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最近、たまに見る夢がある。
『ごめん、ごめんっ……喬兄(たかにい)、ごめ…ん……』
まだ幼さの残る端整な顔を真っ赤に火照らせて、あいつが謝っている。ごめん、ごめんと何度も何度も。
その必死さを訝りながらも、俺は笑って受け流した。実際、何をそんなに謝っているのかよく分からなかった。
『ごめん、喬兄……俺……』
うん、もういいよ、奏(かなで)。もう怒ってないから。もう謝らなくていいから、だから―――
「ん………由紀恵、いま何時………」
いつもの朝、いつもの気怠さ、いつもの習慣。三島喬允(みしま?たかみつ)は瞼の薄い皮膚を透して朝日を感じながら、寝起きのかすれた声で妻に呼びかけた。
しかし、返ってくるのは無人の空間が発するひりひりした静寂。それに圧された喬允はようやく目を開け、自嘲混じりに呟いた。
「そうか、独りだったな……」
その呟きに導かれるようにのそりと起き上がり、ベッドの端に腰を掛けて深く項垂れる。春はそこまで来ているはずなのに、フローリングの床から足裏を突き刺すような冷気が上がってくる。
「本当に……独りなんだなあ……」
『ほらぼーっとしてないで早く着替えて』
『宙美(そらみ)の前でだらしない格好してないでよ』
『新聞はちゃんと畳んでおいてっていつも言ってるでしょ』
口には出さないが、うるさいなと思っていた妻の言葉。しかし今はただ懐かしい。
あの頃に戻りたいのかと問われれば、すぐに答えを返すことはできない。“幸せな結婚生活”というものがどんな実体を持つものなのか、そもそもそれが本当に存在するのかも分からないけれど、五年も経たぬうちに終わりを迎えた自分の結婚生活が、他人に羨まれるような類いのものではなかったことは自覚している。
それでもやはり、こうして独りになると当時のことをあれこれ思い出しては感傷に浸ってしまう。喬允はのそりと腰を上げて棚の上に手を伸ばし、男の一人暮らしには不似合いなものを取り出した。
アンパンマンのイラストが描かれた赤いボール。それを両手で弄びながら、独り追憶に耽った。
『あなたと別れます』―――三カ月前のある夜、仕事から帰った喬允に妻の由紀恵は揺るぎない口調で宣告して、署名捺印済みの書類を差し出した。
そう、それはまさに宣告だった。“別れたい”でも“別れてください”でもなく、“別れます”。由紀恵にとって、自分の意志や言葉は絶対なのだ。
仕事で疲れ切っていたこともあり、喬允は力ない声で理由を質すしかできなかった。由紀恵は『価値観の違い』と人を食ったような答えを返してきたが、それはある意味当然の答えでもあった。
浮気をするわけでもない、暴力を振るうわけでもない。人並み以上の稼ぎはあったし、女性特有の際限ない物欲をそこそこ満たしてやることもできた。それ以外に答えようがなかったというのが実情だろう。
そんな現状で、ただ一つ思い付くことといえば仕事の忙しさだった。喬允は出水(いずみ)製薬という内資の大手製薬会社に勤務するMR(Medical Representative)、つまり一般企業で言うところの営業担当者で、毎日の病院回りはもちろん、夜は接待で朝帰りということも多かったのだ。
妻の由紀恵は、入社したばかりの喬允が当時担当していた大手クリニックの院長の娘で、MRの仕事内容にも精通していた。だから夜の接待が多いことも、それが自社製品売り込みのためにどれほど重要であるかも知っているはずだった。
しかし知っているのと受け入れるのはまた別なのだろう。特に子供が生まれてからはすれ違いの毎日で、徐々に存在感を増してゆく亀裂の修復もできぬまま、決定的な断絶を迎えることとなった。
喬允は、仕事ばかりで家庭を顧みなかったことを謝罪し、これからは育児も家事も手伝って、よき夫、よき父親であるよう努めるからと言って何とか思い留まらせようとした。
しかし彼女の態度は変わらず、全ての言葉は険しい沈黙で跳ね返された。それでも喬允は諦めず、医師相手の接待で培った嗅覚を頼りに、妻が何を求めているか探ろうとした。
すると彼女は何かを察知したのか、キッと見上げて「そういうところがイヤなの」と一喝。結局、彼女の父親から「君には本当に申し訳ない」と何度も頭を下げられては、受け入れざるを得なかった。
結果、気抜けするほどすんなりと離婚は成立。娘の親権を争うこともできたが、母親の許にいた方が娘も幸せだろうと自分を宥め、親権以外でも妻側が提示した条件をほとんどそのまま呑んだ。これが、自分が妻のためにしてあげられる最後のことだと思って。
こうして、三島喬允は独りになった。二十八歳になったばかりの、冬だった。
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「なぁにが臨床データの中間報告だっ。話ったってゴルフ自慢しかしてないじゃないか。あのボンクラ医師」
その夜。すでに午前0時を回っていたが、繁華街は若者やサラリーマンを中心に賑わっていた。その雑踏の中を、喬允はぶつぶつ呟きながら一人で歩いていた。
ふと、ブランドショップのウインドウに視線を移す。そこに映し出された自分は、顔色といい歩き方といい、明らかにただの酔っ払いだった。
元々アルコールには余り強くなかった上、今日の接待相手はかなりの酒豪で、しかも自分と同じペースを周囲に強要するという厄介なタイプだった。
必然、杯を空けるスピードも早くなったが、現場では神経を使っているせいか酔いを頭の隅に追いやることができた。その反動が今になって襲ってきたというわけだ。
「人の金で高い酒が飲みたいだけのくせに……」
今日の相手は、某大手総合病院の外科医。新薬の臨床データを収集してもらっており、その中間報告と今後のスケジュールの打ち合わせ、ということになっていた。
喬允の担当外の病院だったが、その医師は大勢で騒ぐのが好きだということで、急遽招集されたのだ。
元々接待好きで有名な医師で、今回も中間報告は表向きの理由。実際は食って飲んで大騒ぎがしたかっただけだと、もちろん喬允も分かっている。こうした付き合いの積み重ねが、新薬の採用に繋がるということも。
しかし接待終了後、一人で家路を辿っていると、どうしようもない虚しさが込み上げてくるのも事実だった。
いつだったか、医局で鉢合わせした中堅製薬会社のMRに、嫌味たっぷりに「大手さんはいいですねえ」と言われたことがある。「僕らは勉強、勉強の毎日ですよ」と。
つまり、多額の交際費を使える大手は派手な接待で医師を落とせるから羨ましい、自分たちは地道に勉強会やPR活動を重ねるしかないから、ということだ。
そのMRがどういうつもりで言ったのか真相は分からないが、喬允はそれこそがMRの本来の姿だと思っていた。
学生の頃抱いていた理想が、必ずしも社会で通用しないということは分かっている。しかしだからといって、“こんなものさ”と自分を誤魔化して流され、いつしかそういった理想を持っていたことすら忘れてしまうような自分でいいのだろうか。
己の『信念』を、いやそんな高尚なものではなく、己の『欲望』を心の奥底に沈めて蓋をしたまま、それを踏み付けつつ取り澄ました顔で平穏な“日常”を生きる、そんな自分で本当に幸せなのだろうか………
「やだッ、やめてよ、何すんのよ!」
取り留めのない独白で飽和状態だった頭が、切羽詰まった悲鳴で一気に冴え渡った。それは明らかに若い女性の声で、攻撃的な鋭さを持ってはいたが、芯には濃厚な怯えが感じられた。
誰が発しているかはすぐに分かった。前方の曲り角の辺りで、若い女性が男に腕を掴まれている。その傍らにはもう一人別の男性らしき姿もあったが、暗がりに沈んで顔はよく見えなかった。
「だから何度も言ったでしょっ、新しい男ができたって。あんたが信じないから、約束通り会わせたじゃない。これ以上どうしろって言うのよ!」
どうやら腕を掴んでいる男は昔の恋人で、もう一人の顔がよく見えない男が現在の恋人らしい。それにしては、現在の恋人が彼女を守ろうともせず、まるで傍観者のように突っ立っているのが不思議だったが。
「もともとあんたのことなんて大して好きじゃなかったのっ。なのにあんまりしつこいから付き合ってやったんじゃない。それを調子に乗って―――」
ああ、駄目だ、それ以上相手を刺激したら何をされるか分からないぞ―――喬允が胸奥で叫ぶとほぼ同時に、男が腕を掴んだままもう片方の手を振り上げた。女性の甲高い悲鳴が通りに響き渡る。
「やめろ!」
喬允は大声を張り上げて駆け付け、男の手を背後から掴んだ。そしてそのままぎりぎりと捩じ上げたが、酔っているせいかいつもの半分ほどの力しか出せない。
「なんだよてめえ」
男は陰湿な凶暴性も露わに低い声で威嚇し、次の瞬間、喬允の腹に一発入れた。喬允は小さく呻いてよろめいたが、普段から鍛えている腹筋は頑強だった。
大したダメージを受けることなくすぐに反撃に出る。素早いストロークで、お返しとばかりに鳩尾へ拳をめり込ませた。
やはり酔いのせいか破壊力は弱かったが、急所は的確に捉えていたようで、男は苦痛に顔を歪めつつ「覚えてろよ」とお決まりの捨て台詞を吐いて逃げ出した。
「待てっ」
喬允はほとんど反射的に後を追おうとしたが、どうやら酔いは足にもきていたらしい。数歩駆け出したところで敷石に躓き、先刻見せた優雅且つ敏捷な動きは幻だったのではと疑いたくなるほど無様に豪快に転倒した。
ゴンッという鈍い音が頭蓋に響くのを、喬允はまるで他人事のように聞いた。そしてそのまま意識が闇に溶け出す寸前、
「喬兄っ、喬兄っ―――――」
とても懐かしい声を聞いた、ような気がした。
<2>
『喬兄、喬兄……』
あ、やっぱりあの声だ。ひどく懐かしいと同時に、何故か胸が詰まる。
『喬兄、大丈夫……?』
ん、大丈夫だ。ちょっと待ってくれ。今すぐ目を開けるから。今、すぐ―――
そして目を開けると、喬允の視界いっぱいに途轍もなく美しい顔をした男がいた。
「喬兄、大丈夫?」
「え? あ、ああ…………お前、もしかして奏?」
「もしかしなくても奏だけど」
ちょっと呆れたようにそう言って肩を竦める美青年は、真野奏(まの?かなで)。喬允より二つ年下の幼馴染みで、よく一緒に遊んだというだけではなく、小学校、中学、高校、大学と同じ学校に通うなど、幼馴染みというより親友に近かった。
喬允は、中学は地元の公立校に通ったが、高校は私立の超難関進学校に入学。さらに大学は、国内でもトップの偏差値を誇る有名国立大学に現役合格した。
そして二つ下の奏は、まるで喬允が敷いたレール上を辿るように同じ高校、同じ大学に進んだ。『喬兄と同じ学校に行きたくて、一生懸命勉強したんだ』。そう言って照れくさそうに笑う奏は可愛かったし、ここまで慕われて悪い気持ちはしない。
奏は小さい頃から頭脳明晰で、同じ学校に合格するのに自分ほど努力しなくて済んだだろうと分かってはいたが、喬允は『よく頑張ったな』と褒めて温かく迎え、学校でも先輩として何かと世話を焼いた。
しかし、そんな二人の微笑ましい関係は、喬允が大学四年の冬に決定的な破局を迎えた。奏の“裏切り”によって。
それからは修復のきっかけすらなく、喬允は翌年の春に卒業。就職と同時に実家を出たこともあり、奏との音信は全く途絶えてしまった。
あれから六年。時間の経過とは偉大なもので、今、喬允の中には何のわだかまりもなかった。あるのは、久しぶりの邂逅を素直に喜ぶ気持ちと、懐かしさと、くすぐったいような驚き。
元々線の細い美少年だった奏だが、今喬允の前にいる奏は、惚れ惚れするほどの男前。自分にとってはあっという間だった六年という歳月の重みを、喬允は今さらながら噛み締めた。
「そうか……そうだよな。あれから六年も経ってるんだ……」
喬允の呟きに、奏は僅かに身じろいだ。そして素っ気ない口調で、
「ああ、そう。もうそんなに経つんだ」
そう言って、長めの前髪を懶げに掻き上げる。その何気ない仕草も、指の隙間からさらりとこぼれる琥珀色の髪も、前髪の向こうで煌めく貴石のような瞳も、白皙の肌にかかる睫毛の蒼い影も、絶妙の角度を誇る鼻梁も、ただひたすら美しい。
体つきはすらっとして細身で、猫族の優雅さと敏捷さが感じられたが、決して女っぽくはない。しかし男性的な凛々しさの中に女性的な艶かしさが混在しており、それが曰く言い難い独特の魅力を醸しているのは確かだった。
昔より表情の変化に乏しく、六年ぶりの再会にも喬允ほど感動している風でもなかったが、その無機質さも彼の結晶めいた容姿を際立たせていた。
喬允は苦笑を浮かべ、
「お互いまだ昔を懐かしむ年じゃないけどな。でも俺は懐かしいよ、奏」
その声は、自分でも驚くほど甘く優しく響いた。奏と共に過ごした日々の記憶は、やはり自分にとって大切なものなのだとあらためて気付かされた瞬間だった。
もちろん奏に同じ気持ちを強要するつもりはない。だから奏が無言のままそっと視線を外しても気にせず、喬允はゆっくりと起き上がった。
服は昨日のままだが、ネクタイは外されシャツのボタンも二つほど開けられていた。喬允は深く息をつき、
「色々訊きたいことはあるけど、まずはあらためて。久しぶりだな、奏」
色褪せつつあった懐かしい思い出に呼び掛けるようにそう言って、喬允はすっと右手を差し出した。奏はほんの一瞬だけ躊躇を見せたものの、黙ってその手を握った。
この固い握手が切れた絆を再び繋ぐことになるのだろうかと喬允が思いを巡らせていると、奏はまた視線を外し、それでも手はしっかり握ったまま「コーヒー入れてくる」とぼそっと告げた。
喬允が「悪いな」と言って手を離すと、奏はどこかぎこちなさの感じられる動きで立ち上がり、キッチンに向かったのだった。
「ああああ~~~、なんだよ、ったく………」
キッチンに移動した奏はシンクの前でしゃがみ込み、頭を抱えて言葉にならぬ心からの叫びを絞り出した。
まるで百メートル全力疾走した直後みたいに心臓はばくばく鳴って、必要以上の血液を送り出す。そのせいで顔から耳まで紅く染まり、今にも炎を吹き上げそうだった。
先刻の喬允との対面時にこの激情を抑えられたのは、奇跡としか言いようがない。奏は暫ししゃがみ込んだまま悶々としていたが、やがてのっそり起き上がって苦い溜め息をついた。
「久しぶりだな、か……」
喬允のあの様子だと、この六年の間自分のことなんてほとんど思い出さなかったに違いない。六年ぶりに逢えた懐かしい幼馴染み、程度の認識だろう。
そんな喬允に理解できるはずがない。今、突然の邂逅に自分がどれほど動揺しているか。ベッドに寝かせてネクタイとシャツのボタンを外す時、手の震えを抑えるのにどれほど難儀したか。
端整な寝顔に口づけたいという欲求を我慢するのに、どれほどの精神力を動員せねばならなかったか。
「なんで……今さら現れるんだよ……」
六年前のあの日、全て失ったはずだった。灰色の雪景色に消えてゆく寛い背中。その隣に自分が寄り添うことは決してあり得ないという鉄の現実を突き付けられ、絶望しつつもどこか安堵している自分がいた。
ああ、これでラクになれる。心神を灼き尽くす嫉妬の苦しみ、その嫉妬を必死に隠さねばならぬ辛さから解放される。最愛の人とキスもセックスもできない惨めな人生に、見切りをつけることができる―――
その時、奏は知ったのだ。希望の残酷さと、絶望の優しさを。
その後の奏は、まさに箍が外れたような人生を送ってきた。失うものはもはや何もない。目的もない。その場その場の刹那的な快楽原則に従って、目先の獲物をさらりと味わうだけ。
寒気がするほどの自由。どう生きようが、何を貪ろうが、誰を裏切ろうが関係ない。咎める“自分”はいなかった。
他人から見たら刺激的な生き方かもしれないが、主体である自分は恐ろしいほど冷めていた。こんな無味乾燥な人生をこれからもずっと続けていくのかとうんざりしていたところに、突然彼は飛び込んできたのだ。
「落ち着け、落ち着け、俺………」
激しい動揺を抑えるには余りに弱々しい声だったが、奏は繰り返し呟いた。そして己に言い聞かせる。再会したからって何かが始まるわけでもない。あの人はもうとっくに他の女性のものなのだ。過度な期待を持つな。身のほどを弁えろ。あの人にとって自分は、その他大勢より半歩ほど近しい存在に過ぎないのだ。
まだ鼓動は乱れていたけれど、目を合わせて世間話をできるほどには落ち着いてきた。奏はふっと息をつき、喬允の温もりを留めて熱く火照る右手をじっと見つめた。
甘い磁力に引き寄せられるように唇を近づけ、手のひらに恭しく口づけて温もりを写し取ると、かくんと肩を落としてコーヒーを淹れ始めた。
「ここは、お前の部屋だよな?」
「ああ、そうだよ。俺の部屋」
喬允は「ふぅん」と感心したように鼻を鳴らして、辺りをきょろきょろと見回した。極端に物が少なくて殺風景な部屋だが、置いてある家具はどれもさりげない個性を主張しており、高級そうだった。
喬允はコーヒーをひと口すすると、自分の額に貼られたガーゼを指差して、
「これ、お前が手当てしてくれたのか?」
「ん? いや、俺じゃない。一応医者に診せた。軽い脳震盪だから心配ないって。なかなか目を覚まさなかったのは、そのせいというより酔ってたからだな」
喬允は面目ないと言わんばかりに肩を竦めて、
「なんか迷惑掛けたな。お前が一人でここへ運んで、医者を呼んでくれたのか?」
「はは、さすがにそれは厳しいよ。知り合いに手伝ってもらった。それにしても驚いたな。いきなり駆け寄って男をぶっ飛ばしたと思ったら、敷石に躓いて転倒して、そのまま意識失うし。喬兄、ゆうべは相当酔ってただろ」
「あ、ああ………まあ、な。その、接待でけっこう飲まされたから。それより奏、彼女の傍にいてあげなくていいのか? 昨夜あんなことがあって、相当ショック受けてるんじゃないか?」
「彼女?……………ああ、」
奏は不審げに眉根を寄せたが、すぐに合点がいったのか冷めた口調で、
「彼女じゃない」
「え? 彼女がいわゆる元カレと話を付けるのに同行したんじゃ……」
「それは確かにそうなんだけど、俺は仕事として同行しただけなんだ」
「仕事?」
意味不明とばかりに眉をひそめる喬允に、奏は淡々と説明を続けた。
「そう、仕事。なんでも屋っていうか、便利屋っていうか。まあ呼び方はどうでもいいんだけど、そんなヤクザな仕事を一人で気ままにやってる」
「便利屋っていうと……壊れた戸を直したり、庭の木を切ったり、犬の散歩を代行したり、じゃないのか?」
喬允の素朴すぎる疑問に、奏は淡い笑みをこぼし、
「喬兄らしい発想だね」
その言葉に喬允はちょっとむっとして、
「なんだよ、お前。また俺をバカにして」
すると奏は哀しげに目を伏せ、静かに首を振った。
「バカになんかしてない。それに“また”って言うけど、俺はこれまで喬兄をバカにしたことなんて一度もない」
伏せた睫毛が微かに震えるのを見て、喬允は狼狽えた。
「あ、いや、その………」
もしかして泣いているのかもしれないとおそるおそる顔を覗き込もうとしたが、それに先んじて奏が顔を上げた。もちろん、その瞳に涙はなかった。
「まあ、そういういかにも町の便利屋さん、みたいな依頼もないわけじゃないけど、大概断ってるな。そんなの俺じゃなくても誰だってできるし、労働時間の割に大した報酬も期待できないし」
「でも、得るものって金だけじゃないだろ? 依頼人からの感謝とか……」
「そういう考え方、やっぱり喬兄らしいな。でも残念ながら俺が引き受けるのはその手の牧歌的な依頼じゃなくて、もっと複雑で現代的なものだ。例えば恋人や妻と穏便に別れたいから誘惑してくれ、とか」
喬允は苦い笑いとともに溜め息をついた。
「穏便に別れたい、か。最近の男が言いそうなことだ。確かに現代的な仕事だな」
「だろ? あとはそうだな……演説の代筆。守秘義務があるから固有名は出せないけど、某新興宗教の教祖様が信者の前で語る有難いお説教は、全部俺が書いたものだ。ああ、ブログの代筆もやってる」
「ブログの代筆? そんなの需要があるのか?」
「もちろんある。最近はキャバクラ嬢が販促の一環としてブログをやってる。そこで、いかにも男受けしそうな可愛い失敗談とか、日々のちょっとした悩みなんかを公開してるんだけど、忙しい彼女らがちまちま書いてる暇なんてない」
「で、そういう男受けしそうな可愛い日記を、お前が書いてる、と」
些かげんなりした様子の喬允を、奏はどこか楽しげに眺めつつ言葉を続けた。
<3>
「もっと現代の世相を反映した、親の代わりに授業参観に出席するっていう仕事もある」
奏の説明に、喬允は「へえ」と意外そうな声で返した。これまでの仕事内容より、かなりまともなものに思えたからだ。
「親は仕事で忙しくて出席できないから、その代わりにお前が行くわけか」
「いや、仕事で行けないんじゃない。子供が来るなって拒むんだよ。頭が薄くて腹が出ててくたびれきったオヤジなんかに来られたら、友達にバカにされる、恥ずかしい、だから来るな、ってね。
でも親としては、子供の授業風景を知りたい。そこで俺に依頼が来る。俺は地味なスーツを着て保護者然として授業参観に出席し、その様子を詳細にレポートにまとめて提出する。親はそれを読んで安心する」
喬允はぽかんと口を開けて聞き入っている。まさに開いた口が塞がらない状態だ。奏は薄い笑いを浮かべて、
「喬兄、これが現代の人間関係なんだよ」
しかし喬允は険しい表情で首を振り、
「違う、そんなのは間違ってる。そんなの親子でもないし友達でもない。相手の顔色を窺って、波風立てないように、面倒な衝突が起きないようにとそればかりに心を砕いて―――」
力強い調子で始まった反論は途中で失速し、沈黙の中に吸収されていった。突然黙り込んだ喬允を、奏は不審げに見返し、
「喬兄? どうしたんだ?」
「あ、いや……なんでもない……」
相手の顔色を窺って、面倒な衝突を避けるため言いたいことも言わず、本心も明かさず、微温い繋がりで満足する―――
「は、はは………」
喬允は感情のこもらぬ乾いた笑いを漏らし、喉の奥で呟いた。まるで、由紀恵に対する俺の態度そのものじゃないか。
いや、由紀恵に対してだけじゃない。何年か後、思春期を迎えた娘に同じことを、パパみたいなオヤジは友達に見られたくないから授業参観に来ないでと言われたらきっと、渦巻く感情を押し殺して情けない笑顔を浮かべ、『分かったよ』と答えるのだろう。そして奏みたいな何でも屋に、俺の代わりに出席してくれと頭を下げるのだろう。
父親らしく断固たる拒絶を返して娘の身勝手を糾したら、それまで慎重に慎重に築き上げてきた絆が壊れてしまう。それが怖くて。
本当は、そんなもの絆でも何でもないのに。
「ま、幸せな結婚をして温かい家庭を築いている喬兄には、縁のない世界の話だろうけど」
奏の言葉によって、喬允は重苦しいモノローグの世界から帰還した。まだ思考の余韻を引きずっているのか、ふわふわと首を振り、
「あ、いや、俺はその、実は………」
「分かってるよ、喬兄みたいに真っ当な人生を歩んできた人間から見たら、俺のしてることなんて怪しい裏稼業と大差ないだろ?」
「そ、そんなことはない! 俺の仕事だって、内実はかなり怪しいものだ。お前のことをどうこう言えるような、大層なことはしていないさ」
自分の言葉に謙遜を通り越して卑屈さを感じた喬允は、カップに残ったコーヒーを一気にあおってばつの悪さを誤魔化した。そして空気を変えるため、作為的な笑顔を見せ、
「話が飛んだな。つまり、昨夜の女性は恋人ではなく依頼人というわけか」
「そう。昔付き合ってた男に復縁を迫られていて、新しい男ができたって言っても信じようとしない。かといって、恋人には心配かけるから本当のことを言いたくない。だから俺に恋人の振りをして彼に会ってくれというのが、依頼の内容」
「なるほどな。で、あれから二人はどうなったんだ? あの男はちゃんと彼女のことを諦めたのか?」
「さあ、知らない。そこまでフォローはしていない。俺の仕事は、彼女の恋人としてあの男に会うだけだから」
だから、あの場で彼女が暴力を振るわれそうになっても傍観していたのか。喬允は半分は納得したものの、感情的に受け入れ難いものもまだ胸奥に残っていた。
奏はそれを敏感に察知したのか、
「何か言いたいことがありそうだね」
「ん? いや……」
「俺は趣味で人助けしてるわけじゃない。あのテの仕事で一番難しくて気を使うのは、依頼人との距離感なんだ。その境遇に共感し過ぎてもいけない。客観性を保ちつつ、己のやるべきことだけに集中する」
「精神科医みたいなこと言うんだな」
「はは、確かにカウンセリング的な側面はあるかもしれないな。まあ、あの女も付き合ってた時男に対して相当酷いことしてきたみたいだから、お互い様だろ」
「お互い様、か……」
確かに奏の言う通りかもしれない。喬允には精神科医の知り合いも多かったが、親身になって患者の話に耳を傾ける人情系の医師の方が、機械的に処方箋を書く医師より患者とのトラブルが発生する率が高い。親身な態度が、過度の依存を招くのだ。特に患者が女性の場合、恋愛感情を持たれるケースが多いという。
精神科医ではないが、奏のような超絶男前は尚更、そういったリスクを考えてより慎重に対応せねばなるまい。
喬允はそんなことを考えつつ、奏をじっと見つめた。すると奏はふいと顔を背け、「何?」とつっけんどんに問う。その顔が仄かに赤らんでいるのを不思議に思いながら、
「いや、お前は相変わらず……いい男だなと思って」
『格好いい』はミーハーぽいし、『男前』は何だか面映い。『綺麗』は男性に使う言葉ではないような気がする。
男性の容姿を褒める数少ない語彙の中から漸う選んだ在り来たりな表現だったが、奏は予想以上に激しい反応を示した。顔から首まで紅潮させ、視線をあちこちに彷徨わせる。
再会当初の、昔より表情の変化に乏しいという印象はすでに消えかかっていた。やがて奏は顔を背けたまま、蚊の鳴くような声で、
「何言ってんだよ。喬兄の方がずっとずっと……いい男だ」
「はは、まさか。まあタッパはあるけど、俺なんて十人並みさ」
「そんなことない」
奏はようやく顔を正面に戻して喬允を見つめ、
「喬兄は昔も今も変わらず格好いいし、綺麗だ。暴力を振るわれそうになった見ず知らずの女性を、損得考えず助けようとする男なんてそういない。事実、あの時周りにいた人間の反応は、無関心か遠巻きの好奇心のどちらかだった。俺も含めて。なのに喬兄は―――」
「違う、そうじゃない。正義感とかそんなものじゃないんだ。俺はただ……自分の中でバランスを取ろうとしただけだ」
「バランス?」
喬允は頷いて、言葉を整理するためいったん口を閉じた。そして、
「俺は今、製薬会社でMR、医薬情報担当者というのをやっている。早い話が営業マンだ。ただ、扱っている物が物だけに、他業種と比べて高い倫理観が要求される。患者のため、医療の発展のために自分も勉強をして、医師との信頼関係を築いた上で、自社製品のメリットを説明して売り込む、そういう仕事だと思っていた。
なのに、現実はある意味もっとシンプルだった。接待でどれだけ金を使ったか、どれだけ医師を気持ちよくさせたか。それがイコール、新薬の採用に繋がるんだよ」
腹の底にずしりと抱えていた腐敗寸前の塊を、少しずつ吐き出してゆく。そんな喬允を、奏は黙って見守る。
「患者のため? 倫理観? とんでもない。多くのMRは自社製品のシェアを広げることしか頭にない。倫理観の欠如は医師だって同じだ。豪華な接待で“落とされた”医者は、MRの言いなり。いや、こっちが何も言わなくても、せっせと適応外処方をして処方量を増やしてくれる医師もいる。『倍使っても副作用出ないよね?』『試しに風邪の患者にも使ってみようか』。奏、お前はこんな医者に命を預けられるか?」
次々と溢れ出る言葉に翻弄されつつあった喬允は、目の前で静かに耳を傾けている奏の柔らかな眼差しに触れ、ようやく自分を取り戻した。
「……下らない愚痴を聞かせたな。悪かった。つまり昨夜の俺は……そういう医者相手の接待で、飲みたくもない酒を飲んで、聞きたくもないゴルフ自慢に相槌を打って、先生、今後もうちの製品をよろしくお願いしますよ、と愛想笑いを振りまいていたんだ。そんな汚い自分を帳消しにしたくて、本能的にああいう正義漢ぶった行動に出ただけだ」
長々と喋った疲れを滲ませて、喬允はふぅっと溜め息をつき、
「結局俺は、自分が可愛いだけ。どこにでもいる卑怯な大人の一人だ」
すると奏はゆったりと首を振り、
「卑怯な大人は、そんな風に自分を責めたり煩悶したりしない。喬兄はまだ理想を捨ててはいないんだろ?」
「理想……」
「そう、その、MRとしてのあるべき姿。それを完全に捨ててないからこそ、そうやって悩むんだ。ああ、やっぱり喬兄は変わってない。喬兄は昔から、自分の信念に従って真直ぐ生きたいという欲望と、それを妨害する現実との間で葛藤してきた。そうだろ?」
喬允は心の中では肯定しつつ、曖昧に濁した。
「結局、いつも楽な方に流れてきたけどな」
嫌な言い方だが、その通りだから仕方がない。信念を貫くだけの意志力もないくせに、きっぱり捨て去ることもできず未練がましくしがみついたまま、周囲に流される。
仕事だけではない。夫婦関係もそうだった。妻には色々と言いたいことも要望もあったが、それを口にして空気が険悪になるくらいだったら、相手の好きにさせておいた方が楽だった。彼女が何を求めているのか、何を欲しているのか察して、それを叶えてやるのが愛情表現だと自分を誤魔化して。
この営業体質、接待体質には我ながらうんざりする。まあ、取引相手の娘をもらってしまったのだから、この関係性は最初から決まっていたとも言えるだろうが。
その時、膝の上に置いた喬允の手に、奏の手がそろそろと伸びてきた。骨ばった自分の手とは対照的なしなやかな指先が、濃厚なためらいを滲ませながらもそっと触れた。そして、その仕草に相応しい遠慮がちな声で、
「それに、喬兄の“正義感”のお陰で、俺たちもこうして再会できたんじゃないか」
絞り出すようにそう言って、ふいと顔を背ける。その耳も頬も、先刻にも増して紅く色づいていた。喬允は苦笑を浮かべ、
「奏、お前真っ赤だぞ。自分で言って自分で照れるなよ。なんかこっちまで照れてくる」
奏は慌てて手を引っ込め、顔を隠すようにくるりと背を向けた。喬允は笑みを留めたまま、端麗な背中に語り掛ける。
「そういや偶然て凄いよな。俺ちょうど、お前の夢を見たばかりなんだ」
その言葉に弾かれるように、奏の背中がぴくりと動いた。そしてゆっくり振り返り、
「俺の……夢? 喬兄が、俺の夢を見たって?」
「ああ。お前が顔を今みたいに真っ赤にして、必死に謝る夢だ。ごめん、喬兄ごめんって何度も繰り返して。あれって確か、俺たちが小学生か……いや、中学の時だったかな、実際にあったことだよな。お前、覚えてるか?」
「………いや、記憶にないけど」
素っ気ない答えを返しつつ、落ち着かない様子で視線を彷徨わせる奏。しかし喬允はそんな奏の不審な挙動も気にせず、腕を組んで、
「そうか……。う~~ん、俺の思い違いかな。いや、そんなことないな。確かな記憶だ。あの時のお前の表情が余りに辛そうだったから、よく覚えてる。だから夢になって出てきたんだろうな。お前と会わなくなってからも、たまに見ることがあったんだ」
「ほん…とに?」
「ああ。夢を見てすぐこうして出逢うなんて、不思議な縁だよな……って、奏? どうした?」
赤い顔のままいきなり立ち上がった奏は、「何でもない」と冷たく返すと、そのまま急ぎ足で部屋を出て行った。
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あれ以上あの場にいたら、後先考えない行動に出ていただろう。奏は文字通り逃げるように喬允の前を離れ、再びキッチンに“避難”してきた。
「俺のことなんて……忘れてると思ってた……」
奏はぽそりと呟いた。しかしその声が喜びで微かに浮ついているのを感じ、小さく頭を振る。勝手に膨張しつつある『期待感』という名の魔物を払うために。そして自分に言い聞かせる。
そう、こんなの大したことじゃない。子供の頃の情景の一つとして、あの人の頭に残っていた記憶の断片が、夢となって現れただけのことだ。
だいいち、あの人は気付いてもいないじゃないか。何故、俺があの時せき立てられるように何度も謝ったのか―――
『ごめん、喬兄、ごめんっ……』
喬允に質された時は『記憶にない』と答えたが、もちろん奏は覚えていた。
あれは奏が中学に入ってすぐのこと。喬允は三年生だった。二人で近くの河原へ花見に行き、桜の枝を揺らしたり川魚を追い掛けたりはしゃぎ回った後、疲れたから少し昼寝しようと言って柔らかな草の上に並んで身を横たえた。
暫くすると喬允は寝息をたて始めたが、奏はとても眠れるような精神状態ではなかった。その頃はすでに喬允への恋心を自覚しており、喬允の彼女に対する胸を抉るような嫉妬の苦しみも経験していたのだ。
奏は隣で眠る喬允の上に覆いかぶさり、小声で何度か名前を呼んだ。しかし起きる気配がないと見ると、さらなる葛藤に襲われた。