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深夜に煌々と光るファミリーレストランに誘われて、高畑《たかはた》皐《こう》は店のドアノブに手をかけた。
ガラスの向こうでは客に気づいた店員がメニューを持って待機している。
この店の制服はファミレスのわりには趣味がいい。
白いシャツに黒の細長いネクタイ、黒のギャルソンエプロンは長身な男によく似合う。
「…っ」
そう。本当によく似合う。
不遜なほど視線の強いイケメン店員をガラス越しに皐は見つけ、思わず引き返してしまった。
「サツキ?」
いきなり踵を返したから、一緒にここへ来た高木が訝しげに皐《こう》を呼ぶ。
「……あのさ、やっぱ違う場所にしない?」
「は? ここまで来てか? サツキがここに来たいって言ったんじゃないか」
やれやれと高木は片眉を上げる。
ガッチリとした体格の高木は四十路も近いオッサンで、やたらと躯に触れてくる。それはそれなりの関係があるからこそなのだが、皐はそれをあのガラス向こうに居る店員に知られたくなかった。
「ここまで来て戻ったら失礼だろ。店員だってああやって待ってる。入るぞ?」
「あ……」
皐を押しのけ、高木がドアを引く。
待ち構えていた店員がメニューを持って会釈し、席へと案内された。
「何にする?」
メニューを開いて問うてくる高木をチラリと掠めてから、さりげなく視線をめぐらし店員を眺める。
彼の目に、自分たちはどう映っているのだろう?
自分の姿を顧みて、皐はため息をついた。
今の自分は見るからに水商売系の格好をしている。
躯の線があからさまに出るシャツを鎖骨が見えるほど開け、キラキラした細いチェーンが首輪のように鎖骨で揺れている。
細身のパンツは生地のいい黒で、無雑作に動く毛先を整髪料でいじってある。
たぶんパッと見はホストっぽいのかもしれないが、ところどころゲイっぽい。
(カップルとか思われていたら最悪だな)
しかし皐が気にするほど、店員は客など見ていない。
スプーンやフォークの束を抱えてそれをひとつひとつ磨きながら、実に眠そうだ。
これじゃあ一方的に見かけている時となんら変わらない。
(まぁ、それはそれで良いんだけど)
気づかれる必要はない。
ただ物陰から眺めているだけの、片想いっぽい感じが楽しいのだ。
彼は自分を知らないままでいい。
そりゃあ逢って、会話して、寝てみたいとも思うけど。
「サツキ、聞いてるかぁー?」
ボケっとしていたのを咎めるよう名を呼ばれ、ハッと顔を上げた。
「ん、聞いてる、聞いてる」
メニューで顔を隠しながら、別の意味でため息がこぼれる。
本当は、めったに利用しないこのファミレスで、今日は高木に別れ話をするつもりだった。
別れ話と言っても、恋人関係ではなく、セフレの解消を指すのだが。
深夜のファミレスなんて人も居なくて、さぞ静かに会話が出来るだろうと睨んだ通り、店内には自分たちを覗き、三組しか客が居ない。
しかもどの客も周りには無関心で遠い席に座っている。
(チャンスだったのになぁ…)
とは言え、今日の別れ話は延期だ。今はおとなしく、静かに、何もせずに帰る。
このチャンスを活かさず帰るのは、ほんの少し……いや、けっこうもったいないとは思うけど。
皐はメニューから顔を上げると、「いつまで待たせんだ」と睨む高木へ笑顔を向けた。
「コーヒーでいいんじゃない?」
言ったとたんに高木は手を上げ彼を呼ぶ。
注文を取るためこちらに留意していた店員はすぐに気づいてやってきた。
「御注文は?」
想像よりも甘い声が耳をくすぐる。
深夜も二時を回っているせいか、眠そうな店員は態度もおざなりで、こちらも見なかった。
手許の注文を入力する機械を眺め、客の声を待っている。
接客業の経験者ゆえ、ふだんならため息をついてしまう場面だが『あばたもえくぼ』
無表情もなかなかいいじゃないかと口許がゆるむ。
そして彼がこちらを見ないから、チャンスとばかりに彼の顔を上目づかいで覗きこんだ。
自分の外見をそこそこイケると判断している皐は自分の魅せ方を知っている。
だから自分が一番色気を発する角度と視線を心がけながら彼を眺め、けっきょくうっとり彼に見惚れてしまう。
パーツパーツも然る事ながら、彼はそのバランスが素晴らしい。
浅黒い肌に映える端正な顔立ちに、サラサラと揺れる黒髪。
今は眠そうで死んでいるが、覚醒しているときの彼の瞳は特にやどす光が強く、そそられる。
「今井、何くん?」
頬づえをついたまま、気づけば思わず問うていた。
何が静かに帰るだか。
彼がギョッと驚く。
けれど、唖然と自分を見つめる彼の名札には【今井】とだけ書いてあり、下の名前が知りたかった。
「おい、サツキ! 悪いな。こいつ性質《たち》悪いんだ、気にすんな。コーヒーふたつで」
「かしこまりました」
手元の機械を操作し、店員が去る。
チェッと舌打ちしたい気分で背中を見送ったら、どういう訳かふいに彼の背中が止まり、顔だけ皐を振り返った。
「陵二です。今井陵二《いまいりょうじ》」
ふわりと笑んだ容貌が、男へ向けるそれでなく、女の子へ向けるような甘ったるさを含んでいる気がするのは気のせいだろうか?
鼓動が勝手に逸る。
「おい」
厨房へ去って行った彼のなごりをいつまでも追いかけていたせいか、尖った声に呼ばれ我にかえった。
「いくら男前でも、ありゃ学生《がき》じゃないか」
不満そうな声に咎める色が混じっている。
確かに高木が忠告した通り、彼は大学生だ。年齢までは知らないけど。
「ヤダな、心配しなくても手なんか出さないって。でもせっかくだし、名前聞くくらいいいじゃない」
ずっと彼は皐の中で名無しだったのだから。
「とか言って、俺と一緒じゃなきゃ口説いてたんじゃねーのか?」
「その気があれば高木さんの前でも口説いてるよ」
嫌味の声にシニカルな笑みを返すと、「この節操なしが」と罵られた。
「てか、あんなガキを弄んだら可哀相だろ。すこしは考えろ」
「なんで弄ぶの限定? てかさ、外見ならおれだってそう彼と変わらないように見えない?」
きちんとセットしてある長めの襟足を掻きあげると、高木は仏頂面でそれを受け止める。
「見てくれだけならな。――でもおまえ、中身は絶対もっといっているはずだ」
「失礼だな」
ムッと口を尖らせながら、断言に苦笑する。
高木とはあまりお互いを詮索しない気軽な関係だ。だから皐は高木のちゃんとした年齢も知らないし、職業も住居も知らない。
そんなだから、皐も自身を多く語らず、出会いを求めて軽く知りあう手合いには、二十三歳から年を取っていないと戯れ口まじりに吹聴していた。
「そんなことよりさ。彼、お仲間だと思う?」
さきほどの甘ったるい顔を思い出し、ついテーブルに乗り出した。
すると高木は苦虫を噛み潰したような顔をして、ぼんやり働く店員に目をやる。
ふわりと漂うコーヒーのいい香りと共に、彼がコーヒーを淹れている。
「知らねーよ。……まぁ、ゲイじゃァないだろうな。両方イケる奴も仲間だって言うなら仲間かもしれないけど」
つまらなそうに答えた声に、皐も頷いた。
確かに、まったくのノンケならあんなふうに甘く笑ったりしないだろう。と、思いたい。
「まぁ、モテ慣れている奴は好意にも敏感だし、その気なんかなくたっていい顔するけどな」
ケケっと嘲笑され、ムッとした。
「そりゃ、そうかもね」
でも顔になんか出さない。
と思っていたのだけど、出ていたらしい。高木は面白くなさそうに皐を眺め、ため息をついた。
「ったく、やっぱもう俺と終わらせてっからの目算してんじゃねーか」
別れ話をされる気配を察していたらしい高木が鼻白む。
「あれ、わかってたんだ?」
驚いた。思っていたより忖度《そんたく》できる人間なのかもしれない。
「そりゃわかるさ。別れたがっているのなんて好意と同じくらい透けて見える」
「はは……」
乾いた笑いに被さるようにトレイにコーヒーを乗せた陵二がふたりのテーブルへ現れ、焦った。
小さく会釈をして、こちらに一歩踏み出す彼の表情が微妙な気がする。
(会話、聞かれたかな……)
「お待たせしました」
「ああ。――いつも行かねぇファミレスに誘われた時点で切られるような予感はしてた。けど、目の前で次に行かれんのは気に入らねーな」
テーブルにコーヒーを置く陵二を眺めながら、高木は言う。
「だから行かないって」
「嘘つくなよ。好みなんだろ? この男が」
ビッと高木の指先が陵二を捉える。
ガチャンと食器の音が鳴り響き、陵二の動揺がその場に広がった。
「高木さん」
やわらかく名前を呼びながら、視線だけ鋭く彼に釘を刺す。
「なんだよ?」
「いい加減にしなって」
懲りない瞳を威嚇すると、彼は呆れたように息をついた。
「嫌な眼だな。本気かよ?」
しつこい彼に唾棄したい気分を懸命に堪え笑う。
「だからそんなんじゃないって。嫌に絡むじゃん」
浅い付き合いの割に、何かを感じ取っているのだろうか?
「失礼しました」
軋轢が生じ始めたふたりのあいだに、店員がそっと割って入り、コーヒーをこぼしたソーサーを下げようとする。
皐はそれを咄嗟に遮った。
「今井君、ごめんね。汚れても気にしないからそのまま置いて行っていいよ」
笑顔で早く行けと意思表示する。
「優しいじゃん」
「うるさいな。高木さんも、それでいいなら話はついたよね?」
「用は終わったってか?」
高木はあからさまにムッとしたが、頭にきているのはこっちだ。
勝手なこと言いやがって。
言い寄ってもいないのに振られるなんて冗談じゃない。
てか、彼には振られたくない。
強烈な記憶なんか残して、こっそり眺めることが出来なくなったらどうしてくれる!
そんな皐の苛立ちが伝わったのか、高木は口許をへの字に曲げると眉を寄せて皐を睨む。
「……んじゃもう、連絡なんかしねーよ」
「うん、そうして」
どっちみちこの関係は切りたかったんだ。
ふいっと彼から顔ごと視線を逸らすと、不機嫌さを隠さず彼は席を立った。
「じゃあな」
来たばかりのコーヒーを残し、高木は店を出て行く。
それをまだそこに居た店員とふたりで見送って、チラリと困惑気味に窺って来る視線に、皐は苦笑した。
「置いといて。ふたつ飲んだら帰るから」
すると目を細めて笑んだ陵二がそっとテーブルの汚れた方のカップを手に取る。
「ごゆっくりどうぞ」
軽い会釈で去る背中。
ひとつだけテーブルに残ったコーヒーを見つめ、皐はため息を吐いた。
たった今、深い関係にいた人間と切れたばかりだと言うのに、それとは別の余韻みたいな不思議なムズムズ感が、足の先からざわざわと上がってくる。
彼はすでにキッチンの中。
ポツンと独りになったボックス席で、改めて彼の近くへ寄った実感を反芻する。
高木の手前、変えることの出来なかった表情をやっと解放すると、ぶわあぁぁっとテンションが上がってくる。
昂る愉悦をそっと外へ放す自分は随分へんてこな顔をしていることだろう。
顔も、体躯も、声も態度も、ゾクゾクするほど好みだった。
たぶんブラウン管の向こうに焦がれる感じに似ているのだろう。じゃなければ十歳近くも離れているだろう相手をこんなふうに想う訳はない。
今まで男を手玉に取るのは皐の専売特許だったのに、なんてざまだろう。
目前で湯気をあげるコーヒーを、自分を落ち着けるようひと口飲む。
落としたてらしいそれは香りが良く、ファミレスのコーヒーにしては飲める。淹れてくれた人物のおかげかもしれないが。
しばらくはぼうとしながらコーヒーを口にし、携帯電話をいじったり、働く店員をチラチラ眺め、堪能してから席を立った。
誰もいなくなった深夜三時近い店内にレジ打ちの音が響く。
とうぜん皐は財布から二人分のコーヒー代を出したのだが、告げられたのは一人分の値段だった。
「え? ……なんで…」
「注文はひとつしか受けていませんから」
悪戯っぽく笑む顔にドキンとする。
「ありがと。それじゃお言葉に甘えるよ」
言われた金額に札を出し、釣銭が返される合い間に甘い声が耳を打つ。
「俺が好みですか?」
「へ?」
不敵な笑みに思わずぼぅっと見惚れていると、手のひらに小銭が置かれる。
ちょんと触れた温もりに鼓動が早鐘を打ち、動揺が顔に広がるその前に、グッと小銭を握って見目に笑顔を貼り付けた。
「うん。好みだよ」
「それじゃ口説いても?」
それは告白とか、そういう類のものではなかった。
ただ、狩ろうとするような瞳に一瞬、躊躇する。
自分はたぶん、遊べない。でも……。
「いいよ」
侵略しようと企む強い瞳を真っ向から受け止め、余裕の笑みを返してみる。
もらった釣銭をサイフヘしまうついでにペライ名刺を取り出すと、彼にスッと手渡した。
「どうぞ」
名刺には【サツキ】という名前と電話番号のみが記載されている。
「夜の人?」
名刺を見た彼の問いには、曖昧に笑って店を出た。
読んでいただきありがとうございます。
よろしかったら最後までお付き合い頂けると幸せです。
誤字脱字、気になる箇所がありましたら教えて頂けると喜びます。
甘い香りのする白いベッドで翠色の花柄枕を抱きしめていると、うっかり睡魔に襲われる。
「ちょっと陵二! 寝ないでよ」
すぐ横から掛かった甲高い声に今井陵二《いまいりょうじ》は枕に突っ伏して応えた。
「バイト明けなんだって。少しだけ」
「時間帯を深夜に変えたのは陵二の都合じゃない! わざわざ逢いに来て寝るとか信じられない」
「だって夏休みだぜ~? 稼ぎ時じゃん」
「バイトで終わるつもりですかね」
せっかくの夏休みなのに! と、ぷんぷん怒る小泉菖蒲《こいずみあやめ》の手元からは紅茶のいい香りが漂って来ている。
カモミールティだろうか?
淹れてくれたのか。
ごめん、紅茶もらうよ。と頭はそんな返事を用意しているのに、意識が勝手に遠のく。
マズイな。
やっぱり帰れば良かった。
「陵二~もう! そんなに無防備に寝てるなら携帯チェックしちゃうんだから!」
頭上にスッと影がさし、ベッドの脇に置いてあった陵二の携帯電話が菖蒲に渡った気配を察する。
カチカチと鳴る操作音。
「ん~……いいよ。見られても何も困んねぇし。俺は菖蒲一筋だって」
そのあいだ寝かせてくれるなら、陵二にはそっちの方がいい。
「ふぅーん」
菖蒲もそっちに興味が移ったらしい。
カチカチと遠慮なしに操作している音が聞こえてきた。
菖蒲と付き合ってそろそろ二ヶ月。
浮気を疑われる行動なんかしていないんだけど、女の子はいつでもそれが気になるらしい。
だからと言う訳ではないが、陵二の携帯電話はロックされていない。
アドレスをもらう先からとりあえず登録するため、百件以上入っている女の子の連絡先も、毎日送られてくる女の子からのラブメールも、しっかり読まれている事だろう。
けれどそんなの気にせず、陵二はスヤスヤと眠りこける。
陵二の携帯には恋人の有無関係なしにラブメールがガツガツ入って来るが、恋人の居る時期の陵二は決してそれらに反応しない。
発信も返信をするのも彼女である菖蒲と、数人の友人のみだ。
菖蒲はそれも含めて調べる聡明な女だと、陵二は信じている。
しばらくすると意識の遠くで「ふぅ」と安堵したようなため息が聞こえる。
どうやら納得したらしい。
菖蒲の気配がスッと立って、眠りへ沈み込んで行く陵二の躯にふわりとタオルケットが掛けられた。
(いい女だな……)
本当にそう思って、ゆっくりと意識を手放したのに、陵二の夢には不謹慎にも昨夜店に現れた男が出て来た。
サツキと名乗った彼は、性別を疑うほど綺麗な顔をしているくせに長身で、スタイルがいいと言うよりは、色っぽい男だった。
触りたくなる体躯というのが一番しっくりくる。
いかにも遊び慣れている空気をまといながら、誰も寄せ付けないような瞳をしていた。
たぶんあれは恋愛をしない性質の人間だ。
交際期間は短いが、いつでもちゃんと恋愛をしてきている陵二には縁のない人種。
近寄っても遊ばれるだけだろう。
そう思ったのに、同時に遊ばれてみたいとも思ってしまった。
性別は違ったけど、あれだけ綺麗な経験者なら文句はない。
最初から男を開発する情熱はないが、経験者には興味がある。
薄紫色みたいな優しい妖艶さが漂う男のくれた名刺は、薄い和紙の洒落た作りで、透けた瞳の彼によく似合っていた。
彼のとりまく世界はガラスの向こう側にあるような気がして、陵二の知らない世界に興味惹かれる。
正直、恋愛にならなくても構わない。
男だし、むしろそっちの方がいいのかもしれない。
ただ、あの色気と不確かさが気になって、近づいて揺らしてみたいと思った。
一緒に居たやたらとガタイの大きかったオッサン相手に、彼は少しも気後れすることなく「そうして」と笑った。
繊細そうな顔をして、未練たっぷりの人間をあっさり爽やかにぶった切れる。
その意外性も。
「燃える……」
口に出したつもりはなかったのに、もごもごと声にならない音を発したらしい。
ふと意識が舞い上がり、うすく瞳が開いた。
うすぼんやりと明ける視界に、サラサラロングの黒髪美人が飛び込んで来る。
彼女はピンク色のデザイン座椅子に腰かけて、陵二の財布を何やらごそごそ物色し、中から薄紫色の和紙の名刺を取り出した。
「綺麗……なにこれ……サツキ?」
小さなピンク色の唇が彼の名前を呟く。
それに思わず陵二は派手に反応してしまった。
慌てたようにガバッとベッドから跳ね起きたから、菖蒲がビビって手の中の名刺を握りつぶす。
「ああっ!」
「ええっ? あ! ごめっ…」
くしゃくしゃになった名刺。
その姿に狼狽したのを察した菖蒲が、とっさに謝ったあとにムッと顔を暗くする。
「なに? これ」
彼女の小さな手がくしゃくしゃの紙をこれ見よがしに伸張する。
その態度はどこの女にもらったの? と問うていた。
「いや、お客さんにもらったんだ」
「へー。好みだったんだぁ?」
笑って責める女は怖い。
「や~……菖蒲が一番だよ」
苦し紛れに言った瞬間、ビンタされた。
「痛ってぇ~」
パンと大きな音が鳴ったわりにさほど痛くもなかったが、しばらく経ってジンジン来た。
「いい加減にしてよ。連絡取らなきゃそれでいいと思ってんの? ねぇ、なんで? 何に反応したの? この紙の主、誰よ?」
寝起きの頭がいっきに冴えるほど、菖蒲の視線は冷たかった。
「いや、それは……」
名刺をもらった昨夜のうちに登録しておけば良かった。
そう思ったが、既に遅い。
「あんたが今まで数えきれないほど女とつき合いながら、三ヶ月持った女が一人も居ない訳を教えてあげようか?」
「は? ……なんだよ、いきなり」
「あんたは女を落としている時が一番楽しいのよ。ぜんぜんこっち向いてない女にちょっかい掛けて、自分に惚れさせるのが楽しいの。――そうでしょ?」
上から目線で決めつけられ、ムッとする。
自分を勝手に断言されることが嫌いな陵二は、菖蒲の言葉に陳弁する気もおきず、これみよがしに嘆息してみせた。
「なに? それって別れてーの?」
「なっ……そっ、そんなこと言ってないでしょ! 別れたくなんか無いよ。そうじゃなくて、私はずっと一緒にいたいだけなの。他に目を向けないで、私だけを見ていて欲しいの」
傲慢なのか、当然の権利なのか、陵二の中で微妙になりつつある希望を彼女は吐いて、強い瞳で陵二を見る。
「私が二人の楽しさを教えてあげる。両想いの後に有る楽しさも教えてあげるから。だから来月も次の月もずっと、一緒にいて!」
強い瞳だ。
気位の高い女の希求にゾクゾクする。
「何をそんなに焦ってんの?」
菖蒲。と名を呼んで、彼女の髪にそっと触れる。
プライドの高い女は嫌いじゃない。そいつをグシャグシャにする衝動を抑える瞬間が気持ちいいから。
「好きだよ。菖蒲」
髪から頬へ指先を移動させると強い瞳がスッと伏せられ、頬がほんのり朱に染まる。
そんな菖蒲を可愛いと思う。
色悪のような男だと陵二が構内で噂されているのにも関わらず、女は常に彼の周りに寄ってくる。
試しているのはお互いさまで、恋愛なんてそういうものだ。
その期間は陵二だって本気でその子に惚れている。
ずっと一緒に居て。
なんて、その類の言葉は正直、聞き飽きた。
大学近くの沿道に建つ小さな花屋。
『フラワーショップ、ガーデン』
木目調の店内には溢れんばかりに花が並び、客に季節を教えてくれる。
そこの店主である高畑皐《たかはたこう》は配達以外の仕事をひとりでこなす働き者で、今日も早朝から花を仕入れに花卉《かき》市場へ行って来た。
店内に戻ると水揚げ作業。朝から忙しなく働いていると店のドアがカランと開いて、本日トップバッターのお客さんがやってくる。
「高畑さん、おはよー」
「あれ、絵梨ちゃん?」
ひざ丈スカートをひらりと揺らして現れた女の子は清楚が似合う可愛らしい子で、近くの大学生だ。
「夏休みに珍しいね」
彼女は大学で華道サークルをまとめているらしく、休み前はしょっちゅう来てくれていた。
今は夏休みでパッタリ来なくなってしまっていたけど。
「うん。今日、うちの大学で夏季講座があるの。それに出るついでにサークル活動もしようかと思って……何か素敵なお花、入ってる?」
くるりと店内を見渡す彼女のうしろ姿を眺めながら、視線が知らず外へ向く。
ここからじゃ大学自体は見えないが、大学へ通う人間の半分はこの店の前を通る。
「その夏季講座に参加する学生って、たくさん居るの?」
「ん~ん。けっこう少ないよ。……なんで?」
「や……別に。なんでってこともないけど」
コホンと咳払いしながら、道路向こうの沿道を歩く大学生集団に目が留まる。
夏らしい露出の多い服を来て、男子学生が楽しそうに笑い合っている。
(なんで夏休みなんて存在するんだろ)
目の保養も出来やしない。
「ああ! 高畑さん、高畑さん! これ可愛い! これ売って~」
大人が五人入ればいっぱいになってしまう小さな店内の奥を物色していた絵梨がいきなり声を上げ、ハッと我に返った。
意気揚々と絵梨が持ってやってきたのは、一昨日作ったフラワーアレンジメント作品。
ひまわりを中心とした明るい作品で、磨り硝子の平たい花器に花を並べた一品だ。
絵梨が足繁く通ってくれていた時はアレンジメント作品も彼女の購入対象だったため、気合いを入れて作っていたが、今はさっぱり作っていなかった。
けれど、それでなんとなく気の抜けた日々が続き、ボケっとしていた自分に活を入れるため、気合いを入れて新作を作ったのだ。
とは言え。
「それ、時間経ってるからなぁ……」
しかも自己満だったために値の張る器を使っているから少々高額だ。
「えぇ~いいじゃん! 気に入ったの、買わせてよ~」
そう言われては花屋冥利につきる。
「うん、わかった。んじゃ別の花器で同じものを作るから少し待っていてくれる?」
「え~~~そんなの悪いよぉ~」
絵梨は多少驚いてみせたが、断り文句を言いながらも目がすでにありがとうと語っている。
そんな素直さに苦笑して、皐は店内から八重ひまわりやダリアなど、使う花々を集め出した。
あらかた材料まで集め終わり作業に取り掛かっていると、見学していた絵梨にそっと顔を覗きこまれる。
「な、なに?」
「高畑さん、元気なくない?」
心配そうな顔に驚く。
「な、なんで?」
「だって高畑さん、アレンジする時いつもなら楽しそうだもん」
ズバッと言われて、オレンジ色のバラを持つ手が止まってしまった。
「そうかな?」
誤魔化すように言いながら、自覚はあった。
皐は花が好きだ。
アレンジも大好きだし、華道なんか愛している。
だから花に触れている時が何より幸せだった。
「そうよぉ。まんまる眼鏡に似合うぽやんとした美貌が、花を持つとそれこそ花が咲いたみたいに綻ぶのが大好きだったんだから!」
告白まがいに力説され、困ってしまった。
「はは……ありがと。最近ちょっと落ち込んでいたから疲れ気味なのかな。夏休みが終わる頃には浮上してるよ」
「ええ~大丈夫?」
なんなら聞くよ? と続けてくれる絵梨の申し出を丁重に断って、皐はバラを握り直す。
常連と呼ぶようになる過程で、チラチラと見え隠れする彼女の気持ちに勘付いたのはいつだったか、覚えていないが知らぬふりを続けている。
地味で眼鏡の自分などどこがいいのか謎だが、自分に好意を示してくれる女の子に『好きな男に連絡先を渡したものの、けっきょく連絡がもらえなかった』なんて、そんな気軽にカミングアウトするほど無神経にもできていない。
「ちょっとどさくさだったけど、落ちてたとか、教えてくれて嬉しいかも」
ろくでもないことを考えている自分の横で絵梨が可愛らしくはにかむ。
「……はは」
胸が痛い。
想いはままならない。
別に連絡なんか来なくていいと、名刺を渡しながらそう思ったはずだった。
遠くで眺めていたものへ安易に近寄ることは「恐怖」でもあったから。
だからこれでいい。
連絡など来なくて良かったんだ。期待なんかちょびっとしかしていなかったし、十も歳の離れた子供《かれ》の行動に一喜一憂する自分だって見たくはない。
「高畑さん。で? このあとどうするの?」
「あぁ、このワイヤーを使ってこう……」
絵梨に促され、花器に合わせて細長いアルミのワイヤーを折り曲げる。
「あ、高畑さん、こっちはみ出てる」
「いいよ。少しくらい」
「気になるしー」
勝手にハサミを持ち出し、チョキチョキと切る振りを始めた絵梨に慌てて「待って」と手を伸ばす。
「やだ~切らないよぉ~」
あははと笑う絵梨。
そんな彼女の向こう側にある窓に一組のカップルが映り込み、皐は思わず花器ごとアレンジを落としそうになってしまった。
「うわぁぁぁ! 高畑さ、何すんのー!」
「あ、ごめっ」
ガシッと花器を守った絵梨に礼を言う。
「ったく! 何よそ見して……あれ? 菖蒲《あやめ》だ。てか、陵《りょう》二《じ》も一緒だし」
夏休みに入ってからパッタリと見なくなり、久しぶりにファミレスで逢って、話して、連絡先を渡して、それきりになっていた彼が、横断歩道で信号待ちをしている。
となりに綺麗な女の子を携えて。
「なに? お友達でも居た?」
ぐらついた花器を定位置に戻し、なんでもなかったよう作業に戻りながら、皐はさり気なく陵二の名を呼んだ絵梨に話を振った。
まさか絵梨と陵二が相知の仲だなんて知らなかった。
「うん。あそこで信号待ちしてるカップル、わかる? ちょっと外見がいい…」
「……黒髪の綺麗な女の子の?」
「そう。それが菖蒲。綺麗でしょ? あたしの親友なの」
絵梨はえへんと胸を張る。
真っ黒のロングヘアーがよく似合う雰囲気のある女の子だ。
イメージするなら百合の花。
凛とした感じがいかにも陵二の好みっぽい。
「そうだね。確かに綺麗だ」
「え? なに、好み?」
ムッとされ焦った。
「いや、綺麗だとは思うけどね。彼氏いるみたいだし、そういう風には見てないよ」
それに皐の対象は漏れなく男限定だ。
「彼氏いるたって、あいつならすぐ別れるよ。あいつ彼女と三ヶ月以上持ったことないもん。そんなの超有名なのに、なんで菖蒲はあんなのに引っかかったかなぁ? 頭いいのに。ぜんぜん理解できなーい。やっぱ顔?」
嫌に責めるように尋ねられ、ほとほと困ってしまった。
「はは。どうかな? ……まぁ、かっこいい子ではあるよね」
信号待ちしている人ごみの中、頭半分くらい出る長身や、周りより高い腰の位置。
パッと見で目を惹く。
「あたし、菖蒲には幸せになってもらいたいの。あんなに綺麗なのに、あの子ぜんぜん遊ぶとか試すとかしなくて、すごく真面目なの。だから陵二だけは嫌だったのに……」
「悪名でも高いの?」
なんとなくわかっているけど問うてみる。
あの黒髪の子と陵二が一緒に居るところを見るようになったのは、夏休みに入る二ヶ月くらい前だったように思う。
その前は、ふわふわの茶毛をアレンジで纏めた、いかにも人気者みたいな可愛らしい女の子だった。
「あいつ性質《たち》悪いの。すぐ飽きちゃうくせに遊べない女ばっかり好きで……」
「それは困った子だねぇ」
しょげてしまっている絵梨の頭をポンポンと撫でる。
確かに陵二は難攻不落っぽいお姫様が大好きだ。
いつも高嶺と呼ばれるくらいの美女が虚勢を張っているところから彼らの交際はスタートして、一ヶ月でその美女の態度が陥落していき、二ヶ月でラブラブ、三ヶ月前には蜜月を終え、陵二の空気が飽きてくる。
「すぐ飽きるくらいなら遊べる子を選べばいいのに! あんな男、大嫌い!」
しな垂れ掛かるよう胸元に顔をうずめられ、どうしたものかと困惑した。
「絵梨ちゃん」
困惑を声に乗せて名を呼んだが、気づかないのか振りなのか、彼女は皐の腕の中で動かない。
(そうか。――連絡がこなかったわけがわかった)
うつむく絵梨のつむじを眺め、皐は苦笑する。
「絵梨ちゃん。人って自分で経験しないとわからないんだよ」
「え……?」
抱きしめられない代わりに、細い肩にそっと触れる。
彼が遊べる人間じゃダメなんて、そんなの気づかなかった。
彼の恋愛サイクルがあまりにも早いから、好みにさえ合えば来るもの拒まずなのだろうと勝手に思いこんでいた。
「彼が悪い男だって、いくら聞いてもそれは知識になるだけで、経験にはならない。わかるには経験しなきゃ」
「でも、……だって、それで泣くんだよ?」
かわいそうじゃない。と絵梨の瞳は語っている。
「良いんだよ。泣いていいんだ。それが経験になって知識になる。泣いてこそ見える違う世界もあるから、見守ってあげなよ」
説教をしているつもりはなかったのだけど、絵梨の肩は小刻みに震えていた。
「あたしが止めたりするのは無駄だってこと?」
「そんなことないよ。傷ついた時、浮上する時に、きっと君の存在が菖蒲ちゃんの灯りになる。だから君はそうやって怒っていればいい。って、――はは。それじゃあ矛盾しているね」
気の利いたことも言えやしない。
困ったなぁとほとほと自分に参ったとき、店のドアがカランと開いて、この店唯一の従業員である深見修也《ふかみしゅうや》が顔を出した。
「おはよーございます」
店の空気がパッと変わって、絵梨がバッと皐から離れる。
と、突然エプロンのポケットに入れてあった携帯電話が鳴りだして、皐は慌てて電話を取りだした。