「ならお前は何で……」
「あんなことしたのか、って? 今なら、喬兄にも答えが分かるはずだ」
喬允は眉をひそめつつ、当時の記憶をなぞる。あれは六年前、大学卒業を控えた冬だった。
当時付き合っていた女性から何の前兆もなく突然別れを切り出され、喬允は驚いたものの別段引き留めることもせず承諾した。これまで幾度となく踏襲したパターンだったから、免疫ができていたのだろう。
女性というのは心変わりしやすい生き物で、一度別れると決めたら何を言って引き留めても無駄だと達観していたのだ。
ところがその後、真の驚きが訪れた。喬允の彼女を奪ったのは奏だと知り合いから教えられたのだ。
喬允は半信半疑のまま、これまで付き合った女性に片っ端から連絡を取って、あの時なぜ自分と別れたのか訊ねた。彼女らは、もう過去のことと割り切っていたのか、あっさり答えてくれた。
『真野君に付き合ってほしいって言われたの。ほら、彼って他校の子からもすごい人気だったでしょ。まさか私が、って舞い上がっちゃった』
当然、喬允は激怒した。そこには哀しみも多分に含まれていた。大事な幼馴染み、何でも話せる親友だと思っていたのは、自分だけだったのか。親しげに振る舞いながらも、何にも知らない自分を彼は陰で嗤っていたのだろうか、と。しかし―――
「その、つまり……俺のことをす…好きだから……彼女と別れさせようとして……」
奏はこくんと頷いて、
「もちろん、だから許されるだなんて思っていない。俺のしたことは最低最悪、卑劣極まりない行為だ。彼女との仲を引き裂いたからといって、喬兄が俺のことを好きになってくれるわけではない。喬兄を傷つけるだけだと分かっていながら、嫉妬の感情に動かされるまま無分別な行動を繰り返した俺が100パーセント悪い。本当に……ごめん」
重苦しい謝罪とともに深く頭を下げる奏を、喬允は慌てて制し、
「い、いや……変な話だが、何だか少し……すっとした。ずっと腑に落ちないものを感じていたんだ。どうして奏はあんなことをしたんだろう、と」
「俺もすっとしたよ。本当の理由は一生言えないだろうと思っていたから」
そう言って長い睫毛をそっと伏せる奏を見た瞬間、喬允の胸に鈍い痛みが走った。
「俺……お前を厳しい言葉で問い詰めたな。なんでこんなことしたんだ、って」
今日のように、粉雪がちらつく寒い日だった。喬允は奏を呼び出し、正面から質した。それに対し奏は、喬允が発する言葉や怒りから逃げるように顔を背け、項垂れるしかできなかったのだ。
当時のことを思い出したのか、奏は苦しげに眉をひそめ、
「ああ。でも純粋な怒りを向けられている間はまだよかった。それよりずっと辛かったのは―――」
『お前、楽しんでたんだろ。俺から次々と女を取って、落ち込んでる俺を優越感に浸って嗤いながら眺めてたんだ』
「―――あの言葉は強烈だった。自業自得とはいえ、ほとんど絶望的な誤解だった。目の前が真っ暗になったな」
確かに、奏の想いを知った今なら、あの言葉がどれほど彼を傷つけたか分かる。しかし当時の喬允に理解できるはずもない。
それに喬允の心にはその時すでに、時間をかけて醸造された奏へのコンプレックスが根を張っていたのだ。それが奏の行為で刺激され、意識の表層部にくっきり浮かび上がってきた。喬允は負の感情を抑えるだけで精いっぱいだったのだ。
「あの時お前……今にも泣き出しそうな顔してたな」
喬允の指摘を、奏は肯定も否定もせず曖昧な笑みでかわし、
「ん……でも実際は涙も出なかった。空っぽ、ってああいう状態のことを言うんだろうな。雪の中に喬兄の背中が溶け込んで見えなくなるまで、ただ呆然とその場に突っ立ってた。ああ、これでもう二度とあの人の笑顔を見たり、声を聞くことはないんだなとぼんやり考えながら……」
「誤解を……解こうとは思わなかったのか?」
「俺があんなことをしたのは喬兄を好きだからなんだ、って? 『ふざけるな』って一喝されておしまいだったろうな。あの絶望的な誤解を解くすべはない。それを自覚した瞬間、俺は何もかもが嫌になった。小さい頃から好きで好きでたまらなかった人への愛情表現が、こんな卑劣な形でしかできない人間に、生きる意味があるのかと。だから、全て終わらせようと思ったんだ」
特別な重みも影もないさらりとした口調だったからこそ、喬允は戦慄を覚えた。
「まさか、お前……」
「はは、そんな顔するなって。俺はここにいるだろ? 人間は失恋ごときじゃ死ねないしぶとい生き物らしい。
ただ……それを境に生きることに執着しなくなったのは事実だ。大学を辞めて今の仕事を始めてからはけっこうヤバいこともやったし、危険な目にも遭ったけれど、心の底から恐怖を感じたことはない」
ハードボイルドを気取ったような言葉も、淡々とした口調のせいか真実の凄みを帯びて喬允の耳を震わせた。
「恐怖だけじゃない。悦びとか感動とか、人を愛しいと思う気持ちも含めて、感情の針が正負の極に振れることがなくなった。たぶん俺は……半分死んでるんだと思う。つまらないけれど、楽な生き方なんだろうな。でも、」
冷ややかな声で自身の生き方を批判した奏はいったん言葉を切った。そして再び口を開く。その声は打って変わって、温かな感情を湛えていた。
「でも、喬兄と再会したことで忘れかけていたものを思い出したよ。いいトシした男がこんなこと言うの恥ずかしいけど、好きな人と一緒にいるだけで幸せなんだっていう、単純で崇高な真理」
そう言って微笑む奏の頬は、告白による静かな興奮の影響なのか、冷たい外気のせいなのか、淡い薔薇色に潤んでいた。その仄かな色彩は、灰色の景色に咲いた春の先触れのように、控え目ながらも柔らかな美しさを湛えていた。
しかし喬允は思わず目を逸らした。直視してはいけないと、小賢しい本能に命じられるまま。
<10>
「喬兄、こっち向いて。俺を……見て」
甘い媚香を含んだ懇願に抗えず、喬允はそろそろと視線を戻す。今や喬允にとって、奏の美しさは羨望や鑑賞の対象ではなく、禁断の世界に誘惑する主体となった。これまでのように、無邪気に見つめることはもはやできない。
「いきなり襲い掛かったりしないから安心していいよ」
喬允の緊張を察したのか、ことさらおどけた口調でそう言って微笑む奏。その思い遣りに、喬允の心は切なく軋んだ。
「また喬兄に逢えて、本当に嬉しかった。六年前あんな別れ方をしたのに、『久しぶりだな』って言って屈託ない笑顔を向けてくれて、どれほど救われたか分からない」
「俺も……お前に逢えて嬉しかったよ」
喬允の言葉が眩しかったのか、奏はふっと目を細めて、
「ありがと、喬兄。………好きだよ」
その瞬間、喬允の心に生じたのは戸惑いでも嫌悪でもない、純粋な感動だった。こんな想いのこもった真摯な告白を捧げられたのは生まれて初めてで、胸の奥が熱く騒ぐ。さらに感情の熱は全身を巡り、喬允にこれまで感じたことのない昂揚をもたらした。
しかしその熱を脅威とみなした理性が歯止めをかける。だからといって受け入れることなどできるはずないだろう? と。喬允はそんな理性の囁きを頭の隅でぼんやり反芻しつつ、婉曲な拒絶の言葉を返した。
「俺は……ゲイじゃない」
すると奏はちらと肩をすくめ、
「分かってる、そんなの。申し訳なさそうに言うことない。ま、そういうとこが喬兄らしんだけどな」
そう言って、純白の輝きを放つ雪が灰色に霞んでしまうほど美しく微笑んだ。その笑みが放つ磁力に引き寄せられ、喬允が思わず手を伸ばそうとした時、それを察知したかのように強い口調で、奏はぴしゃりと言い置いた。
「喬兄とはもう逢わない」
二人の間に漂う甘い馴れ合いの空気を断ち切る拒絶の言葉。先刻、喬允が返したものよりずっと固い意志が感じられた。喬允は狼狽を隠せず、慌てて繋ぎ留めようとする。
「これからも親しい友人として付き合うことはできないのか」
「それはできない。俺は喬兄とキスしたい、セックスしたいって思ってるんだよ。そんな男と友人になれるのか?」
「なれる」
深く考えたら駄目だと分かっていた喬允は、ただ勢いだけで即答を返した。しかしそんな喬允の思惑は奏に筒抜けだったようで、微かな皮肉笑いがその唇をかすめた。そして奏は小さく首を振り、
「俺は無理だ。恋人が駄目ならお友だち、なんて。それが可能ならもっと早くから割り切って付き合ってるさ。
この前会った時言っただろ? 愛は生々しい欲望。理性が制御できる範疇をはみ出た衝動だと。俺が学生のころ喬兄と幼馴染みという穏当な関係を維持してこれたのは、ひとえに俺の強靱な意志と喬兄の鈍感さのお陰なんだよ」
「……ずいぶんな言われようだな」
「でも事実だから。俺は必死だった。幼馴染みという唯一の関係性を失わないよう、欲望を抑え付けて穏当に振る舞った。ゼロにならなければいい、たとえ僅かでも喬兄の心の中に俺の居場所があれば、俺が一番でなくてもいいと自分に言い聞かせて。でも、」
いったん言葉を切り、胸奥に凝る熱の塊をそっと吐き出すと、吐息が白い綿毛のようにふわっと広がった。それが雪の中に消えると同時に、奏は再び口を開いた。
「もう無理だ。さっきキスをして分かった。あの時感じた甘美な震えは、身体が喬兄との触れ合いを欲している証拠だ。
あのキスだって、誤魔化そうと思えばできたかもしれない。ちょっと驚かそうと思って、なんて言えば、喬兄も笑って納得しただろうし。でも、もっとキスしたいという己の欲求を誤魔化すことは……できない。だから、これで終わりにしなくてはならないんだ」
伝えるべきことを全て言葉にした奏は、去り行く喬允の背中を見たくないのか静かに目を伏せた。いや、それは奏の気遣いだったのかもしれない。喬允の罪悪感が少しでも軽くなるように、自分が目を伏せている間に去ってくれ、と。
しかし喬允は去るどころか、雪の中で項垂れる奏に向かって歩を進めた。何をするつもりなのか、何を言うつもりなのか自分でも分からぬまま。そして奏の真正面に立つと、しんなりたわんだ睫毛の上に雪の小さな結晶が舞い降りるのが目に入った。
その儚くも繊細な美に心打たれ、喬允は今度こそ手を伸ばして奏に触れた。指先がまぶたをかすめる程度の、愛撫とも呼べないほどの接触だったが、奏は弾かれたようにぴくんと身体を震わせた。
ああ、そうか、そうだったのか。喬允は声に出さず納得する。触れるといつも過敏な反応を示していたのは、驚きのせいではなかったのだ、と。
「喬兄……もう行ってくれ。俺の方から去るべきなんだろうけど、さすがにつらい」
消耗を隠すことができないのか、奏は弱々しい声で哀願するように訴えた。奏の想いに応えられないのなら、ここで背中を向けて去るのが真の優しさなのだろう。曖昧な態度や言葉は、奏を苦しめるだけだ。それは喬允にも分かっていた。
優しさには強さに由来するものと弱さに由来するものがあり、自分がこれまで人に見せてきた優しさはほとんどが弱さを土壌にしたものであることを、喬允は自覚していた。そして、その優しさが時に人を傷つけることがあるということも。しかし、
「奏、俺は……」
六年ぶりに復活した絆はあまりに心地よく、自分がどれほど心と心の繋がりを欲していたか今さらながらに思い知らされた。それを失ってまた孤独に逆戻りするくらいなら……
「俺は離れたくない。奏、お前が俺とキスしたいと言うのなら……」
奏の身体が強張るのが分かった。そろそろと顔を上げ、半信半疑の眼差しで喬允を見つめる。
「嘘、だろ? 喬兄……」
「嘘じゃない」
ずっと誰かを求めていた。自分を心から愛し理解してくれる存在を。妻がそうなってくれるのではないかという期待は、すぐに潰えた。自分が彼女の視界に入ることすら稀だったのだから。
でも奏なら、奏ならきっと―――
「奏……」
互いの熱い吐息がかかり、凍えた唇が今にも融け合おうとしたその時、
「ママぁ、雪いっぱいふってるね」
「ほらほら、危ないから走っちゃだめよ」
「あした、雪だるまつくれるかなあ」
「よぉし、パパがでっかいの作ってやるからな」
楽しげな会話とともに、公園の傍を幼い子供を連れた家族が通った。その瞬間、喬允は両手で奏をどんと突き飛ばした。
それは、断固たる拒絶以外の何ものでもなかった。硬い音を立てて、二人の間に亀裂が走る。
「それが喬兄の本心なんだろ?」
静かな怒りを込めて、厳然と問う奏。
「違う、俺は―――」
慌てて釈明しようとする喬允を、奏は雪も温かく感じるほど冴えた眼差しで見返し、すっと手を伸ばして去ってゆく親子連れを指差した。
「あれが正常な世界だ。俺はあの世界では生きられない」
「それは分かってる」
「分かってない。喬兄はただ、情とか空気に流されて分かってる“ふり”をしているだけだ」
奏はぴしゃりと言い置くと、背中を向けて歩き出した。
「ま、待てっ、奏!」
声を張り上げて追い掛ける喬允を振り返ろうともせず、奏は歩みを速める。喬允は走って追い付き、肩に手を掛けて揺さぶった。
「俺の話を聞け!」
「話すことなんてない。帰る。そしてもう二度と逢わない」
「帰るってどこにだ」
「自分の家に決まってるだろ」
吐き捨てるように答えると、肩に置かれた喬允の手を払って大股で歩く。それからは喬允が何を言っても無言ではね返され、取り付く島もなかった。
それでも喬允は奏の強張った背中を追い続け、見たことのある雑居ビルの前まで来た。すると奏はぴたりと足を止め、背中を向けたまま、
「ここまで来て、どうするつもりだよ」
「部屋に上がらせてくれ。もう一度話し合おう」
「何時間話したって平行線のままだ。俺の道と喬兄の道が交わることはない」
冷ややかに断言する奏に、喬允はカッとなって叫んだ。
「なんで決め付けるんだ! 俺はっ……」
しかし怒りはすぐ驚きと戸惑いに変わった。奏がいきなり抱き着いてきたのだ。
「か、奏……」
「この道は通学路だから、今の時間は学校帰りの子供たちが通るよ。それに、買い物帰りの主婦も。誰に見られたって、俺は全然平気だけどね。さ、どうする? せっかく追い掛けてくれたんだから、さっきの続きしようか」
ちろと唇を舐めて嫣然と微笑む奏は、禁断の果実を差し出して頽廃の園に誘う蛇そのものだった。挑むように喬允を真直ぐ見つめたまま、ゆっくり顔を近づけてくる。しかし、
「やめろ、奏。こんなところで……」
辺りを憚るような喬允の拒絶を受けて、奏は自ら抱擁を解いた。そしてさっきの仕返しとばかりに喬允の胸を突き飛ばし、ビルのエントランスに駆け込む。喬允も後に続いたが、ぴたりと足を止めた。奏が、見知らぬ男と抱き合っていたからだ。
「奏、そいつは……」
髪を綺麗に後ろに撫で付け、グレーのロングコートを羽織った長身の男は、奏の身体を抱いたまま喬允の顔に視線を向けた。
薄い灰色の瞳は、あらゆる感情の揺らぎを拒絶してぞっとするほど凪いでいる。彼の周囲の空気は張り詰めて、そこだけ空気の粒子が整列しているかのような印象を受けた。
その磨き抜かれたナイフのような剣呑な存在感に圧倒されながらも、喬允は真直ぐ見返し、
「あなたは、奏のお知り合いですか?」
男は微かに眉根を寄せ、
「私は―――」
「恋人だ。恋人の本多さん」
奏は強い口調で遮り、その証立てをするように本多の唇に吸い付いた。
突然の口づけに本多は狼狽も困惑も見せず、差し込まれた奏の舌に自ら舌を絡め、じゅるっと音を立てて吸い上げる。そして濃厚に混ざり合った唾液を見せつけるように、ゆっくりと唇を離した。
その全てを見届けた喬允は、何かが抜け落ちたかのようにすとんと肩を落とした。そして深く息を吐き、
「そうか……そりゃそうだよな。お前みたいな綺麗な男が、放っておかれるはずないもんな。恋人がいて当たり前だ」
喬允は自分に言い聞かせるようにそう言うと、本多に向かって深く頭を下げ、
「本多さん、と仰いましたね。俺は奏の……古くからの友人です。どうか、奏のことをよろしくお願いします。恋人のあなたにこんなこと言うのも変ですが、ちょっと無鉄砲なところはあるけどすごくいいヤツなんです。だから、幸せにしてやってください」
「……ああ」
素っ気ない返答だったが、喬允は信じた。そして、唇を噛み締め横を向いたままの奏に近づき、両手を広げてすっぽり抱き締めた。
腕の中で、奏が驚きに息を呑むのが伝わってくる。喬允は耳元に口を寄せ、
「奏、さっきは悪かった。お前が求めているのが何なのか、ちゃんと分かっていなかった。俺にできるのは……ここまでだ」
そう、自分に何がしてやれるのかきちんと考えぬまま、奏の捧げてくれる愛に飛びつこうとしていたのだ。
しかし今、二人の抱擁を間近に見て分かった。ここは自分のいる場所ではない。どちらが正常でどちらが異常だなんて言うつもりはない。ただ、自分がこれまで生きてきた世界ではないということは確かだった。
喬允は抱擁の腕を解くと、「色々ありがとな」と心からの感謝を告げてビルを後にした。張り詰めた静寂がその場を支配したが、それを破ったのは普段と変わらぬ本多の無機質な声だった。
「奏、仕事だ」
「……分かってる」
「私はあんな茶番に加担するために来たんじゃない」
「分かってる!」
奏はヒステリックに怒鳴ると、感情の暴威を抑えるように拳を震わせた。やがてかくんと肩を落とし、
「仕事……今すぐじゃなきゃ駄目なのか?」
「どういうことだ?」
奏はくくっと陰気な笑いを漏らし、
「身構えることないよ。ただ、あんたにめちゃくちゃにして欲しいだけ。どう?」
本多は片方の眉を僅かに吊り上げて、「ふむ」とうなり、
「なら、あと三人ほど呼ぶが、どうだ?」
「いいよ、三人でも五人でも十人でも。どうせ途中で意識飛ぶんだから、何人でも同じだ」
まるで他人事のようにさらりと答えると、奏はさっきまで喬允がいた空間を避けて奥に進み、エレベーターに乗り込んだのだった。
<11>
『パパぁ、そらみだよ。これからおしごと?』
朝、そろそろ家を出ようかという頃、宙美から電話がかかってきた。宙美曰く、この時間は『ママのおけしょうのじかん』で、『いっしょうけんめいお顔をかいてるからきづかれない』そうだ。
「ああ。でも大丈夫だよ」
喬允は優しく応じて、ちらと時計を見た。今日はまず問屋回りをする予定で、特別なアポも入っていないから、多少出る時間が遅れても構わなかった。
宙美は嬉しそうに声を弾ませて、幼稚園に野良猫が迷い込んだ話や友だちの間で流行してるダンスの話をした。そして最後に、ほんの少し声色を変えて、
『パパ、あのかっこいいおにいちゃんはげんき?』
「え? あ、ああ。最近逢ってないんだよ。仕事が忙しいみたいだな」
『そっかあ……』
宙美はしごく残念そうに呟いて、大人びた溜め息をついた。喬允は少し複雑な感情を持て余しつつ、
「宙美は、あのおにいちゃんが好きなのか?」
『うん! すごくかっこいいし、わらったお顔がきれいだし、やさしかったし。そらみ、またあいたいなあ』
「俺も……逢いたいよ……」
思わず口をついて出た呟きに、喬允は激しく狼狽した。その慌てぶりが電話越しに伝わったのか、宙美は怪訝そうに『パパ?』と呼びかける。
「あ、いや、何でもないよ、ごめんごめん。それじゃ、パパはそろそろお仕事に行かないと。また電話してきていいからな」
『うん、またね』
明るい声で言い置いて、宙美は電話を切った。
「またね、か……」
少し前までは、娘とこんな風に楽しげな会話が交わせる日が来るとは夢にも思っていなかった。この温かな絆のきっかけを与えてくれた奏に対し、あらためて感謝の念が湧き上がる。
しかし、その奏との連絡が途絶えてもう一カ月だった。ビルのエントランスで別れて以来、電話もメールもない。もちろん逢う機会もない。
喬允の方から何度か電話をしようとしたのだが、いつも直前で気後れしてやめてしまう。着信拒否されるかもしれない、繋がったとしても何を話していいのか分からないと悶々と考え込んだ挙げ句、携帯を閉じてしまうのだ。
そんな自分の気弱さを棚に上げて、どうして奏は連絡をくれないのかとつい責めたくなってしまう。しかし、すぐに思い直す。二人の間に線を引いて、彼の想いを拒絶したのは自分の方だ。
奏の求めるものを何ひとつ差し出すことができないのに、連絡をくれないと恨みがましいことを言うのはお門違いというものだ。でも―――
「また遊びに来るって言ったくせに……」
奏が初めてこの部屋に来た日、帰り際に『また来るから』と言った時の眩い笑顔が思い出される。喬允はそれを努めて脳裏から払い、肩を落として仕事に向かったのだった。
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「あとは薬審の結果待ちですが、ドクターのゴーサインが出たのですから100パーセント採用決定でしょうなあ。本当にありがとうございます」
近田は大仰な抑揚をつけてそう言うと、グラスを両手で捧げ持つようにして深々と頭を下げた。喬允もそれに合わせて一礼すると、林原医師はすでに酩酊状態なのか赤い顔をして手をひらひらさせ、
「もうやめなさい。仕事の話はここまでだ。今日は飲もう飲もう」
「はっ、ではお相伴にあずかります」
近田は恭しく言葉を返して、グラスの中身を一気にあおった。それを見た林原医師は嬉しそうに「ほっ、ほ」と笑い、自分も同じように飲み干した。
その様子を一分の隙もない笑顔で眺めながら、喬允は腹の底で毒づいた。まるで、近田課長の手柄みたいだなと。
今日の接待は、新薬の採用許可を出してくれた林原医師を招いての、いわば“お祝い接待”だった。
新薬採用のおおまかな流れは、まず薬局長のPR許可を得てから特定の医師に交渉し、許可された場合薬事審議会(薬審)に申請されて採用が決定する。
林原医師への交渉を続けていたのは他ならぬ喬允で、福山医師への『セフィロゾール』売り込みと同時進行で力を入れていたのだ。
近田は上司として今日のお祝い接待に駆け付けただけ。なのにすっかり自分の手柄気取りで、喬允になど見向きもせずひたすら林原医師の話に相槌を打っている。
それでも、近田がいてくれて助かっているのも事実だった。酒に強くない喬允が、酒豪で有名な林原医師のペースに付いていくのは不可能。自分の代わりに近田が飲んでくれれば、明日酷い二日酔いに苦しまずに済むに違いない。
喬允は大きな仕事を達成した後の束の間の充実感に酔いながら、ちびちびとグラスを傾けていた。しかし、
「何だね、君。私の前でそんなしみったれた飲み方をするんじゃない」
グラスの中身が一向に減らないのを見咎められ、喬允は仕方なく(もちろん外見はにこやかに)一気に流し込んだ。それをみた医師は「いいぞ、いいぞ」と嬉しそうにはしゃぎ、自分のグラスに手酌で注ぐ。
まるで体育会系サークルの飲み会だったが、聞けば林原医師は学生時代、ラグビーをやっていたということだった。
ハイペースを維持したまま体育会系な接待は続き、取り敢えず一次会はお開きになった。とはいえこれで終わるはずもなく、当然二次会へ雪崩れ込む。
喬允もかなり酔っていたが、二次会の店も事前に予約してあったから特に問題はなかった。
千鳥足とまではいかないが、明らかに酔っ払いの歩調でふらつきつつ林原医師と近田の後に続く。まだ週の半ばにもかかわらず、夜の繁華街は昼間以上の人出で混雑していた。
喬允はふわふわと辺りを見回し、この中の果たして何割が本当に楽しい時間を過ごしているのだろうかと、酔いも冷めそうなほど寒々とした考えをくゆらせた。その時、
「奏……っ」
たくさんの虚ろな笑顔が交錯する視界が、一瞬のっぺりとしたモノトーンに変じた。その書き割りのような背景から、奏の横顔が浮かび上がる。
それは完璧な曲線と美しい陰翳の集合体として、アルコールと繁華街の膿んだ空気でふやけた喬允の網膜に刻まれた。
「奏……」
喬允はその後をふらふらと追い掛ける。奏は目的地が決まっているのか、複雑な人の波間を縫うようにしてさくさくと歩いていく。喬允は時折見失いそうになりながらも何とかその後を追い、気が付けばメインの大通りから外れた薄暗い脇道に入っていた。
看板らしきものは出ているが、バーなのかカフェなのかライブハウスなのかよく分からない小さな店が立ち並ぶ狭い通りは、喬允の目には悪夢めいた異世界のごとく映った。いつもの道からほんの少し逸れるだけで、全く知らない世界に迷い込んでしまうのだ。
喬允は軽い眩暈を覚えつつ、それを酩酊のせいにして奏の背中を追った。
やがて奏は、通りの最も奥まった場所にある店の前で立ち止まった。ここに入るつもりなのだろう。喬允は素早く駆け寄って、奏の腕を掴んだ。
「喬兄……っ」
奏は驚きを隠さず、ドアを半分開けたまま固まる。それは喬允も同じで、何の考えもない咄嗟の行動だったから、どうしてよいか分からず奏を見つめるだけだった。
「……どうしたんだよ、いきなり。驚くじゃないか」
先に反応を返したのは奏だった。視線を外して、愛想のない声で質す。対して喬允は「あ、ああ」と頼りない返事をして、
「偶然、見かけたから。その……元気か?」
奏は俯いたまま、「お陰さまで。元気だよ」と皮肉っぽく返す。そして長い睫毛の奥からちらと見上げ、
「こんなとこにいたら邪魔になる。取り敢えず中に入ろう」
そう言ってさっさと店内に入っていった。喬允もその後に続くしかなかった。
店内は、想像以上に広かった。趣味のいいインテリアに落ち着いた間接照明が、寛ぎの空間を演出している。いかにも女性が好みそうな店だが、ざっと見渡す限り女性客の姿はなかった。
青年から初老の男性まで年齢には幅があるものの、全員が男。顔を寄せ合って親密に会話していたが、奏と喬允が姿を現すと一斉に視線が飛んできた。
喬允は思わず身構えたが、奏は慣れているのか平然とカウンターに向かい、丸椅子に腰を下ろした。そしていかにもマスターといった髭のバーテンに軽く手を挙げ、
「みんなもう集まってる?」
「ああ。あとは奏待ちだ」
「ふ…ん、別に始めてても構わないのに」
「そう言うな。女王様のご到着をみんな今か今かと待ちかねてるぞ」
「何だよ、女王様って」
不愉快そうに眉根を寄せる奏に、バーテンは肩を竦めてみせた。
「女王様じゃなかったら、ファム?ファタルだ。男を狂わす<宿命の女>」
「阿呆くさ」
ここでようやく、奏の隣にいる喬允に気付いたバーテンは、営業用の笑顔を向けて、
「で、こちらの方は? 奏のお連れさん?」
「いや、ただの迷子」
奏の言葉にほんの少し自尊心を傷付けられた喬允は、努めて平然と「奏の友人です」と返した。
すると、その会話に聞き耳を立てていた客二人が背後からすっと近寄り、喬允の両脇に立って見定めるような粘ついた視線を送った。そして初対面とは思えぬほどなれなれしい仕草で喬允の肩や腕に触れ、
「へえ、お兄さん奏の連れなんだ。じゃあ例のパーティーにも参加するんだね」
「ぱっと見は地味だけど、よく見たらかっこいいね。それに、身体もがっしりしててなんか色っぽい―――」
二人の意味深な言動は、奏の荒々しい行動によって断ち切られた。無言のまま立ち上がり、喬允の肩に置かれた手をぎりぎりと掴んで引き剥がし、
「……気安く触んな」
どろりとした感情の澱で重くたわむ声で威嚇する。俯き加減のためその表情は分からないが、二人の男はもちろん、傍にいる喬允にも皮膚が灼けるような怒気が感じられた。
「なっ、なんだよ、俺たちは別に……」
二人は慌てて飛び退き、目を泳がせて釈明の言葉を探す。すると奏は俯いたままくくっと喉を鳴らして肩を震わせ、
「冗談だよ。なにびびってんだよ」
「あ、あはは、なんだ、びっくりさせんなよ……」
二人はあからさまにほっとした様子で乾いた笑いを漏らしたが、バーテンにテーブルへ戻るよう目配せされて、そそくさと帰っていった。奏はそれを冷ややかに見送ると、喬允の腕をそっと取り、
「マスター、悪いけどちょっと遅れるって言っといてくれ。俺はこのでかい迷子を送ってくるから」
「ああ、分かったよ」
そして戸惑う喬允を有無を言わさず引っ張ると、店を出た。
「奏、俺は大丈夫だ。一人で帰れるから」
必死に言い募る喬允の方を見ようともせず、奏は「駄目だ」とあっさり一蹴する。
「さすがに気付いてると思うけど、この界隈はいわゆるゲイバーが多い。喬兄みたいな警戒心ゼロのノンケがふらふら歩いてたら、何されるか分からない。最近は、ノンケの男を食うのが趣味、って公言してるとんでもない輩もいるから」
「俺だって男だ。大人しくされるがままになるはずが―――」
「週に五日スポーツジムに通って鍛えてるような男三人がかりで押さえ付けられても?」
「う……それは自信ないな。特に今は酔ってるし」
「自覚してるってことは、酔いが浅いってことだな。ほら、もっと俺の方に寄って。今だけは恋人同士の振りをしてくれ。……嫌だろうけど」
喬允は言われた通り、腕が触れ合うほど近づいた。そしてぽつりと、
「嫌じゃないさ。お前の恋人に悪いなとは思うけど」
「別にどうでもいいよ、そんなの」
投げ遺りな口調に照れ隠しではない本音を感じた喬允は、思わず足を止め、
「恋人と……うまくいってないのか?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「なんでって……そりゃお前には幸せになってもらいたい……」
喬允は途中で口を閉ざした。自分が口を挟むようなことではないと察したからだ。苦い溜め息をついて、無言のまま再び歩き出す。気詰まりな空気に耐えられず、喬允は努めて明るい声で、
「あ、そういやさっきの店でパーティーやるのか? 俺もちょっと顔出したかったな」
すると奏は顔を歪め、「何言ってんだよ」と強張った声で返す。
「いや、だってお前の友だちが集まるんだろ? 簡単に挨拶して、これからも奏をよろしくって言うくらいは―――」
喬允は続く言葉を呑み込んだ。奏が突然笑い出したからだ。
「奏? 何が可笑しいんだ」
「可笑しいよ、ちょっと顔出すってさ。喬兄、これから俺が参加するのは、いわゆる乱交パーティーだよ」
「乱交……」
「そう。あの店の二階で気の合う仲間が集まって、酒飲んで薬で飛んで、ヤリまくる。男同士ってどっちの役目もできるから、二倍楽しいっていうか二倍気持ちいいっていうか。言ってる意味分かるよな? あ、言っとくけど違法薬物は使ってないから。あと、みんなHIVは陰性だ。検査済みの信用できるヤツしか呼ばない―――」
笑いを引きずった妙に明るい声で滔々と説明する奏だったが、いきなり腕を強く掴まれて低く呻いた。
「なんだよ、喬兄、いきなり」
「お前っ……何やってんだ。恋人がいるんだろう?!」
奏はすぐには応じず、「痛い」と言って喬允の手を振り払い、
「だから何だよ。恋人がいたら、他の男とヤっちゃいけないのか?」
「当たり前だ!! そんな―――」
「大声出さないでくれよ。それと、喬兄の価値観を押し付けるのもやめてくれ。到底分からないだろうけど、ゲイってのは世間の誤解や軽蔑、差別にさらされてけっこうなストレスを抱えているんだ。たまにこういうことで発散しないとやってられない」
喬允は唇を噛み締め、奏の言葉を何とか理解しようと努めた。しかし呑み込もうとしても喉に引っ掛かって、むかむかとした吐き気とともに戻ってきてしまう。
「お前は……何とも思わないのか? そんなことをして……」
心神の消耗が感じられる弱々しい声で質す喬允に、奏は肩を竦め、
「別に。恋人ったって結婚するわけじゃないし。そもそも男同士じゃ結婚できないし。気持ちよければいい。そういう考え方って最低だと思う?」
軽薄な問いに、喬允は重々しく答えた。
「ああ、最低だ」
喬允の隣で、奏の身体がびくっと強張る。
「そう、だよな……ははっ……」
そしてぞっとするほど自虐的な笑みを浮かべると、前方を指差した。
「ここまで来ればもう大丈夫。あれが駅前の大通りだ。この先は、喬兄みたいなまともな人間が暮らしてる正常な世界。俺は、最低最悪な病んだ世界に戻るよ。それじゃ」
「奏っ……」
喬允が何か答える間もなく、奏は身を翻して闇の世界に融けていった。
<12>
まだ接待の途中だったということを思い出したのは、奏の背中が夜の中に沈んでゆくのを見送って、ふっと複雑な溜め息をついた時だった。二次会の店に向かう途中で前を行く林原医師と近田から離れ、そのまま奏を追ってしまったのだ。
すでに、あれから一時間近く経っている。店の場所は分かっているから今から駆け付けることも可能だが、酔っ払い相手に謝罪するよりは、明日になって素面の状態の時にあらためて謝った方がいいだろう。
飲み過ぎて前後不覚になり、気が付けば家に帰っていたということにしてひたすら謝ろうと自分に言い聞かせ、喬允は肩を落として駅に向かったのだった。
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