「そんなこと、ないさ。俺は、その、素直じゃないだけなんだ」
信号が青に変わったが、二人は渡らなかった。
「おまえと弾くと思うだけで、わくわくする。その才能に釣り合わないとわかっているのに。気後れもするけど、そんなの弾いてしまえばわからなくなる。ただ弾きたくなる。その前後に迷いと後悔があるだけなんだ」
信号がまた赤になったので、悦嗣はさく也の腕を引いて、近くの蔭に入った。
「俺も、おまえと弾くのは好きだよ」
悦嗣は笑った――そういう事なのだ。どんなにその差を思い知らされても、弾かずにはいられない。
さく也は目を見開いた。
「どうしよう、戻りたくなくなってきた」
駅の方に目をやって、さく也が独りごちた。彼はこれから東京に出て、成田発の夜の便でボストンに戻るのだ。仙台滞在時間は、二時間に足りない。ずいぶんな強行スケジュールで、元は悦嗣のためだった。せめて飛行機代を出すと申し出たが、断られた。
「すぐ帰らなきゃならないのか?」
「リクが…弟が一人で待ってるから」
信号が青になり、二人は蔭から出て今度は渡った。駅の出入り口がすぐだった。
「じゃ、俺はここで」
悦嗣は、地下への階段を下りかけるさく也に言った。
二、三段目に掛かっていた足は止まり、彼が振り返る。同時に左手の細い指が、悦嗣の左腕を掴んだ。
それは一瞬で離れ、拳を作って後ろに回された。
「中原?」
「…なんでもない」
さく也は階段を下り始める。いつものように別れの言葉もなく、振り返らない。
下って行く後姿に、「なんでもない」と言った時の、彼の表情が被った。わがままを言おうとして、我慢する子供のような。掴まれた感触が残る腕が、悦嗣に問う――別れ際に、あんな顔を見せたのは初めてだろう? そのヴァイオリン同様、彼のささやかな感情表現は、悦嗣を捉えて離さない。
自答するより先に、言葉が出た。
「改札口で待ってろ。荷物、取ってくるから」
「え?」
「俺も一緒に帰るよ」
さく也にそう言い置くと、悦嗣の足はもう、今来た道を戻り始めていた。
後日、仙台でのユアン?グリフィスの『皇帝』は、彼のベートーヴェンを知る批評家に酷評された。
〝ユアン?グリフィスの『皇帝』は、精彩を欠いていた。技術的には完璧。ミスタッチはなく、速度や強弱は発想記号通りで、ベートーヴェン弾きと評されるほどの、彼の個性は片鱗も見られなかった。何の面白みもない。日本の地方都市と侮って、手を抜いたと取られても仕方のない出来だった?
それをwebサイトで読んだ悦嗣は、聴かなかった演奏のことを思った。あの日の午後の出来事が、彼の演奏に影響したのだろう。悦嗣のピアノにではなく、中原さく也が、『日帰り』してまで仙台にやって来たことに、ショックを受けたに違いない。自分を拒絶するために、そして、悦嗣のピアノのために、さく也が演奏したことに。
プロとして今度は、マイナスの感情をコントロール出来なかったのだ。
――それでも何とかコントロールしたってことか、ミスなしだったってことは
そして、さく也がその三日前に母親を亡くしていたことを、悦嗣は仙台から戻って翌日、英介からのメールで知った。彼の演奏は完璧で、肉親を亡くして間もなかったなど、知った今、思い返しても気がつかない。悦嗣はさく也を、結局、成田まで送ったのだが、彼の様子は変わらなかった。もっとも彼は違っていたのかも知れない。しかし悦嗣にはわからなかった。わずかな変化に気づくほど、さく也をほとんど知らない。知っているのは比類ない音と、自分に向けられる想いだけだ。
成田まで送ると言った時の、彼が忘れられない。赤く染まった頬で、口元を綻ばせた。
その表情を見た時の、自分の気持ちも忘れられない。言葉では言い表せない――はっきりと表現出来ない。それでも、その気持ちを忘れられない。
〝ああ、そうだ。いっそ、さく也を呼ぼう?
英介がそう言った時、悦嗣の心の一隅が熱くなったのは、またあのヴァイオリンと合わせられるという高揚感と、――それから……
Op.3 end
Slow Luv op.4 -1-
(1)
一月の吉日。仏頂面で悦嗣はホテルのロビーにいた。
「エッちゃん、こっちこっち」
手持ち無沙汰に立っていると、聞き慣れた声に呼ばれた。伯母にあたる葛城園子が、満面の笑みで手招きしている。
「三十過ぎの男を、ちゃん付けかよ」
と独りごちて、悦嗣は彼女の方に歩み寄った。
伯母の隣には、二人の女性が立っていた。一人は彼女と同年輩、もう一人は若い。
「竹内さん、甥の悦嗣です。悦嗣くん、こちらが綾香さんよ」
紹介されて、お互いに頭を下げる。相手の女性は、写真以上に美人だった。
ドラマでよく見る見合いの光景に、よもや自分が入るなど――『結婚』ということを考えたこともなかった上に、恋愛対象が、実は異性でなかったことに気づいてからは、まったく縁のないものだと思っていた。
しかし、三十を過ぎていつまでも浮いた話がない男を、周りは放っておかない。
それは一月三日のこと。正月を実家で過ごしていた悦嗣に、
「今月、空いてる日曜日ある?」
と母?律子が聞いた。
「最後の日曜なら、今のところ予定はないけど?」
「じゃあ、予定入れないでね。葛城の伯母さんのご用があるから」
「あそこにピアノなんかあったっけ?」
葛城園子は父の一番上の姉である。てっきり調律の仕事でも依頼されるのかと思ったら、律子は一通の封書を彼の前に置いた。
「あなたにお見合いのお話が来てるのよ。」
「俺?」
「そう、エツによ」
悦嗣は顔をしかめた。それから中身を見ずに、封筒を母に押し返す。律子は中身を出して、息子の前に戻した。スナップ写真が二枚と、便箋。所謂、釣書と言うやつだ。
「ほら一昨年、あなたが出たアンサンブルのコンサートを聴きにいらして、ぜひお会いしたいって」
――また、あのコンサートか
悦嗣はため息をついた。
一昨年の六月に、代役で出たアンサンブル?コンサートは、何かにつけ、それ以後に影響している。しばらく周囲が騒がしくなり、母校?月島芸大はしつこく講師の件を勧めてきた。『共演の話が出ている』という中原さく也の方便で、なんとかその件は据え置きになったが、いまだに演奏会のオファーが時々来て、断りを入れることが煩わしい。
「見合いする気はねえよ」
「お母さんもそう言ったんだけど、先方がどうしてもって仰るらしいの。それにこんなに良いお話はないって、伯母さんも乗り気なのよ」
「だったら、達也に回せよ。あいつは公務員だし、俺なんかよりよっぽど安定してるぜ」
「あなたに来ているお話なのよ。第一、タッちゃんには麻美さんがいるじゃないの。お兄ちゃんがいつまでも独りだから、あの子達だって結婚しにくいでしょう?」
律子は釣書を開いた。
「このお嬢さんも音大を出てらして、ピアノの先生をなさってるんですって。たしかにいいお嬢さんだと思うわ。ほら、写真見て。きれいな方でしょう? あんたにはもったいないわ」
「そうでしょう? きっと俺なんかより、いい相手が見つかりますって」
「会うだけ会ってみたら? 先方の気も済むし、おばさんの顔も立つし」
「会うだけで済むわけない。兄貴の例がある」
加納家の長男の敦祐は、やはり葛城の伯母の口利きで義理見合いをしたのだが、結局その相手と結婚した。もちろん最終的には本人達の意思だったし、円満な夫婦生活をおくっているわけだから、成功例といえるのだが。
「あら、アツヒロ達はとっても幸せだわよ。なぁに、エツ? それとも誰かお相手がいるの?」
覗き込むような律子の仕草に、思わず悦嗣は身を引いた。
言われて一瞬思い浮かんだのは、片想い中の曽和英介の顔ではなかった。
右目の下のホクロ。無愛想な口元。時折り見せる素直な笑み。
――なんで、あいつ…?
奇妙な間を感じ、悦嗣は「そんなのいない」とあわてて答え、浮んだ顔を打ち消す。
「とにかく会いなさい。あなたがお見合いするまで、おばさんはしつこいわよ。一度したら、気が済むんだから。予定入れようたってダメだからね。わかったわね、エツ?」
律子が珍しく強制的だったのは、きっと葛城の伯母からプレッシャーがあったに違いない。父は五人きょうだいの末っ子で、母?律子にはうるさい小姑が三人もいた。その筆頭が世話好きの葛城園子なのである。三十をとうに過ぎた健康な男が一家を構えないことは、園子には許されないことらしい。ちなみに兄の敦祐も、三十になった時に見合いを勧められた。
「もっとマシな恰好なかったの?」
園子が悦嗣に耳打ちした。セーターにジーパンの悦嗣の姿は、見合いの基準に合わないらしい。何しろ予定はフレンチ?レストランで食事の後、クラシック?コンサートなのである。
「堅苦しいのはやめて、普段着でって言ったのは、おばさんだぜ」
「普段着でも、もっとそういった場所にふさわしいのあるでしょうに?」
彼女が渋い顔をする。悦嗣はため息混じりの笑みを返した。
フレンチはともかくコンサートは興味があった。席もプログラムも良かったので、それを『バイト代』だと思って、母の顔を立てたのである。相手には失礼な話だった。見合いをする意欲など、最初からなかったので、どう思われようと構わない。
見合い相手?竹内綾香はすらりとした美人で、食事の折の会話では、嫌な感じは受けなかった。月島芸大など足元にも及ばない某音楽大学を卒業して、ピアノの教師をしながら、あちこちの合唱団で伴奏などしている。悦嗣はまったく記憶にないが、彼女が出演した演奏会のピアノの調律を、したことがあったらしい。
「その時の仕事ぶりが、とても印象に残ったんですってよ」
仕切り屋気質の園子が、食事中にそういったことを説明してくれた。食事の間、ほとんど彼女が喋っていた。それに相手の付き添い――親戚筋らしい――の女性が相槌を打ち、時々の質問に当事者二人が答える。
仏頂面は悪かろうと、愛想笑いを織り交ぜる気配りをしなくてはならず、悦嗣には長い食事時間となった。
(2)
朝の部屋に、電話の音が響く。オフは朝寝坊と決めているさく也は、それを無視した。取らずにおけば、留守電に切り替わる。しかし、相手はメッセージを入れずに、電話を切った。
さく也は薄く目を開け、枕に頭を凭せたまま、部屋の中を見た。南向きの窓から、カーテン越しに光が入っている。時間は午後になっているようだった。構わずに目を閉じた。睡眠は、さく也の趣味の一つである。
再び眠りの中に入ったさく也を、今度は呼び鈴が起こした。電話の柔らかい機械音と違って、古いアパートのドアベルは、無粋な音で耳を刺激する。
さく也はベットの上で起き上がった。時計を見ると、午後二時になろうとしていた。いい加減、起きていい時間ではある。仕方なく上着を羽織って、ドアの方に向った。
覗き穴から外を確認すると、ユアン?グリフィスが立っていた。
「ユアン?」
チェーンキーをしたまま、ドアを開ける。 ウィーンに来る際には、必ずさく也に連絡を入れてくるユアンなのだが、今回はそれが無かったので、さく也は確認するように声を発した。
ユアンがぎこちなく笑んだ。「入っても?」と、漏れる息が白い。冷たい空気も、細く開いたドアからすべりこむ。さく也は彼を中に入れた。
ユアン?グリフィスとは去年の八月、日本の仙台音楽祭で会って以来だった。ゲスト?ピアニストとして参加したユアンの真の目的は、エツシ?カノウに会って、その演奏を聴くことにあった。演奏家として、そして生涯のパートナーとして求めたさく也が、断る際に口にしたのがエツシ?カノウの名前だったからだ。さく也はユアンを完全に拒絶するため、その目の前で彼と弾いてみせたのである。それ以後、メールも電話も、寸暇を割いての来墺もなくなった。
ファンヒーターのスイッチを入れ、着替えるために寝室に戻ろうとするさく也の腕を、ユアンが掴んだ。そのまま引き寄せる。長身の彼の腕の中に、さく也は抱き込まれた。
ユアンのコートからは、雪の匂いがした。
「そのヴァイオリンは諦める。だけど、君を諦めたくない」
耳元に寄せられた唇が囁く。軽く耳朶を啄ばんで、離れた。ユアンの腕に力が入り、さく也をきつく抱きしめる。
「愛してる、離したくないんだ」
青い瞳が、さく也を見つめた。唇が唇を捕らえようした時、さく也の手が遮る。ユアンの腕が緩んだことを見逃さず、さく也は彼の胸を押しのけた。
「どうして?」
ユアンは空になった腕の中に呟いた。それから顔を上げ、髪と服を整えるさく也を見る。
「ユアンのことは嫌いじゃない。でも、恋愛感情は持てない」
さく也は答えると、寝室の方に足を向けた。ユアンの声が、それを追い駆ける。
「彼が…、エツシ?カノウが好きなのか? …ピアノだけじゃなく?」
「着替えてくる」
「待ってくれ、サクヤ。どうして、僕ではダメなんだ? 彼とどこが違う? 年だって、さほど変わらないし、ピアノだって、タイプは違うけど、劣っているとは思えない。だけど、君を愛する気持ちは、僕の方が強いさ。彼は君を友達以上に見ていないぞ」
「わかってる」
「だったら!」
さく也はユアンを見た。彼はまっすぐさく也を見つめている。その姿は重なった――相手の感情は二の次で、自分の想いを伝えようとする。表現の差こそあれ、加納悦嗣に対するさく也の姿と、どこが違う?
「好きになるのに、理由なんてない」
ただ好きなだけだ。その気持ちが、さく也を悦嗣の元に向わせる。
頬が熱くなったのは、温まった部屋のせいばかりじゃない。加納悦嗣のことを思ったからだった。彼とも去年の夏の仙台以来、会っていない。仕事を持つ身に、ウィーンと日本の距離は遠い。時々のメールくらいしか、悦嗣との接点はなかった。国際電話は、口下手なさく也には不向きな代物だったから。初めて悦嗣に国際電話をかけた時、思うように話せなくて、わずか三分で切った。さく也が口にしたのは自分の名前と、「うん」と「それじゃ、また」 そのことを思い出し、彼の口元に笑みが浮ぶ。
「恋愛は相愛になってこそだ…。君はそれでいいのか? 可能性の薄い相手に入れ込むなんて、サクヤ、君らしくない」
ユアンの声が、その笑みを消した。いつもの表情の欠乏した顔を、彼に向ける。
「君はいつだって、愛されることを望んだじゃないか。相手もそれに必ず応えた。君は成就しない恋はしなかっ…」
ユアンはハッと、言葉を飲み込んだ。成就しない恋はしないさく也が、成就しそうにない恋をしている。彼の脳裏には、今までのさく也の相手が浮んでいるだろう。父親ほどに年が離れ、それなりの地位を確保した大人の恋人。さく也の選ぶ相手はいつもそんなタイプだった。ファーザー?コンプレックスだと、周りは冗談で冷やかしたが、さく也は否定しなかった。
ユアンはソファに座り込んだ。長い指を組んで額を乗せ俯く。しばらく彼は黙ってしまった。
「本気なのか、あんなヤツに?」
搾り出すように、言葉が漏れた。
「…どうして、僕ではダメなんだ、サクヤ…?」
さく也に向けられているようであり、自問しているようにも聞こえた。背を向けかけたさく也は、彼を見やる。
「ユアンは錯覚しているんだ。俺がYESと言わないから」
ユアンに口説かれて、NOと言う人間はいない。情熱的に言葉を駆り、『青の中の青』と評される瞳で甘く見つめるられると、たとえ一夜の遊びとわかっていても、その誘いを断ることが出来ない。彼が求めて手に入らなかったことはないのだ。サクヤ?ナカハラは、唯一の例外だった。
さく也は十七才の夏に、ジュリアード音楽院が開催した一週間のサマー?スクールで、ユアンと出会った。三日目のランチ、学院内のカフェで隣合わせたのだ。さく也は一人だったが、ユアンは五、六人のグループの中にいた。グループと言うより、「ユアンとその取り巻き」と言った風で、その人数は日に日に増えていった。男女問わず、誰もがその華やかなカリスマ性と才能に惹かれて行く。さく也には興味のないことだったので、名前は勿論、顔さえ知らなかった。それはユアンも同様で、隣に座った時も、「ここ、いいかな?」「どうぞ」のやりとりだけで、後は仲間達とのお喋りに入って行ったから、さく也に関心はなかったと思える。
親しく――これはユアンの視点だが――話すようになったのは、その夕方から。レッスン室が取れなかったさく也が中庭で練習していたところに、ユアンが通りかかったのである。さく也は集中していて、彼が聴いていることに気づかなかった。一曲弾き終わって、目の前に立つユアンに気がついた。興奮した彼が早口で自己紹介して、さく也はユアン?グリフィスの名を知ったのだ。以来、実技講習以外の講義では、ユアンの隣がさく也の指定席になったが、さく也本人が望んだことではない。サマー?スクールの日程が終わった日に、ユアンから告白された。「君のことが好きなんだ」――それが最初で、今に至るまで繰り返し続いている。
「俺は毛色が変わっていたから、ユアンの興味を引いただけだ」
「サクヤ?!」
「相思相愛になってこそ恋愛だと言うなら、ユアンとも恋愛にはならない」
自分が言ったことを引用されて、ユアンが反論出来ないのを見ると、さく也は今度こそ着替えのため、部屋を出た。
Slow Luv op.4 -2-
(3)
見合いを終えて相手をタクシーに乗せた後、ローズテールで少し飲んでから悦嗣はマンションに戻った。待っていたのは、伯母?園子と母?律子からの留守番電話だった。どちらも内容は同じで、相手側がこのまましばらく付き合いたいと言ってきたから、次の予定を決めたいというものだった。
悦嗣はまず、園子に断りの電話をした。甥の返事を聞くや否や、言葉も挟ませない勢いで説教する。それを我慢強く聞くこと三十分、やっと解放されて実家に電話を入れたが話中で、繋がったのは小一時間してからだった。案の定、園子が長電話の相手で、息子同様、懇々と説教されていたらしい。明らかに、律子の声は疲れていた。
「とにかく、金輪際、見合いの話とかはお断りだから」
母親の愚痴のような話を、またしても我慢強く聞いて電話を切った。
竹内綾香は第一印象通り、感じの良い女性だった。音楽の知識はさすがに豊富で、会話にも淀みがなく、悦嗣を疲れさせなかった。演奏会の感想を話しながらの帰途は、見合いということを忘れるくらい会話が弾んだ。それがどうやら彼女に好印象を与えたらしい。
空調が効いて部屋が暖まる。明日の仕事の確認とメール?チェックのために、PCの電源を入れた。悦嗣はタートルネックのセーターを脱いで、ピアノの上に放り投げた。先に乗っていたコートに中り、一緒に置いてあったプログラムが床に落ちる。それが悦嗣の目を引いた。
『All Tchaikovsky』――見合いのために用意された演奏会は、プログラムが全てチャイコフスキーで構成されていた。
その最後の曲は、ゲストにロシアの国際的なヴァイオリニストを迎えての、ヴァイオリン協奏曲。演奏が始まると悦嗣の耳は、ステージ上のソリストが生み出す音ではなく、別の音色を追っていた。情熱的で感傷的、大胆で繊細。生み出された瞬間から、その場の全てを支配する――悦嗣の記憶の中に存在する、中原さく也の音だった。
それは無意識のことで、気づいた時、自分自身に驚く。中原さく也のオケ付きのソロは聴いたことがない。ステージ上のヴァイオリニストは巨漢で、ボーイングも紡ぎ出す音も、似通ったところなど、どこにもないと言うのに。悦嗣は音楽の中に取り込まれ、音を追いつづけていた。
隣に座る見合い相手など意識から消え、アンコールの二曲目が始まる時に話し掛けられるまで、すっかり自分の置かれた状況を忘れていたのだ。プログラムを拾い上げると、その事が思い出される。悦嗣の口元に、苦笑が浮んだ。今日の自分はどうかしている…と。
PCが起ち上がったことを知らせた。メールが受信されているマークが出ている。悦嗣はページを開けた。ダイレクトメールに混じって、英介とさく也の名前がある。マウスを持った悦嗣の手は、迷わずさく也の方をクリックした。以前の悦嗣なら、何を置いても英介が最優先だった。その不文律が崩れたのは、去年の夏。仙台音楽祭以降、まずさく也からのメールを読むようになっている。悦嗣自身、意識してのことではなかったが、今、クリックした瞬間、それに気がついた。
マウスを握る手を、しばらくの間見つめる。
〝二月に入ったら、そちらに行こうと思う。予定が決まれば、連絡する。ウィーンは寒く、エースケは風邪を引いていて咳がひどい。しばらくオケに参加禁止になっている?
さく也のメールはいつも短い。その口同様、文章も口下手だ。多分、意思を伝えることが、言葉にしろ文章にしろ苦手なのだろう。一度、彼から国際電話が来たことがあったが、これと言ったことも話さず三分で切れた。
メールの最後は必ず英介の事が書かれている。人のことには気が回らなさそうな彼なりの、悦嗣に対する配慮なのだ。どんな気持ちでその文面を打つのだろう。考えると、少し切なくなった。
〝東京も寒いよ?と返信の始めを打ったところで、手が止まった。受信ボックスをクリックして、さく也からのメールを再度開けた。その素っ気ない文面をしばらく眺めた後、悦嗣はPCの前を離れた。本棚から『日本の名勝百選』を取り出す。折印のついた、青天に浮ぶ富士山のページを開いた。雲一つなかった空を横切る無粋なペン字は、さく也のウィーンの連絡先だった。これをさく也が書いたのは一昨年の六月だが、未だに悦嗣はアドレス帳の類に書き写していなかった。自分から国際電話をかけることはない。中原さく也の生活圏は日本からはるか離れたウィーンだったし、示された好意は一過性の、離れてしまえば消えて疎遠になる程度のもので、メールアドレスさえ知っていれば事足りると、あの頃は思っていたからだ。
ダイヤルボタンを押すと、国内とさほど変わらない呼び出し音が聞こえる。時差は八時間ほど。ウィーンは午後三時を回った頃だろう。仕事に行っているかも知れない。それでも受話器を置く気にはならなかった。
相手が取った音がして、「もしもし」と悦嗣が話そうとすると、女性の声で外国語が聞こえて来た。事務的なそれは、留守番電話のガイダンスだとわかった。日本と同じように、伝言を促す「ピー」と言う音が聞こえる。
「えっと…加納ですけど。用があったわけじゃないから、掛け直さなくていい。ただ、声が聞きたかっただけだから」
メッセージを入れたところで、慌てて受話器を置いた。
――何言ってんだ、俺は
電話を切るまでは、躊躇いがなかった。声を聞きたい衝動も本当で、それを伝える言葉も悦嗣の口から自然に零れた。受話器を置いた時点で、その衝動を思い知る。
一連の行動を、肯定するのは容易い。そして、その原動力となったものも知っている。
――俺は、
自分は中原さく也に惹かれている。ヴァイオリンの音色以上に、彼自身に。あの素直な好意に。あの時々の微かな笑みに。
悦嗣はピアノの上のセーターを手に取り、被りながら玄関へ足を向けた。鍵を引っ掴むと、エアコンも何もかも点けたまま、部屋を出た。
(4)
さく也が着替えて寝室を出ると、ピアノの音が部屋に充満していた。
アップライト?ピアノの前にユアンが座っていた。長い指が鍵盤をガシガシと掴み、情緒も何も無視して、ただフォルテで弾き続ける。ベートーヴェンのせっかくの名曲は、騒音となって壁を叩いた。ここが演奏家専用の、古いながらも防音仕様のアパートでなければ、隣近所から苦情が来るほどに。そう言う風にして、彼なりに昂ぶった気持ちを抑えようとしているのだ。ユアンのこの状態がしばらく続くことを知っているさく也は、キッチンに入った。
二人分のコーヒーを入れて、カップの一つをピアノの上に置いた。
ユアンの手が止まった。傍らに立ったさく也を見る。手は鍵盤から離れ、さく也の頬に伸びた。冷たい指先が触れる。
「錯覚なんかじゃない。僕は…本当に君のことが。だから、言ってくれ。どうしたらいい? どうしたら君に振り向いてもらえる?」
スッと、さく也は下がった。
「ユアンはユアンのままでいい。無理をすればきっと歪んでくる。そのままのユアンを愛し――」
「どうしても、僕ではダメなんだね?」
さく也の言葉を遮って、ユアンが立ちあがった。
見下ろされるのを嫌って、さく也はソファの方に動いた。その腕をユアンが掴む。振り払う間を与えず、そのまま腕を引いて、ソファに押し倒した。ユアンの長い足があたって、テーブルの上に置いたコーヒー?カップが床に落ちる。
さく也の真上に、ユアンの青い瞳があった。
「僕は…君を抱くよ」
「やめろ」
「サクヤがフィデリティを大切にしていることは知ってる。好きなヤツがいると、他の男とセックス出来ないくらいに。こうして僕に抱かれてしまえば、もう彼の元には戻れないだろう?」
ユアンの左手がさく也の両手首を、ユアンの長い足がさく也の足を押さえ込んだ。
「離せ」
彼の本気を感じ取って、さく也は体を捩った。しかし圧し掛かるユアンは、びくとも動かず、もうさく也の声も聞こうとしない。
キスから逃れるために動くさく也の顎を右手で掴み、唇を合わせた。噛み付くようなキスは、さく也の抵抗を封じる。それを確認すると、彼の右手はセーターの裾から、さく也の胸に滑り込んだ。
「ユアン!」
「抵抗しないで、サクヤ。ひどくしたくないんだ」
哀願する目でユアンが言った。次に落とされたキスは先ほどのそれとは違い、愛しむように優しいものだった。
育ちが良く、才能と人柄で手に入らないものはなかったユアンは、相手の合意なしでのセックスはしなかった。知り合ってから数え切れないほどさく也をくどきはしたが、むやみに体に触れることはなく、軽く肩を抱く程度で、それもさく也が嫌がる時にはすぐに外すほどだった。
その彼が、さく也を力ずくで抱こうとしている。これは、言葉足らずな自分のせいなのだろうか…と、さく也は思った。ユアンの事は嫌いじゃない。疎ましいほどの好意、だからと言って嫌いにはなれなかった。さく也は表現の仕方がわからないから、冷めて人嫌いな印象を与えているが、人恋しい部分は人並みに持っている。
ユアンの手が優しく触れる。ユアンの唇が甘く愛を囁く。自分の意思とは関係なく、さく也の体は熱を帯び、彼に応えてしまいそうに力が抜ける。
電話のベルが鳴った。反射的にさく也の体が動くのを、ユアンが押さえ込んだ。
ベルはしばらく鳴りつづけると、いつも通りに留守番電話に切り替わり、機械的な声でガイダンスが始まった。さく也の意思がそちらに移ったことを感じて、ユアンがまた唇を合わせてきた。歯列を割ろうとする彼の舌に、さく也の唇が緩んだ時、
〝えっと…加納ですけど。用があったわけじゃないから、掛け直さなくていい。ただ、声が聞きたかっただけだから?
その声が流れた。精彩を失いかけたさく也の目は、途端に光を取り戻す。
――加納…!?
次には、渾身の力で、ユアンを押しのけていた。さく也の抵抗がなくなって加減していたユアンは、ソファの下に落とされた。
「サクヤ!?」
慌てて引き戻そうと彼は腕を伸ばしたが、さく也はそれをすり抜けた。体の熱りは一瞬にして引いた。
電話に駆け寄り、再生ボタンを押す。今、録音されたばかりのメッセージが、スピーカーから流れ出した。間違いなく、加納悦嗣だ。
さく也の声を聞きたかったと言ったのは、聞き違いではなかった。五ヶ月ぶりの悦嗣の声は、別の熱りをさく也の頬に産みだした。電話の脇のメモパッドには、初めて悦嗣に国際電話をかけるために書き留めた電話番号が、そのまま残っていた。プッシュ?ボタンを押す。ユアンの気配を背中に感じ、振り返って彼を見た。
「寄るなっ!!」
常にない声で一喝され、ユアンはその場に立ち竦んだ。全身で拒絶を示して、さく也は耳に響く呼び出し音に集中する。
むなしく鳴り続ける電話は、しばらくして悦嗣自身で吹き込まれたガイダンスが流れ、留守番電話に切り替わった。
あんなに聞きたいと思った悦嗣の声。かけたくてもかけられなかった電話が、彼の方からかかってきたと言うのに、どうして自分は取れなかったんだろう。
受話器を置いて、乱れた胸元を整えた。
「ユアン、今日のことは忘れる。だから帰ってくれ」
棒立ちのユアンに一瞥くれて、さく也は寝室に向った。
入り口近くに立てかけてあったヴァイオリン?ケースを引っ掴むと、パスポートやカードの類を楽器と一緒に放り込む。脱いだままイスに無雑作にかけられたコートを着込みながら、部屋の戸締りを手早く済ませた。
空調を切り、後はドアから外に出るだけになり、さく也がまだ立ち竦んだままのユアンに向って、彼のコートを放った。
「さっきの電話…」
ユアン搾り出すように言う。
「彼だな? 彼のところに行くのか?」
「だったら、どうなんだ? また無理やり俺を抱くのか?」
「サクヤッ」
さく也は時計を見る。もうすぐ4時だ。今から日本行きの便はあるだろうか? なくても構わない。とにかく空港に行きたかった。それだけで、悦嗣に近づく気がしたから。
「友達としてのユアンは失くしたくない。俺を行かせてくれ」
物問いたげな青い瞳に、さく也は続けた。
「彼じゃなきゃ、嫌なんだ」
Slow Luv op.4 -3-
(5)
喉の乾きで夜中に目が覚めた夏希は、台所に向かう途中、離れのレッスン室に灯りが点いていることに、気がついた。
母屋からのドアの小窓で中を覗くと、
「エツ兄?」
ピアノの前に座る次兄?悦嗣の姿が見えた。
夏希はそっとドアを開ける。常日頃ノックもせずに部屋に入る彼女なのだが、今夜はなぜか出来なかった。兄の横顔が違って見えたからだ。
防音の扉を開けると、音が溢れ出す。慌ててドアを閉めた。
いつもの悦嗣なら、ドアが開くとすぐに演奏を止める。しかし彼の指は止まらなかった。夏希の気配など全く気づく様子はない。
音が部屋を満たしていた。曲は『幻想即興曲』 ショパンの華麗な旋律に、夏希の体はドアに縫いとめられていた。
――本気の、エツ兄だ。
彼女の目は、彼の指の動きを追う。生み出だされる音楽が、見える気がした。耳を通して、体中に音が浸透していく。
本気の兄を見るのは、数える程しかない。九才離れているので、夏希が真剣に音楽を意識し始めた頃には、悦嗣はもう社会人――それもピアノと関係のない――になっていて、ステージでの演奏はほとんど記憶になかった。妹のために弾いてくれたことは何度もあったが、それはあくまでもお遊び。同じ大学の音楽学部に入って、兄を教えた技術系の教授達が夏希を妹と知るや、「あの加納悦嗣の」と冠して兄を誉めそやすので、その才能を知ったようなものだった。
一昨年の六月に代役で出たアンサンブル?コンサート、同じ年に中原さく也と弾いた母校での模範演奏で、夏希はその『本気』に触れた。前者はクインテットの一人だったし、後者は言わば中原さく也の伴奏だった。ソロでの本気を聴くのは初めての夏希は、興奮していた。
――エツ兄、かっこいい
曲は途切れなく続いていく。『夜想曲』、『マズルカ』、『ポロネーズ』、ショパンにチャイコフスキー、ラフマニノフと、悦嗣の指はまるで、何かに憑かれたように鍵盤の上を走った。
自分に気がついて曲が止んでしまわないように、夏希は息を殺して聴き入っていた。
ピアノの音は明け方、冬の遅い朝の気配が東の空に見える頃まで、途切れることはなかった。
「夏希、おい、風邪ひくぞ」
床に膝を抱いて座っていた夏希は、兄?悦嗣に起こされた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を開けると、自分の前にかがむ兄の姿が見えた。
「エツ兄…」
「いったいいつからいたんだ? 声かけろよ」
「だって、声かけたら弾くの止めちゃうじゃない。それに、いつもなら気づくじゃん」
兄は苦笑した。
「お兄ちゃんのピアノ、初めて聴いた」
「いつも弾いてるじゃねーか」
「違うよ、本気のピアノだよ」
夏希の腕を掴んで、立つように促す。『真夜中のコンサート』の余韻は、もうこの部屋に残っていない。
兄は夜遅くにいきなり帰ってきた。ピアノの調律のためと言って、来るなりレッスン室にこもってしまった。前の調律から三ヶ月も経っていない。第一、手ぶらだった。外の入り口から運んだとも考えられるが、レッスン室には何もなかった。 昨日のお見合いで何かあったのだろうか?
――でも、エツ兄は最初から断るつもりだったし
見合いの付録のコンサートはピアノ系ではなかったから、刺激されたわけでもないだろう。何がこの兄を本気にさせたのか。
「ねえねえ、何かあったの? 実は相手の人が好みだったとか? でも園子おばさんが持ってきた話だから、断っちゃったとか?」
「何にもねーよ。変なこと考えるな。おまえ、今日、仕事だろ? 少し寝ておけよ。俺も帰って寝るから」
「泊まってけばいいじゃん」
「夏希がうるさいから、帰る」
「あ、やっぱり何かあったんだ?」
「疑り深いヤツ。俺はこっちから出るから、鍵、閉めとけよ」
兄は肩を竦めて、母屋側とは違うドア?ノブに手をかけた。