「え…」
ぽかんとして聞き返すと、海はスッと体を寄せてきた。
「欲情しきった表情。…たまらなくそそられますよ」
「ああっ!そ、そこは…」
下着越しに、自ら放った白濁にまみれたものを撫でられると、良彦は身をよじって声を上げた。
「僕のキス、気に入ってくれたみたいですね」
「う、ぅああっ…」
クチャ…ニチャ…と、海が指先を動かすたび、そこは淫猥で湿った粘音を響かせ、良彦はそれに合わせるように喘ぎに近い呻き声を上げ腰を揺らした。
「随分露骨に誘うんですね。そんなに気持ち良いんですか?」
「ん、あぁ…き、きもちいい…ああ…」
「ふふっ、一度いっただけで、すっかり素直になりましたね」
「あっ…どうして…?」
不意に手が離れ、もどかしげに海を見つめる。
「言ったはずですよ。すぐにいかせてあげるほど、僕は優しくないんです」
「海君…」
「ふふっ、そんな顔しないで。…シャワー浴びましょう、良彦さん。ここも、たっぷり洗ってあげますから」
こらえきれず、良彦の顔は期待に蕩ける。
ぼうと霞む視線の先で、海が淫靡な笑みを深め楽しげにのどを鳴らした。
ぎりぎり 4
ふらつく体を支えられながら浴室へ入ると、まず腕の戒めが解かれ、そして靴下と汚れきった下着が取り払われた。
ぼんやりして立ちすくむ良彦の前で、海は手早く衣服を脱ぎはじめた。
それらは空の浴槽に次々と放り込まれ、その性急な動きが、そして何より自ら汚した下半身から立ち上る精液の臭いが、良彦の意識に羞恥と興奮を刻んだ。
それまで固く勃起したものがさらにいきり立ち、先走る汚液で腹を濡らせそうなほど反り返り、しなやかな指先を今か今かと待ちわびていた。
そう広くもない浴室の洗い場に二人向かい合って立つ。
呼吸を荒げ、物欲しそうな目でじっと見つめる良彦に、海は手を伸ばすよりも先に声を禁じた。
確かに、浴室から男の嬌声が漏れたりすれば、マンションの住人にどんな目で見られるか分からない。
守れる自信はあまりなかったが、体の奥からつきあげる欲求には到底抗うことなどできず、良彦は控え目に頷いた。
「んっ、んんんっ、ふ、うぅっ…んん…」
細かな水流の一つ一つが、まるで意思を持っているかのように、そそり立つ良彦のものを嬲っていく。
唇を引き結び、漏れそうになる声を必死で押し殺すが、それでも殺しきれなかった呻きがシャワーの水音に混じり、浴室を満たしていく。
「んん、んううっ!」
海の手に握られたシャワーヘッドが微かに向きを変えるだけで、体が勝手にビクビクと震える。
それほど強い勢いで湯を出しているわけではないのに、いざ肌に触れるとなると、水流は信じられないほどの刺激となって、敏感な部分に襲い掛かった。
刺激から逃れようとして腰を引くうちに逃げ場を失い、良彦は壁によりかかった体勢になってしまっていた。
それなのに、ゆったりと浴槽の淵に腰を掛けた海は、じっくりと観察するような視線を良彦に送り、ヘッドの向きを変えては反応を楽し気に口元を綻ばせている。
胸に、腹に、腿に、そして勃ちきったものに、細かな奔流がぶつかり流れ落ちていく。
それは確かに震えるほどの快感をもたらしはしたが、達するまでの直接的な刺激ではなく、良彦の中にじわじわともどかしさを植えつけていった。
逃げ腰の体勢だったはずがいつしか腰を突き出し、良彦は水流の強い部分を体で探しているような、淫猥な動きをし始めた。
それでも我慢しきれなくなり、猛る自身に恐る恐る手を伸ばしかけたとき、体表を舐めるようにこぼれていた水流の刺激がぴたりと止んだ。
「あっ…」
「駄目ですよ、良彦さん。そこを洗うのは僕の役目です」
シャワーヘッドを壁のフックに預けた海が、余裕たっぷりの声でからかう。
恥ずかしさに俯きそうになると、腕をつかまれ軽く引かれた。
どうするのかと待っていると、海は身を屈め、ボディーソープのボトルに手を伸ばした。
そしてたっぷりと手のひらに出した白い粘液を、軽く泡立て、良彦の体に塗りつけはじめた。
「うう…」
細かな水流に代わり、今度は海の手指が、適度な圧を保ったまま体の上を巧みに滑っていく。
良彦は頭を逸らし、虚ろな目で迫る天井を見つめながら、ぽかりと開いた口から荒く短いテンポで息を吐いた。
「ぅあ…。か、海君、も、もう…だめだ、立っていられない…」
「まだ上半身しか洗ってないんですよ?もう少し我慢して下さい」
「あっ、ああ…」
「声」
「あ、ぁ、んん…んんんっ」
低い声でささやかれ、すぐに唇を噛んで声を抑える。
眉根をきつく寄せ必死で耐える良彦の、胸から背中に、そして下腹部にと、滑らかな泡をこすり付けるように海の手のひらが滑る。
その手は決して直接良彦のものには触れず、その周囲を丹念に洗うだけだったが、それでも何度も膝から崩れそうになり全身をガクガクと揺らした。
海に壁に向いて手を突き、体を支えるよう言われると、すでに考える余裕もなくした良彦は、言われるがまま素直に従った。
絶えず体をビクつかせ、血が滲みそうになるほどにきつくきつく唇を噛みながら耐える。
太ももから足先まで丁寧に泡が行き渡り終えると、それまで黙々と良彦を撫でていた海が優しい声で言った。
「ちゃんと我慢できましたね。ご褒美ですよ…」
すぐに、泡をたっぷりつけた海の手が良彦のものに絡みつき、ゆっくりと上下に動きはじめる。
「うあっ!ああっ!」
「ほら、声が出てますよ。ご褒美、いらないんですか?」
「うむぅっ、んうう!」
優しい脅しを受けて、良彦は唇に片手をきつく押し当て、漏れ出る声をふさいだ。
今すぐにでも吐き出して楽になりたい気持ちと、もっと焦らして快楽を長引かせてほしい気持ちとの間で、意識はせわしなく揺れ動く。
押し当てるだけでは到底声を抑えることなどできず、手の甲に噛み付ききつく歯をたてるが、それでもくぐもった呻きは、海の手の動きが響かせる水音と相まって浴室の空気を震わせた。
だが何よりも、耳朶にかかる海の荒い呼吸が、そして時折発せられる嘲りの言葉が、まるで触手のように良彦の脳を耳から犯していくようだった。
海の片手が良彦の尻に伸び、その固く引き締まった曲面を撫で擦り、様子を伺うようにゆっくりと後孔に指を這わせてもなお、股間から絶え間なく送られてくるゆるゆるとした刺激に意識を蕩かされ続けている良彦は、その意味を理解することすらできず、塞いだ口の隙間から低い声を漏らしていた。
だが、海の指先が明確な意思を持って後孔をほぐし始めると、さすがに身を硬くして振り返る。
「か、海君、なにを…?」
「何って、僕を受け入れてもらうための準備をしているんですよ」
「うあっ!い、いやだ、そんなところ…」
「大丈夫、きっとすぐに気に入りますよ。だから、しばらくはこれで大人しくしていて下さい」
「ああっ!」
緩やかなペースで扱かれていた強張りの、一番弱い先端部分に指があてられ、ぐりぐりとくぼみを蹂躙される。
射精間近まで押し上げられていた体に鋭い刺激がいきなり加えられ、良彦は身悶え、仰け反り、高く喘いでから慌てて口を塞いだ。
「んんっ!んんーっ!」
「分かります?良彦さんのここ、少しずつ緩んできましたよ」
「んふっ、んうううっ」
じわりじわりと、海の指先によって、自分でさえ触れたことのない箇所が解きほぐされていく。
潤滑液代わりのボディーソープのおかげで、痛みこそ感じなかったが、異様なまでの羞恥と後孔から伝わる違和感は、良彦の目に涙を滲ませ眉間に深い皺を刻んだ。
何度も首を振り不快感を伝えようとするが、海はくつくつと笑って良彦にささやくだけ。
「そんな嘘をついても無駄ですよ。良彦さんのここ、少しも萎えてないじゃないですか」
「ううっ…」
海の言う通りだった。
気持ちとは裏腹に、良彦のものは一向に硬度を失うことなく、ビクリビクリと脈打っている。
気恥ずかしさに、ぎゅっと目を閉じて俯いた。
だが、前後の手が再び動き始めると、そんな恥ずかしさはすぐにどこかへ消え去り、与えられる快と不快にたちまち意識を食われてしまうのだった。
じっくりと時間をかけて、指は良彦の中へ入ってきた。
少しずつ、少しずつ。
味わったことのない感覚にどうしても慣れることが出来ず、歯を食いしばって耐えていたのも始めのうちだけで、体は次第に指を受け入れ、ゆっくりと出し入れされるごとに、声に甘さが混じるようになった。
そうしてじっくりと慣らされた頃、指は二本に増えた。
かすかな快楽は強い違和感にとってかわり、良彦は再び歯を食いしばった。
なだめるように、海の舌が耳を這い、下半身を握る手はゆるゆると上下に動き続けた。
どのくらい経ったのか分からないが、たっぷりと時間をかけ拡張された結果、良彦は後孔に三本の指を受け入れていた。
そこは緩やかな抽送に合わせて収縮し、中の指を締め付けている。
すでに違和感は消え、擦られ充たされる快感が取って代わっていた。
良彦がひじをつき額を預ける目の前の壁には、白濁が花のように飛び散り、垂直の筋を幾つも作っている。
指の数が増える度に、海がご褒美だとささやき、それまで焦らされ続けていた射精を許された。それでも今、握りこまれた良彦のものは、もうすっかり勃ち上がった状態で、数度目の褒美を願うあまり、はしたなく先端から涎をこぼしていた。
前後から送られる快感は、良彦にこれ以上の悦楽は無いと思わせるほど深く深く、肉体だけでなく精神までもを犯されているような錯覚をもたらした。
「っ!!」
蕩けきっていた良彦の目が突然見開かれ、それまでにない激しさで体が打ち震えた。
意識する余裕もなく、後孔がぎゅうと窄まり、海の指をきつく締め付けた。
「ふふっ、ここがいいんだ?」
「ひっ!い、ああっ!うああっ!!」
呼吸すら出来ずにいた良彦は、海の指の動きに合わせて激しく首を振る。
同時に、数個目の粘花をたっぷりと壁に咲かせた。
信じられないほどの強烈な快感が体内を走り、腰から背筋にかけて痺れすら感じさせた。
これ以上の快楽は無いと思っていたところに、体の深くから電撃を浴びせられ、良彦は呆けたように見開いた目を天井に据えたまま、ビクビクと腰を揺らした。
「すごいな、またイッたんですか?ここ、そんなに感じるんだ…」
「や、め…あ、ぐ…抜いて、も、だめ…」
「ごめんね、良彦さん。僕ももう、我慢の限界みたいだ…」
「はっ、ぅ、んあ…」
ずるりと指が引き抜かれ、良彦はほっと息をついた。
強すぎる快感に、今にも意識を飛ばしてしまいそうだった。
だが、安堵も束の間、今度は何か別の、指よりももっと大きなものが後孔を押し広げ始めた。
「あ…ああ、や、や…め…」
ゆっくりと、だが確実に、それは良彦の中に入ってくる。
射精の余韻も吹き飛ばしてしまうような、凄まじいまでの圧迫感。
のどを反らし、何かをつかもうとする良彦の指が壁を擦り、カリカリと音をたてる。
はっ、はっ、と短く浅い呼吸を繰り返し、開いたままの口からは涎が垂れる。
「は、あ…さすがに、きつい…。良彦さん…良彦さん…僕のこと、感じる?ずっと…ずっとこうしたかったよ…」
海のつぶやく声も、良彦の耳をかすめるだけで意識には届かない。
呼吸をするだけで、この後孔から突き上げる違和感を耐えるだけで精一杯だった。
「全部入ったよ…良彦さん。ねえ、顔…見せて…」
唇を押し当てるようにして直接耳奥へとささやきかけられ、良彦はのろのろと顔を横に向けた。
海の熱っぽい目を見た途端、涙が溢れ頬を伝う。
決して悪い感情から来る涙ではない。
胸が詰まったようになり、よく分からない何かがこみあげてきたせいだ。
「か…い、君…」
「ああ…ごめんね、良彦さん。でも、もう少し我慢して。これでもう、諦めるから…最後にするから…お願い…」
溢れた涙を舌ですくい取る海の声が、ひどく震えている。
ぼんやりした視界の先にある穏やかな瞳からも、涙がこぼれていた。
どうして泣いているのか聞こうとしたが、その前に海の唇に声を塞がれてしまった。
塩辛いキスを交わすと、心なしか受け入れた楔がもたらす熱さが和らぐような気がした。
長く長く、呼吸さえ惜しむように、離れてはつながり、つながってはまた離れ、海は様々なやり方で違う感触を伝えてくる。
その感触を、拙いながらも懸命に真似、そのまま送り返した。
キスというよりは会話を交わすように、互いの唇を通して合図を送りあう。
頬の涙も乾く頃には、良彦は唇での対話にすっかり夢中になっていた。
わずかに唇が離れた間に、海の声が聞こえた。
「良彦さん…動いても、いい?」
「ん…」
中断されたキスの続きを待ち詫びるようにだらしなく口を開き、軽く舌を出したまま良彦がうなずくと、海はくすりと笑ってから顔を寄せた。
唇がつながる直前、良彦の体を再び苦痛が襲った。
「あぁ――」
上げかけた声は途中で唇にふさがれ、口内で低く響いた。
埋め込まれたものがゆっくりと引き抜かれ、そしてまたゆっくりと中に戻ってくる。
「んふっ、んうううっ!」
「ん…んっ…」
食み合う口元では、良彦の苦鳴に海の漏らす短い声が混じる。
硬直した良彦の体をなだめるためか、右の乳首と精液まみれのものに海の手が伸びた。
引きつれながら海のものに形をあわせ収縮する後孔が、爪で弾かれた胸の小さな突起が、達したばかりで敏感な下半身が、海の舌に犯された口内が、それぞれの箇所が一気に良彦に訴えかけてくるようで、意識は朦朧となり、膝から力が抜けそうになる。
背後からの腕に支えられながら、良彦は体中で海を受け入れていった。
薬の影響もあって、すぐに苦痛の呻きから愉悦の喘ぎを漏らしはじめた良彦を、海は執拗に責め立てた。
長い時間をかけて、浴室でベッドの上で良彦は幾度もいかされ、幾度も意識を飛ばしかけた。
明け方近くまで求め合い、すでに吐き出す精液も尽きた良彦は、射精の代わりに声も無くビクンビクンと体を痙攣させた。
「う、くっ…」
たっぷりと白濁で満たされた直腸に、新たに精液が注がれ、淫猥な言葉で責められていた耳元で低い呻きが響いた。
「良彦さん…」
失神するようにベッドに倒れこんだ良彦が、この上ない充足感の中完全に意識を失う前に耳にしたのは、どこか寂しげな海の声だった。
ぎりぎり 5
昏々と眠る良彦は、胃から突き上げる空腹に覚醒を促され、その原因となった鼻先漂う何かが焼ける匂いに、まぶたを押し上げるよりも前にひくひくと鼻を動かした。
ぼやけた意識の隅で、冷蔵庫に何か食べられるものがあったかどうか考える。
だが、記憶は一向に繋がらない。
昨夜はコンビニに寄らなかったのだろうかと、良彦は自身の行動を訝しんだ。
次の瞬間、幾分覚醒した脳が感知したのは、冷蔵庫の中身ではなく体中満遍なく伝わる鈍いだるさ、そして下肢に走る疼痛だった。
そこまできてようやく、ここがどこなのかを思い出し、良彦はハッとしてまぶたを開いた。
いつもと違うシーツの色が視界に飛び込んでくる。
「うぅ…」
起き上がろうとしたものの、体中がギシギシと音を立てるように軋み低く呻く。
少しずつ体を動かし、ベッドの上にあぐらをかいて座ろうとしたが、尻の痛みに慌てて正座に切り替えた。
そっと視線を走らせてみたが、ベッドにも部屋にも海の姿はなく、代わりに閉じたドアの先から何かが焼ける音が聞こえた。
どうやら海はすでに起きていて、料理をしているらしい。
少しホッとして、良彦は正座のまま本棚の上にある小さな時計に目をやった。
針は昼に近い時刻を示している。
相当ぐっすり眠りこけていたようだ。
やれやれと頭をかき、時計から剥がした目を壁に向ける。
途端に、壁に両手を突かされ、背後からのしかかる海に体を揺さぶられた記憶が脳裏に浮かんだ。
「うわ、俺…」
顔全体がカッと熱くなるのが分かる。
それをきっかけに、とんでもない格好でみっともない声を上げる自分自身が断片となって蘇り、良彦は唇をおかしな具合に歪ませ、全身をわなわなと震わせた。
あまりの恥ずかしさに、今すぐこの場から消えてなくなりたいと思ったが、それは物理的に不可能なので、記憶の方を消そうとしてブンブンと首を振り続けた。
「…良彦さん?」
「っ!!?」
突然の声に、良彦は飛び上がるほど驚いてしまう。
いつの間にかドアが開いて、海が顔をのぞかせていた。
「か、か、海君!」
「おはようございます」
「お、おはよう…」
「体、平気ですか?」
「か、らだ?体…ああ、大丈夫…だと思う」
「そう、よかった」
そう言って、海は安心したのか軽く微笑んだ。
その表情は、昨夜とは別人のように優しく穏やかで、記憶の中の出来事はすべて夢だったのではないかと思わせた。
しかし、体中に残る倦怠感が、あれは現実だと主張している。
つい思い出してしまった昨夜の表情とのギャップに、とても海の顔を直視することができなくなってしまい、良彦はふっと目をそらし顔を伏せた。
「………お腹すいてません?食事作ったんで、食べて下さい」
「え、ああ、ありがとう。ん…でも、悪いけど…帰らせてもらうよ」
空の胃袋は執拗に抗議の意を示していたが、良彦はこの気まずさから逃げ出したくてたまらなかった。
「そう…ですか。分かりました。あ、服はそこにありますから」
海が示す先、さっきチラリと見たときには気づかなかったが、ソファの隅に良彦の着てきた服が丁寧に畳んで置いてあり、一番上には下着がちょんと置かれていた。
「…あ、ありがとう」
良彦は軋む体に鞭打って、のろのろとベッドから出てソファまで行く。
裸を晒しているのが落ち着かず、せかせかと下着を手に取り足を上げようとしたところでふと気がついた。
「海君、これ…もしかして洗ってくれたの?」
記憶が正しければ、精液でベトベトになっていたはずなのに、手の中の下着のどこにもその跡はない。
「ええ」
さも当たり前だといった風に、海はさらりと肯定したが、良彦の方は違った。
申し訳なさといたたまれなさで、丸めていた背がますます縮こまる。
「わ、悪かったね、こんなことまでしてもらって…」
「いいんです、そのくらい。元はといえば僕が悪いんですから」
その言葉に、一旦封じた行為の記憶を呼び覚まされそうになり、良彦は軽く頭を振り慌しく服を着込んだ。
傍にあった鞄を持ち、その腕にネクタイを引っ掛ける。
「そ、それじゃ…お邪魔しました」
「いえ…」
もしかしたら引き止められるかと思ったが、海は一言そう言っただけで、良彦を通すためにドアの枠に寄りかかった。
ホッとしたような、そのくせどこかがっかりした気持ちで、良彦は廊下を抜け玄関で靴に足を突っ込んだ。
ドアを開けると、昨日よりも幾分涼しい昼の空気がさっと頬をかすめた。
外廊下から見下ろす道路は、毎日の出勤で朝晩通っている道だった。
もしかしたら、これまで気がつかないうちに海とすれ違っていたりしたのだろうかなどと考えていると、背後から声がかかる。
「良彦さん…」
我に返り、くるりと振り返ると、ドアを片手で押さえた海が、何か言いたそうな目で見ていた。
「もし――」
黙り込んだ海の口から、長い長い沈黙を経て漏れたのは、良彦の予想とは違う言葉だった。
「――いえ、何でもありません。あんなことして、本当に済みませんでした」
また会いたい、そう言われるのではないかと期待していた自分に驚き、またそんな自分がひどく浅ましく感じられて、良彦は必要以上に早口でまくしたてた。
「そ、そんな、謝ることはないよ。悪い夢でも見たことにして、お互い忘れよう」
言ってしまってから、すぐに後悔した。
昨夜のことを否定するつもりは、これっぽっちもなかったのに。
もっと上手い言い方は出来なかったのかと、自分を殴りつけてやりたい気分だった。
弁解の言葉を捻りだそうとする良彦に、海はかすかに声を詰まらせて言った。
「さようなら、良彦さん」
ハッとして顔を上げると、寂しげな笑みの海がドアの向こうに消えるところだった。
「あ…」
「お元気で…」
最後の言葉は隙間を割って辛うじて聞こえた。
その小さな声を最後に、ドアは完全に閉まった。
反射的にドアを叩こうとして上げた良彦の手は、不自然な形で止まる。
また顔を会わせたところで、何をどう言えばいいのか分からなかった。
そもそも自分が昨夜の出来事をどう思っているのかさえ分からないのに、適切な言葉が出せるとも思えない。
またさっきみたいな失言をしてしまうよりは、一人になってじっくり考えた方がいいだろう。
何事につけ慎重で臆病な良彦は、そんな言い訳をこねあげ自分を納得させると、そっとドアの表面を撫で、ぶらりと腕をおろし、とぼとぼと廊下の先にあるエレベーターに向かった。
重い足をひきずり、たかだか一分程度の道のりに倍以上の時間をかけ、良彦はマンションまでたどり着いた。
海の部屋よりも広いはずの部屋は、それを感じさせないほど散らかっている。
あまり整理整頓が得意でなく、また使ったものを元の場所に戻すということも得意としない良彦。
ごちゃごちゃと物であふれ、足の踏み場に困る一歩手前になったところで、半日かけて一気に片付けられるという一定のサイクルで、彼の生活空間は維持されていた。
そして今は、足の踏み場に困る三歩手前。
そこへ脱いだズボンや鞄を放り投げ、大掃除へのカウントダウンを自ら早めておいて、昨日の朝畳んだままの布団を床に広げ、倒れこむようにして寝転んだ。
海の所でたっぷり眠ったはずなのに、まぶたが重くて仕方が無い。
体中――特に腰がだるく、そして座れば尻が悲鳴を上げる。
こうして横になっているのが一番楽なのだ。
「あー…、食い物買いにいかないとな…」
今の時点でこれだけすきっ腹なのだ、後で起きたとき、きっとこのまま眠ってしまった自分を恨むことになるだろう。
分かっていても、良彦のまぶたはとろとろと視界に幕をおろし、意識は薄ぼんやりとしてくる。
(やっぱり、断わるんじゃなかった。もったいないことしたな、せっかく作って…くれたのに……)
眠りに落ちる良彦の脳裏を過ぎるものは、無駄にしてしまった食事と海の心遣い。
そして、最後に見せた寂しげな笑顔と、記憶の断片の中に見たこぼれる涙だった。
(そうだ…どうしてあの時…海君は……泣いて………)
後悔も疑問も、やがて深い眠りの渦に巻き込まれていった。
カーテンを開けたままにしていたおかげで、寝ている間中窓から射し込む日差しにあぶられた良彦は、それでも夕方近くまで耐えた後、汗だくの状態で布団から起き上がった。
脱ぎ損ねたままだったシャツが、べったりと背中に張り付いているのが気持ち悪い。
半分開いた虚ろな目で、窓ガラスの上部に広がる夕空をぼんやりと眺める。
しばらく頭を空っぽにしたまま、ガラス越しの風景画を楽しんでいた良彦は、やがてのっそりと立ち上がり、無意識にあごをさすり、伸びたヒゲの感触を確かめた。
「まずは風呂だな…」
一人になって以来すっかり癖付いた独り言を、今もぼそりとつぶやいた。
シャツと下着、そしてこれも脱ぎ損ねたままだった靴下を洗濯機に放り込み、浴室に入る。
ふわ…とあくびをし、シャワーヘッドを取ろうとした時、ふと目の前の鏡に映る自分の姿に目がいった。
「う、わ…」
首のつけ根から胸にかけて、そして肩にまで、小さな赤いあざや微かな歯型が幾つも散っていた。
ひとつひとつ順に指をあて、記憶を辿るように透明な線でつなぐ。
跡になるほどきつく吸われ、歯をたてられていたというのに、思い出すのはどろどろに溶けてしまいそうな濃密な快楽と、余裕を無くした海の表情と声ばかり。
深酒以外で、これほど自分を失う経験は初めてのことだった。
点々と散る印は、昨夜の交わりを忘れるなと良彦に強く語りかけるように、体に深く焼きついている。
その半面、服に隠れない首筋にはひとつとして跡は残っていない。
我を忘れた熱の中にあっても、気遣い屋の癖は抜けなかったようだ。
そんな海の優しさに触れた良彦は、思わず口元を綻ばせ、同時に微かな寂しさを感じた。
「…なんて顔してるんだ、俺は」
鏡の中の自分が浮かべる、捨てられた犬のような表情に気付き、良彦は苦々しくつぶやいた。
そしてシャワーヘッドを手に取ると、勢いよく噴きだした湯に変わる前の水を鏡面にかけ、情けない姿を流れる水で消した。
温かなしぶきが体を流れるうちに、今度は寂しさの代わりに妙な昂りが、じわじわと良彦の内で大きくなっていった。
水流の音が、しぶきが体表で跳ね肌を撫でる感触が、浴室での狂態を嫌でも思い出させ、昨夜あれだけ吐き出したというのに、下半身は徐々に固くなっていった。
気のせいだと自分に言い聞かせ続けていたが、髪と顔を洗ったところで、とうとう良彦は手を止め、シャワーの下に立ったまま、思案するようにじっと壁を見つめた。
顔を伏せ下半身に目をやり、大人しくしろとにらみつけた挙句、まるで言うことを聞こうとしない自身にそっと触れた。
「う、ぅ…」
軽く握りこんだだけで、思わず声が漏れるほどの快感が走る。
ごくたまに気が向けばするくらいだったこれまでの自慰とは、明らかに違う反応。
そのことに、良彦は驚き戸惑った。
それでも動きは少しも緩まることはなく、握る手に力をこめ、すでにがちがちにそそり立つものを早いペースで擦り上げていく。
「ぁ、ああ…」
目を閉じると、まるで昨夜の浴室の続きの中にいるような錯覚に陥り、記憶と現実の両方からくる興奮に、良彦の体はみるみる昂っていく。
水が迸る音に耳を打たれながら、いつしか良彦は記憶の中の海の命令をしっかりと守り、唇をぎりりと噛み声を殺していた。
「う、うう…」
従順に辿る昨夜の映像に触発され、誘われるように胸の突起に触れてみると、はしたなく尖り固い触感を指先に伝えた。
両手をせわしなく動かす良彦の脳裏に浮かぶのは、焦燥滲むどこか色気のある海の顔と声だった。
「あっ、…う、うぅっ!」
さほど時間をおかず、良彦は体中を震わせながら射精を迎えた。
湯の流れに混じる白濁をぼんやりと眺める良彦は、決して声には出さないまま、胸のうちで何度も海の名を呼んだ。
一時間も篭り、ようやく昂りが収まるまで三度も射精した良彦は、さすがに少しフラつきながら浴室を出た。
自慰の後の罪悪感にちくちくと胸を突付かれ、ついでにいよいよ限界を迎えつつあるすきっ腹からの要請にも突付かれ、良彦はまだ乾ききらない髪のまま、シャツを被りジーンズを履くと、近くのコンビニへと出かけていった。
ぎりぎり 6
一晩経つと、海との時間はその全てに朧な幕がかかり、リアルな夢のような感覚に変化していた。
仕事をこなし、日常の雑事に追われるうちに、記憶はどんどん上書きされていき、体に刻まれた印が薄れていくのと並行して、あまりに強烈に過ぎた経験の印象もまた、次第に薄れていった。
そうして良彦の大部分は着実に日常を取り戻していくのに対し、心の深い部分は海の面影を失うまいと、未練がましくしがみつく。
海のマンションの前を通るときは自然と足の運びが鈍くなり、部屋で一人でテレビを見ていても、いつしか意識は鳴らない携帯に向かう。
海の部屋で、まだ薬で眠り込む前に、携帯電話の番号は交換し合っていた。
あの日あっさりと自分のマンションに帰ったのは、居たたまれなさや身体的な疲れのせいもあったが、後日連絡を取ればいいという楽観的な気持ちがあったからだった。
きっとすぐに連絡があるとのん気に構えていた良彦も、時間の経過とともに不安と焦燥に苛まれるようになった。
こちらから電話をと固い決意はするものの、海の番号を携帯のディスプレイに呼び出した後、何を話そうかとうじうじ悩んだ末、結局発信ボタンは押せずに終わる。
明日こそはと苦しい誤魔化しで後回しにするうちに、ますますかけにくくなってしまうという悪循環に陥り、心は日増しに重くなっていった。
「はあ…」
仕事中、昨夜も携帯とのにらみ合いに負けてしまった情けない自分を思い出し、良彦は深々とため息をついた。
「どうした、良彦?給料日だってのに、ため息なんかついて」
後ろから聞き慣れた声がして、パソコン画面から目を離し振り返る。
良彦の数少ない、気楽に話ができる相手である同僚の林田が立っていた。
同期で入社した林田は、今では数少ない独身組の一人。
明るく軽い話り口で、大抵の人間から好意を引き出すという羨ましい特技の持ち主だった。
そんな、自らとは対照的な同僚を斜めに見上げ、良彦はようやく言われた意味に気づく。
「ああ…そういえば、もう給料日か」
「もうって、えらく余裕な発言だな。臨時収入でもあったか?」
「いや、いつも通りの金欠だったよ。ただ…すっかり忘れてた」
「へえ、金欠を忘れるほどの事件があったってことか。何だよ、教えろよ」
「そ、そんなもの別に…ないけど…」
馬鹿正直な良彦は、きっぱりと否定できずにもごもごと口ごもる。
「ほうほう。それで相手は誰だ、俺が知ってる子か?」
「え…何でそういう話になるんだよ」
「おい、まさかヨリ戻したとか言うなよ」
離婚の顛末を知っている林田は、良彦の元妻に大してあまりいいイメージを持っていない。
あからさまに顔をしかめる林田の勘違いがおかしくて、つい笑ってしまった。
「違う違う」
手を振って笑う良彦を、それでも疑わしそうな目で伺っていた林田は、やがて気を取り直したように明るく言った。
「まあ、何悩んでるのか知らないけど、今日の歓迎会でパーッと飲んで憂さ晴らししようぜ」
「歓迎会?」
「おいおい、この間の異動で来た斉藤さんのだよ。今日に決まったって何回か言ったの、聞いてなかったのか?」
「…悪い」
ここ一週間ばかり、ずっと上の空だったので、例え聞いたとしてもすぐに忘れてしまったのだろう。
良彦は素直に謝り、さすがに心配そうな林田に、今夜が楽しみだとことさら声を弾ませて言った。
場所と時間を改めて教えてもらったが、忘れず来いよと何度も念を押されてしまった。
再びパソコンに向かい、良彦はふと考えた。
どうやら今夜は携帯とにらみ合いをしなくて済みそうだ。
自然と安堵の息がこぼれ、すんなりと仕事に集中することができた。
珍しく課の人間のほとんどが参加した歓迎会は、会社近くにある居酒屋の二階で始まった。
すでに一時間が過ぎた頃、主役である斉藤という男性社員と林田を中心に、大いに盛り上がっている。
斉藤という男、仕事中は冗談の欠片すら口にしない、少々取っ付きにくくすらある真面目人間なのだが、いざ酒が入ると途端にその性格は弾けたものに変化した。
すっかり意気投合した斉藤と林田は、まるで打ち合わせでもしていたかのような息の合った掛け合いを繰り広げた。
周囲も二人のペースに巻き込まれ、朗らかな笑い声は絶えることがなかった。
いつもは時間の経過とともに自然と年代別に別れてしまうのだが、今日はそういったこともなく、皆が同じ話題で笑いあい、同じタイミングで声を上げて、どこか家族的なほのぼのした雰囲気が漂っている。
今も、前の職場での斉藤の失敗話を元にした二人のやりとりに、どっと場が盛り上がったところ。
皆と同様肩を揺らして笑い、良彦は一息つこうと片手のビールジョッキをぐいと傾けた。
今もまた林田は、嬉しそうに斉藤に絡もうとしている。
良彦は、酒と熱気のせいで少し赤らんだ友人の横顔を、隣の席からしみじみとした思いで見つめた。
こういった多人数での飲み会では、大抵隅のほうに逃げがちな良彦を横に座らせ、頻繁に会話へ引き入れてくれた。
おかげで、普段あまり接点のない同僚と話す機会ができた。
離婚以来塞ぎこんでいた自分は、どうやら思った以上に彼らに心配をかけていたようだ。
不器用な自分ではとてもこうはいかなかっただろう。
それと気づかせないスマートな林田の気の使い方に、そしてまた他の同僚達の優しさに触れ、幸せな気持ちで胸がほんわか温もるのを感じた。
するとなぜか、海のことばかりが頭に浮かんでしまう。
これまで以上に、とにかく無性に、会いたくなった。
ジョッキや皿の群れに混じって、テーブルで寝そべる携帯を手に取り開く。