殴られた頬にそっと触れようと手を伸ばすと、アキはその手を首を傾けてかわした。
「桐谷さんあかん。。。触らんといて」
絞り出すようなその声。
「アキ。。。?」
「今触られたら俺、桐谷さんに縋る」
桐谷を見据えたその表情は、ひどく苦しそうに見えた。
「やから今日はほんまは、ここには帰らんつもりやった。けど。。。けど、どうしても」
「―どうしても。。。?」
「一目だけ。。。桐谷さんの顔見て、安心したくて」
アキの頬を伝った涙が、幾筋も零れては落ちていく。
「でももう俺、すぐ出るから―。。。」
衝動的に手を伸ばしていた。
右手でアキの頬に触れ、指で零れ落ちる涙を拭う。
「嫌や。。。やめて」
両手で、触れた。
今すぐ触れたい、という本能が理性を制した。
「桐谷さん!いやや。。。!いや。。。―っ」
頭を左右に揺らし、拒む言葉を繰り返すアキの唇を、桐谷は塞いだ。
――唇で。
「う。。。ん。。。っ」
くぐもった声を上げて、アキは桐谷のシャツをぎゅっと握ってきた。
少し、血の味がする。
指で顎を引いて開かせ、切れた口内の傷を舐め上げると、アキの身体がビクンと震えた。
「あ。。。っ、やっ―」
ぎゅっと目を瞑り、切なげな声を漏らしたアキは、桐谷のシャツを握った手に力を込めて、桐谷から唇を離した。
「桐谷さんあかんって。。。!縋るってどういう意味か分かってる。。。?俺、スイッチ入るからほんまに、やめて」
「やめたらお前は他の奴の腕の中で泣くんだろ?」
「桐谷さん。。。?」
「なら絶対に行かせない」
アキの言う”縋る”ということがセックスを意味することは理解していた。
そしてアキが誰かと身体を重ねることを性急に求めているということも。
両手をドアにつき再び唇を寄せた桐谷を、アキが寸前で止める。
「あかん。。。!俺、今まで好きでもない人と寝てきてんねんで。。。?何回も、何回も。そんな奴と勢いでしたら桐谷さん、絶対後悔する」
「しない」
「するって。。。!俺いやや。。。桐谷さんは特別やもん。。。!」
「明帆」
唐突に呼んだ名前に、アキが震えた。
「もう黙れよ」
―縋れ、俺に。
ドアを背に、桐谷の胸を押し返すアキの手首を拘束し、口付ける。
―今度はさっきよりも深く。
快楽を引きずり出すようなキス。
口内を擦り、舌を絡めとる。
「ん。。。。。。」
アキの全身から、力が抜けていくのが分かる。
桐谷が角度を変える度、アキは鼻にかかった吐息を漏らした。
「っふ。。。、ぅ。。。」
拘束していた手を開放すると、支えを失ったアキはドアを背にしてずるずると崩れ落ちていく。
口付けたまま、細い腰に手を回し抱き寄せると、アキは桐谷の背をぎゅっと掴んだ。
冷たい腕。
抱き寄せたアキの身体は、桐谷の服を濡らした。
桐谷は静かに唇を離し、朱の差した目元にもう一度優しくキスを落としてから、アキの身体を抱き上げた。
ベッドの淵にアキを座らせ、濡れたシャツを脱がせる。
「寒いか?」
「ん。。。平気」
露になった首筋には、今日つけられたのであろう、淡い赤色の痕がついていた。
その痕に触れてそっとなぞると、アキは目を閉じて桐谷の肩口に顔を寄せてくる。
「忘れたい。。。全部」
桐谷も上着を脱ぎ捨て、アキの冷たい身体に手を回してゆっくりと体重をかけた。
「桐谷さん。。。」
「どうした?」
「男としたこと、あるん。。。?」
「ない」
「うそ。。。、ええの?」
「今更だろ」
桐谷が小さく笑うと、アキが揺れる瞳で見つめてくる。
「女の人にするみたいに。。。していいから」
桐谷は何も答えずにアキの湿った髪に手を差し入れ、キスをした。
桐谷が愛撫を深めると、冷たかったアキの身体はすぐに熱を帯び始めた。
触れ合った滑らかな肌は吸い付いてくるようで、桐谷を惑わせる。
漏らす吐息の色や表情で感じていることは容易に分かるのに、もっと酷くして、とアキは何度もうわ言のように呟いた。
桐谷の手や唇の動きに反応し、白い喉を反らせて身体を捩るアキの姿は、ひどく艶かしい。
「ん。。。あ。。。っ」
中心を擦ると、アキは切羽詰まった声を出した。
「桐谷さん。。。も。。。、早く。。。繋がりたい」
桐谷の背中に手を回し、耳元で言う。
「このまま、今すぐ。。。入れて。。。?」
アキは濡れた声音で言って、片方の手を桐谷の下肢に伸ばし、熱を孕んだ桐谷自身に触れてくる。
「いきなりは。。。無理だろ」
はぁ、と桐谷は息を吐く。
「いいから。。。俺、痛い方が好きやし。。。っ」
切羽詰まった声に桐谷は小さく舌打ちしてアキの膝を立たせると、アキの中心を濡らす先走りを指に絡める。
そのまま指を後ろに忍ばせた。
「入れるぞ」
指を捻りながら挿入し、ゆっくりと動かす。
「狭くて、熱い」
囁いた桐谷の声に、アキが身を震わせた。
「ふ。。。っ、あぁ。。。」
桐谷の首元に顔を埋めたアキの、絡める腕にぎゅっと力が入る。
反応した箇所を何度か擦り上げると、喘ぐ声は啜り泣きのように変わった。
「桐谷さん。。。っ。。。お願い、早く。。。」
その声に限界を感じて、桐谷は指を抜く。
「どういう風にされたい。。。?」
短いキスをして、桐谷が訊いた。
「桐谷さんが一番気持ちいいやり方で。。。メチャクチャにされたい」
とんでもない誘い文句に一瞬目が眩みそうになった。
「ひどくして。。。。。。?何も、考えられんくなるぐらい」
「お前。。。。。。やっぱ黙ってろ」
桐谷は掠れた声で制して、アキの腕を引きうつ伏せにさせると、腰に手を入れて引き上げ、膝を立たせた。
どうすれば“酷くする”ことになるのか、具体的には分からなかったが、征服されたいという気持ちが強いのなら、それを満たしてやるにはこのやり方しか桐谷には思い浮かばなかった。
「いいんだな。。。?」
その身体の上に被さり、耳元で訊いた問いにアキが小さく頷いたのを確認して、桐谷は自身を突き入れた。
それからのアキの感じ方は尋常でなく、桐谷はこのままアキを壊してしまうのではないかと不安になったが、熱く蕩けたその内部に、桐谷自身も余裕を無くしてしまった。
乱暴なセックスは好きじゃないが、桐谷が強く動けば動くほどアキの中は締め付けて絡みつき、感じているのだと告げていた。
シーツを掴んで掠れた声を上げるアキの奥へ突き上げて、追い立てる。
崩れ落ちた腰に手を入れて支え、一際強く奥を抉ると、声にならない悲鳴のような喘ぎを漏らしてアキは達した。
そしてほぼ同時に、桐谷も限界を迎えた。
バスルームからベッドに戻ると、物音に反応したのか、アキが目を覚ました。
乱れたままのシーツの上に半身を起こした白い身体は気怠げだ。
「シャワー浴びるか?」
「ん、まだ、いい」
緩慢な口調で返したアキは、桐谷が手にした水のボトルを見ると、飲みたい、と呟いた。
ベッドに腰掛け、ボトルを手渡すと、小さく何度か喉を鳴す音が聞こえた。
「桐谷さん、めっちゃ上手いな」
「。。。。。。何が」
「キスも、セックスも。俺、失神したんめっちゃ久しぶり」
ほんまに男とするの初めてなん?と桐谷を見つめてからかうように笑む。
「お前な。。。そのエロい内容をさらっと口にする癖何とかしろよ」
「エロいのは、桐谷さんやろ」
動じる気配無く返したアキに、桐谷は呆れて溜め息をついた。
「引いた。。。?」
「だから、何が」
「今日の俺」
呟いて、アキはすっと視線を落とした。
「お前のM気質以外には、別に引いてない」
「ってそこがメインやから」
アキの即座の突っ込みに、桐谷は笑った。
「やめてや。。。その顔は、反則」
「お前のやめてと嫌だはよく分からん」
今度はアキが、小さく笑った。
「その手、消毒するぞ」
一旦ベッドルームを出た桐谷は、消毒液とガーゼを手に戻って言った。
深い傷ではないが、放っておいてはいけないレベルだ。浅くもなく深くもない半端な傷が最も痛む。
消毒液が傷口に触れた時だけ、アキは微かに顔を顰めたが、それ以外の間はじっとしたまま黙っていた。
アキの左手の甲は、近くで見ると何重にも薄く傷が走っていて痛々しい。
治りかけた傷を何度も上から引っ掻いたのだろう、恐らくもう消えないであろう引きつれた古い傷痕がいくつもある。
何か心に余裕を失った時にここを引っかく癖があるのだろうと桐谷は推測したが、何も言わずにガーゼを当てがった。
「あんまり自分の身体を、痛めつけるな」
手当てを終えた桐谷は、下を向いたままのアキの頭に手を置く。
「。。。ありがとう」
ガーゼの貼られた左手を、右手でそっと包んで、アキは言った。
「辛いことがあると、セックスがしたくなるのか?」
手の甲を引っ掻く癖と、今日アキがセックスを求めたことは、大きく見れば同じことなのかもしれない。桐谷はそう感じていた。
何かと引き換えに、自分で自分を、傷つける。
「。。。ほんま、桐谷さんの質問って、唐突」
アキの顔にすっと翳が落ちる。
「面白い話、いっこもないし、やめとこ。。。?」
「アキ」
両手で挟むように触れたその頬は冷たい。
「俺を見ろ」
こちらを向かせると、動揺の色が浮かぶ瞳と目が合った。
「明帆」
「。。。。。。いきなり名前呼ぶんも、反則や」
桐谷の肩に正面から頭を寄りかかったアキは、大きく一つ息を吐いた。
「何でそう思うん。。。?俺が辛い時にセックスしたなるって」
「今日のお前を見てれば分かるだろ」
「ん。。。、今日はちょっと、特別」
「特別。。。?」
「うまく伝わるか分からんけど。。。普段俺は。。。逃げるためにセックスする」
「。。。何から」
桐谷の肩に頭を預けたまま、アキは少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「たぶん。。。寂しくて死にそうな気持ち、とか、苦しくてどうにかなりそうな夜から。。。逃げるために。―そのために誰かに縋って、上書きする。その間だけ全部。。。忘れられるから」
アキは今日は特別だと言ったが、辛い気持ちから逃げる、という意味では同じなのかもしれない。
「そうやってずっと、見ず知らずの奴と寝るのを続けて来たのか。。。?」
「こっちに出て来てからは。。。そう。誰か特定の人作るとかそういうの、苦手やし」
口調は柔らかいが、他人事のようにアキは淡々話す。
「無理には答えなくていい。お前がそんな風になった原因は。。。実家にあるのか?」
びく、っとアキの肩が大きく揺れた。
アキと大阪の家との間に、暗い何かが存在するのだろうことは、桐谷も当初から気付いていた。
細かく震えだした身体を、桐谷は抱き寄せる。
「―大丈夫か?」
桐谷の胸で、微かに一度頷くのが分かった。
「実家じゃなくて。。。母親が死んで引き取られた、父方の家。顔も知らんかった父親の、でっかい屋敷」
アキは一つ一つの言葉を懸命につなぐように話し出す。
「狭くて、暗くて。。。何もない部屋、俺、ひとりで。。。」
震える涙声に、嗚咽が交じる。心をかき乱されるような、悲痛な声。
「寂しかった、いつも。。。。でも一人だけ、優しくて。。。俺、その人のこと、大好きやった。その人しか。。。俺にはおらんかった」
桐谷にはその先を想像する事が出来た。
間違った想像であって欲しい、それは最悪の結末――。
「いきなり、変わって。。。、俺、その人に――。。。」
「大丈夫。。。全部吐き出せ。受け止めてやる」
当時のことを思い出したのか、桐谷の背を握る指に力が入るのが分かった。
それに応えるように、桐谷は抱き締める腕に力を込める。
しばらくアキは黙って声を殺した嗚咽を漏らした。
出会った夜、優しくしないでと取り乱して泣いたアキの胸には、この裏切りがあったのだろうか。
欠けていたいくつかのピースが嵌まっていくのを感じた。
「嫌やった。。。何年も、ずっと。。。。けど、寂しい、冷たい部屋であったかいの、その人の熱だけで」
桐谷は目を閉じて、当時のアキを想った。
この冷たい身体に与えられたのは、あまりにも残酷な、熱。
「大学進学、理由にして。。。逃げるみたいに大阪出たけど。。。こっち来てからも、結局寂しいのは何も変わらんくて、あの頃の夢、しょっちゅう見て。。。、その度にセックスしたくてどうしようもなくなる自分がいて」
「おかしいやろ。。。あんなに嫌やったはずやのに、同じ行為をすることでしか、寂しさとか、苦しさから逃げられへん。俺、嫌やったはずやのに。。。。。。自由になったはずやったのに。。。―っ」
アキの悲痛な叫びに、胸を抉られた気がした。
桐谷は言うべき言葉が見つからず、ただその身体を抱き締め、優しくさすることしかできなかった。
「けど。。。桐谷さんに会ってから、めっちゃ減った。寂しくなるのも、夢に見るのも。けど今日はちょっと、昔の事と。。。重なって。。。。ごめんな桐谷さん。。。ごめん。。。。桐谷さんの優しさに甘えて、ごめんなさい。。。」
「アキ、大丈夫だ。。。。大丈夫だから。今日はもう寝ろ。。。?―このまま朝まで、傍に居るから」
アキが落ち着いて眠りに着くまで、桐谷はずっとその身体を抱いて髪を撫でていた。
「桐谷さんの匂い、安心する。。。」
アキは桐谷の腕の中で微かな声で呟いて、眠りに落ちていった。
アキの抱えるもの。
それは途方もない孤独なのだと感じた。
たった一人、信じていた人に裏切られる痛みとはどういうものなのだろう。
セックスという暴力と、孤独の記憶に縛られ、そこから自由になるために、不毛だと分かっていながら刹那的なセックスを求める―
そんな自分自身への絶望とは一体どれほどのものなのだろう。
それでも事実を受け止めて、一人で立って歩いてきたのであろうアキを思うと胸が痛んだ。
アキが俺の傍に居ることで、その痛みが和らぐというのなら、自分はアキの居場所となってやりたいと思った。
これまでのことを忘れてしまうぐらい、優しく甘やかして、傍に居てやりたいと思った。
なのに。
もっと早く気付いてやれば良かった。
――俺を失う事に怯えていたお前に。
翌朝、アキは「ありがとう」の5文字と鍵だけを残して、俺の部屋から姿を消していた。
考えてみれば、俺とアキは互いに知らない事ばかりだった。
俺は訊かれなければ自分のことについては話さなかったし、アキも触れられたくない部分が多い為か、他愛のない事しか訊いてはこなかった。
核心には触れない、曖昧な日々。
けれど、3週間余りアキと共に暮らした時間を、自然と心地良く感じるようになっていたのは事実で。
何かを求める訳でもなく、ただ、アキが傍で穏やかに笑うと嬉しかった。孤独と闘うその細い身体を、大切にしてやりたいと思った。
けれどもう、どうすることも出来ない。
アキがどこの大学に通っているのかも、なぜ携帯を持たないのかも、何も言わずに部屋を出て行った確かな理由も―知る術は無かった。
つい少し前までは、確かにこの腕の中に居たはずなのに――
何度も非常階段を覗いた。
夜中にふと目が覚めると、アキが泣いているんじゃないかと落ち着かなかった。
雨の日は、どこかで濡れて、震えていないか気掛かりだった。
―らしくない。
アキと出会ってからの俺は、本当に、らしくない。
出会った以前の生活に切り替えきれないまま、二週間が過ぎようとしていた。
連勤明けの、休みの月曜日。
遠くから聞こえる、自分を呼ぶ声で、眠りが妨げられた。
意識が覚醒していくにつれて、その声は徐々にはっきりと頭に響くようになってくる。
「桐谷ー!」
「キーリーヤー!いないの?居留守だったら殺すわよ」
声の主まではっきりと認識できるまで目が覚めて、桐谷は片手で目を多い、盛大に溜め息をついた。
せわしなく鳴らされるチャイムの音だけならまだしも、ひっきりなしに聞こえる呼び声は、近所迷惑甚だしい。
「紗英子。。。朝っぱらから玄関先で騒ぐな」
ドアを開くと、予想した通りの見知った顔があった。
「ほら、やっぱり居るんじゃない。直裄ー!やっぱ桐谷いたわ」
マンションの下に向かって声を掛ける。
「。。。直裄もいるのか」
「いるわよ。今、下の自販機」
「―何の用だよ」
「何の用って、決まってんじゃない。遊びに来たの」
その時、紗英子の手に提げられている袋の中から覗く、一升瓶とワインボトルが目に入り、桐谷は天を仰いだ。
眩暈がしそうなのを堪えていると、廊下をこちらに向かって歩いて来る直裄が、片手を上げて微笑むのが見えた。
紗英子と直裄は高校時代からの友人で、今も親交が続いている。
気紛れに連絡を取り合っては、連れ立って飲みに行く。
三人とも酒好きで、顔を合わせてから最後まで素面でいるということはほぼ無いに等しかった。
「突然ごめんね、桐谷」
紗英子の後に続いて部屋に上がった直裄が、苦笑を浮かべながら声を掛けてきた。
「直裄、今日は休みなのか?」
「うん。紗英も急に休みが取れたみたいで」
直裄は桐谷がオーナーを務めるもう一つの店舗で店長として働いている。
桐谷の兄がオーナーだった時にオープンした当初から、高校生だった直裄はアルバイトとして働いていた。
勤続10年近い直裄に、実質共同経営に近い状態で任せきっているため、仕事で顔を合わすことはさほど多くない。
紗英子はスタイリストの仕事をしていて、不定休らしく、3人休みが揃う日は珍しい。
「お前、いつも働きすぎだ。ちゃんと休み取ってんのか?」
勤務表上では休みになっていても、出勤している日がかなりあることを桐谷は知っている。
「休んでるって。それ言ったら桐谷も働きすぎだろ」
笑って言った直裄が、はい、と手にした袋を桐谷に渡す。
ずっしりと重い。
「テキーラと、黒霧島。あとビール」
「。。。。。。お前らな。。。」
もう突っ込むのも馬鹿らしくなって、桐谷は黙ってシャワーを浴びに、バスルームへ向かった。
「桐谷。。。あんた女出来たわね?」
濡れた髪を拭きつつリビングに戻るなり、紗英子が意味ありげな視線を寄越してきた。
「はぁ。。。?」
「惚けても無駄よ。桐谷、基本的に目に見える場所とキッチン周りしか掃除しないでしょ」
「。。。だったら何だ」
「今日の桐谷んちは細かいとこまで掃除した形跡がある。テレビボードの後ろ側のホコリまで拭いた跡があるわ」
「どこまでチェックしてんだよ。。。怖いな、お前」
そういえば、アキは綺麗好きで、暇さえあれば桐谷の家をあちこち掃除して回っていたことを思い出す。
「そういえば最近、全然部屋に上げてくれなかったし。ねー直裄」
同意を求められた直裄は、あはは、と笑っている。
「。。。。。。」
「彼女出来たんでしょ。白状しなさいよ。紹介しなさいよ」
―めんどくせえな。
詰め寄る紗英子に嘆息して、桐谷は口を開いた。
「女じゃないし、もうここにはいない」
「―うそ。。。そうなの?」
急に紗英子は声のトーンを落とした。
「一緒に、住んでたの?
「ああ
「。。。ふられたの。。。?」
「さあ。どうだろうな」
「直裄。。。!どうしよう」
桐谷の正面に立っている紗英子が、桐谷の後ろのダイニングに座っている直裄を呼んだ。
「―紗英?どうしたの?」
「桐谷が。。。すっごい切ない顔してる――。。。」
「―連絡先は?訊いてないの?」
大雑把に経緯を話した桐谷に、直裄が尋ねた。
「訊いてない」
「何で訊いとかないのよ!」
「携帯持ってないってんだからどうしようもないだろ」
「携帯持ってない!?いくつよ、その子」
「19」
はぁ、と紗英子が溜め息をつく。
「学生?」
「ああ」
「学校はどこ?」
「知らない」
「じゃあ、探すあてが全くないってことなの?」
「そうだな」
「あんたねぇ。。。!」
怒りの様相を見せた紗英子を、直裄がまあまあ、と宥める。
「あまり自分の素性については。。。訊かれたくないように感じたんだ」
「出てった理由も。。。全然分からない?」
直裄が訊く。
「ああ。。。。ただ、ここに居るのが嫌になって出て行った訳では。。。ない気がする」
「どうするのよ、これから。まさかこのまま放っておくつもりなの?」
「どうするもこうするも。。。あいつが自分の意思で出て行った以上、俺にはどうしようも――」
「桐谷、あんたね。。。!そのプレーンな生き様なんとかしなさいよ!」
桐谷の言葉を遮って、紗英子が声を張った。
「その子がすごく大事なんでしょ?さっきの表情見てたら分かるよ。。。!ならもっとどうにかしようって熱意を見せなさいよ、バカ!」
「紗英。落ち着いて」
直裄が柔らかく制する。
「桐谷は昔から。。。無理矢理自分を納得させて、何でもない振りして、ストイックに生きすぎなんだよ。。。。心配なの。直裄もあたしも。―桐谷が心から大切にしたいって思える人と早く。。。幸せになって欲しいのよ」
「紗英子―」
「。。。ごめん。取り乱した。―ちょっともう、飲んでいい?飲むわよ?」
額に手をやって一呼吸置くと、紗英子は唐突に立ち上がった。
「最初からそのつもりだろ。―座ってろよ。用意する」
紗英子の肩に手を置いて、桐谷はキッチンに向かった。
「だいたいねぇ、桐谷は恋愛に対する情が薄すぎるのよ、昔から」
飲み始めてからかれこれ3時間ほどが経ち、紗英子は完全に出来上がっていた。
「超もてるくせに、なかなか特定の恋人作んないし。。。付き合ったら付き合ったで相手が桐谷の淡白さに耐えられなくなって続かないし。。。去る者追わずだし。。。ほんと、女の敵よ」
「昼間っから酒盛りしてる奴に女の敵呼ばわりされてもな」
「うわっ、もうそういう事しれっと言うとこが、ムカつく。。。」
ソファに寄りかかった紗英子は、目が据わっている上に、呂律も回っていない。
「。。。紗英子、眠いんだろ?ちゃんと寝ろよ。ベッド貸してやるから」
「そういう優しいとこが、女の敵だっつってんの。大事な子がいるのに他の女ベッドに寝かしちゃ駄目でしょーが。。。」
「。。。。。。。。。」
「もー寝る!ここで寝るから。直裄、2時間で起こしてね」
言うなり、紗英子はソファに横になった。
はいはい、と笑った直裄が、上着を紗英子に掛けてやる。
すぐに規則的な寝息が聞こえ始めた。
「でもほんと、桐谷が誰かと一緒に暮らすって、凄いね。初めてじゃない?」
桐谷の空いたグラスに日本酒を注ぎながら、直裄が言った。
「そうだな。。。。。。吸っていいか?」
言って、煙草に火を点ける。
「桐谷」
「ん」
「その子に、ちゃんと言ってあげた?―君が大事なんだ、って」
「。。。。。。。。。」
「桐谷、絶対に嘘は言わないけど、そういう自分の思いとか。。。あんまり直接口に出さないから。しっかり言わないと伝わんないこともあるよ?」
「。。。やたらと責められるな。今日の俺は」
「あはは、ごめん。桐谷にとったら同居しようって言った時点ではっきり行動に出てるよね。
―でも桐谷は基本的に誰にでも優しいし、それがすごく自然だから、相手は自分が特別に思われてるのかが分からなくて、不安になるんじゃないかな」
「。。。って、高校時代から俺はあまた相談を受けてるよ」
付け足して、直裄は笑う。
「。。。そういうものなのか」
「そういうものだよ」
言って、直裄はグラスを呷る。
空になったグラスに、今度は桐谷が酒を満たした。
「その子、きっと桐谷のこと待ってると思う。―桐谷もほんとは、分かってるんだろ。。。?」
煙草から立ち昇る紫煙を眺めながら、桐谷の脳裏に自分を特別なんだと言った、アキの泣き顔がよぎった。
「。。。。。。そうかもしれないな。。。」
桐谷は本格的にアキを探すことに決めた。
仕事が休みの日には、ここから通学圏内の大学をいくつか訪れて、正門の前で長い時間行き来する学生たちの中にアキの姿を探した。
歓楽街に数多くあるバーを巡り、アキ本人はもういないだろうが、働いていた店がないか訊いて回ったりもした。
そして、非常階段を覗くことも日課になっていた。
―けれど、何の手応えもなく。
逐一経過を聞くため連絡を寄越してくる紗英子や直裄にせっつかれながらも、本当にもう、どうしようもないのかもしれないな、と考え始めていた。
更に2週間程が経ち、季節は3月の半ばになっていた。
まだ肌寒いが、確実に春が近付いて来ているのが、風の匂いで分かる。
季節の変わり目だからか、外の空気が少し霞んでいること以外はいつもと何も変わらない、日曜日。
もう日が傾きかけようとしている時刻だった。
閉店時間が早い日曜日のこの時間帯は、相当忙しい昼間に比べゆったりと時が流れる。
桐谷は客の対応を岩本に任せ、キッチンで明日のランチの仕込みをしていた。
そこへ、遅い昼休憩に出ていた川島が戻って来た。
キッチンに入って来る気配に桐谷が顔を上げると、明らかに川島の様子がおかしいことに気付いた。
いつもなら常に元気に声を掛けてから仕事に戻る川島が、何かを堪えるかのような表情で、じっとこちらを見ている。
「川島?―どうした?」
作業の手を止めて声を掛けると、突然川島の目からぼろぼろと涙が零れだした。
「え。。。?川島。。。!?」
両手で口を覆った川島は、その場にしゃがみ込む。
桐谷は困惑し、とりあえず話を聞こうと身を屈めた。
「川島、どうした。どっか痛いのか?」
川島は何度か首を横に振ってから、口を開いた。
「桐谷さん、―どうしよう。。。」
「何が?」
涙で濡れた目を桐谷に向けて、川島は一瞬躊躇う素振りを見せたが、決心したように話し始める。
「さっきね、わたし裏の公園でごはん食べてて。。。戻って来たら、道の向こう側にね、この前お店に来たお客さんがいて――」
「誰」
「桐谷さんの知り合いで。。。顔のちっちゃい。。。綺麗な、男の人。オムライス食べてた―。。。」
どくん、と胸が鳴った。
「わたし、声掛けたんです。そしたらお願いだから桐谷さんには言わないでって言って、すぐ行っちゃって。。。。わたし、あんなに切なそうな顔してる人見たの初めてで。。。胸が苦しくなって。
―言っちゃだめって言われたけど、何かどうしても。。。桐谷さんに伝えないといけない気がして」
桐谷は目を閉じて、大きく息を吐いた。
「それ、何分前だ。。。?」
静かに訊く。
「5分くらい前です。。。。わたし外で桐谷さんに言った方がいいのかしばらく悩んでて。。。ごめんなさい」
「―どっち、行った?」
「駅の方に。。。。お願い桐谷さん、早く行ってあげて―。。。」
「川島、ありがとう。―悪いけど今日もう上がっていいか?」
涙目のまま何度もこくこくと頷く川島を横目に、桐谷は立ち上がった。
腰からサロンを引き抜いて、胸のネームプレートと共にキッチンの奥へ放り投げる。
何事かと様子を見に来た岩本に後は頼むと言い置いて、桐谷は店を飛び出した。
外は細い雨が降り出していた。
濡れたアスファルトの、鈍い匂い。
柔らかい雨が桐谷を濡らしたが、不思議と不快ではなかった。
アキの行き先は駅だと、桐谷は確信していた。
徒歩なら10分。
追いつけるかどうかは微妙なラインだった。
銀鼠に滲んで溶ける視界を切って、桐谷は走る速度を上げた。
駅の建物が目に入ったところで、桐谷は速度を緩めた。
辺りを何度も見回すが、アキの姿はない。
息を切らして正面入口から改札口に入ったものの、そこでもアキは見当たらなかった。
そのままホームへ上がるか迷ったが、上下線共に次の電車まで少し時間に余裕があったため、桐谷は入った方とは逆の出口から出て、ロータリーとなっている広場に出た。
タクシーやバスを待つ人々が、停留所の屋根の下で身を寄せ合っている。
色とりどりの傘を差して歩く人の顔もそれとなく確認しながら、桐谷はロータリーを足早に回った。
円状になっているロータリーを間もなく一周を回りきるというところで、歩道橋の死角となっていた奥の停留所にバスが到着するのが目に入った。
開いたドアに乗り込んでいく人の列。
列を追うように視線を動かした桐谷は、その最後尾を捉えた瞬間、目を見開いた。
見覚えのある黒いピーコートを着た後ろ姿。
―アキだ。
一瞬時間が止まり、全ての音が遠ざかった気がした。
ここからはまだ、距離がある。
瞬く間に列が短くなっていくのが、スローモーションのように見えた。
アキがバスのステップに足を掛ける。
―行くな。
心の中で言ったのか、実際に口に出したのかは分からなかった。
「アキ。。。!」
届かない。
「明帆!!」
なりふり構わず叫んだ。
その声に動きを止めて振り返ったアキは、視界の中に桐谷を捉えると、呆然とした表情を見せた後、顔を歪めた。
ステップから足を離す。
「桐谷さん。。。。。。うそや。。。」
声は聴こえなかったが、口の動きでそう言ったのが分かった。
乗らないんですか、という声がバスの車体のスピーカーから聞こえて間もなく、扉が閉まるブザーが響き、アキを残してバスは発車した。
肩で息をしていた桐谷は、何も言わずアキに近付き、その身体を乱暴に引き寄せ、抱き締めた。
「探した」
腕に力を込める。
「桐谷さん、心臓、めっちゃ鳴ってる」
茶化すように言ったアキの声は、震えていた。
―ほんとにすぐ泣くな、こいつは。
「誰のせいだよ」
「桐谷さん」
「何だ」
「めっちゃ人が見てる」
「知るか」
涙声で、腕の中のアキが笑った。
「―何で黙って居なくなった?」
一瞬だけ、アキがその身を固くしたが、すぐに力を抜くのを感じた。
「俺」
一度、言葉を切る。
「桐谷さんが好きやねん」
どうしようもないぐらい、とアキは呟いた。
「はっきりそう自覚したら、急に怖なって」
「。。。怖い?」
「今すぐ離れへんと。。。このまま桐谷さんの優しさに甘えて、気持ちがどんどんおっきなっていったら、一人になった時にもう、生きていけんようになる気がして。。。。―だいいち俺、誰か特定の人特別に思ったり、頼ったりすること自体、苦手やったのに。何かもう、訳分からんくなって。。。苦しくて
「―だから、自分から離れた?」
少し間を置いてから、アキは静かに頷いた。
「バカな奴だな」
―こっちの気も知らないで。
「けど結局。。。また桐谷さんの顔、見たくてどうしようもなくなって。。。ほんでバレてるし。。。ほんま間抜けでバカやろ、俺」
言って、アキは小さく息を吐く。
「ずっと」
「え。。。?」
「ずっと俺の傍に居ろ」
アキが息を止めたのが分かった。
桐谷のシャツの胸に、熱い雫がぱたぱたと落ちるのを感じる。
「大切にしたい。俺はお前を、ずっと」
静かにはっきりそう告げると、アキが肩を大きく震わせた。
桐谷はしばらく黙って、アキの漏らす小さな嗚咽と、鼻を啜る音を聞いていた。
「。。。本気?」
「本気だ」