産院着くと健二が廊下をうろうろとしている。予定より早いからまだ何も用意していないんだ。赤ん坊の着る物も必要だろうし、オムツやミルクもいる。おまえ何かその辺で買って来てくれないかと訳の判らないことを言う。「落ち着けよ」と椅子に座らせても直ぐにびっくりしたように立ち上がり、「名前だ名前、いくらなんでも名前くらいあいつにつけさせなくちゃな。悔しいけれどしょうがない」と携帯の番号をせわしなく押す。「そんなもの後だっていいんだよ、男か女かも判らないじゃないか」と言っても、既に「だって、そのくらいおまえ、責任じゃないか」と電話に向かってわめいている。ついに例の看護婦が分娩室からバタバタと出てきて、
「静かに!」と一喝。今たいへんなのは奥さん。あなたがそんなんじゃ奥さん気が気じゃなくて集中できないでしょう。男だったらどっしりと落ち着いて、安心させて上げなさいとの言葉にやっと椅子に腰を落ち着けた健二が、
「それで?」とたずねた。
「ん?」
「麗蓮さ」と健二はそれまでの自分を棚に上げて、何をぼんやりしているんだと言わんばかりに、いらだたしげに訊いた。
寺山はポケットからメモを取りだし、
「今日行ってみるよ」と健二に差し出した。
「ここはいいよ。もう大丈夫だ」
寺山は玄関のガラス窓に映る雨に濡れた街路灯の明かりに目をやり「いや、急ぐことは無いんだ」と言った。
9月、吉田が女に会いに来たとき、たった一つ吉田の財産として残ったクルーザーに麗蓮を誘った。寺山と麗蓮は買い出しを担当した。その頃には麗蓮も京明と会うことも少なくなっていたはずだった。ジョギングの途中でベンチでお茶を飲むことも日課のようになっていた。健二にも紹介し、寺山が麗蓮の部屋から会社に向かうことも少なくはなかった。ただ、麗蓮は時々一人であの海を見に行く。寺山はその後を追い、トンネルの中程から海を見つめる麗蓮の後ろ姿を見ていた。麗蓮は長い時間そうしていた。寺山もまた声をかけることなく見守った。
アイランドの仕事は実際のところ麗蓮は客を取ることは無かった。女達の通訳をしたり、彼女達の細々とした日本語の書類関係を手伝ったり、日本語を教えていただけだった。寺山に応じたのは「気まぐれ」と麗蓮は笑った。本当かどうかは判らない。二人で街に出ると必ず洋書屋を覗いた。新刊のミステリーを買う。その頃にはコンタクトではなく縁なしの眼鏡になっていた。いつもはそうなのだという。浅草に行って電気ブランを飲みその強さに驚き、江戸博物館に行って近代の展示物の一々に中国では今でも使っている言い、帰り道のついでに靖国神社に誘うと「かまわないけれど、中国人の気持ちが解るか」と寺山の意見を聞く。寺山が最初に感じていた何処か内に隠した思いのようなものも薄れ、生活を楽しむように感じられてきた。体の傷もその頃には滅多に見られなくなっていた。クルーザーのキッチンを説明すると買い出しもわざわざアメ横まで足を運んだ。「料理はプロだからまかせて」と麗蓮は張り切った。中華料理の食材を売る店では母国語で厳しく価格交渉をする。寺山に持たせるものもどんどん増える。干し貝柱に中国ハムにニンニク、鶏肉、豚肉、芝海老、春雨、アサリ、烏賊にクラゲに何に使うのか魚の浮き袋。その他各種調味料に野菜に老酒。乾燥なまこは「戻すのたいへんだからやめた」ということである。両手に荷物を抱えた寺山が「もういいよ」と音を上げても「もう少し」と店を覗くことを諦めない。
クルージング当日、新木場のマリーナには腹の大きくなった女と吉田と健二が既に着いていて吉田は点検のためエンジンルームに潜り込み、健二は給水のホースと格闘していた。40Feet越えの艇だから調整や仕込みも一仕事である。寺山は麗蓮を女の居るクラブハウスにやり、エンジンルームにいる吉田のところに行った。吉田はスエーデン製のエンジンのオイルを見ながら「こいつともこれでおさらばだな」と寂しげに言った。係留その他で年間200万は掛かるという。「なんだ、落ち込むなよ。自由になって子供まで出来るんだ」「ああ、それが問題だ。というか全然そんな気がないんだな。父親になるって。健二の方が俄然張り切っている。あいついったい何考えてんだか、父親は俺なんだけれどな」「直ぐに飽きるさ」と寺山は笑い、「あの女だって大したもんだ。健二は利用されるのを喜んでいるんだからそれでいいじゃないか。母は強しだよ」とからかうように吉田の肩を2,3度軽く叩いた。
出航は3時。ビールその他飲み物を積んで艀を離れた。東京湾を周遊して横浜の夜景を見ながらのサンセットクルージングである。寺山がデッキにでた麗蓮に「船は大丈夫か」と訊くと、「慣れてる」と麗蓮は笑った。レインボウブリッジをくぐり、富津岬を左に過ぎた頃、吉田が時間があるから大島辺りまで行ってみるかと言った。浦賀水道辺りからとたんに波が高くなる。30ノット以上で舳先が波の上を滑るように走る。州崎の灯台が遠くに見えると後は大海原だ。デッキでは「日本よさらば!」とか健二が叫んでいた。
伊豆沖に夕日が沈むのを見ながら船は大島に背を向け、数ノットの自動操縦に切り替わった。吉田がコックピットから下りてきて、ギャレーに居る麗蓮の手元をのぞき込み、「うまそうだなあ」と眉を上げると、「お疲れさま」と麗蓮が貝柱を箸でひとつつまみ「味見」と吉田の口に運んだ。貝柱を口にした吉田はうっとりと反り返り「だめだ、ビール」と麗蓮の足下の冷蔵庫を開けビールを取り出し、「もう一つ」と手を伸ばし麗蓮に叱られた。デッキには椅子とテーブルがセットされ、健二が白い布をバッと広げ、寺山がワインクーラーをその上に置いた。それを見た健二が「良いね、気恥ずかしいくらいだ」と真顔で言った。ビールを片手にデッキに出てきた吉田が椅子に腰掛けた女の横に跪き、腹に耳をあてた。「聞こえるか?」と手すりにもたれた健二が言った。
「ああ、活きがいい」「嘘つけ。」
テーブルの上に料理が並べられ健二がシャンパンを抜いた。太陽が水平線に近づき海が金色に輝いていた。シャンペンが空き、ワインが2,3本空いた頃、西の空一面に奇跡のような夕焼けが広がった。女が、酔っぱらって大騒ぎしている男達を離れ麗蓮を誘った。
麗蓮が女の腹をかばい、手を引いた。女はデッキの最後尾の手すりにもたれ全身を陽に染め、「綺麗……」と呟いた。
麗蓮は愛おしむような眼差しを女に注いでいたが、女の視線を追い、オレンジ色の空に眼を瞠ると「うん」とどこか寂しげに微笑んだ。
大久保駅から新宿方面に向かい細かい路地を抜けるとどうやらそこらしい3階建てのビルがあった。寺山は傘を畳み、テナントのプレートを見た。3階に中国キリスト教協会新宿教会とある。既に幾人かが上って行ったのであろう、雨が階段の汚れを滲ませていた。3階に上りドアを開けるとビロードの黒い布が右に通路を造っている。その布の向こうから食器を洗うような音と中国語が聞こえた。寺山は透き間の空いた傘立てに傘を入れ、奥に向かった。黒い布の通路を抜けると左手正面の壁に大きな十字架が掛かっていて、その手前に聖書を乗せた飾花台があった。飾花台の隅に小さな写真立てが置いてあり、その続きの壁際に折り畳み椅子が並べられ、陳がそこにいた。「先ほどは」と寺山が言うと陳がわずかにうなずいた。写真立てを見ると例の写真だった。「麗蓮のところから?」と訊くと「いや、京明の部屋にあったものだ」と陳が言った。寺山は聖書の前で手を合わせ、陳の横に腰を下ろした。通路の方からアイランドで見かけた女が盆に茶を乗せて来て、「あなたが来たらこれをって」と笑顔で言った。薄紅色の茶だった。「麗蓮が?」と女に訊くと、「ええ」と言い、「ごゆっくり」と下がった。寺山は茶の色を見つめながら陳に訊いた。
「遺体は?」陳は「警察だ」と簡単に答えた。寺山は茶を口に含んだ。変わらぬ香りが広がる。「今時のアパートだ」と陳が口を開いた。「首を吊るところなどありゃしない。天上を破って梁に紐を掛けていた。楽しかったろうな。細い梁だ。二人で何度も試したに違いない」
寺山はタバコを取り出し「吸って良いか」と訊き、タバコをくわえ、胸ポケットに仕舞いかけた箱を写真立ての前に置いた。
「親戚には?」と寺山が訊くと陳は疲れた顔で、「彼女は天涯孤独だ」と言った。「子供がいる」と言うと「4年前に死んだ。」と言った。
帰り際、彼が韻を踏んだ。教会に似合わない朗々とした力強い声だった。魯迅の絶句だという。
──タバコを吸おうとしてポケットに手をやり麗蓮の前に置いてきたことを思い出した。職安通りを渡ったところの自動販売機でタバコを買い、駅に向かった。いつの間にか雨が上がっていた。暖かい風が吹いた。微かに甘い匂いがする。見ると店先に果物を並べた店がある。湿った風は海風のようだった。街路樹の梢がライトアップされ金色に揺れていた。異国の文字が看板のその店では飲み物も一緒に売られていて、金色の輝きから眼を逸らすと、麗蓮がビールを手にやって来るのが見えた。蒼い瓶だ。ガラス張りの冷蔵庫は水滴で濡れて真っ白なのにちっとも冷えていない。「こんなものよ」と麗蓮が笑った。冷蔵庫から探り出すようにビールを出してくれた老婦がうたた寝する傍らのラジオから中国語の歌が聞こえた。
目を転じるととエメラルドグリーンの海が広がっていた。パームツリーが風に揺れている。
道化師の歌だと麗蓮が言った。笑いを売る仕事だがたまにはその裏には切ないことだってある。少しだけ解って欲しい。という内容だと麗蓮が言った。男と女が掛け合う可愛らしい曲だった。どこかで聴いた曲だった。寺山は名も知らぬ果物を手に取り、年老いた店の主人に「この曲は?」は訊いた。主人は店のテントを指さした。見ると「鬼瞼娃娃」とある。店の名前にしているらしい。麗蓮が教えてくれたのだ。アイランドの部屋でだったろうか、それとも麗蓮の部屋で。「しかめっ面。かわいいしかめっ面ね」と。楽しく切ない歌だと。老婦が微かに船をこいでいる。強い日差しに生ぬるいビールがよく似合った。
麗蓮は老婦に向かって「マーア」と二三度呼びかけ、起こすのを諦め、店の奥から貝を黒く炒めたものを山盛り持ってきた。「こんなに食べたら腹をこわすよ」と言うと「そんな腹じゃ中国では通用しない」言った。麦藁帽子を浅くかぶり、道に迷った寺山の背中を両手で押した。「早く、早く」と急かし、笑う。
煙草屋の店先に電話を見つけ、寺山が「電話を掛けてくる」と言うと、麗蓮は気だるそうに小首をかしげ微笑み、「待ってる」と言った。
タバコを買った釣り銭をポケットから探り出し、健二の携帯の番号を押した。
健二は「生まれた」と言った。寺山は確かめるように振り返った。
健二に替わって女が、麗蓮が船の上で手を握っていてくれたことを話した。残念だと言った。
吉田が高速を下りたみたいだと健二が言った。
「おまえも来るだろ」と訊かれ、寺山は病院に至る坂を思い返し、上れるかなという言葉を飲み込み、
「ああ」と露に濡れ始めた果物をガラスの上に置いた。
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