それを躊躇させるものは何なのか。
「俺な、何か。。。変やねん」
小さく、アキが言った。
「―何が?」
「分からん。。。けど。。。けど、今日もまた桐谷さんち入れて貰ったら。。。あかん気がする」
動揺が滲む、絞り出すような声。
アキは頭を抱えて、抱いたコートに顔を埋める。
「怖いねん。。。。。。。なんか、めっちゃ、こわい」
「俺が怖いのか?」
「―ちゃう。。。!、そうじゃない。。。桐谷さんは、優しい」
俯いたまま、力なく首を振るアキの髪に触れる。
―アキは一体、何に怯えているのだろう。
「アキ」
もう一度呼びかけると、揺れる瞳と目が合った。
「。。。おいで」
「バカ。。。!素手で触る奴があるか!」
オーブンの中の、焼きたてのグラタンに素手で手を伸ばしたアキの腰を桐谷は思い切り引き戻した。
何とか触れるまでに間に合い、桐谷はアキの頭の横で安堵の息を大きく吐く。
「びっくりした。。。」
大きな声に驚いたのか、アキは身を硬くして呟いた。
「びっくりしたのはこっちだ。何度で焼いてたと思ってんだ。―触ってないな?」
「うん。。。。そうやんな、火傷するよな。。。ごめん」
予想外の行動が、アキには多すぎる。
「お前、もういいから座ってろ。な?」
昨夜と同じように、桐谷は部屋に入ったアキにすぐ風呂に入るよう言った。
その間にグラタンを焼き始め、丁度焼きあがった頃、アキが風呂から出て来た。
何か手伝いたいと申し出たアキに、サラダを盛り付けていた桐谷は、オーブンからグラタンの皿を出してトレーに載せてくれと頼んだ。
これを使えと濡らした布巾を渡す前に、アキはあろうことか素手でオーブンに手を突っ込んでいて、久々に肝が冷える思いをした。
「お前、料理しないだろ。いつも何食ってんだ?」
しゅんとしてダイニングの席に座ったアキに、桐谷は声を掛けた。
「えっと。。。コンビニとかで適当に買ったりとか」
「だろうな。量も全然食ってないだろ」
「。。。何で?」
「細いし、あんまり栄養巡ってなさそうに見える」
「はは、何それ。けど一人やとあんま、食べる気せえへんし」
「一緒に食う奴はいないのか」
「親しい人は。。。あんまおらん」
雰囲気的には、アキはそう人当たりが悪いようには見えない。けれど、その言葉にすんなりと納得している自分もいた。
「寂しい奴だな」
「。。。そうやね」
ぽつりと返す声。
桐谷はアキに背を向けてオーブンからグラタンを取り出していたが、今アキがどんな顔をしているのか、見えたような気がした。
湯気の昇るグラタンをひとくち口に入れて、アキは目を丸くした。
「おいしい。。。。めっちゃ、おいしい」
呆然としたように漏らしたアキに桐谷は苦笑した。
アキはじっと桐谷の方を見ながら、もぐもぐと口を動かす。
「これ、ホウレン草?」
「ああ。鶏も入ってる」
結局具材は、鶏と冷蔵庫にあったホウレン草をソテーして入れた。
「天才やな、桐谷さん」
無邪気に微笑んだアキに、だから大袈裟だと返す。
「桐谷さん、何で食べへんの?」
皿を前に手を動かそうとしない桐谷に、アキが不思議そうに訊ねてくる。
「。。。猫舌なんだ、俺は」
返した桐谷に、アキはまた笑った。
持ち帰ったパソコン仕事を済ませ寝室に行くと、先にベッドに入っていたアキはまだ起きていた。
「眠れないのか?」
「ん。。。ちょっと、考え事」
「もう1時回ってる。早く寝ろよ」
「うん」
アキはぼんやりと天井を見上げたまま頷いた。
「まだ怖いか?」
「え。。。?」
「言ってたろ。さっき」
桐谷もベッドに入る。
「今、そのこと考えてたけど。。。何か俺、桐谷さんとおったら今の今までそんな気持ち忘れてたみたい」
ええ加減やろ、とアキは笑う。
「そうか。ならいい」
「桐谷さんて、不思議やな」
「。。。?」
「うん、なんか、不思議」
独り言のように呟く。
「桐谷さん、いくつ?」
「。。。26」
「そうなん?26らしからぬ落ち着きやんな」
「。。。。。。」
「よく言われるんや?」
「うるさい」
あはは、とアキが笑う。
「一人暮らし、長いん?」
「ああ。18の頃からずっと一人で暮らしてる」
「そっか。。。。俺、桐谷さんみたいな大人になりたいな」
「何だそれ」
「落ち着いてて、一人でもちゃんとしっかり生活してて、人に優しいできる、大人」
「お前、あんまり生活力なさそうだもんな」
桐谷の言葉に、アキはむっとした様子で返す。
「うるさいよ。体育棟で暮らす適応能力なめんとってや」
「それは生活力とはちょっと違うだろ」
「。。。。。。もう寝る」
拗ねるような口調で言って、アキは桐谷に背を向けた。
「桐谷さん」
「何だ?」
サイドボードの照明を消そうとしていた桐谷は手を止めた。
「ありがとう」
おやすみなさい、と小さく言ったアキに、桐谷もおやすみと返して、明かりを消した。
その夜、アキはまた、夜中に目を覚ましていた。
ベッドに半身を起こし、何かを鎮めようとするように、目を閉じて静かに肩で息をしていた。
桐谷は隣でそれに気付いていたが、声を掛けるのは何となく憚られ、しばらく経って再びアキが横になるのを黙って見守っていた。
次の朝、アキは熱を出した。
「37度9分。。。。2日も続けて外に座ってたりするからだ」
アキから受け取った体温計を見て、桐谷は顔を顰めた。
思った通りだ。今朝目が覚めた時、隣から感じる体温はこれまでより熱かった。
「。。。ごめん、桐谷さん。迷惑かけて」
「謝らなくていいから、もうちょっと普段まともな生活をするように努力しろ」
「。。。はい」
弱々しく掠れた声で、アキが答えた。
病院には行かない、寝てれば治る、早く仕事に行ってとアキが強く主張するので、桐谷はアキを部屋に置いて通常通り出勤することにした。
食欲がないとアキは言ったが、桐谷が野菜スープを作ると、何度か口に運んで、薬を飲んだ。
身支度を整え、ベッドルームを覗いた時には、アキは既に寝入っていた。
浅い呼吸。少し汗をかいている。
あの身体の冷たさから考えると、恐らく平熱は低いだろう。38度近い今の体温は、かなり辛いに違いない。
桐谷は一旦キッチンに行き、冷たい水で濡らしたタオルを手に戻る。
額に乗せてやると、アキは身じろぎして、気持ち良さそうに小さく息を吐いた。
これまで体調を崩した時は一人でどうやってしのいで来たのだろうか。
まともじゃない場所に長く寝泊りしていたのなら、尚更。
熱が上がってこないか気掛かりだったが、念のため店の電話番号を書いたメモをサイドテーブルに置いて、桐谷は部屋を出た。
昼過ぎに休憩を利用して一度様子を見に戻ると、薬が効いたのか朝よりは穏やかな顔で眠っていた。
かなり汗をかいたのだろう、ゆるくカーブを描いて束になった前髪が、額に影を落としている。
目にかかる髪をそっとよけてやり、額に手をあてると、まだかなり熱くはあったが、朝よりは引いているように感じた。
少し安堵して掌を離すと、アキがうっすらと目を開けた。
ぼんやりとこちらを見る目は、恐らくあまり焦点が合っていない。
「。。。大丈夫か?
声を掛けると、微かに頷いた。
続けて何か食えそうか、と訊くと、今度は首を小さく横に振る。
とは言っても、何か腹に入れないことには薬が飲めない。
アキはすぐにまた目を閉じたが、桐谷は先程買ってきた白桃を食べさせようと決め、一旦ベッドから離れた。
桃の皮を剥き、カットして小皿に盛る。
甘いほのかな香りがキッチンに漂った。
「アキ」
ベッドに戻り名前を呼ぶと、アキは再び虚ろげな目を開ける。
アキの頭に手を差し入れて起こし、その口元に手にした桃を運んだ。
「これ食って、薬飲め」
言うと、アキがわずかに口を開いた。顎に指を添えて大きく開かせ、舌に載せる。
桐谷は一口大に切ったつもりだったが、アキの口内には大きかったようだ。
いくつか食べさせている内に、アキの唇の端から果汁が滴った。
桐谷の指がそれを唇に向かってすくい上げると、アキは目を閉じて、その指先を柔く吸った。
熱い、舌。
その舌の動きがひどく淫らに感じられて、桐谷はアキの口から指を離した。
うっすらと目を開いたその表情が、いつかのものと重なる。
「薬」
脳裏によぎる残像を払うように言って、桐谷は錠剤の瓶を手に取った。
薬を飲ませる間も終始、アキは言葉を発しなかった。
こちらの声には反応し従順に従うが、意識はかなり曖昧な状態のようだ。
仕事に戻らなければならない時間が迫っていた桐谷は、なるべく早く帰ると声を掛けて立ち上がった。
アキの身体にブランケットと布団を肩まで掛け直してやる。
踵を返そうとした時、不意に桐谷の背へ向けて、切なげな声が追ってきた。
「。。。行ったら嫌や」
突然聴こえた声に驚き振り返ると、形のいい眉を寄せ、濡れた目元をしたアキと目が合った。
「アキ。。。?」
「行ったら、嫌。。。」
もう一度言ったその声には、切羽詰まった響きがあった。
「。。。行かんといて。。。。。。傍におって。。。」
足を止めた桐谷の上着を掴み、ぐずる子供のように繰り返す。
「アキ?どうした」
向き直って言うと、アキは両手で桐谷の上着をぎゅっと握って半身を起こし、その胸に顔を埋めた。
「お願い。。。」
そっとアキの髪に手を触れる。
桐谷はベッドに肩膝を乗り上げて、その背を支えて腕を回した。
寄せた身体は熱く、桐谷はあやすように、その背を優しく撫でた。
「―眠るまで、こうしてるから」
乱れたアキの呼吸が徐々に治まっていくのを聴きながら、桐谷はその熱を帯びた身体を抱いていた。
その日は午後から店が混み、20時を過ぎても仕事を上がる目途はたたなかった。
部屋に残して来たアキの事が気掛かりだったが、この店の状況ではどうすることも出来ない。
結局、クローズ間際の時間まで桐谷は店に残っていた。
21時を少し回った頃、残りの作業を川島に任せて、桐谷は家路に着いた。
玄関のドアを開けると、室内は真っ暗だった。ベッドルームの明かりも点いていない。
暖房も入っていないようで、室内の空気は冷えている。
―眠ってるのか。。。?
怪訝に思いながら、後ろ手にドアを閉め、照明のスイッチを探った。
間接照明の柔らかな光が、部屋に広がる。
―ソファの隅に、アキが居た。
膝を抱えて俯き、所在なげにぽつんと座っている。
「アキ。。。?」
呼びかけて近付いても、反応はない。どうやら眠っているらしい。
―2日前もここで寝てたな、こいつは。
長袖Tシャツにスウェット姿で、裸足の足が寒々しい。
桐谷はもう一度呼びかけて、そっとその柔らかい髪に触れた。
その瞬間―
アキはびくっと反応して、弾かれるように顔を上げた。
見開かれた瞳。
その瞳が桐谷の姿を視界に捉えると、繊細な顔が不意に歪んだ。
「あ。。。桐谷さん。。。」
強張った表情が、安堵の色に変わっていく。
「何やってんだ、お前は。寝るならちゃんと、ベッド行け?」
熱を出してる身なのに、本当に何を考えているんだと桐谷は内心呆れた。
「。。。。。。。。。」
「アキ?どうした。。。?」
「。。。。。。ってた」
「ん?」
「。。。待ってた。。。。桐谷さんが、帰るの」
ぽつりと言う声。
「そうか。―遅くなって悪かった」
桐谷は言って、ぽんぽんと何度かアキの頭を叩くと、アキはおかえりないさい、と微笑んだ。
桐谷には先程アキに触れた時の反応が気になった。
予期しなかったところへ突然声を掛けられたようなレベルの反応ではなかった。
驚愕とも、恐怖ともとれるような表情。
見開かれたその瞳に、何を映したことがあったのだろうか。
―『狭い部屋に、長いこと一人でおるんが苦手やねん』
何となく、昨日の会話が思い起こされた。
「それよりお前、体調は?」
「ん、もう平気」
「熱は
「ほぼ平熱に戻ったで
アキの額に掌をあててみると、確かに熱は引いているようだった。
顔色もいい。
「すごい回復力だな。昼間はあんなだったのに」
桐谷が言うと、アキは驚いた顔をした。
「あ、やっぱり様子見に来てくれてたん。。。!?」
「覚えてないのか?」
「桐谷さんが夢に出てきてたな、とは思ってたんやけど。。。」
「俺に行かないでって泣いてぐずってた」
からかうように言うと、アキは目を丸くして固まった後、かっと赤くなった。
「うそ。。。!」
「本当だ」
「ごめん。。。!忘れて!今すぐ。。。!」
真っ赤な顔で必死に懇願するアキが可笑しくて、桐谷は笑った。
アキは食欲も戻ったようで、雑炊を作ってやると綺麗に平らげた。
もう平気だと言うアキを諭して、今日は早く寝ろとベッドに入らせたのが、今しがた。
「結局。。。3日もお世話になってしまったな。。。」
ベッドに横になったアキが、呟くように言った。
明日には、今度こそちゃんと、自分の生活に戻るから、と言ってアキは複雑な笑顔を見せた。
「俺、桐谷さんの店のお客になっていい。。。?」
常連客になって恩返しするわ、とアキが笑う。
自分との関係を断ちたくないとアキは思っているのだろうか。
水の入ったグラスと薬を手渡しながら桐谷が頷くと、アキは口元を綻ばせた。
その表情は、恐らく本心を言っている。
「アキ」
ベッドの縁に腰を下ろした桐谷は、水を飲んだアキの手からグラスを取ると、その目を見据え、名前を呼んだ。
「ここに居る気はあるか?」
思い付きで言ったのではなく、既に提案しようとと決めていたことだ。
「―え。。。?」
桐谷の発した言葉の意味を必死に理解しようとするかのように、アキは何度か目を瞬かせた。
桐谷は静かに続ける。
「ちゃんと住む場所決めて、まともな生活ができる目途が立つまでは、ここに居ればいい」
「ちょ。。。桐谷さん。。。?本気で言うてるん?」
「俺は本気だ」
「何で。。。?」
困惑した表情で、アキが訊く。
「気になるんだ」
「。。。気に、なる?」
桐谷はアキを見て、頷く。
「このまま出て行かせたら、これからお前がどうしてるのか俺は多分、気になる。だからここに居ろ。――嫌か?」
普段の自分からすると、かなり大胆な提案であるという自覚はあった。
けれど、初めてアキを部屋に上げた時から、その存在は何故かとても自然に部屋の空気に溶け込んでいて、そうすることが自然のようにすら思えた。
もう長い間、ここに居るかのような錯覚さえ覚えるほどに。
「嫌なわけ、ない。。。。。。けど…、けどやっぱ、そんなんあかんわ。。。俺、絶対桐谷さんに迷惑かける」
「安心しろ。迷惑をかけない奴だとは思ってない。俺はお前の行動に一切干渉しないし、お前が出て行こうと思うまで、放り出したりはしない」
「。。。。。。」
アキは一瞬何か言いかけたが、そのまま目を伏せた。
「迷ってる理由は何だ?」
「。。。俺、夜中に起きたり、フラっと出て行ったり、するかも知れへんで?」
「言っただろ、干渉はしないって」
「おとといみたいに、寝てる桐谷さんに迷惑かけること、たぶんあるで。。。?」
「構わない」
「でも。。。」
「ここに居ろ」
言い切った桐谷を、アキは苦しそうにも、切なそうにも見える表情でじっとしばらく見つめていたが、迷いを断ち切るように一度目を閉じて小さく息を吐いた。
「ほんまに。。。ええの?」
返事の代わりに桐谷はアキの頭に手を置いて立ち上がった。
「風邪、ぶり返すぞ。早く寝ろよ」
俺は情の深い人間の振りをして、アキをただ自分の傍に置いておきたいだけだったのかもしれない。
干渉はしないと言っておきながら、自分以外の人間にアキを触らせたくない、と頭のどこかで考えていた。
それは恐らく、子供じみた独占欲だ。
こうしてアキとの同居生活が始まった。
当初は何をするにもひどく遠慮していたアキも、1週間を過ぎた頃からは徐々に自然に振舞うようになっていった。
せめて家事ぐらいはさせて欲しいと言って、アキは自ら掃除や洗濯を買って出た。
料理以外の家事はてきぱきとよくこなし、正直助かっている。
顔を合わせる時間はそれほど多くなく、アキのバイトが遅い日は桐谷が先に寝ていることもしばしばだったが、朝は朝食を一緒に摂ることが定着しつつあった。
アキはかなり真面目に学業に取り組んでいるようで、週5日は欠かさず大学へ通い、課題がある時は夜遅くまで起きていた。
同様に、ほぼ毎晩アルバイトにも行っていて、体力的にはかなりハードな生活をアキは送っている。
桐谷には、アキが故意に予定を詰めて、自分自身を酷使しているかのように見えてならなかった。
夜は同じベッドで眠る。
アキは出会った日のように、セックスをしないかと言ってくるような事もなく、朝まで帰らないという日もこれまで無かった。
寮を追い出される程の素行の悪さは感じられず、それを桐谷は意外に思っていた。
ただ、アキはやはり眠りが浅いようで、夜中に何度も目を覚ましている日があることに、桐谷は気付いていた。
何度か、初めて共に眠った夜のように夜中にアキが震えていることもあった。
その度、桐谷は何も言わず、声をたてずに泣くアキを静かに抱いて眠った。
腕の中でアキも言葉を発することはなく、ただ桐谷の胸に顔を埋めてじっとしていたが、時折何かと葛藤するかのように身体を小さくして、苦しそうな息を吐くことがある。
そんなことがあった夜でも、翌朝には、アキは何事もなかったかのようにおはよう、と笑う。
踏み込んではいけないのであろう何かを、アキは持っている。
それに桐谷が気付いていることに、アキも気付いている。
けれど、お互いにそれには触れることはなく、一見穏やかに、日々は過ぎていった。
同居を始めて3週間余りが過ぎた、日曜日。
今朝は珍しく、目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。
普段は大抵アキが先に起きていて、2度目のアラームで桐谷を起こす、ということがここ最近ではパターン化している。
ヘッドボードを背に半身を起こし隣に目をやると、アキはこちらに顔を向けてまだ眠っていた。
穏やかな顔でアキが眠っていると安心する。
アキは寝ている間、とても静かだ。
静か過ぎて、桐谷は眠っているアキを見るたび、その微かな呼吸を確認することが癖になっていた。
寒いのか、少し身じろぎしたアキの身体にブランケットを引き上げてやり、顔にかかる柔らかな髪を指でそっと掬う。
しばらくその穏やかな寝顔を眺めていると、アキがうっすらと目を開けた。
目元にかかる睫毛の影が、何度か揺れる。
「まだ寝てろ」
「ん。。。も、起きる」
寝起きの掠れた声で言ったものの、アキは重そうな瞼を再び閉じた。
寝起きの良くないアキは珍しい。
―いつもと立場が逆だな。
桐谷は小さく苦笑して、ベッドから出た。
アキは大学が休みの土日でも、欠かさず桐谷の出勤する時刻に合わせて起きてくる。
寝てていいぞと言っても、一緒に朝食を食べたいから、と笑う。
いつの間にか桐谷も、毎朝きちんと朝食を摂る事が習慣になっていた。
桐谷は煙草を一本吸ってから、朝食の準備に取り掛かった。
「今日、昼飯食いに来るか?」
目の前でスクランブルエッグを口に運んでいるアキに、桐谷は言った。
「桐谷さんの店に?」
「ああ」
「ほんま!?」
アキは声を弾ませた。
前々から桐谷の店に行ってみたいと言われていたが、アキの休日となかなか都合が合わず、先送りになっていた。
「2時半以降なら多分、落ち着いてる。俺も仕事自体はランチまでだから」
桐谷が店のショップカードを差し出すと、アキは嬉しそうに頷いて受け取り、めっちゃ楽しみ、と目を輝かせた。
アキは辛いとか、悲しいといったようなマイナスの感情は隠したり、取り繕ったりする癖があるようだが、嬉しい時や喜んでいる時は、その感情をストレートに表す。
それも、この3週間余りの日々で気付いたことの一つだった。
ランチの混雑が引いた昼下がり。
桐谷は店先で煙草を吸っていた。
天気はいいが、気温は低い。
仕事着のシャツ一枚とサロンのみの格好で出て来たのは間違いだった、と上着を取りに店に入ろうとした時、アキの声がした。
「桐谷さん」
微笑んで近付いてくるアキに、煙草を持った手を上げる。
「道分かったか?」
「うん、ちょっとだけ迷ったけど」
自宅から店までは徒歩圏内だ。
アキも歩いて来たらしく、手には今朝桐谷が渡した、簡単な地図が載ったショップカードを持っている。
「今、大丈夫?」
言って、ドアのガラス越しに店内を覗く仕草を見せるアキに、桐谷は頷く。
「てか、桐谷さん寒くないん?」
今日は黒いピーコートの上に大判のマフラーを巻いて暖かそうな格好をしたアキが、シャツ一枚姿の桐谷を不思議そうに見やる。
「―寒い。入るぞ」
視線で示して、桐谷は店のドアを開けた。
「うわ…めっちゃ好き、この雰囲気」
店に入るなり、アキは感嘆の声を上げた。
アキは桐谷の部屋のインテリアを好きだ好きだと言っていて、店の内装の様子も相当気になっていたらしい。そもそも両者のテイストはかなり異なるのだが。
アキは席に着いてからも店内を見回している。
日曜は夕方には店を閉めるため、ランチ後の15時ごろからはドリンクのオーダーが中心で、比較的ゆったりとした時間が流れる。
今日もランチの時間帯はかなり慌しかったが、今は落ち着いていた。
こちらの様子をうかがっていた川島が、いそいそとメニューを手にやって来た。
こんにちは、と笑顔でアキに声を掛けると、アキもはにかんで応じた。
「珍しいですね、桐谷さんが誰か連れて来るなんて」
お友達ですか、と訊いた川島に曖昧に頷いて、桐谷はメニューを受け取る。
「何食いたい?」
アキにメニューを渡しながら訊ねる。
「桐谷さんが作ってくれるん?」
「ああ」
「あ、俺オムライス食べたい。このデミグラスソースのやつ」
真剣に写真入りのメニューを眺めていたアキが、嬉々と指をさして言った。
「お前、ほんと味覚がガキだな」
からかうように言うと、いいやんか、とアキは拗ねるように返した。
「ドリンクは?」
「えっと。。。アイスラテを、ください」
わかった、と言ってアキの手にしたメニューを上から抜き取ると、桐谷はキッチンに入った。
作業をしながらカウンター越しに店内へ目をやると、他の女性客がちらちらとアキに視線を送っていることに気付いた。
この店に男性が一人で来ることは稀だからという理由もあるだろうが、アキの外見は目立つ。視線の理由は主に後者だろう。
「すっごく目をひく人ですね」
デミグラスソースの入ったケースを冷蔵庫から取り出しながら、川島が声を掛けてきた。
「びっくりしました」
「そんなに目立つか?」
「や、それもですけど」
「何」
卵黄と生クリームを混ぜていた手を止めて、その先を促す。
「桐谷さんが、すごく柔らかい表情してるから」
「。。。そうか?」
「そうですよ」
いつもは硬いのか、と突っ込みたくなったが、やめておいた。
二人分のオムライスを作り、私服に着替えて席に行くと、アキは心底ほっとしたような顔を見せた。
「何固まってんだ」
「なんかめっちゃ見られてる気ぃする。。。なんでやろ。。。俺、どっか変かな」
自分の身体を確かめるように見回して首を捻るアキに苦笑しつつ、皿とグラスを並べて桐谷も席に着いた。
「お前、この後は?」
アキより先に食べ終え、エスプレッソで一服していた桐谷が訊いた。
「あ、俺これからバイトやねん。このまま直で行く」
「そうか。―帰りは?」
「うーん、そうやな。。。12時過ぎとか、それぐらいになると思う」
アキは歓楽街のバーともパブともいえるような店でアルバイトをしているらしい。
進んでその店について話したがらないところをみると、恐らくあまりガラのいい店ではないなと桐谷は予想していた。
時給がいいということ以外、アキのバイト先の情報は何も知らなかった。
しばらく他愛の無い話をした後、バイトに向かうアキと連れ立って店を出た。
「駅まで送る」
「え?」
「店の車回して来るからちょっと待ってろ」
言い置いて店の裏手に向かい歩き出す。
「桐谷さん!そんなん悪い、俺歩いてくし。。。!」
桐谷の背に向かって慌てたような声を出したアキを振り返る。
「俺が送るって言ってんだ、甘えろ」
店の軽自動車に乗り込み桐谷がエンジンをかけていると、助手席に座ったアキがシートとドアの間に手を突っ込んで何かを探り始めた。
「どうした」
「あ。。。シートベルトの金具がな、変な風に挟まってて取れへんねん」
桐谷は、こちらに背を向けて押したり引いたり苦戦している様子のアキの右手を掴み、助手席側に身を乗り出した。
左手を助手席の肩に置いてシートの脇を覗き込むと、アキの首元に桐谷の顔があたる格好になった。
桐谷が何度か手に力の入れる角度を変えると、金具はあっけなく取れた。
そのまま金具を引いて、アキのシートベルトを締める。
「。。。何赤くなってんだ」
アキは顔を外側に背けたままだったが、耳を赤くしているのが分かる。
「だって。。。」
「だって、何だ」
顔を背けたまま、アキは答えない。
「こっち向けよ」
「桐谷さんは」
ゆっくりとアキがこちらに顔を向ける。顔はまだ少し赤い。
「誰にでも、こんなんなん。。。?」
「―こんなん?」
「誰にでも、こんな風に触ったり、優しくしたりする人なん?」
「俺の周りにシートベルトも締められないほど世話の焼ける奴はお前しかいない」
言って、桐谷は静かにアクセルを踏んだ。
駅に着くまでの短い間、アキは一言も喋らなかった。
夜になって、雨が降り出した。かなりの雨脚で、風も強いようだ。
部屋の窓に向かって吹き付けられた雨粒が、断続的に音をたてる。
不安定な天候のせいなのか、何となく心がざわつく夜だった。
明日の月曜は仕事は休みを取っているため、今晩はアキがバイトから帰るのを待っているつもりでいた。
遅い夕食を摂った桐谷は缶ビールを取り出そうと冷蔵庫を開けたが、この雨だと車で駅まで迎えに行ってやった方がいいかもしれないな、と考え直してその手を止めた。
自然とそんな風に考えた自分に少し戸惑いを感じる。
誰かの帰りを待つこと。
そんなことは一人で暮らすようになってから経験することはなかったのに――。
『誰にでも、こんな風に触ったり、優しくしたりする人なん?』
不意に、昼間のアキの言葉が思い起こされる。
アキを見ていると、構ったり、世話を焼いてやりたくなるのは確かだ。
悲しい顔はさせたくないし、笑った顔を見ると自分も嬉しい。
やたらとアキに障る癖がついていることにも、言われて初めて気付いた。
―絆されてるな。。。俺は。
小さく嘆息して、桐谷はコーヒーを淹れようと決め立ち上がった。
沸かしたコーヒーを注ごうと、シェルフからカップを手に取ったその瞬間。
その手からカップが滑り落ちた。
白い陶器がシンクの上で砕けたその音は、悲鳴のように聞こえた気がした。
―何だ?
胸のざわつきが大きくなる。
何となく、嫌な予感がした。こういう予感は経験上よく当たる。
得体の知れない胸騒ぎを振り払うようにテレビのスイッチを入れたものの、映し出されたニュースの内容はほとんど頭に入らなかった。
脳裏に巡るのは、アキの姿。
いつの間にかニュース番組は終わり、天気予報に変わっていた。
『明け方まで冷たい雨が降り続くでしょう』
テレビを消した。
時計を見ると、まだ23時を回ったところだったが、構わず桐谷はアキを迎えに行くことに決めた。
本当に昼間のアキの言葉通り、0時過ぎまでに帰って来るのかは分からないが、アキは携帯を持っていないため連絡の取り様がない。
車で待っていればいい。
キーケースを片手にブルゾンを羽織り、玄関に向かおうとした時だった。
ドアの向こうでガタガタと音がしたかと思うと、不意にドアが開いた。
隙間から吹き込んで来る冷たい風と、泣き声のような、雨音。
予感は当たりだ。頭の隅でもう一人の自分が呟いた。
「アキ。。。。。。!?」
アキはびしょ濡れだった。
「あ、桐谷さん。。。どっか行くん?」
後ろ手にドアを閉め入って来たアキは、桐谷を見て力なく笑った。
様子がおかしい。
アキは何故かバイトの制服姿のままだった。
その上衣のシャツのボタンはいくつかちぎれていて、胸元が不自然に露出している。
黒いシャツと白い肌のコントラストがどこか生々しい。
さらに左の頬は少し腫れていて、唇の端に血が滲んでいた。
明らかに、殴られた痕だ。
「お前―。。。それ、何があった」
「うん、ちょっと。。。。あ、俺また出掛けるねんけど、着替えに一旦戻ってん。傘持ってなくてな。。。もうびしょびしょや」
「アキ、誤魔化すな」
目を伏せたアキの表情は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
濡れた髪から、規則的に水滴が滴り落ちていく。
「。。。バイト、首になった」
「首。。。何でだ?」
「。。。。。。」
「ちゃんと話せ」
唇を噛んだアキは、しばらく間を置いてから俯いたまま口を開いた。
「。。。今日。。。店にな、偶然前に寝たことある人が、来て。。。。。。その人が店長に、なんか色々。。。言うたみたいで」
「それが。。。どうしてこんなことになるんだ」
「そのあと店長に事務所呼ばれてな、。。。軽蔑したとか、どういうことやねんとか言われるんかな、と思ってたら何か急に、迫って来て。。。嫌やし突き飛ばして拒否したら、殴られた」
「殴られただけか。。。。。。?」
殴られただけで、ここまで服が乱れるはずがない。
「はは。。。殴ったら気持ち昂ぶったんか知らんけど、めっちゃヤる気なって襲って来た。人が来て未遂で逃げれたけど。。。。。。。俺、結構あの店長信頼しててんけどなぁ。。。」
まぁ俺の自業自得やけど、と力なく笑う。
「無理に笑わなくていい。―大丈夫か。。。?」
桐谷は内心の乱れが出ないよう、努めて冷静な声を出した。
「。。。。。。。。。っ」
ぽたぽたと、俯いたアキの目から水滴が落ちていく。
「それは。。。?」
桐谷が示した視線の先、アキの左手の甲には細く赤い筋が何本も走っていて、皮が破れ血で汚れていた。
「あ。。。これはやられたんちゃうで。。。?さっき自分でひっかいただけ。俺、変な癖あんねん。。。―アホやろ」
それは本当なのだろう。見ると右手の指の爪も赤く汚れている。
桐谷は涙を流すアキを目を眇めて見つめ、大きく息を吐いた。
今すぐ抱き締めてやりたい気持ちと、冷静に話を聞いてやるべきだという気持ちがせめぎ合う。