「ひっ!?」一《 》
しゃっくりのような悲鳴を上げ、弾《はじ》かれるように振り返ると……。
何《 》もない。
「な、何だ、脅《おど》かしやがって……」
ガラスの曇《 》りが、人の顔に見えたのだろう。
(周りに誰《 》もいなくて良かったぜ)
乱れた呼《 》吸を整えながら、鏡に向き直り……。
「!」一《 》
息が止《 》まった。
鏡から、半《 》透明の上半身が生えていた!
そう、あの顔《 》は、満の背後を写した鏡像ではなく、目の前にいた実物《 》だったのだ。
Help……Help me……地獄の底から響くような呻《うめ》きを上げながら、半透明の両腕で満にすが り付《 》こうと……。
…………。一《 》
「あ、あのー、まだですか~」一《 》
数分後《 》、待ちかねた秀一がトイレを覗き込んだが。
「……あれ? 端《 》島さん、どこですか?」
返事《 》はなかった。
~7~
アレンデの日記は、日付が進むにつれて、ますます常軌《じょうき》を逸《いっ》した内容になっていく……。
――1943年《 》10月28日。
船内に残《 》された記録から、実験の詳細を知った。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、大 いなる存《 》在を召喚するものだったらしい。何でもその存在とは、あらゆる時と空間を自在に繋《つな》 ぐことができるらしく……その力《 》を借りて、艦を一瞬にして離れた場所に移動させる。それが実 験の目的《 》だったというのだ。
以前の私なら、一笑《いっしょう》に付していただろう。しかし、他ならぬ、我が身で体験してしまった……こ こはどこなのだ? 霧は一向に晴《 》れない……。みんなはどこへ行ってしまったのか……。
――1943年《 》10月29日。
エミリアが妙《 》なことを言い出した。ロバートの亡霊を見たと怯えている。こんな状況で、精神的 に不安定《 》になっているのだろうか。
――1943年《 》10月30日。
確かに見《 》た……ロバートの亡霊だ……ここはどこだ、助けてくれ、と言っていた……。
――1943年《 》10月31日。
ロバートだけじゃない……艦《 》長もアンドリューも、天国にも地獄にも行けずに、船内を彷徨っ ている……いずれ、自《 》分もああなるのでは……。
一刻も早《 》く逃げ出したかったが、エミリアの体調が思わしくない。自分は置いていけと彼女は 言うが、無《 》論、そんなことはできない。
――1943年《 》11月1日。
エミリアは夜毎《 》うなされている。寝言を言っている。『忌まわしいものが私に宿って』『私の中で うごめいて』。気のせいだろうか。彼女《 》の腹が……。
――1943年《 》11月2日。
やはり気《 》のせいではない。彼女は妊娠している。エミリアはうろたえているが、どんな状況で も、生命の誕《 》生は喜ぶべきことだ。無事に戻れたら、正式に結婚しようと言うと、ようやく少し微 笑んでくれた。一《 》
――1943年《 》11月3日。
今日も救《 》助は来ない。だが、最後まで諦めない。必ず生きて戻って、彼女と……。
――1943年《 》11月4日。
生《 》まれた……。
(以下、ほとんど文章の体《たい》を為《な》していない、でたらめな単語の羅列)
生まれたエミリアの腹《 》を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない 父親は私じゃないあれは人間じゃない忌《 》まわしい取替え子有り得ない逃げるしかないおお神 よ!一《 》
(少しだけ、落《 》ち着きを取り戻して)
これを読《 》んでいる人よ。どうかこの呪われた船を沈めてくれ。そして、二度とネクロノミコンに 記されている存《 》在を呼び出すなかれ。神よ、エミリアの魂に安らぎを。
……日《 》記はここで終わっている。
「…………」一《 》
ウィリアムは真っ青になって、あの支離滅裂《しりめつれつ》な殴り書きのページを見つめている。今にも卒倒しそう だ。亮は慌てて、彼を安心させる言葉を捻《ひね》り出した。
「おいおい、こんな話、真《 》に受けるなよ。要するに、アレンデはちょっとおかしくなってたんだっ
て。長い漂《 》流のせいでな」
「そ、そうなんですか……?」一《 》
「ああ、一見《 》すると、怪奇現象のオンパレードだが、どれも常識で説明が付くよ」
そう口に出してみると、不《 》思議とすらすらと説明できた。
「おそらく、エルドリッジが海《 》に出たところで、何らかの事故が起きて、航行不能に陥ったんだ。
他の船《 》員たちは避難したが、うっかりアレンデとエミリアの二人だけが取り残されちまった。そ
れに気《 》付かずに『みんながいなくなった、船が瞬間移動した』と勘違いしたんだろう。おかしな
魔法《 》のギシキをやらされたことも、思い込みを助長したんだろうな」
「で、でも、ここはフィラデルフィアとは、地《 》球の反対側ですよ? いくら何でも、途中で気付きそ
うなものですけど……」一《 》
「元は、フィラデルフィアの近《 》くに浮かんでいたんだろう。でも、それから50年も経ってるんだ。
海流に流されて、地《 》球を半周しても不思議はないさ」
「な、なるほど」一《 》
「船員の亡霊《 》は、言うまでもなく、漂流のストレスによる幻覚だな」
「エミリアさんは、出産《 》時の出血か何かで亡くなったんでしょうか?」
「いや、日《 》記の日付からすると、アレンデが妊娠に気付いてから、二日しか経っていない。そん
なに早く赤ん坊《 》が産まれる訳がないから、多分、エミリアの死因は何らかの病気だろうな……」
そして、婚《 》約者の死というショックが、アレンデのぐらつきかけていた正気を、完全に崩してし
まったのだ。一《 》
……という、亮《 》の推理が終わる頃には、ウィリアムの顔に血の気が戻っていた。
「なぁんだ、つまり、フィラデルフィア実《 》験の真相って……アレンデの思い込みだったんですね」
「それプラス、アメリカ海《 》軍のトンデモ実験だな」
そして、エルドリッジを脱《 》出したアレンデは十数年後、ジェソップに手紙を送ったのだ。自らの
妄想を書き殴った手《 》紙を。
それを元にして、ジェソップが超《 》常現象?フィラデルフィア実験を創作したのだろう。まあ、さす がにそのままでは信憑性《しんぴょうせい》がないと思ったのか、魔方陣が当時最先端の機械だったテスラコイルに なったように、あちこち修《 》正されてはいるが。
「分かってみれば、あっけないですねぇ。アレンデとエミリアさんには同《 》情しますけど……」
「そうだな……まあ、こうして真相に気付いてやれただけでも、少しは供養《くよう》になるだろう」
……亮は気《 》付いていない。
この推《 》測で納得しておく方が身の為だと、自分に言い聞かせていることに。
「おっと、そろそろ集《 》合時間だな。いったん戻るか。端島たちにも教えてやろうぜ。フィラデルフ
ィア実験の真《 》相を」
「がっかりしちゃいませんかね」一《 》
「いやあ、ある意《 》味衝撃だろ。昔のこととは言え、天下のアメリカ海軍が、こんなことをしてたな
んて」一《 》
そうして、何《 》とか自分を納得させたつもりだったのだが。
立ち上がったはずみに、ふと、思《 》い出してしまった。
“気付かない方が身《 》の為”なことに。
「そういえば、アレンデは、エミリアのことは手《 》紙で伝えなかったんだろうか」
「みたいですね。彼《 》女は、ジェソップの話には全く出てきませんし」
たとえ妄想にせよ、なぜ彼《 》女のことだけ隠したのだろう。思案する亮の目に、隣の部屋のドア
が飛び込《 》んできた。
ドアにはDispensary(医務《 》室)と書かれている――亮にも、これぐらいは読める――。
(もし、船内で女性が産気《 》付いたら、どうする?)
気が付《 》くと……。
亮の足《 》は、そのドアに向かっていた。
「教官《 》……?」
ウィリアムが戸《 》惑っているのにも、気付かない。まるで、不可視の力に操られているように、ド
アノブに手《 》がかかる。
(そうだ、当然《 》、ここへ運び込むはずだ)
……亮の船《 》乗りの本能は、もうとっくに気付いていたのかもしれない。このドアの向こうから
漂ってくる、得《 》体の知れない空気に。
(もしも、あの日《 》記が……)
ドアノブを回《 》し……。
(アレンデの妄《 》想でなかったら)
一気に引《 》き開けた。
~8~
その部屋は、元は医《 》務室らしく、白い内装でまとめられていたのだろう。
その清楚《せいそ》な白を。
赤茶けた跡《 》が、跡形もなく汚している。
ベッドの上で爆《 》発するように弾け、薬品棚にびちゃびちゃと飛び散り、床一面を染める、その
跡《 》が……。
……何の跡《 》なのか分かったらしく、ウィリアムがよろめいた。
「血……? これが、全部《 》……?」
まるで、人体を爆《 》破でもしたかのようだ。
(違う、エミリアの死《 》因は病気なんかじゃない)
かと言って、出産時の出血などでもない……そう、通常の《’’’》出産では。
生まれたエミリアの腹《 》を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない 父親は私《 》じゃないあれは人間じゃない忌まわしい取替え子有り得ない逃げるしかないおお神 よ!一《 》
なぜアレンデが、エミリアのことだけは、手《 》紙にも書かなかったのか、今なら分かる。
恐ろしかったからだ。思い出すことさえ、耐え難《がた》い程に。
(違う、あの日記は、アレンデの妄《 》想なんかじゃない)
「きょ、教《 》官……」
ウィリアムが、亮《 》の腕にすがり付く。
「ああ、分《 》かってる……」
無論、これで全てが判明した訳ではない。エミリアが何《?》を産んだのかなど、分かるはずもな
い。
しかし、一《 》つだけはっきりしていることがある。
「この船を離《 》れよう……」
ここは、人《 》のいるべき場所ではない。
そして、二《 》人が医務室を走り去った直後。
窓から差し込む光が、何かに遮《さえぎ》られた。
それはずるずると船側を這《は》い上がり、窓越しに二人を見つめて……。
~9~
甲板に出ても、相《 》変わらず視界は一面の霧に閉ざされていた。
あるいは、五《 》十年前から一度も晴れたことがないのかもしれない。そうだとしても、もう亮は
驚かない。一《 》
この船は、呪《 》われているのだから。
「きょ、教《 》官?」
集合場所で待《 》っていた秀一は、亮の剣幕に面食らっている。
「脱出するぞ、救《 》助ボートに移れ!」
「え? どうして……」一《 》
「訳は後《 》で話す!」
有無《 》を言わさず命じてから、亮は気付いた。
「……端島《 》はどうした?」
「それが、トイレに行《 》ったきり、いなくなっちゃって……」
顔を見《 》合わせる、亮とウィリアム。
「い、言《 》っときますけど、端島さんが勝手に……」
「そのトイレはどこだ?」一《 》
「こ、こっちです」一《 》
さすがの秀《 》一も、言い訳している場合ではないと察したらしい。二人を案内して走り出す。
問題《 》のトイレにはすぐ着いたが、やはり満の姿はどこにもない。
「端島《 》さ~ん! 教官に怒られますよ~!」
秀一の呼《 》びかけにも、応える者はない。
ぉぉぉ……廊下の奥から、微《かす》かな反響が返ってくるばかりだ。
「もう、しょうがないな~。あ、自《 》分はこっちを探してきますね」
「いや、ばらばらになると……」一《 》
危ない、と言おうとした亮が、戦慄《せんりつ》に凍り付く。
秀一は気《 》付いていない――。
――背後《 》の壁から生えた、半透明の両腕に!
それは、まるで存在しないかのように壁をすり抜け、たちまち朧《おぼろ》な全身を露《あらわ》にする。変わり果 てた姿になっていたが、間《 》違いない。
「端島《 》……!?」
タスケテクレェェェ……タスケテクレェェェ……反《 》響などではなかった。そのおぞましくも哀れ
な呻きは、半透明の顔《 》にぽっかり開いた、ブラックホールのような口から発せられている。
「え……?」一《 》
秀一が、ようやく背《 》後の気配に気付いて、振り向いた……時には、もう遅かった。
満の半透明の腕《 》が、秀一の肩を掴む……いや、突き抜ける。そこを起点に、みるみる秀一
の体が透《 》き通っていく。
ああああああアアアアアアAAAAAA…………。一《 》
それに比例して、秀一の絶《 》叫が変質していく。どんどん低くなり、この世のものでない響きを
帯《お》び……。
ココハドコダァァァ……ナニモミエナイィィィ……。一《 》
満の呻《 》きと区別が付かなくなる頃には、秀一も全身が半透明になっていた。
呆然としていたウィリアムが、ようやく悲《 》鳴を上げる。
それに応えるかのごとく、壁《 》から床から、次々と半透明の手や首や上半身が現れる。その多
くが、船員らしき服《 》装をしていた。
(こ、これが……!?)一《 》
アレンデが日記に記した“船《 》員の亡霊”なのか。
Help me……Anything is not seen……Darkness……Darkness……。一《 》
壁から突《 》き出した首が、英語らしき呻きを上げている。アレンデはこの光景を手紙に書き、ジ
ェソップはそれを元に“床や壁《 》と融合してしまった船員”を創作したのだろう。
(亡霊《 》……)
窮地《きゅうち》に陥った亮の頭脳が、限界速度を超えて回転しているのか。アレンデが用いたその表現 は、正確ではないことを直《 》感する。
彼らは死んだ訳《 》ではない。おそらく、エルドリッジが瞬間移動――その可能性も、もう亮は疑 っていない――した際、移動に連いて行き損ねて《 ?》、時空の狭間《はざま》に取り残されてしまったのだ。
それから五十《 》年以上、彼らは死ぬこともできずに、船内――に隣接する時空の狭間――を 彷徨い続《 》けている。
そして、彼《 》らに触れられた者もまた、時空の狭間に引きずりこまれ、その仲間入りをする羽
目になるのだ。満《 》や秀一のように。
「端島、北条、落《 》ち着くんだ!」
必死で呼びかけるが、満や秀一の目に、最早欠片《もはやかけら》も理性が残っていないのは明らかだった。
他の船員たちは言うまでもない。時《 》空の狭間に引きずり込まれる感覚、それは、僅か数秒で
人間の理性を破《 》壊するに十分らしい。
呻きの不協和音を響かせながら、じりじりと包囲網を狭《せば》めてくる。彼らの頭にあるのは、時空 の壁越しに、僅《わず》かに感じる人の気配にすがることのみ。それが、同類を増やす結果に終わる だけとも知《 》らずに。
(止むを得《 》ない……!)
生徒を見《 》捨てて逃げるなど、教官として最低の行為だが、このままでは全滅するだけだ。へ
たり込んでいるウィリアムの腕《 》を掴んで、無理矢理立ち上がらせる。
「しっかりしろ! 一緒《 》に湘南に行くんだろ!?」
そこで思う存分、操船《 》させてもらうという約束を思い出したのか、ウィリアムの瞳に、僅かなが
ら光が戻《 》ってくる。
(そうだ、約束《 》を果たすためにも、生きて帰らなくては)
「よし、走《 》るぞ!」
「は、はい!」一《 》
来た通路は“時空亡霊”たちに塞《ふさ》がれている。別の出口を探すしかない。経験から船の構造 を推測し、必死に走る。その二人を、亡霊の群れが壁をすり抜けながら追う。まさしく、黄泉《よみ》の国 からの脱出劇《 》だ。
「あった!」一《 》
出口だ。そこへ続《 》く階段を死に物狂いで駆け上がると、不幸中の幸い、エルドリッジに乗り込 むのに使った、非常用梯子のすぐ側だった。救助ボートはこの下に係留《けいりゅう》してある。
「香坂、先《 》に行け!」
しかし、彼《 》らをこの呪われた船に誘き寄せた悪意は、すでに包囲網を完成させていた。
「いや、待《 》て! ……何だ、この音は?」
ずるずる? それとも、ねちゃねちゃ? 何とも形《 》容しがたい音が、船側を這い登ってくる。
足裏から伝わってくる振《 》動で分かる……信じられないくらい、巨大だ。
本能が危険を察知すると同時に、異様な影が霧の中に躍《おど》り上がる。太さは人の胴回り程、 長さは十《 》メートル以上。
(触《 》手……!?)
イカの触腕《しょくわん》にも、象の鼻にも、いや、亮が知っている、どんな生き物の部位にも似ていない。だ が、それだけはかろうじて分《 》かった。
つまり、これでもまだ、全《 》体の一部でしかないということ。
(こいつだ……曙《 》光丸が沈んだ時に見たのは)
あの触手を真《 》っ直ぐに突き刺せば、ちょうどあんな穴が開くだろう。
霧を裂いて触《 》手が迫る。あの巨大さからは、信じられないような敏捷さだ。
(くっ!)一《 》
ウィリアムを突き飛ばして庇《かば》うのが、精一杯だった。
「きょ、教《 》官!」
触手が亮《 》の胴に巻き付き、掴み上げる。必死でもがくが、船に穴を開けるパワーに敵う訳が
ない……命《 》運は尽きた。
(そうか、こいつが……)一《 》
「エミリアが産《 》んだものなのか……!?」
諦めゆえの直《 》感力でそう悟ったが、今さら何の役にも立たない。
「香坂、俺に構《 》わず逃げろ!」
亮にできるのは、そう叫《 》ぶことだけだった。
しかし。一《 》
悪意は、彼の想《 》像を遥かに超えていた。
「ぷっ……」一《 》
「あはははははははははははははははははは!」一《 》
~10~
場違いも甚《はなは》だしい、その弾けるような笑い声が、どこから発せられているのか、亮は一瞬分 からなかった。一《 》
分かって、愕然《がくぜん》とする。
「香……坂《 》?」
笑い声は、ウィリアムの口から発せられている。体をくの字に曲げ、可笑《おか》しくて仕方なさそうに笑 っている。一《 》
「あー、可《 》笑しい。教官ったら、まだ気付いていないんですかぁ?」
ようやく、ウィリアムが笑《 》うのを止める。その顔に、ついさっきまで浮かんでいた恐怖の表情な
ど、微塵も残《 》っていない。
ウィリアムは、悪戯《いたずら》の種でもばらすかのような口調で言った。
「逃げろも何も、みんなをこの船に誘《おび》き寄せたのは、僕なんですよ?」
…………。一《 》
「でも、さすがは教官。冷静でしたね。こんなに梃子摺《てこず》らされたのは、初めてですよ」
「何を……言《 》ってるんだ?」
「よく見《 》て下さい。それを……そうすれば、全部分かりますよ」
操《 》られているかのように、亮の視線が、ウィリアムが指差す方を向く。すなわち、足元を。
自分《 》の胴に巻き付いている触手を、何十本もでたらめに絡めたような異形の物体。船側に
へばり付《 》いていたのは、そんな存在だった。
「う……!?」一《 》
それだけだったら、まだ耐《 》えられた。だが、亮は気付いてしまった。絡まり合う触手の中心
に、直径《 》1メートルに及ぶ“顔”があることに。
――ウィリアムと瓜《 》二つの。
「紹介します……兄《 》です」
ウィリアムのくすくす笑《 》いと亮の絶叫が、地獄めいた合唱を奏でる。
「双子《 》なんです、そっくりでしょ?」
ウィリアムと、彼《 》の“兄”の顔を、狂ったように、何度も何度も見比べる亮。気付かざるを得な
かった。気付かない方《 》が幸せだった、おぞましい真実に。
ウィリアムを、実《 》の弟のように可愛がっていた彼にとっては、なおさら。
「まさか、お前《 》も……!?」
「ええ、エミリア母《 》さんから生まれました。あの日、あの部屋で……だから、本当は教官より、ず
っと年上《 》なんですよ?」
そう言ってウィリアムが浮《 》かべた表情を、何と表現すべきか、亮には分からなかった。猿が人
間の表情を読めないのと同《 》様に。いくら顔の形が似ていても、それを動かす精神が違いすぎ
て。一《 》
何よりも、その表《 》情が亮に悟らせた。
(そんな、香《 》坂が……)
外見《 》がどうあれ、本質はあの“兄”と同じ。言わば、人間そっくりの怪物なのだということを。
「本当にお前《 》が、俺たちをここに誘き寄せたのか……?」
「フフ、教《 》官たちだけじゃないですよ……ほら」
そう言《 》って、ウィリアムが手で何かを払うような仕草をすると……視界を閉ざす霧が、見る見
る晴《 》れていく。
それに驚く暇もなく。露《あらわ》になった周辺の光景に、亮は呆然と目を見開く。
エルドリッジの周囲は、まさに船《 》の墓場だった。あらゆる大きさ、あらゆる様式の船の残骸
が、水死者の如《ごと》く波間を漂っている。
それだけなら、まだ有《 》り得ないことではない。航海術が未発達だった過去には、暗礁地帯な
どで似たような光《 》景が見られたかもしれない。
……だが、その上に広がる、病《 》んだ緑色の空は、地球上のどこにも有り得まい。そこには、
正体不明の赤い光の筋が、毛《 》細血管のように張り巡らされ、脈動するように明滅を繰り返して
いる。一《 》
(馬鹿《 》な……ここは、どこなんだ)
つい数時《 》間前まで、雅忠節湾にいたはずなのに。
「不完全な知《 》識で行われた儀式は、エルドリッジを中途半端な場所に移動させてしまったんで す……ここ、異次元に広がる、無窮《むきゅう》の海に」
とりあえず、曙《 》光丸の通信機やレーダーが故障した原因だけは分かった。
こんな場所で、そんな物《 》が正常に働くはずがない。
「僕たち双子は、生まれて以来、同じことを繰り返してきました。僕が、時空を捻《ね》じ曲げて、船を
この海に迷い込ませる。その船《 》を、兄が沈没させ、船員がエルドリッジに乗り移るよう仕向ける
……」一《 》
そこで待っているのは、あの亡《 》霊の群れ。その結果が、この船の墓場……まさに、海魔の兄
弟《 》だ。
この五十《 》年間で、幾人の船乗りたちが、その魔の手にかかったのだろう。
(そんな……)一《 》
ウィリアムとの思《 》い出が、走馬灯の如く脳裏を駆け抜けていく。
自分を兄のように慕《した》ってくれたウィリアム。ついさっきも、湘南に連れて行ってやると約束した
ら、あんなに喜《 》んでくれたのに。
(あれは全部、演《 》技だったのか……!?)
マグマのように湧《 》き上がるのは、しかし、怒りではなく……悲しみだ。
そんな亮に気《 》付いているのかいないのか、ウィリアムは淡々と続ける。
「そして、これからも繰《 》り返すでしょう。ミスカトニック大学で、ネクロノミコンを調べて突き止めま
した。あの儀式には、大量の生贄《いけにえ》が必要だったんです。五十年前の実験では、その部分を見逃
していたんでしょう」一《 》
儀式を今度こそ成し遂《 》げる。それが、彼ら兄弟の目的なのか。
「どうして、そんなことを!?」一《 》
「……帰るためですよ、僕《 》らが本来いるべき世界に」
亮の叫《 》びに対して、ウィリアムは……そっと顔を伏せた。見られたくないかのように。
「そうするしかないじゃないですか……この世《 》界では、僕らはおぞましい“怪物”なんですよ」
その言葉に、亮は微《かす》かな希望を見出した。その呪われた出自を、最も嫌悪しているのは、他
ならぬウィリアム自《 》身だと。
それは、人間《 》の証明ではないか。
「そんなことない! お前は、間違いなく人間《 》……!」
「……兄にも同《 》じことを言えますか?」
凍り付くようなウィリアムの指《 》摘に、亮は思わず声を詰まらせる。
改めて、自分の胴に巻《 》き付く触手の主を見下ろす……。
(目を逸《そ》らすな……吐き気を催《もよお》すなんて、もっての外……)
駄目だ。どうしても、本能《 》が拒絶してしまう。これを拒絶することは、ウィリアムを拒絶すること
と同義《 》なのに。
己の不甲斐無《ふがいな》さに肩を落とす亮に、ウィリアムが哀れむように呟く。
「いいんですよ、恥じなくても。人間《 》なんて、そんなものだ……肌の色で差別し合っているような
連中が、僕らを受け容《 》れられる訳がない」
それが、人に混じって、五《 》十年以上の時を生きてきた彼の、答えなのだろうか。その間、多く
の出会いがあっただろうに、誰《 》一人として、彼に希望を与えることはできなかったのか。
(そして、俺《 》もまた……)
ウィリアムの足元から、無《 》数の半透明の手が湧き出す。彼ら兄弟によって時空の狭間に囚
われた、哀れな生《 》贄たち。
「さあ、お仲間が呼《 》んでますよ、教官?」
亮が動けないのは、しかし、胴《 》に巻きつく触手のせいばかりではなかった。
ウィリアムの顔には、相変わらずあの理《 》解不能な表情が張り付いている。しかし、亮の目に
は、それは仮面と映った。その下には、彼《 》が良く知るウィリアムがいるのだと。
見捨てないで……一緒《 》にいて……。
(香坂《 》……)
それが己の願《 》望に過ぎないのか否か、しかし、亮が結論を出すより前に。
「うっ!?」一《 》
突然、触手の力が緩《ゆる》み、亮は甲板に投げ出される。
「どうしたの、兄《 》さん!?」
「イグナイイ……イグナイイ……トゥフルトゥクングァ……」一《 》
驚くウィリアムに返ってきたのは、廃液が沸《わ》き立つ音のような……声なのか、これが?
「エエ?ヤ?ヤ?ヤ?ヤハアアア――エヤヤヤヤアアア……ングアアアアア……フユウ……フユ一《 》
ウ……My father……My father……!」一《 》
いや……。一《 》
やはり、声に違いない。僅《わず》かに聞き取れた単語は、紛れもなく英語だったから。
「何《 》だって……まさか」
ウィリアムが、慌《 》てて頭上を見上げる。
釣られて見上げた亮《 》が目にしたのは。
(何だ……空《 》が)
赤い毛細血《 》管が脈動する緑色の空――あれを空と呼べるのかは疑問だが――が、へこん
でいく。まるで、鉄球を載《の》せたゴム膜のように。
空のへこみは見る見《 》る深まり、ついには直径数キロメートル、深さは推測もできない程の穴
になる。一《 》
「父さん……迎《 》えに来てくれたのか」
空に開《 》いた穴を、呆然と見上げるウィリアム。
「父親《 》……!?」
亮は、ようやくそのことに思《 》い至った。
ウィリアムたちの母《 》親はエミリア。では、父親は誰なのか? 無論、アレンデであろうはずが
ない。一《 》
日記には書《 》かれていた。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、ある存在の力を借りるもの
だと。一《 》
「そうです……アメリカ海《 》軍によって召喚され、哀れなエミリア母さんの胎内に僕らを宿した、は た迷惑な父さん……でも、子煩悩《こぼんのう》な一面もあるみたいですね」
「うわっ!?」一《 》
突然、足が甲《 》板から浮き上がりそうになり、亮は慌てて柵に掴まった。
周囲で重力の法《 》則が崩壊している。船の残骸が波間から浮き上がり、亡霊たちが甲板から 引き剥がされ、螺旋《らせん》を描きながら空の穴に吸い込まれていく。
その壮《 》絶な光景を、ウィリアムは苦笑を浮かべて見つめていた。
「ああ、教官、やっぱり帰《 》っていいですよ。生贄はもう十分みたいだから」
あっさりそう言うウィリアムの背後で、彼の兄の巨体も空に落ちていく。響き渡る咆哮《ほうこう》は……歓 喜のそれに聞《 》こえた。
そして、ウィリアムの足《 》も、ふわりと甲板から浮かぶ。
(待て、行《 》くな……!)
必死で伸《 》ばした手は……指一本分、届かない。
無数の船《 》の残骸や亡霊を引き連れて、ウィリアムは空に落ちていく。その青い瞳からこぼれ
るきらめきが……。一《 》
何だったのかは、永《 》久に分からなくなった。
凄まじい輝きが、亮の目を灼《や》いた。
空の穴から、何かが降《 》りてくる……何だ、あれは……穴とほぼ同じ大きさ……とても、言葉で は表現できない……あえて言うなら、虹《 》色に輝く無数の球体……絶えず、分裂と融合を繰り返 して……まるで、素粒子《そりゅうし》の分解と結合《けつごう》のプロセスを、肉眼で見ているよう……いや、それとも、誕生
と消滅を繰《 》り返す、多元宇宙の……。
「あ……あ……」一《 》
その人智を超えた姿に、亮の強靭《きょうじん》な精神力も、ついに限界を迎えた。遠のく意識の中で、ウィリ アムの最後の言《 》葉を聞いていた。
――紹介します。僕らの父さん、門にして鍵、一にして全、全にして一なるもの、無窮の虚空《こくう》を支 配する神《 》、ヨグ=ソトース……。
それから、約十《 》二時間後。
亮は船の残骸《 》――曙光丸のそれでないことが、後に判明するのだが――に掴まって漂流し
ているところを、救助《 》された。
重度の記憶障害に陥《 》っており、事故に関する記憶は全て失われていた。ただ、夢の中では、 記憶の断片が蘇《よみがえ》るのか、寝言で悲しげに呟くのを、担当の医師らが聞いている。
『湘南に連《 》れて行ってやるって約束したのに……』
『一人で行《 》っちまいやがって……』
『遠い、遠《 》い海へ……』