「……」
「大丈夫です?」
「あんまり」
もう一度エイリスと顔を突き合わせることとなった。しかし先の足音の主が追手で、しかもこっちに向かってきたら……まさしく前門の虎に後門の狼。だからといって、逃げ道は一本しかない。仮にエイリスから逃げるにしても、足音の主が完全に去るのを待たないと。
「やはり武器がないと辛いですよね」
「え?」
汲々とする彼に対し、エイリスは全く落ち着いて話しかけてくる。
「武器の使用は禁じられていませんよ。やられたら、同じようにやりかえしてもいいんです。何か使いますか?」
「……」
エイリスは相変わらず薄笑いを浮かべている。不気味だ。
だが武器の提案は名案である。彼は少し話に乗ってみることにした。
「何かって、何があるんだ?」
「そうですね、例えば」
言いつつ、エイリスは懐から小さなものを取り出した。蛍光灯の明かりを反射し、光るそれはフォークだった。
「これとかいかがでしょう。場所も取らず、たくさんスペックしておくことが出来ますよ」
「んなもん使えるかよ。もっと威力があるものは? 鉄パイプとか、金属バットとか。何なら果物ナイフでもいい。血は見たくないけど」
「なかなか敬虔ですね」
「ケイケン?」
言われた言葉の意味が分からず、彼はきょとんとした。エイリスはふふっと笑い、もう一度懐に手をつっこんでフォークを出した。
これで、二本。それを左右の手に一本ずつ持ち、行儀悪く打ちつけて音を鳴らす。
「お、おいやめろって。音が――」
「追っ手に聞かれると? 大丈夫、この程度の音は聞こえませんよ。それに」
突然、頬の横に何かがサッと通った。彼はビクンッと背筋を凍らせた。
「ヒッ」
「っと、外しましたか」
ビイイイイン……という細かい振動音をたて、壁に突き刺さったのは先のフォークだった。頬に何かが――血が――流れる。
「ひいぃい!」
彼は慌てて逃げ出した。
もう武器だの足音だの言ってられる場合ではない。まずは目先の敵から――つまり彼の魔の手から逃れることが先決だ。だが彼が逃げるのを見、エイリスは今度は追いかけてきた。
「待ちなさい。逃がしませんよ!」
「いやあああああ!」
右に左に、大して広くもない廊下をジグザグ走行しつつ彼は逃げた。
幸いにもさきほど足音が聞こえた辺りには誰もおらず、挟まれることは無かったが、エイリスはおそるべき的確さでフォークを投げてくる。彼が走って逃げる距離もちゃんと計算していて、ついさっき自分がいた位置にばかりフォークが刺さる。
避けながら、彼は思った。前に包丁を投げてきた子もそうだったが、どうしてこんなに物を投げるのが上手いのだろう……と。
訓練をしているのか? だとしたら何て非道な訓練なのだろう。大体、食べ物に使う道具を、殺傷の道具にするとは言語道断である。
しかし、そんな事を言っている余裕はすぐになくなった。
「捕まえた!」
「ギャッ」
エイリスは思いのほか足が速かった。逃げ切る前に腕をぐっと掴まれ、そのまま少し引きずられる。
「いででででっ」
「さぁて、どこから料理しましょうね」
コロンが彼の髪をエイリスは左手でしっかりとつかみ、右手にフォークをかまえる。ほんの少しだけ、どこを誘うかと狙い――そして彼の額めがけて、まっすぐフォークを振り下ろした。
「ひぃ」
だが彼とて大人しくやられはしない。両腕が自由なままであるのを幸いに、すぐさま右腕で顔をかばった。
「いッ――!」
凶器は腕にグサリと刺さった。ブスリと嫌な音がして、服にじわりと液体がにじむ。
「あっ」
目標が外れたことにエイリスは少しだけ驚いた声を出し、しかし落ち着いてもう一度フォークを取り出そうとした。血を見てもまったく動じない。だがその瞬間、彼は相手の腹にむかって肘鉄をくらわせた。
「ぐっ」
エイリスがうめき、痛みに手を緩める。そのスキに彼はばしっと相手の手を叩いてのけた。再び自由の身となり、逃れるために走り出す。
彼はまた新しく手負になった。が、相手は腹をやられている。血こそ出ていないが、痛みに当分は走って人を追いかけることが出来ないはず。
――良かった。そう思って走った彼だが、ふいに左足に痛みを感じた。しかし逃げたい一心で痛みをこらえ、立ち止まらずに彼は走った。
……とはいえ。
傷が痛み、なかなか思うほどにははしれない。あえなく彼はまた適当な教室の中に入り込み、そこでしばし休息をとることにした。
入った直後は耳をすませ、誰か追ってこないかを確認する。それがないと分かると、彼は中でどたっと座り込んだ。
「はぁ――つ、つかれた。ッ、いてぇ~」
まずは足を確認した。逃げるには足が必要だし、これがなければ始まらない。
ズボンをまくってみたところ、三か所に穴があいて血が出ている。夢中になっていたので分からなかったが、一度刺さって抜けたのかもしれないと彼は思った。
そして、次に腕。こちらは未だ、彼の腕に刺さったままだった。痛いし邪魔だし、言いことは一つもないので、彼は痛みをこらえてグッと抜いた。
「いッ……て」
しかし、どうしてこのフォークはこんなにも人を傷つける能力があるのだろうか。不思議に思い、彼は抜いたそれをよく見てみた。
「うわぁ」
そして思わず声をあげる。
フォークの切っ先は異常に鋭くとがっており、まるでニードルのようになっていた。こんなのを口に運んだ折には舌をケガをしそうである。
「なるほど」
こうして『手に入れた』それを、彼はとっておき、己の武器として使用すべきかと考えた。が、少し考えた末に捨てることにした。
というのも、有効な使い方が自分には出来そうになかったからだ。上手く投げるには練習がいるだろうし、持ち歩くのは危険である。エイリスはどうやって入れていたのか知らないが、普通通にポケットにいれただけなら、何かの拍子に足に刺さってしまうかもしれない。そんな間の抜けたことは絶対に嫌だった。
「っと」
ふと腕時計を見ると、さっき見てからまだ七分しかたっていなかった。
思わず、悲しくなる。もう三十分はたったと思ったのに……と一人ごちた。彼はため息を吐きつつ、しかし床を見てはっと息をのんだ。
「……」
そこには、血痕があった。腕も足ももう止まっているが、垂れた痕が点々と続いている。
「まずい」
たどられたら此処が見つかってしまう。今更ではあったがそれに気がつき、彼は慌てて教室を出た。
06-ナカマワレ?
こうして片足を引きずり、安全な場所を探していた彼。
だがその夢はすぐに破られた。ふいに、ガラガラッという音とともに彼の右斜め前の扉があいて、二人の女性が現れたのだ。
「………」
どちらも二十代くらいだろうか。見目麗しい巨乳に谷間。片方は黒、片方は赤の綺麗な髪の毛。
黒髪の方は黒い鞭を、赤髪の方は先がとがったペン…おそらくはマンガを描くとき等に使われる、先のとがったペンを手に持っていた。
二人の女性は、彼を見てまず目を丸くした。が、彼は矢も楯もたまらず、考えるより先に反射的に逃げ出した。
そして、それは正解だった。
「ミシェル、彼は試験者なんだな。早く追いかけて捕まえるんだな!」
「分かっているわ。…命令しないで下さる? アリーシュ、言っておくけれど私たちは同じ立場よ」
なんて事を喋りながら、彼女らは颯爽と手に持っているものをふりかざして追いかけてきた。
巨乳のお姉さん二人に追いかけられるなんて、年頃の少年にしてみれば夢のまた夢である。
もしも彼女らが「待って~」と甘い声で言いつつ、すり寄ってきたならそれはもう大喜びだ。
が、殺す気で来てくれてはたまらない。いや、仮に殺されるのだとしてもだ。
豊富な胸に顔をはさまれて窒息死なら多少浮かばれるかもしれないが、
片方は鞭をふりかざし、もう片方はとがったペンをふりかざしているときては……。
「ギャああアアああぁあああァ!」
逃げる彼の頭には、もう傷の痛みのことなどなかった。痛みを忘れるほど必死だったのである。
ただそんな必死の最中に、考えるのは赤髪の女――アリーシュと呼ばれていた方だが――の持っているものだ。
――黒髪の持ってる鞭はともかく、ペンって何? 何の拷問用具だ!
そしてついさっき、フォークという平和な「武器」でエイリスにされそうになったことを思い出し、ますます足を速める彼。
しかし先ほどから思い返せば、追手が凶器に使っているのはわりと普通なものばかりだ。
武器と言えば、普通は刀剣や銃、ピストルといった類(たぐい)。なのにそれらが全くない。
包丁は確かに危ないが、ホームセンターで手に入る。フォークやペンに至っては、本来は凶器ですら無いものだ。
鞭は日常で使うものではないが、それだって別に違法なものじゃない。
「いやだああああ!」
もっとも、だから何ってわけではない。いずれにしても傷つけられることには変わりない。
逃げる彼の脳裏には、もし捕まったらどんなメにあうかの、おぞましい想像が思い浮かんでいた。
四つん這いにさせられて鞭で叩かれ、Gペンで指の先を一本ずつぐりぐりと…もしくは爪と指の隙間にさしこんでツメをはがすとか……。
好きな人にはたまらないかもしれないが、幸にも不幸にも彼にはマゾの気は特にないから辞退である。いや仮にマゾだとしても、ツメをひっぱがされるのは遠慮願いたい。
しかも、だ。
「げえっ」
突然、彼は急ブレーキをかけて立ち止まった。
「あ」
三メートルほど先にて、小さな声をあげてひょいっと顔をあげた人。それは一番最初に、彼に包丁を投げつけてきた子であった。
これで会うのは三回目。しかもよく見ると、手にはべったりと血のついた布をもち、それで包丁の刃を拭いている。
どうやらそれに夢中になっていて、彼が近づいたのも気付かなかったらしい――…ではなくって。
「いやあああああああああ!」
彼は血を見たとたんパニックになった。あれはきっと誰か…自分ではない、哀れな他の試験者を刺した傷に違いない。
しかも、その人は重症か、最悪死亡だ。さもなければあんなに布が真っ赤になってるわけがない。
彼はリターンし、先ほどまで逃げていた二人の女性にむかって突進した。
「およよ?」
「あら、観念したのかしら」
驚くアリーシュに、鞭を構えなおすミシェル。大して広くもない、薄暗い廊下に二人の女性が並んでいる。
正直、この二人を突破するより、包丁の恐怖をおして一人の子をすっとばした方が助かる率は高い。
が、軽いパニックとなった彼にそんな余裕はなかった。ただただ焦ってこう叫び、前に進もうとした。
「そこどけぇ!」
だが、あえなく二人にとっつかまる。女性相手とはいえ、やはり二人相手は無理だった。
「退くわけにはいかないのだな」
アリーシュが、やたら豊富な胸に彼を抱きしめながら言った。
それに一瞬頭がボーッとしたが、しかし天国はすぐに終わり、彼はビシッと走った背中の痛みに現実に引き戻された。
「そう。試験者を傷めつけ、殺そうと狙うのが私たちの役目ですもの」
そんな言葉と共に、ビュッという音が続き、また背中に痛みが走る。
「ぎゃんっ!」
ビクッと体をひきつらせ、暴れたものの、しかしアリーシュにおさえられていて思うように動けない。
己の胸と両腕を使い、彼を抱きしめる形でおさえつつ、アリーシュは言った。
「ミシェルは相変わらずドSなんだな」
「あら、いけないかしら?」
「吾輩が思うに、早くトドメをさすべきなんだな」
「だってすぐに死ぬなんてつまらないじゃない」
ビシッと音がして、また背中に痛み。彼が声をつまらせるのをよそに、彼女は悠々と言った。
「それに私たちの仕事は絶体神ヴァルヴァース様に、試験者の痛みと苦痛を捧げることよ」
普通に喋りながら彼女は鞭を振るい続ける。
「それに耐えるか、逃げるか。それが試験者に課せられた使命なのだから」
「まぁ……そうではあるが。しかし」
「ちょっとくらい楽しんでもいいじゃない?」
「ひいいぃぃぃぃ!」
痛みにきゃんきゃん泣きながら、彼は先に彼女の言った『ヴァルヴァース』というのが何かをちょっと考えた。
何が何だかいまだに分からないが、痛みと恐怖を捧げよ――と。名前こそコロコロ変わるものの、その趣旨だけは共通らしい。
だがそれが分かったところでちっとも嬉しくない。どうせヴァルなんとかってのも、彼女の口からでまかせの名だろう。
というより、背中が痛い。鞭で…いや鞭の痛みだけじゃない。これは。
「アリーシュ、悪いけど、そのGペンしまって下さらない? 邪魔なのよ。鞭で飛ばしてしまうわ」
「そんな事言わないでほしいのだな。吾輩だって少しは任務を全うしたいのだ」
「体のツボを刺激しているだけじゃなくって? ダメよ、もう」
鞭の音と痛みのドサクサにまぎれ、鋭いものを突き刺される痛み。
気がつけば、彼はアリーシュにおさえられながら、背中をチクチクペンで刺されていた。
……地味だ。地味に痛い。
「いてぇ、いてぇって。畜生、お前ら俺で遊ぶんじゃねーよッ」
「口が悪い子ね。もっとお仕置きしなきゃダメかしら」
「うっせぇよ。…っだぁ! いてぇ、うわぁ…助けてぇ!」
「まだ序の口よ。服も破れてないじゃない?」
「いやだあああ! 俺はこういう趣味はないんだ。はなせ、おい離せって」
アリーシュにがっちりつかまり、上半身もとろも腕が動かせないので、足だけひたすら暴れさせるが、そのたびに鞭をあてられる。
しかも、だ。
「ミシェル、どいて」
小さな声が、また後ろから聞こえた。
「いたぶるのは後にして。まず致命傷を与えないと」
「ヒッ」
無理やり首を動かして、見ればそこにいたのは包丁を持った子。綺麗になった刃をかざし、ミシェルを何とかどけようとしている。
しかしミシェルは動かなかった。
「この子は私の獲物よ。渡さないわ」
「でも彼はまだ元気だから逃げるかも」
「逃げれないわよ。アリーシュが押さえているもの」
「彼女に裏切らないって保障は?」
「………」
「即死がダメっていうのなら、それでも…。時間内に死ねるよう、包丁で首に少し切り込みを入れるだけ」
何気に物騒なセリフを吐く。まったく背筋が凍る話だが、しかしそれを聞いて、彼は思った。
――こいつら、一枚岩じゃないんだ。
会話内容からして、さほど互いに協力しあっているように見えない。どうも好き勝手バラバラに『任務』とやらを遂行しているようだ。
三人がせーので襲ってきたら確実に死ねる。が、これなら少し勝ち目はあるかもしれない。
07-トウソウサイカイ
こうしてコッソリと思考をめぐらす彼をよそに、アリーシュが包丁を持った相手に憤慨(ふんがい)したように言った。
「失礼なんだな! 吾輩を何だと思っているのだ」
「ペンを持って男の子を抱きしめている巨乳の女の人」
「そういう外見的なことじゃないんだな。別に裏切ったりはしない。吾輩たちはみな同等の立場なのだ」
「同じ穴に入った、むじなとタヌキとオオカミとキツネ」
「変な表現をするのだな。いいか? だから吾輩は」
「それよりミシェル、本当に…そこを退いて…」
「ちょっと待った。もし今の体制のまま、貴様が彼を刺したら吾輩まで」
「大丈夫。ちゃんと彼だけをや」
「そうじゃない! 血がかかるのが嫌だと言っているのだ」
「あら、アリーシュったら血がイヤなの? 驚いた。それでよく任務がつとまるわね」
「だから吾輩は補佐役で――」
その時、彼をつかんでいたアリーシュの腕が緩んだ。
「よしっ」
今がチャンスとばかりに彼は思いっきり彼女を突き飛ばし、その反動を利用して一番近くにいたミシェルに背中から体当たりをかました。
「あっ」
そして素早く身をかえし、足を振り上げて包丁を持った子に横振りのキックをかます。
彼は格闘技を習った経験はなく、ただテレビなどの「見よう見まね」だったのだが、至近距離で相手が動かなかったこともあり、見事なまでにクリーンヒットした。
蹴られた相手はぶっとばされ、壁際に激突して鈍い音をたてた。流石、手で殴るより足で蹴った方が威力がある。
状況は、一気に彼に有利になったように思えた。…だが。
「チッ。油断したわね」
ミシェルが舌打ちをし、鞭を腰にかけ、代わりに何か、光を反射するものを取り出した。
何だ?と思ったのも束の間、それが何か分かって彼は短く悲鳴をあげた。
「ひっ…」
驚いたことに、それは日本刀だった。ようやく武器らしい武器が出てきた――ではなくって。
本来なら床の間あたりに鞘に入れて置かれてしかるべきものを、彼女はまるで戦国武将のように振りかざす。
「ギャアアアアア!」
鞭よりペンより、そしてひょっとしたら包丁より。
わずかな光を反射して輝く鋭い刃にとてつもない恐怖を感じ、彼は即座に逃げ出した。それを二人の女性は追いかける。
「あ、待つんだな」
「待ちなさい!」
「いーやーだー!」
叫びつつ、恐怖をおして振り返ってみれば、包丁を持っていた子はまだ回復していないらしく追ってこない。
が、いぜん二人の元気な人に追いかけられては劣勢だ。
「ひぃ、ひぃっ」
大人の女性と少年、体力はどっちが上だろうか…普通で考えたら、育ち盛りの彼の方が上である気がしないでもない。
だがさんざん逃げまくり、傷もついている。もう捕まるのも時間の問題だ。
彼はわずかな望みをかけ、腕時計を見てみた。定められた時間は一時間、もしタイムアップしてくれたなら――…
しかし悲しい事に、まだ三十分はゆうにあった。そしてまた酷い事に、彼の目の前に誰かがまた姿を現した。
「!?」
「足音が聞こえたから来てみれば」
このとき、現れたのがせめて自分と同じ試験者だったらどんなに良かっただろう。
見知らぬとはいえ同じ立場、二手に分かれて追手をまくこともできたかもしれない。
が、何とおぞましいことに、その人は前に調理室で会った男、エイリスだった。
「な、な――なんで此処が」
意外な再開に口をぱくぱくさせ、すぐさま逃げ道を探す彼。幸いにも一歩手前に階段があり、そこをひぃひぃ言いながら上がって逃げる。
それをエイリスは追いかけ、ついでに律儀に下から叫んで彼の質問に答えた。
「ははは…驚きました? でもね、バタバタうるさい足音と声ですぐ分かっちゃうんですよ」
と答えはもらったが、しかし疲れ、足音も荒い息の音も消す気力なんてない。
指摘されつつも直せずに、やっぱりばたばた音をたて、必死こいてあがる。
このままいけば、彼はエイリスに捕まえられたかもしれない。だがここで先の二人の女性が間に入った。
「エイリス、ちょっと。そこ邪魔」
「何だミシェルですか」
エイリスが、いささか小馬鹿にした声を出すのが聞こえる。
「彼は渡しませんよ」
「それはこちらのセリフよ。私の前、走らないでくださる?」
「早いもの勝ちです。命令しないでください」
「何言ってるの。彼は私たちが先に追っていたのよ」
「それより前にこっちが追ってました!」
早速いがみあうエイリスとミシェル。彼を追いかけ、階段をのぼりながら言いあいをする。
その後の彼らの応酬はなかなか酷くって、正直子どもに聞かせれる内容ではなかった。悪口雑言とはこのことだったのかもしれない。
何とか止めようとアリーシュが牽制(けんせい)をかけるものの、根っから相性が悪いのか止まらない。
だが、しゃべりながら走るのは体力を使う。徐々に彼らの言葉も少なくなってきた。
「二人とも、本当に…やめるんだ…な。はやく……捕まえ、ないと」
「なんで…すか。アリーシュ。息、切れてます…よ…」
「エイ…リス。あなた…だって、同じよ――…」
ぜぇぜぇと荒い息をはく三人。
一方、逃げる彼はしゃべってないだけ体力に少し余裕があった。
しかし厄介なことに、走っているうちに足の傷が開き、そこから血が出てズボンに染みが出来た。
「やべっ」
まだ垂れてはいないが、これは早いとこ処置をしないと。
歩くたびに床に跡を残すようになると厄介だ。そうなると、どこに逃げてもあとをたどられてしまう。
そんな事を考えながら、しかし傷を診ている余裕などなく、彼はひたすら逃げた。
「ひいぃ…」
運はないが体力はある。わずかな休憩で体力を回復していた彼は、しゃべっている追っ手をぐんぐん――
とはいかないが、ほどほどに引き離し、適当に角をいくつも曲がった。
この建物の詳しい造りを、彼は知らない。知らないが、直線的な逃げ方ではまずかろうと、なるべく分岐の多そうな道を選ぶ。
どうせどこへ行くという目標があるわけじゃない。あっちこっちの角を適当に曲がり、前に行った道を戻ったり。
そしてそれが功をなしたか、彼はなんとか追っ手を撒くことができた。
08-モクテキ
ケガをしてバテている彼は、しかしこうして逃げることができた。まったく不幸中の幸いといえる。
――が、追っ手にしてみればそれは非常に面白くない事だ。
「ああ、もう!」
追うべきエモノを見失い、ミシェルがいささか乱暴に言った。
「見失って……しまい、ましたわ」
「その…ようだ、な」
少年を追いかけていたのはいいが、逃げられてしまい、悔しながらに立ち止まる。
はぁはぁと荒い息をつき、廊下の真ん中でしばし休む。ケガはないが、ひどく息を切らしている。
「まったく…足の早い。さすが、若いだけある」
エイリスが軽く汗を拭きながら言った。
爽やかな汗と言いたいが、実際は人を殺そうと汲々(きゅうきゅう)としてかいた汗なのでどうかというところだ。
「しかし、体力だけで……は、この試験を乗り切ることは出来ないんだな」
アリーシュは膝に手をつきながら言った。
「もし体力だけが問題なら、中年や壮年の人は一発で不合格になるのだ。しかし実際は違う」
「アタマも必要ですからね。それと運。…しかし、体力って言うのなら」
エイリスがじーっとアリーシュの胸を見た。
「そのデカい胸は走るのに邪魔そうですね」
「失礼なんだな! セクハラだ!」
「全くよ。デリカシーのない男ね」
「本当のことを言ったまでです」
二人に文句を言われても、エイリスはけろっとしている。慣れたものだ。
だがふと、懐からフォークを出して溜息をついた。
「しかし、これは殺傷力がなくて困る」
「え?」
「何の話?」
「せっかく当たってもこれだけで試験者が死ぬ事は滅多にないから」
続いて、ミシェルの日本刀をチラリと見た。
「自分は本当はレイピアを使いたいんですけどね。……レイピアって何か分かります? 刺突用の剣ですよ」
「それはご丁寧にどうもなんだな。でも、それなら使えばいいのに」
「フォークみたいにストックが出来ないんですよ。そもそも、自分は体力がありませんので。
本当は追いかけるより、待ち伏せたり、物を投げて攻撃した方がいいんです」
「じゃあさっき、それを投げれば良かったですのに」
ミシェルはツンとして言う。
「何故やりませんでしたの?」
「階段を上ってる最中ですよ。うまく彼に命中すればいいですが、そうでなかった場合跳ね返って、こっちにダメージがきそうじゃないですか」
「あら、そう」
「……しかし、エイリスもアリーシュも怖いのだ」
つっけんどんなミシェルをよそに、アリーシュが壁に寄りかかりながら、ぼそりと言った。
「日本刀に殺人フォークに…よくもまぁそんな残酷なことができるのだな。吾輩にはとても無理なのだ。
せいぜいこのペンでつっつくくらいしか出来ないのだ」
「地味に残酷な気がしますけど。ていうか、何でそんなものを持ち歩いているんですか」
「武器にならないかと思って」
「それならチェーンソーでも持ち歩きなさい。ペンなんて、構えたってあまり怖くありませんよ」
エイリスは淡々と言う。
「思いっきりやってしまえばいいんですよ。構う事はありません。死んだってどうせ生き返るんですから。
試験者には『親善大使様に痛みと苦痛を捧げる』とかナントカ説明していますが、我々の目的は別にある。分かっているでしょう?」
「ええと――」
話をふられ、アリーシュはもごもごと答えた。…どうやら、分かっていない様子だ。
それにエイリスは首をかしげた。
「アリーシュ、貴方、もしかして分からないって言うんじゃないでしょうね」
「そういうわけではないのだ」
いささかバツが悪そうに、彼女は頭をかいた。
「ちゃんと知っているのだ。だけど詳しい事は、その…」
「まさか、忘れたの?」
「……うむ」
「呆れた。ダメですよ! ちゃんと覚えておかなきゃ。いいですか、そもそも、宗教団体っていうのは世を忍ぶ仮の姿で」
「正直、仮の姿がソレってのはどうかと思うけれどね」
ミシェルがぼそりとチャチャを入れる。それをエイリスが軽くにらむ。
「黙っててくださいな。そっちの方が金を搾取するには都合が良いんです。…といっても自分が考えたわけじゃありませんけど。
いいですかアリーシュ。我々は人類のための崇高な研究の補佐をしているんです。
古代からの夢、死者の復活。そしてそれはみごとに成功し、今に至っています。
現在、死体の六割から七割が残っていれば、足りない分をよそから補って再生させることができます。実に画期的(かっきてき)でしょう?」
「うむ。まぁ…」
「でも我々の目的はずっと高い。心臓一個、脳みそひとつ、いや毛髪一本からでさえも、人を蘇らせることが出来ないか。
それを今模索しているところなんですよ。で、上の連中が研究を続けている。そして研究のためには、実験体となる死体がたくさん必要なんです」
そう言ってトントンと、鋭いフォークで壁を叩いて小さな音を出す。ミシェルはその鋭い切っ先を見、己の持つ日本刀をじっと見つめた。
アリーシュは腕組みをしてうーんと唸っている。エイリスはさらに続けた。
「…でも、死体なんてそうそう手に入るもんじゃありません。
もちろん病院にいけば死体は見つかるでしょうが、遺族の承諾うんぬんが必要で面倒です。
第一、この研究はまだ『秘密』なんです。莫大な富と財産を生むかもしれない技術ですから、そうそう明かすわけにはいかない。
となると、病院から死体をさらうのは無理。であれば、その辺の人をさらって殺して実験体にするか?
ま、生き返るんだからそれはそれでいいでしょう」
さりげなく怖い事を言う。
「殺しっぱなしじゃありませんからね。でも記憶がありますから、コレが、問題です。
襲われて殺されて、変なことされたって、後から訴えられると大変なんです。警察に動かれると厄介なんですよ。
勿論脳みそをいじくってある程度は記憶をイジれますが、どうしても完璧じゃない」
「えぇ」
ミシェルが頷く。ケンカばかりしていても、これだけはエイリスに賛同した感じだ。
「ですから宗教団体を模し、それの『テスト』と称して証文をとらせ、協力者を募るんです。
講習をして、そこで承諾させて、サインさせる。となれば文句はいえないはず。
おまけに宗教団体なら、ライバルとなる研究組織からの監視も免れます。大体どこの研究者が、宗教化の言う事を真に受けますか?
いいえ、真に受けないでしょう。おかげでこっちは目をかいくぐれるんです。また副産物として、さっきも言ったように、資金の搾取も出来ますからね」
分かりましたか、とエイリスは言った。アリーシュは返事がわりにふむと唸った。
「しかし、それだけなら何も苦しめることはないのだ」
「そういうわけにはいきません。一応『苦しみと痛みを捧げる』という名目にしてるんですから。
いいですか、試験者に本当のことは言えません。生き返らせてあげるから大人しく殺されろって、誰が『いいよ』って言いますか?
だから面倒でもこういう『試験』をして、殺されるか否かは運次第…ってことにしてるんです。
絶対に殺されるということがないだけ、まだ承諾も得やすいですから」
「いろいろ面倒なんだな」
「――って、人ごとのように言わないで下さい。君だって追っ手でしょうが」
「まぁそうなのだが」
「やれやれ」
エイリスは軽く肩をすくめた。軽く呆れた調子だ。
「とはいえ、私たちは研究をやるわけではありませんもの――あら?」
と、ミシェルが振り向いた。何だと思って見ると…誰もいない。
いないが、足音が聞こえた。コツコツと、微かだが、誰かがこの近くを歩いている。
「誰かいるようよ」
「よし、なら早速行くのだ」
「ふっ…アリーシュ、怖いとかなんとかいって、殺るときはやるんですね」
「しょうがないのだ。だってこれが仕事だし、給料にもさし関わる」
「現実」
こうして三人は哀れな犠牲者を追いかけるために動き出した。
09-アラナワ
「はぁ、はぁ、はぁ――!」
こうして追っ手の三人は休憩がてら喋っていた。が、また別の場所では少年はただ逃げ続けていた。
「ひぃ…」
だが長いこと走っていたせいで息がすっかり切れた。
一人、廊下で荒い息を吐き立ち止まる彼。呼吸するがこんなに苦しいなんて、今まで思ったことがなかった。
と、目の前にあるものをみつけた。
「……?」
ぼんやりとした明かりの下、見るとそれはロープだった。壁にのフックに無造作にひっかけてある。
別に何と言うことはない。しかし、どうしてこんなところに? もしかして罠か。ひっぱると何か怖い仕掛けが下りてくるのか?
と警戒してぐるっと周囲を見てみたが、そんな様子はない。縄はただひっかかっているだけだ。
もしかして、これは武器の一つ? 試験者に使えと言っているのだろうか。
建物に入る前、そんなものの説明は受けていなかった。が、彼はそもそも重要な講義をすっとばして此処に来てしまった。
情報がないのはやはり不利で、これをどうしたものか考えあぐねる。それでも彼は好奇心に勝てず、その縄をひっぱった。
フックからするっと抜けたそれは、彼の手に素直におさまった。
縄をとった瞬間上からギロチン刃が落ちてきて、そこにいる者を切断するとか、あるいは床が跳ね上がって壁になり、彼をその場に閉じ込めるとか、
もしくは縄そのものがうねうね動いて彼の体にからみつくという怪奇現象も起こさない。本当にただのロープである。
また、ロープは荒縄だった。本当に、どこにでもある縄。珍しいことは何一つない。
「ふーん…」
疲れもまだとれぬまま、彼はただそれをいじった。理由は特にない。ただ手持無沙汰にである。
しかしその時、コツ、コツという足音がした。彼は縄を手にしたまま、はっと顔をあげた。
誰かが歩いてくる。音からして、自分に近づいてきている。
彼は怖くなって逃げ出した。出来ればつま先立ちで、足音を消してそーっと走りたいところだが、そうはいかないのでよたよたと、壁に手をついて逃げていく。
「くそっ」
しかし縄が邪魔だ。持ってても足をひっかけるだけなように思えて早速それを捨てようとした。が、既に遅かった。
「さっきはよくも、あの子を使って私を刺そうとしてくれましたねぇ」
目の前には足。そして上からふってくるのは気取った声。前も聞いた、この声の主は――名前は知らないが、メガネの男。
忘れもしない。いちばん初めに、自分に体当たりをブチかましてくれた人だ。
「うっ…」
顔を見上げると、嫌味っぽく笑っている表情が見えた。…それだけならまだ良いのだが、声からして結構怒っているようだ。
これはマズイと逃げようとしたが、そのとき不幸にして足がもつれ、彼はどたりと転がった。
「いてぇっ」
ゆっくり伸びている暇はなくて、彼は慌てて身を反転させて立ち上がった。が、腕をガシッとつかまれた。
「追い詰めましたよ」
「げっ」
振り返ると、自分のすぐ後ろに男の顔があった。彼は後ろから、相手に両腕を拘束されていた。