「逃げようったってそうはいきません。そのボロボロの体で私から逃げれるもんですか。えぇ?」
「……ひぃ」
「さっきのお返しとして、たっぷり可愛がってあげますよ。それはもうこの建物中に悲鳴が響き渡るほどに」
この男の喋り方は、エイリスと似てるといえば似ている。だが雰囲気が違う。高慢だ。
それにイラッとしつつも、しかし彼はまた別のことを考えた。
エイリスしかり、ミシェルしかり、この男しかり、どうして彼らはこうも残酷なんだろう。
追いつめて捕まえるだけでは飽き足らず、不用意に傷つけ傷(いた)めつけ。
こっちは彼らの玩具じゃない。人を何だと思っているんだろう。そもそも、そんな非道なことを躊躇なく出来る神経が信じられない。
だが、これも『ナントカカントカ』という神様仏様を信じているからだろうか。信じる一心でこういうことをやるわけか?
バカバカしい――とはでは言わない。人が何を信じようとそれは勝手だ。が、それで人を傷つけるのはやめてほしいものだ。
そりゃ、自分は書類にサインした。覚えはないけど自分の字で名前を書いていた。が、だからって『限度』というものがあろう。
もしも神様や仏様が本当にいるのなら、彼らにしかるべき天罰を下してほしい。
そんな事を、彼はゴチャゴチャと考えた。それは時間にして二、三秒だっただろうか。
追い詰められて絶望的な状況になった彼の、ほんのわずかな現実逃避だったのかもしれない。
しかしいつまでも逃避は出来ない。彼はぶるっと頭を振り、真面目に「どうしよう」と考えた。
自分は彼に捉えられている。だが男は彼の両腕をつかんでいるので、この状態ではどんな武器も使えない。
男が噛みついてきたら話は別だが、イヌでもあるまいし、まさかそんな…と、思ったのだが。
「ギャッ!」
男の体が動いたのを感じ、とっさに頭を横に向けた。それ幸いで、バクンッと、本当にそういう音が耳元で聞こえた。
「な、何すんだ!」
「噛み殺すんです」
「ふ、ふざけるな。お前はイヌ――あいだだだだぁ!」
言いかけた言葉は途中で悲鳴にかわった。まさかと思ったそれを、相手の男にやられたのだ。後ろ首をガッツリ噛まれ、ギリギリと犬歯をたてられる。
しかし所詮は人の歯と顎、肉食獣でもあるまいし、肉を食いちぎることなど出来ない。が、痛い。
「いでぇ、いでぇよバカ。はなせ、気色悪い。この変態!」
相手はガッチリおさえて離さない。だが気持が悪いのと痛いので彼は暴れに暴れた。
そして、それが功をなした。男の手が緩み、一瞬口が首から外れたのだ。
チャンスを、彼は逃さなかった。すかさず肘でアッパーを相手にかまし、男がひるんだスキに逃げ出した。
が、その時彼は自分の手に縄があるのを見た。何と考える暇はなく、ただ反射的にそれを相手の首にかけた。
「!」
男がびっくりした顔をして、慌てて縄に手をかけた。彼は縄を、男の手ごと引き締めた。
「あ…」
男は何か言いたげだった。が、すぐに首を絞められて何も言えなくなった。代わりに、口から聞こえるのは別の音。
「がッ――げ、ゲッ…!」
苦しそうな声は、息がつまっている何よりの証拠だ。
ヒィヒィと荒い息を吐くのは、今度は彼ではなくこの男。
首を絞められて苦しそうにもがく、それを彼は憐みなどかけらもなく、ただただ全身の力をこめて縄をしめた。
ここで、もし男が縄の内側に手さえかけていなければ、すぐにでも彼に殺されていただろう。
だが不幸中の幸いで両の手が邪魔をし、いまいち完全には絞まらなかった。
「この…!」
それを彼も分かっていて、ますます強く縄を絞める。
「ひ――げ、が……ガッ…!」
男は苦しがってばたばた暴れた。しかし縄はギリギリと首を絞めつけ、息を吸うたびにヒューッという変な音が聞こえる。
「ゲッ……う……ガホッ…」
せき込みつつも、完全にはせき込めない。
立場は一転、男は哀れな姿をさらしたが、彼は容赦をしなかった。
「死ね。いやもっと苦しめ。苦しんで苦しんで死んでいけ!」
「ひッ…あ……げッ…」
手が痛くなるほど縄を絞め、無様に転がる男に、彼は残酷な声をかけ続けた。
「どうした? お前らは苦しみをカミサマホトケサマに捧げるんじゃなかったのか」
「ガ…ゲホッ…ひ……あ……」
「あがいてみろよ。苦しんでみろ。俺は――」
右手で縄の両端を持ち、左手で男の髪を掴んでひっぱる。
両手で引っ張るのに比べて、片手の方がいくぶん力が弱まる。それで息は出来るようになるものの、しかし髪を引っ張られていてはやはり痛い。
男はぜぇぜぇ嘆いたが、彼はその耳元で囁いた。
「今まで痛かったし苦しかったし、そういう思いをしてきたんだよッ! お前らのせいだ」
そして髪から手を放し、ふたたび両手で縄を持った。
「苦しいか? 苦しめよ。たっぷり味わえばいいさ」
10-キガツイタコト
「いッ…ぐ、うぅ…」
相手は苦しそうに息をしている。今にも死にそうだが、彼はそれを許さなかった。
「こらぁ! まだ死ぬのには早いぜ。呼吸しろよ。やめるなよ」
しかもそうやって相手を罵倒しつつ、妙な心地よさを感じていた。
縄を通じて手にビクビクッと、痙攣するような感覚が伝わってくる。それが本当に面白い。
更に、さっきまで自分を恐怖に陥れていた対象を、今度は自分が恐怖させるという逆転。全くなんとも言えない快感だ。
男が苦しめば苦しむほど、彼は悦(よろこ)んだ。
そして当初の目的――といっても、縄をかけたのは半ば無意識だったから正確にはそんなのはないのだが、とにかく相手をもがかせたいと思った。
もがいてもがいて、さんざん苦しめばいい。だが、あまり絞めると相手は声を出せない。
ゲホゲホとむせて苦しそうに呼吸をする姿が見たくて、時々わざと縄を緩めた。そして少し呼吸をさせると、またグッと絞めて苦しめる。
「ほらよ! まだ死なないだろう。もうオワリだなんて言わせんぞ」
ついでに縄の長さを利用し、彼は首を絞めつつ男の腹に片足をかけてじわじわ体重をのせた。
腹部を圧迫されるので、こうすると余計呼吸がしずらくなる。
男はますます酷くあえぎ、体を折り曲げようとしたが、腹を踏まれているので出来ない。
縄をつたって手に伝わる感覚もそうだが、足からは相手の呼吸にあわせて腹が上下するのが伝わってくる。
彼はわざと腹がふくらんだ瞬間を狙って踏みつけた。すると相手はひどくむせこむ。このときは縄を少し緩めて思うようにむせさせ、それが終わるとすぐに絞める。
だがそうしているうちに、男の腹にポトッと何かが垂れた。
「……?」
何だと思ってみてみれば、それは自分の足から出た血だった。足を動かしたので、閉じていた傷口がまた開いてしまったらしい。
それは何てことのない一滴の血だ。おまけに今日は自分の血なんて嫌というほど見ている。だが今のそれは、彼に正気を呼び起させた。
――まずい!
彼は即座に自分の立場を思い出した。と同時に、慌てて男の腹から足をどけ、手から縄を落とした。
こうして改めて見ると、薄明かりの下でもはっきり分かるほど、顔色は蒼白になっていた。
ちゃんと生きてはいるが、もう意識はないようだった。実際、グッタリして目を閉じて何も答えない。
この男は追っ手である。彼の立場からして、殺しておいた方が良い相手だ。そしてそれは許されている行為だろう。
相手がこっちの命を狙ってきた以上、殺りかえしは正当防衛。法律的にも認められるはずだ。
しかし彼には殺人なんて出来なかった。とてもそんな度胸はないし、正直、真っ青になった相手を見て彼自身が真っ青になった。
――俺、何やってたんだ?
全身に震えが来て、彼は男をすっ転がしたまま逃げ出した。よたよたと走りながら、自分がしでかしたことについて考える。
最初、自分は正当防衛のつもりだった。そのために相手の首にロープをかけて…しかし途中からはどうだろう?
「な、何で」
自分は相手を苦しめることを愉しんでいた。その事実に、走りながら彼は思わず頭を抱えた。
これではまるで自分を殺そうとつけ狙う追っ手どもと同じだ。だがまさか、自分が奴らと同類になるとは思ってもなかった。
「もうやだ…」
精神的にも肉体的にも疲労して、彼はがっくりと膝をついた。
まさか自分があんなことをして悦ぶ人間だったなんて。信じたくない。
だがこのまま逃走劇を続けていたら、今までなかったナニカに本当に目覚めてしまいそうだ。そんなの嫌だ。
そうしてフラフラと歩いているうちに、階段についた。彼はそこを降りようとしたが、とたん下から聞こえたバタバタといううるさい音に足を止めた。
「いぃやああああ!」
誰かが悲鳴をあげている。おそらくは…試験者。自分と同じ立場の人間だ。
案の定、女の子が一人ひぃひぃ言いながら登ってきた。必死の形相であがり、そして彼を見て心底驚いた顔をした。
追っ手に挟まれたのかと思ったらしい。彼は「大丈夫だ」という代わりに、スッとふちに避けた。
それを彼女は猛スピードで――今の彼女にとっては、だが――かけぬけ、逃げ去った。
それだけなら別に何てことない。だが追われていたということは必然的に追っ手がいるということ。
案の定、彼は彼女を追っていた追っ手と顔を突き合わせることになった。しかしここで、彼は深いため息をつくことになった。
「またお前らか」
「あっ――君は」
「貴方は」
「おっ?!」
よりによって、追っ手は三人。アリーシュとミシェルとエイリスだった。
せっかく逃げだのにまた彼らに会ってしまったこと。彼はいい加減ウンザリきて、逃げる気力もやや失せた。
アリーシュはともかく、ミシェルとエイリスは仲がよろしくないのだから別々に分かれて行動すればいいのに、だがまぁケンカするほど仲がいいのかもしれない。
だが四人の硬直は束の間、すぐにアリーシュとミシェルをさしおいて、三人の中で一番はやく階段を上っていたエイリスが掴もうとした。
が、その刹那。彼は前を向いたまま、思いっきり足を下に蹴りだした。
「ぎゃ…」
「うわっ」
「い…っあああっ」
確かな手ごたえ――いや足ごたえがし、どたんばたんと人が倒れる音。
チラッと振り返ると、階段の下に三人が転がっていた。
「おぉ、まさかここまで命中するとは」
死んではいないが、多分すぐには起き上がれまい。正直逃げるのも飽きたが、しかし逃げないわけにはいかず彼は彼らの元から離れた。
下に落ちた三人とは逆に、よろよろと階段を登り切る。まだ上への階段があったが、それは無視して今度は廊下を歩きだした。
だが突然、足にひどい痛みを感じた。
「あ、あれ?」
立てなくなり、よろよろと壁によりかかる。おかしいなと思いつつ、どうしても足が動かない。
「ちょ、待て…」
しゃがんで己の足を触ってみると、どうも筋肉が硬直しているようだ。
つったのとはまた違う。奇妙な事に彼は心の中で首をかしげつつ、しかしこの状態に変に納得した。
何せこの一時間――正確には三十分か四十分だが、この間今までにないくらいずーっと走りずめ。
ケガもあわせて、体中、痛くないところがない。普通に呼吸しているだけでも体がきしむ。
「あう…ぅ」
情けなくも、廊下をじたばたと転がる。と、誰かの足が見えた。
「うわッ」
あの三人はまだ起き上がってこないはずだし、ということは他の誰か、追っ手か――……
だが、その足の主は彼をひっぱり起こした。
11-タスケテクレタヒト
「大丈夫? 立てる?」
「……え?」
「あなた、追われていたんじゃない?」
声からして、足の主は女性のようだ。一体、誰。
「ひどい状態ね。私がかくまってあげる。きて。一緒に話をしましょう」
「……」
「肩を貸してあげるわ」
と優しく言ってくれるが、彼女は何だ…敵か、味方か?
だがここにきて、疲労のため意識が半分近く飛んでいた彼にはろくに確認できなかった。
ただ柔らかいぬくもりを感じつつ、彼は彼女にその体を運ばれた。
+++
どうやら、途中で完全に意識を失っていたようだった。目が覚めると、彼はふんわりとした毛布にくるまって部屋の隅に寝かされていた。
「……?」
此処は、もとは他と同じように教室であったのだろう。だが床はきれいに掃除され、壁にはカレンダーやその他絵などが飾られてある。色々と飾り付けがされていて、ぱっと見ではそれと思えない。
さらに中央にはコタツに隅にはテレビ、ベッドまである。後ろにある備え付けのロッカーは物入れだ。本やぬいぐるみ、その他衣類などが入れられている。
この部屋全体から、生活感が感じられた。誰かが此処にずーっと住んでいるのだろうか。
廃校となり、今やヘンな団体の「血の惨劇をともなう試験所」となっているこの場所に?
……試験所。
それを思ったとたん、彼はいきなりバクバクしてきた心臓を服の上から手で押さえた。
死ぬ。殺される。本当に…本当に!
「うわあああああ!」
「静かに。声をあげたら危ないわ」
「あ゛あァ…」
「大丈夫、大丈夫よ」
やさしい声と手が彼を慰めてくれる。その温かさを感じて、彼ははぁはぁと、荒い息をはきつつ何とか感情を抑えた。
「私は柯月(かげつ)っていうの」
彼を優しく包みつつ、彼女は言った。
「心配しなくていいわ。あなたは? 名前はなんて言うの?」
がその時、扉の向こうからドンドンという激しい音が聞こえ、彼は返事より先に身を震わせた。
「今、悲鳴みたいな声が聞こえたぞ。そこに誰かいるのだな? 出てくるのだ!」
「何この扉。鍵をかけるなんて、まぁ図々しいわね。いいわ、蹴破って――…」
「破れますかね? きっとそう簡単にはいきませんよ」
アリーシュ、ミシェル、エイリスだ。前に彼が階段に突き飛ばした三人だ。
もう珍しくも何ともないが、しかしこのタイミングとは。
「ヒッ」
彼は頭を抱えて丸まった。もし此処で彼らが一斉になだれ込んできたら、絶対に自分は殺される。
ミシェルとエイリスなんて、仲が悪いんだから何もつるまなくてもいいのに…しかし、仲がよかろうが悪かろうか、彼らには共通の目的がある。それは、一人の罪なき少年を本気で殺ろうとしていることだ。
「来ないでよ。来たら承知しないわよ」
彼のかわりに柯月が答えた。
「ここには私がいるの」
「ああ、柯月ですね。え? でもどうして」
エイリスの声だ。
「上のプレートを見てよ。ここ、私の部屋よ」
「えぇ? あぁ本当だ。…って、またひきこもっていたんですか? ちょっと。君、自分の役目を分かっていますか?」
「そうなのだ。我々は試験者を追い、あわよくば殺すのが任務なのだ。それを貴様、いつもサボって」
アリーシュも口をはさむ。
「さっきも声が聞こえたのだ。きっと少年がこの近くにいるのだ。見かけなかったか?」
「知らないわ。それと、サボってなんかいない。私は体力使って追いかけるより、待ち伏せする方が性に合うの」
「知らない? 本当なのだな? じゃあ、此処には誰も来ていないのか?」
「知らない」
柯月はあくまで言った。
「さぁ。もう用がないなら出てってよ。邪魔なの。あなた達がいて、戸口でわめいてたら、警戒されて本当に誰も来なくなっちゃうじゃない。
出てって。さもなきゃ、いくらあなた達でもタダじゃ済まさないわよ」
「おぉ、怖」
エイリスの茶化し気味な声。だが確かに、扉の前から人が動く気配がした。
「あーあ、いい気なもんだ。吾輩なんて原稿の締め切りが近いのにこれに参加しているというのに」
「原稿? 何よそれ。貴方マンガでも描いていらして?」
「おや、よく分かったのだな。実はそうなのだ。吾輩は――」
「アリーシュ、ミシェル。しゃべるなら小声にして下さい。柯月が言ったでしょう、声を聞かれたら試験者が逃げてしまうでしょう」
「そんなの今更だわ」
「でも一理あるのだな。それじゃ、ここからはまた別れて探そうなのだ」
「別れるも何も、私は最初からそのつもりでしたわ。アリーシュはともかく、エイリスが勝手に――」
「失礼な! だいたいね、君が不甲斐ないからこうなるですよ」
「階段を突き飛ばされたのはどこの誰よ。全く、人をクッションがわりにして。覚えてらっしゃい」
「まだ言ってるんですか。だから、あれは彼が……」
そんな会話をしつつ、三人の声は遠ざかっていく。やがて足音も、声も、一切聞こえなくなった。
「もう大丈夫よ」
扉に耳を付けて音を確認し、柯月は彼の方をむいて言った。毛布をかぶって小さくなっている彼に近づき、そっと毛布をとる。
こうして毛布をとられた彼の目に、まっさきに飛び込んできたのは白い箱。
「しばらく使ってなかったから探したわ。でもようやく見つけた…あなた、怪我をしてるのよね。見せて」
彼女は優しく腕をとり、彼が前に包丁で切られた個所と、フォークを刺された個所を見た。
「手当をしてあげるわ」
そう言って箱をあけ、取りだすのは消毒液に脱脂綿。薬、包帯、ピンセット。
「腕を出して。ああ、あと足もね」
言われるがまま、彼は大人しく腕を出した。柯月はそでをめくり、傷を見てそっと手当を行う。
ケガをしている人に対して傷の手当。それは別に普通のことだったかもしれない。
しかし今、この状況下においては実に不思議なことだ。手当をしてもらいつつ、彼はじっとそれを考えていた。
あの三人に追われ、逃げ、反撃はしたが疲労で動けなくなって。
そこを彼女――柯月が手を差し伸べて助けてくれた。だが、彼女は自分と同じ「試験者」ではないようだ。
この部屋に『すんでる』と言っていたし、あの三人と同等に喋れる立場でいる。ということは追っ手なのだろう。
であれば、本来なら試験者を殺すべき立場の人間である。なのに…どうして?
疑問符を頭に浮かべつつ、彼はあらためて彼女をよく見た。ゆっくり見れば、柯月は先のエイリス達と年は大差なかった。
しかし丈が長めのキャミソールを軽く着こんだだけの恰好で、正直、露出がけっこう高い。
先のアリーシュやミシェルほど胸は大きくないが、いや…しかし……
「……」
あまり彼女の体を見ないようにしつつ、彼はしかし、つとめて冷静に考えた。
このシビアな状況下、いくら相手が優しくっても、少しでも怪しいと思ったら逃げる。本当は、すぐにもそうしたかった。
今ケガを診る彼女の手を払いのけ、ダッシュで飛び出すこともできただろう。
だがずーっと逃げ続けていて、彼の体力はもう限界に近かった。今走って逃げたところで、柯月が追いかけてきたらすぐに捕まる。
それより、少し休んでから逃げ出した方が逃げきれる確率が高そうだ。それにケガの手当をしてくれるのは有難い。
見たところ物騒な武器はなさそうだし、相手は女性。何とかなる。
12-アヤマチ
そんな事をしばらく考えつつ、漫然と時計を見る彼。早く、一刻も早く時間が過ぎてほしい。
「これで大丈夫」
だが実際は一秒一秒が過ぎるのは長く、そうこうしているうちに手当の方が先に終わった。
「……ありがとう」
傷には綺麗に包帯が巻かれていた。それに少しだけ、この包帯にへんな毒でもかかっているのではと思った。が、これといった痛みはない。
「お前はここにずっといるのか?」
具合を確かめつつ、彼は聞いた。
「やけに私物があるけれど」
「ええ、そうよ。私はずっと此処にいるの」
柯月は半ばオウム返しに答えた。
「此処にはね、私の好きなものがたくさんあるの。此処は私の部屋なのよ」
「そう」
適当な返事をし、また腕時計を見る。まだあと十二分はある。
自分の役目は、あくまで一時間逃げ回ること。だが一時間後に、どこに行かなければならないという規則はない。
ということは、このまま彼女は何もしてこなければ――否。
その時、遅れながら彼はハッと気がついた。彼女が追っ手である以上、この期間内に絶対に何かをしてくるはずだ。
ならばその前に逃げ出すべきだ。もう手当は終わったし、わずかの時間だったが、休んで意識も体力もしっかりしてきた。
本当はもう少しゆっくりしたかった……が、潮時だ。早急に彼女のそばから立ち去らないと。
「手当をしてくれてありがとう。でも、俺行くよ」
早口で言いつつ、彼は体をおこした。
「もう行かなきゃ」
「え? どこに?」
「部屋の外さ、もちろん」
だが彼女は彼の腕をつかんだ。
「だめよ」
短く言い、立ち上がろうとした彼を手を押さえる。
「まだ傷が治ってないのに。だめ、ぜったいだめ」
「ありがと。うん、でももう大丈夫だから。手当をしてもらったし」
礼を言いつつ、自分をつかむ彼女に彼はいよいよ危ない匂いを感じた。腕を抑えられて――このままでは思うように動けない。
つかまれる手をふり払おうともがきつつ、口だけは普通に彼は言った。
「あまり世話はかけられない」
「そんな事ないわ。ずっといて。お願い、此処にいてよ」
「……いっ」
その時、ぎゅうっと――本当に「痛いほど」強く腕を握られ、彼は顔をしかめた。
「私をおいて出ていくって言うの?」
彼をがっちりと自分の傍に固定して、柯月は続ける。
「私と一緒にいるの、嫌かしら?」
「お前のことは嫌いじゃないよ。でも、しょうがないじゃないか」
「どうして。あなたはこの部屋に来たんでしょう。なら、もう出る必要なんてないじゃない。外には追っ手がいるけれど、此処にいれば安全よ」
「…あのさ」
しつこく食い下がる柯月に、いよいよ思い切って彼は言った。
「悪いが俺は騙(だま)されんよ。お前だって追っ手だろ。先の三人と同じように、俺を殺そうとしているんだろ。
弱ったところを連れてきて、引っ張り込んで、それで殺す気なんだろう? …すぐに殺さなかったことだけは感謝しておく。でも、どっちにしたって俺、死ぬ気はないんだ」
「………」
「俺は逃げさせてもらう。もうだいぶ休めたし」
「ひどい」
柯月は軽く体を震わせた。顔を片手で覆い、泣く寸前までいっている様子。
「……」
そして、それを見て彼は正直かわいそうと思った。彼とて人の子、女性が泣きそうになっているところをみると胸が痛む。
が、ダメだ。今は同情なんてしていられない。
「悪いな!」
思いっきり、というよりむしろ「乱暴に」腕を振り払い、ダッと彼は走りだした。が、数歩もいかぬうちにガクンッと引き戻された。
「――え?」
「許さない」
一度は確かに離れたのだが、また柯月に腕をつかまれていた。見れば彼女はうつむいたまま、彼の左手首を締めつけていた。
「もう一回だけ、聞くわ」
うつむいているので、彼からは柯月の表情はよく見えない。そうして表情を伏せて、彼女は言った。
「私が何もしないと言っても、あなたは出ていくの?」
「何もしないって、嘘だろ。恩知らずで悪いけど、どうせ…」
「出ていくの? いかないの? どっち?!」
「出ていく」
「そう」
彼女は短く答えた。
それは言葉だけ聞けば、許可をしたようにも思えたかもしれない。が、実際はますます彼の左手をつよく握りしめていた。
……そして。
「でも、あなたは此処にいなきゃならないのよ」
「ひぃ」
そう言う彼女の右手の中、握られていたのはナイフだった。ギラッと光る刃物は彼にしっかりと向けられ、全く微動だにしていなかった。
「ど、どこからそれを?!」
「いなくなるなんて許せないわ」
「チッ」
舌打ちをする彼。
「お前、やっぱり狙ってたんだな! 最初から俺を殺すつもりでそんなの」
そんなのを用意して――と、言おうとした彼は、しかし言葉を最後まで言う事が出来なかった。
「ギゃああアアぁ!」
代わりに、今までのどれよりも変な声をあげて悶絶(もんぜつ)した。
腕を伸ばした彼女に、ナイフで背中を刺されたのだ。腹部でないのが不幸中の幸いか、だが背中とて痛くないわけではない。
しかも骨が邪魔したせいで深くは刺さらず、それは中途半端に彼を傷つけただけだった。
柯月が少し手を緩めると、ナイフは彼の体から簡単に抜けてぽとりと落ちた。
「うぅ、うあああああ……」
流れる血をおさえ、彼はもう矢も楯もとまらず、つかまれていた手を振りほどいた。
彼女は簡単に手を離したが、彼はもう立つこともままならず、四つん這いと二本足の中間のような、変な格好をとって逃げようとする。
「逃がさないわ!」
そして改めて、彼の腕を柯月はぐっと掴み、容赦なく背中にナイフを刺した。
「が…ギャ――!」
「あなたが悪いのよ。私から逃げようとするから」
「お、お前ぇ…うぅ……」
「そんな事言わなければ、私はあなたを刺さなかった。絶対よ」
彼女は淡々と言う。
「私たちはね、試験者を殺すと報酬が貰えるの。でも私、そんなのどうでもいいの。
ただあなたと一緒にいたかったのよ。この部屋に唯一来てくれた、あなたを試験に合格させて、入団してもらって――…それで」
彼が痛みにわめくのも構わず、ナイフを刺しては抜く動作を繰り返す柯月。その様子は正直、今まであったどんな追っ手よりも恐ろしかった。
「あなたのこと、私は何も知らない。いま会ったばかりで、あなたも私のことは何も知らないわよね。
でも、それでもいいの。あなたは私のところに来てくれた。誰も私のところになんて来てくれないのに……
私ね、実はずっと待っていたの。私にこたえてこの部屋の中にきてくれる試験者の人のこと。
今までは、誰も私のところになんて来てくれなかった。もちろん私が追っ手だからかもしれないけれど、だけどあなたは来てくれた」
「ギャあああ――あぅ、あ……!」
「なのに、あなたは出て行くって言った。わたしにはそれが許せないのよ。せっかく…せっかく一緒にいれると思ったのに。
どうして? どうしてなの? わたしはあなたを傷つける気なんてなかったのに。
あなたが悪いの。あなたがこうさせたのよ!!」
「ギャああああああああ――!」
血だらけになって悶(もだ)えつつ、彼は彼女の地雷を踏んでしまった事にようやく分かった。
本人が言うように、互いに互いのことなんて何も知らない。ただ、彼女は寂しがっているらしいという事は分かった。
もしかしたら、今この教団の中で彼女は仲間外れか何か、そんな状態でいるのかもしれない。
だから新しく来るであろう人に求めをかけた。友達になってくれるなら、相手がたとえ獲物であっても構わない、と……。
思うに、彼女の心にはとても痛々しい愛が満ちている。しかし彼には、心の痛みなんてどうでも良かった。
そんな事より一番問題なのは、彼自身の体の痛みだ。ただ体中を突き刺す痛みが酷くなっていくのと同時に、意識がだんだんなくなっていくのを感じていた。
もうすぐ、死んでしまう。
話によく聞く、「走馬灯のように」思い出が頭の中を駆け巡る。
が、なぜか直近(ちょっきん)の痛い目にあったことばかりが映像として流れていた。
家族のこと、学校のこと、もっと小さい頃の思い出、楽しかったこと。そういうことは何故か出てこない。
痛い痛いと思っているからだろうか? ああ、そう…それに、思えば自分がここに来たのだって、家族と学校に絶望したからだ。
楽しい思い出だって、むろんあった。けれど今の自分には、それらを打ち消すほどマイナス要素が強い。
何で、どうして、自分の何が悪いんだ――…。
13-カレハ死ンデモオワレナイ
硬い物の上に、薄い毛布が敷かれている。そこに横たっているような感触が…
痛みはない。ただうぃーんという、唸るような低い音がする。機械の音だ。
彼はぱちっと目を開けてみた。そのとたん、一人の男と目があった。
「ああ、目が覚めたんですね」
「……う?」
相手は、前に会って説明や案内をしてくれた人だった。デシャヴな感覚にボーッとしつつ、彼ははっと気がつき、慌てて自分の体をまさぐった。
「ケガなんてしていませんよ。ぜんぶ治りました」
自分の体をきょろきょろと見る彼に、男は言う。
「アナタは生き返ったんですよぉ」
「生き返っただと? バカな、だって俺」
と言いかけて、あれっと思う。
そうだ。自分は確か死んだはずだ。さんざん人に追い回され、傷つけられ、柯月という女に救われたと思ったら殺された。
でも今、こうして生きている。ということは死ななかったのか? もしかして病院に運ばれて、一命をとりとめたのだろうか。
だがそれにしては妙だ。男は言うように、体にはまったく傷がない。あんなに痛かった腕の傷も、足の傷も、ぜんぶない。
包帯をまかれた様子はおろか、傷そのものが消えてないのだ。こんなことって??
ふと、彼は自分がいま乗っている台を見た。
「これは」
合金だろうか、いかにも機械らしい無機質な材質。その上に薄い茶色の毛布が敷かれている。
そして、頭の上をみれば半円状の透明なカバー。カバーは彼がのっている台とつながっていて、どうも開け閉めが自由にできるらしかった。
「さ、降りてください。カバーを閉めます」
意味が分からないまま、ただ指示に従って彼が大人しく降りると、男は横の赤いレバーを引いた。上にかかっているカバーが音もなく、おりて閉じる。
「何だ、これは」
「死者再生装置ですよ。ほら、下に投入口があるでしょう? そこに死体を入れれば、機械が蘇らせてくれるんです」
「は? いや、嘘だろそんなの」
「いいえ、本当です。…この機械のメカニズム、簡単な説明をアナタは受け、納得し、試験を受けたはずですけどねぇ」
「へ?」
また例の『講習』の時の話か。だがそれを、彼は聞いていなかったんだから分かるはずもない。
「いや、だっておかしいだろ」
ムチャクチャなことをさも当然のように言う男に対し、彼は今一度食い下がった。
「こんな物があったら、この世の誰も死なないじゃないか」
「そうでもありません。頭をやられた人は生き返りませんねぇ。…正確には、生きかえっても記憶がすっとんで元の人格を保持できない可能性がある。
あと、若返るのは無理です。だから寿命で死んだ人をこの機械に入れても再生しません」
「…………」
「おっと、そういえば」
ふと、男は『思い出した!』というように声をあげた。
「アナタ、講習をろくに聞いてなかったんでしたっけ。……なら、そりゃ分かりませんよねぇ」
「?」
「僕は開発者ではないので、詳しい説明は出来ませんけども」
突っ立っている彼をよそん、男はあちこち回って機械の具合を確かめ、言う。
「ただ、例の講習に沿って説明しますと、この機械。ベニクラゲというクラゲの生態メカニズムと能力をもとに開発されたものなんです」
「くらげ?」
「ええ。…言っておきますけど、おとぎ話じゃありませんよ。ベニクラゲっていうのはね、実在する生き物ですが、死なないんです。天敵に捕食などされない限り」
「そんなのが」
「疑う気持ちは分かりますが、ちゃんといるんですよぉ? そういう生物。まぁ詳しいことは後で調べてみなさいな。図鑑にも載ってます」
あっさりと男は言う。
「で、この機械はそれを元に開発されたんですが、まぁ上手くいかないもんでして。
本物のクラゲは、不老不死というより『若返る』んです。でもこの機械は人を若返らせることは出来ない。
だからクラゲにかこつけるのは、本当は間違っているんですけれど…
でも実在のものを引き合いに出して言った方が人を納得させやすいから、そういう風に説明しているんです」
「うさんくさい」
失礼は承知だったが、彼はハッキリ声に出して言った。
いや、実際のところはその言葉では表現不足だ。うさんくさいというか…くさすぎる。
だが男は気を悪くするでもなく、彼の言葉に「さも当然だ」というように頷いて続けた。
「確かに。『説明だ』と言っておきながら、実際はクラゲにかこつけてごまかしていますからね。うさんくさいことこの上ありません。