「あぁ……」
ますます彼の鼻息は荒くなり、手の動きがどんどん激しくなっていく。
「あん……」
「おい」
「そんなに激し……え?」
「貴様……なんのつもりだこれは」
キサマ? 鏡越しに円城寺くんを見ると、びっくりするほど顔を真っ赤にしていた。
「ど、どうしたの?」
「なにが詰まってるんだ。シリコンか? ヒアルロン酸か? 脂肪注入か?」
ばれた。やばい。
「お、おっぱいのこと? まさか、天然だよ。あはは……」
「しらばっくれるな! この僕にごまかしはきかないぞ。まがい物だ、これは。詰め物をするなんて……乳房を冒涜しているのか貴様。こんなモノには、なんの価値もない。僕をなめてるのか? ええ?」
これから円城寺くんが舐めるんじゃないの? 冗談めかして言ってみようかと思ったけれど、彼の様子からしてそんな軽口をたたける雰囲気じゃなかった。
「こんなモノのために僕は今まで……。ふざけやがって。よくも僕の貴重な時間を無駄にしてくれたな。僕がこの世でもっとも不愉快に思うことがなにかわかるか? 時間を無駄にさせられることだよ。死ね。お前にもう用はない」
円城寺くんはわたしの髪をつかみ、後ろに思いきり引き倒した。背後の壁に後頭部を強く打ちつけて、わたしはその場にうずくまった。
「いったあ……」
あまりのことに唖然としていると、わたしの顔をめがけて、円城寺くんの蹴りが飛んできた。反射的に頭をかかえこむ姿勢を取ったものの、腕の上からものすごい衝撃を受けて、わたしは床に倒れこんだ。
わけがわからなかった。こういうプレイなのだろうか……? 円城寺くんってドS? 見上げると、円城寺くんは悪魔のような顔をしていた。
「お、お、落ちついて円城寺くん!」
「死ぬんだよ、お前は」
彼はまたしてもわたしの髪をつかみ、そのまま引きずるようにして浴室へ向かった。
「来い。今すぐ処分してやる」
「いたたたた……」
乱暴に開けられたドアから浴室に入ると、つんと鼻をつくにおいがした。生ごみのような、さびた鉄のような、胸がむかむかするにおいだ。
見ると、なにやらうす汚れた浴室だった。床にも壁にも赤いカビのようなものが生えていて、妙に年期が入っているような気がした。どこもかしこもピカピカの円城寺邸にそぐわない場所のような――
そこでわたしはピンときた。
このにおいは血だ。間違いない。わたしはこのにおいを知っている。
このままでは取り返しのつかないことになると直感したわたしは、すぐさま行動に移した。後ろから彼の股のあいだに手を入れて、そこにあるものを力いっぱい握りしめた。
「えいっ!」
おう、というくぐもった声を漏らし、円城寺くんはわたしの髪から手を離した。そのすきを逃さず、両手で彼を思いきり突き飛ばすやいなや、わたしは身をひるがえして浴室を飛びだした。
背後から、獣の雄たけびのような声が聞こえた。
もつれる足を懸命に動かし、わたしは廊下を走りぬけた。リビングに駆けこみ、ソファに置いてあったポーチを手にしたところで、わたしはミスを犯したことに気づいた。
あのまま廊下を突っ切って玄関から外に逃げるべきだったのだ。裸同然の格好でも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
リビングを出て玄関に向かうべきか――
「ゥオオオイッ!」
般若みたいな顔をした素っ裸の円城寺くんが、リビングの入り口に立ちはだかった。
「ひ、ひえ……」
わたしはテラスに向かった。そして走りながら咄嗟にひらめいた。テラスの柵を越えて外に逃げればいい――。
無我夢中で柵までたどり着き、手すりに足をかけて乗り越えようとすると、向こう側の地面が見えなかった。
「えええ……?」
身を乗りだして下を見ると、テラスは切り岸の上にあり、飛び降りて無事でいられるような高さじゃなかった。
振り返ると、円城寺くんは今まさにテラスに出ようとしている。
とにかく彼から離れたい一心で、わたしはテラスの端へと走った。
熱帯魚の部屋――もうそこしか逃げ道はない。
でも、ドアの鍵が開いているとはかぎらない。
「ていうか、開いてる気がしないんですけど!」
すがりつくように、わたしはドアノブをつかんだ。
――開いた。
転がるようにして中に入り、やみくもに走りながら別の出口を探すものの、どこにも見当たらない。
部屋の突きあたりまできて振り返ると、入り口に円城寺くんのシルエットがあらわれた。
「袋のネズミだ」
心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動していた。
両側の壁にはすき間なく水槽が並び、ブラックライトの青い光が部屋全体を満たしている。ブーンという空調の低くうなる音が響いていた。
なんとか逃げだす糸口は見つからないかと部屋を見回すと、水槽の中に奇妙なものが浮かんでいることに気づいた。
熱帯魚にしては大きく、どの水槽にも同じものが入っている。
おっぱいに似たなにか――というより、おっぱいそのものに見えた。
★8 円城寺
「逃げられないよ、もう」
慎重に距離を詰めながら、女の様子を窺った。
下着一枚、肩に下げたポーチ、凶器になるような物は持ちあわせていないが、断じて注意は怠らない。
女は僕を警戒しながらも、水槽の中身に気を取られているようで、ちらちらと視線を動かしている。
「この部屋に入った人間はお前が初めてだよ」
逃げ場を失った女は、壁際でうさぎのように震えている。
「円城寺くん……これって本物のおっぱい?」
「当たり前だろう。偽物を並べて何の意味があるんだ。ここは僕のコレクションルームさ」
実のところ、誰かに見せたくて仕方がなかった。衆目に晒されることがコレクションの本質であり、これほどの“モノ”が誰に認められることなく埋もれ続けるというのは余りに忍びない。だから今、こうして誰かの目に触れることに愉悦さえ覚えた。たとえそれが、これから死にゆく者であっても。
「見てくれ、この乳房たちを。美しいと思わないか? 神が算出した奇跡の曲線、論理を超越した神秘の形質、至高のアートだよ。ホルマリン溶液の中で半永久的に生き続けるんだ」
女との距離はあと二メートル。
「生きてる女の子から切り取ったってこと……? あのバスルームで?」
「本当はそうしたいんだが、何かと面倒なことが多くてね。已むなく、殺してからオペすることにしてるよ。お前もその予定だったが、まんまと騙された。許さないよ」
そこで突然、眩暈のようなものを感じた。
視界が定まらない。空間が歪んでいる。
僕は目を細めて意識を集中する。
目の前に、女の足先がある。
床が波打っている。
僕は倒れている。床に這いつくばっている。
何故だ。
「あ、効いてきたっぽいね……」
女が何か言っている。
「円城寺くん、ずっとピンピンしてるから、量が足りなかったのかと思ったよ!」
女の言葉は明瞭に聞き取れるが、話の道筋が見えてこない。
「ワインにね、こっそりおクスリ混ぜといたの。円城寺くんがチーズケーキ切ってるとき」
「……」
クスリ? 盛られたのか、僕は。しかし何のために……?
僕は立ち上がろうとした。
が、脚は全くいうことをきかなかった。上体を起こそうにも、腕に力が入らない。
気を抜くと、意識が遠のいていきそうになる。
「でもさ、ビックリしちゃったよ」
目だけを動かし、女を見た。
「円城寺くんも、わたしと同じだったんだね。やっぱり運命の人だよ」
なおも要領を得ない話を続けながら、女は水槽の中を眺めている。
「わたしもね、ちょっとしたコレクターなんだよねぇ。だから円城寺くんの気持ち、よくわかるよ」
女は傍らに屈み込むと、腹這いになった僕の体をひっくり返して、仰向けにした。
不自然に形の整った乳房が目に入り、思い出したように忌々しさが込み上げてくる。
女は、肩にぶら下げたポーチの中に手を突っ込んだ。
「好きな人の一部を切り取ってぇ、自分のそばに置いておきたいっていう気持ち、すごくよくわかるよ」
女がポーチから手を引き抜くと、やたらと大きなハサミが握られていた。
ブラックライトの青い光を受け、二枚の刃が鈍く光った。
「円城寺くんの“モノ”はどうしても欲しかったんだ……。だって初恋の人だもんっ」
何を言っているのか。
頭のいかれた女なのかもしれない。
「色んな男の子からたくさんゲットしたけど、円城寺くんの“モノ”はわたしにとって特別だから」
リビングから音楽が聴こえる。
ボヘミア風奇想曲だ。
スヴェトラーノフは右手を振りかざし、銀髪を振り乱しながら頻りにオーケストラを煽動している。
陽気なメロディ、小気味よいテンポ、華やかで奔放な管弦楽曲。
しかし何故だろう。
これほどまでに僕の不安を煽るのは。
女は僕の☆☆☆をつまみ、ハサミをあてがった。
「そうそう、円城寺くんに一つ質問です」
逆光で女の顔が見えない。
「小松千世子って子、覚えてる?」
「……知らん」
パツンッ。
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