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ぎりぎり 1
じっとりと伝う汗が夏の名残を感じさせる昼間とは一変し、秋の訪れを予感させる涼気がいまだ火照る頬を撫でる夜。
すっかり暗くなった空の下、建ち並ぶ店のネオンが煌々とアスファルトを照らし、道を行き交う人々の表情までをも明るくさせているようだ。
そんな通りにある一軒の定食屋。
良心的な値段の割りに、結構なボリュームの食事を出すことで知られる人気のこの店。
今夜も入れ替わり立ち代りやってくる独身サラリーマン達の胃袋を満たす役目を一手に引き受けていた。
そんな定食屋の暖簾をくぐる、満ちたりた表情の一人の男。
浦辺良彦という名のその男は、人で賑わう駅前の通りに足を踏み出した。
熱気に満ちた店内に比べ、通りを過ぎる風は冷たい。
学生時代からスポーツにあけくれていた名残で、今でも十分がっちりした体つきの良彦は、その体格に似合わぬ寒がりな一面を見せ首をすくめると、慌てて手にかけていた上着を着込んだ。
体格に似合わないのは寒がりな一面だけではない。
百八十を越す大柄な体には、意外なほど人の良さそうな――悪く言えば頼りなさそうな顔が乗っかっている。
やや垂れ気味の眉、そして目じり。
丸い鼻。
何に似ているかと問われれば、まず間違いなく犬の名が出てきそうな顔つきの男だった。
給料日まであと五日。
仕事終わりに行く居酒屋も、あと数日は我慢して、早々と帰宅しなければならない。
約二年間妻も恋人もおらず、マンションで一人暮らしをしている良彦。
部屋に戻ってからの孤独な時間を思うと、漏れるため息は止まらなかった。
生まれてから二十八年目を数えてた日から三ヶ月、同期の半数以上は何らかの肩書きがある役職に昇進し、そろそろ自分にも声がかかるのではと、内心ヒヤヒヤしている今日この頃。
昇進を恐れているわけではない。
昇進の話が出れば、必ずといっていいほどついてくる見合い話が憂鬱なのだ。
もう二年も前の出来事。
妻の浮気が発覚し、それまで三年の間続いた結婚生活はあっけなく終わりを迎えた。
華奢で小柄な、まるで人形のようにかわいらしい妻は、まさに理想の相手だった。
どんな我侭も受け入れ、喧嘩一つせず、それが愛情だと信じて疑わなかった。
しかし妻は、自らの不貞を暴かれて尚、良彦をつまらない人間だと詰り責めた。
それまでの不満を一気に爆発させ、良彦の悪い面を上げ連ね、叫び続けた妻は、そのままマンションを飛び出し実家に帰ってしまった。
良彦は怒ることも忘れ、受け入れられない出来事に対処しきれず、ただ呆然としていた。
友人達の中には、慰謝料を取るべきだと、具体的な方法や弁護士の連絡先まで調べてくれる者もいた。
だが、理想そのものだった妻の怒り叫ぶ醜い姿を再度目にする勇気は無く、義理の母が持ってきた離婚届に黙って印をつき、我が子の愚行を泣いて詫びる相手をなぐさめてやりもした。
紙切れに印を押すという、簡単な行為。
たったそれだけで、何一つ不安は無いと思い込み、心から幸せだった三年の日々は無に帰したのだった。
離婚経験のある会社の先輩のうち、ある人は慰謝料をふんだくってやればよかったんだと我がことのように憤慨し、またある人は余計な体力を使わずすんなり別れられてよかったじゃないかと、どこか疲れた表情で呟いた。
離婚にも色々な形があるのだと、先達の言葉を今になって思い返してみたりもするが、当時の良彦はそれどころではなく、一変した生活に自分を合わせていくことに精一杯だった。
妻のいない、静かで真っ暗な狭いマンションの部屋。
そこは安息の場などではなく、人生の失敗をまざまざと思い知らされる、聞き手のいない孤独な懺悔の場であった。
一年二年と月日を重ねることで、ようやく立ち直ってきた今、昇進という目出度い話のおまけとはいえ、まだまだ見合いなど、ましてや再婚など考えることすらできそうになかった。
マンションまでの道を辿りながら、心許ない財布の中身を給料日までの残り日数で割ってみる。
二日間の休日、ここは残金からいっても、大人しく部屋で寝転がっている方がよさそうだ。
そんなことを考え、少しぼんやりしていた良彦は、名前を呼ばれていることに気づかず、しばらく歩いてからハッとして振り返った。
「ああ、よかった。てっきり無視されているのかと思いましたよ」
そう言って笑うのは、良彦より少しばかり背の低い、しかしその分細くすっきりとした体つきの若い男。
穏やかな顔立ち、見るからに優しげな笑み、どこか見覚えがある男だった。
軽く首を傾げ考え込んだ末、急に表情を明るくするなり男に駆け寄った。
「…海君、か?一瞬誰か分からなかったよ。随分大きくなったね」
その言葉に、少し照れくさそうに笑うのは、別れた妻の弟、海だった。
「なんだか、親戚のおじさんと話している気分です」
「ああ、ごめんごめん。別に子供扱いしているわけじゃないんだ。背が伸びて、すっかり大人っぽくなったから――って、これじゃ子供扱いしているか?
「もう二十歳ですから、さすがに大人っぽくなってもらわないと困ります」
「え、そんなになるのか?…親戚のおじさんになった気分だ」
「ははっ」
明るく笑うその姿は、最後に会った頃と何も変わらない。
(あの時、確か海君は高校生だったか。あの頃は――)
記憶を辿りかけた自分を、良彦は無理矢理引き止めた。
思い出せばきっと、暗い顔をしてしまうに違いない。
せっかく声をかけてくれた相手に、そんな表情を見せるのは失礼というものだ。
良彦は気を取り直し、目の前で屈託のない笑顔を見せる海に言った。
「ところでどうしたの、こんなところで」
妻の実家はここからかなり距離がある。
二十歳の若者が目当てにするような店などない、駅前のわずかな賑わいを別とすれば地味な町である。
そういった意味でも、海がこの場にいるのは少々意外だった。
「近くに住んでいるんです。ここから少し行ったところにあるマンションなんですけど」
「え、そうなの。じゃあもしかして…近所だったりするのかな」
「あ、姉には詳しい場所教えていないから大丈夫ですよ。ばったり会うなんてこと、絶対にありませんから」
「い…いや、その…」
思っていたことがそのまま顔に出てしまったか、それとも海の勘がよすぎるのか、とにかく心中をぴたりと言い当てられてしまい、もごもごと口ごもる。
そんな良彦をじっと見ていた海は、ことさら明るい声で言った。
「良彦さん、今日これから予定あります?」
「いや、別にないよ。どうして?」
「もしよかったら、僕の家に寄っていって下さいよ」
「え…」
真っ直ぐな性格が災いして、気の乗らない誘いを上手く交わしたりだとか、社交辞令で守るつもりもない約束を取り付けるなどといったことの出来ない良彦。
今も誘われる理由が全く分からず、戸惑いがそのまま顔に表れている。
だが、海はあくまでにこやかな雰囲気を崩すことなく、さらりと言った。
「実は僕、まだ引っ越したばかりで。良彦さん、配線とかそういうの得意でしたよね?」
「ああ、そういうことか」
ホッとして、思わず口元を緩めた。
あまり親しくない相手からの、理由の分からない誘いに乗って、気分良く帰れたためしはない。
海本人には好感を抱いていたが、やはり別れた妻の弟ということもあり、心のどこかでつい警戒してしまっていたのだろう。
「大学の先輩が、引越し祝いにビールを山ほどくれたんです。お礼はそのビールってことで…駄目ですか?」
「それはありがたいな。ちょうど給料日前で、泣く泣く禁酒しようと思ってたところなんだ」
「よかった。それじゃ、お願いします」
「任せなさい」
先ほどまでの警戒が嘘のように、良彦は弾む足取りで海の後をついて行った。
驚いたことに、海の住むマンションは、良彦のマンションから歩いて一分もかからない場所にあった。
玄関を入ると真っ直ぐ奥に伸びる短い廊下。
右手にトイレと浴室のドアが並び、左には小さな冷蔵庫と隣接して狭い台所がある。
間を仕切る木製のドアを手前に引くと、予想よりも面積の大きな部屋が広がり、とても越して五日とは思えないほどすっきりと片付いていた。
だが、そもそも荷物自体がそう多くなく、正面の大きな窓の傍にあるテレビ、その手前には低いテーブルと小さめのソファ、右側の壁に沿ってベッドと本棚が置いてあり、左手にはパソコンをのせた机とパイプ椅子があった。
「…俺の部屋とはえらい違いだな」
「あまり物を置くのが好きじゃないんです。ただそれだけ」
「いや、それにしてもスッキリしてるよ。俺の部屋もね、引っ越した当初はこのくらいきれいだったんだよ、ほんとに。ほんとに、ね」
言い訳じみたしつこさが面白かったのか、海はぷっと吹き出した。
「安心しました。良彦さん、思ったよりも明るくて」
「もしかして、心配してくれてた?」
「そりゃ、だって――」
「ありがとう。でも、もうすっかり立ち直ったんだ。あ、これ…あの時の写真?」
話の流れを嫌い、話題を逸らすため机の上の写真たてに手を伸ばした。
結婚する以前、恋人同士だった頃、元妻と海を連れて三人で海水浴に行った時に撮った写真だった。
まだ中学生の、今よりも少し幼い海と、今よりも随分若々しく感じる自分が肩を組んで笑っている。
「懐かしいなあ。よく持ってたね」
「それしか…ないから」
「ん?」
振り向いた先には、窓を開けに行く海の背中。
どういう意味か聞く前に、配線を見てくれと頼まれ、良彦は慌てて海の元に行った。
パソコンはすでに業者に頼んだらしく、良彦の仕事はテレビとDVDプレイヤーだけという寂しいもので、作業は数分もかからず終わってしまった。
「なんか、簡単すぎてかえって悪いみたいだね」
コップに注いだ冷たいビールを傾け、のどを潤してから、良彦はソファの背に体を預け、台所でつまみの用意をしている海に言った。
「そんなことないですよ。本当に助かりました。僕一人じゃ飲みきれないほどあるんで、どんどん飲んで下さいね」
「ああ、ありがとう…」
ふと温かなものが胸を満たす。
こうして誰かと過ごす夜というのは、本当にいいものだ。
以前は毎回参加していた会社の飲み会も、離婚以来どうも避けるようになっていた。
たまに飲む相手といえば、気心の知れた同僚だけ。
それすらも、酔うと愚痴が出てしまいそうで、思い切り酔うことができなかった。
なのに、今夜はどうしたというのだろう。
数年ぶりに会った相手の部屋で、こんなにも寛いでいる自分に、良彦自身が一番驚いていた。
再会が突然だったからか。
ここに来るまでの流れが自然だったからなのか。
それとも海の持つ雰囲気があまりに穏やかなせい?
原因はよく分からないが、久しぶりに感じる胸の温もりは確かだ。
良彦は、今夜海に会えた偶然に、改めて心から感謝した。
思えば初めて元妻の実家に行った日、緊張して押し黙ったきり喋ることもできなかった自分に、海は気遣っていろいろと話しかけてくれた。
おかげで緊張もほぐれ、最終的には酒の飲みすぎで潰れてしまい、予定外の宿泊までしてしまったのだが。
海はあの頃から気遣い屋で、そして本当の兄のように慕ってくれていたように思う。
台所に立つ海の横顔をこっそりと盗み見ながら、良彦は胸の奥で感謝の言葉をそっと呟き、しかし手は早々と二杯目のビールをコップに注ぎ入れていた。
そうするうちに、簡単なつまみを載せた皿を手に海がやってきて、二人は大学生活や仕事の話などで声を弾ませた。
空き缶が三本も転がった頃だろうか、良彦は急な眠気に襲われた。
何度も頭を振って海の声に耳を傾けるのだが、話し声は遠ざかるばかり。
やがて睡魔は耐え難いものとなり、良彦の体はソファにぐったりともたれかかった。
ぎりぎり 2
泥のようにまとわりつく睡魔の触手を振り切り、ゆっくりと浮上するように現実を取り戻していく。
初めに感じたのは軽い頭痛、そして四肢を伝わるだるさ。
重いまぶたをこじ開けるが、一向に視界の方は開けない。
「……ん…?」
ようやく自分が座った体勢のままだと気がつき、なぜか背に回っている腕を戻そうとした。
だが、両手首が何かでがっちりと固定されているようで、わずかに上下に動かせるだけ。
「な…んだ?」
自らの置かれた状況の異様さを、ようやく理解した良彦は、何とかして立ち上がろうと体を動かしかけた。
「やっと起きましたか」
すぐ左から、妙に落ち着いた海の声が聞こえた。
どうやら自分に寄り添うように座っているようだ。
次いで、胸に手が置かれたのが分かる。
その感覚で良彦は、着ていたはずのシャツが脱がされていることに気づいた。
「海君、俺…どうしたんだ。俺達どうなったんだ、ここはどこなんだ?」
「まあ、落ち着いて下さい。僕達はどうなってもいません。ここは僕の部屋ですし。それに、まだ薬が残っているから、無理に立ったりすると危ないですよ」
息がかかるほど近くでささやく海の声に、どこか妙な雰囲気を感じて、良彦はぴたりと動くのを止めてそちらを向いた。
とはいえ、相変わらず視界は暗いままだったが。
「これ…もしかして、君がやったのか?」
「はい」
「あの変な眠気は?」
「睡眠剤の効果ですね」
飄々とした声には、謝罪のかけらもこもってはいない。
それどころか、良彦の混乱をどこか楽しんでさえいるようだ。
「…どうして?俺、今どうなってるんだ?」
「そうおかしなことにはなっていませんよ。シャツを脱がせて手首でまとめて、その上から縄で縛って――ああ、そうそう、目にアイマスクも被せましたね」
「充分おかしなことになってるだろう」
「そうですか?これでも我慢したんですよ。本当なら下も全部脱がせる予定でしたから」
「か、海君。一体何が目的で、こんなこと…」
「分かりませんか?」
「分からないよ。こんな…こんなことをされるほど嫌われていたとは…」
頭を振る良彦に、海は穏やかに答えた。
「嫌いな人間にこんなことはしませんよ」
「え…?」
「興味があるんです」
「…興…味?」
「この体に触れたら、どんな声で喘いで、どんな表情をするのか。どうしても確かめたくて」
「海君、君は…」
「ふふ、怯えた声も素敵ですよ…」
海の指が、むき出しの胸を滑り、小さな突起をかすめる。
他人に触られたことのない部分に指が触れたことに驚き、良彦の肩が震えた。
「きれいですね。自分で触ったりしないんですか?」
「し、しない。そんなこと…するわけないだろう」
「へえ。それじゃ、僕が初めてなんだ。…嬉しいな」
「あっ…」
海が動いたかと思うと、左の乳首にかすかに息がかかり、何かねっとりとしたものが触れた。
それが海の舌だと気づいた時には、良彦の乳首はぱくりと咥えられ、ちろちろと舌先で転がされていた。
「っ…や、め…てくれ、海君…」
「そんな風にすると、まるで自分からねだっているようですよ」
逃れようと体を横にゆする良彦だったが、海に嘲られ、悔しそうに唇をかんで動きを止めた。
「………」
数秒の沈黙を置いて、すっと海が動いた。
口元に感じる柔らかな温もり。
それがキスだと理解した途端、良彦はぎょっとして身を退きソファの背を軋ませた。
その動きを待っていたかのように、太ももの上に海が跨る。
伸びてきた腕がしっかりと良彦の頭を絡めとり、顔を背けることすらできなくなってしまった。
短い前髪の上から、額に押し当てられる唇。
それは鼻先に、頬にと移っていき、強張った良彦の唇に再度押し付けられた。
感触を楽しむように何度も何度も離れては押し付け、唇同士を擦り合わせ、軽く食む。
キスというよりは遊んでいるような動き。
頭を動かして避けることができず、せめて口内への侵入は防ごうと、歯をぎっちりとかみ合わせているが、頭の片隅では、こんなキスの仕方もあるのかと密かに感心していた。
触れ合いに満足したのか、今度は良彦の唇を舌でなぞるように舐めはじめた。
さすがに顔を動かそうと試みたが、やはりがっちりと海の腕に抱かれている以上、それは無駄な抵抗でしかない。
唇を伝う舌は、やがて間を割って奥へと入ってくる。
行く手を阻む歯列に舌が触れると、海はふっと息を漏らし笑った。
「――もしかして、ずっと食いしばってたんですか?」
「………」
黙っていると、固定されていた頭が解放され、海が上体を起こすのが分かった。
「ここはあっさり許したのに?」
そう言って、指先で良彦の唇を弄る。
だが、何と言われても良彦は歯を食いしばったまま、声も出さずにじっとしていた。
「ふふっ、意外と頑固ですね」
ささやかな抵抗に、海は静かに笑う。
唇を撫でていた指が離れ、つっと肌を滑り、まだ唾液で湿ったままの良彦の乳首に触れた。
「っ…」
「あまりあっさり降伏されるのもつまらない。出来るだけ長く、耐える姿を楽しませて下さい」
そう言い終えると、胸の突起を弄ぶ指の動きに明確な意思がこもりはじめた。
輪郭を指先でなぞるように円を描いて動く指。
じっくりと刺激をあたえ、柔らかだった部分が固くなるのを待ってから、今度は爪先にひっかけるように何度も上下させる。
くすぐったさしか感じなかったそこは、擦られる度に徐々に感度を増していき、やがて甘い疼きを伝えるようになった。
片方を弄っていた指は、良彦がうっすらと快感を覚えた頃、今度は反対の乳首に移る。
そうやって、右と左を交互に触れる様は、まるで良彦の体が刺激に追いつくのを待っているようだ。
「少し息が弾んできましたね。まさか、もう感じているんですか?」
「………」
「随分感度がいいんですね。それともはしたないと言った方がぴったりかな、良彦さんのここは…」
「っく…」
嘲笑をたっぷりと含んだ物言いと、固く尖る突起をぴんと弾く指先。
良彦は羞恥と悔しさで、色が変わるほど強く唇を噛んだ。
「ああ、その口元、たまらないな…」
海の声が熱を帯び、左右の突起が同時に摘まれ、捏ねられ、押しつぶされた。
漏れそうになる声をなんとか押し殺し、何度も首を振って意識を逸らそうとする。
だが、海の手が下に降り、ベルトのバックルがカチャリと音をたてると、良彦はたまらず声をあげた。
「や、やめろ。何のつもりだ!」
体を動かそうともがいたが、上に乗った海が浮かせていた体を落とし、太ももに体重をかけてくる。
「感度がいい場所が他にも無いか、確かめるんですよ」
楽しげな響きを隠そうともせず、ささやかれた。
体の変化は、良彦自身が一番理解している。
確かめられるまでもなく、すでにそこはしっかりと隆起している。
乳首とは違い、感じてしまっていることを興奮を覚えてしまっていることを、言い訳の余地も無く知られてしまうことに、良彦は絶望に似た感情で呻いた。
「そんな…ああ、やめてくれ…頼むから…」
「ふふ、駄目ですよ。そんな声を出されると、余裕が無くなってしまうじゃないですか。夜はまだまだ長いんですから…」
ベルトが緩められジッパーがゆっくりと下がる。
籠っていた熱が奪われ、代わりにひんやりとした空気が下半身を包んだ。
同時に、トランクスを勢いよく押し上げながら、良彦のものがぶるりとズボンの外に飛び出すのが分かった。
「確認するまでもないようですね」
くすりと笑う海の声に、良彦はますます羞恥を煽られ、震える声で訴えた。
「た、頼む…もう止めてくれ…。こんなの、間違ってる。俺のことが憎いなら、好きなだけ殴ってくれていい。だからもう、こんなやり方は止めてくれないか…」
「相当に鈍い人ですね。一体どこから、僕が良彦さんを憎んでいるなんて考えが浮かぶんです?」
「そりゃ、だから…俺は、君の姉さんと離婚したわけだから…」
「あれは、姉が一方的に悪いんです。良彦さんには一切責任はありませんよ」
「いや、俺も悪かったんだ。仕事も忙しかったし、きっと寂しい思いをさせてしまって…うっ、や、止めてくれ…」
会話の間、少しずつ萎えていたものに、下着越しにではあるが指があてられ、つっと先端から根元にかけて滑った。
「人が善いにも程がありますよ。今だから言いますけど、姉は昔から浮気癖があって、学生の頃からしょっちゅう揉め事を引き起こしていたんです」
「なっ…う、嘘だ…」
「嘘じゃありません。揉める度に泣きついてこられて、さんざん迷惑していたんですから。まあ、さすがに良彦さんの時は突っぱねましたけどね。それでも母が代わりに話し合いに出向かされましたが」
「止めてくれ、それ以上は…」
「だから、良彦さんが気に病む必要は無いんです。今だって、あの人は恋人を何人も作って…」
「止めろ、もう聞きたくない!!」
良彦は大声で叫ぶと、勢いに任せて体を横に倒した。
海の体がゆっくりとずり落ち、重しが無くなるとすぐ、視界を遮られたまま玄関へと走ろうとした。
だが、真っ暗な視界と不安定な体勢、そして何よりずり下がってきたズボンが足に絡まり、良彦の逃走はたった数歩で終わった。
前のめりに倒れこみ、膝と肩に衝撃が走るが、そのことよりも今知ったばかりの事実に、良彦の心は打ちのめされていた。
「ううっ…うう…う…」
膝をつき、床に額をこすり付けるようにして、良彦は静かに泣き続けた。
しばらくすると、いつの間に来たのか、すぐそばで声がした。
「まだ…姉のことを愛しているんですか?」
その問いかけに、良彦は頭をガツンと殴られたような衝撃と、体の芯がすっと冷える感覚をおぼえた。
今自分が受けている心の痛みが、元妻への愛情からくるものではないことに気づいてしまったのだ。
これまで良彦はずっと、離婚の原因は生活のすれ違いにあると考えていた。
確かに妻の浮気が直接の原因だったが、それを招いたのは良彦の仕事が忙しすぎたせい、あまり妻のことを構ってやれなかったせいだと。
幸せだと信じきっていた結婚生活に甘えて、仕事にばかりかまけていた自分にも責任はあると。
だが、そうではなかった。
仕事の忙しさに結婚を壊されたのではなく、自分自身に妻を引き止めておくだけの魅力が無かっただけなのだ。
結婚前から遊びまわり、自分以外の男も知っていた妻に、良彦は捨てられたのだ。
男としての不能者の烙印を、二年も経った今はっきりと押された。
逃げられない現実の切っ先を心に深く突き刺されたようなショックに、良彦は滅多打ちにされ、自信を無くし、虚ろな無力感を味わい、その結果が今流している涙なのだ。
もしかすると、心のどこかでその可能性に気がついていたのかもしれない。
離婚から立ち直れず、女性との関わりを極力避けてきたのはそのせいだったのかもしれない。
そう考えると、ズタズタに傷つきはしたものの、二年間ずっと晴れなかった胸の重苦しさは幾分晴れたような気がした。
「撤回させてください。僕は……僕はやっぱり、あなたのことが憎い」
床に伏せたまま、自らの内面とはじめて向かい合っていると、頭上から冷たい声が降り注いだ。
「海君…?」
「姉のことを想い続けているあなたを見ていると、憎くてたまらなくなる」
「違うんだ、俺はもう…な、何を…う、うぐ…」
口に何かが押し込まれ、頬からうなじにかけて何かが巻きつき、きつく締め付けられる。
「うう、ううう…」
口内の異物が舌を押さえ、出せるのはくぐもった唸り声だけになった。
ぎりぎり 3
縛られた腕がつかまれ、ぐっと引き上げられる。
良彦はそのまま強引に、しかも後ろ向きに歩かされ、再びソファに座らされた。
足元のズボンは完全に脱げてどこかへ行ってしまい、今良彦が身に着けているものといえば、トランクスに靴下そして手首に絡まるシャツだけ。
「う、うぐ、うう…」
戸惑い、うめき続けていると、海の気配がいったん離れ、少ししてまた戻ってきた。
暴れる前と同じように良彦の上に跨った海が、優しさの欠片も無い冷ややかな口調で言った。
「口枷、よく似合っているじゃないですか。気がつきました?これ、表面に幾つも穴が開いているんです。だから呼吸は楽なはずですよ。…ただ、強制的に涎を垂れ流すことになるんですけどね」
「うっ、うう、う…」
驚いて首を振る最中、後頭部の髪が鷲掴みにされ、無理矢理顔を上向けさせられた。
少しして、口枷に開けられた穴を伝って、何か液体のようなものが流れこんでくるのを感じた。
未知の液体に恐怖を覚えて、良彦は縛られた腕をゆすって逃れようとした。
「また暴れるつもりですか?今度逃げようとしたら、この格好のまま外に放り出しますよ」
液体を飲み込まないようにのど口を絞り、鼻で息をし続けながら暴れる良彦は、海の脅しにぴたりと動きを止めた。
この状態の良彦が外に出たとして、実際に困るのは海の方だ。
だが、やはり今の格好を考えると、その言葉は充分すぎる脅し文句になった。
「そう、大人しくしてくれれば、お互いとても楽しい時間を過ごせますよ」
のどの奥でくくっと笑い、海は良彦の鼻をつまんだ。
一分ももたず、苦しさに耐え切れなくなり口内の液体を飲み息を吸うと、鼻とそして後頭部から海の手が離れた。
「ふっ、ふっう、うう…」
ぴちゃぴちゃという水音と、良彦の口からもれる呻きが部屋に響いていた。
口元に垂れた涎を海の舌がすくいあげ、口枷によって開かされた唇や、首筋、そして小さく尖る胸の先端を這い回る。
空いた方には指が絡み、優しく撫で、擦り、時には強く摘み上げられる。
肌から伝わる刺激だけで、良彦の呼吸は徐々に荒くなっていった。
だが、それとは別に、体の奥深くが熱を帯び、かすかだった甘い痺れるような疼きは次第に強さを増し、着実に良彦の理性を蝕みはじめていた。
「ん、ううっ…」
「そろそろ効いてきたみたいですね。声が甘くなってきましたよ?」
「ん、んぅう…」
「ここも、すっかり固くなって…」
「んううう!」
握りこまれた良彦のものは、ようやく与えられた刺激に喜んでいるかのように、海の手の中でどくんと大きく脈打つ。
「ううっ、うっ!」
あごを突き出して悶える良彦の耳朶に舌を這わせながら、脳内までもを犯そうとするかのように、海が低くささやきかける。
「下着に大きく染みができていますよ。全く、はしたない人ですね」
「ん、ふっ、ううぅ…」
海の手がゆっくりと上下する度、良彦の体はビクビク震え、無意識のうちに背を曲げる。
海の胸に額を押し付けるような格好でいると、左の乳首がきつく抓られた。
「んんっ!」
思わず上体を起こし逃れようとしたが、ソファの背に退路を阻まれてしまい、鋭い痛みにただ呻くことしかできない。
一方的に送り込まれる下半身の快感と乳首の痛みが、良彦の意識を翻弄しかき混ぜていく。
空いた右の乳首に海の舌が這い、また一つ快感が加えられると、良彦はたまらず仰け反り、ソファの背をぎしりと軋ませた。
「んっ、ぅうう!」
痛みと快感が入り混じり、まるで体中が反応しているような、初めての感覚。
それは瞬く間に良彦を昇り詰めらせ、射精へと走らせる。
今まさに白濁が噴出そうとした瞬間、海の手と舌がスッと退き、頂点の一歩手前で突然放り出された良彦は、苦鳴を漏らし激しく身をよじった。
「んーっ!んぐっ、んうううっ!」
「すぐにいかせてあげるほど、僕は優しくありませんよ?」
「うう、ふううっ!」
「ふふっ、そんなに喜んでもらえると、焦らしがいがありますね…」
身悶える良彦の耳元で楽しげなささやきが響き、刺激を欲しがりビクビクと震える体に再び手が伸びた。
寸前まで追いやり、絶妙のタイミングで手を離す。
じっくりと時間をかけて、繰り返し繰り返し与えられ、突然止む刺激。
焦れるあまり、上に乗った海が浮いてしまうほどの力で体をビクつかせ、言葉の代わりに体全体で射精を懇願する。
何も考えられず、ただくぐもった声を上げ続け、何度目かの焦らしに苦しんでいると、塞がれたままの視界に突然光が射した。
突き刺されたような痛みが目に走り、良彦はきつくまぶたを瞑り低く呻いた。
眩しさに慣れるのを待って、少しずつ目を開いていくと、細い視界に海の優しい笑顔が広がる。
眠り込む前と何ら変わりのない、柔和で穏やかな笑顔だったが、体の奥から突き上げる苦しみにも似た渇望と焦燥が、置かれた現状を忘れさせてはくれなかった。
何も言わずただ微笑みを浮かべ、良彦の頬を唾液で濡れ光るあご先を指で撫でる。
まるで、海のその動きが合図にでもなったかのように、良彦は耐え難い羞恥を覚え、じわりと涙さえ滲ませ顔を伏せた。
視界を奪われていたことで、これまでどこか非現実的だった行為の記憶が、生々しい実となって、僅かに残った良識の欠片をじわじわと苛んだのだ。
俯く良彦のあごに軽くかかっていた指に力がこもり、強引に上向けさせられる。
優しい笑みに取って代わり、海の唇は冷笑に歪んでいた。
「あなたの見苦しい嬌態は、もうたっぷり見せてもらいました。今さら恥ずかしがる振りをしても手遅れですよ?」
蔑みがありありと伺える目に正面から見据えられ、耳を塞ぎたくなるような愚弄の言葉を浴びせられ、開ききった唇にこぼれた唾液を指先で塗りつけられる。
体の芯がかっと燃えたようになった次の瞬間、あろうことか良彦は、ぶるぶると体を震わせ、下着の中に大量の白濁を吐き出した。
「ん、んっ…んうううーーーっ!」
今まで味わったことの無い、意識が朧になるほどの絶頂感。
触れられていない状態のためか、射精は普段よりも長い時間を要し、そのため凶暴なまでの快楽も長く長く脳裏を焦がした。
「ふ…うう…ぅ…」
恍惚とした表情で、良彦はぐったりとして倒れるように海にもたれかかった。
半分失神しかけた良彦は、虚ろな意識の中、海の腕にしっかりと抱きしめられるのを感じた。
行為に似合わぬ優しい抱擁に、なぜか安堵を覚え目を閉じた。
体内を駆け回った乱暴なまでの絶頂の残滓に、いまだ呼吸を落ち着けられずにいると、抱擁が解かれ、カチャッという金属音が聞こえた。
頬から首にかけての締め付けが消えたと思ったら、口内の異物が、口枷のベルト部分を持つ海の手でゆっくりと引き出された。
「あっ…」
ボール部分に開いた幾つもの小さな穴から、ぼとりと垂れる自らの唾液。
それを見て思わず声を上げたのだが、粘つく雫はあっという間に海のシャツを濡らし、滲みていった。
「良彦さん」
シャツに見入っていた良彦は、名前を呼ばれビクッと身を震わせた。
「顔、上げて下さい」
「………」
無言のままふるふると首を振ると、悪戯っぽい声が降ってきた。
「どうして?思わず射精するくらい、僕の顔好きなんでしょう?」
「ち、違う!あれ…は……」
パッと顔を上げると、待ち構えていた海の目に捕らえられてしまう。
思わず目を伏せようとした矢先、口枷を放り出した海の手が後頭部にするりと巻きついた。
すぐに引き寄せられ、柔らかで少し冷たい唇が触れる。
唾液まみれの唇がぬるりと割られ、海の舌が入ってきた。
「ん…」
抵抗の意思は意識の片隅でわずかに良彦を突付いたが、差し入れられた舌の巧みな動きに翻弄され甘やかな愛撫を受けるうちに、すっかり霞んでしまった。
「ん…ん、ぅ…」
深い深いキスは、たった今熱を吐き出したばかりの体の最奥に情火を点す。
それは微かな炎だったが、唇を、そして舌を伝ってくる柔らかで激しい交わりが、たちまち体中を焦がす業火に変えていく。
まるで自ら求めるような、鼻にかかった甘い呻きを吐息に織り交ぜ、いつしか良彦は誘われるまま舌を突き出し、うっとりと表情を蕩けさせていった。
全てを奪われるような激しさだったのが嘘のように、最後はついばむように軽く唇に触れ、海は良彦との間に自ら境界を作った。
だらしなく口を開いたまま目を開けると、海の嬉しそうな顔が視界に広がる。
「良彦さん、そんな顔もするんですね」