饭饭TXT > 海外名作 > 《孤独的狮子在夜间哭泣(日文版)》作者:[日]未知【完结】 > 孤独的狮子在夜间哭泣.txt

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作者:日-未知 当前章节:15360 字 更新时间:2026-6-23 02:23

「おや? 君は出水製薬の……」

病棟の外に出たところで、福山医師にばったり出遭った。白衣ではなかったから、帰宅するところなのだろう。喬允は疲労を隠せぬやつれた笑みを浮かべて頭を下げ、

「もうお帰りですか? これから医局へ伺おうと思っていたのですが」

「ああ、たまにはのんびりとした夜を過ごすのもいい」

「そうですね。いつもお忙しくしていらっしゃいますからね」

そう言って笑みを深める喬允の顔をじっと覗き込んで、

「ずいぶん疲れているみたいだな。何かあったのか?」

「え? いや、それがその……」

ついさっきまで林原医師と面会して、昨夜の謝罪をしていたのだ。林原医師は案の定ひどく立腹しており、最初は喬允が何を言っても受け入れようとしなかった。

しかし、有名ホテルの最上階にある高級中華料理店のVIP専用個室で、謝罪の意味も含めてもう一度席を設けさせていただきますと言った途端、態度を軟化させた。その後もひたすら謝り続け、どうにか腹の虫を治めてもらったのだった。

もちろん自分に非があるので文句も言えないのだが、喬允はすっかり疲労困憊してしまった。

「実はその……昨夜の接待で……」

酔っ払った挙げ句、接待の途中で帰ってしまったことを福山医師に打ち明けた。すると医師は楽しげに声を弾ませ、

「接待の途中で帰ったMRなんて聞いたことがない。君が初めてだよ」

そう言って大口を開けて笑った。喬允にとっては笑い事ではないのだが、表情の変化に乏しい福山医師が楽しそうに笑っているのを見るのは、嫌な気分ではなかった。

「まあ気にするな。林原君は終わったことをいつまでも根に持つような男ではないから」

「はあ」

気の抜けた返事を返す喬允を苦笑混じりで見返すと、福山医師はぽんと肩を叩いた。

「どうだ、これから付き合わんかね」

「え、えっ? 私が、ですか?」

「君以外に誰がいるんだ。こんなおじさんと飲むのは気が進まんだろうが」

「とっ、とんでもありません! ぜひ、ぜひお付き合いさせてください」

声が上ずってしまうのが自分でも分かる。大学病院の外科部長が、自分のようなヒラのMRを誘ってくれるなんて、滅多にあることではない。

「落ち着いて飲める静かな店がいい。騒がしい場所は嫌いでね」

福山医師のリクエストを受けて、喬允は頭の中にあるデータベースを検索する。

「いい店がありますので、ご案内します」

そして緊張しつつも車を呼んだ。

テーブル席に案内するつもりだったが、カウンターの方がいいと言われ端の席に腰を落ち着けた。

「うん、なかなかいい店だ」

福山医師は寛いだ様子でスコッチを注文し、店内を流れるジャズアレンジのバッハに耳を傾けた。時間がゆったりとスウィングしながら過ぎてゆく。

「この前の説明会はいい出来だったな。相当準備しただろう」

「ありがとうございます」

「ただ、二、三気になるところがあるのだが……」

喬允はぴっと背筋を伸ばし、丸椅子を回転させて医師に正面から向かい、

「分かりました。早急に調べて資料を揃えますので」

「うん、そうしてくれ」

喬允はほっと息をついた。ゴールまでの道筋が、ぼんやりとだが見えてきた。しかし、まだまだ油断はならない。丸山の不遜な笑顔が脳裏をちらちらかすめる。

「あ、そういえば相模製薬さんは、説明会を有名な温泉場で開催されるとか……」

何気ない風を装って水を向けたが、喬允の意図など福山医師はお見通しだったのか、淡々とした口調で、

「ああ、あれか。私は行かんよ」

「えっ? 行かれないのですか?」

「ああ。大勢で温泉でどんちゃん騒ぎなんて、考えただけでぞっとする」

そしてちらと含蓄ある一瞥を向けて、

「安心したかね?」

「え……あ、あの……はい……」

「はは、正直な男だな、君は」

褒められているのか呆れられているのか微妙なラインだったが、ともかく医師の機嫌を損ねることはなかったようだ。喬允は胸を撫で下ろし、グラスに口を付ける。ようやく酒の味が感じられるようになってきた。これまでは緊張のせいで、味覚も嗅覚も麻痺していたようだ。

「相模の丸山君は、熱心なのは認めるが、少々独善的なきらいがあるな」

大きく頷きたいところをぐっとこらえて、喬允は穏当な返事を返した。

「経験からくる自信なんでしょうね。お前は押しが弱い、やり方が地味だといつも上司にどやされている私から見れば、学ぶべきところは大いにあるのですが」

「君には君のやり方、信念があるだろう。学ぶ姿勢は大事だが、人のスタイルを安易に取り入れるのはよくない」

福山医師は年長者が若者を諭すような口調でそう言うと、「仕事の話はここまでにしよう」と言ってにやりと笑った。そして店内をぐるりと見回し、

「ところで、この店の名前は何だね?」

「え、あ、確か……『モンティセリ』だったかと」

「ああ、やっぱり」

医師は満足げに頷き、脇の壁に掛けられた一枚の複製画を指差した。

「モンティセリは画家の名前だよ。ほら、あの絵。彼の代表作『カシスの舟』だ」

太陽の光をいっぱいに浴びて黄金色に輝く帆が美しい作品だった。喬允はそれを眺めながら、

「先生は絵画にも造詣が深いのですね」

「いや、今は見るだけだがね。私は若い頃は……画家になりたかったんだよ」

「それは意外でした。ずっと医者を目指して勉強されていたとばかり」

「まあ、我が家は医者の家系だからね。医学部に入るのが当たり前というか、画家になりたいなんて口が裂けても言えなかった。そんな中、唯一叔父だけは医者にならず、神田に日本画専門の画廊を開いた」

福山医師がこんなプライベートな話までしてくれるとは思わなかった。喬允は接待であることも忘れ、その話に聞き入った。

「叔父が扱っていた作品はどれも素晴らしいものだったが、中でも中村禅山という京都の画家の作品に惹かれてね、予備校に行く傍ら親に黙ってこっそり観に行ったものだよ」

「……自分のやりたいことを貫こうとは考えなかったのですか?」

喬允の問いを、福山医師はゆっくり反芻してから答えを出した。

「やりたいこととやらねばならないことがぶつかった時、私はやはり前者を取るべきだと思う。但しそれは、失敗した時の全責任を自分が負う覚悟ができている場合だ。私にはその覚悟がなかった。だから画家は諦めた。人から言われた通りにしていれば、失敗した場合に責任転嫁できるからな」

自虐的なほどあけすけな言葉に戸惑いを覚えつつも、喬允は自分に言い聞かせるようにぽつりと返した。

「そうですね……理想の追求には覚悟が必要なんだ……」

やりたいこととやらねばならないこと、理想と現実がぶつかって、どちらかを選ばねばならぬ局面に相対することになった時、やはり自分はこれまでのように楽な方へ流されてしまうのだろうか―――

「今はもちろん、この道でよかったと思っている。でもたまに……あの時別の道を選んでいたらどんな人生が待っていただろうかと、ふと考え込んでしまうこともあるけどな」

考え込む喬允を横目で眺めつつ、福山医師は明るい声でそう言って柔らかく微笑んだ。そこには、これまで重ねてきた実績に対する揺るぎない自信が溢れていた。喬允は力ない笑みを返し、

「先生のように、この道でよかったと言える時が来るのか、正直なところ不安があります。本当にいつもいつも迷ってばかりで……」

「分岐点はいたるところにある。いつも間違わずに進める人間なんてひと握りの賢者だけだ。迷いなさい、苦しみなさい。そしてどうしても決められない時は……」

「時は?」

勢い込んで訊ねる喬允に、医師は淡々とした口調で、

「自分の心に聞いてみるといい」

「心……ですか?」

もっと深遠で哲学的な答えを期待していた喬允は、医師の在り来たりな言葉に失望を隠せなかった。医師は苦笑を漏らし、

「本当に君は正直な男だな。心に聞くだなんて、安っぽい言葉だと思うかね? そうだな、では心を欲望と言い換えてもいい。体裁や周囲の評価を考えず、自分が何を欲しているのか、何を望んでいるのかを見定めてそれに従う」

「欲望……」

何故か奏の顔が脳裏に浮かび、喬允は慌てて打ち消した。何を考えているんだ俺は。欲望という言葉から反射的に奏を思い浮かべるなんて。

喬允は何とか平静を繕ったが、体温の上昇までは誤魔化せなかった。鳩尾の辺りにともった熱が、ゆっくりと全身に浸透してゆく。じんわりと汗ばみ始めた額をそっと拭うと、身体の火照りをアルコールのせいにするためグラスの中身を一気に流し込んだ。

「ともかく、君はまだ若いんだ。上司の指示に耳を傾けることも必要だが、信念や理想を捨てるには早いと思うぞ」

「あ……ありがとうございます……」

「いやいや、礼を言われるようなことではないがね」

しかし喬允は分かっていた。福山医師は婉曲にだが“君は君のやり方を貫きなさい”とアドバイスしてくれたのだ。

それからは、グラスを傾けつつ互いの趣味の話などをして、あっという間に時間が過ぎていった。店を出て車を呼び、医師を自宅まで送り届けた喬允は、座席のシートに身体を投げ出して深い深い溜め息をついた。

何だかまだ信じられない。あの福山医師と何時間も親密に酒を飲んで話していたなんて。しかも、遠回しの励ましまでもらってしまった。

「これも……奏のお陰かもしれないな」

昨夜、奏を追い掛けたせいで林原医師の接待をすっぽかして怒らせてしまったが、そのエピソードが福山医師の興味を引き、こうして向こうから誘ってもらうことができた。

半ば諦めていた娘との再会、そして淡い絆。確実に自分の周囲で変化が起き始めている。それを奏の存在と切り離して考えることは到底できなかった。

『好きな人には幸せになってもらいたいんだ』――そう言って優しく微笑んだ奏。『喬兄、好きだよ』と真直ぐな告白を捧げてくれた奏。今にも崩れてしまいそうな脆さを険しい眼差しで隠し、『もう二度と逢わない』と叩き付けた奏―――

「運転手さん、すみません。ちょっと行き先を変えてもらえますか?」

考えて結論を出すより先に、口が勝手に動いていた。今逢いに行ってどうするんだ、何を話すんだと理性が囁く。もっと冷静になれと。しかし喬允はそれに耳を貸さず、湧き上がる衝動に従った。奏に逢いたいという衝動に。

いつだったか、奏が言った言葉が思い出される。愛は生々しい欲望、理性が制御できる範疇を超えた衝動なんだよ―――

「ではこれが……これが愛なのか? まさか……」

答えの出ない自問を悶々と繰り返しているうちに、車は見覚えのある雑居ビルの前に留まった。

喬允は鼓動が速まるのを痛いほど意識しつつ、エントランスを抜けてエレベーターに乗った。そして奏の部屋の前に立ち、ドアフォンを鳴らした。しかし、

「………いないのか」

全く反応はなく、扉の向こうに人のいる気配もない。喬允は二割の安堵と八割の落胆が入り混じった溜め息をついて、扉に背を向けたのだった。

<13>

翌日喬允が医局へ出向くと、福山医師の方から声を掛けてくれた。しかし昨夜一緒に飲んだことには一切触れず、挨拶もそこそこにファイリングされた書類をずいと差し出し、

「昨日話したが、幾つか疑問点をまとめておいた。早急に頼むよ」

「は、はいっ、承りました」

喬允が恭しく受け取って軽く一礼すると、背後から痛いほどの視線を感じた。振り向かなくても、相模製薬の丸山だというのは分かっている。

昨夜、本人の口から直接聞いたように、福山医師は丸山が主催する二泊三日の温泉接待ツアーに不参加を表明した。

薬局の関係者まで巻き込んだ華やかな接待をしたところで、肝心の医師が不参加では意味がない。この接待で『セフェプロン』採用に弾みを付けようとしていた丸山にとっては、大きなダメージだったに違いない。

その上、福山医師は丸山の目の前で、喬允に『セフィロゾール』に関するさらに突っ込んだ情報提供を依頼したのだ。心穏やかでいられるはずもない。喬允は背中に突き刺さる視線を感じながら、思わず漏れそうになる鼻歌をこらえて渡された書類をぱらぱらとめくった。

しかし書類に目を通すうちに、丸山に対する優越感や新薬採用への期待感など、浮ついた気持ちはしゅるしゅるとしぼんでいった。

「はは……これは大変だぞ……」

福山医師は『二、三気になるところがある』と言ったが、そんなレベルの依頼ではなかった。全ての項目に関する資料を揃え、医師が納得いく説明をするにはこちらも相当勉強せねばなるまい。優越感に浸っている余裕などなかった。

―――もしかしたら、試されているのかもしれない

そう思うと、不思議と力が湧いていた。試されるということは、試すだけの価値があると思われている証拠だ。最近忘れかけていた仕事への情熱、昂揚感を静かに噛み締めながら、喬允は医局を後にした。

その夜、喬允は営業所で日報を書くと、そのまま車で帰途に着いた。MRは自家用車を営業車として使用でき、ガソリン代なども支給される。接待のない日は、基本自分の車で移動することになる。

仕事が終わって頭が切り替わると、どうしても奏のことを考えてしまう。

昨夜、奏に逢いたいという衝動に身を任せ、理性の宥めにも耳を貸さず部屋を訪ねた。逢うことは叶わなかったけれど、あの時の突き上げるような衝動はたぶん、三島喬允という人間を形成する要素の中でも最も純粋なものだろう。

なりふり構わずただ心が求めることに従う。周囲との折り合いや体裁を気にする喬允が最も苦手とする行為だったが、実際にそれをした時の解放感は想像以上だった。

喬允はあらためて、自分の心や感情を幾重にも拘束する枷の存在を思い知った。それを取り払い、自由に振る舞うことができたらどんなにか……と考え、静かに首を振る。忘れてはならない、自由には代償が付きものであることを。

「俺には……無理だ。俺には……」

喬允は口先だけで呟きながら、ゆっくりとハンドルを切った。そして吸い寄せられるように、奏の部屋がある雑居ビルの前に停車する。しばし躊躇した挙げ句車を降り、外から奏の部屋を見上げる。

「なんだ、またいないのか……」

窓が真っ暗なのを確認すると、昨夜と同じく安堵と落胆の混じった溜め息が漏れた。しかし昨夜と違うのは―――

「逢いたいよ、奏……」

溜め息を追い掛けて、本音の囁きがこぼれた。

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それから三日後、喬允は再び奏の部屋を訪れた。しかし、またしても不在。その翌日、今度は仕事の合間を縫って昼間に訪ねてみたが、やはり応答はなかった。部屋の扉の前で、喬允は途方に暮れる。

「仕事か、それとも旅行とか……」

逢えないとなると、余計に思いが募る。『何の用?』と冷たくあしらわれるのを覚悟で携帯に電話しようとした時、背後からこちらに真直ぐ近づく足音が聞こえた。振り返った喬允の視界に入ったのは―――

「あ、あなたは奏の……」

奏の恋人。確か本多という名前だったはず。喬允は気まずさからそっと目を逸らし、軽く一礼してその場を離れようとした。

すると本多に呼び止められ、訝りつつも「何でしょうか」と応じた。本多は感情の磨滅した平坦な口調で、

「奏に逢いに来たのか?」

「え? あ、まあ……ちょっと近くを通りかかったので寄ってみただけですよ」

弁解がましい返答になってしまうのは仕方ないだろう。恋人の部屋を別の男が訪ねるのを見て、いい気分のはずはない。喬允は本多の感情に波風を立てないよう、卑屈な笑顔を浮かべてみせた。

しかし本多は気にした様子もなく、淡々と驚くべき事実を告げた。

「奏はここにはいない。入院している」

「入院?! 待ってください、一体何があったんですか」

「大した怪我じゃない。一週間程度で退院できるはずだ。私は保険証を取りに来た。あれがないと入院手続きができないからな」

「怪我? 奏が怪我をしたんですね?」

噛み合っているのかいないのか微妙な会話だったが、ともかくこの数日奏が家にいない理由は分かった。保険証を取りに室内に上がった本多が戻ると、喬允は勢い込んで訊ねた。

「本多さんと仰いましたね。奏に何があったのか教えてください」

「仕事で失敗した。こちらの言う通りにせず勝手な行動をとったのだから、自業自得だ」

情のかけらも見せずばっさり切り捨てる本多に、喬允は声を荒らげて詰め寄った。

「あなたは奏の恋人でしょう? そんな冷たいことをよくも―――」

「私は恋人ではない。まあ敢えて言えば仕事仲間。依頼人だ」

「恋人じゃ……ない? でも確かこの前は……」

「無理やり恋人のふりをさせられただけだ。あんな茶番に巻き込まれて、はっきり言って迷惑だ」

喬允は驚きを隠さず、ゆるゆると首を振って、

「なんでそんなことを……」

すると本多は、初めて瞳に感情らしきものを刻んだ。哀れむような目で喬允を見つめ、

「分からないのか?」

喬允は何も言えず、ただ項垂れる。本多は再び結晶の瞳に戻り、

「私はこれから奏のいる病院に行くが」

喬允はその言葉に弾かれたように顔を上げ、「俺も行きます」と言って本多とともにビルを出た。

「先ほど仕事で失敗したと仰いましたね。奏は何をしたのですか?」

病院へは、喬允の車で向かうことにした。その車中で、喬允は気になっていたことを本多に訊ねた。本多は前を見据えたまま、

「ちょっとしたお使いだ。ある荷物を運び、男からその代金を受け取って指定口座に振り込む。それだけだ」

「それだけ? なのに何故―――」

「相手の男が、ここには金を持ってきていないと言った。金は事務所に置いてあるから取りに来てくれと。その場合、決して荷物は渡さず、すぐ私に連絡するよう言ってある。なのに奏は私に連絡もせず、男に付いていった。案の定、事務所には四人の男が待ち構えていて、奏から無理やり荷物を奪おうとした」

ハンドルを握る手がじんわり汗ばむ。ここまで聞けば、善良な一般人の喬允にもさすがに見当が付いた。

「その……“荷物”というのは何ですか?」

本多はちらと横目で運転席を一瞥し、

「それは聞かない方がいいと思うが」

その答えで十分だった。喬允はぎゅっとハンドルを握り直し、

「……それで、奏は………」

本多はかすかに口元を綻ばせ、

「男たちからの壮絶な暴力で瀕死の大怪我かと思いきや、ダメージが大きかったのは寧ろあちらさんの方だった。正直なところ、驚いた。奏がこんな武闘派だったとはな」

「あいつは強いですよ。外見も言動も目立つから、学生の頃はよく先輩に目を付けられて呼び出されてましたけど、決して屈せずいつも倍にして返してました」

「ああ、その手の話は聞いたことがある。そのたびに幼馴染みが守ってくれたと奏は言っていたが、それはあんたのことだろう?」

喬允は唇を吊り上げて自嘲をこしらえ、

「守ったなんてとんでもない。ただの事後処理ですよ。全てが終わった後に青ざめた顔をして駆け付け、暴力はいけないなんて毒にも薬にもならない説教をして、何があったと騒ぎ立てる教師をうまく宥める。その程度です」

我ながら卑屈だなと思いつつも、喬允の自虐口調は止まらなかった。

「俺があいつのために何かしてやったことなんて一度もない。あいつは自分一人で何でもできる。俺の助けなんて必要ないんだ」

本多はそれに対して何も口を挟まず、無機質な瞳をフロントガラスに据えてじっと前方を見つめるばかり。もちろん、本多が何か論評めいたことを言うとは喬允も思っていなかった。ふぅっと息を吐き、

「奏はこれまでも、あなたの指示に背くことはあったのですか?」

「まあ、怖いもの知らずで無鉄砲な奴だからな。これまでも色々と問題を起こしてくれた。しかし、今回のような無茶は初めてだ。相手が丸腰だったからよかったが、武器を携帯している可能性もあった。そうなれば、いくら腕っぷしに自信があっても勝ち目はない。半殺しの目に遭わされて放置されたか、運が悪ければバラされてどこかの山奥に捨てられていただろうな」

淡々と答える本多に底知れぬものを感じながら、喬允は誰にともなく呟く。

「あいつは何故、そんな無謀なことを……」

本多は前を向いたまま目だけでちらと喬允を見た。そして、

「さあな。理由は分からんが、この仕事を持っていった時はかなり荒れていた。依頼するのをやめようかと思ったほど、情緒不安定だった」

「それは……いつ頃ですか?」

「四日前だ。もともと感情の起伏が激しい奴だが、あの日はやけに躁状態だった。もっと危険な仕事をやらせろと絡んできたり。今思えば、相当危うい状態だったな」

「四日前……」

夜の繁華街で奏を偶然見かけ、乱交パーティーの話に嫌悪を露わにして別れたのが五日前。ということは、奏の情緒不安定の原因は……

「おい、どうした? 顔色がよくないぞ」

本多の口調は、心配しているというより事実を指摘しているだけのあっさりとしたものだったが、その方が喬允にはありがたかった。弱々しい声で「大丈夫です…」と答えると、奏のいる病院に車を走らせたのだった。

街の外れにある、個人経営の小さな病院だった。おそらく本多と繋がりのある医者で、今回のように表沙汰にしたくない流血事件が起きた場合、うまく対処してくれるのだろう。

「奏、入るぞ」

返答を待たず扉を開け、本多はずかずかと室内に入っていった。そして、扉の手前で躊躇する喬允には構わず、「具合はどうだ」と訊ねる。左腕から胸まで包帯を巻かれた奏は、白いベッドの上で不機嫌そうに眉根を寄せ、

「死ぬほど退屈。入院なんて大袈裟だろ」

「黙れ。あと2ミリ傷が深かったら腱が切れていた。死ぬほどつらいリハビリが待っていたんだぞ」

奏は鼻先で嗤い、

「リハビリなんてしない。ああいうのは、リハビリ後の生活に希望が持てる人がやるものだ。俺なんて何にも―――」

言葉は途中で消えた。代わりに、濃厚な驚きが奏の唇を震わせる。

「な…んでここにっ……」

扉の影から姿を現した喬允は、黙ってベッドに近づいた。奏は驚きを無理やり消化すると、険しく視線を尖らせ、「何でここにいるんだよ」と否定的な口調で質した。

しかし喬允には手に取るように分かった。その挑むような強い態度は、今にも頽れそうなほど脆い自分を守るための必死の方便に過ぎないと。

「保険証を取りに行ったら、彼が部屋の前にいた。だから私が連れてきた」

奏の問いに対し、本多がさらりと答えた。そして「手続きをしてくる」と言い置くと、喬允を残して部屋を出ていった。

「ああ、もちろん。でも見て面白いものなんてないぞ」

そう言ってキッチンに向かう喬允の背中を見送り、奏は立ち上がった。そして鼓動が速まるのを意識しつつ他の部屋を見て回る。

洗面所や風呂場を覗き、女性の痕跡がないのを確認すると、ほんの少しだけ気持ちが浮上するのを感じた。離婚してすぐ女性を連れ込むような男だとは、最初から思っていないのだが。

風呂場を出た奏は、斜め向かいの扉を開けた。途端に心臓がどくんとはね上がる。モノトーンで統一された寝室は、清潔感と喬允らしいこだわりが共存した心地よい空間だった。

身体の大きな喬允にはぴったりのセミダブルのベッドに近づき、腰を屈めてそっと手を伸ばす。その時、棚の上にこの空間には不似合いな色彩を見つけた。

それはアンパンマンがプリントされた赤いボールで、黒のマジックで『さくらぐみ みしまそらみ』と大きく書かれていた。お気に入りでよく遊んでいたのだろう、ところどころ傷が付いて汚れている。

奏は手に取って暫し眺めていたが、やがて元あった場所に返してリビングに戻ったのだった。

<15>

それからの数日、喬允は努めて仕事に専念した。福山医師から出された“宿題”が当初の予想通り難物であることが判明し、集中して取り組む必要があった。

と同時に、そうすることで日曜に控えているもう一つの“仕事”に対する不安感を誤魔化そうという思いもあったのだが。

そして、病院から営業所に戻って集めた文献を調べ、資料作成に必要な情報を収集している時だった。近田が興奮した様子で喬允の元に駆け寄ってきた。

「み、三島くんっ。やったじゃないか。福山医師じきじきのご指名だぞ」

近田らしい大袈裟な表現だったが、その内容を聞けば喬允にも納得できた。

「福山医師が、学会同行を君に頼みたいと言ってきた。場所は京都だ」

「えっ……私が、ですか?」

「そうだ。医師にアプローチを試みている数あるMRの中から、君を選んでくれたんだよ。これで『セフィロゾール』採用は決定したも同然だな」

余りに都合のいい推測に聞こえるが、実際、医師が出席する学会に同行したMRはより親密になれ、ほとんどの場合その後薬が採用されたり処方量が増えるという。

MRが学会発表を聞いたところで、内容が難しくてほぼ理解はできない。MRが同行するのは、交通機関や観光、夜の食事を手配するためだ。

日常とは異なる環境で長い時間を共に過ごすのだから、そこで医師を楽しませることができれば、普段の接待よりずっと効果的に親密度を上げることができる。

もちろん医師だって、気に食わない人間に同行を許したりしないだろう。特に接待嫌いの福山医師は、学会にMRを同行させること自体珍しかった。そういった事情を考えれば、近田の興奮も今回ばかりは理解できた。喬允も率直な喜びを顔に出して、

「光栄です。ぜひお伴させていただきます。ちなみに、いつですか?」

「うん? ああ、今度の日曜から月曜にかけての連休だ。ちょっと急だが、まあ多忙な福山医師のことだ。きっと直前になって出席を決めたんだろう。いいか、三島君。決して粗相のないように―――」

相変わらず自分の手柄のように得々と長広舌をふるう近田だったが、途中からその話は喬允の耳に入ってこなくなった。もちろん、理由は明白。

「今度の……日曜……」

危険な仕事や本多と縁を切らせるため、奏の代わりに仕事をすると約束した日。よりによってちょうどぶつかってしまうとは。

「観光地選びは慎重にな。少なくとも3ルートは用意しておいて、どんなリクエストにも応えられるように―――」

近田のアドバイスに機械的に頷きつつ、喬允は他ならぬ福山医師の『分岐点はいたるところにある』という言葉を思い出した。そう、自分は今まさにその分岐点を前にしているのだ。

「夜は京都らしく華やかな場所にお連れしろ。東京ではなかなか味わえない楽しみもたくさんあるからな―――」

頭のどこかで、『何を迷っているんだ』と厳しい声が響いている。福山医師に同行して新薬採用への弾みをつける。やるべきことは決まりきっているではないかと。

しかしそのためには、もう一つの道を諦めねばならない。今から本多に連絡して、日曜は都合が悪くなったから誰か他の人間に代わって欲しいと頼む。本多は間違いなく奏にやらせるだろう。これで奏は本多の棲む世界から抜け出す機会を失い、再び危険な仕事に自ら関与するようになる。

「それは……いやだ……」

喬允はかすれた声で本心を絞り出した。聞き咎めた近田は不審げに眉根を寄せたが、喬允は構わず自分の考えを整理することに没頭する。

やりたいこととやらねばならないこと。理想と現実。その相反するベクトルがぶつかった時、どちらの道を選ぶのか。

自分はこれまで、仕事においても人間関係においても、常に後者を選んできた。いや、それは積極的な選択ではなく、ラクな方に流れるという逃避だった。

その結果辿り着いたのは、心を通わせる者のいない孤独、そして虚ろな笑顔を漂わせるだけの空っぽの自分。こんなのはもう嫌だと、心が重い呟きを漏らす。そうだ、福山医師も言っていた。道の選択に迷った時は、自分の心に訊いてみるといいと。

狭いバーカウンターで聞いた時には在り来たりな言葉だと少なからず失望したが、今になってそのシンプルな強さを実感することができた。

喬允は、自分の心に問う。何を望んでいるのか、何を欲しているのか。

『好きな人には、幸せになって欲しいんだ』

奏の言葉に、その答えがあった。自分にはまだ、奏のことを“好きな人”だと堂々と言える自信はない。しかし“大事な人”であることに、疑念を挟む余地はない。

喬允は決断した。その道を選んだことで失敗しても、全ての責任を追う覚悟をもって。

「ど、どうしたんだ、いきなり……」

暫し黙り込んでいたと思ったら、突然立ち上がった喬允を、近田は何故か怯えた目で見上げた。微妙に張り詰めた空気を取りなすように、喬允は微笑を浮かべ、

「これから、新幹線の切符を買いに行ってきます」

「あ、ああ、そうだな、うん。それは早い方がいいだろう」

かくかくと頷く近田に軽く一礼して、喬允は営業所を出た。これから購入するチケットが一人分だと知ったら、近田課長はどんな顔をしただろうかと苦い窃笑を漏らしながら。

外科病棟の医局を訪れると、奥のソファで福山医師が数人のMRと談笑しているのが見えた。喬允は真直ぐ近づき、腰を折って一礼した。

最近、喬允と医師が親密度を増していることは他社MRの耳にも入っているらしく、喬允を見上げる目にあからさまな羨望を映している者もいた。しかし、喬允の中に優越感が湧くことはもはやなかった。

「あの、ドクター、ちょっとよろしいでしょうか」

小声で耳打ちすると、福山医師はすんなり頷いて立ち上がってくれた。喬允は鞄の中から細長い封筒を取り出し、

「新幹線の切符を手配しておきました。それで京都の学会なのですが……日曜にどうしても外せない用事がありまして、御同行できません。申し訳ありません」

謝罪の言葉とともに頭を下げると、医師の目が一瞬だが険しく尖った。喬允は思わず首を縮める。渡したチケットを目の前で破られる光景が頭の中で展開した。しかし、

「確かに急だったからな。別に構わんよ。用事があるのなら仕方ない」

医師はそう言って封筒を受け取り、中身を改めずそのまま白衣のポケットにしまった。その言葉が本心なのか皮肉なのか、声や表情から推し量ることはできない。いずれにしても、喬允がやるべきことに変わりはないのだが。

「私はそろそろ病棟に戻るよ」

いつものように淡々とした態度で医局を後にする医師を、さっきまで歓談していたMRたちが我先にと追い掛けた。喬允とのやり取りに聞き耳立てていたのは間違いない。今ごろ、ぜひ御同行させてくださいと必死にアピールしていることだろう。

「気にするな。俺は自分のやるべきことをやるんだ」

喬允は自らを奮い立たせるように呟いて、ぎゅっと拳を握り締めた。

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それから三日間、喬允は文字通り寝る間も惜しんで福山医師に提出する資料作成に全力を投じた。もちろん他の医師との面会など通常の業務をこなしつつ。さらに、医師が好みそうな京都の観光地や料亭などを探し、可能な限り綿密に調査した。

季節は春。桜の見頃はまだ先とはいえ、そろそろ観光客が増え始める時期だ。なるべく混雑を避け、ストレスなく早春の京都を楽しんでもらえるようなルートを頭を搾って考えた。

とはいえ、もし医師が他社MRを同行させることになったら、これらの努力は水泡に帰してしまうのだが。

しかしその可能性は低いのではないかと、喬允は推測していた。この数日間、近田課長はずっと上機嫌を維持していた。もし他社MRが喬允の代わりに同行することになっていたら、その情報が近田の耳に入らないはずがない。福山医師は代わりの同行者を探さなかったのだろう。

そして、あっという間に日曜がやって来た。日が昇り始めた早暁、ようやく全ての書類を整えた喬允は数時間の仮眠をとって、東京駅に向かった。

新幹線のホームで直立不動で待っていると、飄々とした歩みで福山医師が現れた。同行者はおらず、一人だった。喬允の姿を見つけると、冷静沈着な医師には珍しく驚きを露わにし、早足で近寄ってきた。

「どうしたんだね。用事があると言っていたではないか」

「はい。御同行はできないのですが、色々と手配させていただきましたので、それをお伝えに参りました」

喬允はそう言って、大きめの封筒を差し出し、

「この中に、今夜のお食事や宿などのご案内が入っています。よろしければ、ぜひ目をお通しください」

「……いや、私は日帰りするつもりだったのだが。春の京都は観光客や修学旅行の学生らで騒々しい。どうも苦手でね」

「はい、お気持ちはよく分かります。ですからそういった混雑する観光スポットは極力避けて、知名度は落ちるけれど由緒ある神社仏閣や、庭園の美しい美術館などを選んでみました。学会でお疲れでしょうから、無理せず回れる範囲に留めてあります」

「そうか……ふむ、」

喬允の説明に心惹かれるものがあったのか、医師は素直に封筒を受け取った。喬允は次に、脇に抱えていたファイルを取り出し、

「それからこれは、先日ご依頼がありました弊社の『セフィロゾール』に関する詳細な資料です。移動中など簡単に目を通していただければと思いまして、本日お持ちいたしました」

医師は無言のまま受け取ると、ぱらぱらとめくって中身を確認した。恐らく精読に値するものか否か見極めようとしているのだろう。やがてぱたんと閉じて脇に抱え、

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