「いや、その……つい言いそびれてしまって」
「はあああ~~~、なんだよもぉぉ………」
情けない声を上げて傍らのソファにどさりと腰を落とす奏。その大仰な驚きぶりを喬允は苦笑を浮かべて眺め、
「そんな驚くことじゃないだろ。統計では一日平均何組の夫婦が離婚してるんだっけ? ま、珍しいことじゃないさ」
「それはそうだけど……。喬兄みたいに完璧な夫と離婚が結び付かないんだよ」
奏の返答に、喬允の苦笑はさらに深まった。
「完璧な夫って、お前、俺と結婚したことあるのか?」
ふざけた問いにもかかわらず、奏は深刻な口調で、
「男同士で結婚できるはずないだろ」
真面目に返されてしまい、喬允は困ったように笑ってごまかした。そして、
「お茶の用意をしてくるよ。適当に寛いでいてくれ」
「他の部屋とか見てもいい?」<7>
奏がリビングに戻ると、コーヒーの香りと喬允の笑顔が迎えてくれた。
「面白いものなんてなかっただろ?」
「うん。女性の影が皆無なのはちょっと意外だったな」
喬允は呆れたと言わんばかりに肩を竦め、
「当たり前だろ。まだ離婚して三カ月だぞ。ていうか、お前どこを見てるんだよ」
「だってさ、やっぱり気を使うよ。それにまだ三カ月じゃなくてもう三カ月だろ。あれからMRについてちょっと調べたんだけど、合コンの誘いがすごく多い職業なんだって? 特にナースに人気とか」
喬允は「はは」と乾いた笑いを漏らし、
「女性がセッティングしてくれるケースが多いのは確かだけどな。人気というほどでもないさ。それに俺は地味だから、そういう華やかな場には―――」
「喬兄は地味じゃなくて品がいいんだよ。だから下品な女には近寄り難い存在なんだ」
奏は怒ったように遮って、コーヒーカップに口を付けた。湯気の向こうでしんなりとたわむ睫毛を眺めつつ、喬允は口に出さず呟く。そう言うお前こそ、近寄り難い存在感を放っているじゃないか。容姿だけでなく、仕草も佇まいも磨き抜かれた洗練さを湛えている。
「……お前の彼女は大変だろうな」
ぽつりとこぼれた言葉に、奏は眉をぴくと吊り上げて「それどういう意味?」と質す。喬允は「い、いや…」と口ごもった挙げ句、
「お前が綺麗すぎるから、釣り合うようにしなきゃって女性なら思うんじゃないかと」
それは喬允の本音だった。しかし奏はカチャンと音を立ててカップを置き、喬允をじろりと睨んで、
「喬兄はすぐそうやって誤魔化そうとするんだ」
「心外だな。誤魔化してなんかないぞ。本当にそう思っている」
喬允がわずかに身を乗り出して強調すると、奏は黙って横を向いた。その頬から首筋が、みるみるうちに色づいてゆく。喬允は思わず目を細め、
「奏、赤くなってるぞ」
優しく声を掛けて頬をちょんとつついた。すると奏はびくっと身体を震わせ、何故か恨めしげに喬允を見つめた。喬允は笑みを返し、
「お前、変わってないなあ。昔から、いきなり触られるの苦手だよな。こっちの予想以上に驚くもんな。もしかして、過敏症か?」
奏は横を向いたまま、「そんなんじゃない」と不貞腐れたように答える。そのむくれた顔付きやいささか子供っぽい口調に、喬允の記憶は刺激された。
幼い頃、喬允のちょっとした言葉に奏はよく膨れた。年齢の割には大人びて、同級生からはもちろん教師からも一目置かれていた奏が、唯一自分だけには年相応の甘えた仕草を見せてくれるのが、妙に嬉しくて誇らしかった。
そんな淡い思い出のかけらが、記憶の襞からはらはらと落ちてくる。しかし甘い懐古に浸っていた喬允を、奏の容赦ない問いが現実に引き戻した。
「そんなことより、なんで奥さんと別れちゃったんだよ。喬兄、浮気した?」
真正面から訊ねられ、喬允は「はは」と力ない笑い声を上げた。そして、
「浮気なんてしてない。訊かれる前に答えとくけど、暴力もない。生活費もきちんと入れてた。まあつまりは……」
「性格の不一致、てやつ?」
「うーん、どうだろうな。それを言ってしまうと、あいつと俺は最初から全く合わなかった。趣味も性格も。あいつは派手で自尊心が強くて自由奔放。周囲に流されず自分を貫くタイプだ。まあ、俺にないものを持っていたからこそ、逆に惹かれたんだと思う」
奏はじっと耳を傾けていたが、やがて喬允を見据えて、
「喬兄の奥さんて、確か大手クリニックの院長の娘だったよな。自分を貫くと言えば聞こえはいいけど、単に周囲が彼女の我がままを許していただけじゃないのか?」
「はは、手厳しいな。確かに、何でも自分の思い通りにならないと気の済まないところはあった。今回の離婚も、かなり一方的だったからな。『別れてください』じゃなく、いきなり『別れます』だった」
言ってしまってから、喬允は自分に驚いた。ここまで赤裸々に話すつもりはなかったのだ。やはり旧友、幼馴染みということで、そうとは意識せぬまま自然と気を許していたのだろう。
「ふ…ん、で、理由は?」
「ああ、何だっけな……確か価値観の違い、とかそんなこと言ってたな。ま、仕事やら接待やらで午前様になることも多かったし、家のことは全て任せきりになっていたから、そういうのが我慢できなかったんだろう」
「そうかな。たとえそういう不満があったとしても、お互いに愛情があれば絆は壊れないはずだ。喬兄、奥さんに『愛してる』って言ってあげてた? 奥さんは、喬兄が出かける時キスで送り出してくれた?」
奏の口からいきなり飛び出した言葉に、喬允は狼狽を隠せなかった。何度も瞬きして、
「い、いや……そんな大仰なことは……。というか、あいつは甘ったるい言葉とかベタベタしたやり取りを嫌うんだ。大事なのは言葉じゃない、心だって―――」
「言葉の価値を知らない人間が、すぐそういうことを言うんだ。言葉は実存そのものだ。『愛してる』と口にした瞬間、そこに愛が生まれる」
奏の言葉を噛み締めると、ほろ苦いものが湧き上がってくる。本当は、疾うに分かっていたのだ。
「そうだな……。仕事が忙しくて家庭を顧みなかったから愛想を尽かされた……俺はそう思い込もうとした。本当の理由に気付くのが怖くて」
奏はこれまでの饒舌から一転、先を促すこともなく黙って続きを待っている。
「あいつは、由紀恵は最初っから俺に愛情なんてなかった。ただ、子供が欲しかっただけなんだ。自分の分身としての子供が。そして、周囲にいる男のうち、子作りの相手の条件に最も合致していたのが俺だった。それだけだ」
「条件て?」
「目立った個性もなく、容姿は十人並みで、最高偏差値の有名国立大学を出ていて、有名企業に勤めていて、そして自分の言うなりになる男。どうだ、見事に合致してるだろ」
喬允の自虐めいた問いには答えず、奏は淡々と訊ねた。
「でも喬兄は、彼女を愛していたから結婚したんじゃないのか?」
「愛、か……。この年になって恥ずかしい話だが、愛がどんなものなのか実はよく分からない。ただ、自由奔放で思う通りに振る舞う彼女が眩しく見えたことは確かだ」
「それは単なる憧れ、羨望だ。愛はそんな綺麗なものじゃない。生々しい欲望だ。欲望は時と場所を選ばない、理性では制御できない。体裁とか世間体とか構わず衝動に突き動かされるまま―――」
奏は身を乗り出して喬允の手を掴んだ。その瞬間、全ての時間が止まる。喬允は呼吸も忘れ、直視できないほどの輝きを放つ瞳と燃えるような手のひらに搦め捕られた。
「―――手を伸ばしてしまう。それが愛なんだよ、喬兄」
奏は喬允の手を掴んだまま言葉を続けると、ふっと表情を緩めて手を離した。と同時に、喬允の全身から強張りが解ける。しかし、奏に掴まれた場所はまだ熱く疼いていた。
「……お前の言うことは、頭では理解できる。でも―――」
「頭で理解できるというレベルじゃ、まだまだだな」
そう言って柔らかく微笑む奏に、喬允も笑みを返す。すると奏は再び表情を引き締めて、
「奥さんとの関係は何となく分かった。なら、子供は? まだ三歳くらいだろ?」
「ああ、来週誕生日なんだ。四つになる」
「可愛い盛りじゃないか。喬兄のことだから、プレゼントちゃんと用意してあるんだろ」
「いや……どうせ会えないからな」
眉をひそめて理由を質そうとする奏に先んじて、喬允が言葉を継いだ。
「所在が分からないんだよ。離婚して暫くは実家にいたらしい。でも、そのあと引っ越してから全く音信不通なんだ。実家に聞いても言葉を濁して教えてくれない。口止めされてるんだろう。たぶん、俺との繋がりを完全に断ちたいんだろうな」
喬允の言葉を吟味するように、奏は暫し沈黙した。やがて徐に口を開き、
「喬兄は、それでいいのか?」
「いいも何も、仕方ないだろう。それがあいつの意志なんだから」
「喬兄の意志はどうなるんだよ。それとも、子供なんてどうでもいい? どうせ自分は種付け馬だったんだからと割り切ってるんだ」
本音を引き出すためわざときついことを言って挑発している―――奏の意図は察していた。喬允はゆるゆると首を振り、
「夫婦は離婚すれば赤の他人だけど、子供は違う。宙美は俺の娘だ」
「なら何で捜そうとしないんだ? その辺の探偵でも雇えば、すぐ見つかるはずだ」
「無理やり居場所を突き止めて、会いに行って……それでどうなる? もしかしたら、新しい男との生活を始めているかもしれない。宙美も俺のことなんて忘れて、そいつのことをパパと呼んで……」
「うん、それはあり得るな。子供ってのは順応力が高いから。でも、喬兄はそれでいいのかよ。血を分けた可愛い娘なんだろ? 会いたいと思うのは当然だ。波風立てたくないからって自分の欲求をひたすら抑える。これから先もそうして生きていくんだ。可哀想な人生」
挑発だと分かっていながら、馬鹿にしたように吐き捨てて肩を竦める奏に、喬允は一瞬カッとなった。しかしそれ以上感情に翻弄されることはなく、ソファにどさりと背中を預けて自嘲とともに呟く。
「俺は……お前とは違う」
「そう、かな。俺と喬兄は似てると思うけど」
「はは、まさか。何から何まで違うよ」
ゆったりと身体を起こす喬允は、いつもの凪をまとった喬允だった。奏はそっと目を伏せ、ちらと腕時計を確認する。
「ああ、もうこんな時間か。ライター返してもらうだけだったのに、つい長居した」
そう言って腰を浮かせる奏を見つめ、喬允は「もう帰るのか?」と声を低めて問う。奏は困惑も露わに腰を戻し、
「だって……邪魔だろ?」
「何でだよ。一緒に夕飯どうだ? 近くに旨い中華料理屋があるんだ」
奏は暫し考え込んだが、ぱっと顔を上げて、
「夕飯、俺が作るよ」
「えっ、お前が? いや、でも材料何もないぞ。器具だけは揃ってるけど」
「分かってる。とても自炊してるようには見えないし。近くにでかいスーパーがあったよな。適当に材料買って、ちゃっちゃと作るから…………あ、でも……」
何か思い出したのか、奏は口を開けたまま固まる。やがてばつが悪そうに見上げ、
「やっぱやめとこうかな。MRって、接待で旨いものばっか食べるから舌が肥えてるって。俺なんかが作るものじゃ、喬兄はきっと満足しない―――」
「何言ってんだ、こら。料亭でしか食えないものもあるけど、手料理でしか味わえない温かさもあるだろ。それに、所詮接待だからな。ゆっくり味わってる余裕なんてないさ。で、ほんとに作ってくれるのか?」
嬉しそうに訊ねられては、奏も頷くより他ない。早速買い出しに行って、やや緊張しつつキッチンに立った。そして―――
「奏……お前すげえな。この手羽とこんにゃくの煮物、旨いよ。短時間でこんなに味がしみるんだ。それにこれ、厚揚げの納豆挟み焼き? 香ばしくて旨いなあ。みそ汁も、薄めだからたまねぎの甘さが際立ってる」
興奮気味に感想を口にしつつ次々と平らげてゆく喬允とは対照的に、奏は余り箸が進まない様子。
「奏? 食わないのか?」
「え? あ、いや……。作りながら味見してたら、けっこう腹いっぱいになった」
「そういうものなのか。なんか悪いな、俺ばっかりばくばく食って」
「そんなことないよ。喬兄のために作ったんだからさ。みそ汁のお代わり、どう?」
喬允は「頼むよ」と答えてお椀を差し出しながら、こんな寛いだ気持ちで食事をするのは久しぶりだと感慨に浸った。
そして食卓に並んだもののほとんどを喬允が平らげ、テレビを見るでもなく眺めながら取り留めのない会話を楽しんでいるうちに、あっという間に11時に。「泊まったらどうだ?」と勧める喬允に、奏は頑なに首を振って帰り仕度を整えた。
「酒飲んでなかったら、車で送ってやれたんだけどな」
「大丈夫。この時間なら流しのタクシーも掴まえやすいし。それより、さ……」
玄関先で、何か言いたげに口ごもる奏。やがて思い切ったように口を開き、
「これからもたまに、たまにでいいんだけど、遊びに来てもいいかな」
紅潮した頬、すがるような眼差しで答えを待つ。何故そんな思い詰めた表情をするのか分からず、喬允は驚きとともに何度も頷いた。
「あ、ああ。もちろんだ。遠慮せずいつでも来いよ」
途端に奏の顔はぱあっと輝く。その蕾が綻ぶような表情の変化を、喬允は純粋に綺麗だと思った。
「また来るよ。喬兄、今日はありがとう」
屈託ない言葉と眩い笑顔を残して、奏は帰っていった。冬の冷気を留めながらも、微かに春の匂いがする夜気の中に融けゆく後ろ姿を見送りつつ、喬允はぽつりと呟いた。
「俺の方こそ、ありがとう、なのにな……」
春はすぐそこまで来ていた。
<8>
「駄目だ……もう会っちゃ駄目だ……」
春の疼きが感じられる夜道を、奏はひたすら歩いていた。もともと、タクシーを拾うつもりはなかった。のぼせた頭を冴えた夜気に晒して、熱を冷ます必要があると分かっていたから。
遠慮せずいつでも来い、そう言われた時は嬉しくて舞い上がってしまったけれど、これがとてつもなく危険な状況であることを自覚するのに時間はかからなかった。
結婚して温かな家庭を築いているという事実が、強力な歯止めになっているはずだった。しかし、そのいわば最大の障害がなくなった今、奏は渦巻く熱情と欲望を自身の理性のみで抑えねばならなくなったのだ。いつでも来い、の言葉に甘えて何度も会っていたら、きっと我慢できなくなる。
「少し……距離を置いた方がいいな」
そうして、いずれ喬允が再婚するのを待つ。惨めだけれど、それしか幼馴染み、旧友という健全な関係を保つ方法はなかった。
しかしその前に、一つやるべきことがあった。瞼の裏で赤いボールが瞬く。
「喬兄、もう少し自分に正直に生きろよ」
奏は無人の夜に向かって呼びかけると、早足で自宅に向かった。
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奏と共に楽しい休日を過ごし、心機一転、清々しい気持ちで新しい週を迎えた、はずだった。
しかし次々と問題が噴出。取引先のMS(卸しの営業担当者)がいい加減な見積もりを出していたことが判明したり、押さえていた講演会の会場が向こうのミスでダブルブッキングになっていたり、添付文書に記載のない副作用が起きたと医師からクレームが来たり。ちなみにその副作用は、併用薬のせいだったことが後になって分かった。
そして極め付けは、医局で例の競合メーカーのMRである丸山と鉢合わせしたことだった。
複雑な感情があるとはいえ、もちろん敵意を剥き出しにしたり罵り合ったりすることはない。そもそも、宣伝活動をする上での他社や他社製品に対する中傷、誹謗は「プロモーションコード」で禁じられているのだ。
だからライバル同士であっても、表面上はにこやかに世間話や情報交換などを行う。そうしながらも、互いの動向をそれとなく探っているのだが。
この日、喬允は医局を訪問する前に調剤薬局を回り、添付文書の改訂について案内した。その際、懇意にしている複数の薬剤師から、丸山が接待攻勢を掛けていることを聞かされた。
「今度、温泉地で二泊三日の説明会を開催するからぜひ、って。ドクターだけじゃなくて、処方箋を受けている薬局の関係者も招待するらしいわよ」
それには、さすがに喬允も驚いた。バブル期ならともかく、交際費が削減傾向にある昨今、薬局丸ごと接待なんて大盤振る舞いが実現可能とは。相模製薬や丸山の『セフェプロン』売り込みにかける気合が伝わってくる。
喬允は情報を提供してくれた薬剤師に礼を述べ、医局に急いだ。そこには案の定丸山がいて、福山医師と雑談に興じていた。喬允の顔を見ると、優越感を抑えるように卑屈な笑みを浮かべ、
「これはこれは。出水製薬のイケメンMRさんではないですか」
「どうも。お久しぶりです」
もちろん喬允も引かず、余裕の笑みをこしらえて雑談に加わる。医師とは、面会のたびいつも医薬品の話をしているわけではない。こうして一見無関係な世間話をするのも、親密な関係構築のため重要なのだ。
とはいえ、喬允がちょっと何か言うと、丸山は「それは君、違うよ」と年長者風を吹かせて話を遮り、自分が引き取ってしまう。一方、福山医師の言葉には大袈裟に相槌を打ち、さすが一流ドクターのお言葉には哲学がありますなあと感心してみせる。たいこ持ちの典型だった。
まともな社会人なら眉をひそめるのだろうが、高名なドクターほどこういった見え見えのお世辞に弱いことを、丸山は経験から知っていたのだ。
尤も、福山医師がそれをどんな感情で受け入れているのか、表情から推し量ることはできなかったが。その意味では、福山医師もなかなかの海千山千と言えた。
やがて診察時間となり、福山医師は医局を後にした。途端に丸山の態度はがらりと変わり、喬允に横柄な態度で挨拶してさっさと医局を出ていった。
丸山のあの熱心さを見ると、喬允もさすがに不安を感じずにはいられなかった。やはり近田の忠告通り、派手な接待で落とすことを考えるべきなのだろうか。
確かに、福山医師は他の接待好きな医師とは違うというのは、都合のいい思い込みなのかもしれない。経験と勘と言えば聞こえはいいが、経験では丸山には敵わないし、勘も大して冴えているとは言えない。
私怨で仕事はしないと近田に豪語したが、こうなると、渡邊部長のやり方を踏襲した自分のスタイルで採用許可を勝ち取りたいという感情が作用していることを否定はできないのかもしれない。
そんなことを悶々と考えながら、営業所に戻るため車に乗り込んだ。そして携帯電話をチェックする。
待受画面に表示された小さなケーキのアイコンは、今日が誰かの誕生日であることを知らせていた。誰なのか、もちろん考えるまでもない。
「宙美、四歳の誕生日おめでとう……」
胸の軋みを抑え込んで、決して届かない祝福を贈る。そうして携帯を閉じると同時に、着信音が鳴った。相手は奏だった。
「奏? こんな時間に何だ?」
『喬兄、今ちょっと付き合えない?』
唐突すぎる誘いに、喬允は即答を返せず黙り込む。しかし奏は構わず、驚くべきことを告げた。
『これから、宙美ちゃんに会いに行くんだ。喬兄も一緒に来るだろ?』
「宙美に?! おい、どういうことだ」
『どういうって、今日は宙美ちゃんの誕生日じゃないか。プレゼント渡しに行こう。喬兄のことだから、渡せないって分かってても用意してあるんだろ?』
喬允は気持ちを落ち着けるため、深呼吸した。そして幾分低い声で、
「お前、調べたんだな? 二人の居場所を」
『ああ、調べたよ。すぐ分かった。呆気ないくらいにね。ついでに、元奥さんの行動パターンについても調べた。今日のこの時間は、テーブルセッティングの講習会に行ってる。幼い子供をしかも誕生日に一人で家に残して、いいご身分だ』
「何でそんな余計なことを―――」
『余計なこと? 娘の誕生日にプレゼントを渡すことが余計なことだと? まあ喬兄がそう思うなら俺は何も言わないけど。これから俺一人で会いに行って、ドアホン越しにハッピーバースデーを歌ってくるよ。それじゃ、』
「ま、待てっ」
慌てて呼び止めてから、まんまと奏のやり方に乗せられてしまったと自覚する。しかしもう遅い。
『緑川児童公園で待ってるよ。プレゼント、忘れないように』
喬允が言葉を返す間もなく、電話は向こうから切られた。奏の一方的なやり方に怒るべきなのか感心すべきなのか心が決まらぬまま、喬允は溜め息とともに車を発進させた。
迷った末いったん自宅に戻ってプレゼントを車に積み、指定された公園に向かう。奏の指摘通りで悔しいが、渡せないと分かっていてもちゃんと用意していたのだ。
昼間とは思えぬ暗い曇天のせいか、公園に人影はなかった。確か今日の予報では、午後から雪がちらつくと言っていた。喬允は憤然たる面持ちで、奏に真直ぐ近づいた。奏はにっこり笑って手を振り、
「そういえば、仕事は抜けて大丈夫だった?」
「お前……今さらそれを訊くのか」
「はは、そりゃそうだ」
奏の屈託ない態度に、喬允は思わず天を仰いだ。怒ってるこっちが馬鹿みたいだ。僅かに表情を和らげ、
「ともかく、居場所を調べてくれたことは感謝する。かかった費用も全額払うから、後で請求してくれ。で、住所は?」
喬允の問いに応え、奏はポケットから紙切れを取り出そうとした。が、はたと手を止め、
「……喬兄、もしかして会いに行かないつもりなんじゃ……」
探るような目でじっと見つめる。喬允も視線を返し、頷いた。
「ああ。ここに来るまでに色々考えたんだけどな、やっぱり会わない方がいい。このプレゼントは、その住所に郵送するよ」
「どうして……」
「この前も話したけど、由紀恵にはもう新しい男ができて、宙美もそいつを父親と思ってるかもしれない。いや、今はまだでも、遅かれ早かれあいつは再婚して、宙美には新しい父親ができる。ともかく、今会って混乱させては可哀想だ。だから―――」
「あんた父親だろ! いいのかよそれで」
奏の苛立ちが、モノトーンに沈んだ風景に活を入れた。喬允は拳を握り締めて感情を抑え、奏の怒りを取りなすように引き攣った笑みを向けた。そして、
「まあ、仕方ないさ。それに、お前が思ってるほど娘に会いたいわけでもない。実際、別れてから思い出すこともそうなかったしな」
ことさら軽い口調でそう言って、ちらと肩を竦めた。すると奏は「はは、」と乾いた笑いで応え、
「思い出すこともなかったって? じゃああの赤いボールは何だよ」
「赤いボール……」
「寝室の飾り棚の上に、大事そうに飾ってあった。何でもいいから宙美ちゃんの持ち物が欲しかったんだろ? それを手元に置いておくことで淡い絆を感じていたかったんだろ? それが喬兄の本心だ。なのに、どうしてそんな見え見えの嘘までついて欲求を抑え込もうとするんだ。どうして自分から手を伸ばそうとしないんだよ!」
「俺はお前とは違うんだ! お前には分からないさ。何でも思い通りにできるお前には!」
奏の厳しい追及をも凌ぐ険しい声で、喬允は怒鳴った。こんな風に感情を露わにして腹の底から声を出すのは本当に久しぶりで、奇妙な陶酔感があった。一度解放されてしまうと、あとはその勢いのまま本音の言葉が溢れ出す。
「お前みたいに自分の思い通り自由に生きられればどんなに幸せか。お前は才能も人間的な魅力も強い意志も、何もかも持っている。その気になれば人のものだって簡単に奪える。ああ、そうさ。俺は昔からお前が羨ましかった、妬ましかった。兄貴づらしながら、全てを持っているお前にずっとコンプレックスを抱いていたんだよ。だからっ―――」
喬允の灼け付くような言葉は突然断たれた。奏の口づけによって。喬允は瞬きも呼吸も忘れるほど混乱し、文字通り頭の中が真っ白になった。
あらゆる思考も感情も飛び散った“無”に近い状態だったが、奏の唇の柔らかさだけはなぜか感じることができた。
「かっ、か、かな…で……な、なにを………」
唇が離れても恐慌状態は収まらず、喬允は驚きに強張る舌を必死に動かそうとした。すると奏はふっと目を逸らし、
「誰が……思い通りに生きてるって? はは、笑わせる。好きで好きでたまらない人への想いを腹の底に抑え込んで、よき友人、幼馴染みとしてしか傍にいることができない生き方が羨ましい?」
「奏……? 何を―――」
「喬兄の言う通り、俺は自由だ。俺を縛るものは何もない。絆も、義務も、世間体も。ゲイであることをカミングアウトした時点で、家族との縁は絶たれた。
恋人との繋がりなんてもっと希薄だ。適当に会ってセックスして、飽きたら終わり。俺が死んでも本気で哀しんでくれる人はいないだろうな。喬兄、これが“自由”の正体だ。こんなもの、本当に羨ましいのか?」
奏の言葉が、頭の中でぶつかり合って不協和音を起こしている。喬允は何とか心を落ち着かせて、その中から思考の糸口を掴もうとした。しかしそんな喬允の困惑をおいて、奏は淡々と言葉を続ける。
「俺に怖いものはない。でもそれは、守るべき大事なものが何もないからなんだ。こんな人間に、喬兄がコンプレックスを抱く理由なんてないよ。ただ俺は、喬兄に後悔してほしくない。その綺麗な心が求めるまま、伸びやかに生きてほしいんだ。誰だって……」
奏は一瞬ためらったが、決然と正面向いてようやく喬允と目を合わせた。そして淡い微笑みを向け、
「誰だって、好きな人には幸せになってもらいたいと思う。だろ?」
そしてくるりと背中を向け、すたすた歩き出した。喬允は呆然とそのシルエットを見つめていたが、やがて慌てて後を追い始めたのだった。
<9>
奏と喬允はほどなくして、白い外観のマンションに到着した。奏は上を指差し、
「この五階に住んでる。直接部屋を訪ねる? いや、ここに下りてきてもらった方がいいか」
つい先刻、重大な告白をしたとは思えないほど、奏の表情も口調もいつも通りだった。そのお陰か、喬允も平静を取り戻すことができていた。
「下りてきてもらうって、どうやって?」
喬允の問いに、奏は呆れたように瞠目して、
「どうやってって、喬兄が呼び出せばいいじゃないか。パパが会いに来たよ、って。テレビ付きのドアフォンだから顔を見せれば信じてもらえる」
「あ、ああ、そうか。そうだな……」
果たして信じてもらえるか、いやそもそも、会いに来たと言って喜んで出てきてくれるか不安だったが、ここまで来て後込みするわけにもいかない。喬允はホールの共通ドアフォンに部屋番号を入力し、応答を待った。
『はい……どちらさまですか?』
大人びた返答は、母親から教えられた言葉そのままなのだろう。声が強張っているのはもちろん、警戒心の表れだ。喬允は画面に向かってにっこり微笑み、
「宙美、誕生日おめでとう。プレゼント持ってきたよ」
次の瞬間、プツッと回線が切れた。必死にこしらえた笑顔が引き攣っているのが自分でも分かる。三カ月の空白はやはり大きかったと落ち込みかけたその時、エレベーターが開いて小さな人影が飛び出してきた。
「パパ! パパぁ……」
そして喬允がよろけるほどの勢いで抱き着く。喬允はその身体を抱き上げてゆらゆら揺らしながら、「宙美、宙美……」と名前を呼んだ。一緒に住んでいた頃、よくしていたように。
「宙美、ずっと会えなくてごめんな」
喬允の言葉に、宙美は目をこすりながら頷き、
「おしごとがいそがしかったんでしょ?」
「あ、ああ、そうだよ。でも今日は宙美の誕生日だから、お仕事を抜け出して来たんだ」
喬允はそう言って宙美の身体を下ろし、紙袋を差し出した。
「プレゼントだよ。開けてごらん」
宙美は大きな包みと格闘しつつ開けた。そして瞳を輝かせて叫ぶ。
「わあ! たのしいケーキやさんだ!」
それは、ケーキ作りの材料や器具がセットになったおもちゃで、作ったものが実際に食べられるのが特徴だった。
「宙美はケーキ屋さんになるのが夢だもんな。それで美味しいケーキを作って、ママに食べさせてあげるといい」
しかし、何故か宙美はしゅんとなって項垂れてしまった。喬允は慌てて、
「宙美、どうした? これじゃないのが欲しかったか?」
「ううん……そらみこれがほしかったの……でもママが……ケーキやさんなんかだめっておこるの……」
喬允は何と言ってよいか分からなかった。確かに由紀恵は、いずれ宙美を劇団かモデル事務所に入れるつもりだと言っていた。本人のやりたいことをやらせてあげたいが、ママの言うことなんて聞かなくていいぞと言うのも憚られる。
「ねえ宙美ちゃん、ママは宙美ちゃんのことが心配なんだよ」
これまで黙って親子のやり取りを傍観していた奏が、初めて話し掛けた。そして、驚いて目をぱちぱちさせる宙美に近づいて腰を屈め、
「僕はパパの友だちだ。ということは、宙美ちゃんとも友だち」
「うん、おともだちだね」
「そうだよ。それでね、僕は思うんだけど、ママはケーキ屋さんがどんなに大変なお仕事かよく知ってるんだ。朝早く起きて、夜遅くまで一生懸命ケーキを作る。だから、可愛い宙美ちゃんにそんな大変なお仕事はしてほしくないと思ってるんじゃないかな。でもね、」
ここで奏はいったん言葉を切り、喬允を見上げた。喬允は小さく頷いて宙美の手を握り、奏の言葉を引き取った。
「でもな、それはママの考えだ。宙美には宙美のやりたいことがあるだろう? だから、宙美がどうしてもケーキ屋さんになりたいのなら、パパは応援するぞ。自分が作ったおいしいケーキをたくさんの人に食べてもらえるケーキ屋さんは、素晴らしいお仕事だと思う」
瞬きもせず、父親の言葉に必死に耳を傾ける。そんな宙美の真直ぐな黒い瞳に喬允との血縁を感じ、奏は彼女がほんの少し羨ましくなった。
「いいか? 夢を叶えるのは宙美自身なんだからな」
「うん! パパ。そらみがんばるよ」
喬允は笑顔で頷いて見せたが、内心は複雑だった。本当は、こんなえらそうなこと言えるような人間ではないのだ。周囲の思惑に翻弄されっぱなしで、信念を貫く意志も決断力もない自分は。
ただ、宙美には後悔だらけの人生を歩んでほしくない。自分のようになってほしくない。その一心で諭しただけだった。
「それじゃ、そろそろパパたちは帰るよ。宙美、あらためて四歳の誕生日おめでとう」
そう言って頭をふわふわ撫でる喬允を、宙美はくしゃりと顔を歪めて見上げ、
「もうかえっちゃうの? おへやにきてくれないの? ママはまだかえってこないからだいじょうぶだよ」
「宙美……」
幼いながら、父親と母親の仲についてちゃんと察しているのだろう。ママはまだ帰ってこないからと言って手をきゅっと掴む娘の姿に、喬允は胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
「喬兄、はい、これ」
奏からいきなり紙とペンを差し出され、喬允は眉根を寄せて奏を見つめた。
「なんだ? これ」
「電話番号、書いて渡してあげなよ」
「あ、ああ。そうか」
喬允は受け取って、なるべく大きく見やすく二つの番号を書いた。
「いいか? 上がパパの家の電話番号だ。下が携帯電話の番号。何か話したいことがあったら、いや、何もなくてもいいから、とにかくいつでも掛けてきていいぞ」
「いいのっ?」
「ああ。パパも宙美の声が聞きたいよ。分かったね?」
宙美はもらったメモを胸に押し当てて、何度も頷いた。そして大事そうにポケットに仕舞うと、プレゼントを抱えてエレベーターに乗り込んだ。
「パパぁ、またね。あと、かっこいいおにいちゃんも」
そう言って手を振る娘の笑顔を、喬允は脳裏に深く深く刻み込んだ。
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「かっこいいおにいちゃんかあ……。宙美ちゃんは素直で可愛いなあ。俺があと二十若かったら……」
「阿呆、何言ってんだ」
「なに? お前みたいな男に娘はやれんっ、て?」
そう言ってけらけら笑う奏を、喬允は冷ややかに見つめる。が、すぐに深く息をついて、「それよりお前は……その、ほんとに………ゲイ、なのか?」
「ああ、そうだよ」
「どうしてお前みたいな奴が……。黙ってたって女性は次々近づいてくるだろ?」
奏はぷっと吹き出し、喬允に正面から向き直った。二人は先刻待ち合わせた公園に戻ってきたが、予報通り雪がちらつき始めたせいか人影は全くなかった。
「喬兄は、ゲイって女に相手にされない男が、仕方なく男同士で付き合ってると思ってるんだね」
「い、いや……そんなことは……」
「別に構わない。偏見や誤解は慣れてるし。で、俺がなんで男しか愛せないのかその理由は、喬兄が女しか愛せない理由と同じと答えておこう」
奏の言わんとすることは、何となく分かるような気がした。喬允は頷いて納得を示したが、さらにもう一つ、質さねばならないことがあった。
「さっき……お前はその……俺のことを……」
奏は一瞬目を逸らしたが、すぐに視線を戻して、
「俺の初恋の相手は、残念ながら喬兄じゃない。通ってた幼稚園のバスの運転手だった。そして初めてのキスも、初めて抱かれたのも抱いたのも違う。でも、」
奏はいったん言葉を切り、深く息をついて余計な熱を吐き出した。そうしないと、感情の暴走に呑み込まれてしまうと分かっていたのだろう。
「でも……心から愛していたのは喬兄一人だけだったんだよ」
告白の重みに押されるように、奏はそっと俯いた。その肩が微かに震えている。こんな弱々しく儚げな奏を見るのは初めてだった。何か優しい言葉を掛けてあげねばと思いつつ、喬允の口から出てきたのは古傷を抉るような問いだった。