れていない悦嗣は、右手の甲で軽く彼を払い距離を取った。

「さっきリハを聴かせてもらったけど、デュオや伴奏には向いてないと思うぞ」

 ピアノに掌形がついていることに気づき、悦嗣は商売道具の入ったバックの中から布を取り出して、その部分を拭いた。

「自己主張が激しすぎる。きっと曲が進むにつれて自分の音楽を優先する…っつうか、出てくるんだ、抑えても。そういったピアノだ」

 揺るぎない自信――ユアン?グリフィスのピアノは、そんな音から成り立っている。挫折を知らない、知る必要のなかった才能が、服を着て演奏している…という印象だった。

「あいつもそう言ったところがある。オケやアンサンブルの時はそれなりの弾き方をするけど、ソロやデュオじゃ容赦がないからな、似たタイプとは演りにくいんだろーよ」

 中原さく也の『容赦のない』音が、悦嗣の耳に蘇る。

 最後に聴いたのは去年の年末の、月島芸大での模範演奏…と、野外で悦嗣の為に演奏された『シャコンヌ』だった。すごく懐かしい気分がする。ぴくりと指が反応した。

「そんなことはない! サクヤほど息の合うヴァイオリニストは、今までいなかった」

 ユアンが反論する。彼は一度、さく也と組んだことがあるとかで、その時、どれほど息が合っていたか、気分良く演奏出来たかを、悦嗣にたたみかけた。言い終えるまで口を挟む余地を与えないところなど、妹の夏希を思い出させる。彼女のマシンガン?トークは愛嬌たっぷりだが、ユアンのそれは相手を疲れさせる。

 こういうことは慣れているし、英介が必要なことを簡潔に訳してくれるから、悦嗣は雑音だと思って大人しく聞いていたのだが、

「…って、言ってるけど?」

英介の方はさすがにうんざりした表情だ。

「思い込みの激しい奴だな。中原が自分と同じに思ってるって、どうして言えるんだ」

 道具が入ったカバンを、肩に掛け直した。

「一度きりで二度目がないのは、よっぽど合わなかったってことだ。感性が合わないって最初にはっきり言われてるんだから、俺に責任転嫁するなってんだ。行くぞ、エースケ。これ以上話してると、説教くさくなっちまう」

 英介が訳し終わるのを待たずに、悦嗣はステージから飛び降りた。訳された内容に一瞬怯んだユアンは、あわてて背中に向かって声を飛ばす。

 それを遮るように、悦嗣は振り返らずに手を振った。

            Slow Luv op.3 -3-

 (5)

 芸術家と呼ばれる人間は一般的に感受性が強く、自分の感情を素直に表現する。それが『空間(建築?彫刻)』となり、『時間(音楽?文学)』となり、『存在(映像?演劇)』となるのだ。感情は時に、本人の意思がコントロールしえないものを生み出すことがあった。それを最良のものとして転化し表現しうることが、芸術家の本領であり、才能の最たるものなのだ――と悦嗣は考えていた。

 今『時間』を創造しているユアン?グリフィスは、その『本領と才能』を遺憾なく発揮している。彼はリハーサルの一件から本番直前まで、かなり感情的だった。悦嗣がまともに相手をしないと見ると、なんだかんだ理由をつけて、ピアノの調律をさせた。傍らにはユアンが立っていた。こめかみには青筋が浮き、三白眼になった青い目が食い入るように悦嗣を見ていた。合間に彼が弾く本番の曲はひどいもので、マネジャーやプロモーターは気が気でない風だった。結局、?間もなく開場するから?と受け付けがあわてて告げに来るまで、悦嗣も英介も、当のユアンもステージ上にいた。

 そんな状態のユアンであったが、いざ本番でピアノに指を落とすと、

「やっぱり、プロはプロってことか」

と、悦嗣に呟かせたのである。

 プログラムは八曲。ノクターンにバラード、マズルカを四曲、スケルツォ、それからポロネーズである。ショパンの繊細な旋律が、端麗な指先から生み出され、存在する全ての耳を釘付けにした。

 完璧なまでのテクニックで、情感たっぷりに聴かせる。特に『英雄ポロネーズ』とアンコールの『革命のエチュード』は、怒りの気持ちがそのままエネルギーになっているかのような激しさで、圧巻だった。

「そうだね。ユアンは感情を無駄にしないタイプだから、エツが言うとおり根っからのソリストだと思う。何でも自分色にしようとするから、さく也は合わないんだ」

 駅弁の最後の一口を頬張って、英介がユアンのピアノの感想を言った。

 二曲目のアンコールが始まる前に、悦嗣と英介はホールを後にした。新幹線の時間もあったが、しつこいユアンにまた捕まるのも面倒だったので。

 新幹線に乗り込むと、二人はすぐに駅弁にぱくついた。昼食を取った後ユアンに関わってから、ろくに飲み食い出来なかったから、かなり空腹だったのだ。

「感情を無駄にしないタイプ、か。なかなか上手いな、エースケ」

 悦嗣は感心しきりに応えた。英介は悦嗣と違って国語の成績が良かった。大学のレポートは遅れたことがなく、立浪教授のそれは模範論文として、学内機関紙に載ったほどだ。

「唯我独尊っぽいけど、さく也は合奏するのが好きなんだよ。音を合わせて調和を楽しむって感じかな。だから面子揃えるの、大変なんだ。技術はそこそこいるし、合わせるのに音の相性も良くないといけないから。途中で弾かなくなることもあるくらいで」

「確かに、あれに合わすのは大変だ」

「でもちゃんと、弾き分けてる。最終的にファースト(第一ヴァイオリン)に合っていくけど、それだって他のパートに相応しい音で引っ張ってくから、違和感がない。ソロはともかくデュオも、ちゃんとピアノのメロディー?パートは尊重して弾くんだ。でもユアンはそうじゃない。自分の気分が盛り上がると、相手なんかそっちのけだ。たとえ伴奏ピアノであっても。ソロ気質がぶつかり合って、調和も何もあったもんじゃない」

 何かを思い出しているような英介の口ぶりだった。さく也とユアンが組んだ演奏会を、聴いたことがあるのだろう。浅いため息がセットについた。

 振り返って自分はどうなんだろう。さく也と組んだのは去年の六月のアンサンブル?コンサート――悦嗣は入院したピアニストの代替だった――と、年末の母校?月島芸大での模範演奏会の二回。前者は記憶がないほど引き摺られ、後者はそうならないように必死だった。余裕なんてまるで無かった。

 そしてあの埠頭で聴いた、中原さく也の無伴奏でのヴァイオリンは、悦嗣に力の無さを思い知らせた。無駄にした時間を、くやしいとさえ思わせるほどに。

 相応の技術と感性。中原さく也との共通点が、自分のどこにある?

「自分はどうなのかって、顔だな?」

 途切れた会話を継いだのは、英介だった。

「そりゃ、思うだろ?」

「さく也がエツ以外の伴奏で、弾く気は無いって言ったのに?」

 駅弁の空箱を入っていた袋に突っ込んだ。

「ユアンなんたらを断る口実ってこともある」

 英介は、苦笑った

「最初に合わせた時、さく也は弾くのを止めなかった。あの時のエツは、決してプロ?レベルじゃなかったのに。彼は『恋は盲目』的なところはあるけど、音楽には妥協しないぜ」

と言って、英介は上着のポケットを探り、携帯電話を取り出した。マナー?モードにしているそれは、震えている。悦嗣に断って、彼は足早にデッキへ向かった。

 残された悦嗣は、窓の外に目をやった。明るい車内が映って、外はよく見えない。電話の相手は想像出来る。時間的に見て、何曲かアンコールを終え、控え室に帰って一息ついた頃だろう。マネジャーには演奏会が始まる前に、アンコールの途中で帰ることを伝えておいたが、ユアン本人には言わなかった。

 そんなことを考えながら、窓に映る自分の顔を見るとはなしに見ていると、まぶたが重くなってきた。一日仕事で、思ったよりも疲れているのかもしれない。

「ユアンからだ。黙って帰ったから怒ってる」

 ウトウトしかけた時、戻って来た英介の声に起こされた。指先で目をこすった。

「なんで怒られるんだ、まったく」

 昼間のやりとりを思い出して、悦嗣は顔を曇らす。普通なら気分良く帰途につくはずだった。予定通りに仕事を終えたら、その演奏会を聴き、音に浸りながら家に帰る――いつもなら。

「二十二日のオケ?コンもエツに頼むって。それで今度こそ、まともに一曲弾いてくれってさ」

 しかし今回は、一悶着あったあげく開場ギリギリまで調整させられ、終わってからも電話で追いかけられる。悦嗣に、またピアノを弾いてみせろと言う。

「この状況の元凶はエースケ、おまえなんだぞ。ユアン?グリフィスから謂われのない恨みを買ったのも」

 文句の一つも出ようってものだ。

「違うね、エツが素直じゃないからだろ」

 英介の応えは速攻だった。それに対する悦嗣の反応も速かった。

「どういう意味だ?」

 辛らつな物言いが返る。

「言った通りの意味さ。自分の指に逆らってばかりいたから、こうなったんだ」

 口元に笑みはなかった。

「エツはいつだって、音楽もピアノも捨てなかった。会社を辞めて調律師になったのが、いい証拠だ。ローズ?テールでのバイトだって、そうだ。違うか?」

 悦嗣は目を見開く。

「アンサンブルの件だって、その気が全くないなら蹴ってもよかった。常識で考えたら、俺の頼みは理不尽もいいとこで、動かない指なら受けられない話だった」

「だから、それは」

 英介は悦嗣に口を挟ませない。

「ちゃんと指は覚えてた。弾きたがってた。だから話を受けたんだ」

 じっと英介の目が、見つめている。

「断れなかったんだ。エースケ、おまえが持って来た話だからだ。おまえが一緒に弾きたいって、言ったからだ。おまえの頼みじゃなきゃ、誰が聞くか」

 話の途切れたのを見逃さず、反論する。

「違う」

 それに対して、英介は笑みを作って否定した。

 カッと体が熱くなった。

「違わない。おまえの困る顔を見たくなかったからだ。一緒に弾ける誘惑に勝てなかっただけだ。だって、俺は」

「おまえのことが、ずっと好きだったから…」

 自分の声で目が覚めた。

 悦嗣はうつ伏せになった体勢のまま、目だけで辺りを見回す。窓にかかるカーテン、点いたままの電灯、机代わりのグランド?ピアノにミニ?ソファ。半開きの部屋の入り口。全てに見覚えがある。

 体を起こした。まぎれもなく自分の部屋だった。

「夢オチかよ…」

 安堵ともとれるため息が吐き出される。

 昨夜、遅くに部屋に戻った。ユアン?グリフィスのアンコールの途中で会場を後にした悦嗣と英介は、新幹線に乗って駅弁で空腹を満たした。それから少し話しをしている時に、英介はかかって来た携帯に出るため席を立った。彼が戻ってくる前に悦嗣は眠ってしまい、次に記憶が始まったのは東京駅だった。疲れていた二人は寄り道せず、それぞれの家路に着いた。

「かなり、リアルだったな」

 だから英介が電話の為に席を立った以降は、すべて夢ということになる。

 時計を見ると午前五時半を過ぎたところだった。ベットから足を下ろすと、自分が何も身につけていないことに気づく。シャワーを浴びて、そのままベット潜り込んで寝入ったらしい。夢を反芻しながら、服を着る。

 夢の中の英介の言葉が、はっきりと頭に残っていた。

〝エツはいつだって、音楽もピアノも捨てなかった?

〝ちゃんと指は覚えてた。弾きたがってた?

「だったら何だってんだ」

 そう独りごちると、ベットに座った。半開きのカーテンの隙間から、白々し始めた空が見える。目はすっかり覚め、二度寝をする気も起こらない。久しぶりに走りに…の気分でもなかった。

 とりあえず寝覚めのコーヒーを入れた。

 視界にグランドピアノが入る。月島芸大のピアノ専攻の合格祝いに、買ってもらったものだ。これを入れる為に、実家の悦嗣の部屋は一階に移され、防音にリフォームされた。その部屋は今、妹の夏希が使っている。

 卒業して一人暮らしを始めた時に、音楽とは無関係のメーカーに就職したから、必要の無い物になったにも関わらず、引越しのリストに入れた。最初に借りた部屋はワンルームに毛が生えた広さで、半分近くをピアノに占領された。

 英介の言葉通り、音楽から離れられなかった。結局、こうしてピアノを生業にしている。そうして久しく忘れていたピアニストとしての自分――大学卒業を期に封印した子供の頃の夢を、よってたかって思い出させようとする。英介も、立浪教授も、ユアン?グリフィスも、中原さく也も。

「くそっ!」

(6)

 再び、ユアン?グリフィスから仕事の依頼が入った。リサイタルの翌日――悦嗣が図らずも早起きをした日の午後で、英介からの電話で、である。

「二十二日のオケ?コンの調律も、エツに頼むからって昨日の電話で言ってきたの、覚えてるか? 寝惚けてたみたいだったから、念のため電話したんだけど」

 英介の話にまったく覚えがない。帰りの車中、彼が電話を終えて席に戻って来たことは、記憶に残っていないし、その電話の相手がユアンだったことも、現実では知らなかった。戻って以降は夢の中に続いていたからだ。

 夢の中に続いていた――? 

 それにしては、リアルな夢だったことを思い出す。

 英介が二十二日のことを、引き続き喋っていたが、悦嗣は別のことに神経が向いていた。昨晩の新幹線の中のことに。

「エツ?」

 反応がない悦嗣に、英介が話すのを止めた。

「俺、何か変なこと、言ってなかったか?」

 悦嗣が尋ねる。

「フニャフニャ答えてたよ。起きてるのか寝てるのか、わからないような感じ。なんだ、やっぱり寝惚けてたんだな?」

 受話器からの彼の声は、笑い含みだった。

「こんどはまともな曲、弾いてくれって言う話も、OKしたのも覚えてないんだろうな?」

 その内容も夢に出てきた。いったい、どこまで現実だったのか、だんだんと『問題発言』に近づいてくる。血の気が引く思いがした。

「覚えてない」

「ふーむ」

 英介が意味深に相槌を打った。しかし何も言わない。それは気になるところだが、外れて突っ込まれるのも困るので、そのまま悦嗣は口を噤んだ。たとえ話していなかったとしても、彼は何かを感じ取ってしまうかも知れない。

 悦嗣の反応がまた鈍ったことに今度は構わず、英介は話を続けた。

「とにかくユアンにはもう返事したから、二十二日はそのつもりで行ってくれよ。俺は明後日帰るから、ちゃんと通訳は頼んでく。弾くならチャイコかラフマニがいい。得意だろ? 逃げるなよ、エツ」

「エースケ」

「これはユアンのためでもあるんだ。さく也のことで寄り道しないで、ソリストとしての自覚を持たせるためにも」

「おまえはよく周りを見てるな? 高校も大学でも、俺なんかより、よっぽど部長に向いてた」

 英介はカラカラと明るく笑った。

「人の欠点を探して論うのが得意なだけだ。人をグイグイ引っ張る力はないよ。人をまとめるような面倒くさい事は性に合わないし」

 それに今回の事は彼のマネジャーからも頼まれている、と英介は付け加えた。中原さく也のヴァイオリンに固執するあまり、ユアン?グリフィス本人の音が損なわれるのではないかと、心配しているのだと言う。ショパンを獲ったユアンではあったが、彼のベートーヴェンを知る人間の評価は分かれたらしい。ユアンの申し出を受ける意思がサラサラないさく也のことは、さっさとあきらめてほしいのだ。

「ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう。今、ボストンにいるはずだから」

 いい事を考えたとばかりに、英介の声が弾んだ。

「え!?」

「そうしたら通訳もいらないし、エツもやる気出るだろう? 効果倍増だ。連絡してみる。だからデュオって事も考えておいてくれ。それじゃ」

「ちょっと待てよ、エースケ…ッ」

 返答などお構いなしに電話は切れ、無情な電子音が悦嗣の耳に残された。

 悦嗣は自分の心の一隅が熱くなったことに気づいた。?さく也を呼ぼう?と英介が言った時に受けた感覚――あのヴァイオリンの音を聴ける、合わせられる。彼に会える。

「なんだ、そりゃ」

 電子音に向って呟くと、クシャクシャと頭をかいた。

Slow Luv op.3 -4-

(7)

 八月二十二日は快晴。雲一つない青空が、暦の上での秋を裏切っていた。

 今日のホールは前回とは場所が違う。地元のオーケストラが付くということもあって、箱が大きくなったのだ。ピアノとの協奏曲の他、同じくベートーヴェンの交響曲も予定されていた。当然、ショパン?ファイナリストのユアン?グリフィスはトリを飾る。

 調律データは同じだった。前回、あれだけやり直しをさせておいて、結局変わっていないところをみると、やはりあれは高度な嫌がらせだったのだろう。当のユアンはまだ姿を見せていなかった。

「中原」

 背後に人気を感じ、仕事の手を止めて振り返ると、中原さく也が立っていた。

「悪かったな、何か変なことになって」

「あんたが謝ることはない」

 相変わらずのポーカーフェイスで、彼は答えた。まだ途中だからと断って、悦嗣は調律を続けた。さく也は近くのヴァイオリン席に座った。時折りホール?スタッフが、目を止めて行過ぎる。オケのメンバーだとでも思うのか――傍らにヴァイオリン?ケースがあったので――、軽い会釈付きだ。

 去年の月島芸大での模範演奏の時同様、さく也は調律の様子を黙って見ていた。悦嗣は緊張で指先が冷たくなるのを感じていた。

 あのヴァイオリンと弾く。音が耳に蘇る、『シャコンヌ』の音が。

「Sakuya !」

 しばらくして、よく通るテノールが響き、他のスタッフが仕事の手を止める。悦嗣の手も止まった。ユアン?グリフィスの登場である。 彼は客席からステージに上がり、足音も高くさく也に近づいた。さく也は人差し指を口に近づけ、無言で「静かにしろ」とユアンに示した。

 さく也の隣の席にユアンは腰を下ろした。何とか話しかけようと、引き結んだ唇がピクピク動き、息が漏れるが、さく也は頬を彼に向けたまま、取り合わない。

 二人の視線が悦嗣に集中する。「やれやれ」と悦嗣は思いながら呟き、仕事を再開した。

 曲はチャイコフスキーの『なつかしい土地の思い出 第三曲 メロディ』で、さく也の選曲だった。

 去年の暮れ、月島芸大での模範演奏ではこれの第二曲『スケルツォ』とラフマニノフの『ヴォカリーズ』を演奏した。二人でのレパートリーは実質その二曲だから、否応なしだと思っていたのだが、今回の重い鍵盤では速い前者は辛く、ユアンを納得させるには後者では弱すぎる――これは英介の弁――ということで、選び直したのだ。

 『なつかしい土地の思い出』は三曲からなるヴァイオリンの小曲集で、悦嗣はスケルツォ以外の二曲は、人前で弾いたことはない。ただヴァイオリン専攻のレッスンにつきあったことはあった。 しかしさく也と合わせたことはない。リハーサルなしのぶっつけ本番になるが、それでいいからと彼が退かなかった。

「いいさ、ボストンから来てもらうんだから。それに旅の恥は掻き捨てって言うからな」

と悦嗣は承知した。

 チューニングの前に軽く打ち合わせる。

「Moderato con motoだけど、Moderatoのままで始めてくれないか? 様子を見てから速度を上げたいんだけど」

「わかった。[A]の一小節前から上げる。[B]は?」

「流れで行ってくれていい。フォルテだからガンガン叩くさ。そこまで行ったら、指もこのピアノになれるだろうから。出来るだけついていく」

 ユアンはホール真ん中を横切る通路より、少し前の客席に座っていた。音楽を聴くには一番良い席だ。

 悦嗣がピアノの前に座り、傍らでさく也がチューニングを始めると、スタッフ達は何事が始まるのかとステージを注視する。さっきまでピアノを触っていた調律師と、てっきりオケのメンバーだと思っていた若いヴァイオリニストが、ゲスト?ピアニストの為に用意されつつある舞台に立ち、当のユアン?グリフィスが客席に座って二人の演奏を待っているのだから、奇異な感じを受けているに違いなかった。

 チューニングを終えたさく也が、悦嗣を見た。横目でそれに応え、軽く頭でカウントを取る。ピアノからの第一音が鳴った。

 入りの速度はModerato――程よい速さのメゾフォルテで始まり、表情豊かな三拍子で曲が進む。

 初めこそ慣れない鍵盤に戸惑った悦嗣だが、曲が進むうちに気にならなくなった。それがわかるのか、ヴァイオリンが変わった。本来の中原さく也の音に。

 響きわたる音色。揺れるテンポ。ホール内にいる人間は動きを止め、その場で聴き入っている。もちろん、悦嗣にはその様子を見る余裕はない。初めて合わす曲と言うこともあるが、未だにこのヴァイオリンには慣れないからだった。

 惹きつけられ、引き摺られる、気を抜くと、取り込まれてしまいかねない――そんな感覚が絶えず悦嗣を縛る。

 中原さく也との演奏は真剣勝負だった。弾き終わった後、満足感を得たことはなかった。音を追うことしか出来ない、自分の力の無さを思い知るだけだった。

 それでも弾かずにはいられない。彼のヴァイオリンの音を思い出し、ピアニストの指が目覚めるのだ。

――だからユアン?グリフィスは、中原と弾きたがるのか?

 最後の和音を掴んで、悦嗣はそう思った。指が音を記憶し懐かしむから、希求せずにいられないのかも知れない。ユアンの指は既遂の感覚を追い、悦嗣の指は未遂の感覚を追う。「もっと、もっと、もっと」と。

 ヴァイオリンから弓が離れ、ホールに音が完全に吸い込まれると、拍手が沸き起こった。その場に居合わせた人間が、たった一曲のために送ったのだった。一人を除いて。

 ユアンは立ち上がっていた。それだけだ。

 終わってさく也を見た悦嗣の視界には、その姿が入ったが、さく也はまったく見なかった。拍手が沸き起こっても、客席を見なかった。ただじっと悦嗣を見つめるだけだった。

「えっと…」

 その目に応えて、あわてて立ち上がる。思わずピアノに手をかけてしまい、悦嗣は顔をしかめた。余計な指紋が、蓋の端についてしまったからだ。調律師としての自分が戻る。 

 ピアニストの魔法は解けてしまった。

(8)

「もう帰るけど」

 さく也はホールの壁にかかる時計を見上げ、次に悦嗣を見て言った。今しがたまで音を紡いでいたヴァイオリンは、いつの間にかケースに収められていた。       

 曲の終わりは確かに自覚していたのに。自分はまた、あの音に中ってしまったのか――悦嗣は浅く息を吐いた。

「俺は演奏を聴いて帰ることにしてるから。どうやって帰るんだ?」

「新幹線で東京まで出る」

「地下鉄で行くなら、駅まで送るよ」

 その言葉に軽く頷いたさく也は、ステージから降りた。続いて降りようとした悦嗣は、視線に気づいて足を止めた。

 ユアンが同じ場所に立っていた。少し距離があるにも関わらず、その視線が感じられる。横一文字に結んだままの唇が、彼の複雑な胸中を表して見えた。そして悦嗣を…と言うより、さく也を目は追っている。振り返る気配の無い、その後ろ姿を。

「いいのか? あいつ、何か言いたそうだったけど」

 結局、さく也は一度もユアンの視線に応えなかった。その彼の姿がさすがに気の毒に思って、ホールを出たところで悦嗣が言った。

「何も言わなかった」

 さく也の答えは明解で、悦嗣に次を継がせない。

 地下鉄までの道を並んで歩く。東京よりは幾分マシとは言え、昼間はやはり暑い。街路樹が作る蔭を選んで歩いた。すれ違う人間が、ほとんどさく也を振り返った。ヴァイオリニストの中原さく也と気づいているわけではなく、その端正な容姿に惹かれて振り返るのだ。当の本人は、まったく意に介さず、相変わらず冷たい頬を向けるだけだったが。

「口で言ってもわからないから、だからここに来たんだ。『メロディ』もそのために選んだ」

 その『冷たい頬』が、珍しく自分から言葉を発した。脈絡無く始まった話は、先ほどホールを出た際の話の続きらしかった。

 無言で悦嗣が彼を見やる。それの答えはすぐに返った。

「ユアンと合わせた曲だから」

「じゃあ、俺は比べられたのか?」

「言葉で言うよりも、音楽の方がわかりやすい」

「そりゃ、おまえはなぁ」

――喋らないから

とは、悦嗣の心の声である。

「でもユアンはわかったみたいだ。だから何も言えなかったんだろう? ユアンのピアノは、俺を押さえつける。あんたのピアノは、解放してくれる。独奏でないかぎり、音楽は相乗作用で成立してる。だから楽しいし、面白いんだ」

 アルコールも入っていないのに、滑らかに言葉を繋ぐさく也を、悦嗣は不思議そうに見たので、

「何?」

と彼が顔を向けた。

「今日は、よく喋ると思って」

 さく也の頬が一瞬にして紅くなった。フイッと前を向くと、その口は閉じられてしまった。

「だからって、止めなくていいんだぜ」

 さく也の歩調が速くなった。彼自身が作る風に髪が揺れて、頬同様に紅くなった耳を見せる。あきらかに照れているその様が、微笑ましかった。

 地下鉄の駅が見えた所で立ち止まるまで、彼の口は開かなかった。

「…俺は、あんたと弾くの好きだけど、それは…ユアンと同じなのかな…?」

 駅は横断歩道の向こうで、信号は赤。蔭は切れ、容赦なく太陽が照りつける。走り過ぎる車の排気ガスとエンジン音に、暑さが更に増す気がした。さく也のぽそりとした呟きは、そんな『残暑』に紛れそうだったが、辛うじて、悦嗣の耳に届いた。

「あんたに…弾くことを強要してる」

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