―――なんで謝るんだ、奏。俺は……
謝る必要はない、自分を責める必要もない。これは喬允自身が求めた行為なのだから。喬允はそれを奏に伝えるため、荒い息の隙間から何とか言葉を絞り出そうとした。
「かなで……いいんだ、俺もお前が………」
しかしその声は余りに弱々しく、自責と快楽のせめぎ合いに耐えるので精いっぱいの奏には届かない。奏は瞳を震わせ、切なる願いを一途に訴える。
「でもっ、もう最後だから……これで終わりにするからっ……だから俺の中に……」
「最後とか……言うな……」
「俺の中に出して……ごめん、気持ち悪いこと言って、ごめん、喬兄、ごめ―――」
「謝るなッ」
震える声で繰り返される謝罪を鋭く遮って、喬允は素早く身体を起こした。そして謝罪の形に固まった奏の唇を荒々しく塞ぐ。もう二度と、無意味な謝罪や自身を貶める言葉がここから出てこないように。そんな強い想いを込めて。
「んぅ……ぅ……ン………」
驚きで硬直していた奏の唇は、すぐにとろけて蜜状の喘ぎを溢れさせた。喬允はそれを唾液とともに味わい、飲み干す。唇と舌の交わりに没頭する間、所在なげに宙を彷徨っていた手は、どちらからともなく互いを求めてそろそろと伸ばされた。
最初はためらいがちに指先を触れ合わせるだけだったが、やがて五指を濃密に絡めて強く握り合った。
もちろん、交わっているのはそこだけではない。深く繋がっている陰部はじんじんと疼いて、これ以上ないほど互いの体温や重みが感じられた。
喬允は、陰茎にまとわり付く肉の感触や蠢きをもっと味わいたいと思い、腰をガクガクと小刻みに揺らして奏の尻の中を掻き回した。その効果は覿面で、むっちりとした肉の褥はざわざわと漣って、奏の体内を隆々と貫く男柱を包み込んだ。
「ゃっ、ぁ、ぁっ………」
奏は絡めた指にさらに力を込め、重なった唇の隙間から官能に甘く濁った吐息を漏らす。しかし喬允の控え目ながらも執拗な責めに耐え切れず、ついに喉を反らせて嫣然と叫んだ。
「ああっ、いい、いいッ……もっとして、めちゃくちゃに突いてッ………」
「奏っ……」
一瞬、頭が真っ白になった。次に我に返った時には、奏の身体を上から組み敷いてずぶずぶと打ち込んでいた。
尖端ぎりぎりまで引き抜き、勢いをつけて根元まで突き刺した瞬間、瞼裏(まなうら)に火花が散る。すぐに滅えてしまうそれは、刹那の快楽の表象なのかもしれない。
しかし、だからといってそれが無価値だとは限らない。永遠は瞬間の中に存在する。ならば、刹那的な快楽の中にこそ不変の愛が潜んでいるのではなかろうか。
「くッ……ぅ………」
喬允は喉をぐるぐる鳴らしながら、狂ったように腰を打ち付ける。結合部は圧し出された喬允の先走り液でぐっしょり濡れていた。これだけでも、奏に対する欲望の激しさが分かる。今、身体がどれほどの悦びを感じているかも。
そう、この快感、この悦び。これが『答え』だった。もっと早くこうしていればよかった。手を伸ばせばすぐ届くところにあったのに、自ら目を逸らして視界から遠ざけていたのだ。
『これを見れば、あんたが悶々と抱え込んでる問いの答えが出てくるかもしれない』
本多の言葉が頭をかすめる。彼の言った通りだった。あの映像のお陰で奏に対する欲望の存在を認めることができた。
嬲られる奏に臆面もなく欲情し、彼を犯す男に自身を重ねて見た。その瞬間、欲望や本能を雁字搦めにしていた常識や倫理観、世間体などの鉄鎖は外れ、生々しい『我』を抱えた自分と向き合うことができたのだ。
「奏っ………」
喬允はその名を呼びながら、どろどろに濁った精漿を奏の体内に放った。狭い蜜壺はあっという間に飽和状態になり、ぴったり密着した粘膜と粘膜の隙間から濃度の高い白い液体がぐじゅぐじゅとしみ出した。
「喬…兄……すご…い……ああ、まだ、まだ出てる………」
幸せそうに目を細めて注がれる悦びに酔う奏に、喬允は欲望とは別種の愛情の高まりを覚えた。
「奏、感じるか? 俺の……」
「うん……感じるよ。喬兄の種がいっぱい、俺の中で騒いでる……」
奏は体内にずしりと響く喬允の重量を味わうように、恍惚と瞳を潤ませ答えた。そして見愡れるほど美しい笑みを浮かべ、
「ありがと、喬兄……」
囁くように感謝の言葉を伝え、柔らかな笑みの形を保ったままそっと目を閉じた。
人の体温を感じながら眠りにつくなんて、本当に久しぶりだった。喬允は腕の中の温かな存在を悦びとともに意識しつつ、性交渉による心身の倦怠感もあってか、びろうどのように滑らかで心地よい眠りの闇にあっという間に吸い込まれていった。
それからどのくらい時間が流れただろう。輪郭の曖昧な違和感につつかれ、喬允はふと目を覚ました。
違和感の原因は明らかだった。腕の中で安らかな寝息をたてているはずの奏がいない。喬允が抱き締めていたのは、何もない虚ろな空間だった。
「奏……」
ほんの一瞬だったが、何もかも全て夢だったのではないかとの疑念が湧き、喬允は慄然と竦んだ。
しかし、そんな理性の暴走はすぐに収まった。シーツに残された淡い温もりやかすかな窪みが、ついさっきまでここに奏がいたことを伝えている。
喬允はベッドを下り、奏の気配を探して他の部屋を歩き回ったが、見つけたのはテーブルの上に放置された携帯電話だけだった。
「あいつ……どこに行ったんだ……」
足元から、春とは思えぬほどの冷気がじんじんと浸透してくる。喬允は簡単に身仕度を整えると、当てもないまま夜の中に飛び出した。
「雪、か? まさか……」
黒い夜空に白いものがちらちら舞っている。早々に開花した桜の花びらかと思ったが、それは雪の結晶だった。道端の桜の蕾が、心なしか震えているように見える。
開花への熱情をその内側に秘めながら、冷気から身を守るように小さく縮こまっている蕾は、何故か奏を連想させた。喬允の前で項垂れて、『ごめん、喬兄…』と繰り返す奏の姿を。
「奏! 返事しろ! 奏っ」
深夜だったが構うものかと開き直り、喬允は声を張り上げて名前を呼んだ。そして車の行き交う大通りに出たところで、ぴたりと立ち止まった。
「奏……」
歩道橋の上で、一人ぽつんと立ち尽くす奏の姿が見える。奏は手すりに両手を置き、足下を往来する車の流れを一心に見つめていた。
喬允は駆け寄りたい衝動を何とか抑え、ゆっくりと、一段一段踏み締めるようにして上った。そして上りきったところで呼吸を整え、奏の名を呼ぶ。彼の周囲を取り巻く荒涼たる冷気ごと包み込むように、愛情込めて。
「奏、見つけたぞ」
白い吐息の向こうで、奏がびくっと身じろいだ。しかし顔は上げず、思い詰めた表情で下を向いたまま硬直する。喬允は一歩、また一歩と近づきながら、
「見ろよ、雪が降ってる。寒いだろ? 帰るぞ」
すると奏は顔を上げ、哀しい思い出を透かし見るように目を細めて微笑み、
「ああ、雪だ。あの時も雪だった。俺の“裏切り”に怒って、喬兄が俺の許から去っていった日も……」
奏の目には、二度目の別れの光景がすでに見えているのか。あの日と同じく粉雪舞う中、喬允の広い背中が遠のき、やがて視界から消えてゆく光景が。
「そうだな。でもこれは春の雪だ。すぐに、舞い散る花びらに変わる」
奏の脳裏を支配する光景を打ち消すように、喬允は眼前に立って柔らかく微笑んだ。二人の口からふわりふわりとこぼれる白い吐息が融け合っては、消える。
「奏、帰ろう、一緒に。な?」
喬允は自然な仕草で両腕を奏の背中に回し、自らの体温を分け与えるようにきゅっと抱き締めた。腕の中の身体は冷えきっていたが、再び得た温もりはやはり心地よく、喬允はほぅっと甘い溜め息をついた。
しかしそれとは対照的に、奏は萎縮したまま、
「俺……今度こそ死のうと思った。喬兄とひとつになって、抱き締められたまま眠りについた時はもう幸せで、生きててよかったって心から思ったけど、夜中にふと目覚めて考えたんだ。この先何年、何十年て続く人生を、このたった一度の抱擁をよすがに独りで生きていくんだ、って。この夜の思い出を何度も何度も反芻して、眺めて、慈しんで、手垢だらけになって煤けてしまっても、それでも俺はこの思い出を手放すことができず、ずっとずっとしがみついて生きていくんだ、って。そしたらなんか……無性に哀しくなってきて……」
「奏……」
「それで、こんな惨めな人生はすっぱり終わらせた方がいいって思ったんだ。でも、死ねなかったよ。ははっ、やっぱり人間て、失恋なんてぬるい理由じゃ死ねないんだな」
自嘲混じりの声は、芝居がかった明るさで不自然に引き攣っていた。
「奏、俺は……」
「ほら、確か芥川龍之介もさ、自殺の原因は文学の行き詰まりとか漠然とした不安なんて高尚なものじゃなくて、借金で首が回んなくなったからなんだろ? そう、それが現実。人間なんてそんなものなんだ」
長広舌から一転、奏はぴたりと口を噤んで喬允の胸に顔をうずめてしがみついた。笑っているのか泣いているのか、或いはただ寒いだけなのか、肩が小刻みに震えている。
「……俺、馬鹿だなあ。なんでこんな、どうでもいいことべらべら喋ってるんだろ。たぶん……」
奏はそろそろと顔を上げ、喬允を見つめた。そして言葉を続ける。
「一秒でも長く、喬兄に抱き締めていてもらいたいからなんだろうな。でももう……」
奏は痛みをこらえるように顔をしかめ、掴んでいた喬允の胸を離そうとした。すると喬允は、その動きを封じるように力を込めて抱き寄せ、
「俺は……ゲイじゃない」
奏は昏い嗤いとともに、「だから分かってるって」と答えて肩を竦めた。しかし喬允は真摯な表情を変えず、
「ゲイってのは、男を好きな男のことを言うんだろ? 俺は奏を好きな男だ。だからゲイじゃない」
奏はぽかんと口を開け、瞬きもせず喬允を見上げる。が、やがて呆れたように笑い、
「ヘンな告白……」
「だな。俺もそう思う」
喬允は軽やかに答えると、奏の身体をすっぽりと抱き締めて耳元で囁いた。
「一緒に帰ろう。そして風呂で身体を温めて、もう一度抱き合って眠ろう。それから……」
「それから?」
「それから、桜が満開になったら花見をしよう。昔よく、二人でしていたみたいに」
奏は小さく頷き、そしてくすんと鼻を鳴らした。
<19>
「どうだ? 奏。傷は痛まないか?」
「ん、だいじょぶ……」
「湯加減は? 熱すぎないか?」
「ん、だいじょぶ……」
「そ、そうか。それならよかった」
広い浴槽の両端に背中を預けて向かい合った喬允と奏は、神妙な顔付きで湯に浸かっている。
雪の舞う外から部屋に戻って風呂を沸かし、お前が先に入れいや喬兄お先にどうぞと譲り合い、どうしようどうしようと迷った挙げ句、二人して真っ赤になりつつどちらからともなくでは一緒に入ろうか、ということになった。
で、一緒に入ったはいいものの、恥ずかしさが先行してゆっくり温まるどころではなく、浴槽の隅っこに身体を寄せて固まる。そして時折ちらちらと互いを盗み見たが、たまたま視線が合おうものなら途端に赤くなって、慌てて目を逸らす始末だった。
奏はのぼせそうになるのも構わず肩まで浸かり、ぐるぐると考えを巡らす。猛烈な恥ずかしさは少しずつ収まってきたが、代わりに湧き上がるのは嬉しさではなく困惑だった。
喬允と一緒に風呂に入っているという今のこの状況。何がどうしてどうなってこうなったのか、自分でもよく分からない。
奏は霞のかかり始めた頭で考える。さっき喬允は『奏が好きだ』と言った。確かに言った。でもその『好き』ってどういう“好き”なんだろう。“愛してる”と同じものと考えていいのか。それともまさか、Hしちゃったから責任取らなきゃ、なんて考えてるのか。うん、喬兄ならあり得る。それより、なんであのDVDを喬兄が持ってるんだ? ていうかそもそも、なんて喬兄は俺の部屋にいるんだっけ……?
「喬兄……」
ずっと水面を凝視していた奏は、ゆらゆらと顔を上げて正面の喬允を見据えた。
喬允は疲れているのか、浴槽に身体を預けたまま目を閉じている。その端整でありながら無防備な顔や、水滴が伝う逞しい首筋、濡れて額やこめかみに張り付く髪など、目に留まるもの全てが奏の欲望を揺さぶる。しかも白い湯気に包まれているせいで、妄想めいた悩ましげな質感があった。
奏は見えない何かに引き寄せられるようにすーっと湯の中を進み、喬允の傍へ。そしてかすかに緩んだ形のよい唇に、自身の唇をそっと近づける。今にも重なろうとしたその瞬間、喬允のまぶたが開いて二人の目が合った。
「うわっ」
奏は声を上げてのけぞり、慌てて浴槽の端に戻った。そして顔だけでなく、首から肩まで真っ赤に染めて、何度も謝った。
「ごめんっ、喬兄。ごめん、俺っ……」
喬允は何も言わず、謝罪を繰り返す奏をじっと見つめるばかりだったが、やがて「あ、そうか」と声を上げ、ふわりと笑った。
「分かったよ、奏。お前あの時、俺にキスしようとしたんだな。今みたいに」
「あ、あの時って……」
「俺たちが中学の時、花見をした河原で、お前が何度も俺に謝ったことがあっただろ? 当時は理由が分からなかったけど、お前あの時俺に―――」
「もっ、もういい! 言わないでいいからっ。……ったく、なんで今さら分かっちゃうんだよ。ああああ~~~~~、もうッ」
穴があったら入りたい、湯があったら沈んでしまいたいとばかりに、奏は顔の半分まで湯の中に浸かってぶくぶく……と泡を吹いた。喬允は目を細めて近づき、
「お前……ほんとに可愛いな」
「ぶ……ぶるばい(うるさい)」
「で、続きはしてくれないのか?」
「ぼー、びばい(もう、しない)」
喬允はくすりと笑い、
「そうか。なら俺の方からするしかないな」
そう言って湯の中から奏の身体を抱き上げ、片手で腰を支えた。そして片手で濡れた唇を慈しむようになぞり、
「ずっと……気が付かなくてごめんな」
心からの謝罪を告げて唇を重ねた。
「あ……ん、んっ………」
それは口づけというより、交わりに近かった。隙間もないほどぴったり密着した唇と唇。その奥からぬちゅ、ぴちゃ、と、淫らな触手と化した舌同士の濃密な戯れを想起させる水音が漏れ聞こえる。
舌の蠢きだけで奏の望みを悟ったのか、喬允はとろとろと唾液を流し込んだ。奏はうっとりと目を細めながら飲み干し、ようやくほどけた唇をわななかせて甘い余韻に酔った。
しかし喬允は口づけの余韻に浸る間もなく、奏の首筋に吸い付いた。そしてカリッと歯を立てると、腕の中の腰が誘うように揺れた。
しかしすぐにはそこを目指さず、白い湯気の中でひと際紅く目立つ胸の突起に指を這わせ、硬く痼った芯の弾力性を愉しむように押し潰した。
「あっ……た、喬兄……やめ…っ………」
愛撫には慣れた身体のはずだった。なのに喬允のわずかな指先の動き、ざらりとした舌の感触、肌にかかる吐息、その全てが奏の身体に張り巡らされた快楽の弦を弾き、そこから生じる甘美な和音がさざ波となって全身を巡った。
この未知の快感を奏はどう処してよいか分からず、時折ふぅっと遠のく意識を繋ぎ留めるので精いっぱいだった。しかしついに限界を超え―――
「かっ、奏?! おい、大丈夫かっ、奏、かなで―――」
熱い湯と快感にのぼせた奏は目を閉じ、白い闇の中にふわふわと落ちていった。
「ごめん、喬兄……」
ベッドの上で目を覚ました奏は、額に乗せられた冷たいタオルを意識しつつ力ない謝罪を告げた。
「家風呂でのぼせるなんて、どんだけ子供なんだって感じだよな」
すると喬允は肩を縮め、
「いや、俺の方こそ悪かった。あんな風呂の中で……」
風呂場で交わしたとろけるようなキスを二人同時に思い出し、二人同時に赤面する。奏は額のタオルで慌てて顔を覆い火照りを静め、喬允は視線を泳がせつつ額を拭い、
「こっ、今夜はもう寝よう。な?」
「う、うん……」
奏は素直に頷いたが、喬允が枕を抱えて寝室を出ようとするのを見て声を尖らせた。
「喬兄、どこ行くんだよ」
「え? あ、ああ。俺はその……リビングのソファで休ませてもらうよ」
それを聞いた奏はショックを押し殺してがばと起き上がり、
「いい。俺がソファで寝る」
「何言ってんだ。お前はちゃんとベッドで寝ろ」
「喬兄は身体がでかいんだから、あんなソファじゃ眠れないだろ」
「俺は大丈夫だ。怪我人はおとなしく寝てろ」
「お客さんをソファに追いやって、ぐっすり眠れるような図太い神経は持ってない」
両者一歩も譲らず、結局喬允が折れた。
「分かったよ。じゃあ……一緒にここで寝よう。それならいいだろ?」
「俺はいいよ。喬兄が嫌じゃなければね」
奏は吐き捨てるようにそう言って、喬允に背中を向け、ベッドの端ぎりぎりに横たわった。喬允は、スプリングが軋む音に掻き消されてしまうほど小さな溜め息をつくと、そおっと身体を滑り込ませた。
「……お休み、奏」
「………」
無言の返答を背中で受け止め、喬允は静かに目を閉じた。そして、昨夜はほとんど寝ていないせいもあってか、あっという間に安らかな寝息をたて始めた。
「……嫌なら嫌ってはっきり言えよ。馬鹿喬允」
口調こそ勇ましいが、声は脆さを露呈して弱々しくかすれていた。奏はそっと身体を反転させる。手を伸ばせば容易に届く距離にある広い背中が、遠い存在に感じられてしまう。
今、触れ合いを拒絶するように向けられている背中を見ていると、これまでのこと全てが現実感を喪失してゆくのが分かる。喬允とひとつになったのも、『好きだ』と言われたのも、風呂場で口づけを交わしたのも。
共寝を拒絶された、それこそが唯一のリアルではないのかと……。
「分からないよ。喬兄が何を考えているのか、俺には……」
涙混じりの呟きを掻き消すように勢いよく寝返りをうつと、奏は夜に挑むようにぎゅっと目を閉じた。今夜は眠れないだろうと分かっていたのだが。
--------------------------------------------------------------------------------
「うわっ、寝過ごした!!」
予想通り碌に眠れず、日が昇って天頂に差し掛かった頃ようやくうとうとし始めた奏の頭を、喬允の声がぐわんと揺さぶった。
「喬…兄……?」
奏はふわふわと瞬きして身体を起こし、どたばた駆け回る喬允をとろんとした眼差しで見上げる。
「悪い、奏。洗面所借りるぞっ」
「あ、ああ。どぞ……」
てきぱきと身仕度を整える喬允を、奏はベッドの上からぼーっと眺めるばかりだったが、徐々に頭が冴えてきた。髪の乱れを丁寧に直し、ネクタイの歪みを気にしている喬允を見つめる目も険しさを増してゆく。
「喬兄、そんなに慌ててどこに行くんだよ」
誰が聞いても不機嫌だと分かる尖った声だったが、喬允にはそれを気にする余裕もないのか、「仕事だよ」と普通に返す。奏は眉間に浅い皺を刻んで、
「仕事? へえ、MRさんは忙しいんだね。連休最終日にも仕事だなんて」
棘だらけの声で目いっぱい嫌味を込めて言うと、喬允は肩を竦めて「今日は特別なんだよ」と返した。
「特別……」
その答えは、奏の意気を削ぐのに十分だった。本当は何の用事なのか、誰と会うのか聞き出したかったけれど、追及の勇ましい言葉は喉の奥で弾けて消えた。そうしている間に喬允は上着を着て奏の前に立ち、
「どうだ? 皺になってるところとか、おかしなところはないかな」
「……ネクタイ、少し曲がってる」
奏はぽそりと答えて手を伸ばした。思いっきりひん曲げてやるつもりだったけれど、照れくさそうに「ありがとな」と言う喬允につい絆されてしまう。ほんの少し歪んだネクタイの結び目を真直ぐに直して、無理やり笑みをこしらえた。
「はい、直ったよ。行ってらっしゃい、喬兄……」
「ああ、行ってくる。お前は大人しく寝てるんだぞ」
晴れやかな笑顔とともにそう言って、部屋を出ようとした喬允だったが、何か思い付いたのかぴたりと足を止め、
「これからのことは、俺が帰ったら一緒に話し合おうな。それじゃ」
一方的に言い置いて、今度こそ部屋を出ていった。
「これからのことって何だよ……」
誰もいない空間に、ぽつりと問い掛ける。もちろん答えはなく、重苦しい静寂が鼓膜に張り付いてひりひり痛んだ。
独りには慣れていたはずなのに、たったひと晩を共に過ごしただけでもう、孤独への耐性が著しく低下している。喬允がいない空間に耐えられなくなっている。
「どうしよう……どうしよう、俺……」
自問の重さに押し潰されるようにかくんと項垂れると同時に、携帯が鳴った。誰からの着信かは見当がつく。奏は項垂れたまま手を伸ばし、投げ遺りな態度で電話に出た。
「……はい」
『奏、私だ』
「……分かってるよ。で、また休日に仕事かよ」
『いや、お前に依頼する仕事はもうない。お別れだ、奏』
「は? 何言ってんだよ本多さん」
唐突な別れの言葉を、奏は軽くあしらった。しかし、次に本多の口から出てきた言葉は、同じように扱うことができなかった。
『あの男に、奏と手を切ってくれと言われた』
「あの男って……誰だよ。まさか喬兄……?」
『今、お前の部屋から出てきた男だ。どうだ、楽しい夜は過ごせたか?』
奏は携帯に噛み付かんばかりの勢いで、
「あんた、また喬兄に会ったのかっ。それであのふざけたDVDを……」
『ああ。効果覿面だっただろう?』
いつもの淡々とした口調ながらも、どこか面白がっている風でもあった。この男相手に本気で怒っても無駄だと分かっていた奏は、強張っていた肩をすとんと落とし、
「お陰様で。忘れられない一夜になった。で? 本気で俺と手を切るって?」
『そういうことだ』
「分かったよ。俺もそろそろ潮時かなとは思っていた。それで、最後のケジメはどうつけたらいいんだ」
もうあなたとは手を切ります、はいさようなら、そう簡単にいくはずがないとは奏も分かっている。最後にそれなりのデカい仕事を義務づけられるだろうと。しかし、
『いや、最後の仕事は代わりにやってもらった。あの男に』
「な……んだって……」
頭から冷水を浴びせられたみたいに、全身がさあっと冷えてゆく。思わず携帯を落としそうになったが、震える指先で必死にしがみついた。
『怪我をしている奏にそんな危険な仕事はさせられない、代わりに自分がやると言った。だから任せた』
「ふざけるな! あの人をこんな汚い世界に引きずり込むなんてっ―――」
『人の話を聞いていなかったのか? あの男は自分からやると言ったんだ。初めてにしてはなかなかよくやってくれた。見かけによらず肝が据わっている』
「喬兄が……」
喬允が自分のためにしてくれたことを知っても、湧き上がるのは嬉しさではなく底が見えないほどの困惑だった。さらに、
『あの男、大事な仕事をキャンセルしてきたようだ。本当はこの連休、担当しているドクターの学会に同行するはずだったらしい』
「学会に……」
『ああ。MRにとって学会同行は重要なお務めだからな。今、帰ってきたドクターを東京駅まで迎えに行ってるのだろう』
本多によって伝えられた事実は、奏をさらに戸惑わせた。
「どうして……そこまでして喬兄は……」
思わず口をついて出た問いに対する、本多の答えは明解だった。
『本人に質してみたらいいだろう』
さらりとそう言った後に、かすかな吐息みたいな音が携帯から漏れ聞こえた。たぶん、微笑ったのだろう。長い付き合いの中で、本多の笑い声を聞いたのは初めてだった。
『何をびびってんだ、奏。自分には怖いものなんてないと、いつも豪語していたくせに』
「別にびびってるわけじゃない。ただ……」
『私はそろそろ行く。もうお前に逢うこともないだろう。色々迷惑は掛けられたが、それなりに楽しい付き合いだった』
「……俺、今さらまともになれんのかな」
自問するような奏の呟きに返した本多の答えは、またしても明解なものだった。
『お前は元々まともな奴だよ』
そして電話は一方的に切れた。さまざまな想いが頭の中を去来したが、ともかく今は少し眠ろうと、奏は横になって目を閉じた。が、それを遮るように再び携帯が鳴った。
「はい」
『ああ、よかった。お宅、便利屋さんよね? 地域の情報誌を見て掛けたんだけど、あのね、庭の柿の木を切ってほしいの。これまでは自分でやってたんだけど、腰を痛めちゃってねぇ』
「申し訳ありませんが、当方ではそのようなご依頼は………」
機械的に出てきた拒絶の言葉を、奏は途中で呑み込んだ。
<20>
喬允は、東京駅のホームで福山医師の帰りを待っていた。間もなく新幹線は予定通り到着し、中から医師が下りてきた。医師はすぐに喬允の姿を見つけると、驚いた様子で真直ぐ近づいてきた。
「わざわざ迎えに来てくれたのか。すまんね」
「いいえ、とんでもありません。お疲れでしょう。車を待たせてありますから、ご自宅までお送りします」
二人は車に乗り込み、医師の自宅へ向かった。京都での滞在はどうだったか、用意した宿や食事は気に入ってもらえたか訊ねたかったが、着いたばかりで疲れているだろうと思い、喬允は逸る言葉を押し戻した。すると、
「『セフィロゾール』の資料、読ませてもらったよ」
福山医師の方から一番聞きたかった話を振ってもらえた。喬允の背中に緊張が走る。
「短期間でよくあそこまで揃えたものだ。正直驚いたよ」
「あ、ありがとうございます……」
努力を認めてもらえたことに対する純粋な喜びが、声帯を震わせた。喬允は、隣に座っている医師に気付かれないようこっそり深呼吸を繰り返し、声の震えを抑えてから口を開いた。
「疑問点などは払拭されたでしょうか?」
「ああ。効能についても申し分ない」
「そうですか……」
流れは上々だったが、ここで会話は止まってしまった。喬允は迷った。あとひと押しなのは分かっているが、この場でそれをすべきなのか。それともあらためて場を設けた方がいいのか―――
「あ、それから些末なことかもしれんが、君が選んでくれた宿はとても素晴らしかった。私が望んでいた静寂と安らぎそのものだったよ。いや、宿はもちろんだがあの部屋。あそこは、中村禅山が嘗て投宿した部屋だね」
「は、はい、そうです。お気付きになりましたか」
「ああ。部屋からの眺め、中庭の枯山水を見てすぐに分かった。彼の代表作『月下の無常』は、あの庭の眺めを描いたものだ。時を超えて彼と同じ空間にいるのだと思ったら、年甲斐もなく興奮してきてね。いや、あんな気持ちは久しぶりだったよ」
いつになく熱っぽい口調で語る医師に親近感を抱いたものの、だからと言って馴れ馴れしくならないよう注意しつつ、喬允は「喜んでいただけてよかったです」と答え目を細めた。福山医師は真剣な顔付きで喬允を見つめ、
「面白い男だな、君は。禅山の話なんて飲み屋でちょっとしただけなのに。まさか覚えていたとはな」
喬允は苦笑を返し、
「ドクターが実は画家志望だったなんて、忘れられるはずがありませんよ。いえ、それだけではなく、あの時のお話には私も色々と救われたと言いますか……。ともかく、心に深く刻まれたお話だったので」
「そうか……」
医師は深く頷くと、徐に口を開いた。
「私は昔から接待というものが嫌いでね。金を使って高い酒を飲ませておけばいいと、馬鹿にされているようにしか思えんのだよ。まあ、プライドが高いだけかもしれんがね」
「……いえ、お気持ちは分かります」
神妙な声で返す喬允に淡く微笑んで、医師は続けた。
「けれど、接待もする側の心ひとつでこんなにも変わるものなのかと、今回は本当に驚かされたよ。何を求めているのか相手の身になって考える、単純なことだが、それは医者にとっても大事なことだ」
「患者の身になって考える……」
「そうだ。もちろん、患者の苦しみは本人にしか分からない。しかしだからと言って、独善的な治療を機械的に施すばかりでは患者は救われない。日々の仕事に追われているとつい忘れがちな真理を、私は京都で再認識することができた。ありがとう」
思い掛けずお礼を言われ、喬允は返答に詰まった。かすれた声で「こちらこそありがとうございます」と漸う返すと、深く息をつく。
これでよかったのだ。周囲の言葉や思惑に流されず、自分のやり方を貫く。もちろんそれでいつも成功するとは限らないが、失敗した時には原点に立ち返り、問題点を修正してもう一度挑戦すればいい。それを繰り返すうちに、自分の進むべき道が舗装されていくのだ。
そして、本心を抑えず思うがままに生きろと焚き付けてくれたのは他ならぬ―――
「奏……ありがとう」
喬允は小さな声で、囁くように感謝を捧げた。
「ん? 何か言ったかね?」
「あ、いえ。何でもありません。ああ、もうすぐご自宅ですね」
この親密な空気を無駄にせず、到着する前にもう一度『セフィロゾール』の件に話を戻すべきなのかもしれない。しかし喬允にはそのつもりはなかった。こんな車中で話すのではなく、あらためて医局できちんとお願いするのが筋だろうと思ったからだ。そしてそれが、自分のやり方であると分かっていた。
「では、今日はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みください。また明日、医局に伺わせていただきます」
「……分かった」
車が自宅の前に到着し、喬允もいったん降りた。そして一礼して見送ったが、福山医師は何故か立ち止まってくるりと振り向き、
「ああ、それから君のとこの『セフィロゾール』だが、明日にでも薬審に申請書を提出しておくよ」
「……え? えっ?」
「正式に採用が決定したら、また飲みに行こう。それじゃ」
そう言って軽く手を上げると、今度こそ福山医師は背中を向けて家に帰った。
喬允はお礼を言うのも忘れその場に立ち尽くしていたが、運転手に促され、覚束ない足取りで車内に戻った。そして奏の部屋がある雑居ビルの場所を告げ、シートに深く座り直してようやく、身体の芯から達成感が湧き上がるのを自覚することができた。
「や、やった……やった……!」
喬允は両手でガッツポーズしつつ、進むべき道の彼方に浮かぶ確かな光の存在を感じた。
--------------------------------------------------------------------------------
玄関から何やらガチャガチャ音がするなあと思ったら、荒々しい足音が奏のいる部屋に近づいてきた。
「奏っ、奏!」
弾んだ大声で名前を呼ばれ、奏はびくっと飛び上がる。部屋に駆け込んできた喬允は、顔を紅潮させ瞳を煌めかせて、真直ぐ奏の許に駆け寄った。
記憶に刻まれている少年時の喬允そのままの輝きが眩しくて、奏は思わず目を細める。
「お、お帰り、喬兄」
まさかここに帰ってきてくれるとは思っていなかったから、不自然に引き攣った『お帰り』になってしまう。しかし喬允はそんなことには気付かず、奏の両手をがしっと強く握って、
「聞いてくれ。新薬の許可が下りた。ドクターのゴーサインが出たんだよ」
「新薬って、喬兄が売り込んでた―――」
「ああ。新しい抗生剤だ。担当病院の外科部長から許可が出た。ありがとう、奏。お前のお陰だ。お前が、俺の中で燻っていた“欲”を目覚めさせてくれた。自分の抱く信念や理想を貫きたいという欲を」
喬允はいったん口を閉じ、自ら興奮を静めるように深く息をついた。しかし奏の手は握ったまま、言葉を続ける。
「もしお前と再会していなかったら、俺は周囲に流されるまま適当に目の前の仕事をこなし、そんな自分に言い訳しつつ日々を過ごしていただろう。信念や理想が自分の中で腐ってゆくのをどうすることもできずに」
喬允の言葉は余りに真直ぐで迷いがなく、それゆえ奏が受け止めるには重すぎた。
「なに……言ってんだよ。俺のお陰なんかじゃない。喬兄の努力が報われたんだ。俺は寧ろ、喬兄の仕事の邪魔になったじゃないか」
「邪魔? そんなわけないだろう」
思いがけぬ言葉に、喬允は眉根を寄せた。奏は掴まれた手をそっと振りほどき、こわごわ喬允を見上げ、
「昨日、俺の代わりに最後の仕事を請け負ってくれたんだろ? 大事な仕事を断って」
「……本多氏に聞いたのか」
「ああ、そうだよ」
奏は答えると、ゆっくり目を伏せた。しかしためらいを吹っ切るようにぱっと顔を上げ、
「喬兄は何で、俺のためにそこまでしてくれたんだ?」
正面からの問い掛けに圧倒され、喬允は吃りつつも答えた。
「な、なんでってそ、それは……お前にこれ以上危険な仕事を続けてほしくなかった……から……」
今にも消え入りそうな語尾にこそ、喬允の本心が隠されていたのかもしれない。喬允は自分の言葉を否定するようにゆるゆると首を振り、
「違う、な。いや、そういう願いはもちろんあったが、それだけじゃない。俺は……お前と本多氏の繋がりを絶ちたかった。お前に、もう彼と会ってほしくなかった。つまり……お前のためというより、俺の勝手な願望だ」
そう言って、ふいと顔を背ける。その横顔も耳も、羞恥を示す赤色に染まっていた。奏もそれにつられるように赤面し、戸惑いながらも漸う問いを重ねる。